櫛田宮の伝説など


■ 肥前国風土記

肥前国風土記は、奈良時代初期に編纂された肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の風土記です。
播磨、常陸、出雲、豊後の各風土記とともにほぼ完全な形で残っており、大変貴重な古代文献です。

  
神埼郡(かむざきのこほり) 郷(さと)玖(九)所 里(こざと)廿六 驛(うまや)壹所 烽(とぶひ)壹所 寺壹所僧寺

昔者(むかし) 此郡(このこほりに) 荒神(あらぶるかみ)有(あり)、 往來(ゆきき)之人 多(さはに)殺害被(ころされき)。

纏向日代宮(まきむくのひしろのみやに) 御宇(あめのしたしろしめしし)天皇(すめらみことの) 巡狩之時(みゆきしたまひしとき)、 此神(このかみを) 和平(やはしことむけたまひき)。

自今以來(それよりこのかた) 更殃有無(またおそりあることなし)。  因(よりて)神埼郡日(かむざきのこほりといふ)。



■ 佐賀県神社誌要(櫛田宮の項)

  往昔此地に荒神あり往来の諸人多く害せられたり。此の時に当り

  景行天皇筑紫御巡狩ありて 此地御通輦の際 櫛田大神を御勧請ありしかば

  更に殺害に遇ふ者なく蒼生皆幸福を蒙りたり。

  故に郡名を神埼と謂ひ、鎮座の地も神埼と云ふ。埼は幸の意なり。(以下略)



■ 神埼町立神埼尋常高等小学校 校歌


櫛田(くしだ)の宮(みや)居(ゐ) 栄(さか)えます

名(な)も神埼(かんざき)の 学(まな)び舎(や)に

  すだたん我等(われら) 学(まな)びの友(とも)よ

体(からだ)をつよく 心(こころ)をさかしく

忠(ちゅう)と孝(かう)との 翼(つばさ)を伸(のば)して



■ 肥前國有数の古社

 第十二代景行天皇が巡行された折、当時のこの地には不幸が続いて人民苦しみ困窮していたが、神を祭りなごめたらその後は災厄もなくなり、神の幸をうける平和郷となった。このことからこの地を神幸(かむさき)の里と名付けられた。これが後に「神埼」となった。『神埼発祥の地』の記念碑も神社裏手に建っている。神社の創建はこの時であり、吉野ヶ里遺跡とおよそ同時代の弥生時代後期にあたる。このように櫛田宮は創建以来壱千九百四十年にもなる県内でも有数の古社である。
 櫛田宮附属の神宮寺として櫛山金剛院があった。弘仁八年(八一七)勅命により国中の盲僧を集めて勤行をした盲僧の法頭で明治維新まで続いた。末寺五院のうち隠居寺であった安居院が改宗して現存する。(現安居寺)
 平安時代、神埼郡のほとんどと三養基郡の一部は皇室領の三千町歩もある荘園で「神埼御荘」と尊称されていた。その荘園の総鎮守が櫛田宮であり、南北各一里の地に鎮座する高志神社・白角折(おしとり)神社とは三所一体の神社で「三宮一徳、三所大明神」と称した。また百八十九もの末社があり、当時の壮大な規模をうかがい知ることができる。
 昭和五十五年秋には中世史ご研究のため浩宮様(現皇太子殿下)が御来宮され、神社の古文書を親しく御覧になった。櫛田宮の古文書は、平安末期の大治元年(一一二六)のものをはじめ数十通現存する貴重なもので、代々社家に伝えられてきたものである。
 三田川町田手の東妙寺は弘安元年(一二七八)勅願創建寺であり技能者集団をかかえ、櫛田宮の修理別当を勤める例であった。
 弘安四年蒙古襲来。櫛田宮より末社博多櫛田神社へ神剣を移して異賊退散を祈り、霊験あらたかなものがあった。ところが幕府の命により戦功の武士四百余人に櫛田宮の広大な神領は論功行賞として配分されたため、「九州の大社」と称せられた当宮も次第に衰微して行くこととなった。







■ 櫛田宮には櫛田三神をまつります

 櫛稲田姫命、須佐之男命、日本武命とつたえられています。
 櫛稲田姫命は、その御名の示す通り元来は農業の神である。須佐之男命と夫婦になり三輪明神(大国主命(だいこくさま))をお生みになられた。よって万病を癒す方薬やまじない法を定め、災難を払い、もろもろの生業の繁栄をはからせられるとして薬師如来と同一体であると仰がれた。
 須佐之男命(高志大神)は疫病退散の祇園の神と信仰され、日本武命(白角折大神)は武勇の神として不動明王の徳をもってあてられた。
 櫛田宮の三柱の神の御神威は、国土万民の安泰繁栄を守護しあらゆる災難を除き給い「神代より末代の今に至るまで、霊験新たにして威徳世に盛に、利生掲焉にして賞罰分明なり(櫛田大明神縁起)」と明記され、農業、厄はらい、家内安全、交通安全、地鎮はらい、病気平癒、学問など人々の生活上の守護神としても、多くの信仰を集めている。また女神を正面御座としてあることから、古来、安産、子育て、縁結びの神とも仰いでいる。

 景行天皇は御子の日本武命(ヤマトタケルノミコト)を偲び、各地を巡行されました。
櫛田宮に琴を埋め、化して楠となりました。よって『琴の楠』と称します。この古木の周囲を清浄な人が呼吸を止めて7回半まわれば琴の音色が聞こえ願いがかなうといいます。
 また約三〇〇坪の池を琴の池といいます。中の島が琵琶の形をしているため琵琶堀とも呼ばれました。
 神社裏一帯を櫛山と称して、古代神祭の旧跡と伝えます。かたわらに石造の酒甕(『オロチの酒甕』)と伝えられるものもあり、祭神がヤマタノオロチの災厄をのがれられた神話の証として、生児のヒハレ(初宮)詣りの際に、その生毛を納めて生育を祈る風習が残っています。

 一年おきのみゆき大祭は、千人近い大行列で賑わいますが、その先払いの尾崎大神楽(佐賀県重文指定)の尾崎地区周辺には大蛇にちなむ地名伝説があります。(赤字は現存地名)
 大昔大蛇が住民を苦しめました。鼻は花手に尾は尾崎までおよぶ長さ六丁の大蛇。人々は野寄に集まり協議して、柏原から柏の木を伐ってきて伏部からふすべ(クスベ)ました。 大蛇は苦しみ蛇貫土居(ひぼのきでえ)をのがれ、蛇取で退治されました。今も蛇取に蛇塚があります。

 尾崎太神楽の獅子は他所の獅子舞とは異なり大蛇を表現したものと言われ、蛇は櫛田神の使い(眷属)で、その伝説は霊験記(室町時代)にまとめられています。



■ 櫛田宮の眷属(お使い)は 蛇 という話 ①


鎌倉時代。元寇の際、博多へ神剣を移して祈願した記録が「櫛田大明神縁起」にある。

 就中弘安年中に蒙古勢襲来の時 櫛田の御託宣に曰く「われ異国征罰の為に博多の津に向かう。我が剣を博多の櫛田に送り奉るべし」と云々。
 仍てこれを送り奉る。
 ここに博多の鍛冶岩次良霊夢あるによりて、三日精進して御剣をとぎ奉る。これを箱におさめ白革を以て三所ゆい封をなして神殿に納め奉り畢ぬ。
 即ち蒙古合戦の最中筑前国志摩郡岐志の海上に、数千万の蛇体浮かび給う。万人の見知其の隠れなし。
 また、三ヶ月の後、末社櫛田の社壇に疵を蒙る蛇体多く現じ給う。
 即ち御託宣に曰く「各疵を蒙ると言えども、蒙古既に降伏して帰り来る」と云々。仍て神埼本社の神仁等数百人、かの岐志の浦に発向して迎え奉り畢ぬ。
 その後更に十三年を経て、かの御剣を本社に遷入れ奉らん為、神埼の神仁いむ田太良以下数百人、博多の櫛田に参向して件の箱の封を解きし処に、蛇体御剣を巻つめて頭をつばの本に打ちかけて、殆ど倶利伽藍明王の如し。
見聞の諸人渇仰肝に銘じ、随喜の涙袂をしぼると云々。

 非常に感激した大友氏、少弐氏の使者の注進状が現存している。



■ 櫛田宮の眷属(お使い)は 蛇 という話 ②

南北朝時代の武将、菊池武時の話。

 菊池武時(きくちたけとき)とはー。
  菊池氏十二代の鎌倉時代の武将。肥後菊池郡を本拠とする。出家後「寂阿」と号する。鎌倉幕府討伐のため後醍醐天皇が企てた元弘の乱後、1333年天皇が流された隠岐を脱出するに応じて、鎮西探題北条英時を攻めたが、同志であったはずの少弐・大友らの離反にあって敗死した。福岡市中央区六本松三丁目 「菊池児童公園」内の「菊池霊社」は菊池武時の首塚とされる。



 太平記及び鎮西誌に曰く。

元弘三年(西暦一三三三年)三月十三日卯の刻、
僅かに百五十騎にて 探題の館へぞ押し寄せける菊池入道寂阿(武時)。
 櫛田の宮の前を打ち過ぎける時、軍の凶をや示されけん。又乗打に仕たりけるをや御尤め有りけん。菊池が乗りたる馬俄にすくみて一足も前へ得進まず。
 入道大いに腹を立て上指の鏑を抜出し
 武士の上矢の鏑一筋に思ひきるとは神も知るらん
と詠みて神殿の扉を二矢までぞ射たりける。
 矢を放つと均しく馬のすくみ直りければ さぞよとあざ笑ひて則ち打通りける。

 其後社壇を見ければ二丈計なる大蛇、菊池が鏑に當りて死たりけるこそ不思議なれ云々。

 寂阿は敵の伏兵ありて直ちに討死しけり。
 一首の歌を笠符に書きて故郷の妻子へぞ送りける。
 故郷に今宵計りの命とも知らでや人の我を待つらん




■ 櫛田宮の眷属(お使い)は 蛇 という話 ③


正和の造営時の神使の蛇の働き

正和三年(西暦一三一四年)、石見の国須河(現島根県西部)から造営の用材を船で運ぶ時のこと、『へほの御崎』というところで、困難していたところ、夢のお告げに同じ小蛇の霊験があって倉戸の津(蔵戸)に着くことができた。
 材木置き場に櫛田の假殿を作ったが、大蛇がどこからともなく出てきて動かず、その様は材木の番をするようであった。
 蒲田津(現蓮池)の四郎が引筏には小蛇が乗ってきて、大蛇と入れ替わりに番をした。

 更に、英彦山から檜皮を筑前鳥飼(現福岡市城南区)に集め置いた時にも、大小の蛇二匹が出てきて四十余日も居て動かず、『我は櫛田大明神の御使いなり』との託宣までもがあった。

  ※託宣 神が人にのりうつるなどして その意思を告げること



■ 博多櫛田神社との関係 ①

 昭和三十九年八月七日、博多の櫛田神社から宮司ほか二名と、福岡県から文化財専門委員等二名が参拝と調査に来神されました。
 博多の祇園山笠が国の民族資料として記録作成の指定を受け、古記録の調査と写真撮影を要望されました。博多の方は古記録・資料に乏しいため神埼の記録をもって補足することになった由。
 ところが専門家が写真撮影したのに撮れておらず、再度撮影。不思議なことにまた失敗し、結局は三回来神されてようやく記録整い、翌四十年三月文部省に提出されました。その「博多山笠記録」にも、神埼が本家で博多は分家の説を紹介してあります。
 神埼は田舎であってもその昔、旧の神埼郡のほぼ全部が荘園の時代が長く続きました。しかも皇室領(院領)であったため、神埼御庄と尊び称され、約三千町歩の大荘園で、その年貢米の積み出し港の博多に神埼櫛田宮の分社をつくったといわれています。
 現在は格別の交流は両神社間にはありませんが、郷土史ブームで本家のことを知り、また吉野ヶ里歴史公園の波及効果で、当神社を訪れる人も年々多くなっています。


■博多櫛田神社との関係 ②

 『福岡の歴史』という本があります。福岡市が昭和五十四年十月に市制九十周年記念として編集し発行して、福岡市内全戸に配布したものです。
 その中で約十ページを費やして神埼櫛田宮と博多総鎮守櫛田神社との関係を書いてありますので、以下その要点をご紹介します。

   註 筆者は筑紫豊氏(福岡県及び福岡市文化財保護審議会委員)
 『神埼御荘は平安時代初期、すでに六百九十町ほどもあり 正応五年(1292)の頃には三千町にも及ぶ白河法皇など院領の荘園でした。
 平正盛時代から平氏は肥前の国に勢力を伸ばし、子の忠盛は長承二年(1133)鳥羽院の院宣と称して、宋の商船を院の御領地である肥前の神埼の御荘にも迎えいれ、貿易の巨利を独占しました。
 忠盛の子、清盛は平治元年(1159)日向太郎通良がそむいた時、平家貞に命じて追討させ、杵島郷を与えられ、弟教盛は鹿瀬荘を拝領しました。 平家は有明海沿岸の穀倉地帯を支配し、対宋貿易で巨利を得、この貿易の中継港兼米穀の積出港として博多に袖の湊を開きました。
 かつて九州大学名誉教授として市民に知られていた国史学者、長沼賢海氏によると現在の博多櫛田神社の社地は、平家の袖の湊における倉敷であったといいます。
 そうしたことから筆者の考えでは、博多の櫛田神社は神埼の櫛田神社を、この清盛の全盛時代に、長沼説にいう平家の倉敷に勧請したものではないかと思います。
 櫛田神社の根元は伊勢の櫛田(現在松坂市内)にあった延喜式内社の櫛田社であって、それから京都二条猪隈の冷泉院の池中島の岩神を経て、肥前の神埼の御荘に勧請され(神埼櫛田宮)、それがやがて袖の湊のほとりの倉敷にも勧請されて、博多の櫛田神社となったものと思われます。』

※ 勧請 神仏の来臨を請うこと、分霊を他の場所に移しまつること。



■ 皇室の御崇敬など記録にあるもの

永久三年(一一一五)  鳥羽天皇が当宮を修造され、伴兼直(執行家祖)本告道景(本告家祖)を勅使別当職として京より下向せられた。
永万元年(一一六五)  後白河上皇が修造された。
健暦三年(一二一三) 順徳天皇が修造され土木を行い給う。石の鳥居額「櫛山櫛田宮」は順徳天皇宸筆(しんぴつ)という。
弘安六年(一二八三) 後宇多院が修造された。
正和四年(一三一五) 鎭西探題北条政顕、当宮を造替し、以後修造は九州七ヶ国より勤める例を定めた。
嘉暦元年(一三二六) 後醍醐天皇、造営の勅旨。
正平十三年(一三五八) 後村上天皇、造営の勅旨。
正平十六年(一三六一) 征西将軍懐良(かねなが)親王、造営の令旨。
康正三年(一四五七) 九州探題渋川教直、修造及び土木を行う。
長享三年(一四八九) 少弐政資が造替した。
大永三年(一五二三) 筑紫満門が造替し、御神体も新造した。
天正十六年(一五八八) 龍造寺政家が修造した。
慶長十四年(一六〇九) 鍋島直茂、鍋島光茂が再建した。
安永八年(一七七九) 鍋島治茂、現拝殿再建。
天明六年(一七八六) 鍋島治茂、現神殿再建。


■ 文化財等について

二の鳥居
  慶長七年(一六〇二)建立で石造。肥前鳥居(一名慶長鳥居)と称し地方色豊かで造立銘古く、その価値が高い。(佐賀県重要文化財指定)
 また一の鳥居には順徳天皇御宸筆という「櫛山櫛田宮」の額の写しが掲げられている。

神幸祭絵馬
  みゆき大祭の様子を極彩色で描いたもので安政五年の作。(佐賀県重要文化財指定)

みゆき大祭
  一年おきに行われる大祭で、初日夜に下宮へおくだり、翌日昼本宮へおのぼりの神幸式で七五〇年以上前にはじまる。行列の大略は
 ①太神楽(だいかぐら)。
 尾崎地区より先払いをつとめ、花籠、大宮司、棒術使い、大太鼓、笛、モラシ、ササラ、メズリ、獅子、唄、頭取等があって、芸能的にも有名である。(佐賀県重要文化財指定)
 ②締元行列
 奴、八乙女。町内四区輪番制で奉仕し、奴は旧藩時代の奴行列を学童を中心とした人々が演ずる。(神埼市重要文化財指定)
 ③御神輿
 稲荷社二基と、櫛田、高志、白角折社三基を伝統による人々でかつぐ。
  以上、およそ八百~壱千名の大行列で、まことに荘重優美な祭典絵巻を繰り広げる。

古文書数十通
  大治元年(一一二六)の大宮司職補任状をはじめ武将等の書状などがある。(神埼市重要文化財指定)

能面  祭典をこの地方では能(ヌウ)と云うが、観世流の能、鷺流の狂言が奉納されていたためである。能面六、能衣裳若干が現存する。

琴の楠  琴の池(約三百坪)の傍らにあり、樹齢千八百余年景行天皇以来と伝えられる老大樹である。御神木。

庚申天(こうしんてん)祠  寛政七年建立の珍しい庚申天石祠である。

昭和天皇御在位六十年浩宮様(皇太子殿下)御来宮記念碑

薬師如来像  明治の神仏分離以来、神埼町二丁目辻にあるが、櫛田宮本地仏薬師如来像で元来境内祇園社に祀られていたもの。伝運慶作。鎌倉時代のものという。(佐賀県重要文化財指定)