インドネシア拉致事件(3)
2001-02-20 22:18
第3章  バリ島到着

 日航ジャンボ墜落事件で知人の兄が坂本九さんらとともに亡くなってから10年目、堀江謙一さんが小型ヨットで太平洋単独横断に成功してから33年目にあたる、1995年8月12日、俺は関空からインドネシアに飛び立った。

 飛行機の一人旅では、となりにどんな人が座るかが、まずは楽しみだ。バリ島のデンパサールまで約6時間のささやかな幸福への期待は、若い男性同士ということで、互いにささやかな失望にかわってしまった。通路をはさんだ隣には、若い女性が二人座っていた。「懸命」に「地球の歩き方」と「JTB自遊自在」を読む俺をチラチラと見ていたが、数日後、彼女たちに助けられることになるとは、その時は想像だにできなかったのもムリはない。

 いつもは10万もあればいい方だが、今回は国内便で島々を飛び回ろうと、約30万もの金をもっていった。
 実は、JTBにパック料金を支払ったら、銀行預金の残高が一万円、アパート暮しの独り者には公共料金引き落としの限度額
になってしまったとは、第1章で書いたが、ところが旅行代金には、食事代が入っておらず、なんとか金を工面しなければならなかった。

  そこで、思いついたのが、生命保険解約。早速保険会社に出向いたが、「危険な旅行前に解約することはないだろう」と言われて納得。結局、保険額を引き下げて、目一杯払い戻してもらったのだった。この話がまた後々出てくるのだが。
 また、「写るんです」専門だった俺だが、今度は空港で普通のカメラを買った。フジフィルムの安いのを買ったのだが、ペンタックスでなかったので、あとで助かる事になったとは、情けない。

 日系以外のホテルは両替レートが悪いので銀行に行きたかったが、あいにく到着は土曜の晩。でも空港で両替できたので、2万円を45万ルピアに。豪華なツアーなら、TC(トラベラーズチェック)も便利だけれど、一人旅で現地にとけ込むなら、やっぱり現地通貨かアメリカドル。

 ホテルについたのは午前1時前。クタビーチ沿いのマハラニホテル206号室。このツアーからこのホテルに送り込まれたのは、先の若い女性2人と俺の3人だった。クタは治安が悪く、夜の外出は責任がもてないと旅行社は言う。翌日午前中の市内観光に参加したとしても、どうせ俺は違う島へ飛ぶんだからと、気楽に眠りについた。

 ところが、明け方早くに停電。エアコンが止まり、電灯もつかない。かつて盗難が相次いだというホテルだけに、ちょっと緊張したが数分で復活。部屋の窓からは満月のクタビーチが見える。散歩する人、ランニングする人々。俺は、インドネシア語会話の暗誦。「パギ ペルミシ ミンタ イニ」(おはよ!すみません、これください)。早速ホテルのレストランで、焼きめし・お茶・ジュースを頼む。5500ルピア=250円弱。ナシゴレンとコーヒーを追加注文。ウェイターが笑顔とたどたどしい日本語で「おいしいですか?」「ベナール ベナール エナック」(とてもおいしい)。このウェイターとも、その後仲良くなった。

(2001-2-12執筆)

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