Since 2008/ 5/23 . To the deceased wife
わけがありまして「読後かんそう文」一歩一歩書き留めていきます。
妻の生前、展覧会の鑑賞や陶芸の町を見学したりと共にした楽しかった話題は多くありました。
読書家だった妻とそうでない私は書物や作家、ストーリーについて、話題を共有し語り合ったことはありません。
悲しいかな私は学生時代以来・・半世紀近くも小説や文学作品を読んだことが無かったのです。
妻から進められていた本をパラパラとめくり始めたのをきっかけに・・・
先にある”もっと永い人生・・・”かの地を訪れるとき、共通の話題を手土産にと思って。
<<2010年度・読後感想文索引>>
[No. 106 ] 12月 24日
中央公論社e-Books
「余白の愛 」・小川洋子
2004年作・ 362ページ
e-Books・・・・もうお気づきの事と思いますがどの本にも表紙絵と言うものが有りません。ファイルの目安としてボケたタイトルが存在するだけです。そんな意味で少し
寂しい気持ちもあります。
主人公のわたし・・・(名前はありません・・・つまり不要と言う事でしょうか、あるいは作家、小川洋子のドキュメントとして読んだ方がいいのかもしれません)。
わたしがはじめてYと会ったのは、F耳鼻咽喉科病院の裏手にある古いホテルの小部屋だった。
わたしは耳を病んでF耳鼻咽喉科病院に入院している間、病室の窓から何時もぼんやりとホテルの車寄せを眺めていたことが有った。
病院を退院して二日目に座談会に出席するためにこのホテルを訪れた。主催者の雑誌編集者と向かい側にYが座っていてわたしのほかの座談会に出席した者合わせて
6人の小じんまりした座談会であった。
『健康への扉』の特集記事”私はこうして突発性難聴を克服した”の座談会を始める旨の挨拶の後わたしは最後の順番で自分の体験を話し始めた。
テープレコーダーは回って居たにもかかわらずYは皆の言葉を一言漏らさず速記によって記録しているではないですか。
わたしの体験はYが疲れてはいけないと思って時々ゆっくりしゃべったりしましたがYの指の動きは何時も私の唇の動きに合わせて黙れば手も停まりしゃべれば直ちに動き出した。
わたしはそのYの指があたかも自分の唇の動きに合わせて動くことから次第にある種の感情を抱くようになった。
ある日Yにその指を抱かせてほしいと哀願する、そしてそれは叶うのだが決して現実感が伴わずいつも空虚な胸の上を感じるのみであった。そしてYに尋ねた。
「君は自分の記憶の中に紛れ込んでしまったのさ。本当なら記憶はいつでも、君の後ろ側に積み重なっていくものなんだ。ところがちょっとしたすきに、耳を抜け道にして、
記憶が君を追い越してしまった・・」
「僕たちは離れ離れになってしまうわけじゃないんだよ。だってそうだろ。君は自分の記憶と、離れることなんてできないんだから」
人には様々なセンサーがあって例えば聴覚が病んでいる人はそれを補う他の感覚器官が優れてくると言う事をよく耳にします。音の聞こえない作曲家や、目の見えない
ピアニスト、手の不自由な絵描き・・・、主人公のわたし・・はある日、自分の記憶に追い越されてしまった・・・文学者にありがちなシュールリアリズムの世界にわたしたちを
誘いこんで見たんでしょうか・・・。
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[No. 105 ] 12月 19日
小学館e-Books
「anego 」・林真理子
2007年作・ 755ページ
Sony Reader を購入すると「書籍」の欄には”ユーザーガイド”の他に二冊の小説が入っていましたがいずれも試し読み・・・、イイ所で終わってしまいました。
「クソ!」試し読みならそう最初に断わっておいてくれないと真剣に50ページ余を読んだ後「第二章以降は実際に購入してお読みください・・・」。
購入すると、641円でしかも第十章そして終章に亘る755ページの長編小説を読む羽目になってしまった。
そこそこの大学を出て一流商社の一般職として過ごしてきた野田奈央子はきがつけば30歳を超えていた。同期の子もすでにほとんどいなくなり後輩からは男女の差なく
よく慕われていた。
この商社は給料も良く、奈央子にしてもまだまだ向学心に燃えていたのでよく知識を養い仕事に生かし上司からの信頼も得ていた。
後輩で良い伴侶を得てすでに結婚した絵里子と言う子からある相談を受けた。それは夫からの精神的理不尽な扱いに悩むものであった、面倒見のいいこともあった奈央子
は一度その夫である沢木と言う男にあって説得しようとした・・。
沢木の言う事には妻の絵里子は精神的に病んでいて自身は妻にとてもひどい精神的苦痛を強いられていると告白される、そればかりか奈央子は不覚にもその沢木から
醸し出される大人の魅力にすっかり惚れ込んでしまった。
奈央子は沢木からも慕われ心の支えになってくれと頼まれる、そしていつしかその一線を越える所まで行ってしまった。もはや奈央子は戻ることはできない、相談を受けた
後輩を裏切ることになってしまった。もう奈央子も悟ってきた「年をとると言う事は、出口を一つづつ塞がれていく事なのである。その出口は可能性といってもいい。」
奈央子は後輩と対峙しなくてはならない、しかも自分は不倫という負い目を持っている。と絵里子から意外な言葉が発せられる「主人は以前にもたぶらかした女性と不倫
の関係をした・・その女性にあって見てくれ・・」と。
奈央子は愕然とした、こんな泥沼から足を洗わないととんでもないことになってしまう・・・。そんなとき有名な広告代理店社員での合コンに誘われる、エ!?、こんな
おばさんにも声をかけてくれる・・・。運よく奈央子の事を気に入った森山という青年が居たようだ、背は低くいががっちりした体格、早稲田のラグビー部で活躍した選手だと
言うが見掛けは今ひとつであった。
しかしさすがに一流広告代理店にいるだけあって森山と話していてもその話題性やウィットに富み奈央子を飽きさせない、次第に気持ちが傾き始めた時であった。
絵里子からのメールを見て驚いた「これから主人と二人死にます・・・」
森山は埼玉に住む両親にも奈央子の事を話し婚約の話が煮詰まってきた事を知らせる。しかし奈央子はもうそんな事はどうでもよかった、奈央子は名前こそ書かれは
しなかったが商社勤務のOL(34歳)の不倫の精算のため夫婦は命を絶った・・・と週刊誌に書き立てられた。
奈央子は二回ほど会った森山の両親を思った、純朴で倅を本当に愛している素晴らしい夫婦を苦しめらせることはできない、私は夫婦心中に追い込んだ悪女なんだもの。
奈央子は確かに実のある人生を歩んでいた、しかも自分に正直に生きてきた。でも私のようにもっと長い人生を歩んできたものからみるとその実はとても食べられる実では
なかったことに気がついたときとてつもない寂しさを覚えます。人生には小さな挫折を常に重ねることができた人はそれに対する自覚も耐性も身についています。
そしてまだ人生は果てしなく続く事を思うと早く奈央子は立ち直ってほしい・・とおもうのです。
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[No. 104 ] 12月 13日
新潮文庫
「残虐記 」・桐野夏生
2007年作・ 255ページ
桐野さんを本屋で目にした時、以前に読んだことが有った・・・何だったか思い出せなかったが嫌な記憶が無かったから買ってきた。
帰ってきて読んだ本の目録を何べんも探したがアララ・・・初めての作家さんでした。では、どこで・・?そうか読売新聞の特集連載でお名前だけは存じていただけでした。
驚いたストーリーでした。あたかも少女期の自叙伝だったんだ・・・と思ってその特異体験を読んでいくうちにわたしは桐野さんの作家のマジックと言うか恐らく小説家の
醍醐味にまんまと乗せられてしまった。最後の最後まで「・・ああ、桐野さんの少女期に可哀想な体験を・・」と本気に思って読んで居てしまった。
その少女は小学生3年生のある日、バレーの塾の帰りに変質者によって誘拐され1年余をその変質的男性に監禁状態で過ごしていた・・・。
もうその事だけで私達は「ああ、可哀想に餌食となって・・」と思ってしまいます。あることがきっかけで助けられることになりましたが少女にとってはそう言った目で見られる事
を極端に嫌いました、事実それは悲惨な監禁状態ではありましたが「皆さんが心配の中にも期待するようなことは無かったのです・・・」。
とは決して言いません、そして周囲の大人たちも少女の気持ちを想うばかりに「何が有ったの・・?」なんて決して聞きません。そのギャップを自叙伝的に少女自身がしだいに
大人になりながら解析して行くのです。少女はやがて大人になって作家になるのです、そして作家はうそを平気でサモあった事のように書くのです・・・というくだりには
複雑な気持ちになるのです。
私が描く絵の世界にもよく登場する私の気持ち・・・それは平気でウソを描くことはありませんが「希望や、望み・・・、願いや曖昧な記憶までも」あたかも現実にあったかの
様な表現は平気でします。そう言った私の琴線に触れるような表現や言い回しが実は大きな刺激になった気がしました。
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[No. 103 ] 12月 8日
新潮文庫
「夜と霧の隅で 」・北 杜夫
1959年作・ 265ページ
北さんはこの作品によって芥川賞を受賞したと解説されていました。この年私は工業高校の3年生、いよいよ社会に出る緊張感の真っ最中
であったと思います。日本はまだ戦後、社会も不安定、就職するのには少しの明かりが見え始めたかに思われた頃でした。
私たちは戦争の体験を一刻も早くその呪縛から離れようと勤めていた頃、北さんはしっかりと後世に伝えなくてはならない戦時の心、
つまり極限におかれた人たちの精神の葛藤をこの作品にこめられたかと思いました。
「どくとるマンボウ航海記」に象徴される北さんのイメージはのどかな笑いを振りまきながら小さな船に乗って海外旅行に・・・と
通説の捕らえ方しかしていませんでしたが。この書によって所謂ドクトル・・と北さんの関係が強く感じられました。
この「夜と・・」では戦時下におけるドイツ軍下での精神医科の現実と当時国際的問題になっていた民族の純化という二つの問題を
同時進行の形で掘り下げています。
戦時下ドイツの精神病棟において主人公が誰・・とかの問題ではなく多くの主人公が”精神の病”を国としてどう扱ったらよいのだろうか
、しかしこのことを将来のために役立つ病理学として残された治療法は無いのだろうか・・・その苦悶が続きます。
ナチスが制定した遺伝病予防、国民血統保護、婚姻保護、そして精神病者の安死術の施行などなど・・・神の領域にまで独裁者は立ち入って
制御しようとした実に愚かな歴史の反省を強く感じます。
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[No. 102 ] 11月 16日
イーブックスシステムkk
「蟹工船 」・小林多喜二
1929年作・ 219ページ
新聞もそうですが文庫本の世界も文字サイズを大きくして私達としよりにも読みやすい文字サイズが出てきてありがたいことです。
先日新田次郎さんの本を買った所34刷目、文字が小さくて読むのに往生しました。この度の小林さんの作品ともなるとそれはもう老眼鏡に虫めがねの苦行を強いられる
ことかと尻込みしてしまうほどでしょう。
最近”電子書籍”なる言葉を耳にした方もおありかと思います。今回はその電子書籍で小林多喜二さんの“蟹工船”を読んでみました。文字サイズは私の目に優しい
大きさを選択、ページめくりも指を舐めなくても軽快にクリックすることでで”シャリッ!”なんて疑似音をだして次ページに移行して
くれます。
漁夫、雑夫など400人ほど乗せた「博光丸」はオホーツクの蟹漁を目指した。そしてその乗組員のほとんどは14〜5歳のまだ幼さの残る子供たちであった。恐らく善い稼ぎ
になる、とか慣れればこれほどいい仕事は無い・・・などと言って騙されて乗ってきたものがほとんどであった。
この船は言って見ればオホーツクの海で蟹漁をし尚その船の中は巨大な缶詰工場として機能しているのであった。この船には川崎船と言われる小型漁船を何艘も
持っていて漁師はその船でロシア近海ギリギリまで行って蟹を採っては母船である博光丸に荷を下ろし又出かけて行く。
一方、雑夫たちは次々と水揚げされてくる蟹を処理して加工することが義務つけられていた。
この船には船長は居るが同時に工場長を務める監督が乗船している。船長は気圧配置や無線により他船からの情報などにより安全操業の義務を負う、だから危険な時には
漁船の出航を見送るよう監督に進言する。
しかし監督はそれらに対してことごとく無視をする、そして雑夫たちには何時間もの就業を押しつける。「蟹がいない時には嫌になるほど休ませてやる、しかし蟹が居るうちは
死ぬまで働け・・」と。
雑夫たちはいつか機会が有れば監督を海に放り投げてやろう・・と思っていた。そんな時ロシアに捕まった事のある漁夫からストライキをすることを教えてもらったものが居た。
これにはさすがの監督もおとなしくしていた。しかし間もなく駆逐艦が近づいて来て兵隊がストライキの首謀者を捕まえて行ってしまった。
「俺たちを守るために居る帝国海軍が金持ちから金をもらって俺たちを監視する事を義務つけられている・・」
「俺たちは団結しなくてはならない、今度は捕まる時は全員で捕まろう」
この作品を発表した頃こんな本が皆に読まれては困る、この人は「あか・・だ!」と言って非難されたそうです。その後資本主義の犠牲としての労働者とか搾取などと言う
表現で労働者と経営側との間ではギクシャクした労使関係の構図が永く続いた。
しかしそこに人権の尊重と言う考えを取り入れた上での労使交渉がなされない限り何時まで経ってもその平行線は交わることが出来ないでしょう。
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[No. 101 ] 11月 14日
実業の日本社文庫
「白銀ジャック 」・東野圭吾
2010年作・ 412ページ
”いきなり文庫”と言う私にとっては嬉しいスタイルの出版です。作家さんにとっては先ずは単行本で・・とお思いのところを手ごろな値段で楽しめることに感謝します。
シーズン初めにスキーに行く時、如何にして時間をつぶすのかが今まで問題でした。つまり身体がスキーをする・・と言う行為に順応するまで決して滑りすぎない事が必要
でそれを失敗するとシーズンを通してその欠陥を引きずってしまう事が多いのです。
娯楽性が強くこま切れに読んでもストーリー性の強い今回の作品はうってつけと言うべきでした。
毎年雪不足に悩まされていた「新月高原スキー場」は今年オープン早々に多くの降雪に恵まれて順調な営業が見込まれていた。
スタッフ一同連日の忙しさに嬉しい悲鳴を上げていた所、冷や水をかぶせられるような衝撃を受ける事態が発生した。それはメールによる脅迫まがいの文面であった。
その内容は「・・・降雪前にゲレンデのあちこちに時限爆弾をセットしておいた、その場所を知りたかったら3千万円の受け渡し要求を飲め、ただしこの事を警察に通報する
様な場合はゲレンデのお客さんの安全は保障されない・・・」
関係者はさっそくの協議の結果内部機密にすること、そして犯人から試し掘りの指定を受けた場所の探査の結果単なる脅しではない事を知らされる。
まさにスリルとサスペンス、そしてこの作家がスキーやボードに対してかなりの知識を有している事などが迫力ある表現力の源と思われる。
私を含めていわゆるホームゲレンデとしてスキー場関係者やほかのお客さん達と接しているとそのスキー場全体の仕組みなり経営姿勢、更には親会社との関係図式まで
おぼろげながらに見えてくるものです。
そして事が発生した時何を優先するか明確な危機管理システムが備わっているかどうかに繋がってくる。この作品では東野さんはそんなところにもかなり踏み込んだ考察
のもと事件に迫力を与えて楽しませてくれたと思った。
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[No. 100 ] 11月 10日
新潮文庫
「ぬばたま 」・あさのあつこ
2008年作・ 297ページ
「ぬばたま」別名、ひ・おうぎ・・・、アヤメ科の多年草、山野に自生して高さ1m、葉は広い剣状で密に互生し・・・。
恐らく、あさのさんが育った岡山県の山奥にはこのぬばたまの樹はそこらじゅうに群生し子供心にも山への畏敬の念と共に深くて恐ろしいイメージへの誘因として記憶に
残っていたんでしょう。
自身、終話に記しています。「書き終えました。全部で4つの物語、書き終えました。なんだか夢のようです。まさか、わたしにお話が書けるなんて思ってもいなかったので
・・・こういうの何と呼ぶのでしょうか。達成感?充実感?呼び方なんてどうでもいいですね。ともかく、わたし、ちゃんと物語が書けました。嬉しい。・・」
あさのさんは青山学院大学をご卒業されその後また岡山県に帰られて小学校の講師をされ作家デビューされたと書いてあります。しかし幼少期に幾度となく聞かされた
民話やお年寄りたちから聞かされていた”山”に対する畏敬の念は幾つになっても忘れることができずモヤモヤとした気持ちで今日まで過ごしてこられたんでしょう。
そして4話に亘る世にも不思議な物語として物語を作ることによってあさのさんの作家としての達成感?充実感?・・という言葉になったのでしょう。
どの話にも「・・死・・」がまとわりついています。しかもその死はいずれもその小さな部落の深い山にまつわる死です。山によってその死を受け入れることは自然の中で(身近に
)暮らしてきた人たちにとってはごく当たり前の事だったでしょう、しかしそれ故に自然に助けを求める人のはかなさ、小ささがよく見えてきます。
地図で見るとその小さな山村は今では近くに中国自動車道が走り、山陽自動車道にも挟まれ文化の波にさらされています。あさのあつこさんの心の中の想いの灯は今この
本となって永遠に残る事でしょう。
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[No. 99 ] 11月 7日
角川春樹事務所
「今朝の春 」・高田 郁
2010年作・ 290ページ
高田さんの作品に接してその面白さを発見したのはつい最近でした。ほぼ1か月前に読んだ時その新鮮さと料理に対する愛情が感じられて好きになりました。
そして私は10月19日の日記でも書きましたがその高田さんのシリーズが読売新聞に取り上げられていて驚きました。もうその時にはこの「今朝の春」を購入して読む
順番待ちになっていました。
実は読み始めて少しの落胆が有りました、そして読み終わったとき今まで多くの作家の作品を読んだ時の満足感が無く大きな落胆に変わりました。
シリーズものとしての価値観がわかりませんが私は少なくとも一冊の本はその中で完結してほしい、その次もあってさあどうなるんでしょう・・・と言う結末は次も読まなければ
わかりませんよ・・・ってナニカ陥れられた気がします。
確かに大きな流れはあります、主人公の”澪(みお)”が幼少期の苦難を乗り越えて江戸に来て自分の天性の料理人としての腕を試され、町人の圧倒的な支持を得ながら
大手の一流料理店との対決試合・・・それなりに楽しみはありました。
ところで今回も作品の中に登場する料理(澪が考えて編み出した料理・・)も4種類、前回の一作品「ぴりから鰹田麩」をレシピに従って挑戦してみましたが”う〜む、
”不味い・・・!”。今度の作品では「ははきぎ飯」をやって見ようかと思いますがこれは秋田地方の”とんぶり”を使います、これだって納豆にまぶした方が旨いと思いますが
また騙されて見てもいいかな。
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[No. 98 ] 10月 27日
角川文庫
「偶然の祝福 」・小川洋子
2000年作・ 201ページ
いつの間にか小川さんの作品は5回ほどになっていました。
わたしの本の読み方・・・と言うかある程度の道が出来始めた感じがします。つまり読書によって新しい人生を切り開くとか見知らぬ世界を切り開くと言う過激な(私にとっては)
方向に向かう気はないようです。
選ぶ本の主流は安らぎや穏やかな情緒、寝る前の時間でも気楽に読めてしかもそのまま寝てしまった・・・、小川さんの作品は私にとってその点合格したんだと思います。
「偶然の祝福」は小川さん自身の自叙を短編集録形式に組み立てて編集してありました。
失踪者たちの王国、盗作、キリコさんの失敗、エーデルワイス、涙腺水晶結石症、時計工場、蘇生、・・・の7項目の短編はすべて少女期から作家としての苦悩、そして
愛する人との別れと愛犬アポロとの生活、長男の出産、アポロの病気、長男の病気、そして自身の病気を乗り越えて愛に満ちた生活を取り戻した大きな流れを
つづっています。
私は文学的な意味での非現実主義的発想は日記を書いていてもこうして読後感想を書いていてもなかなか主張したり表現しようとは中々至りません。しかし絵画などでは
いとも簡単にそれをすることはた易くできるのです。
たとえば絵画で言うデフォルメ・・的処理は正しくその第一歩だと言えます。しかしそこに求められる作品の完成度と言うものは常に調和(バランス)の中に存在が許され
決してそれが突出してはならないところに観る側の安心感が出てくるものです。
小川さんが自叙伝的小説の中にも常にそういった発想を取り入れて文学性を高めて行く手法は深く同感出来ます。そして私にとっては安心して読める作家になったと
言っても過言では無いことがわかります。
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[No. 97 ] 10月 18日
文春文庫
「芙蓉の人 」・新田次郎
1971年作・ 254ページ
新田次郎さんの作品をはじめて読みました。同郷、私の先輩から新田さんの息子さんである藤原さんの作品を読んだところ大変興味を持って読み終えましたのでどうですか?
と紹介して頂きました。
それならば先ず同郷、諏訪の出身お父さんである新田次郎さんを先に読んでおかなくては・・・という次第でこの本を買ってきました。
1975年から2009年までに34刷を数えますから相当な数の出版を重ねた名作と思います。しかし昔の版、字が小さくて読むのがつらかった。話は変わりますが最近
電子書籍・・を耳にします。私もあえて邪魔になる単行本ではなく文庫本にこだわって購入してきますがそれでも読み終わった本は溜まればゴミです。モニターでそれぞれ
の視覚にあった文字サイズで読める事は魅力です。一冊800円・・、もう少し文庫本でガマン。
千代子は道灌山の頂に立って富士山を見ていた。背中には幼子が眠っていた、「ね、園子、富士山よ、お父さまがいま登っている富士山よ」
夫の野中到は厳冬期の富士山頂上を目指して単独で挑んでいた。今までこの厳寒期に富士山への登頂を試みたものは一人もいなかった、だから到はそのためのアイゼン
やピッケルを自前で工夫しなくてはならなかった。はじめは鍛冶屋に頼んだアイゼンはすぐに曲がって使い物にならなくなった、そして土木用のツルハシはとても重くて
改善しなくてはならなかった。
満を持しての登頂は成し遂げた。「天気予報が当たらないのは高層気象観測所が無いからだ、しかし国がいきなりそんな危険な所に観測所を立てることはできないだろう、
先ず民間の誰かが・・・」千代子は到の日ごろ口癖のように言う言葉を暗記していた。
到は翌年には冬季観測所を設立するために千代子の実家などから金の工面をした。あらかじめ設計した冬季富士山頂観測所の完成を待って10月末に小屋にこもった。
これは国の気象観測職員扱いの嘱託扱いではあったが観測機器はすべて国から貸与されたものであった。11月になって本格的な冬の到来となった、しかし到は思わぬ
客を招いた。どうした事か・・妻の千代子がこの厳寒に観測所に上ってきただけではなく気象観測の知識を持って「私も助けになります・・」と言って観測を手助けすると
宣言した。しかし二人とも徐々に高山病と過酷な環境によってその生命まで脅かされる状況にまで陥ってしまった。
12月初め地元から慰問に来た案内人は二人の異変に気付き救助隊が編成された・・・。
人類がこうして繁栄してきた中には野中夫妻のように信念を持ってその目標を達成しようと言う少なからずの人々によって積み上げられてきた賜が感じられます。
民間人が国に先駆けて富士山頂に冬季気象観測所を設立しなくては・・という気概はのちに国を動かしそして測定機器の進歩までをも促した仕事の大きさは計りしれません。
そして気象庁を退官し、現役時に400日を超える富士山経験のある新田次郎さんならではの迫力ある表現につい就寝も忘れてしまいました。
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[No. 96 ] 10月 15日
講談社文庫
「凍りのくじら 」・辻村深月
2005年作・ 568ページ
芹沢理帆子、父親は新進気鋭の写真家として将来を嘱望されていた。しかし理帆子が少女時代に父親は自分の前途に不安を募らせ死に場所を求めて家を出てしまった。
いま理帆子は高校2年生になった、しかし日ごろ母との折り合いも良くなかったが突然に母の病状が発覚し余命2年・・・と宣告される。
以前から父の親友であった音楽家の松永と言う男が父の失踪の後、金銭面での支えをしてくれていた。父とこの松永とはどういう関係にあったのかは知る由もなかった。
理帆子には大学受験やそれ以降の事についても心配しないように・・と諭されていた。
ある日図書館で本を読んでいた理帆子のもとに学校の新聞部に所属する別所という生徒が突然に現れて「理帆子さんをモデルにして写真を撮って見たいのですが・・」。
別所はたまたま祖母の見舞いに行く病院で理帆子をよくみかけていて知っていた事、自分は写真部が有ったら入りたかったけれど仕方が無いので新聞部で写真を
撮っている事などを伝えた。
余り彼の事は気乗りしなかったけれど写真に対する情熱や、父の写真にあこがれていた事、そして理帆子自身にも写真を撮ろうと言う気持ちにさせてくれた事などで次第に
気持ちが近づいていく。
芹沢理帆子は25歳の時「アクティングエリア」写真集で大賞を受賞した。父の芹沢光は高校生の時史上最年少でこの賞を取っていた。理帆子は父の名を継いで二代目
芹沢光として歩む事となった。
辻村さんの作品は初めて接しました。教育学部出身という事で理帆子の学生時代の級友や彼氏であった先輩との交遊関係と様々な葛藤について深く深く記述しこの作品
をより深い味わいに仕立て上げていると感じました。
それと小説の全体に亘りマンガ「どらえもん」をSF 作品ととらえてそのテーマテーマを小気味よく登場人物の会話の中に取り入れてしっかりした小説の骨格として取り入れ
ているところが大変興味が有った。こう言った扱いにかなりの長編であるにもかかわらず文脈にたるみや気の抜いた所のない構成力に感心しました。
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[No. 95 ] 10月 3日
角川春樹事務所
「八朔の雪 」・高田 郁
2009年作・ 271ページ
時代小説文庫・・とあります、前作と合わせての時代ものですが趣がかなり違って料理本です。巻末にはこの本に登場する料理のレシピまで乗っていて二度楽しめる所が
ただの小説ではない所です。
澪(みお)は漆職人の家の一人娘として生まれた。決して裕福ではありませんでしたが料理の上手な母と父が丹精込めて作った器と箸で食事することにより繊細な食に
対する感覚は養われていた。
8歳の時大阪地方を襲った洪水で父と母を失いひとりだけ取り残されてしまった。幸いにも当時上方で人気のあった天満一兆庵割烹のおかみさんに拾われてその店の
下働きとして住まわせてもらっていた。
主はこの澪の特別な味覚に対するセンスを見込んで女を調理場などに立たせるなと言う皆の反対を押し切ってせっせと料理を教えた。そんな幸せもつかの間、隣家の失火
の被害をこうむって全焼しそのため主は行くえ不明になってしまった。
天満一兆庵を江戸で再興して欲しいっていた主の声に澪とおかみさんは江戸に出て来た。しかしそのおかみさんは体調を崩し床に伏せがちとなり窮地にたった。
毎日神田明神下のお稲荷さんの祠に手を合わせながらすっかり荒れてしまった付近を毎日少しずつ手入れをした。その様子をよく観察していた蕎麦屋の種市は自分の
失った娘そっくりなことと働きぶりの良さを見込んで働いてみないかと声をかける。
澪はこれまでおかみさんを抱えながらどう生活して行ったらいいのか途方に暮れていただけにその申し入れに感謝し働かせてもらう事にした。
澪は種市に可愛がられた、と同時に蕎麦屋に酒を飲みに来る客のための突き出し料理を作る事を手伝わせてもらう事になった。しかし澪の味覚は上方で磨かれた繊細な
味覚であって肉体労働をする江戸の町人の味覚とはかけ離れていた。
そういった味覚のギャップを逆手にとり澪は工夫を重ねてこのあたりでは無いヒット商品を次々に出した。そしてその陰には種市の励ましはもちろんのことであるが上客
のなかには素晴らしい助言をいただいたりしながら澪の料理を楽しみにする客足も増えた。
ある朝蕎麦屋の種市は澪が勤めに出てくるとまだ起きてこなかった。どうやら腰がやられて蕎麦を打つ事が出来ないという。かわりに店をやってくれないかと頼まれる。
蕎麦目当てのお客さんは無くなってしまったがアイデアのある料理を出すことで新しい客も増えヒット商品を出すことで江戸の料理番付表の上位にランクされるまでになった。
しかしそれは同業の嫉みも買う事になってしまいしまいには放火により種市の店まで失ってしまう。しかしその場所で屋台を出すとたちまち人気の店として再興を果す。
踏まれても踏まれても芽を出す、それはしたたかな雑草の如くの波乱な人生ではある。しかし澪には大阪天満一兆庵を江戸で再興させようと言う強い希望が有る、
人には希望という目標が有れば降りかかる災難にめげない強さが備わって行く・・。巻末にはヒット商品のレシピが並ぶ、副題に「みをつくし料理帖」とあり、その料理帖には
続編もあると言う。またこんどそれを食べに立ち寄って見たい。
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[No. 94 ] 9月 28日
新潮文庫
「憑 神(つきがみ) 」・浅田次郎
2005年作・ 357ページ
今回でNo94・・・数多い作家の中でおなじ作家の作品を4回目と言うのは私にとってそう珍しいことではありません。
いかに以前の作品に魅せられた所が有りその余韻を更に求めたいと言うことの表れかとも思います。いずれも現代社会の側面を描き私の共感する視点を深く掘り下げて
作品にしている作家・・と思うからです。
現代社会の・・・?、いえ、これは幕末すなわち私達が大河ドラマやその他で知りえる武士階級の英雄を見聞するなかで坂本竜馬や、岩崎弥太郎のような下級武士が
江戸ではどんな生活をしていてそして退廃する武士階級をどうとらえて生きて行くか、時代ものを背景に鋭く現代社会を風刺した物語でした。
別所彦四郎の家系は昔、家康公の影武者として実績を上げた功績により城内の蔵に保管される30体の影武者意匠の保管管理を任された。この意匠はとりもなおさず
いざ合戦の時、御大将の身代わりとなって四散し敵の眼をかく乱させる目的があった。
しかし彦四郎は次男で有ったためその家督は長男が継ぎ、おかげで武芸、学問にいそしむ環境であった。おかげでその才覚を見込まれて彼の家系より位の高い家に
婿養子におさまった。しかし嫁には愛されたものの義父には彼の才覚がうとまれて嫡男出生を機に出戻りを余儀なくされる罠にはまってしまった。
出戻った実家では兄嫁にこけにされ母と二人離れでひっそり暮らすことになった。母はそんな彦四郎の不敏を思い寝苦しい夏の夜などに寝付けなくしている息子に
銭袋を渡してこれで一杯やってこい・・・と。彼はそれをもって屋台に出向き憂さを晴らした。
僅かな酒ではあったが久しぶりに呑んだため相当に酔っぱらってしまった。大川端でしょんベンでも・・と思った所足元がすべって土手下まで滑り落ちてしまった。ふと気が
つくとそこには小さな祠が草に隠れるようにあるのを目にする。
彼は自分の不敏を嘆きながらもこの祠に「どうか、拙者に運の開ける事をお願い申します・・」と祈った。
ところがこの祠はなんと貧乏神、疫病神、死神というおそろしい災いをもたらすと言われていた三順稲荷であった。
彦四郎は貧乏神の災いを身変わってもらうために自分を陥れた義父を選んで貧乏神に伝えた。しかし次の災いである疫病神については取りあえず仕事の不熱心な長男
に変わってもらい270年も続いた我が家を先ず守らなければならないと長男の仕事を継ぐことにした。
しかし死神の災いに対して彦四郎は他人に転嫁する事を深く反省して止めた。死神は盛んに将軍はどうか?とか軍艦奉行はどう?と勧めるが自分の気持ちをしっかりと
伝えるのであった。「
彦四郎は影武者意匠を身につけた。そして鳥羽伏見の戦いで江戸に逃げ帰って来た徳川慶喜と対面し、上野の山に立て籠もる彰義隊のもとに向かった。
この作品はしっかりした時代背景の中に彦四郎という下級武士をはめ込んでユーモアとサスペンスをふんだんに使い分けた娯楽作品に仕上がったと言えます。彦四郎が
死神に転嫁を進められた時せめてこの退廃しようとしている幕末の武士階級、彼はその威信にかけて災いを他人に転嫁しようなどと言うこすからしい事をキッパリと断わって
武士道を貫く覚悟をした。気まじめだから損をする典型・・・と考えるべきか覚悟の足りない私にとってひとつクサビを打ちこまれた。
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[No. 93 ] 9月 15日
新潮文庫
「潮騒 」・三島由紀夫
1954年作・ 207ページ
歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である。・・・・の書き出しからグーグルマップで島の位置を確認するココだ。伊勢湾の入り口渥美半島の先に小さな
神島と言うのが有って地形も舞台になる神社、灯台までが正確に配置されて・・「歌島」になり変っていました。
新治は中学(旧制)の成績が振るわず留年しそうになる所を灯台の台長さんらの働きで何とか卒業する事が出来た。その嘆願書によるとまじめであり家の仕事もしっかり
やるし母と下の弟の分までよく面倒を見ている、それに家が貧しくてこれ以上学業に時間を取れないから・・・。
新治はまだ18歳ではあったが大きな体、漁師としての天分を備えたようにたくましくそしてよく働き親方にも可愛がられた。
夕方のこといつものように小舟を浜に引き揚げていた時ひとりの見知らぬ少女に目がとまった。健康な肌いろはほかの女たちと変わらないが、目もとが涼しく眉はしずかである。
あるとき新治はこの少女は用船の持ち主、金持ちの照吉の4番目の子である事を知る。小さい時養女に出したものの上の3人の子を嫁に出した後急に寂しくなり連れ戻した
という。新治は想った、なんだ金持ちの子か・・。
新治が浜から上がろうとしていたとき老人が船を引き揚げていた、助っ人は女ばかりで中々はかどらない。新治はだまって綱に手をかけるとウインチを操る老人は
「おおきに!」と言う間もなくみるみる舟は浜に上がった新治の腕はたくましく見えた。女たちもあわてて艫のほうに掛けて来た。
女の中に初枝の姿もありおさな心にも新治にある種の好意も感じられるものが有った。
村の青年の中での噂では初枝の婿にふさわしいのはこの漁村でのまとめ役の息子の安夫が相当であろうと皆おもっていた。
ある日新治は島の頂近くにある軍の廃墟に母から頼まれたソダを採りに行って偶然初枝と出くわす。二人の若い気持ちは一気に急接近する。
この様な話は私達の時代ではごく当たり前の筋道・・・、どこにも有りそうな設定なんです。金持ちの娘と貧乏な家の息子は決して結ばれる事は出来ない。そして貧乏な家の
子より身分の高い家の子のほうが実力は下、という設定です。
そしてこの二人もいずれは結婚して結ばれそうな希望を見い出した所で終わっています。このごろ最近の作家の恋愛作品に多く接していると性に対する感覚に不感症ぎみ
にならざるを得ません。
久々の純愛小説に触れた気がしました。しかしこの小説では何か不満が残ります。恐らくそこには三島氏自身の生きていた時代背景、世の中の性に対する道徳心などが
中途半端な情景描写で終わらさざるを得ないジレンマも感じられるのです。
戦後の作家として彼はそうとうな改革を思い描いていたでしょうにその本意は想う存分に発揮できません。
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[No. 92 ] 9月 10日
新潮文庫
「夏の庭 」・湯本香樹実
1992年作・ 218ページ
小学校6年生、木山は憂鬱な梅雨の最中級友の山下の欠席の席をぼんやり眺めていた。
山下は田舎の祖母が無くなって葬式に行って来たという。「山下よ、お婆ちゃんの死んだ顔って見たか?」「見なくていい・・って言われて見てないよ、そう言う木山は死んだ
人の顔って見た事あるのか?」「おれもないんだよ・・」
もうすぐ夏休みになるころだった仲間の河辺の情報によると間もなく死にそうなひとり暮らしの老人がいるからそれを観察していれば死んだ人を見る事が出来そうだぜ。
この先の塀に囲まれた庭先の平屋に住んでいる老人はのぞいてみるともう夏なのにまだ炬燵も出しっぱなしで背中をこちらに向けてテレビを見ているようだった。
時々出かけることもあったので僕達3人はその都度尾行をしてその老人の行動を見守った。買い物は近くのコンビニで弁当を買ってくる程度の事でした。
「あの爺さんはこんな弁当を食べてテレビを見て暮らしているんじゃ、もうすぐ死ぬかもしれないよな」僕たちは期待した。
ところがだ、どうやら僕達が尾行したり塀の陰から様子をうかがっている事がバレた様だ。時々うさんくさそうに塀に向かって手桶の水をぶっ懸けられたり・・・・
驚いた事には爺さんは窓を開けて下から手を突き出してブイサインなんか出したこともあった。「あれって、オレ達に対する宣戦布告だぜ」
夏休みに入っても僕達の観察は続いた。よく晴れた日、爺さんは洗濯ものを抱えて縁側に出て来た、そして僕達に手伝え・・、と言ってロープの先を渡されってしまった。
「そこの木の枝にこれを結んでくれ・・・、いや!、こういう具合に結ぶんじゃ・・」なるほど、言われたとおりにするとロープはしっかりと結べる事が出来た。
「そっちのデブ、お前はこれを広げて吊るせ、そしておまえはこれで洗濯ものを止める仕事じゃ」僕たちはすっかり使われてしまった。でもいろいろと洗濯ものの干し方だとか
教わってしまった。
次に行くと今度は庭の雑草を抜くように言われてしまった、コツが有ってそのようにすると案外きれいに抜けて楽だった。終わったころ爺さんはスイカを買ってきていて
ごちそうしてくれた。僕たちはいつの間にかお爺さんと仲良くなっていろんなことを教わったりした。僕たちはおこずかいを出し合ってこの庭にコスモスの種を蒔いてあげた。
夏休みの最後の週は毎年の事ですがサッカーの合宿が有って4日間ほどコーチの実家の民宿で過ごした。爺さんのお土産も皆のこずかいでぬいぐるみを買った。
「どうしているかな?賭けようか」「僕は昼寝していると思うよ・・」「木山!、あたりだぜ!!」・・・・・・お爺さんは眠っているようにして亡くなっていた。炬燵の上には僕達と
食べようとして洗った葡萄を置いたまま・・・。
庭には小さいながらも一面にコスモスの花が咲き乱れて、ほんとうにお爺さんは眺めながら眠っているようでした。
木山、山下、河辺の少年たちはお爺さんを観察することによって子供の世界から大人と心を通わせた世界を知る大切な夏休みを経験したことでした。違った世代に対して
興味を持ち、そしてより深く知ろうとするとき花であれ動物であれ人は心を通わせる事が出来る高等動物なんです。
漠然と死んだ人を見た事が無い・・と言う発想から多くの事を学ぶきっかけを作る子供たちのバイタリティー、世代を超えてお爺さんと仲間意識を作る事が出来た柔軟性、
そして煙となって火葬されたお爺さんの旅立ちの来世までをもつなぐ心を養ったことは子供たちにとって大きな成長期であったと感銘した。
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[No. 91 ] 9月 7日
集英社文庫
「海を抱く 」・村山由佳
1999年作・ 411ページ
波の上に立ち上がる方法を教えてくれたのは、親父だった。
僕、光秀は湘南の海を見下ろす高台の家で育った。父親の山本信長はフリーの建築家と言う仕事柄よく僕を海に連れ出してはサーフィンの手ほどきをしてくれた。
中学2年のころ僕のサーフィン技術は並はずれて成長する時期であった、しかし親父の暴君ぶりにとうとう我慢できなくなって叛旗をひるがえして家を出る決心をする。
もっとも母親はもっと前からこの暴君との生活に見切りをつけて家を出て別の男と暮らすようになった。姉は父の弟子との相思の関係で残ったものの私は高校を房総の
高校を選んでひとり下宿住まいをすることにした。そこは全国でただ一校、サーフィン部が有る事で有名だった。
私は高校に入ると湘南の海に居た時と同じように早朝、学校に行く前に必ず波に乗りそして帰宅するとまた波に乗って過ごす生活をしていた。
たまたま帰省して横浜の街を歩いていた時、同じ高校同学年で生徒会副会長をしている藤沢恵理が中年の男といかがわしい所から出てくる所に行き合わせてしまった。
そしてまたしても久里浜からのフェリーボートで理恵と顔を合わせてしまった。「オレは口も堅いし人の私事には興味もないから安心しな・・!」と言った。
幾日か経って光秀の部屋に理恵は強引に上がり込んで「・・・私を抱いてくれ・・」と迫る。「オレは嫌だね、・・・オレに口止めさせるための攻略か・・?」
光秀はついに折れて理恵と結ばれた、しかしお互いの心は固く閉ざしたままの儀式と言ってもいい位な行為であった。したがって学校でもお互いは知らんぷり、光秀は
相変わらずサーフィンに打ち込み、理恵は優秀な生徒として振舞っていた。
いつとはなしにもう一度・・・、と思うようになり光秀が誘う度理恵は何も言わずに従った。しかしお互い心を閉ざした儀式は暫く続く。
そんな折、親父が体調を壊し入院をした結果末期のガンに襲われている事を知る。理恵も家を飛び出した兄が廃人同様になった挙句連れて行った女の死体遺棄の疑いで
起訴されたりと不幸に見舞われる・・・・・。
がんと言う病気を題材にした作品を幾つも読んだ、今度もそうでした。光秀は父親と約束する、[ 終末期宣言書 ] にサインしろ・・と。つまり救われる事のない生命を延命
のための治療をしないでほしい・・・。まだ18歳の光秀にその重大な決断を迫る親父と、意識のない父親にその約束を守り通せるのか・・・。
心を閉ざしたまま儀式を重ねて来た二人はやがて心を開け合うようになる。その屈折した心理描写と表現力は細かな性描写にもかかわらず私にも納得いく安心感を与え
この村山さんと言う作家の力のすごさを感じました。
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[No. 90 ] 8月 26日
集英社文庫
「永遠の出口 」・森 絵都
2003年作・ 353ページ
森さんの作品には2回目の遭遇でした。No.51 の「カラフル」・・・、傷つきやすい少年の心の葛藤などからこの人の作品は童話に親しんだ子供が大衆文学に傾注するまでの
過渡期における子供の心情を訴えるように表現されています。
小学校3年生のわたし紀子は2つ上の姉と両親のごく一般的な4人家族であった。一般的な・・・というのはたとえば子供はひとりより多い方がいい、しかし経済的理由などから
まあ二人が限度ってとこでしょう。出来れば上は女の子でしたから次は男の子の方が・・・という希望とは裏腹にまた女の子だった。
紀子自身、両親からそんな事を言われた事はありませんが家族の中で一番おっとりしていてのろまな自分に引け目を感じながらも薄々自分の所在不明にもがき始める。
5年生になってのクラス替え、そして強烈な保護主義的教育に凝り固まった担任に巡り合う事で紀子の子供心の中に反抗心がわき健やかだった過去の人生が踏みにじられ
ると感じ始めた。
そして6年生となって電車に乗って友達同士のみで初めてデパートに行った、更に友情は深まりそして少しの冒険も試みて自由を満喫する。
入学した中学は兎に角校則のやかましい学校であった。父も母も校則は規則だから絶対的なものだ、母は何時もきっちりと気にしているおでこに掛かる髪の毛は校則道理
に切りそろえ、わたしがその広いおでこの事でどれだけ学校でいじめに近い冷やかしに有っているかは全く眼中にない。
わたしは母・・つまり家族にも反抗しなくてはならなくなった。しだいにクラスの中でも不良と言われるグループに接近した。デパートで万引きが見つかり母親が呼び出された、
スリルと自己満足の世界・・・であった。家に戻ると父は長い説教をした、そして言った。「紀子がどれだけ多くのものを盗んでも、地区大会の決勝で俺がスマッシュを決めた
あの瞬間のような満足感は得られないだろう」と締めくくった。ずれたジジイだと思った。
兎に角不良付き合いも飽きてしまった、一応まじめな風を装って中学を卒業した。高校ではもう恋愛学校と言わんばかりに模擬カップルが次々と誕生した。しかし姉から
「どうやら父親が不倫していてそれが母にばれて・・この分では離婚するかもしれない・・」これは大変なことになる。
今までは自分の事で親や友人に迷惑ばかりかけっぱなしの人生だった。父と母が何とか別れなくてすむ方法はないものか・・。学校では「安田クンがタイプ・・」なんてふざけて
言ったところ聞いた友人が「保田クン」を連れて来た。なんでこんな不細工な男・・・、でも次第に好きで好きでたまらなくなってしまった。
これって、紀子という名を借りた森さんの自叙伝なのかな・・・、いえいえ作家たるものこのくらいの表現はいともたやすい事でしょう。紀子の両親は恐らく私達と近い世代だと
想います、規則だとか絶対という事に対しては比較的順応できます。しかし生まれつき個人主義的自由を優先して育った子供達とはどことなく意識のずれが生じ
じるように感じます。しかしそれは育った環境ばかりではなくいつの時代にも有るジェネレーションギャップそのもののジレンマなのでしょう。
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[No. 89 ] 8月 19日
集英社文庫
「1ポンドの悲しみ 」・石田依良
2004年作・ 268ページ
石田さんの作品は今回で4度目である、深く考えさせる2作に対してNo.52 で読んだ「スローグッドバイ」と今回の「1ポンドの悲しみ」はいずれも30歳代女性の恋愛の
諸々を取り上げて書かれています。あわせて都合20人の恋愛の喜び悲しみに触れたところです。わたしは表題の作品よりも「デートは本屋で」のほうがおもしろかった。
物流会社に勤める織本千晶は本と男が好きだった、一番好きなのはもちろん本を読む男であった。
そんな彼女の会社の総務にいる島津はうってつけの彼氏でオペレーションルームで会うたびに最近読んだ本の感想を伝えあう仲だった。しかし今ではその彼は千晶との
関係を解消して結婚してしまった。
そんな千晶のフロアーにコピー機の定期点検のため通ってくるセールスエンジニアの南条に声をかける機会が有った。コピー・トナーの具合を確認するついでに「南条さんって
、本なんてけっこう読みます?」
「割と読みますね。今はミステリーが多いけど昔はSF とか大好きでした」
千晶はさらにその作家やその作家の中で好きな作品など矢継ぎ早に聞いてみた・・・その答えは千晶の感動した作品ばかりであった。
・・・この人、合格だ!と千晶は叫びたかった。
「ねえ、南条さん、今度一緒に本屋に行かない・・・」
「あの、それはデートの誘いなんでしょうか」「うん、そうかもしれない・・」。
男女の関係のきっかけなんて本当にバカげたことのようですがお互いの心が繋ぎ合うかどうかの見極めはこんな関係が手っ取り早いんでしょう。単純なだけにそこに
すがすがしさを感じ好感が持てる。私の恋愛論はきっと青春ドラマそのものですが石田さんの他の作品にはオジさんの夢をぶち壊すような恋愛作品が多く、老兵は
目をつむる以外なさそうです。
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[No. 88 ] 8月 13日
幻冬舎文庫
「かもめ食堂 」・群 ようこ
2006年作・ 216ページ
ヘルシンキの街中にひっそりとたたずむ食堂があった。「かもめ食堂」と看板にある。
武術家の娘として生まれ育ったサチエは小さい頃から女の子としておくにはもったいないほどの武術の腕前であった。
厳格な父は常にサチエに対しては礼節、倹約、そして「人生すべて修業だ・・」をモットーとして生きていくように躾けてきた。
母が不慮の事故で亡くなってからサチエは母の代わりを務め次第に武術とは遠ざかっていく、しかし本気で家事をこなすうちに料理に
興味を持つようになりその腕前もめきめきと上げてきた。
大学を卒業し就職した会社では食品関係に進んだ、しかし日本人の最近の味覚に疑問を持ち母の味覚である古来の食感をしだいに極めたい
と思うようになる。
あるときサチエは宝くじをはじめて買った。なんと1億円の当たりであった。調理師の免許を取得し食堂をしようと計画する。
その場所はフィンランドのヘルシンキと決めた。父にはその出発の前日にそのことを告げた、父は反対するかもしれないと思ったが
「うむ!」といっただけであった。
翌朝、父は早く起きて弁当を作ってくれた。大きなおにぎりであった。
38歳で資金を元に食堂を立ち上げたが。質素に贅沢をすることも無く一人の人間として自立していく。
次第に土地の人たちも来てくれる様になりその存在を認められるようになった。宣伝もせず誠意を通すことで知らない土地に根を下ろして
しっかりした生活をしていく・・・多少古風では有るが日本の女性の底力を感じた。
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[No. 87 ] 8月 7日
講談社文庫
「出口のない海 」・横山秀夫
2004年作・ 351ページ
某年8月15日、日本は連合国に無条件降伏して戦争は終わった。しかしその終戦間際に最後の切り札として仕立てられた若き学生たちの特別攻撃隊、それは飛行機
による行動はよく知られる所です。この小説は「回天」と名づけられた自爆型潜水艇で出撃する若き学生の物語です。
高校野球全国大会で優勝した投手、並木は大学に進学し野球に専念する。しかし剛速球で鳴らした彼ではあったが積年の肘の負荷により戦列を離れる事を余儀なく
される。
肘の回復を待ちながら密かに今後の投球を考えた時もうあの剛速球に頼ることは不可能と判断する、そしてなんとしても自分の理想とする二段階変化球の”魔球”を
完成させる以外道はないと確信しその開発に身も心もささげていた。何と言っても世間の名声がこのまま沈没することを許さなかった。
彼の理想とする魔球は中々生まれなかった。そうこうしているうちに戦争に突入した日本の戦況はだんだんに厳しさを超え悲壮に近い様相を呈してきた。それはあたかも
並木の編み出そうとする魔球が想うようにいかないものと重なって自暴自棄ぎみともいえる状態であった。
野球部の面々も志願兵として一人抜け、二人抜け・・並木は自分の心のおき場所によりどころを探す。そんなとき志願兵受付の時、敵を撃滅する”特殊兵器”に乗って
戦闘に参加したければ名前と二重丸を書けと言われ並木の血が騒いだ。俺の出番だ、この特殊兵器を操って日本が苦戦する戦況を救えるんだ!。
冷静になって考えてみるとその特殊兵器と言うのは”回天”と言われる自爆型の潜水艇であることが判明する。しかしここで引き下がるわけにはいかない、しだいに家族や
恋人を救うためにはこれ以外自分に選ばれた道はないと確信するようになってきた。
仲間は次々とその任務を全うした。自分は2回もの出航にもかかわらずいまだに出撃の機会が無い、一度は目標船に遭遇せず、二度目は出撃命令にもかかわらず
スロットルが開かず出艇が出来なかった。死ぬ覚悟をしたのにまたしても生かされてしまった。
次の出撃では絶対に成果を・・・、しかし訓練中に並木の艇は浮いてこなかった。そして戦争は終わった。
スポーツで試合というのは仮想敵とみなした相手を倒す、そこにはルールが定められ身の危険は排除される。しかし戦争はスポーツではない、相手を殺さなくては自分が
殺される。一流のスポーツ選手はそこの所を良くつかんでいる、そしてその精神状態の神髄はスポーツと戦争は紙一重という事も判っている。
しかしそれ故スポーツマンの純真さがよくわかる、横山さんはそのスポーツ選手に照準を当てて戦争を書いた。
いくら書いても書き切れない、こんなバカな戦争は絶対にしてはならないし煽動することも許されない。冒頭、某年と書いたがそれは過去の事・・という意味ではなく昨日の事
という気持ちを込めて・・・。
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[No. 86 ] 8月 2日
「晩菊 」・北澤研作
2010年作・ 95ページ
北澤研作さんはわたしの母方の叔父です。母も含め10人兄弟の末っ子ですが今年すでに83歳になります。。
終戦間際をご苦労されて働きながら進学し教師の道に進みました。。
しかし安易は望まず更に向学心に燃え高校で数学教師として勤め教員生活をおわらせました。ご自分の好きな数学をどうしたら多くの生徒に楽しく学んでもらえるか・・、
そんな熱烈教師の自叙伝です。副題には「一教師の回想」とあります。
わたしにとって叔父さんと言っても私とは15歳の差、母の実家に集まりが有って行く度、並いる伯父、伯母から比べると何となく親しみを持った叔父さんであった事を感じ
ていましたし母校の先輩と言う事も身近な存在でした。
すでに5年ほど前に本書の前号として「春竜胆」を著しておられます、それには大阪工業大学をご卒業された後西宮市の中学に数学の教師として赴任したところ
までを書かれていました。
その後「晩菊」では中学校を2校受け持ったのち30代後半から多くの高校の数学教師として成果を上げられました。60歳で公立高校の教師としての職を辞した後
5年ほど私立学園の非常勤講師としたのち66歳で退職されました。
まえがき・・でも書かれていますが叔父さんは28歳と言う教師としてのスタートは遅かった事とご自分の生涯のご趣味である大輪の菊作りをあわせて「晩菊」と題した
とも書かれていました。遅いスタート・・と言う意義はご本人にとって大きな意義を感じられるかとも思います、しかし後輩からみてスタートが速い遅いは成果に大した影響は
ないと言う事も教わりました。
この晩年になって叔父さんは多くのクラス会に出席して教え子たちと旧交を温めています、いかにその関係が教師と生徒の枠を超えて人との繋がりを重んじて来た証かと
想いました。この書の印刷・製本を引き受けてなお温かな寄稿文を寄せられた方も中学校の教え子さんと言いいます。
仕事を終えて別れる生徒への言葉としてご自分の趣味、菊の世話の事を話します。「挿し芽をして良い苗を作ることが大切だ、しかしそれは枝を挿さしただけでまだ
芽が無い、暫くは萎れるがやがて自分の力で根を張って丈夫な苗が育つ、苦しくとも耐えればきっと楽しい未来が開かれる」
叔父さんは何時も私とメールのやり取りもしています、そしてそのホームページも教え子さんや多くの仲間の皆さんに支えられて掲示板はいつも賑わっています。
いつまでもお元気でご活躍ください。
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[No. 85 ] 7月 26日
角川文庫
「風のみみたぶ 」・灰谷健次郎
2001年作・413ページ
今日も猛暑日、しかも陶芸の為の火入れをして早朝から窯と温度計を監視しています。その世界は二重ガラス窓の外の様子、こちらは冷房をして読書を楽しみました。
灰谷さんの作品に接するのはこれで2度目になります。前作があまりにも鮮烈・・というか彼に初めて接した驚きのまま今回の作品のギャップは”ウサンクサイ”・・、作品に
なってしまいました。
籐三夫妻は老齢な画家仲間の翔太郎家を何年振りかでを訪れることになった。籐三と翔太郎は幼いころからの親友、しかもお互い高名な画家として過ごしてきた。
バス停に迎えに来た翔太郎の孫息子はすでに17歳の高校生、久しぶりに面会する若者としばし語らいながら親友翔太郎の家に着き、歓待を受けることになる。
籐三と翔太郎は久しぶりの再会を祝って昔話に花が咲く、しかし孫息子もその輪に加わって且つ籐三の妻、少年の母親と同次元で人生の価値観や疑問点を話題の中心
にすえて舞台は進展する。
籐三夫妻は翔太郎の家を後にし、しばし翔太郎家族と伊豆めぐりや東京見物をする。そしてやはり同じ価値観を持って夫妻は東京を後にして信州から新潟へと旅をする。
実はこの旅は籐三夫妻にとってはお互い自栽を覚悟の旅でした。85歳の籐三にとって妻の病気宣告は妻以上の苦痛でありお互い納得の上での旅なのでした。
しかし、最後の新潟で良寛の庵やその足跡をたどるうち籐三は妻に伝えます。「俺は最後までお前を看取ってやる・・」と言って、持ってきた白い錠剤を海に投げ捨てる。
妻も「やっと、その気になってくれましたか・・」と安堵する。
前半の翔太郎家での会話では17歳の少年を含め読者に説教的な会話が多く読んでいて馴染めない、そして実はこの旅は籐三夫妻にとっては自栽するための人生最終章
の旅だった・・・、と言う事でどうも焦点がぼけ過ぎた、しかも気に入らないのは主人公が画家であり名前が籐三?、妻が余命いくばくもない旅・・、灰谷さんのこう言った作品
の構成能力を多少疑う事になってしまった。
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[No. 84 ] 7月 24日
集英社文庫
「よろしく 」・嵐山光三郎
2006年作・379ページ
嵐山さんも60歳代になって都心に住むのも疲れて来た、郊外に住んでいた父と母、特に父親の最近の衰弱がひどくしかも少し物忘れもひどいようだ。
そんなこともあって実家の隣に家を建て半同居的な生活に入った。
ノブちゃん(父親)は何かにつけて時おり戦争体験を思い出すのか奇妙な言動が目立つようだ、トシ子さん(母)は昔堅気の良妻賢母、この我が儘で頑固なオヤジによく
従い、そして立てて来た。
久しぶりに地元に帰ってくると小学校の同級生たちは当時の性格そのままにこの街で謙虚に暮らしていた。クラス委員で競い合っていたK 沢君はもうすっかり焼き鳥屋の
主人が板に付き市会議員の夢もいつの間にか失せていた。憧れだったルリ子さんはまだピカピカしていたがその生活は決して幸せそうでも無かった。特にY 山君は
怪しげな消化器販売や恐喝まがいの生活をしていてわたしもそのとばっちりに閉口した。
ノブちゃんの生活はいよいよ厳しくなってきてトシ子さんの面倒ではどうにもこうにも支えきれなくなってきた。ノブちゃんを説得してようやく老人施設に入ってもらった。
もともとこの世代の人たちはこの「日本を支えてきた」と言う自負で満ち溢れた方達ばかりなので小さな社会・・という感は否めない。そんななかでもノブちゃんは比較的
わたしの期待にこたえて耐え忍んでくれていた。
ある日ノブちゃんが吐血して病院に搬送された。一命は取り留めたものの、ひにひに体力は減衰し言葉もしゃべれなくなった。手招きでボールペンを持たせ押さえていた紙に
何とか文字を書いた・・・「よろしく・・」、ノブちゃんは少し口をあいたまま亡くなった、86歳。
光三郎さんはお父さんの介護に奔走しながら故郷の街で起こる事件に一喜一憂しながら過ごしたが、その源流には”短歌”を通して家族のきずながよく伝わってくる、そして
それぞれがその評価を通して心が支え合っている様子がうかがわれる。
またひとつ、昭和初期の美しい家庭の灯がきえていく・・。
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[No. 83 ] 7月 11日
角川文庫
「さびしいまる、くるしいまる。 」・中村うさぎ
2006年作・260ページ
ごめんなさい、中村さんの作品に興味が有って読み始めたこの本ではありません。中村さんってどんな人?で読み始めました。
エッセイ風な文体なのでこの本を読めば少しは判るのかな・・と想っただけでした
作家仲間の友人と新宿のホストクラブに興味本位で立ち入った、どうやら誰でもいいからホストを指名した方がサービスがいいらしい。看板を見て比較した所、顔立ちが
私好みの”春樹”にしようと決めた。
席について間近でみると写真より全然素晴らしく素敵だった、しかし話してみるととんでもないバカだった。ではあるが、とても素直でそういう知的な話題さえ出さなければ充分
私はいやされた。
春樹の年は私より15歳も年下、恋愛感情など湧く気もしない。むしろむりをすれば弟気分・・かもっと息子に近い感情かも知れない。
月末のある晩、そのクラブの売上ランクが発表されると言う、私の春樹は入賞ランクぎりぎりのところでしかも入賞した事はないと言う。よし!、私がギリギリの時間を狙って
特別の高い飲み物を注文してランク入りさせてあげよう。しかし、結果は更に下に控えていたヤツに越されて飛びこされてしまった。私はそれからと言うもの春樹にランク入り
させてあげたいばかりに沢山のお金をつぎ込んだ・・・・・。
まあ、エッセイにしてはここまで赤裸々に自分を見つめて書き立てなくては気が済まないんでしょうか。もう少したしなみと言うものも考えられないんでしょうか、読んでいても
腹立たしささえ感じてきてしまいます。
しかし、要所要所に鋭い指摘が有ります。春樹がナンバーワンホストになれなかった時、「”王座”と言うものはそこに至る苦しみや失うものの大きさが有る、バカな春樹に
それを望むのは酷のような気がする、自覚のないものが安易に望んではいけないしんだ。」
中村さんの毒気が抜けるのにかなりの時間が必要とされます。しばらくはあなたの作品にお目にかかる気にはなりません、あしからず・・・。
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[No. 82 ] 7月 9日
新潮文庫
「老人と海 」・ヘミングウェイ・福田恆在 訳
1952年作・170ページ
若いころ映画で見たことが有ったと思う。ですから読書をはじめて原作より先に映画を見たのはこれが初めてでしょうか。永い年月を経た事もありますが単純化された
舞台と登場人物のお陰でとても新鮮に作品に接することが出来た。
舞台はカリブ海のキューバのとある漁村、老漁師サンチャゴは暫くの不漁が続き気は迷入っていたが気力だけは老人特有の粘りとネバーギブアップ精神だけしか
備わっていないにもかかわらず今日も小舟に乗って漁に出た。
今日も不漁・・とあきらめかけた時、想像もできない巨大なカジキマグロを捕獲した。捕獲したと言ってもそれは単に釣り糸によってカジキマグロと老人が対峙しているだけの
ことであってその駆け引きいかんでは巨大マグロに軍配が上がって逃げおおせられてしまうかもしれない。なにしろ老人の小舟を上回る大きな獲物である事には
変わりはない。
彼はカジキマグロの曳航にまかせるままに身をゆだねひたすら獲物の弱ってくるのを待った、しかし彼もしだいに体力の限界を感じしかも左手は痙攣してしまって最後の
決闘には全く役に立たなくなってしまう・・。とにかく体を休めよう、食べられるものは何でも食べて体力をつけよう・・・、そして左手は次第に動かせるようになってきた。
そして遂に4日間に亘る死闘の末ついにその獲物をしとめた。しかしその獲物の巨体を船に引き揚げることはできず小舟に曳航される巨大カジキマグロは出血の血道を
海に残してしまう。やがて血の匂いに敏感なサメが次々と獲物に襲い掛かり・・・。
ヘミングウェーはこの作品を50代半ばで書きました、恐らく主人公サンチャゴの年代を私と同じ60代後半に見立てたと思います。第1次世界大戦に従軍し更に第2次
大戦には記者として参加しています。
戦争では相手を殺さなければ自分が殺される場面はどこにも存在します、気力・・の失せた方が負けという実体験を経験した身であるからこそこんな迫力ある作品を創出
できたのかと思います。仮想敵、私達はスポーツによってそれに似た体験をします。私の年では技術面の問題以前に”気力”が有る種前面に出てきます、そんなことを
熟知したヘミングウェー氏、62歳の若さで自栽したとあります。
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[No. 81 ] 7月 7日
新潮文庫
「ひとり暮らし 」・谷川俊太郎
2001年作・237ページ
谷川俊太郎は詩人だ・・くらいは知っていました。私はそんなことよりなぜ「ひとり暮らし」をしていてどんな生き方をしているかに興味を持って手にした本でした。しかしなぜ
ひとり暮らしなのかはこの本の中では触れていない、だいたいいい年(いい加減の年)の男が一人で住んでいるなんてことは余程の事情が無い限り褒められた事では
無いと思う。
「私」27編、「ことばめぐり」11編、「ある日」23編の日記、・・・つまり61編のエッセイ集と思って読む事が出来る。
この人の詩を読んだことはありません。しかしそういう人だからこそ小説家にはまねのできない凝縮した味わいの深い言葉がこのひととなりを表しているようです。
ですからこの60編のエッセイによって谷川俊太郎像と言うものも良く見えてくる。彼は一人っ子で育って過分な母親の愛情を享受しながらも晩年の母親に対しては
実に醒めた目で接するあたり古いタイプの現代っ子・・・ともとれる。
この本を読んだ後彼の事について少し調べてみると、どうやら3回も結婚しているようだ。2番目の結婚で男児一人をもうけているが3番目の結婚も生き別れのようである。
彼にとって恋は大変な作業のようでありマザーコンプレックスの反動により全ての恋(愛)に対する理想はことごとく打ち破られたかのようでした。
「・・・ひとつのからだ・心は、もうひとつのからだ・心なしでは生きていけない。その煩わしさに堪えかねて、昔から多くの人々が荒野に逃れ、寺院に隠れたが、幸いなことに
そんな努力も人類を根絶やしにするほどの力は持てなかった。・・」
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[No. 80 ] 6月 30日
集英社文庫
「家日和 」・奥田英朗
2007年作・258ページ
小春日和、行楽日和・・・・などの引用から、家日和・・?。何となく楽しそうな、ほんわかとした雰囲気の家族の小説でしょうか。表紙の航空写真に映し出される建売の
家々、一見個性の無い表面を装いつつもその家の中の人生模様はそれぞれに個性的です。6軒の家の中をそれぞれの題材に・・・・。
夫婦で晩ご飯を食べているとき、夫の栄一が、品川駅前でカーテン屋を始めるといいだした。妻の春代はその言葉を聞きいつものように暗い気持ちになった。
栄一が今の会社に転職してまだ1年だ、それも春代が知る限りにおいても五つか六つ目の会社である。明日までもう一度思い返して冷静になってから決めても遅くは無い・・
・・と言ったがすでに辞職願を出して来たという。
なんでも品川エリアの湾岸沿いに新築マンションがバンバン建っていてそのどの部屋にもカーテンを掛けると相当な数になるし、その店は早い者勝ちで自分が始めれば
数年で何千万もの利益が出ると言うものだった。
そんな資金はどこから調達できるの・・?、そのための蓄えが600万円ほどあるだろう?、あれは駄目よ!。春代は自宅でイラストを描く仕事をしていた、雑誌やパンフレット
の挿絵程度のものだがそれでもOLの給料ぐらいは稼いでいる。
カーテン屋をはじめて最初の内は戸惑いもあり中々軌道に乗れなかったが春代も必死に手伝って何とかマンションごとの既製カーテンを作り置く企画が当たってかなりの
儲けが見込まれるようになった。
そんな忙しい合間を縫って春代の描いたイラストは雑誌社から「近頃一皮むけた感じの新鮮さが感じられる・・」と褒められた。たしかに自分でもなぜか知らないが描くものが
次々と斬新的でクリエイティブなのだ。
カーテン屋は軌道に乗り従業員も仕事に慣れた。春代もひと段落、ではイラストに専念しよう・・・・と、変だ!!、インスピレーションが枯れたように湧いてこない。こんな
気持ちは以前に何回も味わっていた気がする。まさか・・・?、ちなみに今までのスクラップを引っ張り出して見入った。
果して、その作品の中でも編集者から「おう!すばらしい・・」と言われた時期の作品の年号は夫の転職時期と合致するのであった。
最後は小説家を題材にした作品ですが、恐らくご自分の事を自叙伝的にまとめている。・・・もう三日間、一字も書けずにいる、小説家が小説を書けないと本当に苦しい。
道行くサラリーマンをつかまえて「貴様にこの苦しみがわかるか」と詰問したくなる・・というくだりが有りましたが奥田さんはこの本で柴田錬三郎賞を戴いたとある。この人
転んでもただでは起き上がらない人みたい。
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[No. 79 ] 6月 24日
集英社文庫
「氷結の森 」・熊谷達也
2007年作・571ページ
熊谷さんの作品で「…の森」とくれば当然、”相剋の森”や”邂逅の森”のように秋田地方で活躍したマタギを題材にした壮大なスケールの作品を思い出しましす。
ですから「氷結の森」とくれば新たな視点からのマタギの作品かと想って購入してきたわたしの思惑は大きく外れました、しかしこの作品の原点はまさしくマタギを生業とした
家系の血をひく一人の男の生きざまを壮大な舞台として樺太からシベリアにまで発展させた長編、一大スペクタクル作品でありました。
1920年ころの極東、南樺太には様々な日本人が居住していた。その居住者の多くは元々の原住民(ニブヒ)と東北地方の農家出身の二男坊やそれ以下の男たちが
新天地としてここを永住の地としてニシン漁や木こりとして生活をしていた。そして中には最果ての地まで追われる身として流れ着いたものも少なくはなかった。
柴田矢一郎もどちらかと言うと流れ着いた・・と言う事であろう。矢一郎は秋田阿仁でマタギを生業として一家の家督を継ぐ身ではあった、しかし日露戦争に参戦し一年半
の後帰郷してみると結婚したばかりだった妻がつい先だって男子を出産したばかりだと言う。
親戚一同はこの場は家督としてその子を認めて穏便に家を守ってほしいと望んだ。
矢一郎はマタギとして狩猟の腕も相当なものであったばかりか戦地においてもその射撃の腕前は職業軍人からもその退役を惜しまれるほどであった。そんな矢一郎が新
天地として求めた場所はこの南樺太であった。
10年ほどは黙々と働いた、ニシン漁でも木こりをしてもその腕力と正義感あふれる働きぶりにどの仕事についても親方衆は自分の片腕になってほしいと望んだ。そんな
矢一郎であるから情を寄せたがる女もあちこちにいたが矢一郎は一向に無頓着であった。
或る日ニブヒの女の子が日本の子供たちにいじめられている所に出くわす。矢一郎の正義感から怪我をしたその子を助け、背負って家まで送り届けてあげた。
そんなこともあってニブヒ集落においても矢一郎の人気は非常に高かった。
一方、矢一郎の故郷では事の顛末により嫁とその子は火の中に身を投じそれを助けようとした義弟は大やけどを負ったが一命は取り留めた。しかし、義弟は矢一郎に姉の
恨みを晴らすためはるばる樺太まで追跡してきた、一転矢一郎は逃亡者としての道も歩まなくてはならなくなった。
ニブヒ族の娘タイグークはすっかり成長し自分は矢一郎の妻になりたいと思うようになる。奇しくもタイグークは流れ者一味にさらわれて下手をすれば身売りに出されてしまう
恐れのある事を知る。そしてその行く先は極東ロシアのニコラエフスク・アムーレという街であり多くの日本人、中国人、朝鮮人、ロシア人が混在している商都である。
そして不運にも西で始まったロシア革命の火もこの極東にまでおよび駐留していた日本軍と共に日本人はすべて殲滅されてしまった。
熊谷さんの小説は膨大な資料の調査、そして現地の見聞など体力を惜しみなく使っての取材活動によって得られた情報をもとに想起された文章であって迫力が違い
ます、今回も厳寒期の間宮海峡をスノーモービルで走破し実体験を表現している所が彼の制作態度ととらえることが出来る。お年もちょうど50歳くらい・・ますます油の
乗り切ったころとお見受けます。これからどんな作品を発表してくれるか目が離せなくなった。
話は変わりますが今回のカナダ・冬季オリンピックのバイアスロン競技、日本女子選手の中に先祖はマタギ・・と言う記事が有りました。深い雪の中を走り回って、そして
標的に集中する・・、「血は争えない・・」と言う文面に得心がいった思いをしたばかりでした。
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[No. 78 ] 6月 21日
中央公論新社
「ミーナの行進 」・小川洋子
2006年作・348ページ
12歳の春、朋子は小学校を卒業し暫くの間六甲山の麓にある親戚の家に預けられることになった。
父親の亡くなったあと母の手で育てられていたがその手仕事である洋裁の専門知識を深め寄り良い仕事に就くために勉強をしたいということからであった。
母は岡山から東京の専門学校へ、そして朋子は新しい中学校を芦屋の伯母さんの家から通うため一人で新幹線に乗って新神戸駅に降り立った。
伯母さんは母の姉、ふびんな妹の暮らしを心から支えようと朋子を預かりたいと申し出たのであった。幸いにも伯母さんの上の息子はスイスに留学中、下の娘ミーナは
朋子より二つ下、姉妹相手としてもそして健康に恵まれないミーナの頼もしい友としてうってつけと思ったからでした。
飲料会社の社長をしている伯父さんはドイツ人の血を持つ家系であったが結婚相手に自社で働いていた若かった伯母さんを妻に迎えて一男一女をもうけ芦屋の広大
な屋敷で何不自由なく暮らしていた。
朋子は伯父さんの日本人離れした身のこなしの良さやこの屋敷を支えてくれる使用人の人たちの優しさにすっかり自分の惨めさを忘れ楽しい中学生活を送ることが出来た、
なかでもミーナはぜんそく持ちの弱い子ではあったがすっかり朋子に心を開いて慕ってくれる事が嬉しかった。
朋子が何よりも驚いたことはこの家には小人カバの”ポチ子”が住んでいる。そしてさらにその性格はおとなしく人に全く危害を与えない事を理由に病弱なミーナの登校
にはこのポチ子に乗って来る事が認められていると言う事でした。
ミーナは図書館に行くことができません、従って朋子は芦屋市立の図書館カードを作ってミーナの読みたい本を代わりに借りてあげる約束をした。読書好きなミーナは沢山の
本を読み大きな視野も読書から吸収し心だけは素晴らしい経験と優しさを育てて行った。
いつしか朋子は図書館員の人と親しくなり、返しに行った本などからその本の感想を聞かれるようになったりした。「・・実は私が読んでいるのではない・・」とも言えずに
ミーナから聞いた感想をそのまま言ってみたりしてその場をつくろった。
母の勉強も終わって朋子も岡山に帰ることが決まった、カウンターに図書カードを差し出し「長い間、ありがとうございました」「残念やなー、君ともう本の話ができんとは」
朋子もミーナにならって沢山の本を読むようになっていたのです。
あれほど何度も、いつだって遊びに行けるわよね、芦屋と岡山は近いし・・・。その後30年以上にわたる月日の中で朋子とミーナのあったのは数えるほどしかなかった、
決して、疎遠になったわけではない。ただ子供のころ想像していたよりも月日が速く過ぎて行っただけの事だ。
わたしの購読している読売新聞の週刊連載ページとして載っていた事は覚えています、でもそう言ったものや毎日の連載小説などには興味がわかずやり過ごしていました。
しかし毎回の連載には独特の画風の寺田順三さんの絵がのっていて楽しかった記憶が有るだけでした。
本屋さんで「ミーナの行進」を目にした時、もしや寺田さんの挿画が見られるかも・・・?で手にした本でした。
図書館員さんは「このカードを返す必要はないですよ、何の本を読んだかは、どう生きたかの証明でもあるんです、これは君のもの」
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[No. 77 ] 6月 11日
新潮文庫
「名人 」・川端康成
1951〜1954年作・175ページ
第21世本因坊秀哉名人は昭和15年熱海の旅館で死んだ、67歳であった。
名人の引退碁で挑戦者の7段に負けたのが昭和13年の末のことで、川端康成さんはまだ30代終わりか40かという年齢である。そして新聞社の依頼を受けてその観戦記
を連載して新聞報道し、大変な人気を博したようでした。
もっとも今とは違ってこの勝負は半年にも及びましたから難しい局面では長考に次ぐ長考で一日わずか5手しか打たなかった事も有ったようでした。ですから新聞の読者に
とってもこの先行きが気にかかる所で”岡目八目”どころか俺だったらこう攻めてやる・・・と巷ではすっかり解説者気取りの棋士であふれかえったと言います。
それは川端氏の作家としての洞察力から棋士同士の迫力ある状況観察を通じてその臨場感を表現しきれたと言う事でしょう。そして氏自身もその臨場感を新聞記事に
した事では収まりきれず、昭和17年から21年にかけて雑誌に連載し、そして更に26〜29年に加筆完成されたと聞きます。
さて、局面は中盤を過ぎお互い身体の疲労も増してきた。この戦いは真剣勝負、引退碁とはいえ名人が勝って名人の座を譲り渡す事が出来れば本望であった。その日は
時間が来て7段の”封じ手”を書いて封筒に収め封印をした幹事がそれを預かる。7段がどこに打とうとしたかは誰にもわからなかった。
”封じ手”は手番の棋士が相手にも世話人にも見えぬように棋譜に書いて封筒に入れる。ですから誰にもわからないが大方は次はここだろうの見当は付いていた・・・、
しかし打ち継ぎ当日幹事が封印を対局者に確認させてから開封しその位置を確認したが見当たらない。「見つからないはずはない黒百二十一の封じ手は果してどこに
打たれるのかこの碁のクライマックスとして観戦の私達も固唾を呑んでいた一手だ」
しかし、その一手は戦いたけなわな場面とはおよそかけ離れた遠い上辺に打たれたのでした。私はさっと胸が曇って波立った。7段は封じ手を戦術に使ったのだ、卑怯で
卑劣だと思った。
名人は嘆きます「この碁もおしまいです。彼の封じ手で駄目にしちゃった、せっかく描いている絵に、墨を塗られたようなものです・・」その後名人は白百三十の一手が敗着と
悟り、結局7段の黒二百三十七手止まりで不敗の名人は五目差で負けた。
私のような”ざる碁”の程度には理解できない棋士の鬼気迫る真剣勝負の世界をのぞいてきました。しかし名人の中に見る武士道のような気概をもつ流れを汲むことが
できます。そして若く上を目指すものは勝負にこだわり時として結果にこだわり勝ってはみたものの試合に負けたも同然と見られてもしょうがない。
南アフリカでのサッカーワールドカップ、ニッポンのファンとしては勝負にもこだわりなおかつ武士道のたしなみも世界に知らしめてもらいたい。
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[No. 76 ] 6月 3日
集英社文庫
「坂の上のμ 」・伊集院 静
1992〜2007年作・255ページ
今でも鮮明に覚えている事が有ります。小学校4年生の春、学校のグラウンドではありましたがたしか地区対抗の野球大会だったと思います。私の地区最終回の攻撃、
1点を追う2死満塁で私の打順です。前走の内二人は4球選択のフォアーボールでの出塁、当然敵のピッチャーのコントロールは不良です。カウントは2−3、私の小さな
ハートは高ぶりました。この打席一度もバットを振っていません、つまり攻めなのに気持ちはすでに守っていたのです。
次の瞬間、審判の声は聞こえませんでしたが敵のピッチャーは飛び跳ねて喜びを表現していました。それ以来私は野球をしなくなりました。
この本には8編の短編が盛られている。そしてそのすべてが野球と関連した作品となっている。高校球児として活躍したけれどそのあとの人生がはかばかしくなかった・・とか、
大学野球で、社会人野球で、プロ野球の社会で・・、そして最後には「坂の上のμ(ミュー)」として少年野球を通じて子供社会の問題にも触れた作品で締めくくっている。
天才投手とまで言われた男が高校の合宿中にヤクザの妻にそそのかされて密会しているところを見つかってしまった。逃げようと裸のままヤクザに体当たりしたところ不運
にもヤクザは倒れて頭の打ち所が悪くそのまま帰らぬ人となってしまった。その後の人生は・・・。
全ての作品はすべてハッピーエンドではないのです。もう取り返しのつかない人生の荒波に押し流されていった上での生きざまが赤裸々にその一生を暗示させるのです。
そして「…μ」は草野球を通じて知り合った少年たちと少女、いつしか強い絆の友情に結ばれてそれぞれの中学校に進学したのだが少女の自殺はいじめが原因だったのか、
いや、そんな弱い子ではないはずだ・・・、仲間の少年たちは調べて行くうちに思いがけない少女の芯の強さを見つけ出すのだった。
そう言えば来週は根っからの少年野球人生を歩んできた幼なじみ、そして芯の強かった元少女たちが幸三郎さんもおいでよ・・!、で郷里に帰って会う約束をした。もっとも
わたしは母に会うため予定はしていましたが日程を合わせての楽しみだ。
幼なじみって幾つになっても土の匂いがして「…μ」のように安心感と郷愁がたまらないものです。そんな感性を備えた伊集院さんの作品も温かかった。
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[No. 75 ] 5月 20日
集英社文庫
「となり町戦争 」・三崎亜記
2005年作・272ページ
”み”のコーナーで間違って指に引っかかって棚から落ちてきました。三崎亜記・・シラネーナー、それにばかばかしい題名。たまにはこう言った娯楽作品もいいかもしれない、
「となり町との戦争が始まる・・・。」キットばかばかしくて面白そうだ。
舞坂町の広報誌[広報まいさか]でそれを知った。『となり町との戦争のお知らせ』開戦日・9月1日、終戦日・3月31日(予定)、開催地・町内各所、内容・
拠点防衛・夜間攻撃・敵地偵察・白兵戦、お問い合わせ 総務課・となり町戦争係
こんな平和な地方の街でまるで戦争マニアが迷彩色の服を着てモデルガンで銃撃戦ごっこに興じている図式なのです。面白がって読み進むうち町役場の職員は真剣、
しかも要所要所は外部委託業者まで雇って戦争は組織の中で整然と執行されていくのです。しかし主人公の僕にはその戦争の実態が見えてこないのです、銃声も聞こえ
なければ白兵戦においてもその拠点が見えてこないのです。しかし広報紙では確実に戦死者の数を報告し犠牲者まで増えている事を伝えているのです。
僕は町から指名されて特命偵察の業務に就くことになった。この業務は裁判員制度のように公的業務として勤務先にも行政からその通達を受けその間の報酬は行政から
支払われると言うものであった。そして町の担当職員と臨戦態勢のとなり町のアパートを借りて夫婦としての届け出をして潜入居住してその任務にあたった。
しかし前線の近況は妻役の担当職員からうつろに聞かされた情報しか判らない。でも僕たちの任務遂行のためには「夫婦然・・」としなくてはならない業務規定もあり、ああ
僕の揺れ動く気持ちの高まりは・・・。
この作品はただの娯楽作品ではありませんでした。町の抱える問題、そしてその行政に群がる公益私設の業者の癒着や業務分担、弱者救済のための処置が多数決や
町の業務効率のためおざなりになってはいないだろうか。そして個人にとっては広い意味で個人の満足が回りまわって他の人を傷つけてはいないだろうか、ひょっとして
そのために命を落とす人もいるかもしれない、ただ気がつかないだけ・・・。これは私達に”町”ではなく”国”に置き換えて考えてみたら・・・けっこうヤバイです、傷つく人、
亡くなる人そして見えない戦場。三島亜記、この本ですばる新人賞受賞デビュー・・か。
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[No. 74 ] 5月 19日
ちくま文庫
「百 鼠 」・吉田篤弘
2005年作・205ページ
昨年、吉田さんの作品に初めて触れ楽しかった記憶があまりにも鮮烈でした。後に映画化の企画もあると聞いた時恐らく気持ちの安らぐ作品に仕上がるだろう・・と
思った次第でした。そんな期待も込めた今回の作品、さてどんなだったんでしょうか。
この本は3部作・・、「一角獣」「百鼠」「到来」からなっていました。いずれも独立した作品ですが大きな流れは吉田さんの創造しようとした世界に私がどれほどのめり込めるか
・・、そして中、強、弱のシュールレアリズムの世界でありその「強」に当たる作品が百鼠でしょう。私のもくろみは大外れ、そして新しい吉田さんの世界に首を突っ込んだ。
鼠・・・、それは言わずと知れた動物の鼠の事ではなく黒と白を混ぜ合わせることで出来る合成色、つまり「鼠いろ」であります。主人公である作家としての役割はその鼠いろを
いかなる調合で黒と白を混ぜ合わせて作品として作り出せるか、そして微妙な色相環と彩度をコントロールして100以上、数限りない鼠を「表現し放つ」ことにあります。
その立体空間の中に現実と非現実、文章家としての表現にかかわる一人称、三人称などジレンマと空想表現を実験した作品だと言う事が出来ます。
そんなバランスシートで読んでみると「百鼠」はストーリー性が弱くシュール性が強く色彩でいえば極めて無彩色に近い作品です。「到来」は彩度も高く現実的でストーリが
現実味を帯びています。「一角獣」は吉田さんが明らかに私達を”超現実的”空間に導こうとしているのかも明白であり思いっきりだまされて楽しめました。
こうした観点で読み比べた時、作家は決して売れなくてもいいから一度は深く「鼠いろ」の世界をさまよって微妙なバランスシートを放浪する事も必要かなと感じました。
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[No. 73 ] 5月 8日
講談社文庫
「闇の歯車 」・藤沢周平
1976年作・263ページ
藤沢周平さんの作品は「三屋清左衛門残日録」「一茶」についで3作品目と言う事になりました。あまりにも三屋・・も一茶も藤沢さんが精魂こめて書き下ろした大作で有った
ため初っ端から作品の中にのめり込む事ができませんでした。それはあまりにも前読の2冊の個性が強かったと言うほかありません。
藤沢さんに疑いを持ちながらもこの長編時代サスペンスストーリーに引きずり込まれてしまった。こんな小説も書いていたんだ・・・、そしてこの他にも数多くの「闇の・・」と言う
シリーズとしての作品の多い事も解説で知らされた。
いわゆる町人が気安く出入りできる赤提灯の呑み屋が有った。酒肴も値段の割にはまずまずで人気が有ったようだ、今日も常連客で席は賑わっていた。
妻に逃げられたまだ若い浪人、娘夫婦の所に厄介になっている老人、役人仲間の女房と駆け落ちして逃げている浪人、大店のせがれ・・などなど、しかし彼らは様々な
男女の人生模様が有りそれぞれに少しまとまった金さえあれば「今よりはもう少しまっとうな生活が出来るのではないか・・」と考えていた。
そこにごく普通の遊び人と思わしき人物・・、もっとも彼もこの赤提灯の常連ではあったがそれぞれの弱みに乗じて「儲け話」を持ちかける。11年ほど前にこの市中で
押し込み強盗事件が発生していまだに犯人は上がっていない、しかも大仕事の割には人を一人も殺めては居なかった。
しかし南町奉行所の同心はこの遊び人があやしい・・・と密かに内偵捜査をしていたのだがその矢先、またしても押し込み強盗事件が発生した。そして案の定殺められた
人はいなかったが・・・。
ただストーリーだけ追っていくとこれは正しく”用心棒シリーズ”であったり”マカロニウェスタン風”な感じもしますが、さすが藤沢さんならではと思わせるのはその彼ら様々な
男女の人間模様の描写の素晴らしい事でしょう。
そして「多少まとまったお金さえあれば・・」というごく庶民的な願望と、そこに付け込む根っからの悪党、現代社会のどこにでもある落とし穴に対する警告です。
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[No. 72 ] 4月 25日
新潮文庫
「千曲川のスケッチ 」・島崎藤村
1900年頃作・211ページ
島崎藤村は20代後半長野県の小諸に中学教師として赴任する。ちょうどこの作品は約1年間の季節の移ろい、人々の暮らし、親交のあった人とのかかわり合いなど
克明に記述しています。果して明治33年ころの文章として読むと実に現代的な文体で大変に読みやすい。
しかし、ここに多少の時間差が発生し、約10年後に雑誌に連載するに当たりどうも文体も表現方法も手直ししたようです。そしてその雑誌の読み手は「中学世界」であって
藤村が東京で下宿していた吉村家の長男が丁度中学生、文章はその中学生にあて小諸の様子を手紙で知らせる形式で構成されています。
4月25日小諸懐古園の花まつり、藤村はこの美しい町小諸を実に愛情深く東京に住む中学生の吉村樹にその様子を伝えます。そして夏、古城の天主台まで登らないと
千曲川の水辺は見えないほどその河原は低くえぐられている事、落葉のころ、炬燵の話、雪の降る時豪雪の長野北部方面への話、そして山上の春・・。
季節季節に合わせて同僚の先生たちの楽しい話題、こちらの中学生の向学心や悪戯好きで可愛い事、ここに暮らす人々は生活するそのものが風景である事などを
知らせます。「・・・4月15日ころから、私たちは花ざかりの世界をほしいままに楽しむ事が出来る、・・・・懐古園の城址へでも生徒を連れて行ってみると、短いながらに
深い春が私達の心を酔うようにさせる・・・」
以前、夏目漱石の「こころ」を読んだ時その文体が手紙形式であって表現の斬新さに驚いた事が有った。しかし藤村はそれ以前に文章を中学生に充てて読ませる
と言う事からあえて手紙形式にした、しかもそれは漱石の作品にも当然影響を与えたことでありましょう。
そして自身、このスケッチする態度が後の多くの作品を生み出す肥やしとなった事が推察されるのです。それは絵を描く人が多くのスケッチをし下描きをしたためて
大作に挑むと同じような気がしました。
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[No. 71 ] 4月 16日
角川文庫
「 兎の眼 」・灰谷健次郎
1974年作・338ページ
灰谷さんの作品を初めて読みました、新聞などで「灰谷健次郎」と言うお名前は知っていました。私の浅はかなものかじりから”児童文学・・”作家としか想いは計れません
でした。そこには朽ちかけようとしている私のような人間の魂にも響く言葉の羅列に、ついうっかり涙する事を平然とうたいあげているのです。
小谷芙美先生は大学を出て結婚、そしてその10日目に小学校の担任として就く。受け持ったクラスには何不自由なく育った子供もいればとても貧しい人たちの住んでいる
ところから通ってくる子供たちも居る、そして何かもめごとが有る度かかわってくる子どもたちは必ず貧しい集落の子供たちが主役となった。
小谷先生はいわばお嬢さん育ちであった、しかし教師をするについては一つの信念を持っていた。「決して逃げない、ものごとにまっすぐ向かって処理する・・」そんな彼女を
ベテランの教師や教頭先生までが横やりを入れようとする。しかし、一見不良っぽい足立先生だけは何かと彼女に味方し応援の手を差し伸べてくれる、第一足立先生は
貧しい集落の生徒たちに絶大な人気を得ているし子供たちの気持ちを大変よくわかっているのです。
小谷先生が特に力を入れて面倒を見なくては・・と思う子に、鉄三という少し自閉症気味の少年がいた。家庭にも事情があり、優しいおじいさんと少年の二人暮らし、小谷
先生が幾ら話しかけても「う!、」くらいしか話をしない。この物語はこの少年と、新任の小谷先生、そして足立先生が主人公で学校や地域の中で子供たちの自主性を
育てていく・・・。
昔々、幸三郎少年の小学校のクラスもどこか似たような雰囲気が有った。駅に近い街中の地域から通ってくる子どもたち、そして幸三郎たちのように農家の多い地域で
育った子供たちが一つ教室に6年間もすごした。
6年間変わらずに教えてくれた先生は学級主任として一つの信念に基づいてこのクラスを通じて一つの教育実験をしたんだと思いました。そこには校長先生や、教頭先生
その他の先生方、父兄との確執もあったと聞きます。卒業のあと先生はその事を「皆にとっては大変不幸なことであった・・」といいましたが不幸と思った子供は・・・。
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[No. 70 ] 4月 10日
角川文庫
「 おかしな先祖 」・星 新一
1972年作・268ページ
久しぶりに落ち着いた時間を取り戻した気持ちです。子供の時どんなだったか忘れましたが確かこの作家の本は読んだ気がしました。SF作家、田舎に暮らしていた
幸三郎少年にとって東京に暮らし空想をめぐらした小説に現代息吹に憧れをもって接した記憶が残ります。
そして再び巡り合った星さんの作品です。10編の短編が収まっていますがあの子供のころに思い描いた都会センスあふれる作風・・?はどこに行ってしまったんでしょう。
そこには恐らく半世紀にわたるわたしの人生が疑い深い人間やすれっからしがすっかり身に沁みついた証拠なのでしょう。星さんの作品は全く変わってはいないはずです。
しかし、よく考えると必ずしも私ばかりに非が有るともかぎりません。子供のころ読んだ本でもたとえば宮沢賢治の作品などすっかりすれっからしになってしまった私でも読む度
新鮮な感情もわきますし、あらたな想いにふけることもあるのです。
ひとつの推理として、いかに斬新で現代風を突き詰めたところで所詮は時の経つに従ってその輝きは風化して行ってしまうのでしょうか。
宮沢さんと星さんを比較してしまった私に無理がある事は承知しています、形は違いますがわたしも物を表現する作家のはしくれとして大いに想いが馳せるところです。
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[No. 69 ] 3月 25日
新潮文庫
「 港町食堂 」・奥田英朗
2005年作・256ページ
ひと付き合いの中に勘違い・・ってよくあるものです。あなたの事はどちらかと言うと好きなタイプではないのです、しかし相手の方は自分はこいつとは非常に親しくしていて
気心も通じ合っているんだぜ・・って。
このひともきっと私に対して勘違いしているんではないでしょうか。それはたしかに以前何冊かの本を読んだ事はありました、しかし”もういい!”って言ったはずなのに
またしても私が籠をぶら下げて本屋の中をうろついている間にいつの間にか忍び込んでいました。しかもろくでもない自堕落な内容の・・・
何かの間違いで大藪晴彦賞、そして直木賞、柴田練三郎賞などをもらってたいへん悦に入っているところに本屋のおだてに乗って「先生、全国の港町に船で訪れて
そこの港町食堂をレポートする企画を立てましたが・・」。
「先生!・・」「ふむ!、オレもいよいよセンセイ・・か」で南から北へ全国の6港を面白おかしく紀行文に仕上げたというのがこの本です。
この人は本当に下品な人ですが自堕落な漫画の主人公のような温かみもある、私の人生で接したこんなにも毒を持った人がいなかったものですから変な魅力もある。
暫くスキーの試合が続いてまとまった時間が取れなかった中にむりやり潜り込んできた勘違い作家・・か。
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[No. 68 ] 3月 10日
新潮文庫
「 夏の終わり 」・瀬戸内寂聴
1962年頃作・232ページ
はじめて瀬戸内さんの作品にふれました。「あふれるもの」「夏の終わり」「みれん」「花冷え」「雉子」の5つの短編集となっています。
しかし頭の4編は登場人物も同一、ストーリーも関連していてひと作品とみなしても差し障り無いようです。
主人公、知子はあるきっかけで妻子もちで売れない中年の作家と暮らすことになった。と言っても作家の慎吾はほぼ月の半分を妻子の下で
暮らし残りの半分は知子と共にした。
共に人生の先行きに行き詰まり、”死”をも共に考える二人のつながりは傍目にも奇妙であり知子にとっても慎吾の妻に対して何かしら
後ろめたい気持ちでしかし夫婦然として暮らしてきた。
もうかれこれ8年もの間こうして当たり前のように暮らしてきた。しかし知子は思った、長い二人の関係を断ち切るためにはこの家を
自分から出て行くしかないのだと・・。
瀬戸内さんの経歴は良くわかりませんがある日突然に出家されて世間を驚かせました。彼女は世間を驚かせるためではなく自身の人生の
リセットをするのにこれ以外の方法は見当たらなかったと思います。
後に彼女の人生訓に触れようと多くの人が彼女の説法を聞きに来ることを知りました。
この短編集を読んでいるとききっと彼女がいわゆる中年を過ぎ尚且つ人生のリセットのきっかけは・・一つの方法としてあらゆる選択肢
があり自身の生き様や作品を通して私たちに伝えようとしている”気持ち”を強く感じます。
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[No. 67 ] 2月 23日
岩波文庫
「 山椒魚、他 」・井伏鱒二
1925年頃作・149ページ
井伏鱒二の20代の作品から50歳近くの短編作品から編纂されています。つまり彼の作家としての前半期の作品がこの中にあるわけであります。
山椒魚の彼は狼狽した。二年もの間に彼の体が成長して棲家にしていた岩屋の出入り口から頭を出せなくなっていた。
「なんたる失策であることか!」。
しかし彼はその失策を自分に判らせるためにあらゆることに考えを及ぼした。しかしそれはどんな具体的な手段もなくほぼ絶望に近いものであった。
暫くの間はこの薄暗い隙間から谷川の急流を眺めた、そこでは小魚たちが流れに遡って必死に溯上したりはたまた流されたりする無駄な努力をながめつつ
彼らを嘲笑した。
「なんという不自由千万なやつらであろう!」。そう思いつつ彼はまた出入り口に頭をぶつけて突撃を試みたが徒労に終わった。
彼はしだいに性格までもが変わっていくことを自覚した。
或る日岩屋のなかに紛れ込んだ一匹の蛙がいた。すると彼はすかさず自分の頭を出入り口の栓のようにして蛙が逃げられなくなるようにした。
蛙はおどろいて天上に飛びついて下をうかがった、その蛙は以前彼の目の前を自由に往来して山椒魚をうらやましがらせた蛙であった。
山椒魚は相手を自分と同じ状態に置くことができることが痛快であった。
「一生涯ここに閉じ込めてやる!」「おれは平気だ」「出てこい!」「出て行こうと行くまいと、こちらの勝手だ」「よろしいいつまでも勝手にしろ」
「お前はばかだ」・・。
そうやってもう二年もの間お互いは黙り込んだまま意地を張り続けた。
山椒魚が成長して出られなくなった・・、私たちの生きて行く社会の中でその人なりの考え方と言う成長をしてしまって社会と言う世間に出られなく
なってしまう人もる。しかし少しの素直さ・・さえあれば社会の窓は少し大きく開いてくれる。そんな事を考えてしまった。
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[No. 66 ] 2月 15日
ポプラ文庫
「 食堂かたつむり 」・小川 糸
2008年作・289ページ
このところ5冊は100年前のしかも男性作家の本ばかりを読んでいたので久しぶりの現代作家に心が洗われる想いがした。しかも女性の作品に和みを
強く感じます。そう言えばこの世の中は女性と男性で成り立っているんでしたね。
倫子は料理店のアルバイトを終えて帰ってきた、一瞬部屋を間違えたのかと思った。部屋の中にあった家財道具が無くなってもぬけの殻・・、
同棲していた彼が一切を持ち逃げしてしまったのだった。
倫子は突然の不幸と動揺から言葉が出なくなってしまった・・といううか、本当に声が出せなくなってしまう病気になってしまった。
しかし、唯一つだけ大切にしておいた「ぬか床」だけは室外のガスメーター室に保管しておいたため残されて難を逃れることができた。
このぬか床は倫子と肉親でただ唯一気持の通じ合っていたおばあちゃんから分けてもらって大切にしていた料理の道具だったのでした。
途方に暮れた倫子はあり合わせのお金をはたいて実家のある山奥の村に帰ってきた。倫子と気が合わなくしていた一人暮らしの母親は村で唯一の
スナックを経営していて多少派手好みながらもつましく暮らしていた。母親はエルメスと言う名前の豚を可愛がって飼っていて、倫子にその子の面倒を
みることを条件に同居・・というか間借りを許される。
倫子は物置を改造して一日一組に限って食事をまかなう事を計画し実行に移す。料理が好きになったきっかけは母ではなく祖母と親密だった頃からのもの
、そしてアルバイトの料理店で身につけたことを通してお客さんの気持ちを大切にした食事を作ろうと決めた。名前を「食堂かたつむり」とした。
だんだんに評判が広がりいろんなお客さんが来てくれるようになった。しかし、倫子は相変わらず言葉を話す事が出来ずお客さんとは筆談で意思を
伝え合っていた。
しかし母とはすれ違いの生活をすることで気持ちの中もだんだんに田舎暮らしも身についてきた。
母ががんになった、先を知った彼女は倫子にエルメスを残していくのは可哀想だからお前が料理をして食べさせてくれ・・と頼む。
村の農家の人の協力でエルメスはすっかり食材の素材に変身し、倫子は世界中の料理を作って母と村の人たちのために腕をふるって食べさせた。
後に倫子は母からの手紙を発見する。「・・・本当は、お前のことを大好きな娘と思っていたがつい口から出る言葉は気持ちと裏腹なことばかり・・」
倫子ももっと自分が母親に対してお客さんと接する時のような素直な気持ちを伝えられなかったことを後悔する。
そんな母に対する気持ちを思いながら自分に作った料理を口にした時「・・お・い・・しい・」暫くぶりで感じる自分の音声を聞く。
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[No. 65 ] 2月 5日
新潮文庫
「 或る女 」・有島武郎
1911〜3年作・556ページ
前篇(第1章〜第21章)、後編(第22章〜第49章)を一冊の文庫本に編纂するのはやめてほしい。持ち歩けない、何時も抑えていないと
閉じてしまって読みにくい、寝っ転がって読むことができない、で無様な読み方になってしまう。
主人公の女は明治34年頃に24〜5歳であったその生きざまの一年間を克明に描いている。上流社会の育ち、しかもとびっきりの容貌をそなえそして
多感、更に物覚えも良い。更に極め付きは要所要所に出てくる感情の1、猜疑心、2、うぬぼれ、3、嫉妬、4、思いこみ・・など男にとってこんな
いやな女は居ないと思うほどの設定です。
第1章は発車時刻間もない新橋駅に人力車で乗り付けて駅員の急かせるものを胡散臭そうにわざと鷹揚にふるまって付き添いの書生の男性をイライラ
させた挙句、乗車した車両にはモト彼(同棲して私生児を生んだ相手)とバッタリ出くわす・・。
第2章から第4章で彼女の生い立ちから現在に至るまでの要約が記される。彼女は年の離れた二人の妹がいます。仮に11歳と8歳としておきましょう、
つまり一回りも違う妹がいる設定です。それを除いては恵まれた環境、そして当時ハイクラスな家庭の子女に人気の寄宿寮で思春期を過ごす、そして
見る見るうちにその容貌と才媛により男の眼をも惑わす妖艶を身につけて行きます。
しかし、同棲生活を2カ月で破棄して帰った実家では父・・そして母と次々と亡きものとなって自分で幼い妹たちを含めて面倒を見なくてはならなくなった。
新橋駅車両で出くわした男もそんな彼女のいわば戯れに引っかかったと言っても過言ではありません。つまりモト彼の子は私生児として乳母に預けて
悠然として次の生活を模索しているのです。
気まぐれからアメリカで事業を立ち上げようと奮闘する知り合い(家族付き合い)の男性と結婚するために渡米する。もともと彼にさほどの魅力も
感じないままの出航でした。
長い船旅の末アメリカについたとき下船する気にもなれず、ましてやすっかり婚約者に会うことすら拒絶する気持ちになっていましいた。
原因は船員の事務長をしていた男にすっかり魅せられてしまったからです。
婚約者が港まで迎えに来てくれたにもかかわらず仮病を装って下船せずその船で帰国、帰路はまったく事務長と新婚旅行気分での里帰りでした。
そんな彼女の性格ですからその事務長との哀楽の生活も永続きする訳がありません、所詮男女の哀楽は半年も続けば・・と思いましたが3〜4カ月
しか持ちませんでした、それは彼、事務長の新しい仕事の不振もありましたが最大の要因は彼女の性格の1、〜4、に他ありません。
僅か1年ほどの間に彼女は絶世の美女でありながら精神的にもそして肉体的にもボロボロになってしかもその醜い心ばかりが際立って成長していく
読むに堪えない女になっていくのです。そして最愛の末妹が腸チフスで生死をさまよう時自身も婦人病で入院し手術をしなくてはならなくなった。
しかし彼女は見舞に来てくれることごとくの人に自分の哀れな姿をさらす事の侮辱心などからこころを荒げるのでした。
この種の手術の成否は彼女も本を読んで知っていて術後の症状でそのめどはある程度掌握していた。手術が終わって暫くしてそのような症状が出た、
それは多分危険ではあります・・という症状でしょう。
この作品はここで終わりました、あれほど心配していた末娘の病状はどうなったんでしょうか?、そして主人公はこのまま病状悪化で死んで
しまったんでしょうか?、それぞれに関係していた登場人物もその時点でプッツンと途切れました。
ここでコマーシャル・・!でもあるまい。きっと作家有島氏自身こんな女の気性を見抜いて、もう”どうにかせい!”と投げやりになったと推測します。
この作品を発表の10年後、有島氏は波多野秋子と共に自殺した・・、とあります。かれは44歳くらいで自殺?。
なにかこのころの作家って青春期の作品を”美化”するために簡単に”死”を選んではいないんでしょうか?。こんな憎たらしい女の断片を描いても
それをもっと生き伸びて実証しないと文章はスケッチで終わってしまいます。ひとを描くのはそんな中途半端な観察文章で終わらせるな!!
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[No. 64 ] 1月 28日
岩波文庫
「 檸檬・冬の日 」・梶井基次郎
1924〜32年作・229ページ
表題の「檸檬」「冬の日」をはじめ9編をおさめた作品群、梶井基次郎は1901年生まれですが当時多くの人が病んでいた肺の病魔と闘う一生
であった。そして今では考えられない31歳の若さで亡くなってしまった。
したがって残された作品も習作や遺稿をを含め45編ほどしかなく発表された作品も20編ほどであったと記されています。
さて、冒頭「檸檬」を読んでみましたが僅か14ページの作品、しかも中学生の時代にある妄想めいた感情を呼び起こされた気がする。ストーリー
も定かでなく次々とわき起こる自身の感情をキャンバスにぶつけた作品・・。確かに彼はすでに病魔に苦しめられてはいましたがそう言った鬱積を
この短編の中に凝縮させて発散しようとしたのでしょうか。
読み進むうち今度は「瀬山の話」と言う43ページほどの短編が出てくる、檸檬の1年前に発表していますがその中の瀬山のいたたまれない生活の中に
突如として”檸檬”の稿が現れる。瀬山は果物屋で買った檸檬で妄想する・・丸善の本屋で美術書を片端からむさぼり積み上げてその上に黄金いろに
輝く爆弾を仕掛けて来た・・。道を行く人にその奇怪な見世物を早く行って見ていらっしゃい、といいたくなった・・。
芸術運動の中にアバンギャルドと称する前衛的表現をする集団がはやったことがあります。100年も前の日本の文学界にもそのような表現をしていた
彼の作風は私にとって衝撃的でもあり不可解な作品でありました。きっと日を改めてもう一度読み返すともっと面白いかもしれない。
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[No. 63 ] 1月 19日
岩波文庫
「 雁 」・森 鴎外
1913年作・152ページ
森鴎外49歳の時の作品、スバルなどに2年に亘って連載されたという事ですが前に読んだ長塚節氏と同時代の作品ということができます。
一方、この作品の登場人物は当時の東京本郷界隈の学生でありその町に住む住人であります。そこには貧しさもありますが「土」に登場する貧しさとは
雲泥の差があり人としての情緒など生きること以外のいわゆる人間性の織りなす偶然性を面白く作品に仕上げたと思いました。
1〜24の項目からなっていて題名の”雁”が登場するのは22項になってはじめて出てくるのです、森鴎外がその題名の顛末を思い描きながら
学生や街の人々を登場させて読者に何が待っているんだろう・・って、作家冥利に尽きる小説だと思いました。
僕は下宿屋の飯のおかずにサバの煮つけが出て来たので、まだお腹が空いていないから散歩に言ってくると言って飯から逃れた。隣の部屋に声をかけた
「おい、岡田君いるかい?」「いる。何か用かい」「散歩に行かないかい・・」
無縁坂を居りかかる時「おい岡田、おまえにぞっこんらしい女がいるぜ」「ええ?なにが・・」。
不忍池あたりまで来た時級友の石原と偶然に会った、池には十羽ばかりの雁が穏やかに行き来している。
「あれまで石がとどくか」石原が岡田の顔を見て行った。「でも当たると可哀想だ・・」でも当たってしまった。彼らはその夜雁を肴に酒を飲んだ。
お玉と言う妾の女の一生を描いた作品と思っていたところ、お玉はいつも家の前を通る学生の岡田に心を惹かれて行く。とても少ない機会にお玉はその
気持ちを岡田に伝えようと算段をしていた。その日僕の食膳にサバの煮つけがあったことからお玉の計画は水の泡となってしまった。
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[No. 62 ] 1月 13日
新潮文庫
「 土 」・長塚 節
1910年作・347ページ
今年は2010年、つまり丁度100年前の日本の貧しい農家・・と言ってもそのころの日本の農家はどこも同じく貧しかった。
長塚節(たかし)氏は茨城県結城郡の出身でありこの作品の題材「土」は鬼怒川べりの当時のごく普通の農家の生活を実写したものであることが伺える。
取り立てて豊かなストーリー性が有るわけでもなくただただ土着した農民の暮らしを丹念に書き綴っている。
「烈しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうっと打ちつけては又ごうっと打ちつけて皆痩(やせ)せこけた落葉木の林を一日苛(いじ)め通した。・・」
黒沢明監督の映画作品の冒頭にも描写されそうな実写風景が迫力となって展開します。そして作品自体もその地方の方言で書かれているため実に読み難い
農民文学と言う事が言えます。そしてこんな表現方法に宮沢賢治が驚いて彼の作風を発展させたのかも知れない・・そんなことも思いながら苦労して
読み終えることができました。
主人公の勘次とその家族4人を題材にしていますがこの一家は同時に勘次の妻を始めとしてほぼ同じ数の人数がその役目を終えて亡くなっています。
それ故に真実がひしひしと伝わり「人が生きていく・・」つまり人も「土」と同じように虫けらの一種類としてこの世に生を受けある種の役目
を終えて当たり前のように死んでいく。
私たちが現代社会の中に有ってどちらかと言うと「精いっぱいに生きています・・」と言ったところでそれはそれで確かに精いっぱいではあるでしょう
けれど、何処か見当違いしてるみたいな気がしてなりません。
先日お墓の石屋さん、まだお若い営業の方とお話しする機会がありました。彼はお寺さんの息子さんでありそこを継ぐわけではありませんが前記した
「人はそれぞれの役目を終えて死んでいく、たとえその人が若かったとしても・・」。
土にかえるってごく自然なことのような気がします。たとえとても強欲な人でも役目が終わったら早く土に戻りましょうヨ。
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[No. 61 ] 1月 1日
岩波文庫
「 一房の葡萄 」・有島武郎
1921年作・105ページ
読んでみたい本のリストの最初に有った順に・・と有島武郎氏の作品に触れました。
「一房の葡萄」その他に「溺れかけた兄妹」「碁石を呑んだ八っちゃん」「僕の帽子のお話」「火事とポチ」いずれも短編で編集されていました。
それぞれの作品は珠玉の輝きがあって私のように年を取って涙もろい老人が読むのにはまるで小学生の作文でも読むような純真さに心がうたれます。
ボクは絵を描くのが好きでした、ボクの持っている絵具では素敵な海の色を表現することはできません、しかし外国育ちの級友の持っている二色の
絵具さえあればそれはかなえることができると思っていました。
或る日の運動時間、都合をつけてボクは一人教室に残りました。「あの二色の絵の具・・」その絵具が欲しいと思っているうちに無意識に級友の机の
引き出しを開けてしまいました。いつの間にかあの憧れの二色の絵の具はボクのポッケの中に入っていました。
運動時間が終わり級友は自分の絵の具箱の不審に気付きボクを問いただします、他の級友もボクを責め担任であった女性の先生の許に連れて行かされます。
先生は「わかりました・・」と級友たちを帰したあと教員室の窓を開けて葡萄の一房を切ってボクに「食べなさい・・」と言ってくれました。
「今日は授業に出なくてもいいですから帰ってもいいですよ、でも明日は必ず学校に来るんですよ!」といって教員室を出て行かれました。
翌日恐るおそる学校に行ってみるとあの級友が真っ先にボクを見つけて走り寄りニコニコしながら握手をしてきました。
ボクは級友の気持ちの大きさに喜びましたがそれにも増して先生が級友に諭した偉大な言葉に感謝せずには居られませんでした。
「あの葡萄は美味しかったですか・・?」ボクは「うん」とうなづいただけでした。
わずか15ページほどの短編です、こんな短い文章の中にものすごく大きな言葉があり心が詰まっています。立場は違っても私も絵を描く作家です、
この小説から感じる輝きの強さと言うのは必ず絵を描く心にも通じます。新年早々珠玉の作品に恵まれました。
残念ながら有島氏は45歳にして人妻と心中すると言う運命をたどってしまいました、この本には彼自身の描いた絵が
挿画として数点載せてありました、当時ヨーロッパで起こった美術運動であったキュービズムをかなりに意識しての挿画であり彼の画才も注目
したいところではありました。