山神第二トンネル レポート
第2章 真幸駅




我々を乗せた「しんぺい」は山神第二トンネルの手前に差し掛かりました。
ジェイフォーはガタガタ震えています。

ここが!ここがっ!!山神第二トンネル南口です。
ジェイフォー「出たぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
ジェイフォーは気絶しました。「出たぁ」と叫んでいましたが、まだトンネルに入っていません。 (そんな問題じゃない!)

こうしてトンネルに入ったわけですが、ここの特徴である「人の話し声」は今回は聞かれませんでした。 嬉しいやら悲しいやら。
トンネル内の写真を撮ろうとしましたが、フラッシュが運転手の迷惑になりそうでしたので、 撮影は出来ませんでした。
ただ、トンネル内に赤いところがかなりありました。もっとも、レンガの色ですが(笑)。

トンネル北口を出てすぐのところに、「復員軍人殉難碑」と書かれた慰霊碑の案内板がありました。
しかし、肝心の慰霊碑は残念ながら、木の枝でよく見えませんでした。
ちなみに、上の写真の右上にある白い光は、フラッシュによるものです。

残念がっているうちに、「しんぺい」は真幸駅に到着しました。
ホーム上に、昭和47年の山津波時に転がってきた巨石が置いてありました。
現在の真幸駅は無人駅となっていますが、当時は有人駅でした。
(ちなみに無人駅化は昭和61年)

こちらはその全景です。

真幸駅の駅名板です。中央下のイラストは温泉の街ならではですね。
「球磨川えびの」のハンドルネームうち「えびの」の部分は、「えびの」という地名が元となっており、 今は亡き急行列車を間に挟み、秘密組織の代表(兼パシリ)となったわけであります。

真幸駅名物「幸せの鐘」です。右側に移っている人は「しんぺい」の運転士です。
別に鳴らしているわけではなく、取っ手にぶら下がっていたプレゼント応募用の葉書を外していたところです。

鐘を鳴らす瞬間です。ジェイフォーが気絶しているので、球磨川えびの、けろぴー、ぴろの3人(?)で鳴らします。

今日の「しんぺい」に使われている車両「キハ31 13」の運転席です。 真幸駅はスイッチバック方式の駅なので、運転士はこれからここの運転席に移って動かします。

「しんぺい」はバックして折り返し線に入りました。左下の線路は真幸駅到着前に走っていたところです。 スイッチバックにより、かなりの高度を稼いだのがよくわかります。

再び前進を開始した「しんぺい」から撮影した真幸駅です。かなり上から見下ろしています。

こちらはホーム上にある巨石です。

矢岳第一トンネル南口付近から見える光景は、「日本三大車窓」の一つに数えられています。 天気次第では、はるか南にある桜島も見えるそうです。 秋から冬にかけては雲海も見られます。この場合は吉松発の一番列車がいいでしょう。

矢岳第一トンネル南口です。肥薩線最大の難工事となったトンネルであります。 工事中に発生した湧水により、建設材料運搬用の馬が溺れ死んだそうです。

トンネル上部を拡大しました。
開通当時の鉄道院総裁・後藤新平の書を基にした石額「引重致遠」は「オモキヲヒイテトオキニナス」と読みます。 北口にある逓信大臣・山形伊三郎の書を基にした石額「天険若夷」(こちらは「テンケンイノゴトシ」と読みます)と合わせて、 「天下の難所を平地のようにしたお陰で、多くの人間や貨物などの重たいものをどんどん遠くへ運ぶことが出来る」 という意味になります。

矢岳第一トンネル北口にある「天険若夷」の石額を撮影すべく、後部に移動しました。
通過待ちの間に撮影した「キハ31 13」の運転席です。 上の写真は正面下部、下の写真は運転席左上の部分です。

帰りの列車から撮影した矢岳第一トンネルの北口です。

石額「天険若夷」を撮ろうとしましたが、うまくいきませんでした。



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