Since 2008/ 5/23 . To the deceased wife

わけがありまして「読後かんそう文」一歩一歩書き留めていきます。

妻の生前、展覧会の鑑賞や陶芸の町を見学したりと共にした楽しかった話題は多くありました。
読書家だった妻とそうでない私は書物や作家、ストーリーについて、話題を共有し語り合ったことはありません。
悲しいかな私は学生時代以来・・半世紀近くも小説や文学作品を読んだことが無かったのです。
妻から進められていた本をパラパラとめくり始めたのをきっかけに・・・

先にある”もっと永い人生・・・”かの地を訪れるとき、共通の話題を手土産にと思って。

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<<2014年度・読後感想文索引>>
読書順番作家・書店 書名読み切り日
N0.256浅田次郎・中央公論社「 五 郎 治 殿 御 始 末 」  12月  7日
N0.255内田康夫・祥伝社「 鯨 の 哭 く 海 」  12月  1日
N0.254太宰 治・青空文庫「 女  生  徒 」  11月 23日
N0.253角田光代・角川e文庫「 紙 の 月 」  11月  8日
N0.252太宰 治・青空文庫「 冨 獄 百 景 」  10月 23日
N0.251葉室 鱗・角川e文庫「 乾 山 晩 愁 」  10月  3日
N0.250太宰 治・青空文庫「 東 京 だ よ り 」   9月 27日
N0.249太宰 治・青空文庫「 兄 た ち 」   9月 25日
N0.248川崎草志・角川e文庫「 長 い 腕 」   9月 22日
N0.247万城目 学・集英社e文庫「 偉大なる、しゅららぼん 」   9月 15日
N0.246葉室 鱗・新潮web文庫「 秋  月  記 」   8月 28日
N0.245吉川トリコ・新潮web文庫「 グ ッ モ ー エ ビ ア ン ! 」   8月 22日
N0.244池井戸潤・文春web文庫「 カ バ ン 屋 の 相 続 」   8月 13日
N0.243黒川博行・文春web文庫「 蒼  煌(そうこう) 」   8月 10日
N0.242浅田次郎・徳間書房「 地 下 鉄 に 乗 っ て 」   7月 28日
N0.241伊坂幸太郎・講談社e文庫「 チ ル ド レ ン 」   7月 11日
N0.240木爾チレン・新潮社「 溶 け た ら し ぼ ん だ 」   6月 19日
N0.239敷村良子・M&H「 が ん ば っ て い き ま っ し ょ い 」   6月 15日
N0.238イイノヨシカズ・P&L「 注 文 の 多 い お 葬 式 」   6月 10日
N0.237藤原智美・講談社e文庫「 運  転  士 」   6月  5日
N0.236早川良一郎・文春web文庫「 散 歩 が 仕 事 」   5月 22日
N0.235吉永南央・文春web文庫「 そ の 日 ま で 」   5月 15日
N0.234角田光代・文春web文庫「 空 中 庭 園 」   5月 10日
N0.233木皿 泉・河出書房e「 昨 夜 の カ レ ー 、明 日 の パ ン 」   4月 25日
N0.232辻村深月・角川e文庫「 本 日 は 大 安 な り 」   4月 18日
N0.231伊東 潤・講談社文庫「 疾 き 雲 の ご と く 」   3月 14日
N0.230姫野カオルコ・幻冬舎文庫「 昭 和 の 犬 」   3月  5日
N0.229太宰 治・ 青空文庫「 二 十 世 紀 旗 手 」   2月 20日
N0.228朝井まかて・ 講談社e文庫「 恋  歌  」   2月 15日
N0.227山本兼一 ・ PHP研究e文庫「 利 休 に た ず ね よ  」   2月  3日
N0.226伊東 潤 ・ 光文社e文庫「 巨  鯨  の  海  」   1月 15日
N0.225大石直紀 ・ 小学館e文庫「  武   士   の   献   立   」   1月  1日

  [No. 256 ]   12月  7日


    中央公論社
「五郎治殿御始末 」・浅田次郎
2002年作・465ページ

「わしはおまえの年頃に、いちど死に損なった」

鳥羽伏見の戦いが始まった年、つまり明治元年に曽祖父は生まれたと言う。私の最も古い記憶ではそのひとの膝の感触であり、すっぽりと体を包み込むそこは心地よい椅子というより まるで蓮の台にあるような安らぎを感じさせた。そんな膝の上で聞いた話であった。

曽祖父の岩井家は桑名藩11万石、松平越中守様の家来であった。150石取りと言えば相当なもので屋敷には大勢の家族と郎党が住まっていたという。

しかし明治と言う時代がやってきて桑名は天皇陛下に弓を引いた賊名をこうむってひどい有様になってしまった。父親は北越の戦いで死んだと聞いている。

母は尾張藩士の家から桑名の岩井家に嫁した人だがこの御一新の戦で尾張は薩長にくみしたゆえ岩井の家と母の実家は敵味方になってしまった。

鳥羽伏見の戦いに負けたあと桑名の御家来衆は城を開いて恭順する者と殿様に従い戦い続ける者とに分かれた。

祖父は恭順し父は城を捨てて戦うこと・・つまり敵味方となった。どちらが負けても岩井家を残そうとする考えだった、岩井家の惣領だった幼い曽祖父、半之助は祖父のもとに残った。

もっとも敵味方になった尾張大納言様と桑名越中守様はご兄弟であったと聞いていた。つまり国を挙げて勤王派佐幕派にと真っ二つになってしまったのでした。

その祖父も桑名の要職にあったことから旧藩士の整理を申し付けられていた。祖父は人々の恨みを一身に買いながら新政府から従前の禄を貰うばかりで仕事のない旧藩士たちを 免職解雇するという辛いお役目を担っていたのだった。

祖父の岩井五郎治はそれらの仕事をなし終えたのち半之助に言った。代々続いた桑名家が仕舞になった、御譜代の岩井家がこの先続かねばならぬ理由はなくなったのだ。

だからそなたは母のいる尾張へ行けという。「お爺様はいかがなされますか。惣領のわしともども、尾張のお爺様のお世話になることはできませぬか」

「たわけたことを申すな」「ならばお爺様、わしも桑名の者として、尾張のお爺様の厄介になるわけには参りませぬ」

五郎治は半之助ともどもに死に場所を探すうち元の要職にいたころ懇意にしていた忠兵衛という尾張屋の宿主に見つかってあわや・・と言うところで止められた。

ふたりとも忠兵衛の宿で説得され「わしは命を拾うた」

曽祖父の祖父の話・・岩井五郎治は浅田次郎氏の5代前に激動の時代を生きた人であった。そして末裔にあたる自分はと言うとまことに不肖な子孫である。

おのれを語らざることを道徳とし、慎み深く生きた曽祖父を思えば開き直って、刀を筆に持ち替えただけだとうそぶけば「理屈を捏ねるではない、この馬鹿者、と」いわれそうだ。



核家族化・・ともいわれる現代における家族に対する家系意識ってどれほどの物なんでしょうか。すでに祖父や祖母あたりまで遡るのが精いっぱい、ともすればそんなことまでは知らない と言った若者まで居そうな気がします。

現に私自身、断片的に聞いた祖父のことが精いっぱいです。幸いにも父母は農作業など忙しく御婆ちゃんっ子で育ったことが祖母に対する想い出は残っています。


  [No. 255 ]   12月  1日


    祥伝社
「鯨の哭く海 」・内田康夫
2005年作・496ページ

「旅と歴史」と言う人気雑誌の編集長から「晩飯をおごるよ・・」と言われたとき浅見光彦は不吉な予感がした。

過去に二度、食事をおごってもらったことがあるがいずれの時も交換条件付きだった。誰もやりたがらないキツイ条件の仕事を押し付けられた。

預金も少なくなっていたので多少の難題でも引き受けようと思っていた。そして待ち合わせて連れて行かれたところは「くじら」料理屋だった。



ここで浅見の役は歴史と文化そしてその時代の社会問題に取り組むルポライターとしての才能を買われるくだりから始まる。1980年代に始まった国際捕鯨委員会の席で商業捕鯨禁止 決議が採択され施行されたことによる特集を組もうと。

それに先立って浅見はもっと鯨のことについて知らなくてはいけないと和歌山県、大地という漁港を訪ねた。

浅見は泊まった宿の女将から国際的に反捕鯨が叫ばれ始めたころ当時地元の新聞支局に派遣されていた新聞記者と鯨漁網元の娘の恋話があってその話を浅見は興味を持って聞いた。

記者は多分反捕鯨の立場から取材に来ていたでしょう、こともあろうに網元の娘との恋沙汰はどう見ても「ロミオとジュリエット」そっくりだと浅見は面白く聞いた。

特に浅見にとってその新聞記者が偶然にも浅見と言う同姓ではあったがアザミと濁点で呼ばれることも大いに興味ある話であった。そしてその話の結末は地元の岬で心中事件として片付けられた。

そして更に地元出身の元エリート官僚の永野からの話も聞くことができた。水産資源としては鯨と人間は競合関係にあって、しかし世界人類の捕食する水産資源は9千万トンに過ぎない。

比べて鯨の捕食量は2億8千万トンにも上る、しかしこのまま捕鯨を禁止していれば鯨は年間4%づつ確実に増えて行きやがては人類は多大な被害をこうむることになる。

現在でもすでに各地で食糧不足による鯨の打ち上げられた浜辺も出始めていて将来に対して大きな不安材料だ。しかしそんなことは反捕鯨国の人間にとってはもはや聞く耳を持たない感情論になってしまっている。



ルポライターとしての記事には興味もあって面白い。しかも私は鯨を食べて命をつなげてきた人種だ、これは食の文化でありれっきとした歴史を背負っている問題なのだ。

内田さんはこれをミステリー長編作品に仕立てようとご苦労なさっているようです。取って付け足したように埼玉県の秩父で起こった殺人事件・・そして被害者は偶然にも和歌山県大地出身 で鯨漁では銛の名人として元ヒーローだった老人だった。

それらをみんな、次々に偶然にも・・という言葉で結び付けてミステリーとしての面白さを狙っているようだがそんなことには読んでいて興ざめだ。

2011年に「巨鯨の海」という短編構成の本を読んだ。こちらは短編ではあったが捕鯨に関し読み終えての満足感は大変大きかった。きちんと調査したルポの作品にするのかいい加減な ミステリー作品にするのかはっきりしてほしい。


  [No. 254 ]   11月 23日


    青空文庫
「女生徒 」・太宰 治
1939年作・125ページ

あさ眼をさますときの気持ちは、面白い。かくれんぼのとき、押し入れの真暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと 来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、・・・

・・・私がもらった。綺麗な女らしい風呂敷。綺麗だから、結ぶのが惜しい。こうして座って、膝の上にのせて、何度もそっと見てみる。撫でる。電車の中の皆の人に見てもらいたいけれど、 誰も見ない。この可愛い風呂敷を、ただ、ちょっと見つめてさえ下さったら、私は、その人のところへお嫁に行くことに決めてもいい。・・・

・・・電車で隣り合わせた厚化粧のおばさんをも思いだす。ああ、汚い、汚い。女は、いやだ。自分が女だけに、女の中にある不潔さが、よくわかって、歯ぎしりするほど、厭だ。 ・・・こうして一日一日、自分も雌の体臭を発散させるようになっていくのかと思えば、また、思い当たることもあるので、いっそこのまま、少女のままで死にたくなる。・・・



20代後半から30代このころ太宰治は多くの短編作品を手掛けていますがその一連の作品の中にも彼自身の内面の弱さ・・と言うものを常ににおわせている傾向がある。

この作品は当時14歳だった少女からの朝起きて寝るまでの一日の手紙をもとに作品に仕上げたという。

つまり、彼にとっては心の持っていき方が常に内へ、内へと向かうことと少女の心の動きが違和感なく共鳴していった時期なんだな・・と言うことが読み取れる。

寝る前の夜、庭を歩き回るみにくい方の犬「カア」の足音を聞く。それに足も不自由だから足音に特徴がある。・・カアは可哀想。けさは、意地悪してやったけど、あすは、かわいがってあげます。・・・

とまあ、読者としても一安心する表現の仕方に美しさを感じる。


  [No. 253 ]   11月  8日


    角川e文庫
「紙の月 」・角田光代
2012年作・628ページ

まず最初に不満を一言。どんな作家もその作品に対して題名をつけることを常としてきた、しかしそこにはある一定の基準・・つまり常識的な基準があったはずだ。

どうしてもその常識に当てはまらないだろう好き勝手な題名をつけた場合は一応それなりの解釈をつけて、みた人、読んだ人に了解を得る必要があったんではなかったか?。

「紙の月」・・何もそこに唯物的なものを見出すほど吾輩は直入的ではないけれど膨大な文字の羅列の中にそんなものの微塵も感じられなかった。これをその羅列の中に意味付け しろと押しつけがましく問われれば「角田さん・・アンタ一度病院でアタマん中スキャンして見てもらったら・・」



梅沢梨花41歳は銀行の渉外担当として新興住宅地の土地持ちや、にわか資産家の家々を回って定期預金の勧めや有利な資産運用の相談活用にと活躍してきた。

この新興地の彼らの多くはかなりの高齢、そして余りある潤沢な現金を自らの判断でどう生かそうか全く持ってど素人なのだ。そこに新任の渉外担当としてパート時代からその老人達に 人気の高かった梨花にはうってつけの仕事であった。

資産家の老人たちは自分たちに対する面倒見の良さ抜群の梨花の進める預金の運用など言われるままに従ったと言うべきだろう。

梨花は25歳で食品会社に勤める二歳上の正文と結婚していたが子供を授かることもなくすごしていた。もっとも夫の方にも積極的に愛をはぐくんで小作りに励むと言うこともなかった。

梨花は夫や友人などから勧められるままに料理教室や独身時代のカード会社勤務の実績などでパートの銀行勤めをしてみた。その実績から銀行内でも評判となり上司の勧めもあって 非正規ながらもこの渉外担当の職に就いたのであった。

当然のことながらパートの時代より収入も増えた。時期を同じくして夫の勤めの海外プロジェクトも軌道に乗りかけて正文は上海に単身赴任することになった。

梨花はある日一人住まいの老人資産家、平林に呼ばれて出かけていった。偶然にもその孫にあたる大学生の光太と出くわした。

光太は大学で映画つくりを学び自費で作品を作ろうと努力していた。しかし資金に行き詰まり祖父の平林に出資を幾度か頼んだがビタ一文も出してもらうことはできなかった。

そんな光太を見て一時だったらと50万円を融通してやった。その金は梨花が受け持つ資産家の老人達から預かったお金なのだ。最初は直ぐに穴埋めしてもらって何事もなかったかに 成るはずだった。

しかし、光太は実は町の金融業者からも借り入れがあってそればかりでは済まないことがわかった。そして当然のことのように梨花と光太は男と女の関係に埋もれていった。



元々生まれつきの悪人なんていないはずなのに・・、ここに登場する主人公もチョット悪いことだけれど直ぐに返せば問題はないだろう・・。しかし、それが直ぐには返すことができなかった。

でも、そのことに誰も気づいてくれなかったのでホッとした・・。気が付いたらもう取り返しのつかないことになってしまっていた・・

世の中はこの50年間で家族間の結びつき・・に大きな変化があった。核家族という言葉が出始めたころはそれほど大きな社会問題ではなくむしろ若い世代の新しい物の考え方として 興味を持った。

それから近年、オレオレ詐欺や孤独死などと言う言葉が盛んに言われる。私たち家族はそれぞれの世代を尊重しながら大きな家族愛と言うものを失って来た。当然そこには計り知れない 歪みが生じている。その歪の中に生まれる言動が犯罪となって現れているとみるべきだろう。


  [No. 252 ]   10月 23日


    青空文庫
「冨獄百景 」・太宰 治
1939年作・64ページ

・・・むかしから富士三景の一つにかぞえられているのだそうであるが、私は、あまり好かなかった。好かないばかりか、軽別さへした。あまりに、おあつらひむきの富士である。

まんなかに富士があって、その下に河口湖が白く寒々とひろがり近景の山々がその両袖にひっそり蹲って湖を抱きかかえるやうにしている。私はひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。

これは、まるで風呂屋のペンキ画だ。芝居の書割だ。どうにも注文どほりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった。



実は私の少年期過ごした信州の上諏訪、ちょうど我が家から見える富士山もこの太宰治の言わんとする「・・・まるで風呂屋のペンキ画・・」の趣なのでありました。

右側から守谷山の裾に繋がる杖突峠があり、そして左からは雄大な八ヶ岳連山の西岳か権現岳から伸びる裾野が杖突の裾野と交わる中間点にその富士は鎮座してまさにお風呂の ペンキ画そのものの絵を幼少期から眺めてきました。

小学生のころ一度だけその絵を描き、そして中学生の多感期にはどうしてもその風景を許すことができず母が大事に保管していた小学生の時の絵を思いっきり破り捨てた記憶があります。 その時の母親の悲しそうな顔を今でも想いだして辛くなる時があります。

私は大人になって再び山中湖で富士の絵を描いて挫折し、そして70歳を過ぎてまた懲りずに富士山の絵を描きました。もうどんな風景でも許せる心境なのです。



1937年、太宰治は26歳の時自殺未遂、そして28歳でも自殺未遂を繰り返していたとき甲府の御坂峠にある天下茶屋で執筆を続けていた井伏鱒二を頼って居候をする。

毎日朝な夕なにこの忌まわしいほどのペンキ画の富士山を見せられて・・・しかもそこに厳然とそびえたつ富士山にすでに愛想をつかした時太宰治は改めて富士山を感じたのでした。

太宰が東京に戻ってこの作品を書いたのは翌年ですが果たしてその出来栄えはこんな素晴らしい包容力に富んだ山に抱かれたことはなかったと感じさせられていた証であると思う。

冒頭、この富士山のいやらしさを東陶と述べる。広重の描く絵の富士の頂角は85度もあり文晁のそれも84度くらいはある、しかし陸軍の実測図に寄れば東西頂角は124度であり 南北は117度に過ぎない。更に北斎に至っては30度くらいもあってエッフェル鉄塔のような富士をさえ描いている・・

ある日、十国峠から富士を見たとき運悪く富士は雲の中にあった。でも暫く待つと雲も晴れて富士山が見えそうな気配であった。太宰はいつもの冷ややかな気持ちで富士の頂上は この辺りであろうと目線で雲の中に印をつけておいた、暫くして雲が晴れてその頂は印よりも1,5倍も上にあったのには驚いたという。


自然を感じ、そして自然の中に身を置くとその忌まわしい怨念の中に崇高なものが見えてくるのである。多くの作家の富士の頂角が鋭いのはそう見えるのではなくそう見えてもらいたい 祈りが自然と頂角に現れるのではないでしょうか。

私もこの頃多くの山の絵を描きますがどの山の頂角も心なしか・・?実際より鋭角なのは自覚しているところです。


  [No. 251 ]   10月  3日


    角川e文庫
「乾山晩愁 」・葉室 鱗
2008年作・395ページ

壮大な絵巻物語であった。作品は五編、「乾山晩愁」「永徳翔天」「等伯慕影」「雪信花匂」「一蝶幻景」からなっている。

朝廷画家、狩野永徳は時の将軍足利義政に召し抱えられ日本を代表する絵師であった。幼少のころから祖父を唸らせるような画才を発揮し父はそれほどでもなかったがその父を 上回るほど優れた絵描きとなった。

天下は信長によって朝廷から戦国時代を経て武士の世になってきたが永徳はその信長そして秀吉にも絵師として重宝されてきた。しかしその子供は狩野派を継ぐには少し技量が 乏しかった。

能登半島に生まれた長谷川等伯は京に出てその絵の技量を広めようと狩野派の座をうかがうものの中々いい仕事に巡り合う機会に恵まれなかった。

時代は進んで光悦、俵谷宗達など後の狩野派を受け継ぐ若者に影響を与える絵師が続々と世に出てくる。

当時、狩野派の絵師たちはひたすら師匠の作品を摸することによってその技量を受け継いで磨いていくことが主流であった。

しかし永徳の孫の探幽の時代にもその継承は続いたものの一方探幽の孫娘や才能のある弟子には独自の写生による表現を大ぴらではなくとも進めるきらいもあった。

しかし狩野派の脈絡は長きにわたって宗家、分家など入り混じってその系譜はかなり複雑になってきた。


天下は変わって家康の時代になっていた。このころは尾形光琳が華々しく絵師として業界を席捲していた。

弟の乾山は陶芸で飯を食べていたがそれも兄の光琳による絵付けが評判で売れていたにすぎなかった。しかし兄の死後乾山の陶芸は全く売れなかった。

やむなく乾山は江戸に出て下町で窯を開くものの大成せず栃木県佐野の知人を頼ってそこで余生を過ごす。光琳没後30年後であった乾山も生涯を終える。

一方、狩野派の絵師を破門されたり写生に流れていった末裔たちはやがて江戸元禄の時代になって個性豊かな絵を描くようになった。

今まで絵画は権力の象徴であったが詩歌の世界の変遷とともにそれは百姓や町人の求める庶民芸術へと発展していった。

和歌はその形を俳諧師として松尾芭蕉がその先陣を切ったように絵画の世界も版画を使った浮世絵や風景画が発展していった。


葉室さんはそういった美術変遷200年をこの五編の作品に織り込んで上梓されていて実に読みごたえのある作品になったと思う。


  [No. 250 ]    9月 27日


    青空文庫
「東京だより 」・太宰 治
1944年作・13ページ

太宰治が短編集を出そうとしたときその表紙の絵を描かせてくれ・・と頼まれた。

彼の絵はとてもへたくそで、ただでさえ売れない私の本が余計に売れなくなると思って断り続けていた。

その彼からまた描かせてくれと言われた。その彼も今では軍需工場の工員としてお国のために働きながら頑張っている。ここはひとつ頼んでみるか・・と言う気になった。

打ち合わせのために度々彼の勤める工場の休憩時間を狙って訪れる必要があった。彼を待つ間事務所の片隅の応接の椅子に座って待つことにする。

事務所では誰一人として私に興味を持って気を引くようなこともせずまるで感情のない無表情でひたすらそろばんをはじき事務を全うしていた。

しかし私はその中の一人にとても気品と崇高さを感じさせる少女のいることに気を留めた。

幾度か通ってとある日、帰ろうとしたとき後ろから事務をしていた彼女たちが隊列を組んで事務所から出てくるところに遭遇した。そして列の最後に遅れそうになりながら付いてくる 少女を発見した。

その少女は生まれたときから足が悪い様子でした。右足の足首のところが・・・言うに忍びない。松葉杖をついて、黙って私の前をとおって行きました。


この作品は太宰治36歳ころのもので戦争中でもあり健康であれば彼にしても作家などしている場合ではなかった。責めてその軍需工場で働く画家に自分の文集の表紙を描いてもらう ことで少しでもお国のために役立ちたいと思ったのでしょう。

国を挙げて総動員、そしてその中に太宰は自分と感情的に波長を共有する少女を感じたのでしょう。しかし、その少女は体が不自由だった。


  [No. 249 ]    9月 25日


    青空文庫文庫
「兄たち 」・太宰 治
1939年作・35ページ

父が亡くなった時は、長兄は大学を出たばかりの25歳、次兄は23歳、三男は20歳、私が14歳でありました。

兄たちは、みんな優しく、そうして大人びていましたので、私は、父に死なれても少しも心細く感じませんでした。長兄を、父と全く同じことに思い、次兄を苦労した伯父さんの 様に思い、甘えてばかりいました。


そんな書き出しで始まるこの作品は太宰治31歳の作品です。家族の者たちは彼が家の中のことをことごとく書いて作品にしてしまうので大いに閉口していたようでした。

しかしそれは書かれた当の本人にしては迷惑かも知れませんが。第三者的観察では太宰が兄たちを尊敬し愛情を持って表現しようとしている様子がよく見えるのです。

そして身近に感じた兄・・として矢張りすぐ上の三兄のことでしょう。彼は美術学校に入りましたがもともと体も弱く上京していた太宰はよくその三兄と付き合っていました。

彼は太宰の6歳年上でしたが芸術家として終生太宰の憧れの存在であったようでした。そして「世界で一番の美貌を持っていたくせにちっとも女に好かれなかったお兄さん・・」

と最後までほめたたえています。「当時33歳だった長兄は亡くなった三兄の枕元で何を思ったか、急に手放しで慟哭を始めたその姿が、今でも胸をゆすぶります・・。」

太宰が兄たちを想う気持ち以上に兄たちにとってもその絆の一端を表現することで読む私たちにより一層の兄弟愛を感じさせるのです。


  [No. 248 ]    9月 22日


    角川e文庫
「長い腕 」・川崎草志
2004年作・274ページ

埼玉副都心にあるビルの一角、パソコンでのゲームソフト制作会社のセクションを担う女性がビルから飛び降り自殺をした。

その原因には様々な憶測が飛び交う。島汐路はその会社のセクションは違ってはいたが隣同士の島・・と言われるセクションであった。

ゲームソフトの制作は完成度の高さと市場のニーズに合わせた時代背景など営業方針にあった納期も重要な課題である。従業員はそれに対して極限まで時間との戦いを強いられる。

汐路はその会社を辞めて田舎に帰ることにした。しかし四国の片田舎にも複雑なパソコンから繋がる人間関係のしがらみが都会での事故とあまりにも関係性が深いことに気が付く。

中学生が女子クラスメートのためにホームページのサイトを立ち上げてあげた。しかしそのおかげで女生徒の身に危険が生じる結果となってしまった。

小さな町の中での事ではあったがそれが複雑に絡み合って結果的には退職した会社の元同僚の手を借りながら事件の解決に向かうことができた。


第21回横溝正史ミステリー大賞受賞作・・という。この手のいわゆる推理小説にしては最初の状況からどこに視点を持っていくのか問題をいくつも抱えていて不明瞭だ。

会社で同僚が自殺したこと、救う手はあったんだろうか私だったら・・大声で「助けてくれ。私はもう限界」って叫んでまわるんですよ。・・それは単なる作家の空事だ

町の女子中学生の事件ではホームページを開設してあげた男子中学生は「とんでもないことになってしまって・・」としょげ返っていた。しかしそれはそのホームページを扱う モノの自己責任だ。「泥棒が窓から侵入したとしても、それは窓を作った大工の責任ではない」大工はここに窓を作ってほしいと言われて作っただけだ。・・もっともな意見だ。


  [No. 247 ]    9月 15日


    集英社e文庫
「偉大なる、しゅららぼん 」・万城目 学
2013年作・1014ページ

日本で一番大きな湖、滋賀県の琵琶湖。この湖にパワースポットとしての島そしてその周辺に生活する民に「湖の民」として奇想天外な力を与えてみると・・


まあ、読んでいて面白かったというただそれだけのことであった。万城目さんの作品はそういえば結構読んでいた。でも段々に新鮮味に欠けてきて読み終わった4作品のうち最低だ。

ストーリーも組み立ても荒っぽさが際立っている。読者層をどこに絞っているかわからないが少なくとも私が時間をかけて読むにしてはお粗末すぎた。

若い人の作品には今回のように体力にものを言わせて頭の中で捏ね繰り回した長編作品を作り上げてさあ、どうだ・・。って感じはいただけない。

電子書籍だから1000ページを超える本も持ち歩く手間は変わりませんが恐らく文庫本だったら3cmを越える厚さになるでしょう。

もっと作家は足で丹念に調べて作品を作っていかないと飽きられてしまう。もうこれからこの人の作品は暫く読む気にならない。


  [No. 246 ]    8月 28日


    新潮web文庫
「秋月記 」・葉室 鱗
2011年作・484ページ

九州、福岡の本藩にたいして属藩ともいえる秋月藩のお家騒動に絡む長編時代小説でした。


間小四郎は幼いころ気が弱く怖いことがあるとすぐに逃げ出す全くの弱虫であった。そんな小四郎には三つ違いの妹がいた。

とある夕暮に、二人して遊びから帰ってきて屋敷のそばまで来たとき突然に犬の唸り声を聞いて小四郎はとっさに妹を放って屋敷の中に逃げ帰ってしまった。

しかし、妹の方は間一髪、通りがかりの武士に助けられて幸いにもかすり傷を負っただけで助かった。でも妹のショックは大きかったようで暫く微熱が続いた。

そのころ当時各地に悪い伝染病がはやり父親も大変心配して多分それは恐れられていた天然痘ではないだろうかと危惧した。

もともと秋月藩には文化に優れた人材が豊富で医学についても著名な医者がいた。天然痘の患者から採取したカサブタを処理することで得られた薬を用いて予防することだった。

このことはヨーロッパでジェンナーが牛に培養させた天然痘予防接種を発表する以前のことであったから相当な博学医者であったと考えられる。

比較的裕福だった小四郎家ではその予防接種を施しておこうと小四郎は受けることにしたが妹は微熱があることを理由にその機会を逃してしまった。

その結果、妹は天然痘に罹災し数か月後に亡くなってしまった。小四郎は自分の弱虫だったことを後悔しもし私が逃げずに妹をかばっていたら亡くすこともなかったのに。

それからの小四郎は人が変わったように剣術に励み、勉学にも励みつらくとも決して逃げることのない人間になろうと自分に誓った。


やがて小四郎は血気はやる青年期に、藩政をつかさどる宮崎織部を追放して秋月藩に明るい未来を取り戻そう・・と同志を集い福岡の本藩にその行状を直訴しようと立ち上がった。

そんなことであったかと福岡本藩から目付け役が来て悪政の根幹宮崎織部を島流し追放、代政官が政務をつかさどった。しかしどうも形としては秋月藩は本藩に乗っ取られた形となった。



宮崎織部は後年流罪を放たれ郷里に戻ることを許されていた。その頃は小四郎も藩の重責を占める位置にまで上り詰めていて政策について自分の信念を貫く政治を全うしていた。

しかしその意見に従うものは少なく次第に小四郎も孤立し窮地に陥ってきていた。小四郎は宮崎織部と接見し、当時の自身の若気の至りで宮崎を追放したことを詫びた。

宮崎織部はそんなことは最初から分かっていたことだ、お前らの不穏な動きは知っての上だ・・と「政事を行うとは、そう言うことだ。捨て石になる者がおらねば何も動かぬ。後はお前らの仕事だ」

と言うと織部はニヤリと笑った。「つまるところ、わしはお前らに藩の立て直しを押し付けることにした。お前らは貧乏くじを引いた、ということだ」


あー、久々に何と痛快な男の作品なんだろう。振り返って自分の人生を顧みたとき果たして宮崎織部のような広い見識の中に自分を置くことができるだろうか・・はずかしい・・。


  [No. 245 ]    8月 22日


    新潮web文庫
「グッモーエビアン! 」・吉川トリコ
2006年作・325ページ

「よお、おれのきゃわいいイタチちゃん」校門を出たところで、なにやらワイルドな人が待ちかまえていた。

目を疑った。ヤグだった。「その呼び方やめてって言ったでしょ」

私はヤグから目をそらし、そのまま足を止めずに帰宅路を進んでいく。どうしようかと思った。・・・

全く悪びれた様子もなくヤグが笑った。・・泥だらけのコンパース、背中には大きなバックバック。一年と半年ぶりに見るヤグだった。

私の母親は広瀬あき、19歳の時私を身ごもった。でもそんなことを知っての上で当時16歳だった矢口はあきに結婚してくれとせがんだ。

あれから15年、元パンクスであり自称「永遠の24歳」と言うあきと元ロックバンドのヤグ、そしてもう中学三年生のはつきとの奇妙な家族関係が続いた。

一年半前、「おれ、オーストラリアにいってくるわ・・」と言ったまま出かけてしまったヤグが「ただいま!おれの仔猫ちゃん!」と帰ってきた。

ヤグはこの間まで私の父親だった人だ。正確にいうと、ヤグが私の父親であったことは一度もない。血のつながりもなければ、戸籍の上でも他人、勝手に勘違いしていただけだ。

こんな家族のルールは「おもしろければいーじゃん」と言うものだった。・・・・



夏休みの高原の木陰で読み始めたが・・・ちょっとついていけないかな、と思いながらもついついその先のことなど心配になって読んでしまった。

まあ、取りあえず少しジンとする結末とハッピーエンドで終わったことに胸をなでおろした。しかしこの先にこそ波乱万丈は待ちかまえているのだ。

兎角どういう形で有れ結婚することがハッピーエンドだなんてまだ幼稚な作文の設定だ、この作家の履歴を見たらR-18文学賞最優秀賞受賞とある。

女性の審査による女性新人文学賞・・、あれれ、またひっかかっちゃった。


  [No. 244 ]    8月 13日


    文春web文庫
「カバン屋の相続 」・池井戸潤
2011年作・284ページ

久しぶりの短編集を読んだ。著者の池井戸潤さんの作品は初めて読んだ、そういえばこの方の作品タイトルは幾度か目にしたような気がしていた。


「十年目のクリスマス」銀行の融資係をしていた永島は以前個人経営の会社から融資の相談を受けていた。しかしその会社に融資すると焦げ付く心配があったので融資は断った。

当然その会社は倒産し、運悪く火災にもあったようでもはや手のつくしようもなかった。それから10年ほどして永島は妻とデパートで買い物をしていたとき偶然その時の社長と

すれ違った。すっかり立ち直って以前より素晴らしい暮らし向きの様であった・・・


「セールストーク」信用金庫の融資掛りの印刷会社担当の江藤と課長の北村は融資見送りの決定を社長に告げた。この決定は社長にとっては死刑判決に等しい、しかし信金の

上部からの決定を覆すわけにはいかなかった。常々、江藤は融資のギリギリのところで発する上司である北村の言葉・・「わが社がご融資できない時にはどこの銀行も貸せま

せん・・」と、今までギリギリの付き合いだったことを強調する。ところがその印刷会社はどこで金を借りたのか一発逆転生き残った。しかしその出所を探っていた江藤と北村は

愕然とした・・・


「手形の行方」堀田は集金が終わって戻ってきて急に慌てだした。集金してきたうちの中の1千万円の手形が見つからない、行員全員で手分けをし堀田の今日の行動を調べたが

どうにもさっちも行かなくなった。堀田は妻もいたがなぜか信金内では比較的女子行員に人気もあってチヤホヤされることもあった。上司は堀田の行動の中で同じ職場の女子行員

西原と喫茶店でお茶を飲んでいたことがわかった。堀田が電話のため席を立った隙に西原が彼を困らせようとカバンから小切手を引き抜いていた・・・


「芥のごとく」「妻の元カレ」・・・。


「カバン屋の相続」手堅い仕事で人気のあった松田かばんであったが社長は肺がんのため亡くなった。元々長男はオヤジのカバン屋など経営自体の体質などを理由に見向きも

せず一流銀行に勤めいつも見下していた。次男は性格も仕事ぶりも父親似であったが兎に角そこで作るカバンは丈夫で質がよく多少高くはあったが人気があった。

しかし父親の死後遺産相続書が出てきて会社の株すべてを長男に継がせると言う遺言書が出てきた。次男はやむなく別の場所を借りて松田屋というカバン屋を始めることに

なった。以前からの職人は30名ほどいたがそのうちの15名は次男と一緒に働きたいと退職すると言う。長男は今までの取引のあった池上信用金庫に職人などの退職金など

1億円の融資を求めてきた。担当の小倉太郎はそれは無理だと断りを入れた・・・



「カバン・・」は以前にどこかで読んだことがありそうだった・・・と思っていたら実話にあった。京都の老舗ブランドであった一澤帆布の商標権相続などの問題であった。

兎角相続をめぐり兄弟仲良く盛り立ててきたのにいざ相続の段になってもめることがどこの世にも多々ある。しかしこちらの方がどちらかと言うと実話よりもドロドロとして

面白さとしては格が上でしょう。


  [No. 243 ]    8月 10日


    文春web文庫
「蒼煌 」・黒川博行
2004年作・520ページ

まだ残暑の残る9月4日、京都府加美市磯崎の臨界石油コンビナート地帯で液化天然ガス基地で火災が発生した。

隣接する石油化学工場のプラントが爆発炎上しその施設火災がガス基地に引火しタンク1基が爆発炎上、その結果施設作業員が1名死亡12名が火傷などの重軽傷を負った。

合同捜査本部は事故調査委員会を設置しその引火した原因などにつき調べを始めた。


事故調の調べが進むにしたがって化学工場の設置に関して加美市長が賄賂を受け取ったうえで危険性のある工場の設立要件を認めていたことが判明した。

しかしその資金の流れは実に巧妙で美術品のやり取りをすることによっていわゆるマネーロンダリング・・資金浄化が行われた形跡が濃厚になって来た。


一方、日本芸術院会員は毎年、9月には定員の補充選挙が行われ第一部の第1分科では日本画、洋画、工芸・・と言うように第16分科の演劇に至るまで大変な選挙活動が展開されていた。

芸術院会員になれば終身でその地位は保障され死亡など欠員が出て初めて会員候補者の推薦をもって会員同士の選挙によって決まるのである。

元々会員数限定は文化庁・・つまり役所が枠を設けて人選に関しては芸術院会員相互の選挙に委託することによって成り立ってきた。

この選挙、実は従来の地方選挙もびっくりするほどの高額金銭が飛び交う金権選挙なのです。

若いころ画家を目指して九州の地方から日本画壇の中枢、京都に根を下ろし作家活動をしてきた室生晃人71歳は自分の派閥、そして環境が整ったことにより自分の師匠や先輩など の支援を受けて会員の選挙推薦を受けるところまできた。

しかしライバルと目される画家はそのほかにもいて室生は水面下ギリギリの位置とみなされていた。室生を支持する京都老舗画商たちは彼の作品を扱うことで今後より多額の商品 に接することができる。

画家は会派を作って自分の会派を応援する、いずれは自分もその立場になるためには必要な工作だ。画商たちはそこに金銭の動きのあることを利用して今までの知恵を画家に授ける。

更にはその金銭の流れを不思議な形で「有る無し」に変えてしまう美術品に目を付けた政治資金・・これらが混然としてこの大スペクタクルは展開するのでした。



私は40年以上前に洋画関係の美術団体に所属していました。自分の目指す絵の道を受け入れてくれる会派に一生懸命に喰らいついて作品を制作し出品し何とか評価を得たいと 夢中でした。

その会派には私の師と仰ぐ方もいてよく面倒を見てくれました、大変うれしく制作にも励みました。幾度か入選を果たし賞もいただきそして遂に念願の準会員に推薦されました。

今まで好きな絵を好きなだけ描くことに専念していましたが会派に所属すると言うことの意味が次第に見えてくるのです。その先にはおぼろげながらも霞の中にドロドロとした 金権選挙に繋がる行為を見ないわけにはいかなくなるのです。

本来、すぐれた作品とはそういった会派を越えて美術人として良い仕事には高い評価をしそれを政府が受けて芸術院会員にし、さらには功労賞、そして文化勲章にと発展していくのが 正しい姿ではないでしょうか。

この作品を書いた黒川さんは京都市立芸大を卒業された文学界にとっては異色作家です。彼でなくては描けない美術界のドロドロをシッカリ描写して問題意識を現してくれました。

私たちは今はっきりとこれに応えるべきです。すぐれた作品は肩書ではない!、そして会派などに左右されず垣根を越えて優れたものを称賛できる純粋な眼を養わなくてはいけません。

ああ、駄目だ!。それよりも先ず自分で渾身込めた秀作を作れなくてはそんなたわごとも言う資格はありませんが・・。


  [No. 242 ]    7月 28日


    講談社e文庫
「地下鉄に乗って 」・浅田次郎
1994年作・574ページ

・・・地下鉄が開業したその日、たまたま妾宅から戻って来た父は、ひどく不機嫌だった。

東京に二本しか走っていなかった地下鉄のうちの一つが、新宿から青梅街道の下を一直線に延伸されてきたのだ。

そんな家庭のことを真次はこれを開業する記念の日と重ね合わせて幼いころの記憶として克明に覚えていた気がする。

大きな家には真次と長男の昭一、弟の圭三の三兄弟、祖父母、両親の七人の他幾人かの使用人らとともに暮らしていた。

真次の家庭は比較的裕福であったがそれは経済的なことだけであって実情は家庭と言う愛に満ちた住まいとはおよそかけ離れていた。


四半世紀ぶりに初めて参加したクラス会の帰途、小沼真次は永田町駅のホームでそんなことを思い出した。

少し飲みすぎた、もともと酒の強い達ではないが、ホテルの立食パーティーで旧友たちに勧められるまま、つい度を過ごした。

たまたま電車は事故のため遅れて暫くすると恩師の野平先生がホームに表れた・・「やあ、小沼君は二次会には行かなかったのかい・・」

こんな会話ののち、野平先生は「そういえば彼方のお兄さんがお亡くなりになったのは確かこの地下鉄だったよね・・」

そんなこともあったある日、真次はいつものように地下鉄の階段を昇って眩いばかりの地上に出た。

しかし、そこに見た風景はいつもの場所であることに変わりはないものの時代が・・・、時代が全く違っていたのだ。銀座通りは全くの戦後の焼け野原であった。

そして以来、真次は地下鉄の階段を昇るたび父親の少年時代や兄弟のまだ幼かった頃の時代にさかのぼると言う経験をするのであった。



この作品は数奇な人生を歩んできた浅田さん自身の家族の記憶や育った環境を真次と言う人物を通して時空を超えた体験的記述として作品にした・・と思われる。

作家としてのデビューは40代前半、43歳の時第16回吉川英治文学新人賞の記念すべき受賞作品でありました。以来多くの作品を書き続け受賞を重ねる人気作家となりました。


  [No. 241 ]    7月 11日


    講談社e文庫
「チルドレン 」・伊坂幸太郎
2004年作・577ページ

「バンク」「チルドレン」「レトリーバー」「チルドレンU」「イン」それぞれは短編集の様ではあるが登場人物や短編ごとのつながりから長編小説といった趣がある。


陣内と鴨居は学生時代からの先輩後輩の仲、多少強引なところのある陣内に対して思慮深く多少引っ込み思案の鴨居とは傍から見ると名コンビの様である。

銀行閉店間際だと言うのに陣内は振り込まれたばかりのアルバイト代を授業料支払いのために引き出したい・・そんなところに付き合わされたおかげで飛んだとばっちりに合された。

「客がきたのにシャッターを降ろすとはどういうことだよ」と陣内はいきり立っていた。実は少し前に銀行強盗が押し入って店員はその指図に従っていただけのことである。

幸いにも強盗一味は狂暴そうでもなく大人しくしてさえいれば人質の行員や客などには手出しはしなかった。

陣内はそれをいいことに歌を歌ったり悪態をついたり鴨居は見ていてハラハラの連続だった。

人質は行員を含め10名足らず、しかしこういった窮地に遭遇した者同士連帯感などもあり同じ年頃の永瀬という青年とも知り合いになった。

永瀬は生まれながらにして目の見えない青年であった。人質が解放されたとき永瀬の足元にはそれまで気も付かなかったように盲導犬がオトナシクひざまついていた。

永瀬は見えない目で犯人たちの行動を分析し「恐らく犯人と銀行員は共謀しているんじゃないか・・?」と推察し皆を驚かせた。・・


学校を卒業し、陣内はこともあろうに家庭裁判所に勤め調査官の仕事を始めた。こともあろうに鴨居もその道に進むことになって少年の調査官など長い付き合いとなる。



5編の作品はやはりそれぞれが独立した作品として扱った方がよかったんではないだろうか。登場人物を少し無理して結び付けてしまったためその段取りや偶然性に違和感を覚える。

シッカリした作品の組み立てなど読みごたえがあり面白く読み終えた。


  [No. 240 ]    6月 19日


    新潮社
「溶けたらしぼんだ 」・木爾チレン
2010年作・68ページ

読もうとする本を選ぶ・・本屋で立ち読みをして「うん、この本を買って、早く家に帰って続きを読んでみたい・・」という本はあまり間違いはありません。

取りあえず手っ取り早くネットの一覧から・・・受賞作、とか・・大賞とかで選んでみると今回のような失敗もあるものです。

第9回 R-18 文学賞 優秀賞・・・、あとでこれは何だ?と思ってその賞を調べてみた。新潮社が主催した公募新人文学賞だという。

更に、応募者は女性に限られ、主旨も女性ならではの感性を生かした小説…とのことで審査員も女性に限られているという。



主人公の栞は高校からの親友ゆかりと部屋を借りて同居している。ゆかりはアイスクリーム工場で働いているが栞は芸術大学に通って絵を描いている。

自分の才能に限界を感じ始めていた時教官からテーマを受ける「きれいな女の人」を描くこと。しかし栞の作品は「愛がない・・」と酷評される。

一方、同級生の木山透は栞が見ても素晴らしい作品を制作しているそしてこんな感性の持ち主と結ばれてみたいとおもいだす。学園の美術室ではこれ以上満たされない・・・。

二人はタクシーを呼んで透のアパートに行くそして・・・。「あ〜、もう溶ける・・」木内透はあたしの中からおちんちんをすばやく抜いた。・・



なんと表現力のない文章、おむつのとれたばかりの子供が寝小便をしたくらいの作文でしかありえない。溶けたらしぼんだ・・・?、これは表現ではない、ネションベンの作文だ。

そして芸大での画題が「きれいな女・・」だの教官の「愛がない・・」などのコメントは傍から聞いていても恥ずかしくなる程度の低さに呆れてしまう。

芸大生を題材にするんだったら責めてそれくらいに近い感性をもって扱わないと芸大生や教官は皆バカみたいに見えてしまう。

時々、よくタクシーを使うシーンが登場する。そんな裕福で体力のない学生なんかもうすでに老人じゃないのか?、いや、作家・・じゃなくて作者がもう老化しているんだと思う。

ああ、文学の薫り高い作品が読みたくなった・・・。反面教師の題材として優れている。


  [No. 239 ]    6月 15日


    (M&H)マガジンハウス
「がんばっていきまっしょい 」・敷村良子
1996年作・122ページ

体育の教官室はグランドの横にあった。古い木造で階段を昇るときギシギシと音がする。

悦子は教官室の戸を開けるとむっとする汗の匂いが鼻をついた。「女子ボート部、作りたいんです」

クマというあだ名の顧問の先生はキョトンとしていた。「どうしたんぞ、お前。まあ落ち着けや。何年何組の誰ぞ」

「1年6組の藤村悦子です」



作者の敷島良子さんが松山東高に入学した1977年ころ、この学校は創立100周年という節目の時期であった。

男子ボート部はあったものの女子ボート部はなく主人公の藤村悦子の名を借りてその女子部創立に奔走した実話を小説に仕立てた作品であった。

女子ボートは漕ぎ手4名とコックスと言う全員の息を合わせるいわば音頭取りの役を担う舵取りの5名で編成される。このコックスをどうやら作者の敷島さんがやっていたようである。

サッカーのチームでもキャプテンの他に戦術を効率的に進めるいわゆる司令塔となる人物も必要である。ここでの司令塔、コックスは皆の負担にならないよう自身の減量にも気を使い、 そして各人の技量をよく把握してチームをボートと一体とさせなくては勝てないのである。


夏目漱石は松山中学の教師として赴任したがなじめない風習や意味不明な方言に悩みながらもそこに大きな愛情をはぐくんでいったいきさつが伺われました。それを小説にした 「坊ちゃん」の作品が生まれたことは周知のとおりでした。

この作品は奇しくもその名をいただいた「坊ちゃん文学大賞」に輝いたと言います。坊ちゃんの悩んだ松山の方言も女性作家の手を経て私たちにやさしく響いてくるのです。

一見、青春スポーツ根性ものの本に思えるが幾つになってもその若き血潮は燃えてなお爽快であった。


  [No. 238 ]    6月 10日


    (P&L)パブリッシングリンク
「注文の多いお葬式 」・イイノヨシカズ
2009年作・89ページ

松原満夫、仕事一筋に人生を歩んできたが最終章の役員人事ダービーで敗退し本部長止まりで定年退職を迎えた。

同時に妻、久美からは離婚したいと申し入れられた。どうやらもうすでにフリーライターだと言う寺田という男とできていて直ぐにも彼方とは別れたい・・と言って家を出てしまった。

松原としてはまだ久美に対して未練もあったがこうなったら開き直るしかない、と決意する。

しかしひなが時間を持て余し何もやる気力もなかったとき娘の理沙が訪ねてきた。彼女は外資系の会社に勤めるものの気持ちまで外国人かぶれしてしまっていて情緒欠如型だ。

ある日、理沙は松原が漠然と考えていた生前葬のことを知ると盛んに父親にそれを進めた。「何故って・・、私としては父と母がこれを機会に元のさやに納まってほしいから・・」

松原は理沙に勧められたことで更にそれを実現しようと以前部下だった中田が起業したナカタ葬祭センターを訪ねて事の次第と段取りを相談する。

しかし、どの段階でも失敗の連続で・・・



ちょっとしたドタバタ喜劇の趣の作品である。梅雨のじめじめした間合いを埋めるには気楽な娯楽性があって心も和んだ。


  [No. 237 ]    6月  5日


    講談社e文庫
「運転士 」・藤原智美
1992年作・351ページ

シッ、ハッ、シッ、ハッ、シッ、ハッ、・・・・・。


彼は帽子をとり、髪を後ろにかき上げる。柔らかな髪、ツルンとした肌はまるで少年のようだ。二十五歳。運転歴一年。

発車合図がきた。計器パネルの信号灯は青になっている。しかし、すでに定時を六十秒ほど超過。<六十秒かあ、けっこうキツイな>

彼はすばやくハンドルを引く。電車が軽くなったおかげで加速反応がいい。トンネルの壁の左手にあるPマークの標識が見えると同時に、彼はグングンとスピードを上げる。

制限時速の七十五キロまでいっきに。しかし、それを一キロたりとも超えないように神経を集中させる。彼は制限速度に対して、ことのほか神経質だ。

<もしも制限速度をオーバーし、自動制動装置が働いて、勝手に急ブレーキなんかかけられてはたまらない。そんなことになったら、きっと死にたくなる>

・・・・・電車が止まった。停止位置と五センチの狂いもない停止。・・・<パーフェクト>



無線仲間とたまたま話題が電車のことになって「俺なんか、決してテッチャンじゃないけどさー、運転台の後ろにいて前方の景色を見るのと同時に信号や、運転パネルの表示、そして 運転士の指差呼称と操作を見ているのが結構おもしろくてさー・・」

「それって、十分テッチャンだよ・・」などとからかわれることがあった。私は単に子供とおんなじ興味本位だけだと感じていたのだが・・・

スキー場で毎週顔を合わせるボーダーの方がいる。もう十数年来のお付き合いですから当初はまだ二十五歳くらいだったでしょうか、東海道電車の運転手さんでした。

こんなひ弱そうな彼の指先ひとつで何百人もの乗客を乗せて十六両編成の長い電車を走らせているなんて羨ましくも感じられたことがありました。

「今度駅のホームで見つけたとき乗り込んで後ろから観たいな〜」「ジョーダンじゃないですよ!、直ぐにカーテン下ろしちゃいますから・・」



この作品は明るいハッピーエンドの話ではありません、しかも彼の勤務地は「地下鉄」、闇の中を信号を頼りに電車を走らせてたどり着いた駅、しだいに彼自身が無機質化していく 気分が藤原さんの手によって恐ろしいシュールの世界観へと移行していきます。

読売新聞のコラム欄でお名前とコラムはよく読んでいました。「チョット、あんた神経質すぎないかい・・」と思ったことは数知れません。そうか、こういう作品を得意としていたのか。


  [No. 236 ]    5月 22日


    文春web文庫
「散歩が仕事 」・早川良一郎
1974年作・188ページ

54編にも及ぶエッセイ集、第一編に「邪魔者」


・・・友人は勤め先は違っていたけれど私と同年配であい前後して定年退職したのである・・・。

・・・そして友人は定年を待っていたようなところがあって「やっと解放される、余生を楽しまなくては、いままでの生活って何だったんだろう・・・」

「みんな仏頂面をしている。楽しそうな顔をしているのは一人もいないじゃないですか」

そういわれてみればその通りである。日々の通勤でサラリーマン顔が形成されるんだろうか。・・・友人の言葉には、体験は語る、といった切実さがあった。

それから定年になって半年もたっただろうか。道で会う友人は元気がない。「毎日が退屈ですな」

「だって、あなたの家は大家族だ。一家団欒したら退屈もないでしょう」「いやあ、毎日ぶらぶらしていると女房、子供がバカにしますよ」

なんか、株式会社に汚染されてしまった人間と話をしているようで面白くないから、早々に退散して我が家に戻った。そしたら

「あら、もう帰ってきたんですか」私の奥さんが邪魔者が帰ってきたような表情で私をながめた。



早川さんはもう20年前にこの世を去っています。しかしこのエッセーを読んでいるとついこの間定年退職し自由人になられたかと思われるほど新鮮な文章に驚きました。

60歳で定年退職し、72歳でご逝去されていますが言葉の端はしに充実した12年間の想いが凝縮されている思いがしました。早川さんも文中”定年退職とは、サラリーマンの 文化勲章のようなものだと思っている。しかしどうも私一人で思っているようである。”と言っています。

実は私、この春定年10周年を迎えました。そしてしかも早川さんのご逝去された年齢と同じ時を今越えようとしています。私は退職時、つまり麓から眺めた10周年の山頂はきわめて 高くやりがいのありそうな”10周年山頂”に感じていました。

しかしそこに至ってみるとさほど高くもなくしかもそこからしか見えない背後には更にそびえる偉大な峰々を仰ぎ見て圧倒されているのが現実です。

人生は多分有限だろうとおもうのです。そのとき、「もう終わってしまったか・・」と感じるか「やっと終わってくれたか・・」


  [No. 235 ]    5月 15日


    文春web文庫
「その日まで 」(紅雲町珈琲屋こよみ)・吉永南央
2011年作・415ページ

群馬県前橋市に紅雲町という地名がある。国道17号と50号が交じ合う付近である、大都市の中にあって昔ながらの趣と落ち着きのある一帯でしょうか。



父の代から続く雑貨屋であったがその娘、お草は訳あって実家に戻ってその雑貨屋を継ぐことになった。しかし父親のやり方では先も見えていた。

その父もまもなく他界し、お草は自分なりのお店にする決意をしコーヒー豆を売りながら和食器も扱う店「小蔵屋」を開いていた。すでにお草は70歳をとうに過ぎていた。

コーヒー豆はお店で試飲もできるとあって落ち着いた街の中にあってサロン的要素もありそれなりに繁盛していた。それもお草とそれを助ける久実の人柄もあってのことだ。

そんな平穏な街にあって突然にすぐ近所につづらという雑貨専門店が開店するという。そこは以前、人気の和菓子屋があったお店だったが金持ちの娘が強引に買い取って店にしたらしい。

雑貨専門店とはいえ完全なる商売仇となる上その商売の手口もこの落ち着いた街にそぐわない利益至上主義が目に見えている。これはなんとかしなくてはならない。

しかも以前の和菓子屋のお店の買取の手口の裏にどうやら街の中に古くからのさばっている金貸しと不動産の取引屋が暗躍しているらしい。

そんな情景の中に知的で小粋なお草が問題の解決に走り回るのが憎たらしいほど可愛く見えてくる。


  [No. 234 ]    5月 10日


    文春web文庫
「空中庭園 」・角田光代
2005年作・485ページ

街の郊外にある大きな団地、其のうちの一棟の5階に家族は暮らす。ベランダには妻の絵理子がミニ花壇を作って和ませる。外から見るといかにも平和な家族がそこに暮らしていそうな 雰囲気が宿る。

「ラブリーホーム」で娘の想いを、「チョロQ」は父親のこと、「空中庭園」では妻のこと、「キルト」では妻絵理子の母のこと、「鍵つきドア」では父の愛人のこと、「光の、闇の」 では息子の想いをそれぞれの視点から家族を見る。



我が家のモットーは何事もつつみかくさず・・。娘のマナはクラスメイトの話を聞いて興奮して家に帰ってくるなり父母に聞く「ねえねえ、私ってパパとママはどこで私を仕込んだの・・?」

「ああ、そうだったね、マナ、あんたは郊外にあるラブホテルの”野猿”ってあるでしょ、あそこでよ」「げっ、もっとロマンティックなところじゃなかったんだ・・さいてーだよ」

そんなわけなので娘のマナの生理が始まった時には盛大なお祝いもしたり、弟のコウが夢精したときも大人になった記念だと言って大騒ぎまでした。

つまりは何事もつつみかくさずを守り、そして家族はそのことにより安心して暮らしていけるのだ・・・。


三奈は父親の愛人なのである。そしてコウの家庭教師でもある。彼女から見たこの家庭は実に不思議な家族の集まりに見えた。

なんなのこいつらは全員珍妙でへんでおかしなくせになんでこうして集まるとふつうの顔をするの。これがごくごくふつうの日常でぼくらはごくごくふつうの家族ですって顔を して暮らしている。



郊外の団地のベランダに植えられた美しい花々・・・、実はそのガラス戸の中も綺麗に躾けられた家族・・・・全てが空中庭園。


  [No. 233 ]    4月 25日


    河出書房e
「昨夜のカレー、明日のパン 」・木皿 泉
2013年作・366ページ

一樹は本を読み終えてしまおうと思ってた矢先母親から買い物を言いつけられた。「明日のパン買ってきて」

玄関を開けると雨が降っていた。自分の傘は見当たらないので母親の水玉模様を傘立てから抜いて家を出た。

いつものパンを買って急いで帰ろうとすると後ろから水をはねる音と共に走ってきた女の子がいきなり飛び込んできた。「いれてください」

一樹が驚いていると女の子も驚いた様子だった。傘の柄が婦人物だったので女の人と思い込んでいたのだろう。でも人懐っこい顔でニッと笑ってみせた。

女の子はよく見ると子犬を抱いて寄り添って歩いているとかすかにカレーの匂いがした。「今日のお昼、カレーだったの?」「夕べのカレー」と歌うように言った。

「その犬、なんて名前?」「まだ決めてない」「ふーん、そーなんだ」「お兄ちゃんが持っているのは、なんて名前?」「明日のパン」

「私、こっちだから」と雨の中に飛び出そうとした。そしてこちらを向いて「この犬、パンって名前にしていい?」


一樹は大人になってまだ若かったがテツコさんと結婚した。父親は天気予報士をしていたが母親は早くに亡くなってしまった。こともあろうに一樹も早世してしまった。

従ってこの家には義父とテツコの二人で住むこととなってしまったがお互いはそんなことにはあまり頓着せず茫茫と暮らすこととなった。

そんな二人に纒わる人間関係を真面目にそしてコミカルに8篇の短編形式で捉えている。



木皿泉・・なんて聞いたことのない作家さんだと思ったら脚本家のご夫婦が共同執筆しているペンネームだと知った。道理で作品自体が何かのラジオドラマでも聞いているように軽快で テンポもよく物語に張りがある。漫画家でも共作なんてあるくらいだからこんなこともアリの世界なんだ。


  [No. 232 ]    4月 18日


    角川e文庫
「本日は大安なり 」・辻村深月
2014年作・759ページ

ウェディングプランナー、山井多香子はいろんなタイプの訳あり結婚式をサポートする仕事についている。

その中でも非常に苦労してプランを提供した5つの組みを家族ともどもをくるめて小説に仕立てていた。



辻村さんの作品は昨年「島はぼくらと」でお会いして以来でした。

主人公が島で生活する人々の将来的プランを示すことによってお互いに成長する・・といった内容でしたが今回の作品も違った観点から結婚式のプランナーとして登場する。

この作品では5組の異なった結婚式をプランしその苦闘を作品に仕立てています。

残念ながら前作の「島は・・」とは比較して主人公の奮闘という点では同一かもしれませんが取り組む視点の違いから迫力にかける気がしました。

5組の結婚式はそれぞれが短編作品というきらいがしますがまとめて娯楽性を追求した作品になってしまった。

加えて私自身がこの作品を読む時間的余裕がかなり細切れになってしまった点お詫びしなくてはなりません。

大まか再読する気は失せました。


  [No. 231 ]    3月 14日


    講談社文庫
「疾き雲のごとく 」・伊東 潤
2008年作・423ページ

久しぶりに時代劇の作品に遭遇しました。六編の作品を載せていますが宗瑞(北条早雲)と言う武将が度々登場しこの人の生涯を通じての時代背景が見えてくる。

「道灌謀殺」「守護家の馬丁」「修善寺の菩薩」「箱根山の守護神」「希なる人」「かわらけ」です。

いきなり第一編で私たち馴染みの大田道灌が暗殺されて少しショックではありますがすべての舞台は関東平野、三浦、伊豆、箱根、駿河・・となじみの深い名の旧地名で登場するのも 親しみを持って読むことができました。

伊東潤さんは50歳寸前までIT業界にお勤めされていましたが2008年に作家デビューを果たした遅咲きの方でした。

この作品でも多くの登場人物、しかもその幼名から俗名、そして私たちが一般に知り得る歴史上の人物を克明に調べて作品にしているあたり相当な探求的知識人と思われました。

ここに登場する地域は関東南部が主体ですが伊東さん・・恐らくご先祖のご出身はこの関東南部でしょう。

神奈川県横浜市とありますが郷土の歴史に興味を持ちそして趣味が高じてついにそれを作品にまで仕立て上げたことに敬意を評したいと思います。



最後の「かわらけ」では三浦家に焼き討ちにあって殺された住職の倅であった妙憲は伊勢宗瑞(後の北条早雲)に拾われて陣僧となって戦いのそばで弔いをしていた。

宗瑞が三浦追討で籠城の説得使者として妙憲は三浦の城に入った。三浦家重臣の道寸は妙憲を一目見て寺を焼き住職を殺した時のせがれだと分かった。

すでに城主、義意は退路を立たれここで没する覚悟を決めていて妙憲の説得は失敗に終わる。やがて宗瑞に責め立てられて三浦家は滅亡する。



この作品は1516年、三浦義意の死後相模の国は一時平穏になるもののその後日本は戦国時代に突入するのであった。義意は討ち取られる最期に若い武将に告げたという。

「よき世を作られよ・・」・・と。


  [No. 230 ]    3月  5日


    幻冬舎文庫
「昭和の犬 」・姫野カオルコ
2013年作・435ページ

滋賀県の香良市、柏木イクはまだ5歳であったがそれまでは親戚の家を転々として育てられていた。

父親は柏木鼎(かなえ)大きくがっしりした躯体の少し偏屈な男であった。その偏屈さはシベリアに抑留された過酷な生活の中からそうなったのであろうと思われていた。

母、柏木優子はこの5年間、鼎とは別居して暮らしていたが山奥にとりあえずの住まいが見つかったということで家族3人がひとつ屋根の下に住めるようになった。

イクはそんな中で育っていくが常に家には猫と犬がいて多感なイクの心の支えになっていた。

その犬たちも何代かのなかにイクと心を通わせる犬もいればあまり懐かない犬もいた。しかしいつも気の荒い犬であっても父親の鼎は自分の家の犬以外にも服従させる不思議な 力があった。

イクは高校を卒業したとき親から離れて暮らす決意をして東京の大学に入る。そして就職もわざわざ滋賀県の教師試験に合格したにもかかわらず東京の清掃会社に決めた。

しかし、一人住まいの生活ではあったがイクにはどんな犬でも手懐ける術があってそれによって飼い主とのほのぼのした付き合いに心を和ませていた。

父が亡くなり、そして母も不治の病になりイクも次第に体調の変化を知る時期になってきた。



この本を読み始めたとき大変読みにくくつまらないと思っていた。その要因は恐らく滋賀県の方言が意味難解というほどではないが言葉としてしっくりこなかったからでしょう。

しかし、言葉って不思議ですね。次第にその意味がわかってくる気がして話し言葉が表現の重要な要素であることを強く感じるのです。

しかし私にとってもっとも難解なのはイクと言う少女が大人になっていく過程で自分の幸せの目標がなにであってどう生きていきたいかのメッセージがイメージされない。

世の中の若者のに象徴されている流れ・・みたいな虚しさを感じさせるのはなんだろう・・・。


  [No. 229 ]    2月 20日


    青空文庫
「二十世紀旗手 」・太宰 治
1937年作・ 65ページ

生まれて、すみません。


私が客間のまえの廊下とおったときに、「いまから、あんなにできるのは、中学、大学へはいってから急に成績落ちるものゆえ、あまり褒めないほうがよろしい」

など、すぐ上の兄のふんべつ臭き言葉、ちらと小耳にはさんで、おのれ!親兄弟みんなたばになって、七ツのおれをいじめている。


ーーーお葉書、拝見いたしましたが、ぼくの原稿、どうしても、ーーーだめですか?

ーーーええ。だめですねえ。これほかの人書いてくださった原稿ですが、こんなのがいいのです。リアルに、統計的に、とにかく、あなたの原稿、もういちど、読んでみて下さい。

そうして、考えて下さい。

ーーーぼく、もとから、へたな作家なんだ。くやし泣きに、泣いて書くより他に、てを知らなかった。

ーーー失恋自殺は、どうなりました。

ーーー電車賃かして下さい。

ーーー

ーーーあてにして来たので、一銭もないのです。



こんな不可解なこの人の作品を読んでしまって途方にくれています。やっぱりこの人は本当のキチガイだったのかもしれません。

冒頭の「生まれてすみません」・・・だって、さてどんな展開になるんだろう。あの人が二十世紀に向けてどんな豊富があってそしてどんな挫折を味わったのかそんな期待は無し。




  [No. 228 ]    2月 15日


    講談社e文庫
「恋歌 」・浅井まかて
2013年作・ 648ページ

女流作家の花圃は女中に子供たちの動向を訪ねた。「なんですか・・旦那様が送ってこられた玩具でベエスボウルとかでみなさんお庭で遊んでおいでです・・」

花圃は多くの名家の令嬢たちの嗜みを身に付けるために入門した萩の舎を主催する当代随一の歌人、中島歌子の門弟になった後小説を書くようになり世に認められ出版・結婚・出産 などあって師として仰ぐ中島歌子とはしばらく疎遠になっていた。

そんな折、同じ舎に通っていた仲間から歌子先生が入院したと知らせを受けて病院を訪ねた。その時、すっかり弱ってしまった師から書斎の整理をしてくれるように頼まれた。

歌子先生にはもともと身の回りの世話をしてくれる養子として預かっている女性がいたので二人で師の書斎の整理に取り掛かった。

すると・・どっさりの師、自らしたためた自叙伝的な書物の束が見つかった。


登世は17歳じぶんにはよく母に連れられて浅草の市村座などで当時人気の上方役者のお嬢吉三などの芝居見物に連れてこられた。それは芝居見物という名のいわばお見合いの席で あり、向かいの枡席にはお目当てのどこぞの倅がいて芝居を見ながらお互いの品定めをするという塩梅だった。

登世の家はかなり大きな宿を経営していて池田屋はつまり水戸藩士の江戸詰には贔屓にしてもらっていてかなり繁盛していた。娘の登世はそんな生活の中から憧れの人・・として武士の 林忠左衛門以徳にこころを寄せていた。ですから見合いの席があっても登世にとってはどんな相手が来てもあくびの対象ですらなかった。

商家の娘が武家の嫁になれるはずもなかったはずであったが何時しか二人は思いを果て結ばれることになった。

登世ははるばる水戸藩まで爺やを伴って嫁いできた。以徳には妹がいて何かと商家の娘として育てられた登世とは確執の違いから対立することが多かった。

幕末、雪の降る桜田門外において井伊大老が殺害された。当時日本国中が外国との折衝について尊王攘夷派と勤王幕府派に意見が分かれ水戸藩士の中も二派に分裂する有様であった。

暗殺の首謀者は水戸藩士・・ということではあったが水戸士に紛れ込んだ薩摩藩士ではないかという噂も流れた。いずれにせよ暗殺に加担した水戸藩士の中での先鋒である天狗党 の弾圧が始まった。

以徳は登世や妹に逃げるよう促したが追っ手の手から逃れる前に捉えられてしまった。そして天狗党に加担した藩士の家族などは牢獄で捉えられて暮らすことになる。

登世は牢獄から出られる機会に恵まれ江戸に逃れてきた。そして時代が移り女手一つで生きていける道を模索した。混乱の中、夫である以徳の行方も人ずてに聞いた、どうやら 捉えられて斬首の刑というむごたらしいことのようであった。

登世は歌人として身を立てることとし、やがて中島歌子と名乗って世に出た。



歌人、中島歌子の弟子であった花圃が師の小説を発見して書類の整理も片付かないままその文章にのめり込んでいくほどに生々しい描写は凄いの一語に尽きる。

そして歌子の過去を現実の弟子がその自叙伝を盗み見るという視点の面白さから小説が大きな舞台と観客を一つにしたような壮大さを感じさせてくれる。実に面白かった。

ハッ!として車の窓から目を転じると、ここ丸沼高原スキー場の駐車場は吹雪の中、車は風に煽られて大きく揺れる現実の中だった・・・。


  [No. 227 ]    2月  3日


    PHP研究e文庫
「利休にたずねよ 」・山本兼一
2010年作・ 815ページ

天正十九年二月二十八日、この時期としては珍しく雷雨を伴った大雨の降る朝、千利休は豊臣秀吉に切腹を命じられてその生涯を終えた。

切腹を命じた二つの理由とはある由緒ある寺の山門の一室に利休の木造が安置してあること。もう一つはガラクタのような物に多額の値段をつけて売りさばいたこと、とある。

もともと利休は秀吉に気に入れられて茶坊主として傍にいて茶の湯の道に多大な影響を与えていた。その利休の審美眼の素晴らしさは秀吉をしてその足元にも及ばないと感じさせていた。

切腹を言い渡した根拠は実にバカバカしいことで秀吉も利休が当然謝って許しを請うてくるものとタカをくくっていた。しかし利休は謝る気配もなく秀吉のイライラは募るばかりであった。

秀吉は利休の持っている素晴らしい持ち物を欲しがり大枚を積むから譲れ・・と再三圧力をかけた。しかし利休はそのたび秀吉を見下すかのように断り続けた。

あるときは利休の大切にしていた灯篭の噂を耳にした秀吉がまたもや譲れ、と申し渡した。利休はその灯篭の笠を叩き欠いて「割れておりますゆえに、献上いたしかねます」とした。


この小説は利休の切腹した日をさかのぼってその前日に秀吉の心中を吐露する。天下統一を果たしそして印度からも副王使節が豪華な贈り物を運んで秀吉の偉業を讃えに来た。

もはや、関白の権威を覆す者はいない。それなのに、あの男、天下にただ一人あのおとこだけがわしを認めようとせぬーーー、許せるものか。許してよいはずがない。

そして時代は更にさかのぼって利休にまつわる話題は19歳の多感なときに知った高麗から連れてこられた女の話にまで及ぶ。


利休の切腹見届け役に来た侍は利休の弟子であることを知った上での秀吉のさしがねであった。説得して一言嘘でもいいから詫びを入れた言葉をもらえたら許してもらえると・・

世界はお前の思い通りにはうごかせない、それを思い知らせてやりたかった。天下を動かしているのは武力と銭金だけではない、美しいものにも力がある・・・と。


  [No. 226 ]    1月 15日


    光文社e文庫
「巨鯨の海 」・伊東 潤
2013年作・ 200ページ

江戸時代から明治にかけて和歌山県・太地地区で盛んに行われていた鯨漁、そこの地域の鯨組を組織して勇猛果敢に小舟を操って35mもある巨鯨を追い漁をする男たちの物語です。

太地は紀伊半島和歌山の最南端、那智勝浦から太地、燈明崎にある僅かな入江は熊野灘から黒潮本流の流れる太平洋に面した鯨漁の盛んな地域であった。

小さな小舟を操って巨鯨に挑む男たちは命懸けの仕事であった、それゆえに幕府の掟もここまでは及ばないほどの地域の掟があってそれを強く守ることによって大きな漁をこなしてきた。


今の若い人には考えられないかもしれませんが私の幼少期から青年期のタンパク源は鯨の肉でした。刺身はもとよりカレーの肉、唐揚げ、立田揚げ・・・ありとあらゆる料理法で 私たちの食を支えてきた鯨肉でした。

その食文化を支えてきた捕鯨漁は近代化され大量に安価に手に入れられるようになった反面、資源的枯渇・・・反捕鯨の矢面の末、漁そのものが廃れつつあります。

六編の作からなる当時の太地で生きる男たちの生き様をそして生死を獲物に託した悲しいまでの話を読むことができました。


  [No. 225 ]    1月  1日


    小学館e文庫
「歩兵の本領 」・大石直紀
2013年作・ 110ページ

江戸時代、将軍家や大名家には台所御用を勤める武士の料理人たちがいた。主君のため刀を包丁に持ちかえて日々の食事をまかなう侍たちに親しみを込めて「包丁侍」と呼んだ。

加賀藩江戸屋敷に12歳から見習い奉公人にあがった春は藩主の側室お貞に可愛がれていた。春の料理に対する腕前は人並みではなかったことが大きな理由であった。

実は春の実家は浅草の有名な料理屋”平善”の末娘であり料理の基本は母親からみっちり仕込まれていた。しかし春が奉公した翌年に大火で家族を失い料理屋も絶えていた。

そんな加賀藩の江戸屋敷はお台所御用役として舟木伝内が勤め上げていてその浅草の平膳のこともよく知っていた。

舟木伝内の国元には二人の息子がいて長男は家督を継いで包丁侍になるべく修行を積み、一方次男の舟木安信は剣の道に進むべくして道場通いに余念がなくその腕を上げていた。

ところが不運にもその長男が流行りの病に倒れ亡くなってしまった。包丁侍の役は剣の道に励む安信に回ってきてしまった。しかし安信は料理に一向に慣れ親しまないでいた。

安信は登城してお台所で芋の皮をむいても何をしてもお目付けから叱られるような無様な日々を過ごすことになっていた。

伝内、これにはほとほと困り果てていたところ「そうだ、春を嫁に迎えて安信を鍛えてもらおう・・」と考えた。そして春を説得し加賀の国の安信の嫁として嫁がせた。



この作品は映画になると言いますが一応のハッピーエンド物語としてお正月に気持ちよく読み終えた。

後にはこのやる気のなかった安信が加賀藩に招いた徳川家をはじめとする諸侯に一世一代の料理を披露し喝采を得る。そして父、伝内も届かなかった御料理頭となって舟木家は加賀藩 最後まで六代にわたり御台所御用をつとめることとなる。

そして伝内と安信は「料理無言抄」など、加賀料理の基礎となる数多くの書物を書き残しその献立は現在の料理のうちにも廃れることなく生きている。国際的にも認められる 和食文化の遺産登録年にふさわしい読書となった。


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