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時の話題
2001-3〜1
2003-07-22
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◇印は《日々雑感》より転載
「新しい歴史教科書をつくる会」教科書批判(3/26筆) ◆国籍条項奈良県職も撤廃なるか?(3/12筆) ◆日本相撲協会が「女人禁制」解除を検討(3/2筆)


【国籍条項奈良県職も撤廃なるか?】vol.7
 柿本善也奈良県知事は5日、奈良県議会で、県職員採用試験のうち、行政職(一般事務職)を含む7職種から新たに国籍条項を撤廃する方針を明らかにした。県人事委員会の検討を経て、一定の任用上の要件を設けた上で2001年度採用試験からの適用をめざしているようだ。

 国籍条項とは、公務員採用試験の受験資格に規定される「住民票を有する者」、つまり「外国人お断り」という就職差別規定である。

 国籍条項は、労働基準法違反・職業安定法違反・国際人権規約違反である。日本国憲法の精神にも違反している。法的拘束力のない内閣法制局「当然の法理」見解をたてに自治省は、この差別制度を固持してきた。

 しかし、全国の自治体では、この国籍条項を撤廃するところが相次ぎ、奈良県においても、97年度に県庁所在地の奈良市が撤廃。県内10市はすべて国籍条項が無くなっていた。いくらかの町村部においてはいまだに残っているが、この間の撤廃の流れは確実にすすんできた。ただ消防職には国籍条項が残っていることが多い。延焼防止のために、周辺家屋の取り壊しが必要な場合があり、これが「公権力の行使」にあたるので外国人にさせるわけにはいかない、という理由である。「日本」という国は「日本人」のものである、という発想がまだまだ根っこにある証拠である。

 ことは、「外国人」が「公務員」になる場合だけの問題ではない。民間企業が就職選考において民族差別をする場合、そのいいわけとして、公務員の国籍条項があげられることがあった。「役所が採っていないのに、なぜ外国人を雇わなければならないのだ」というワケだが、国籍に関わらず同じ人間であるという基本認識が欠けた上に、企業の事情・採用者の偏見が正当化されてきた。公務員の国籍条項は、企業に民族差別のいいわけを与えたきたのだ。いまも「フジパン」という大手パンメーカーが、開き直っている状態である。

 在日朝鮮人には医者や弁護士になるものや、プロスポーツや芸能界で活躍する者も多く、また自営業を営む者も多いという。何故か?
 いわゆる「普通のサラリーマン」になれなかったのである。能力や人格に問題があったわけではない。そういう偏見は、自らの差別意識と無知の裏返しである。つまり、日本の役所と企業から就職差別をうけてきたため、自らの才覚で生きる道しか残されなかったと言える。

 「いくら努力しても、安定した仕事に就けない」という意識が、親や子ども達をどれほど苦しめてきたか。それを打破する意味も込めて、各地で、外国人住民が、敢えて国籍条項がある自治体に願書を出願してきたのだ。kurochanも及ばずながら、大阪市や奈良県の人事委員会への抗議行動に何度も参加してきた。具体的な話は、別の項に譲るとして、これは、在日日本人の僕の問題でもあると思っている。

 犯罪を犯したときだけ、本名で報道されれば、各界でいくら活躍していようとも、民族への偏見は増幅されるばかりだ。プロ野球選手や超有名歌手や俳優が、民族を明かそうとしても、球団やプロダクションが押さえ込んでしまう。芸能界などの偏見も問う必要がある。

 日清戦争の前までは、一部の国学者や征韓論者等を除いて、一般には、先祖に朝鮮人や中国人の血が流れていることを誇る風潮があった。親や先祖がいくらエラくても、自分自身の価値とは関係ないとは思うが、少なくとも100年ほど前までは、民族差別の意識は日本社会一般にはさほど無かったということがいえる。なぜ、差別意識が生まれ、いまだに引きずっているのか?これは、このホームページでもひき続き考えていきたいテーマのひとつだ。(2001-3-12筆、3-13加筆)[→3月目次]



【日本相撲協会が「女人禁制」解除を検討】vol.6
 日本相撲協会(時津風理事長)が、春場所千秋楽(3/25)での知事賞授与で、太田房江大阪府知事の「土俵入り」を受け入れる方向で検討していることが、1日分かった。ただし、初日前日(3/10)の「土俵祭」で招いた神を送り出す「手打ち式」の後に、各種表彰の順番をもってくることで、あくまでも神事から女性を排除する考えであると伝えられている。

 高知県(愛媛県?)のちびっ子相撲大会で優勝したのが「女の子」であったため、両国国技館での全国大会には準優勝の「男の子」を出させたのが、日本相撲協会が言う「伝統」である。宝塚歌劇団と一緒にしてもらっては困る。ここには「血穢(けつえ)」の問題が絡んでくるのだ。

 「女性は月経と出産によってケガレているから、神聖な土俵に入るな」と言うワケなんだ。何をどう言いくるめたって、はっきりとした差別だ。

 「凡(およ)そ穢れ悪しきことに触れ、まさに忌むべきは、人の死は三十日を限る、産は七日、六畜の死は三日、それ宍(しし)喫(く)らわば三日」、とは平安時代の927年の「延喜式」の文言である。「宍」とは獣肉のこと。14世紀には「血盆経」というニセのお経によって「血の池地獄」なる不浄観が入り込み、神仏儀式からの女性排除がキツくなったのだ。「延喜式」から約950年後の1872年に、「自今産穢不及憚候事」令で廃止されるが、さらに100年以上たっても、いまだにこんなことをやっている。

 ケガレの問題は事あるごとに触れていきたいが、日本相撲協会は、「血穢」(けつえ)=女性差別を、「伝統」を口実に温存していることを指摘したい。各地の寺社が「女人禁制」をいまだに残しているのも同列だ。

 「伝統」というご都合主義はやめてもらいたい。「伝統」を守りたいのだったら、なぜ土俵の大きさを変えたり、屋根の形を変えたりしてきたのだ。テレビ中継に合わせて四隅の角柱をとってつり屋根にしたのはなぜなんだ。だいたい、土俵とは、「人方屋(ひとかたや)」(人垣の囲い)へ放り投げるとけが人が出て、すぐにケンカが始まるというので、人垣が綱に代わり、綱が俵になって、公許興行許可されたんじゃないか。

 どうやら、一時期の相撲人気にかげりが見え始め、さすがの日本相撲協会も「手打ち式」で神事はオシマイと言い聞かせて、太田知事をパフォーマンスに利用しようと考えているのだろう。「神事」としてうやうやしく相撲を取るのはいいとして、女性を排除することは間違った伝統だ。また、そんな日本相撲協会を許してきたのは、我々であることも自戒すべきである。

 尚、学校なんかでも「忌引き」という言葉がいまだに使われているが、この言葉自体の意味は、「身内が亡くなって辛いだろうから休んでいいよ」ということではなくて、「ケガラワシイからしばらく来るな」という意味なんだ。血のつながりが濃いほどよりケガレているから日数が長くなるなんて発想は、まさに「延喜式」のままじゃないか。(2001-3-2筆、3-3「(愛媛県?)」と加筆) ※3/7見送り決定[→3月目次]


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