Since 2008/ 5/23 . To the deceased wife

わけがありまして「読後かんそう文」一歩一歩書き留めていきます。

妻の生前、展覧会の鑑賞や陶芸の町を見学したりと共にした楽しかった話題は多くありました。
読書家だった妻とそうでない私は書物や作家、ストーリーについて、話題を共有し語り合ったことはありません。
悲しいかな私は学生時代以来・・半世紀近くも小説や文学作品を読んだことが無かったのです。
妻から進められていた本をパラパラとめくり始めたのをきっかけに・・・

先にある”もっと永い人生・・・”かの地を訪れるとき、共通の話題を手土産にと思って。

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<<2009年度・読後感想文索引>>

読書順番作家・書店 書名読み切り日
N0.60六道 慧・双葉文庫 「 凍  て  蝶 」 12月 28日
N0.59三島由紀夫・新潮文庫「 仮 面 の 告 白 」 12月 16日
N0.58石田衣良・集英社文庫「 エ ン ジェ ル 」 12月  5日
N0.57小川洋子・新潮文庫「 薬 指 の 標 本 」 11月 17日
N0.56夏目漱石・新潮文庫「  道  草  」 11月 10日
N0.55伊集院静・講談社文庫「 機 関 車 先 生 」 11月  3日
N0.54いしいしんじ・新潮文庫「 絵 描 き の 植 田 さ ん 」 10月 30日
N0.53三浦しをん・文春文庫「まほろ駅前多田便利軒 」 10月 25日
N0.52石田衣良・集英社文庫「 ス ロ ー グ ッ ド バ イ 」 10月 20日
N0.51森 絵都・文春文庫「 カ ラ フ ル 」 10月 13日
N0.50藤原伊織・講談社文庫「 雪 が 降 る 」 10月  8日
N0.49林真理子・集英社文庫「 死 ぬ ほ ど 好 き 」 10月  2日
N0.48小川洋子・新潮文庫「    海    」  9月 26日
N0.47夏目漱石・角川文庫「  そ  れ  か  ら  」  9月 24日
N0.46北方謙三・角川文庫「 さ ら ば 、 荒 野 」  9月  9日
N0.45石川達三・新潮文庫「 青 春 の 蹉 跌 」  8月 31日
N0.44遠藤周作・新潮文庫「 満 潮 の 時 刻 」  8月 27日
N0.43浅田次郎・角川文庫「 霧 笛 荘 夜 話 」  8月 20日
N0.42国木田独歩・新潮文庫「 武 蔵 野  」  8月 17日
N0.41城山三郎・角川文庫「   辛   酸   」  8月  6日
N0.40吉田篤弘・ちくま文庫「 つ む じ 風 食 堂 の 夜 」  7月 27日
N0.39奥田英朗・幻冬舎文庫「 ラ ラ ピ ポ 」  7月 18日
N0.38浅田次郎・朝日文庫「 椿 山 課 長 の 七 日 間 」  7月 10日
N0.37太宰 治・角川文庫「 ヴィ ヨ ン の 妻 」  7月  7日
N0.36藤原伊織・講談社文庫「  遊   戯  」  7月  2日
N0.35奥田英朗・光文社文庫「 泳 い で 帰 れ 」  6月 24日
N0.34夏目漱石・新潮文庫「  こ  こ  ろ  」  6月 19日
N0.33井上ひさし・文春文庫「 青 葉 繁 れ る 」  6月 11日
N0.32村上春樹・講談社文庫「 ノルウェイの森(上)  」  6月  6日
N0.31山本周五郎・角川春樹事務所「 雨 あ が る  」  6月  1日
N0.30石田衣良・講談社文庫「フォーティー・翼ふたたび 」  5月 28日
N0.29藤沢周平・文春文庫「  一  茶  」  5月 19日
N0.28三島由紀夫・角川文庫「 夏 子 の 冒 険 」  5月 13日
N0.27藤沢周平・文春文庫「 三屋清左衛門残日録 」  5月  6日
N0.26川端康成・新潮文庫「   雪  国   」  4月 24日
N0.25奥田英朗・文芸春秋「 イ ン ・ ザ ・ プ ー ル 」  4月 17日
N0.24北方謙三・文芸春秋「    鎖    」  4月 12日
N0.23奥田英朗・文芸春秋「 空 中 ブ ラ ン コ 」  4月  6日
N0.22天童荒太・新潮文庫「 幻 世 の 祈 り 」  3月 25日
N0.21浅田次郎・光文社文庫「 見 知 ら ぬ 妻 へ 」  3月 16日
N0.20五木寛之・文芸春秋「 青 年 は 荒 野 を め ざ す」  3月 14日
N0.19遠藤周作・新潮文庫「  海 と 毒 薬  」  3月  3日
N0.18熊谷達也・文春文庫「 虹色 に ランドスケープ 」  2月 26日
N0.17宮沢賢治・新潮文庫「ポ ラ ー ノ の 広 場」  2月 17日
N0.16夢枕獏・文芸春秋   「 鳥 葬 の 山 」  2月  5日
N0.15角田光代・文芸春秋 「 太 陽 と 毒 ぐ も 」  2月  2日
N0.14村上龍・集英社文庫 「 メ ラ ン コ リ ア 」  1月 26日
N0.13向田邦子・文芸春秋   「 あ ・ う ん 」  1月 17日
N0.12平野敬一郎・新潮文庫    「 日   蝕 」  1月 13日
N0.11熊谷達也・集英社文庫「  迎 え 火 の 山   」  1月  5日

  [No. 60 ]   12月 28日


    双葉文庫
「 凍て蝶 」・六道 慧
2007年作・323ページ

文政8年、江戸において庶民文化も爛熟期を迎えたころの長編娯楽時代小説の作品を楽しみました。
六道慧氏の作品は本屋さんでも多くのスペースを取って並べられていました。時代小説、特に江戸庶民文化を扱った作品が多いようでした。


さて、深川の永代橋近くの一色長の長屋に訳あって”時津日向子”と元服前その子”大助”が・・つまり母子家庭でつましく暮らしていました。
大助は武士の子ではあったが剣術より学問に秀でていて学問所に通っていたがゆくゆくは藩に登用もかなうほどの成績ではあった、母親想いの子は 母の暮らしを助けるためには上の学問所への進学の道を自ら絶つ覚悟をしていた。

日向子は近くの骨董屋、武士下がりの町人経営の裏口仕事である”日読み屋”の雑務用心棒として働いていた。彼女の剣術の腕前は相当なものであった。
時津日向子は武士の妻であったが夫から離縁を言い渡された、そしてその夫は藩の不祥事の責任を取って切腹自害した。夫は離縁することで妻と子が 藩からの追及を受けることなしに生き永らえてくれるようにとの配慮であった。

あるひ”日読み屋”に忘れ病にかかった武士をかくまうことになった、しかし可なりの訳ありのため彼の命を狙うものが後を絶ちません。どんな理由が あったかにもかかわらず一度かくまった人物をそう易々と人手に渡す事など元武士であった主としても許すわけにはいかなかった。
追手追撃の名手に日読み屋の男手用心棒は相当な傷を負って戻ってきた、いよいよ日向子が敵と向かい合わすことになる。ナルホド相当な剣術の使い手 、恐らくこの勝負長引けば体力で日向子は圧倒され負けるに違いない。

不意に天から一羽の蝶が舞い降りる、日向子はごく自然にそれを避けた、敵対する相手は切っ先に舞う蝶を刺した、その刹那ぴたりと相手の首筋に 日向子の太刀があてられた。「まいった!、わしの負けだ・・どうなと好きにするがよい」刀を収めてそこに座りこむ。
「この蝶が天から舞い降りてこなかったら私の方が負けていた・・」。

「夫がお守りくだされたのですね・・」日向子は身代わりとなった蝶の亡骸を拾い上げて手拭いに包んで懐に入れた。


しばらく硬い本ばかり読んだ後なのでリラックスして読み終えた。正義が勝ち、弱そうな女剣豪が天の助けで勝つ。努力は報われるそして人生、 そう捨てたものでもないよ。新しい年に向けて心の一年の総決算、実にそれふさわしいホンであった。


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  [No. 59 ]   12月 16日


    新潮文庫
「 仮面の告白 」・三島由紀夫
1949年作・213ページ

この作品の2年後に発表された「夏子の冒険」を私は三島由紀夫作品としてNo.28 で読みました、あらゆる可能性を秘めた優秀な作家の 処女作・・という感覚で読み終えた記憶がありました。
「仮面の告白は」いわゆる作家としてこれから文章を書いていく前にある種の”懺悔”らしきものも感じられる”平岡公威”自身の 自叙伝に他ならないのでした。


まだ2作しか読んでいませんから文脈からすくい取る彼の作品に対して良く解からない部分も多く残されます。
彼は私たち”平民”とは違った育ちとそれによる幼少期の飼育器そだちの精神的なひ弱さが生涯付きまとった・・と感じました。

大正の末期生まれですから彼の生涯は昭和元号そのものの生き様ということです。ですから彼が45歳・・昭和45年に割腹自殺により その生涯を終えました。
恐らく凡人は東京大学法学部に入学したこと自体自叙伝に華々しく登場することでしょうに彼にとってはそれは某大学に過ぎないのです。 初めて異性との接吻がことのほか誇大的に表現されあたかも人生の岐路に・・というくだりでは人生経験の薄弱さをも感じます。

なぜこれほどまでに彼の自叙伝に異音を唱えたいかというにそれはたとえば嫉妬も大いにあります。優れた少年期の環境、有り余るほどの 才能、それらことごとくが彼の文学の土壌になっていることへの嫌悪感です。
彼が”死”に対する憧れをこの本の中で見たとき”お坊ちゃんはこうなるんだ”、つまり彼は早晩死を自分の鼻先にぶら下げてなんとか 45年間生き延びてきたに過ぎないと感じたからです。

ただ、いまだ接していない彼の膨大な著作に触れもしないでこのような冒とくを言えるのもそれは素人の勝手でしょう。
彼には同じ年代の友達は居なかったんでしょうか、酒を飲み自分を馬鹿にして人様の話を聞く耳を持たなかったんでしょか・・、それは 彼の生き様の中で許されない屈辱に他ならなかったんだと思うんです。

それにしても「夏子の冒険」を読んだ時この人に対する包容力(育ちも恵まれた環境も上流階級のいいお嬢さん)に対する第三者的視点 に非凡な洞察力を感じた後だけに所詮は・・と平民育ちの私は落胆もした次第でありました。


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  [No. 58 ]   12月  5日


    集英社文庫
「 エンジェル 」・石田衣良
1999年作・295ページ

純一は気持ちだけはしっかりとしていた。しかし自分の肉体は見知らぬものによって寂しい山中に埋葬されていく。
彼は自分の肉体に別れを告げ魂(エンジェル)となって東京佃島の高層マンションの自分の部屋に移動して帰ってきた。

「へんだ!、ここ2年間の間のことが何一つ記憶に残っていない・・」
なぜ自分が殺されて寂しい山中に葬り去られたんだろう、この2年間に何があったのかこの目で(魂で)見届けなくてはならない。

自分のパソコンのファイルの中におびただしい金銭のやり取りの形跡、そしてその資金の出所は自分自身の口座から引き出されている。
私は青年実業家としてある新作映画のために巨額の資金をつぎ込んだことも判ってきた。

しかしその不可解な金の流れを追っていくとその映画の制作に携わっていた敏腕プロジューサー、更にはその裏で操る謎の男の存在までも浮き上がって きた。しかし作品作りに専念する病弱であった監督には一切かかわりのなかったものであった。
純一はその映画の制作場面に入り込み観察し彼は主演する女優、文緒の美しさに一目で魅せられてしまった。

そのころ純一は外界と現世のコンタクトの手段として特殊な技能の習得に励んでいた、すなわち”瞬間移動術””言語による音声術”まだ未熟ではある ものの映像術”などであった。
さっそくある日純一は女優の文緒に音声術を使って話しかけてみた。文緒は驚き「・・・純一!、今どこにいるの?、早く戻ってきて・・」

この言葉には純一の方が驚いてしまった、しかも彼女は純一の子をおなかの中に宿していると言うではないか。

一方、巨額資金の流れを調べて行くうちに暗躍する男たちが女優の文緒を使って純一に近づけさせ更に映画製作が終わった暁には「口封じ」のため文緒 までもが命の危険にさらされていることも判ってきた。

映画の完成を待っていたかのように監督はその一生を終える、そして魔の手がいよいよ文緒に向けられようとしていた。エンジェルとして彼女を守れる 方法は音声による助言しかできない、しかし純一は不完全ながら映像術を使ってみた。

彼らの動向を知った純一は文緒の住む近くの交差点に先回りして信号”青”静かな交差点を作った、交差点に進入した彼らの頑丈な車も大型トレーラー の真横に激突して大破する。


日本的にいえば”怨霊”または”幽霊”を想定した作品です。死後の世界を予測予言した作品に私の少ない読書歴でも4作品目にもあたります。
今回は超現代的な舞台設定ですからその霊もハイカラな”エンジェル”としたところが作品をコミカルに演出させています。
あくまでも娯楽作品・・、しかしそうなんでしょうか。私はそう言ったものに遭遇するチャンスにまだ恵まれていません。しかし身近な人や親しかった 人との別れを現実として受け入れなくてはならない時、霊感の乏しい自分に苛立つこともあります。

12月3日、同じスキー場で楽しく練習に励んでいた友人、碓井庸夫さんを不慮の事故で失いました。想うことはたくさんあります、ただご冥福を お祈りするのみです。



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  [No. 57 ]   11月 17日


    新潮文庫
「 薬指の標本 」・小川洋子
1994年作・180ページ

本書にはこの”薬指の標本”のほか”六角形の小部屋”の二編で構成されています。いずれも同じ中編小説です。
小川さんの作品には三度目のめぐりあわせですが今回の二編は今までお逢いした作品と趣が違っています。絵画でいえばシュールレアリズム・・という 言葉が適切かどうか知りませんがいずれの作品も中年の独身女性を主人公にした不可解な思考・・少なくとも私にはシュールな世界。


主人公の私はとある古ぼけた建物の前にいた。玄関には「標本室」の表札、その脇に張り紙がしてあって”事務員を募集中です・・”と。

ちょうど仕事が途切れていたので応募しようとドアの呼び鈴を押した。しばらくして玄関に現れたのは”標本技師”を名乗る弟子丸氏という男でした。
ここではどんなものや事柄でも依頼者の要望を受け入れて試験管の中に「標本」として保存してくれる。

時には楽譜を持って訪れた依頼者は”この曲をそのまま標本にしてほしい・・”という難解なものもあったが技師はそれについても求めに応じた。

彼女の仕事はそう言った依頼者の相談に乗ったり求められる質問に的確な方針を提示したり、標本につけるラベルの制作、事務所の整理清掃などの雑用 も含まれていた。
わたしはそういった仕事を完ぺきにこなし標本技師からも絶大な信頼を得ていた、したがって技師の弟子丸氏は完璧に仕事のみに没頭することができた。
私は技師の仕事場に足を踏み入れることはなかったしはたしてそこでどのような作業がなされているかも知るすべはなかった。

実は私はここに来る前、サイダー工場で働いていたがちょっとした不注意から薬指の尖端の肉片を機械に挟まれてその小さな断片がサイダーの槽に 落ちて、まるで桜貝の殻のようにユラユラ揺れながら落ちていって透明なサイダーの槽は薄いピンクに染まるのを茫然と眺めていた。

この事務所に勤め始めた時、少女が「3本のキノコ」を標本依頼してきた、家が火事になって父母と弟がなくなって彼女一人助かった。のちに焼け跡にこの 3本のキノコが生えて来たという。

わたしは衝撃的な事柄なのでそのことはよく覚えていた、そしてあれから2年ほどまたしてもあの少女が訪れた。「あの時の火事で頬に少しではあるが 火傷のあとが残ってこれを標本にしてほしい・・」
技師は快諾し仕事場に少女を招き入れた。いつまで経っても少女はその部屋から帰ってこなかった、しかしいつの間にか差して来た雨傘は玄関に 置かれていたがいつか水たまりを残しただけでその傘は消えていた。

私は技師に仕事の出来具合を尋ねるようなことはしなかった。ただ任されたことのみこなす事だけに精を出した。

職場の標本室は私と標本技師の二人だけの職場です。いつしか私と弟子丸氏とは心も通わせ合うことができるようになってきた。
わたしはある日、指先が少し欠けた自分の薬指を標本にすることはできないかと彼に聞く。

わたしは自分の薬指の標本に貼り付けるシールを持って仕事場に向かった。
あらためて廊下を歩きながら私の薬指が試験管の中で綺麗に保存液の中で揺れている・・、そんな事を想像しながら薬指を改めて明りに透かして眺めた、 そして私ははじめて彼の仕事場である標本制作室のドアのノブを回した。


私だけなのだろうか・・、私には理解できない女性のある種の神秘性を見る想いがする。
決して合理的でもなく成人として分別も善悪も判断できる女性が時として”運命・・”に流される状況がジワジワと迫ってくる。
小学生のころ学校で映画を見に行ったことを思い出す。主人公の少女が危ない方に判らずに足を踏み出すとあちこちの席から声が上がった「ミッちゃん!、 いっちゃダメ!!」

緻密で頭脳明晰な小川さんがこんな作品を二作、今更ながら幸三郎に複雑な人生訓を教えてくれる。イヤイヤ、小川さんあなた最近疲れているんだよ。 でもシュールな世界を作り出せるのは健全な人間にしか楽しめない戯れなのです。そうなると俺って鈍感人間なのか。



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  [No. 56 ]   11月 10日


    新潮文庫
「 道 草 」・夏目漱石
1915年作・292ページ

夏目漱石が私の日記”みち草”と同じ題名の小説を書いていることに驚きを覚えました。しかもその内容は私の日記に類似するドキュメントであって 素直な心の葛藤であることに感動しました。
漱石と100年近く隔たった時代に生きる私としても夫婦の心のやり取りや己のわがままの変遷が手に取るように描かれていて改めて夏目漱石という人に 親近感を抱きました。この小説は漱石自身の自叙伝でした。

主人公、健三はロンドンからの留学を終え文京区駒込林町に家族とともに居を構えた。
何時ものように自宅を出て教鞭につく東大に向かう本郷通りで遠い記憶に残っているような人物とすれ違う。

その遠い記憶・・、つまり健三は幼いころ家庭の事情で養父母であった夫婦に養育を任されていた。しかしその先で養父母同志の折り合いが悪くなり 本家に戻されたいきさつがあった。
その時健三の父は負担してもらった健三の養育費も養父に支払い今後一切貴家との縁を断ち切る旨の証文まで取り付けていた。

健三にはすでに所帯を持つ兄と姉がいて亡くなった父から健三と養父母に対する証文も保管していた。

・・・遠い記憶に残る人物・・、それは間違いなく健三の養父の島田であった。
島田はおそらく健三がロンドンから帰国し東大の教授をしていることを知り「自分も年をとってきて頼るべき身寄りもいない」ことを健三に告げる。

健三は兄や姉に相談する、しかしかれらは証文もあるしほっておけ・・と言うに留まる。

健三は連れ添った妻との確執もあった、つまり妻である彼女は健三に対して「頑固で自分の思ったことは思うままにやるくせに家族に対する思いやりなど これっぽっちも感じられない・・」と。

そんな中で島田は健三に対して老後の資金援助をしてくれないかと持ちかける。しかし妻はまさかそんなことはと否定的であった。

島田は健三の幼いころの養育の苦労や愛情をかけたことなど幾度となく話しながらしだいに健三の心をつかみながら資金援助を願い続けた。
遂に健三も「では少し・・」と小遣いを分けたがしだいに常習化し金額まで要求するようになった。

ついに健三も島田と手を切る覚悟をした、しかし島田は別の証文を取り出してこれを盾にそんなことはできないと言い張る。
健三はその証文を買い取る約束をする、300円と言うのを100円にしてもらうことにし年内に欲しいというのを来年まで待ってもらう。

健三は正月のあいだじゅう小説を執筆し出版社に100円で買ってもらった。健三は兄と姉婿にお願いして養父からその証文を買い戻してもらった。



昔多くの政治家や財界人の中にも養子縁組やわけ合って二子あるいは三子などを子の無かった家系と養子縁組などが盛んであったと思います。
漱石・・健三もそういった流れの中で幼少時代のいわば負い目としての養父との確執が生じてきた。漱石自身がそう言った社会のゴタゴタに煩わされて 生きなくてはならないもろもろを”道草”として集約されたと感じました。

私が青春期過ごした駒込林町の路地やその雰囲気の様子が漱石の作品の中にも随所に表現されていて感激した、漱石が妻とけんかして憂さを晴らすため 団子坂を下って谷中の坂を上り・・や、本郷通りの追分あたりの描写は読みながらあの人と同じ次元で生活していた私と感慨が重なって思わず 興奮してしまった。


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  [No. 55 ]   11月  3日


    講談社文庫
「機関車先生 」・伊集院 静
1992年作・236ページ

瀬戸内海の小さな島、葉名島には7名の生徒が通う小学校があった。
この春以降の新任の先生の都合がつかず校長先生が一人で生徒達皆にあたっていた、しかし児童の間からはこんな爺さんからではなく若い先生から授業を 受けたいとおおっぴらに声も出す。

校長が幾度となく教育委員会に出向きやっと得られた回答は臨時に代用教員を一人秋までのつなぎとして回すから勘弁してくれ・・と
連絡船に乗ってやってきた代用教員の”吉岡誠吾”は若かったが彼は小さいころの病気から言葉を喋ることが出来なかった。

子供達は校長室をのぞいて来た様子を皆に話した「うん、校長先生が何を聞いても、こっくりだけじゃ」
「そうじゃの。身体も大きいし、力持ちみたいじゃし新しい先生は”機関車先生だ”」

しかし吉岡誠吾・・機関車先生は校長先生の助けを借りながらもすっかり子供たちの心を掴み皆は機関車先生の虜になってしまった。

第一力持ちだけではなく、剣道も武道も相当な達人のようである。最初は「離れ小島だからこんな教師を回されてしまって・・」と不人気ではあったが 強いだけでなく気持ちも優しいことから子供たちだけではなく島中の住人にも次第に認められるようになった

連絡船に乗って本土の美術展覧会に子供達を引率して見に行った時、不良たちが市内の女性に暴力をふるう現場に遭遇した。機関車先生はその女性を 助けてあげるが気のおさまらない不良たちは先生に殴りかかった。
先生は手を出さず殴られるままになっていた。子供達はがっかりする、「なんじゃ、機関車先生なんて弱虫じゃ、あんな奴等にやられっぱなしで・・」
そんな話を聞いた村の大人たちは”機関車先生は勇気ある立派な先生だ・・”と思うようになった。

毎年恒例の”瀬戸内海剣道大会”が今年も巡ってきた、今まで葉名島の代表は校長先生が出ていつも一回戦敗退であった。今年は機関車先生に出場 してもらって本土のやつらにひと泡吹かせてほしいと依頼される。

機関車先生は島中の人が応援する中どんどん勝ち上って行く、新聞社の記者たちの間からも「あの人は何処から来た人だ?」と驚きの声も出る。

機関車先生はそして遂に優勝をしてしまう。・・・が、校長は教育委員会から電報を受け取る。「やっと、新任の教師が見つかりました来週初めに 赴任します。」
機関車先生は皆に惜しまれながら島を後にする。「さようなら」生徒達はみな大泣きしながら機関車先生を見送った。


瀬戸内海の小学校分校・・と言えばあの有名な「二十四の瞳」と言う作品をすぐに思い浮かべます。
私はこの作品の中に出てくる島の状況から調べてみたが”葉名島”なんて言う島は存在しませんでした。・・そんな島の名なんて、と断言するまでに 要した時間はかなりのものでした。なんせ瀬戸内海には無人島を含め727の島、有人の島にしても160島にも及びます。とにかく瀬戸内海の島々 それぞれに小学校の分校があり1年から6年までが一つのクラスでまるで兄弟のように過ごしている・・。

当然そこで暮らすためには人と人との心の絆がしっかり繋がっていないとやっていけない。
しかし、島であるからこそ別れもあります。私もこの夏伊豆の神津島に滞在しました。わずかな期間であっても離岸する船を見送る島の方々の心境に ジンと感ずるものもありました。それほどに島から離れる人への思い入れは大きいものがあるのです。
そんな試練を島の人々は子供のころから鍛えられて成長していくのです。

私は小学校を教育委員会の試みとしてそのクラスだけ担任を変えることなく1年から6年までをクラスの編成換え無しで過ごしました。
その効果と弊害について私の考察の及ぶところではありませんが、島の子供たちと同じでまるで兄弟のように過ごした・・と言うのが実感です。

その兄弟姉妹たちとのクラス会が先日、そして昨年は台湾にも楽しい旅行をしてきたばかりでした。


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  [No. 54 ]   10月 30日


    新潮文庫
「絵描きの植田さん 」・いしいしんじ
2003年作・152ページ

植田さんは”・・・アパートの仕事場でイーゼルに向かっている最中、古いガスストーブが不完全燃焼を起こした。消防員が後で調べると・・・”
病院のベッドで目覚めた植田さんは耳が聞こえなくなっていた、「彼女は?」医者はうつむき首を左右に振った。

退院したのち一人画材一式と身の回り品を持って都会から離れた高原の湖のそばに引っ越してきた、近くで菜園を経営するオシダさんとはすぐ仲良し になり時々野菜も分けてもらえる間柄になった。相変わらず植田さんは耳が聞こえないので会話はあてずっぽうだったが。

ある寒い日、植田さんは湖の上をこちらに向かってくる三つの点を見た。オペラグラスで確認すると二人はスケート靴をはいた母親と小さな娘、そして 大人の背丈ほどもあるトナカイの縫い包みに革ひもをつないで女の子が引っ張っていた。

翌日植田さんは薪を取りに玄関に出たとき手紙を見つける
”昨日となりに越してきました・・およびしても返事が無かったので・・今後から宜しく・・、林イルマ、林メリ”

植田さんは早速手紙を書いた”・・気付かずにごめんなさい、耳が聞こえなく別に偏屈ものではありません、うちの戸はずっと開け放してあります、 不便なことは友人のオシダさんに遠慮なくおっしゃってください”

翌日植田さんが絵を描いて居てふと気が付くと後ろに10歳位の少女が立っていた。
植田さんはスケッチブックを取りだして「きみは、メリさんですか」
女の子は目をぱっと輝かせて渡された鉛筆を気取った風に握りしめると「そうです。林メリです」

書くや否やさっと耳元へてをもどす、植田さんは「耳をどうかしたの?」
少女は意を得たと言う表情で微笑み「あたしも耳がきこえないの」

いらい植田さんと少女はこころのふれあうお友達になった。

或る朝起きると気温はずいぶん上がっていた、そうだ山に写生に出かけよう・・、リュックに画材を詰めカンジキを腰に下げ表に出た。

山の登り口に入ったところでカンジキを靴につけかなり登ったところで気に入った眺望が開けているところに出た。

そこで画材を広げ自然の中に自由な空想を求め絵を描くことに専念した。
はじめはもやか霞のように見えたそれはいきなりグイっと盛り上がり不気味に揺らめく白い水平線に変わった。表層雪崩であった。

植田さんはオシダさんやお巡りさんによって助け出された。しかし、植田さんの「山に写生に・・」と言う置手紙をメリが読んでいるのを知った オシダさんは呻いた。
メリが植田さんを追って山に入ったが見つからない・・。今度はメリを探すことになった、あたりは暗くなり雪も降り始めた。

メリは大きな木の根元の洞に入ってぬいぐるみを抱いて寝いいるようにして見つかった。しかし小さな体は必死になって死と闘っているようであった。

植田さんやオシダさん、イルマ、看護婦さんそしてお医者さんが祈るように看病した甲斐があってメリは素っ頓狂な声をあげて気がついた。
もう冬は終わろうとしています。メリとイルマはまた元の街に帰ることになりました。

今度夏に来るときにはボートに乗って来るからね。


この本は”いしいしんじ”さんがお書きになりましたが挿絵は植田真さんが描かれています。・・と言うことは本当の話だったんだろうか、書き出しは 二年前のこと・・と言いますから年譜からすると植田さんは25歳ころストーブ事故にあわれて27歳頃山に越してこられた・・。
いしいしんじさんは植田さんより7歳年上、お二人の間にどんな関係があったのかはわかりません。
美しくも厳しい冬の山での生活、偶然にも耳が聞こえない境遇の植田さんと純真な少女、何事もなかったように二人は別れまた逢いましょうね・・と。

絵描きの植田さんとメリ、どこか無心で棲む山の人と野生生物が別に心を通わせるでもなく居心地良く共存している・・そんな爽やかさを感じます。
植田さんが実在していれば今年36歳、そして少女はもう二十歳過ぎでしょうか。


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  [No. 53 ]   10月 25日


    文春文庫
「まほろ駅前多田便利軒 」・三浦しをん
2006年作・345ページ

しをん・・さん、どこか古臭さを感じさせるペンネームに年齢不詳さを感じます、改めて年譜をさぐるとわたしの子供たちと同じ年齢のようです。
’00年、作家としてデビューそして更にこの作品により’06年、第135回直木賞を受賞とありいわば新進の作家さんでありました。


東京郊外のまほろ駅前に”便利屋”を営む中年の男が主人公の多田啓介、訳があってそこへ転がり込んだ元同級生の行天晴彦とおかしな二人三脚で 営む「何でも請け負う便利屋」と銘打った営業方針の顛末物語です。

ふたりとも連れ添った相手はいわばその道のエリート、多田の連れは同じ大学法科であったが結婚し妻は司法試験に挑戦し合格したが子供の病死により 別れてしまった。
一方行天は高校の頃から成績は良かったが人付き合いも悪く大学を出た後製薬会社の営業をしていて受け持ちの病院で内科医をしていた 彼女と結婚、子供が妊娠中に離婚している。

そして多田はまほろ駅前で便利屋を始めその仕事先近くで行天とばったり行き会う。行くところが無い・・と言う行天を一晩だけと言って多田 の住む事務所のソファーをあてがった。

便利屋稼業は暇な時もあればとても忙しい時もある、舞い込んでくる仕事も犬の飼い主を探したり、小学生の塾の送り迎えだったり、恋人のふりだったり であったがいずれも地元のヤクザがらみの厄介事に巻き込まれてしまうことが多く危ない綱渡りで凌ぎ私立探偵もどきもこなさなくてはならない。
いわば巷の事件など何でも引き受けることになってしまう。
行天はそれ以来積極的に手伝うでもなく、そうかといって無視するでもなく仕事にノコノコついてきてはたまに手も出す・・、そしてここに居付いて しまう。

ところで冒頭まほろ駅周辺の地理状況が描写されている。東京南西部で神奈川につきだすような・・とか近くを国道16号が・・などから町田市が モデルになっているようでした。
ストーリーの中に出てくる繁華街から入った怪しいところなどグーグルのストリートビューで探したがなかなか確信がつかめない。しだいにストーリーに 引き込まれてそんなモデルの街なんかどうでもよくなってしまった。


とりとめのなさそうな事件がらみの連続の中に現代社会のいわば底辺に生きる独身中年男の悲哀が見え隠れする。

二人とも大学は出たものの所帯も持たず子供にはさらさら興味も示さずただ社会の流れに身を任せてその日暮しを堪能している、これは小説では ありますがどこそこにもそう言った人が多いような気がする。

三浦さんはそう言った人たちを主人公にしてこの小説を書いていますが彼女自身もそんな男たちがいることに義憤を感じていることでしょう。私も 老骨の身にやるせなさを感じます、いっそうのこと私達幼少期の飢える体験時代を身を持って知ってもらうことも必要だ!と声を張り上げたいものの 中年になってからではかわいそうか・・とも。


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  [No. 52 ]   10月 20日


    集英社文庫
「スローグッドバイ 」・石田衣良
2002年作・259ページ

石田さんの作品はこれで二度目です。No.30 「フォーティー・・」以来新聞の読書欄にも時々お名前を見つけ、作家としてではなく読書家としての書評 もよく目にするようになりました。No.30 では表題のとおり40代のカップルについて題材を求めていましたが今度は30代のカップルを描いています。
「泣かない」「15分」「You look good to me」「フリフリ」「真珠のコップ」「夢のキャッチャー」「ローマンホリデイ」「ハートレス」「線の喜び」 「スローグッドバイ」の10短編作品から編纂されています。
就寝前の小一時間に一〜二作品ずつ読むと丁度よさそうですが軽い作品ゆえスポーツの疲れからウトウトと読むと翌日にはまったく思いだせない・・。



フミヒロは目を覚ましてベッドの左をさぐる、誰もいないシーツの冷たさが指先に痛たかった。

彼は羽根布団をはねのけて、急に広くなった部屋をぼんやりと眺めた。ワカコと同棲していたときにはちょうど良い広さの部屋ではあったが今はガランと した隙間だらけに虚脱感が身にしみる。

フミヒロは二年ぶりの独り暮らしが再開して空っぽの冷蔵庫のように自由だった。朝刊を読みながらトーストをかじった。

もう彼女は出ていったのだった。

・・・十日ぶりに顔を合わせたワカコは奇妙に明るかった。今日はお別れの儀式、仲間内では「発展的かつ爽やかな恋愛関係の解消」という名目で 一日かけて思い出にふけりお互いの未来を祝福しよう・・。ワカコは友人のマサトと結婚することが決まっていた。

フミヒロは車を運転しながら何を話そうかと考えていたのに最初に一番避けなくてはならない話題を振ってしまう。

「マサトは元気?、うまくいってるかい」

「うん。うまくいっている。そっちこそ、誰かかわいい彼女はできないの」

フミヒロはいないと言うのも悔しいので黙っていた。一度でも好きになった女の子の目には、なぜ時間を止める力があるのだろうか。フミヒロは うろたえたことを悟られないようにハンドルをしっかりと握った。

二人にとって思い出多い港町でおいしいものを食べ楽しかった話題に盛りあがって一日はあっという間に過ぎ去ってしまった。

ワカコを自宅まで送り届け、別れ際にバラの花束をわたした。「誕生日までまだ二か月あるけれど、プレゼント」


「ありがとう。今日の事は忘れない、いつか絶対この花束の事や横浜の街や、私の事をあなたの書く小説に登場させてね。」


石田さんは1960年生まれですから間もなく50歳になろうかと思われます。恐らくこの「スロー・・」は彼自身の青春期の自伝であり実話で あったであろうことは想像できます。
どこかで読んだ記事に、男性と言うものはつらかったこと悔しかったことが沢山あればある程その人の人間性が増していく・・、
他の編にも若い男女が登場します、当然にそのストーリーを濃密にし気持ちを表現しようとする時、性描写も石田さんの優しさからあふれる表現力 によりどの編においても美しい愛情が垣間見れます。

又いつか機会がありましたら作品の上でお逢いしたい作家のリストに載せておきます。


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  [No. 51 ]   10月 13日


    文春文庫
「カラフル 」・森 絵都
1998年作・248ページ

森 絵都(もり・えと)さんの作品に初めてお会いしました。森絵都・・だけでは男性なのか女性作家なのか不明でしたが姓は森、名は絵都さんと知り ました。児童文学で各種賞を頂いているようですが後に2006年直木賞を受賞されています。


死んだはずの僕の魂がユルユルとさ迷っているとき天使によって「特別なことですが再挑戦のチャンスがあります・・」といわれた。

つまり僕は過ちを犯して死んでしまったと言うのです、僕はその事については全く覚えもないしどうしてこうなってしまったかも覚えていません。

天使の言うことには「あなたはある人の肉体を借りてそこに宿る・・(ホームステイ)することによってあなたの過去の過ちを反省し前向きな姿勢が 認められれば元の前世に戻ることも可能です。」

「そんな、誰かも知れない人の肉体に宿って前世の反省など面倒だ・・」でもこれは”天のボス”の命を受けて天の使いとしてあなたにそうしていただく 必要があるとの指示で私は伝えているのです。

そんないきさつで僕は先ほど亡くなったばかりと言う14歳の中学3年生の肉体にホームステイして天命に従ってこの子の家族になることになった。

僕が眼を開けるとここは病院のベットの上、つい10分ほど前に蘇生機も外され死体安置室に運ばれる間際のことでした。

この肉体である彼の母親でしょうか涙ぐんでいたおばさんが驚いたように「真(まこと)!?」と金切り声をあげた。

医療具を片付ける作業の看護婦たちの「うそ!?」と言う声も聞こえる、医師までが「・・ああ信じられん!・・」

僕は天使のガイドによってその家族になり済まし、そして学校にも復帰する。父や母そして頭の善い兄との家庭も無難にこなした。

学校においてもガイドの言う通りいじめは無かったもののクラスの皆からは相変わらず無視される存在ではあり成績も良くなかった。

「ああ、僕の肉体の主”真”はこんな惨めな生活をしていたのか・・」と

しかしそんな僕、いや真にもひとつだけ自分の安住できる世界があった、それは学校の部活、美術部で好きな絵を書いている時間だけであった。

安住する部活で絵を描いている時、心惹かれる年下の女の子”ひろか”の存在を気にするようになる。そして気にもしていなかったクラスメートの ”昌子”の目が常に付きまとっていることも知る。

真は心惹かれるひろかが中年の男と援助交際する現場を目撃する、意を決してひろかをその場から無理やり引き離そうとする、しかしそれは無駄であり 落胆する、他にもクラスメートの中で心が通じ合う早乙女君の存在を知り友好を深めることもできるようになった。

そんな真を昌子は「以前の真と違う・・」と指摘する。わたしいや真は少し慌てはするが昌子にきっぱりと言う。「ぼくはごく普通の皆と同じ中学生 なんだ、多少の人付き合いの悪い所もあるけれどこれでも精いっぱい頑張っているんだ。」

ぼくはガイド役の天使から「君の前世は”真”なんだよ・・」君の前向きな生き方はボスから合格点をつけられて前世に戻ることが認められた・・、 つまり君は前世で睡眠薬自殺を図って死んでしまったが前向きな姿があれば二度とあの忌まわしい過ちはしないであろう・・。


No.37 で「椿山課長の・・」と似通った設定です。作家に限らず音楽家、画家・・死後の世界に対する興味は尽きません。その事を突き詰めて実際に 現世とあの世の見境もなくしてしまう方も存在します。

それほどに興味もあり恐ろしくも感じるあの世の事を明るく表現し、では今ある命をどう向けて行ったらいいんでしょう。そんなことを悩み多き中学生 向けに書かれた書物と思うと同時に、わたしにとっても方向性を与えてくれます。

話は変わりますが先週の金曜日、いつもの時間にプールで泳いでいました。こんな日中の時間帯なのに隣のレーンでは中学生の恐らく競泳選手でしょうか 、くりかえしくりかえしインターバルの練習をしています。
水中での動きは目をみはるばかりの”しなやかさ”まるで急流を遡る若鮎の泳ぎのようで私は目が”点”になってしまいました。あまりにも美しく そして強靭そうな身のこなし・・、しかしその心はあまりにも繊細過ぎるのです。

更衣室で思わず声をかけました「素晴らしい泳ぎだ!、オリンピックでまた見せてくれ!」『ハイ!!』希望のある中学生は明るかった。

そして老人もたぶん相当に明るくなった。それはお互い”現世”に希望があるからだ・・!


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  [No. 50 ]   10月  8日


    講談社文庫
「雪が降る 」・藤原伊織
1998年作・334ページ

「台風」「雪が降る」「銀の塩」「トマト」「紅の樹」「ダリアの夏」の中の一編です。


大手食品会社の志村と高橋は同期入社であった、その後主人公志村は大阪に転勤となり結婚したがうまくいかず別れてしまった。それからと言うものの 私生活ではギャンブルに身を焦がすほどすたれてしまった。

一方高橋は同期入社であった短大卒の陽子と結婚し男子を授かり仕事も家庭もそつなくこなしていた。しかし、陽子は志村が大阪で結婚したことを 知ったうえでの結婚であった。

何年かして志村は課長となって東京に戻ってきたが高橋は関連部署の上司、次長になっていたが相変わらず同期としての友情は変わらなかった。

ある日志村は所用の早引けの日映画館の看板に公開時見逃してしまった上映作を知り映画を見た。感動もしたし素晴らしかったと思いながらロビーに 出たとき、ソファーで泣いている女性がいた。
志村はその人が陽子であることをすぐに知ってその場で落ち着くのを待った。陽子は顔を上げると思わず「志村さん?」と驚いた。

陽子は自分で車を運転してきたといい志村を乗せてホテルのバーで飲みながら映画の感想を楽しく語り合った。いつの間にか雪が降り出しそれがひどくなった。

止む無く二人は帰宅をあきらめてそのホテルに投宿することになった・・が何事も起こらずに朝を迎えて帰宅することにした。

「私、さっき決めたの」「なにを?」「今度もしあなたにあえたらその時は高橋からはなれて、あなたのところにいくの。おしかけるの。いい?」

「この次、雪が降ったとき、そう決めたの、そのときまたこのホテルで・・」
いつ降るか、また降らないかも知れない。志村は「ああ、そうしよう・・俺も来るよ」とだけ言って別れた。

二週間後、また雪が降った。志村は会社が引けると例のホテルに行って部屋で陽子を待った。
しかし、いくら待っても陽子は来なかった・・・。翌日志村は出社して高橋家の訃報を耳にする、昨夜奥さまが第三京浜でスリップ事故を起こし亡くなられた・・と。


実はこのストーリーの中に高橋と陽子には高校生になる息子がいて、息子は母の使っていたパソコンの中に志村宛の「未送信」メールを見つける。
そして彼は母の死の真相を知るため志村と会う約束をした。志村はすべての事を正直に話した。彼はもうしっかりした大人の眼を持つ成人であった、今 でも父と母を愛し、自分に対してそうであったように彼自身も母を許し、父に愛おしさを増していくのです。
母の女としての強さと弱さ、そして父にはこの真相は知らせないでおこう・・・と。志村は彼に感謝をし、彼も志村に感謝した。


ストーリーとして多少の苦しさはあるものの言わんとする多様な人間模様が厚く重なり合いお互いの深層心理を鮮やかに描き尽している。
ひらたく言ってしまえばただの不倫物語になりそうであるがさすが藤原さんの”表現力”と”高校生が母の死の真相を知ろうとする”ことの織りなす 作品の構成力にしっかりした小説の醍醐味にふれて酔いしれました。


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  [No. 49 ]   10月  2日


    角川文庫
「死ぬほど好き 」・林真理子
2000年作・222ページ

林真理子と言う作家の名前は新聞やテレビで聞いてはいました、漠然と若者に受ける現代風作家・・かなくらいにしか認識はありません。

本屋さんの店頭で林真理子の本を手にしたとき、最初のページ「果実」では作家である彼女の故郷、山梨県の若者の感覚つまり大都会には至近の距離 でありさりとてこの田舎で暮らす閉塞感を若者たちの視点からとらえた興味ある作品・・として購入した。

そのほかに「シュミレーションゲーム」「赤ずきんちゃん」「死ぬほど好き」「ラマダーンの生贄」「お元気ですか」「覚えていた歌」「花火」 の8編の編纂です。


私は「果実」を読み終えた時にこの作家の感性をかなり評価して次の短編に進んだ、そして「死ぬほど・・」

なんだなんだ、次も次も駄作の連続!。何でこんなポルノ作品を並べたててしまっては無駄な時間を費やしたと言う悔しさでいっぱいだ。


改めて略歴を見ると”直木賞””柴田錬三郎賞””吉川英治文学賞”など素晴らしい小説を書く作家と書いてある。なのに何でこんな下劣な作品を 書かなければならないのか。
それは恐らく現代作家の生活スタイルが”作家・・”はスターと同類と勘違いして華々しい生活をしないと時代に取り残される・・と勘違いして いるんでは無いでしょうか。

作家たるもの決してスターでは無いんです。貧困の生活の中で絞り出す作品こそが光り輝くのです。卑猥な編集局員にそそのかされてこんなポルノ作品 で旨い酒や飯を食おうなんて思った時、その人は作家としての生命は失うのです。

今更ながら接してきた男性作家の作品の多くは私に希望も反省もそして道しるべさえも与えてくれています。つまり人間としてのダイナミズムを与えて くれるのです。そう言う作品に私は”幸三郎賞”を与えたいのです。

林真理子さんにはそんな賞を取っていただける方・・と「果実」を読んで感じました。


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  [No. 48 ]    9月 26日


    角川文庫
「   海     」・小川洋子
2006年作・170ページ

小川さんの作品にお会いするのはこれが二度目でした。

夏以来無骨な男たちの文学を立て続けに読んできたせいか優しい感性の作家の本を読みたくなりました。小川洋子さん、間違いなく私を癒やしてくれる と確信していました。

この本には7編の短編で仕立てられていました。
「海」「風薫るウィーンの旅六日間」「バタフライ和文タイプ事務所」「銀色のかぎ針」「缶入りドロップ」「ひよこトラック」「ガイド」です。


”海”、おそらく学校の先生をしているであろう若いカップルが恋人の泉さんの実家に結婚をしたい・・と報告に行くらしい設定です。

その実家は空港から更に遠くにありましたが、泉さんは乗り物酔いがひどく初めての泊まり掛けの遠出だったにもかかわらずロマンティックな旅と言う わけにはいかなかった。

やっとたどり着いた泉さんの実家では50代の両親と多少ボケ気味のおばあさん、泉さんの弟が心待ちにしていてくれて迎えてくれた。

さっそく夕食の席に着くがしかし、会話の種が停滞しがちで雰囲気として和やかにと言う感じでは無かった。ときおりおばあさんが喋るが的を外すし、 弟も口下手で、無言でムシャムシャ食べる一方でした。

「お客さんはいつになったら来るんだろうねえ」
「さっきからもうずっと、いらっしゃってるじゃありませんか」
「おや、まあ。いつの間に」
「ほら、よく見てください。泉の隣に座っていらっしゃいますよ」
「はあ・・・こちらのお方が・・・・。何でもっと早く教えてくれなかったのかね」

夕飯を終えて夜、泉さんが高校時代まで使っていた部屋は今では弟の部屋となり彼と一緒にその部屋で休むことになった。

家に到着して以来彼はその弟とは一度も口をきいていなかった、兄弟のいない彼は弟とどんな話をしたらいいのか見当がつかなかった。

手持無沙汰に座ってうつむいたままパジャマに着かえた弟に「やあ」と試しに言葉をかけて見た。

弟は視線を落としたままつぶやいた。「毒は回っていない?」「え?」「だってさっき、おばあちゃんが言ってたでしょう?、このキノコの天婦羅には 毒キノコが混じっているかも知れないって」

「うん、そうだなあ。今のところ、平気みたいだよ」僕は指を屈伸させたり、首を回したりしながら異常がないことを示して見せた。

「ああ、よかった」弟はようやく顔を上げた。二人は夜の暗闇の中で弟の世界の話を聞きながら打ち解けてきた。


この作品も、他の作品も共通した関係が見出されます。それは世代の違う儀弟と彼、他の作品でも若い女性と老婆、幼稚園送迎バスの老運転手と園児、 観光ガイドをする母親の子供と老旅行者・・・、そう言えば以前に読んだ「博士の愛した数式」でもそんな図式だった。

とかく同世代とは協調する私ではありますが世代を超えた純真な心の通じ合いができれば人生はもっと豊かに過ごせるのではないでしょうか。


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  [No. 47 ]    9月 24日


    角川文庫
「そ れ か ら 」・夏目漱石
1909年作・298ページ

僅か100年の間に日常の日本人の文章表現手段・・、あくまでも私自身を基準にしてではありますが狭くなってしまったことを痛感しました。普段、 新聞を読んでいてもこれほどまでに”意味不明”な文章が一行置きに登場してきてはなかなか先に進む事が出来ません。

この文庫本の末尾には約10ページを費やして”注釈”が290か所ありました。しかし私にとっては電子辞書 なしでは理解するに不十分でした。長編小説とは言え現代文に比較して2倍以上の読書時間が必要でした。


主人公である「大助」は学校を卒業はしたものの実家の豊富な資金力に身を任せ、定職にもつかず一軒家を構え毎日書物を読んだり気楽に過ごしていた。

身の回りの事は食時の賄いや洗濯のために雇った「婆や」と書生の「門野」をかかえて今日も実家の兄嫁から受け取った”見合い写真”にため息を ついていた。

そんな所に卒業した同級生の「平岡」が地方赴任の任から解かれて妻とともに東京に戻ってきた。しかし、彼はどうやら上司との折り合いが悪くなり その会社を止めてしまったようであった。

そもそも平岡の妻「三千代」は、元々大助の友人の妹で大変気に入っていたところであったが将来の彼女の幸せのためバリバリの実業家をめざす平岡 の所に嫁ぐことが彼女の幸せに取って一番の道ではないかと思い、身を引いたいきさつがあった。

平岡は東京に戻ってはきたものの大した職もなく次第に金銭的に窮するようになってきた。三千代も何とかしようと大助に多少の援助を仰ぐことにも 骨を折るようになった。

そんなとき、折りしも平岡と三千代の間に不協和音を認める。大助は三千代に自分の気持ちを伝えたが、「なぜ、あの時にわたしを平岡に紹介して しまったんだ・・」と責められる。

大助は親友だった平岡にこのことを伝えた。平岡は怒りを抑えたまま承知した、「今は三千代は病に伏せって居る、このまま君に渡すわけにはいかない、 回復するまでは私が預かる・・」そして大助に「お前とは友人の関係を断つ、絶交したい・・」と言う。

一方大助の実家からは、見合いの話も進展なくしかも”断り”までも入れられて「もうお前の好きなようにしろ!その代りお前に対する資金援助はもう おしまいだ!、自分で働いて稼ぎなさい・・」と。大助はあてどもなく炎熱の街へ職業を探しにさ迷い出た。

・・・そ、れ、か、ら・・どうなったんだ?


いつの時代にもあてはまる男女のいわゆる三角関係でしょうか。幼年期、少年期、青年期、そして分別もつく年代になっても男と女の情念は続きます。 そして私たちよりもっと先輩になってもそういった感情に火がついた人たちの話もよく効きます。

どの世代においても思い起こせることがあります。それは”恋は盲目”と言うことです。そのことしか頭の中になくなったとき社会の掟も、自分の方向も 踏み外してしまうと言うことです。


ある記者がトップアスリートに質問していました。「素晴らしい成績でおめでとう、次は彼女のハート・・でしょうか?」実に馬鹿げたインタビュー です。頂点を目指すアスリートが恋だ、腫れた、なんて考えていると思っているのかね。


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  [No. 46 ]    9月  9日


    角川文庫
「さらば、荒野 」・北方謙三
1983年作・326ページ

ハードボイルドな作品にまた逢いました。先に読んだ”鎖”と同じ年に書かれた長編作品です。


主人公の川中はN 市でクラブの経営をしていた。弟は技術者であったが東京の会社からここN 市の研究工場に転属になってきていた。

実はここの研究結果によると小型レーザー発振装置の開発に成功したようであったが多くの研究者たちは他に転属させられたり、川中の弟もそうなろうと していた。その研究結果は爪ほどの大きさの”マイクロフィッシュ”に収められ研究所長が一人で所有しようとたくらんだ。

いち早く川中の弟は所長秘書と共謀してそれを金庫より持ち出して逃亡してしまう。

所長はヤクザらとそれを取り返そうと躍起になる、当然身内の川中にも嫌疑はかけられ弟の居場所を知っているだろうと脅される。

川中は弟の関わりを否定するが周囲は理解してくれず否応なしに事件の核心の近くに立たされてしまう。そして遂には弟の身に危険が及びそうになる そしてその装置がもし軍事利用されたときにはその価値が膨大なものになる事も知った。

川中は静かなN 市で穏やかにクラブ経営を楽しんで生活する事はもはや不可能になってしまった。

弟から電話がある。「追われている、助けてほしい・・」川中は動いた、しかし弟は連れ去られた後だった、残されたのは怪我をして気を失っていた 所長秘書だけだった。しかしその手には”マイクロフィッシュ”が握られていた。弟が連れ去られる最後に彼女に託したのだった。

川中はそれを手の中から抜き取り自分で保管する。そしてその女を助け出し自分の事務所で手当てをしかくまうことにした。

一方弟が匿われた場所を突き止め救出に向かう。銃撃戦の後傷だらけの弟を背負って脱出する。

しかし重傷の弟は帰らぬ人となってしまった。女は川中に”あれはどうした?”と尋ねるが「そんなものは知らない・・」と答える。

所長やヤクザ達の標的は川中と秘書とに的は変わった、川中は自分の従業員であるバーテンらと逃亡を企てる。

カーチェイス、更にはボートチェイス、そしておびただしいほどの拳銃とライフルなど次々と登場してくる。


幾人が死んだか見当もつかない。結局はそのマイクロフィッシュもちり紙と一緒に”灰”になる。

秘書の女も欲を望んでいた、しかし欲に目のくらんだ人間はすべて銃で撃たれて死んでしまった。

ばかばかしい作り話と知っていた上でこれでもかこれでもかと重ねてくる馬鹿さ加減を堪能しきった。昔、映画の西部劇を見た後のすっきりした感覚 にも似た爽やかさはなぜだろう。


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  [No. 45 ]    8月 31日


    新潮文庫
「青春の蹉跌 」・石川達三
1968年作・260ページ

1960年代に書かれた遠藤周作さんと石川達三さんを奇しくも続けて読む事になった。しかも今回石川さんの作品は初めて接するものですが遠藤さん の作品は三作品目でした。年譜比較では石川さんの方が遠藤さんより18歳年上です。

どうしてそんなことを・・と思われるかもしれませんが、この時代は私の青春時代の真っただ中であり仕事と絵の勉強に情熱を注いでいた時代でした。 そして同年代の学生だった方々にとっても1960年安保闘争に端を発した学生運動から過激闘争に青春を賭けた人生もあったはずです。

その時代にお二人の作家がどのようにその時代の空気を読んで本を書かれたのか比較するとあまりの温度差に驚いた次第でした。

遠藤さんの '58 海と毒薬、 '65 満潮の時刻、 '75 彼の生きかた・・に限れば彼の戦争体験や宗教観からこの '60 年代までは過去にこだわり 自身の虚弱体質を引きずった作風から心の内部をえぐり出そうと言うものでした。それから10年もしてやっと若者の心を描くようになったと見えます。


石川達三さんはすでにこの年それぞれの青春期の若者に目を向けて彼らの目線でさまざまな人生に対する警鐘を引き出しています。

少年から青年となり次第に人生と言うものを知って行って大人に成長していく、しかしそこには幾つもの落とし穴や誘惑やつまずきがあって人それぞれが その苦渋や辛酸をはからずも舐めながら人生を知り大人になって行くわけです。


主人公の江藤は大学で法科を学んでいた、彼より成績もよかった級友の三宅は学生運動に身を投じて遂には退学処分となる。

江藤は母子家庭、亡くなった父とは異母兄弟で会社を経営する叔父より学資援助してもらっているおかげで何不自由なく勉学に励んだ。 おかげで成績も良くなり司法試験を受けられるほどにまでなった。母もであるが叔父もこの試験に合格することを非常に期待した、なぜならば叔父の娘 の三姉妹の末娘の婿にでもなってくれれば・・との思惑もあって。

江藤は家庭教師をしたことのある娘の大橋ととある事から肉体関係を持つ、母はその娘に一度あったことがあるが大事な一人息子に相応しくないと前 から忠告していた。

江藤は司法試験の筆記に合格、続いて論文も合格する、母も叔父もそして無関心を装うって居た末娘までがこれは本物かも・・と期待から恋愛感情にまで 発展しはじめる。

最期の難関、面接も見事合格した。叔父は母つてに”内祝言”をしようと持ちかける。江藤もこの先の法学博士をめざす上で是非とも叔父の援助と 豊富な資金を考えると乗り気になった。

江藤は大橋にもう別れようと持ち出す、しかし大橋は”お腹の中にはあなたの赤ちゃんがいる”と言う。そして医者はもうここまで経過してしまったら 処置する事は不可能だと告げる。

江藤は大橋を誘って箱根に行く、ここまで悩み通してきた彼だったが遂に大橋の首を絞めて殺してしまう。彼はかなり幼稚なアリバイ工作をして おいたのだが警察にはすぐにばれた。もう自白しなよ・・と言う刑事に、イヤ!俺は何も知らないと言い張った。

刑事は「実はな、胎児はおまえの子どもでは無かったぞ・・血液型が合わないんだ」


あまりにも悲惨な結末で・・・つまり、殺さなくっても良かったものに手をかけてしまった。結局江藤は勉強も良くしたが自分の欲望を手軽な愛情もない 教え子の大橋に求めた、そしていつまでもそれを引きずった。これは江藤の欲情を制御する能力の欠如という”つまずき”でしょう。

大橋はお腹の子は誰の子か知っていたにもかかわらず頭の善い”江藤の子”と決めつけて結婚しようとした・・、つまり”女の落とし穴”に落ちて しまった。

現代社会においても判事や裁判官など、とても頭の善いと思われた人の中にはおよそ人間としての防備の無知や一般人との乖離も甚だしい人がたまに 目にすることがある。多分何事もなく法学者に江藤がなることができたとしてもその人生経験の少なさは救われないでしょう。

最期にこの本は石川さんが今から40年前、60歳近くに書かれた文章であります。つまり、古い時代にお年寄りの男が書いた文章で現代において 男尊女卑を匂わす文体は多少の戸惑いを隠せません。田島陽子先生が読まれたら目をむいて激憤されるのかな・・


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  [No. 44 ]    8月 27日


    新潮文庫
「満潮の時刻 」・遠藤周作
1965年作・282ページ

主人公の「明石」は結核が再発して1年8か月の闘病生活と3度に亘る大手術の末、再び世間に蘇ることができた。

すなわちその主人公「明石」は遠藤周作そのものの人生であり病床における人生論、宗教論が折り重なって生きることの賛歌として書かれた自叙伝 に他ならないのです。

Tから始まって]Uまで亘る長編作品ですが師が退院し社会復帰したのち連載として雑誌に書き下ろした文章がそのままに残されていたものを師の 没後5年を経て文庫本として再度世に出たという経緯を持っています。

なぜそのようなことになったかと言うに、師はこの文章は再度吟味してその後文庫本にしたいと願っていたと言います。しかしその暇を作ることも ままならず延び延びになりそして手つかづのまま永久の眠りに至ってしまったと言うわけです。


明石は中学生時代の同級会に出席した。もう戦争も終わって十数年、同級生の中には戦死したものや生き残って帰ってきたもの・・・そして自分のように 奇しくも肋膜炎を患っていた為に徴兵も免れて生き延びているもの・・・、しかしその宴の最中気分が悪くなり洗面所で吐血する。

肺結核で入院手術をする。一度目の手術では思った結果が得られず二度目の手術、長引く入院生活により次第に自身の気も滅入りがちになる。そして 病院と言うところの非情さも見えてくる。

明石はまた気まぐれに病院の屋上に登ってみた、最初の手術前に見て気にしていた病室の窓の中に見えるのは男性の患者と付き添いの若妻では無かった。

明らかに住人は入れ替わっていた。その夫婦は確か手を握り合っていた・・・どこに行ってしまったんだろう。

階段で無邪気に遊んでいた不治の病の子供の姿も見えなくなってしまった。どうしてしまったんだろう。

大部屋に居た時の仲間の二人はすっかり回復して退院して行った。どうやら病院と言うところは単なる勝ち組と負け組の仕分けられる場所なのだろうか。

明石は3度目の大変危険な手術をしなければならなくなった。そしてその朦朧とした意識の中で生と死、そして魂としての信仰など思い巡らす。


末期的な病の場合、もはや単なる痛み止めも効かなくなることもあります。そんな時はただ手を握ってあげるしかなすすべのないことがあります。 健康でいれば単に巨大な建造物としか目に映らない病院、そこに住む人々はアパートやマンションに住む人よりももっと生と死に直面した生活を しているんです。そんなある日を思いめぐらせながら師の闘病にも想いを馳せて。


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  [No. 43 ]    8月 20日


    角川文庫
「霧笛荘夜話 」・浅田次郎
2004年作・308ページ

”暗い運河のほとりに、その奇妙な意匠の建物はあった。”タイトルとこの書き出しの文章によりおそらくこの荘(アパート)は 何処かの港近くの場末、裏さびれた倉庫街の一角であろうことは想像がつく。

第一話から第七話からなっている、そしてその古いアパートは6部屋からなっている。住人一人づつが一話ごとの主人公として登場してくる。

住人同士はそれぞれに少なからず同じ感情の・・つまり人生の廃人(金銭的にも精神的にも)となる一歩手前のギリギリの生活をしている連帯感のような ものによりお互い多少の想いやりを持ちながら共同生活をしている。

どこかの話題の中の情景で”係留された古い客船に満艦飾の灯がともって・・”と言うことはやはり横浜のとある場所の想定なのか・・

第七話はアパートを経営する中国人老婆の太太(タイタイ)に地上げ屋がとりついて、こんなオンぼろアパートに対して破格の金銭で立ち退いて くれないかと話を持ち出す。しかも住人には一人あたり500万円と言う立ち退き金も支給したい・・と。

太太は地上げ屋の意見を聞きながら住人全員に集まってもらった上で判断しようとした、仕事もまちまちな住人全員が何とか集まれそうな時刻 午前2時頃しかない、地上げ屋に出直して来てもらうことにした。

地上げ屋は根回しとしてすでに個別の住人には金額の提示はしてあった、それぞれに5百万円・・・これで彼らの人生もいい方に変わってもらえるはず、 この話はすんなりと受けいられあっさりと型付くものと確信して乗り込んで来たのだった。

住人の代表格の眉子が口火を切った。「誰が言い出したわけでもないわ。ここに集まったときには、みんな腹はきまってたのよ。・・」

「5百万なんていらないよ!」「誤解しなさんな。何もあんたらの足元を見てるわけじゃないのよ。5百万が5千万だって、5億だって答えは同じさ・・」

「5百万あれば人生が変わるかって、それはそうだろうけれど、それじゃあ太太の人生はどうなるんだい。
太太はむかし惚れた男のくれたこのアパートで死ぬ、その筋書きは誰も変えちゃならないんだ。だって、太太の人生だもの。
てめえの幸せのために、他人の幸せを犠牲にするのは畜生のすることさ。」

「どいつも、こいつも無一文で、偏屈で、ちょいと頭がおかしい。中でもあたしが一番。でもね、人間の根っこはちゃんと持ってる。
たしかに幸せは金で買えるよ。でも金で買えないものも、この世にはたくさんあるんだ・・。」


読み終わった後何かすっきりしたものをかんじました。と同時に私ごとで申し訳ありませんが40年も前、文京区駒込林町のオンボロ下宿屋での生活 (『青春切符』第2章 No. 8〜 No. 10)を思い出してしまった。

「わたしたち10年後にまた逢いましょうよ、私は今よりもっと素晴らしい人生を送っている所を見せてあげるわよ。」
当時宗教家だったクチバシの黄色かった女子学生もいい年のババアになっているはずである。もちろんその後になっても逢ってみたいなどとは一度も 思ったこともない。

老いた体の健康を気遣ってすごすカメラマン氏、跡取りの坊主を嫌って陶芸家の道を歩む元少年も今は「すっかり腰が曲がってしまいました・・」、 みんな虚勢を張り上げる元気はもはやありませんが遣り取りする手紙の隅々にはまだ”熱い血”の通った言葉がちりばめられています。


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  [No. 42 ]    8月 17日


    新潮文庫
「武蔵野 」・国木田独歩
1896〜1900年作・260ページ

新記録更新となります。No.34 夏目漱石の「こころ」は1914年作ですからそれよりも16年前の作品と言うことができます。

漱石の方が5歳ほど年上ですが「こころ」は47歳の作品、独歩の「武蔵野」は27歳の作品です。同じ明治中期に日本を代表する作家の作品に 又巡り合うことになりました。

この「武蔵野」に収録されている小説は18編、つまり国木田独歩は短編の作家・・と言うことがいえようかと思います。

武蔵野・・は作品を発表する前年の日記から散文的な手法で独歩の想う武蔵野の情景をあらゆる視野から眺めて自身が武蔵野の現実を楽しみ、懐かしみ して書き上げた作品であります。

いわば同世代の夏目漱石とその文体を比較するとあまりにも古風、したがって現代文に慣れ親しんでいる私にとって言い回しの難解さが私の読書ペース を妨げます。今回も”電子辞書”が私の翻訳家補佐として活躍してくれたことは嬉しい限りです。

国木田独歩は千葉県銚子の生まれ、しかしこれは別けあってのことで父親の生地山口県で少年期を過ごし、のちに在学のため東京渋谷村に住み勉学の かたわら武蔵野の自然のなかに自身の心の癒しを求めるようになった。


かれは他の作品でもしばしば画家志向の青年を登場させて自身の散文的表現を画家的視野から観た時と比較したことによる更なる情景の深みを表現 しようとする気持ちが良く伝わってきます。

実は私は国木田独歩より若いころ19歳の時に”武蔵野”に都会に暮らす悲哀の癒しを求めたことがあります。恐らく 国木田独歩が武蔵野を愛しそしていつまでも変わらない情景を求めていた”気持ち”はわたしとそう違わなかったのではないかと思う節があるのです。


独歩37歳で永眠します、これからもっと自由奔放な文章を広げ楽しむと言う時期でした。

その他印象に残った作品に「忘れえぬ人々」「河霧」「小春」など。


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  [No. 41 ]    8月  6日


    角川文庫
「 辛 酸  」・城山三郎
1961年作・210ページ

読後感想の副題に”・・共通の話題を手土産に・・”と書きましたが、私の頭の隅のどこかに読んだことはありません でしたが城山三郎さんの「どうせあちらへは手ぶらで行く」と言う言葉がひっかかっていて出てきた言葉になったんだろうと思います。

そしてはじめてその城山三郎さんの作品にたどり着きました。おびただしいほどの書をしたためた作品群の中からわたしはこの「辛酸」を通じて 師を身近に知って行くことになると思います。

この本はわずか200頁の本ですがとても永い長編を読み終えたような気がしました。そして同時に城山さんがこの書にどれほどの心血を注いで 書かれたかも察せられるのです。この年、城山さんはこの1冊の本しか書かれていないのです。


この本が書かれた1961年といえば、日本語の中にまだ”公害”という言葉が表れていない時期であり、世の中あげて増産、繁栄、景気浮揚・・と 騒がれていた頃でした。

このころから東京の空は慢性的なスモッグに悩み、私の住みはじめた周辺の荒川は汚れに汚れて悪臭を放つ巨大排水路と化していました。

しかし、そう言った近代産業によるものより以前から”鉱毒”と言う言葉は存在し、まさにここに記された内容は”足尾銅山”の周辺とその下流域 におよぶ”鉱毒事件”に焦点をあてたものでありました。

精錬所のある山々は精製時に発生する二酸化硫黄の酸性雨で山の草木の死滅、それに伴う山の崩落、また排水中に含まれる銅イオン垂れ流しによる 下流域の飲料水や農地に与えるダメージなど様々な問題が提起されている。

つまり、日本全体が作れよ増やせよ・・と掛け声をかけ合っている時期にわずか36歳の城山さんがこんな本を書かれて発表したことに驚きを隠せません 、それは今の日本の産業構造に誰かが警鐘を鳴らさないと・・・、それができるのは「オレしかいない!」そう言う強い信念がうかがえます。


第一部「辛酸」、第二部「騒動」からなっている一部の主人公は国会議員であった田中正蔵は議会でも盛んに鉱毒および山崩れによる下流域住民の 救済を・・と訴え続ける。
しかし、国や県の方針は鉱毒被害民の住む地域を全員立ち退かせて広大な調整池を作って堆積土砂もろとも河底に埋めてしまえという計画を推し進める ことを優先することになった。

田中正蔵は議員を辞め住民を守れ、農地を守れ・・の先頭に立って国や県と真っ向勝負する決意をする。
立ち退きの催促が叶わないとみた国は河川法なるものを振りかざし一切の建造物は認められないとして家屋の強制撤去に踏み切る。住民はそれでも 祖先伝来の土地から離れる事は出来ないとして踏みとどまる、当然穴をほって萱の雨よけでの生活である。

過酷な生活の中にも住民は病に冒されたり逃げ出したりする者もいた、しかし正蔵は県や政府に住民訴訟と言う形であらゆる策をたてた、そして住民の 中でも賢かった宗三郎という若者をいつも補佐において自分のやり方全てを教えた。正蔵はみなに慕われ惜しまれながら亡くなった。

第二部、宗三郎には県や警察までがまとわりついてもう正蔵はいないんだから県の出した和解案を呑むように皆を説得してくれないかと頼まれる。
わたしは代表でも指導者でもないみんなの意向で動いているだけだ、「和解案」を吟味すると誠意をもった案では無いことが分かった以上もはや弁護士 を立てて住民訴訟をおこす以外道は無いと突っぱねる。

知事は宗三郎が煽動しているため検束する必要があると判断する。その噂を聞いた宗三郎はひとまず身を隠そう・・、東京の弁護士に知恵を借りて・・ 、しかし人力車の幌を下げて顔を隠して駅まで走るが渡良瀬川の橋のたもとで立ちふさがる巡査に停止を命ぜられる。


この本はここで終わります。・・よかった、とか・・・もっともだ、という結論は一切ありません。ついこの間まで成田国際空港の土地収用問題でも 国家権力と先祖伝来の土地に住んできた農民との軋轢も大きな社会問題になったばかりです。
そんなときに「話せばわかる・・」ことの難しさをつくずく感じさせます。

文章全体が荒々しく無駄がなく彫刻でいえばロダンや碌山のような訴える力の大きさを感じます。これから多く接するであろう晩年に向けて師の作品が どのように変遷していくのか楽しみです。そうかもう師はいないのか・・


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  [No. 40 ]    7月 27日


    ちくま文庫
「つむじ風食堂の夜 」・吉田篤弘
2002年作・180ページ

あまりにもひどい本・・を読んだ後は身も心も洗いたくなるものです、そんな想いで手にした本が名も知らぬ作家、吉田篤弘さんでした。
1962年生まれ・・としか経歴は知れません、・・・と言うことは私より20年も若い方でした。

もし私が小説を書こうと思ったら多分こんな作品になってくれたらすばらしく幸せな気持ちになれるナー、と思いました。
まったく違っているかも知れませんが恐らく吉田さんはすばらしい少年期、そして青春期を情緒豊かに過ごされた方ではないかと推察されます。

本当に些細な小さな町の食堂に食事をしにくる普通の人たちが登場人物です。そしてその変哲もないその人たちに普段の生活を演出してもらいながら実は作家、 吉田さんの大きな情操を垣間見ることができました。「あ〜〜、気持のいい作品だった!」


どこにでもありそうな小さな架空の街”月舟町”にその食堂はありました、暖簾は無地つまりお店の名前はありません、あるじは「名無しの食堂」を気取った のでしょうが四つ角の向きからして十字路にうなる風に巻き込まれた客たちの誰もが、<つむじ風食堂>と呼ぶようになった。


1、幼かったころ主人公のわたしは手品師であった父に連れられてよく劇場の地下にあるコーヒーショップに連れて行ってもらった。そこで大人たちがあの苦そうな コーヒーをとても意味ありげに注文しそれを受けたあるじが厳粛にエスプレーソを仕立てて差し出していた記憶があたまの隅から離れないでいた。

2、かつて父が舞台にしていた劇場に行ってみた、すでに改装されて劇場ではなく美術館に生まれ変わっていた・・、しかし地下に通じる階段を降りると昔、父に 連れて行ってもらったコーヒーショップがそのままの形で残っていて思わず足を踏み入れた、父と同じく「エスプレーソを、砂糖なしで・・」と注文する。 あるじは驚いて「手品師だった方・・・」、「いえ、その倅です・・」。「そう言うあなたは?・・」、「ハイ、このコーヒーショップの2代目です」


ドル、弗と言う字がありますがこの作品は1と2を縦軸においてそれを綾むように食堂の登場人物たちの生活を描いています。

そして結論はなんでしたっけ?、ただすがすがしい”つむじ風”が私の心を吹き抜けていっただけです。


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  [No. 39 ]    7月 18日


    幻冬舎文庫
「ララピポ 」・奥田英朗
2005年作・320ページ

第一話から第六話からなる長編小説です、それぞれの編にはそれぞれの主人公が登場しますが全ての章の主人公はそれぞれに関連しあって繋がっています。最終章で 玉木小百合は渋谷の街を放心したようにさ迷い歩く
小百合に関心を示す人間は誰もいない、人込みを避けるように進むが白人とぶつかった、白人は口元に笑みを浮かべて「ソーリー」と謝罪された。

「こちらこそ・・」と小百合も会釈を返す、「ララピポ」白人が肩をすくめてハミングするように言った。
「ララピポ?」「トウキョウ、人ガタクサン・・・」たどたどしい日本語で言い直した。
「a lot of people・・」と言ったのか・・・、早口なので”ララピポ”と聞こえた。

”下流文学の白眉!!・・・”何を言っているんだ、こんな本を出版しようとするホンヤも、買って読もうとするドクシャもみんなくたばってしまえ!!。


俺はモー疲れたよ・・!、こんな本を書くエネルギーがあったら畑でも耕して大根でも作れよ!!、そして本屋も廃品回収業でもやって食いつなげよ!。

未だ僅かな読書経験で一番バカゲタ時間を費やした320ページでした。アンタ!こんな本を読者が喜んで買ってくれると思って書いたの??。

オレは間違って買ってきたのさ、だってあんたの本はいままで癒されたもの・・、でもコレはもういい!。オレはあんたが思うほど粗野な神経ではネー!。


登場する主人公は16歳の少女からから56歳のジジイまで、ドイツモコイツモ自分の顔も無い”性器”まるだしの顔を持つ動物の生(性)態を描いている、 こんな輩はおそらく人類のほんの一部に存在するであろうことは想像もつくがアタカモ渋谷辺にはそういった性器がゴロゴロ歩き回っている感覚の 表現に幻滅を覚える。


たしかにこの作品が書かれたころの日本経済の不安定さ、そしてその社会の公共性における不安定さ、そう言ったもろもろの要因が若年層を含む青少年たちの 性モラルの欠如にもつながってきているのではないだろうか。

マシテヤ・・・”映画化?”あ〜〜!、もう日本なんて滅びてしまった方が善い。儲かりそうだったらなんでもアリ・・か??


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  [No. 38 ]    7月 10日


    朝日文庫
「椿山課長の七日間 」・浅田次郎
2002年作・400ページ

椿山和昭は46歳、某有名デパートの婦人服売り場の担当課長である。おりしも「初夏のグランド・バザール」7日間の開催初日でもある。
全館の売上が前年を1割も下回り続けているこのご時世に対前年120%という目標予算は無謀であった。しかしそれは先陣を切った婦人服売り場 としてはデパートの命運をかけて何が何でも成し遂げねばならない命題であった。

初日としては椿山課長の構想が図星となって予想外の出足となった、しかしそうなるとこの策を一週間持たせるためには大手メーカーに物量の確保 を何としても守ってもらう必要があった。
早速メーカー担当者と会食しながら確約に努めようと焦った。「しかし、椿山さん。一万円のスーツを100枚追加しろって無茶だよなあ」
「・・・こっちだって必死なんだから・・今日の所は何とかしたけどネ。まさかその先の無理は言わんでしょうネ」
「そのまさかを言えるのはあなたのとこだけですよ・・まあ、どうぞ、どうぞ・・」お酌をしながら椿山は突然に吐き気が来た。

つまり椿山課長はこのとき脳溢血に見舞われて急死してしまう。

主人公が死んでしまえば大概の小説は”完”と言うことであるが実はこの話はここが出発なのです。主人公が死後どのような心の葛藤があったのか ”死んでも死にきれない・・”と言う言葉をよく耳にしますがその辺の解釈を浅田さん風な作品で垣間見た所です。


まず死後の魂は”自動車運転免許センター”のようなところに集められてそれぞれの教習コースに分けられる、つまり生前の違反の状況に応じて 人殺しの罪や椿山のように”邪淫の罪”のコースなどと別れる。(広辞苑=五悪・十悪の一つ。妻または夫以外の者と淫事を行うこと。)

ただし、これに異議のある場合は再審請求をして現世(生前の世界)に戻って真意を確かめてくる猶予も与えられる。しかしその期間は七日間・・ ということで椿山課長は姿形は別人、しかも女になって戻ってくる、守る事は三つ、”復讐の禁止””正体の秘匿”七日間と言う”時間の厳守”である。 同時に再審請求を求めた人物、「人違いで殺されたヤクザ」「交通事故で亡くなった少年」たちとはくしくも「紳士然とした博士」そして「可憐な少女」 として再会も果たすが・・。

想えば椿山は仕事一筋、思い残すことがまだいっぱいあるしかも邪淫の罪まで着せられてこのまま、ハイさようならとはいきません。しかし人間って いろんな事を知らないで死んでしまった方が幸せであったかも知れません。

生前、椿山に世話になった者という設定で線香をあげに行く、自分の部下の係長が我が家に亭主然として住んでいる・・、どうしたことか?

なるほど・・自分のせがれにしては良くできた息子だと思っていたがよくよく観察するとなんと係長によく似ているような気がする。

父親はすっかりボケてしまったと言うことで施設に預けていたが実はそれはウソ、親爺は呆けたふりをしていただけ、子供の出生の秘密も知っていたし、 しかもその事は息子と二人だけの秘め事として隠していた。知らなかったのはオレだけだったんだ・・。

邪淫の・・、思い当たる節はデパートに同期入社して今も宝石売り場の係長をしている佐伯知子か・・?、でも彼女とは確かにいろんな面で肉体的な 交わりもあったがさっぱりした関係であったはず。彼女の婚姻話の相談に乗ったり、自分の憧れの女性の話などしたことも・・つまりお互いに 結婚相手は”別の人”とお互いに認知し合っていたはずだ。

しかし、椿山の事を心から愛していた、彼があんな若い受付嬢であった女を「婚約した」と紹介されたときも「ほんと〜に、オメデトウ・・」って 言ったけどとても悲しかった・・、いまだに彼女は独身を通している。


あれほど気にしていた婦人服売り場の業績はオレがいなくてはめちゃくちゃだろう・・・?、イヤ?そんなことは無い、部下が生き生きと働きしかも なんなく目標も突破しそうである。


老後・・ではなく、死後の世界を面白おかしく書いてくれた浅田さんのユーモアに敬意を表します。だれしも知りたくもない現世と来世のはざまを 仏教では”三途の川・・”と表現しているようです。そこで七日間迷うという霊に焦点を当てて考えさせる作品でした。


大丈夫、幸三郎、お前の一人や二人いなくなってもそれでも地球は回っている、現にお前が辞めた後の会社は以前よりずーっと合理化されて収益率も 上がっているって知ってるかい?。


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  [No. 37 ]    7月  7日


    角川文庫
「ヴィヨンの妻 」・太宰 治
1945〜8年作・280ページ

「パンドラの匣」「トカトントン」「ヴィヨンの妻」「眉山」「グッドバイ」晩年4年間に書かれた5作品が編さんされていました。

太宰治氏は18歳の時憧れていた作家芥川龍之介の自殺に大きな衝撃を受けました。その結果30歳で結婚するまでの間に表ざたになっただけでも 3度の自殺未遂を企てしかもその内1度は女のみ死に至り彼は自殺ほう助の罪で起訴までされた経歴を持つ。

結婚の後にも戦争、胸部疾患により懲用免除にはなったものの終戦を迎え、友人や仲間の死を知らされるたびに書かれたこれらの作品には常に”死” が見え隠れし心の不安定さを読み取る事が出来ます。そして39歳の時、女と共に玉川上水へ投身自殺しその生涯を終えてしまった。

くしくも私はまたしても藤原伊織氏と同じくこの「グッドバイ」で未完のまま投げ出された作品に遭遇してしまった。
作品が未完であるからには作家自身はもしやこうしてその作品が発表されることを望んでいなかったかも知れません。しかしそこには”作家の死”と 言う現実と、未完の作品の繋がりを私は強く感じないわけにはいきません。

太宰治さん、あなたの育った時代も環境もそして備わっていた才能もすべてあなたの精神に対して”負”として降りかかり、そして精神を支える ための強靭な肉体にも恵まれなかった。本当に可哀想な人生であったと思います、しかし同じ想いの人々の多くの共感を呼ぶ力の大きさには驚き を隠せません、共感を呼んだ多くの人たちの”桜桃忌”に集う方々の心を知るためにあなたの作品に初めて接してみました。


「パンドラの匣」「トカトントン」いずれも作品の表現方法は”手紙”形式の作品です。たしか先に読んだ夏目漱石の「こころ」も膨大な長文の 手紙から構成された作品でした。太宰さんもおそらくそう言った手法の斬新さを取り入れて作品にされたのかな・・と思います。

手紙では冒頭ギリシャ神話に出てくる「あけてはならない匣」を引用し、あけてしまったが故に人間は病苦、悲哀、嫉妬、貪欲、猜疑、陰険、 飢餓、憎悪・・などといった不吉な虫がぞろぞろと這い出してしまった、しかし匣の隅にはけし粒ほどの光る石があってうっすらと”希望”という 字が書いてある。だから人間には”絶望”と言うことは決してあり得ないんです。作品全体も精神の前向きな若者と言う感じを受ける。

しかし「トカトントン」では嫉妬、猜疑心などが縦横にはびこり、しまいには「人生、それはわからん。しかし、世の中は、色と慾さ。」などと 投げやりになる。最後に”この奇異なる手紙を受け取った某作家は、むざんにも無学無思想の男だった・・。”として自らで選んだカウンセラーにも 見捨てられる。

「ヴィヨンの妻」「眉山」「グッドバイ」は戦後の貧しい作家の生活の希望と慾をこれでもかと言うほどに書いている。しかしその根底はすでに 退廃・・つまり不健全な気風が全体を”不健全な作品”に仕上げていて必ずしも中高生に愛読された作家の作品にしてはみすぼらしい。
かれは39歳で亡くなってしまったけれど3作品に共通して出てくる小道具に”酒”が常に登場し、女と金が絡んでくる。あなたにとっての酒は まだ修業の入り口にも入ってはいなかった。お酒を”うさ晴らし”の道具にしか使いこなすことができなかったことは非常に残念なことです。 酒が全て・・とは言いませんが他の意味で、人生の伴侶にまでたかめることができれば「もっと生きて新しい境地の作品を書こう・・」という 意欲にもつながったでしょうに。

「パンドラ・・」から「グッドバイ」まで汚れの無い精神がしだいに汚れていく半生の縮図の作品を読んだ気がした。・・・しかし、合掌


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  [No. 36 ]    7月  2日


    講談社文庫
「 遊  戯 」・藤原伊織
2006年作・240ページ

本屋さんで本に巻いてあるあの下帯みたいなものは正式に何と言うのでしょう、そこには『作家から読者への挑戦状』と銘打ってあります。

そして「最大の謎。解けない謎。」・・と、おそらく推理小説への誘い言葉なのでしょうか、わたしはそう言う誘い言葉で作家の推理小説の罠に のめり込むのは単なる時間の浪費、時間の無駄使い・・と思っていました。

藤原伊織さんに今回初めてお会いしました。1948年生まれ・・私より少しお若い方です。つまり同じ世代の方の推理じみたお誘いに乗ってみようかと 手にした本でした。
いきなりインターネットを利用したゲーム(これはビリヤードでした)の世界で二人の男女がいきなりゲームに興ずるところからこのストーリーは展開 するのです。

実はパソコンのゲームソフトにはいろんな嗜好が凝らしてあって一人でも十分楽しめるようなものがたくさんありそうなのです。
私はそう言ったゲームには全く興味がありませんので心理状態にコメントする資格はありませんが好きな人にとっては仮想敵に見立てた自己戦闘 では物足りずネット上でのバーチャルな戦闘ゲームに発展するのでしょうか。


今年31歳になる本間透は趣味のネット・ビリヤードでは成績もよく2300勝、1800敗位、今日も対戦希望者から試合の申し込みを受ける。ゲーム を継続しながらチャットでお互いを紹介しながら進める、もちろんお互いはハンドルネームだし顔は見られないから安心しきっている。

東京都出身、女性、二十歳・・、このサイトでは初心者かも知れないし、この世界では女性をかたる男も多い。二度目の対戦を申し込まれたのはもう 本間も彼女(彼?)のことを忘れかけたころであった、チャットでは以前よりもう少し話題も日常生活に及ぶ。やはり女性だったようだ・・。

本間の勤務する人材派遣会社を通じて仕事を紹介してくれと彼女は頼みこんだ。本間は渋谷で会うことにし、彼女を待った、背が大きいから目立つかも ・・・、と言うようにハチ公まえのスクランブルの信号の変わり目にひどく細く背の高い女がこちらに向けて走ってくるのが見えた。

浅川みのり、本名以外は公開プロフィールのその他は全く偽りがない。無防備過ぎる。父は現職の神奈川県警の刑事と言う、そして本間は自分の父親 は3年前に無くなってしまったが外交官だった・・と。

浅川は本間に紹介してもらった仕事を続けながらCM制作のプロダクションにも名前だけ登録していた。あるとき農具のメーカーである千代田農機の 次期新鋭機種のキャンペーンのためにオーディションを受けることを勧められる。しかしここで突飛もない逆立ちをしたことにより審査員全員一致で キャンペーン・ガールに決定する。テレビに放映され、農機具の売り上げも順調、それもであるが浅川は一躍有名人になってしまった。

しかし、事あるごとに悩み事や心配ごとなどの相談は本間なしでは考えられないほどになっていた。特にネット上の問題は本間に頼ることが絶対と頼り きっていた。

本間は彼女とは出来るだけ距離を置き必要なアドバイスだけはしていたが、どうやらメールのやりとりまでが何処からか筒抜けになっていることに 気がついた。その証拠にある種のストーカーが事あるごとに自転車でロケ現場に出没し彼女は気の動顛により危うく大けがをしそうになる。

酒の弱い本間は酒の強い浅川から注がれるままにワインを口にしながら話を聞いていた。ふっと気がつくと自分のベッドの上に寝かされていた。「エッ! 、気を失った僕を君が担いできたって?、・・帰らないって、君は約束を破ろうとしている?」「そういうことになりますね」

2007年5月、藤原さんは59歳でガンの為に亡くなられました。この作品はガンと戦いながらお書きになったと解説に書いてあります、そしてその 完結を見ないままに逝かなければならなかった藤原さんの無念さが伝わってきます。

音楽でも絵の世界でも”未完成”はどこにでも存在します。そしてその多くの未完成の中には時として完成されたものを凌ぐような作品もあると知ります。 それはその未完成によって大きな未知の世界を予知させてくれるからではないでしょうか。合掌


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  [No. 35 ]    6月 24日


    光文社文庫
「 泳いで帰れ 」・奥田英朗
2004年作・240ページ

わたしは本屋さんに行くと5〜6冊の本をまとめ買いしてきます。まだ読書をはじめてそれほど期間が経っているわけではありませんが ”読み終わった本”がいつまでもその場所を占有していることが許せません。ですから場所を取らない”文庫本”を必ず選定して購入してきます。

話題の本が紹介され「あ、読んでみようかな・・」でも文庫本になるまで待とう。そして文庫本にならなければ”ただの流行り”だったのかと諦めも つきます。

真剣に読み込む本と気楽に面白おかしく読み下す本とバランスも考えて購入してきます。前回は気の重い文学作品でしたので奥田さんに登場して頂きました。
彼の作品は心配することなく私の娯楽としてのお付き合いをしてくれることでの期待を裏切らないと言う事では信頼性も高いのです。


2004年のオリンピックは北京の前、ギリシャで行われました。その時野球好きの奥田さんが出版社編集者とお酒を飲んだ席で”長嶋ジャパン”の 戦いぶりを観てみたい・・、と言ったのがきっかけで出版社費用で10日間ギリシャに取材旅行に出かけることが決定しました。
もちろん出版社はその紀行を本にして小銭をひと稼ぎしようと企んだのは言うまでもありません。


奥田さんは岐阜県のお生まれです、と言うことで熱烈な中日ファンであります。勝っても負けても全力でプレーする野球を見て育ってきたわけです。

日本の野球はオリンピックで期待の成績を収めていません、このギリシャ大会でも直前に長嶋監督が病で倒れ変わって中畑が指揮をとりました。

しかし、予選でオランダ、キューバ、台湾には勝ったけれどオーストラリアに敗け何とか決勝リーグに出場。初戦ギリシャに勝ちはしたが再び オーストラリアに負けて金メダルの夢は去りました。

奥田さんは負けたことは致し方ない、しかし負け方が気に入らない。何で城島、高橋、福留等にバントなんかさせるんだ!!。こんなところまで来て 高校野球みたいなものを見に来たんでは無い!!、しかも負けだ。全員飛行機では無く<<泳いで帰ってこい!!>>と怒鳴ってしまった。

その他の競技も合間を見て観に行った、特に女子マラソンの野口みずき選手の優勝に感動したり、柔道の活躍、フィールドでのアスリートたちの美しさ を作家の目を通して伝えてもらうのも面白い試みだな・・と思いました。

中日にエーゲ海クルーズの息抜きを取ったと・・、乗客700名のうち東洋人とりわけ台湾、韓国、日本人だけで500名、やれやれウンザリ・・。

お疲れ様、そして面白く読み終わった、ありがとう。


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  [No. 34 ]    6月 19日


    新潮文庫
「 こ こ ろ 」・夏目漱石
1914年作・327ページ

夏目漱石は明治になる前の年に生まれ大正の初めに50歳で亡くなられました。中学生のころ読んだ”坊ちゃん”や”吾輩は・・”を通じてとても ユーモアがあり万人に好まれる本をお書きになられる方・・と思いきや大変に重厚な人の心の葛藤を苦しみながらお書きになっています。

晩年、朝日新聞に連載された長編小説としています。内容は3編からなり、”先生と私””両親と私””先生と遺書”から成り立っています。主人公の 「私」は実家の父親の今日か明日かと言う臨終の末期に届いた先生からの長い手紙を受け取ることにより慌てふためいて列車に飛び乗って再び東京に 向かった。

文章の中では明らかにしていませんが「私」は父親の死際にも立ち会えなく、そして先生の死際にも立ち会えなかった。先生からの手紙には「・・この 手紙があなたのもとに届く時には私は自らの命を絶って・・」先生の遺書は小説の半分を要しています。

上、「私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此処でもただ先生と書くだけで・・」主人公の私が大学入学前の書生をしていたころに友人に 誘われて行った鎌倉の海で先生に行きあう。

中、「うちへ帰って案外に思ったのは、父の元気がこの前見た時と大して変わっていない事であった。」しかし日に日に父の容態は悪くなり遂には寝た きりとなり兄や、嫁いでいた妹に電報で急を知らせた。
そんな父の枕もとにいた私に先生からの手紙だと言って母から受け取ったのは分厚い手紙の遺書だった・・。

下、「わたしの鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿ることが出来るなら満足です。」


この作品に登場する人物はさほど多くはありません、主人公の「私」とその家族、先生とその妻、先生の遺書の中に登場する妻になる前のお嬢さんと その母、そしてその同じ下宿の同居人”K”なる同学年の人物です。

その”こころ”で言わんとする大きな事は二つありました。一つは一人の女性・・つまり、お嬢さんに対する若き日の先生とKとの恋愛の駆け引きに 伴う心の葛藤。もう一つは先生の若き日の頃の資産、若くしてご両親を失い叔父の家族に厄介になるものの自分の財産を横取りされようとした苦い 経験、それらを含めて屈折した現在の自分が存在している。その事をわたしを先生と慕ってくれているあなたに伝えたい・・。

文体の構成は先日読んだ村上春樹さんのノルウェーの森と似て回想めいた表現です。比較ついでに文章表現はこの作品が大正初期に書かれた事を思うと 平易な言葉で読者に大きな想像力を求めて表現する文章能力には驚きを隠せません。その点では比較者のそれは単刀直入の表現で一件歯切れの良さを 感じますが読者はある種、虚しさを感じます。

日本古来の茶道、武道、華道などに習ってもし”文芸道”なる言葉があったとしたらまさしくこの”こころ”は文章表現にそんな気迫を感じます。

主人公の「私」がこの先生と出会ったことは彼の一生を左右する一大事であって、誰にでも当てはまる初青年期の人生を左右する出会いと変わりません。

その大切な時期に運悪くオカルト集団の甘い言葉に魅せられてすぐれた才能を怪しげな方向に向けてしまった若者も数多くいました。私も今老翁の身で はありますがこうして充実した日々を送る気概を持てるのも青年期に接した先生に感化されたものによるところが多いにあると感じます。

久々に読み応えのある本に巡り合えました。


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  [No. 33 ]    6月 11日


    文春文庫
「青葉繁れる」・井上ひさし
1973年作・250ページ

井上ひさしさんが40歳のころ自身が在校していた宮城県仙台第一高等学校のころを思い浮かべながら半自伝的小説として書かれたものと思います。

実は井上さんの生まれは山形県、家庭の不遇から施設に預けられそこから学校に通ったと言うことです。主人公つまり私、稔は仙台市内の割烹のせがれ ・・の設定ですが”そんなだったらよかったな〜”と言う想いが私を偶像化した稔に置き換えられた作品です。

ついでに実は、その通り稔は事あるごとにいつも空想が現実と離れて独り歩きしそのおもいが大きな希望となって空想と現実の見境がつかなくなって しまう・・・、わたしも含めて夢想癖にはことのほか身につまされるものがあります。

昭和23年に新学校制により仙台第一中学校は第一高校(旧制の一高とは異なる)となり、井上さんはその初期に当たる卒業生と言うことになります。 当時はまだ旧制中学のよき時代の学生生活の良さと自主性を重んじる校風が「いたずらすることも立派な社会人となる前の大切な勉強・・」という 社会の暖かな目の中で学生たちはのびのびと過ごすことができました。

稔たちが市内から酔っ払った挙句盗んできた「看板」を学園祭に展示したくだりがありました。
たちまち地域の話題となりこれが新聞で取り上げられると稔たちは退学を覚悟しました。しかし校長は「自分は生徒達に自由な発想で学園祭をしなさい、 と言った以上すべては私の責任であり職を辞して責任を取る・・」

井上さんは浅草のストリップ劇場で一世を風靡したよき喜劇人達とのふれあいから独特の作風で多くの作品を作られてきました。本を読まない私でも 知るところの前作の「ひょっこりひょうたん島」や後の「吉里吉里人」・・そして多くの戯曲を手掛けられています。

きょうは井上劇場の扉を開けてご挨拶してきた気持です。これからもヨロシク

      
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  [No. 32 ]    6月  6日


    講談社文庫
「ノルウェイの森 (上)」・村上春樹
1987年作・300ページ

「僕は37歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸 しようとしているところだった。・・・」

明快な書き出し、興味をひかれる歯切れのいい文章・・。20年前には430万部のベストセラーであり”村上春樹ブーム”を引き起こしたと言う 本を店頭で手にした。・・・あらら、読みきりではないんだ(上)と書いてある、まあ読み終わった後に続きの事は考えよう。

「僕は37歳・・」つまりご自身がその年に、18年前のことを回想する自叙伝的な文体を呈しています。主人公のワタナベは兵庫県出身、取り囲む 幼なじみも同郷、そして大学は東京の私立大学で過ごす。学生運動の盛んなころを活動家たちを冷やかな感情で見つめながらいわば軟弱な学生生活を なんとなく過ごしていた・・と言う設定である。

軟弱な・・というのは将来に対する大きな希望も持たずひたすら流れに身をゆだね、ただし男と女の関係にはことのほか関心を示し繊細な感情を 女性との間で交わすことが特技として備わっているオトコ


次々と女性が登場し人物が詳細に紹介されその家族関係まで掘り下げて女性の性格を特徴付けることによりワタナベがどんな女性にも対応可能という 印象を持つ。

(上)を読んだ限りではあえて(下)をすぐに読みたいとも思わない、彼が騒がれた所在は見つからない。時期が来た時のために人間関係のメモ のみ残しておく。

                    レイコ(女)ーーーー直子(女)====キズキ(男)
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ll    /
                               ll  /
          ハツミ(女)ーーーー永沢(男)====ワタナベ====小林緑(女)
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  [No. 31 ]    6月  1日


    角川春樹事務所
「雨あがる 」・山本周五郎
1942〜1957年作・250ページ

むかしテレビの連続時代劇に夢中だったことがありました、そのとき「樅の木は残った」山本周五郎・原作・・・を覚えていました。

山本周五郎さんは本名、清水三十六といい横浜の小学校を卒業したのち山本周五郎商店に丁稚として奉公し仕事の傍ら主人の計らいで勉強しながら 作品を書くようになったようでした。たまたま応募した文芸春秋出版社で住所を「山本周五郎方清水三十六」と書いたそうですが出版社は作者が 山本周五郎であると勘違いし、以来その名前で通したと聞きます。

この本、五つの短編で編纂されています。「深川安楽亭」「よじょう」「義理なさけ」「雨あがる」「雪の上の霜」です。

全ての作品に共通する事は主人公はその社会で一生懸命尽くしているのになぜかその時世の歯車にかみ合わずつらい日々を過ごさざるを得ない事柄を 取り上げています。
そして結末はどの主人公もまだ分かりません、きっと”未来が開けると信じて生きていく人”を描ききっています。

「雨・・」「雪の上・・」は主人公、登場人物も同じ、ストーリーも続編的で「雨の・・」の余韻を残したまま読むと別の一つの作品のようでした。

どの作品にも男と女の強い気持のつながりが書かれています。

年表によると山本さんはこの作品類を書かれていた42歳の時奥さまを膵臓がんで亡くし、そして翌年再婚された経緯があります。

ですからことのほか単純に動物としての人間も”男と女の世界”として素直に受け入れると山本さんの作品として昇華するのかなと思うのです。
しかしそれは山本さんの生きざまであり残る余生の20年、素敵にまっとう出来たことはそれに越したことは無かったかと思います、享年63歳。

この本、こんな素晴らしい天気なのに読み始めたら止まれません面白い、そう言う場合は断ってほしいものです。今日は遣らなくてはいけないことが いっぱいあるんですから・・、結局読み終えてしまった。


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  [No. 30 ]    5月 28日


    講談社文庫
「フォーティー・翼ふたたび 」・石田衣良
2005年作・380ページ

石田さんは37歳で小説家デビューを果たしこの作品を書く2年前に直木賞を受賞しました。そして45歳の年にこの作品を書かれました。


登場する主人公はほとんどが40歳代、もちろん40歳と言う年齢をご自身が人生の折り返し・・と捉えて意識を持たれた上での作品にほかありません。

作品は大きく7つのテーマで40代の生きかたをそれぞれの主人公に託して作り上げています。
「真夜中のセーラー服」「もどれないふたり」「翼ふたたび」「ふたつの恋が終わるとき」「われら、地球防衛軍」「はい、それまでよ」「日比谷 オールスターズ」

日本の企業がリストラという呼び方で中高年者に肩たたきをするようになったのは20年位ほど前からでしょうか。それが多くの企業人にとって 企業存続のため「止む無いこと・・」と認識され始めるとそれからはなにかクサビが外されたように今度は40代の戦士にまでその手は伸びてきました。

企業は高効率の人材を求めそこからはじき出された人々は最低限の生活を余儀なくされて当然という風潮も生まれてきます。

しかし、世の中の流れに乗り遅れたり、急流に凄んだ人たちは本当にもうこの世の中では不要なものなのでしょうか。
主人公自身もこういったジレンマの中から自分の生きる道を模索し始める。「そうだ、自分より落ち込んでいる人の手助けをしてみよう・・」

吉松喜一は40歳、大手広告代理店に17年間勤めたがいつの間にかはみ出されてしまった。同じ年の妻、涼子からも冷たい扱いを受ける。
退職金の残っているうちに何とか仕事に就きたいとフリーランス・プロジューサーの名刺も作った。しかし仕事は一向に入ってこなかった。

喜一はオープンして二週間ほどした自身のブログを開いて入力を開始した。サイトのスローガンは「人むすび・人あつめ・40歳から始めよう〜 なんでもプロジュースいたします」
喜一が自分のプロジュース業をPRしようと解説したものだ。これなら交通費もいらないし靴底も減らない・・・しかし反応はほとんどない。

「真夜中の・・」最初の掲示板書き込みにはAV女優からのものだった、喜一はそんな書き込みは覚悟していた、暇なので「ここはまじめなサイトだ、 他に行って書いてこい!」と。
しかしまたしてもAV女優からの書き込み、真剣なのだ。「・・なんでもプロジュースをしますと書いてある、だからお願いしますお金は払います」


そんなつまらない男女関係の仲裁や、引きこもり男を世の中に引っ張り出す、と言った自分でも最低と言う仕事もこなすうちに自分のサイトが注目 され始めたことに気がつく。

つまり、世の中にくたびれてすでに人生の半分を過ごしてしまった同じ世代からの引き合いが急に増えてきた。そして社会現象として40歳代を 見つめなおそうという企画や出版社もではじめた。4〜5年前に流行ったアラフォーなどと言う言葉もこの年代のやるせなさを表しているようです。

日比谷野外ホールでの一大企画を喜一は成功の内に終わらすことができた。あらゆる方面からもプロジュースに対して絶賛をあびる。そんななか 何時も冷たくあしらっていた妻も見に来ていて喜一の仕事の素晴らしさとその仕事に携わる夫の誇りの高さに改めて感動する。

「お疲れ様、すごくよかった」自分の涙に照れて、喜一はいった。「打ち上げで早く一杯やりたいよ。涼子もつきあうだろう」

涼子が涙目で首を横に振った。「アルコールはお医者さんにとめられてるの」「どういうことだ」「三か月なんだって、・・」


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  [No. 29 ]    5月 19日


    文春文庫
「一茶 」・藤沢周平
1977〜8年作・380ページ

結構世の中には勘違い・・が良くあるものです、藤沢周平さんの書をついこの間読み終えたばかりでした。初めて接した表現の穏やかさ、読む人の それは私にとってとても穏やかな表現で押しつけがましくなくジンと心に伝わる文章能力を持つ人・・・。


「痩せ蛙まけるな一茶是にあり」「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」・・あの有名な俳人小林一茶を作家藤沢周平が紹介してくれるという、どんな 文章でいわゆる”伝記小説”を書いてくれるのかと期待していました。

一茶は北信濃の貧しい農家の長男として生まれましたが生母の死のあと継母と折り合いが悪く15歳で江戸に奉公に出ます。そして街中で俳句遊びで 賞金稼ぎに興ずるようになり自身も「俺は俳句の才能があるやも・・」と思い始める。
持ち前のハッタリでいっぱしの俳諧師を名乗るようになり彼方此方に顔を出し少しは名も売れるようになった。

葛飾村や安房地方に旅をして江戸から来た”俳諧師”として地方の豪商の館に世話になりながら近所の俳句愛好家に手ほどきや添削をする。そして出発の 時には僅かなわらじ銭をもらって生活をしていた。
田舎にたまに帰った時は江戸で高名な宗匠として羽振りのいい俳諧師としてやっているとふらしてはみたが村人は懐疑的であった。事実江戸に戻っても 一流の俳諧師としての地位などまったく無く芽が出なかった。ですから乞食同然の生活を余儀なくされていた。

父親が死ぬ前に一茶の事をとても心配して遺言状を書いておいてくれた、財産を半分分けてやる・・。実家を守っていた腹違いの弟は多いに反対した。
しかし、一茶はあらゆる知恵をめぐらせてついには財産を半分取り上げて江戸を棄て田舎のある柏原に戻ってくる。

そして一茶52歳にしてやっと妻を迎える事が出来た、しかも訳ありとは言え28歳と言うあまりにも若くその差24歳と言うものでした。
一茶はせっせと子作りに励む、最初の子は流産、次の子は生後1ヶ月で死去そして次に生まれた女子も1歳にして死去、次の男子の生まれた後妻が死去、 追うようにその子も100日足らずで死去してしまう。一茶60歳、妻享年36歳と言うものでした。

62歳独り暮らしの一茶は老後に不安を感じ新たな嫁さがしをする、38歳の妻を迎えるがすぐに逃げられてしまう。
すぐに子連れでもよかったらと言うのに承諾し今度は30歳も若い妻を迎えるが交わった翌日意識を失って倒れ世を去る、享年65歳であった。

子供のころから親しんだ俳句の中でも一茶や良寛などとても優しいおじいちゃん・・と言う印象でその句に接してきましたが
読み進むうちに藤沢さんが一茶に対してあまり愛情を感じていなかったんではないか・・、あるいは一茶と言う人を研究していくと実はとんでもない 人であってこれは作品とするのにはうってつけの主人公だ・・と思ったのか疑い始めました。


読後感想を今迄にならって書こうとするとそこには一茶の生き様やその状況に対する私の意見をついつい言いたくなってしまいます。
だって、一茶というひとは実際に居た人ですしその人の事を書いているんですから・・・

そう想いながらもう一度ざっと目を通した時にある事が見えてきました。
ひょっとして藤沢さんはこの一般の人の目には一見聖人のような俳諧師、小林一茶を書くことによって自身の生い立ちやあるいは作家としてここまでくる 過程にある種の共通点を抱いていた・・。

前に読んだ「三屋清左衛門・・」はその主人公を借りて藤沢さんの老後そのものの生きざまを書かれていました。それにならって思いをはせるとまさしく 小林一茶と言う俳諧師をおかりして自身の自叙伝をお書きになったのかなと思いました。
しかし最初からそう企てた事ではなかったと思います。たしかに一茶に興味を持って調べていくなかであまりにも共通した心情に接することがあり 更に詳しく研究しその結果を見事に小林一茶と言う名のもとに自叙伝の完結を見た・・・作品に仕上げたと感じるのです。

藤沢さんは50歳手前になってようやく作家としてはあまりにも遅いスタートで直木賞を受けました。その間、幾多の若い作家がデビューし山形の田舎 育ちの自分がはたしてこの世界で花を咲かせることが出来るのだろうか・・?、そんな下積みの経験が生涯浮かばれなかった一茶の無念さと重なる気が した藤沢さんの心意気を見た思いです。その同じ年の頃一茶は大東京での自分の地位に未練を残しながらも柏原に引きこもった・・、自分は何とかすがり つかまる”わら”が目の前に流れてきた・・・。ひょっとすると自分もと思うと作家としての生活に感無量を感じたのでしょう。

わたしは絵描きの世界にはこのように世間から認められなくとも生涯苦境に耐えて意思を通した作家の話は掃いて捨てるほど知りますが俳諧師 ”小林一茶”の哀れさも知ることができました。生涯20000句にも及ぶ俳句を残して・・、合掌。

一茶65歳、藤沢さん70歳で没。幸三郎ただいま67歳・・・か


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  [No. 28 ]    5月 13日


    角川文庫
「夏子の冒険 」・三島由紀夫
1951年作・270ページ

1970年11月、三島由紀夫は東京自衛隊市ヶ谷駐屯地で異常な行動により自害する、亨年45歳でした。
当時私は28歳、人生を芸術家願望としての希望もあきらめきれず、勤務する会社においてもこのまま二足の草鞋感覚では同僚に迷惑を掛ける・・、 自分の進路を明確にしなくてはならないころの作家、三島由紀夫事件はただならぬ衝撃として記憶に残りました。


「夏子の・・」は三島氏が26歳のころの作品、東大を卒業し大蔵省の勤務を辞め作家生活の基盤を固めている初期の作品であります。もっとも彼は すでに中学生ころから幾編かの作品はすでにしたためていてその才能は早くから認められてはいました。

1950年代、まだ日本は戦後復旧のさなか多くの民衆は貧困の中にもいつかは素晴らしい未来が開けることを信じてまい進していました。
そんな民衆の”いつかは素晴らしい未来・・”とは娯楽作品や映画に代表される”ブルジョア社会”の家庭を題材にした「あこがれ」を助長させる 内容が主体でした。まだまだ国民総中流意識には程遠い時代背景でした。


主人公の”夏子”はそんな時代背景の資産家(父、祖母、母、伯母、)に育ったわがままな令嬢です、
”或る朝、夏子が朝食の食卓で、「あたくし修道院へ入る」といい出した時には一家は呆気にとられてしばらく箸を安め、味噌汁の椀から立つ湯気ばかり が静寂のなかを香煙のように歩みのぼった。”こんな書き出しでした。

結局、夏子のいいままに祖母、母、伯母が付き添って北海道湯の川にある「天使園修道院」へ向かった。
上野駅で寝台車に乗る時ホームから同じ列車に乗り込む革のサックに入れた猟銃を背負った一人の青年を認めた、そして遠目ではあったがその眼の 輝きをはっきりと見てとれた。彼女は思わず口の中で、『ああ、あれだわ』と叫んだ。

青函連絡船のデッキで会うことができた彼女は、青年の旅の目的を聞き驚いた。「仇打ちに・・」しかもその相手は熊だという、彼は実業家の父の狩猟 を教わりアイヌ部落でお世話になった恩人の娘、秋子が4本指の熊に襲われて他界したことを聞き会社に休暇届けを出し向かうところだと言う。
夏子はその”井田”という青年の眼が今まで自分の知る若者たちの眼とは輝きが違う崇高な眼差しとして映った。

夏子は修道院に送られる朝、母達をまいて井田のもとに”熊猟に連れて行って・・”と頼み込み逃走を企てる。
一方、娘夏子の失踪を知った母達は湯の川の宿から札幌へと夏子の電報を頼りに追跡をする。

その顛末はいわゆるドタバタ喜劇調で多少のウンザリ感は否めない。
結局は祖母、母、伯母たちは夏子と井田と合流することになる、老女たちは改めてこの青年の凛々しさとあたりの良さに将来の婿を想像するにまで なる。

井田は4本指の熊が秋子を襲った付近にまた出没することを突き止め北海道狩猟組合やアイヌ部落の青年の協力を得ていよいよ包囲網を設定すること になる、またしてもうとましいバアさん達が見物したい・・と、娯楽性を高めてくれる。
待ち構える井田のそばでバアさんたちにちょっかいを出して出てきた4本指の大きな熊、アイヌの青年と井田の銃は仕留めた。青年の村田銃ではなく 井田の新式ミットランドの一発が心臓に命中したのだった。

アイヌの村はこの悪霊の熊猟の成功を祝って多賑わいとなり、協力した新聞社も大きくそれを報じ井田は一躍ヒーロー扱いにされる。
勿論バアさん達も大喜びで夏子の婿としてまた資産家の松浦家跡取りを夢見て帰郷するのであった。

井田も夏子に結婚を申し込み「義父におねだりして少しいい部屋を造ってもらおうか・・」と、夏子はその時の井田の瞳の輝きが以前と違うことに気づく。
青函連絡船がもう青森港に近くなったとき彼女はくるりと振り返るとその性格的で一種の特徴ある断片的な口調で言った。

”「夏子、やっぱり修道院へ入る」三人は呆気にとられて、匙を置いた。三つのコーヒー茶碗から立つ湯気ばかりが、この神秘的な沈黙の中を、 香煙のように歩みのぼった・・・。”

こんな夏子のわがままな気性を暗示するかのような書き出しと締めに同じ文章はつづられます。”・・・立つ湯気が香煙のように歩みのぼった・・”


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  [No. 27 ]    5月 6日


    文春文庫
「三屋清左衛門残日録 」・藤沢周平
1992年作・440ページ

この作品が書かれたのは藤沢さんが65歳のころ、つまりこの作品に登場する主人公の三屋清左衛門とは10年の差があります。清左衛門は当時55歳 で家督を倅に譲って隠居生活に入ったと想像されます。しかし、その隠居生活においても私たち現代人が”定年退職”という現実をみても深く考え させられることが多く含まれています。文庫本2冊分の読み応えでした。


作品の時代背景は江戸時代、世相も安定し諸大名は1年ごとに江戸と自領を行き来し更にその妻子は人質として江戸に常駐させられた頃としか分かりません。

そして清左衛門がどこの大名に使えていたかも書かれていません、藩主の許しを得て故郷の屋敷(今で言う”官舎”)はそのまま使ってもよし、そして 必要であれば隠居部屋の増築もしてあげる・・と、大変に恵まれた老後のための優遇厚生年金と言える恩恵に浴した設定であります。

故郷に戻った清左衛門の活動の場に出てくる川や町名から地図を検索するとどうやらそこは青森県弘前の城下であったと推察されます。

”残日録”つまり隠居を始めたのを機に日記を付けようと言うことで書きとどめたものと言う形態の小説です。この事は私事で申し訳ありませんが 何か形として・・と言う意識は私自身にも生じ、”みち草”はまもなく5年をも迎えようとしています。

清左衛門は数年前に妻を病で失っています。従って隠居をするについては息子夫婦と二世帯同居といった設定で、この後者の条件を除くとあまりにも 私の境遇に似ていてうなずける事柄の多さに驚くばかりです。

さて、清左衛門は定年退職の挨拶で誰しもが発想する”健康で精神的豊かさに満ちた老後”を実践すべく先ず子供のころから通っていた道場に通い 体の健康を目指します。みるみる往時の剣客ぶりが復活し、通ってくる武家の子供たちの指南も手伝えるようにまでなる。


作品は15節からなっていますが、元同僚との格式の差、その周囲との繋がりの楽しみ、疎ましさ、それらが織りなす人間模様は私たち現代の老後社会 と全く同じであります。隠居となった今、もう藩政には首を突っ込めない寂しさと元部下からの相談ごとに有頂天になりながら力を貸す・・など 本当に人間味あふれる主人公であります。

清左衛門はたまに友人たちと呑み屋さんに行って、未亡人のおかみさんのおいしい手料理を肴に楽しく過ごすこともあり時には独りで行っておかみさんの もてなしを堪能して帰る事もありました。
そんなおかみさんが実家の事情でこの地を離れることが決まり清左衛門の淡い恋心にも一抹の寂しさが漂います。「・・離れていても、たまにはわしの事を 思い出してくれるのだろうか・・」男は幾つになっても自分勝手な想像に胸ときめかすのです。

最終章では幼なじみの平八を見舞いに行こう・・と思う。平八は最近中気の病に倒れもう医者からはぼつぼつリハビリのために歩く訓練を進められていた。
”路地をいくつか通り抜けて、清左衛門は大塚平八の家がある道に出た。そして間もなく、早春の光が溢れているその道の遠くに、動く人影があるのに 気づいた。清左衛門は足を止めた。”

”−そうか、平八。いよいよ歩く練習を始めたか、と清左衛門は思った。人間はそうあるべきなのだろう。衰えて死がおとずれるそのときは、おのれを それまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終わればよい・・。清左衛門は路地に引き返しその場を離れた。”

藤沢周平さんはこの作品を書いた5年後に70歳でお亡くなりになりました。わたしももうそこまであと3年・・か。


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  [No. 26 ]    4月 24日


    新潮文庫
「 雪 国 」・川端康成
1935年作・170ページ

”国境の長いトンネルを抜けると雪国であった・・。”
本を読む習慣が無くてもこの出だしのフレーズは私でもよく知っていました。自分のいる環境からある装置を通過すると別天地・・、たとえば タイムスリップ装置、ドラえもんの各種アイテムは私たち人間にとってあこがれの小物。


東京に妻子とともに住んでいる島村と言う中年男が、清水トンネルと言う装置を越えて新潟の若い芸者、駒子のもとに訪れて毎年繰り返す不倫行為を 描いた破廉恥作品でした。

ノーベル文学賞受賞者の作品に触れてみたい・・、”変だ!!”この本を読んだノーベル文学賞選考委員の人たちは本当に感動したの?

はずかしながら読書の初心者が直面した2度読みでした。書き出しのフレーズには深大で果てしもなく美しい世界が待っていると期待させてくれます。
しかし1度読み終わって何を言おうとしているのか不確かです。世界的作家の作品ですからもっと深い文学的な意義を読み取ろうとしました。僅か 170ページの文庫本、そう時間は取らせませんでした。


1935年作、と言うことは私が生まれる7年も前に書かれた作品です。川端さんが36歳のときのものと言うことです。彼はこの前に「伊豆の踊り子」 なども書き作家としての地位はゆるぎないものとなっていたと思われます。

私は戦前生まれですが小学校に上がると敗戦国、今まで日本の庶民的意識の根底をなしていた男尊女卑はすっかりアメリカナイズされ流れは男女平等、 レディーファーストの教育で育ってきました。


作品のあらすじは冒頭書きましたしあまりにも有名作家の代表作であり皆さんの方が仔細にご存知かと思います。

では、その表現の手法とか文学的な記述としての技法はどうなんでしょう・・。それは素晴らしい!、
私が絵の題材を求めてそのモチーフを絵画という作品にしようとしたとき”必ずしも端的に感動して”取り組むとは限りません。むしろ”なんでもない” 風景やモチーフに表現としての息吹を与えたいのです。そう言った感性から読み返してみるとそこにすばらしく繊細な川端康成氏の緻密さが見えて くるのです。

「・・あんなことがあったのに手紙も出さずに・・」
「・・熊のように硬く厚い毛皮ならば人間の官能はよほど違った・・人間は薄く滑らかな皮膚を愛し合っているのだ・・」
「・・こいつが一番よく君を覚えていたよ」と人差し指だけ伸ばした左手のこぶしを・・
彼は駒子を哀れみながら自らを哀れんだ。そのような有様を無心に刺し透す光に似た目が、葉子にありそうな気がして島村はこの女にも惹かれるのだった。


35歳の川端がその男の本性として際限のない妄想が男の虚しさとして伝わってきます。そのやり場のなさを最後に”火事”を表現し精一杯の散り際の 美しさとして男と女の愛を完結させるのです。

72歳、4月16日、逗子マリーナマンションの仕事部屋でガス自殺。作家が表現としての境地を築こうと奮闘する苦しみは時としてその生命にも 刃を向ける事があるのかも知れません・・。


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  [No. 25 ]    4月 17日


    文芸春秋
「 イン・ザ・プール 」・奥田英朗
2002年作・280ページ

し、しまった!!、なんだ?この本は!。まるで毎週見させられていたテレビの”サザエさん”じゃないの?
標題に騙された・・というか東京の本屋さんに行こうと電車の中のつり広告に女優の推薦広告文がつり下がっていて「・・あったら、それも・・」と 思っていて買ってきた本でした。
確か日曜日の夕方わたしは野山で遊んで帰宅し、夕飯時にはきまってサザエさんのテレビ漫画を見せられた気がしていました。


またしても奥田英朗さんの本を買ってしまいました、伊良部総合病院・神経科・医学博士・伊良部一郎、この人は主人公ではないでしょう?。

主婦向け月刊誌・出版社勤務の和雄は体調が悪くなり内科に診てもらった。しかし機能的に悪いところはなく、精神的なことでしょうと言うこと で、病院内の精神科に移された。


神経科医はストレスによるものが主因だからと言って運動をすることを勧める。
和雄は近くの区民プールを探し出し行くことにした。早速デパートにいき水泳用具を購入した。(私は今日、今まで使っていたパンツが伸び切って しまったので以前妻が購入し箪笥にストックしてあった新しいのと交換した。まだ値札が付いていて¥6195円と表示してある。水泳のパンツって こんなに高かったの?知らなかった・・)

和雄は子供のころは泳ぎは得意だったが果たして何年ぶりにプールに来て泳げるか心配だった、しかしそんな心配は無用だった。泳ぎは忘れて いなかったのです。しかしすぐに息切れがしてしまい永く泳ぐことができなかった。
医者はエアロビクスと同じで酸素を取り入れながら運動することをすすめそのため長時間泳ぐことが望ましいと助言する。(そうそう、私も最初は 25m泳ぎ切るのが精いっぱいでそれだけでとんでもない運動をしたと思っていたことがありました。)

和雄は少しずつ距離を伸ばすことができるようになり、今までの体調不良の下痢や吐き気もいつの間にかなくなってきた。それにも増して泳ぐことが 楽しくなってきた。(私も、始めたきっかけはいろいろありましたが泳ぐことの楽しさを見つけたことは大きな成果だと思っています。)

次は500mが目標だ!、息継ぎを楽にするために参考書で3ストロークで一呼吸を知りやってみたら”出来た”嬉しくなって仕事中の妻に電話して 自慢もした。(私は体が筋肉質で比重が重く2ストロークではまだ口元まで水面が上がってきません、やむなく3ストローク目で呼吸する方法を独自で 編み出し実践しています、ですから呼吸は右、左、交互になり体のバランスにはいいなって今は思います。また長距離にも楽です。)

和雄は12分で500m泳げる様になった、呼吸も息切れしなくなりキックも推進力では無く尻を浮かせる程度に動かすことを覚えた(これは私より 随分早い、しかし泳法も速度も何か似通っている。私は40往復1時間で2000mですから彼の方が10分ほど早い。)

どこのプールも一時間に10分の休憩をとり強制的にプールから上がらされる。和雄はもっと泳ぎたいと思った、そして夜間にプールに忍び込んで 一晩中泳いでみたいと・・、(私の望みは海で泳いでみたい・・、しかしヒョッとすると底なしのプールでは恐ろしくて溺れてしまうかもしれません、 どこか遠浅のサンゴ礁湾だったら焦る事もなく落ち着いて泳げるかなー・・)


その他に「勃ちっ放し」「コンパニオン」「フレンズ」「いてもたっても」の5編で編纂されていました。


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  [No. 24 ]    4月 12日


    文芸春秋
「  鎖  」・北方謙三
1983年作・310ページ

北方さんは1981年に第1回日本冒険小説協会大賞などを得て作家としてデビューしました。ですからこの作品はまだ新進気鋭の鋭い感覚で一気に 書き上げたであろう気迫のこもった状況がひしひしと伝わってきます。

屍体が四つ、転がっている。
五つ目の屍体を、私は待っていた。
羽虫。窓を開け放ってあるので、電灯のまわりには何匹も集まっている。テーブルに降りてくるやつは、運が悪いのだ。
電話が鳴った。受話器を、左手で探った。「わかった」私はテーブルから眼を離さなかった。・・・
・・・右手に握ったままのライターを、そっとテーブルに近づける。親指で蓋を撥ねあげ、点火した。飛び立とうとした羽虫が、羽を焼かれて 無様に転がった。


いやー、読書って、ホンットウニ面白いですね・・。こんな書き出しの本を書店の店頭で見つけてしまうと思わず買ってきてしまいます。


わたしは過去一緒に芸能プロダクションを経営した友人から「助けてくれ!」と電話があった。
しかし彼は、多額の借金をわたしに押し付け、更には大切に一緒に育てて来たタレントまで引き抜いて消えてしまった男である。

わたしと彼はまだ若い時、ディンギー級の小型ヨットに夢中だったころ無謀にも外海に出てしまい荒波にもまれて岩礁に叩きつけられたことがある。
わたしのろっ骨が折れ肺に刺さるほどの痛手を負った、嵐の収まるのを待っていればおそらく私は死んだであろう。
わたしは彼に「たすけてくれ・・」と、彼は荒海に飛び込み助けを求めて浜に泳ぎ着いた。わたしは助かった、彼のおかげがなかったら恐らく 今のわたしは無かったことでしょう。

彼に用立ててくれと言われた金を持って会いに行ったわたしは彼が何者かに狙われていることを知る。わたしを裏切った彼ではあるがこのまま見殺す わけにはいかない・・・、わたしと彼との「鎖」

ここから先は彼を狙って追う組織と彼を救おうとするわたしのアクションでありハードボイルドな活動写真の展開でした。

ところで読み進むうちにチョットまってよ、カーチェイスばりなことや格闘シーン、こんな場面なんか私はテレビや映画の表現の方がもっと迫力があり 気楽に楽しめると言うもんです。これを文字で拾って読んでいくもどかしさはナンダ?

結局彼は殺されわたしも重傷を負う、救助のヘリの中で呟いた。
鎖から放された。・・・私が、私自身を繋いでいたいた鎖だ。・・


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  [No. 23 ]    4月  6日


    文芸春秋
「空中ブランコ」・奥田英朗
2003年作・280ページ

’03奥田さんはこの「空中ブランコ」で直木賞を受賞しました。それまでプランナー、コピーライター、構成作家を経て作家になられた方です。

本書には「空中ブランコ」「ハリネズミ」「義父のヅラ」「ホットコーナー」「女流作家」の5編が組まれそれぞれの主人公は設定されていますが それぞれの作品には同じお医者さんが必ず登場する変わった作品です。
そのお医者さんは伊良部総合病院の息子で精神科医”医学博士・伊良部一郎”が登場するのです。つまり5編のそれぞれの主人公はそれなりに世間から 名声を得て活躍している有名人ではありますが実は”精神科医”に診てもらわないとならないほどの悩みを持つのです。


主人公はそれぞれに「サーカスのブランコ乗り」「やくざの若頭」「白い巨塔の頂点に居る医者を義父にもつ大学講師」「プロ野球の名3塁主」「売 れっ子の女性作家」と多彩であるがこれらの有名人を診察する精神科医師は必ずと言っていいほど患者の職業に憧れて手ほどきを乞うと言う設定である。

”飛べなくなって不眠症””やくざの先端恐怖症””医者の破壊衝動ぐせ””急に返球が下手になったイップス症状””物を書くと心因性の嘔吐症” などそれぞれは非常に深刻でしかもそれぞれの社会的地位?を考えたとき一抹の哀れさを感ぜざるを得ません。


WBC 日本優勝の立役者、イチロー選手が胃炎症出血で体調を崩したと言います。相当なプレッシャーの中で初戦にはチームの足を引っ張る打撃不振、 一流選手でなくともチームプレーをしたことのある人間にはその苦しみは痛いほど良く判ります。

私のような素人卓球でもこのボールをスマッシュすれば当然敵のコートの奥深くに鋭く突き刺さる・・、そのような練習をしてきました。しかし実際の 試合でそれが入らないとなると事は重大。しかも、それがプロの選手だったらなお更のことです。

「空中ブランコ」では完璧なスター的ブランコ乗りが若い受け手の手が届かず落下してしまう、安全網から起き上がって来たスターは若い受け手の頬を ぶっ叩いた。
ある日、妻に命令してあの受け手の下手な演技をビデオに写してくれと頼む。その映像を見てスターは愕然とする。自分のブランコ演技に振幅が足りず 受け手の手元まで届いていなかったのでした。


スキー競技では、体は旗門ポールを理想に近いフォールラインに向かって落とし込んでいこうとします。スキー板は体の後を従順になぞって付いてくる ・・・。
スポーツではバットもラケットもスキー板も練習で出来たことに全幅の信頼を置いてプレーします、しかしそれがある日・・・考えたくありません。


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  [No. 22 ]    3月 25日


    新潮文庫
「幻世の祈り」・天童荒太
1995年作・280ページ

「まぼろよの・・」表紙のルビにそうふってありますので、しかし広辞苑にはそのような言葉はなく”幻の世”・・幻のようにはかないこの世。夢の世。 となっています。

天童荒太さんは1960年生まれ、これを書いたのは彼が35歳のときの作品であります。
翌年には山本周五郎賞、今年直木賞を受賞しています。出来るだけ若い人の作品を読もうと思って購入した内の一冊でした。


副題として「家族狩り・第一部」となっていますので続編などが存在するのかも知れません。
文章にはところどころ[日付]が入っていて日記風でもあるし、何かの手記?のような形態でもあります。それは四月二七日から始まって五月三日まで、 おびただしい主人公がその都度登場するもののそれらの人々は微妙に関わり合いながら状況は進行していきます。
彼が”日本推理サスペンス大賞優秀作”を受賞していることからしてもその文章の構成にはそう言ったたぐいの興味を持たせる記述でもあります。


さて、”1、児童虐待のある父娘家族と児童福祉司””2、高校の美術教師と同僚教諭の恋人””3、その高校の女学生とその家族””4、暴力団員の 妻子と警部補””5、警部補の家族とその顛末”それぞれの主人公がそれぞれに関わり合いながら「家族の絆と現代における問題点」を掘り下げていく。
しかし、問題点は提示しても解決策や提案などは一切示されない。


絵の世界でもこのように問題は提示しますが結論についてはお任せします・・、と言う作品はいくつもあります。同様にこの作品も結論やあなたの 取るべき行動は読者自身でおきめになって下さい・・。
全編を通して「児童福祉司」という女性が見え隠れして登場します。作者もこう言った仕事に興味を抱きかなり研究したきらいがあります。しかしその 成果については大変懐疑的で絶望的です。

つまり、家族間の関係は社会の組織で見つめなおす問題ではなくそれぞれの自浄努力で作り上げていくべきだと感じるのです。たとえば子供に手を上げる 行為を現代社会ではなんでもかんでも”児童虐待”と社会が決めつけます。

獅子の親は子を谷に落として多くのことを学ばせるとも言います。私は親や教師にそれぞれの持つ最大限の指導力によって現在を生かされています。
その最大限の指導力とは言葉以外にも体現できる様々な様態があり複合的にそれぞれの絆が強固に作られることも考えられ、一概に一筋縄での解決は あり得ないのではないでしょうか。


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  [No. 21 ]    3月 16日


    光文社文庫
「見知らぬ妻へ」・浅田次郎
1995〜8年作・280ページ

浅田次郎さんのお名前は存じ上げていました。本屋さんで最初の1〜2ページを読んで購入した中の一冊でした。その最初のページに編まれていた短編は 『踊子』、自分の青春期の感情を移入して読むうちに体調が悪くなってと言うか朝から体がだるい、体温は37度3分・・微熱がある。

その他に「スターダスト・レビュー」「かくれんぼ」「うたかた」「迷惑な死体」「金の鎖」「ファイナル・ラック」「見知らぬ妻へ」と7編ある。
今まで本を読んできたときは常に心身ともに健康?状態で読んできた。

なんの巡りあわせで気持ちの落ち込んでいるときにこんな本の順番になってしまったのか後悔した。こんな本は早く読み切ってしまおう。
翌日体温36度9分・・少しは気分が良くなってきた。登場する主人公の役目の重さは前4編と後ろ4編にそう違いは感じません。
後編は内容が深刻な分、喜劇ととっても面白く楽しむことができた。
では前篇を今日読みなおしてみるとどうだろうか・・、「いえ!、今は読み返す気はしません」しかしそこには明らかな作家の表そうとした意思が 私に伝わったと言うことでしょう。改めて制作年表を見ると順番はバラバラ・・つまり編集者の意思で並び替えて書にしたんでしょう。

『スターダスト・・』芸大音楽の同期だった男同志の話、片や世界的に活躍する指揮者そして主人公はチェロ奏者を目指していたがその才能に見切りを つけた男の葛藤が描かれている。

『かくれんぼ』結構子供ながらによくもあんな残酷なことをしてしまったものだ・・、そしてそんな記憶が半世紀以上も経つと言うのにまだ頭の中には 鮮明に呼び起される、決まって体調の悪いブルーな気分の時に必ず思い出してしまう・・。エイ!!、もうとっくに時効だよ。

『うたかた』人生にはだれにでも必ずやってくる悲しい結末、華やかな時があればある程その落差は大きなものとなってくる。しかし、それを覚悟 している人とそうでない人では雲泥の差となるんでしょう。
「ねえ、係長。この仏さん、本当に餓死したんですかね」
「そりゃおまえ、一目瞭然だろう。冷蔵庫の中は・・・」
「それにしても、不思議だなあ。眠ってるみたいですよ、まるで」

浅田次郎さんの文章は本当に読みやすく日常の事柄を何気なく書き表している、そう何気なくです。それは私が読み慣れている新聞記事を読むように まったく違和感もなく伝わって来るのです。「・・サウイフモノニワタシハナリタイ」そんな文章が書けるように私もなりたい。


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  [No. 20 ]    3月 14日


    文芸春秋
「青年は荒野をめざす」・五木寛之
1974年作・400ページ

五木さんは1932年生まれと言いますからちょうど私より10歳年上の方であります。大学卒業後作家生活に入り小説現代新人賞、そして直木賞など 受賞し順風満帆な作家活動をするかと思いきや50歳にして更に学業を極めんとして龍谷大学に学び、再び文壇に復帰しました。

この作品が書かれた時代背景は1960年代の学生運動も落ち着きはじめ社会に平和が戻ってきたかに思えたころ1972年衝撃的な「あさま山荘事件」 がありました。
中には過激な学生運動に身を投じ組織だった非法的処置により国家の転覆を企てたりする輩の残党が地方に分散しアジトを造り立てこもると同時に 警察の手入れにより次第に影を弱めていきました。

若いエネルギーを抑えきれず、そして国家権力に対するひ弱さが学生の中でも将来に対するやる気の無さとして目立つようになったと感じました。
そんな時に五木さんは若者たちが真剣に健全な方法で将来にたいして体を張って模索する姿を先輩として示したかったと思うのです。

私はこの本を読み始めたとき、あまりにも軽い気持ちで海外に旅に出て何かを得て来ようとする書き出しに大変懐疑的でした。そして主人公の”ジュン” はどこにでも転がっているただの尻の軽い青年にしか映りませんでした。

確かに作品全体から醸し出される雰囲気は尻の軽い男女の交わりなどに「・・こんな夢のような世界があるわけがない・・」と感ぜずにはいられません。
それは小説のマチエールでしかありません。作家はところどころでしっかりと若者に伝えるのです。
「若い時はことに、これでおしまいだなどと考えたがるものさ。だが、そうじゃない。人生は何度でも新しくなる。青春は、その人の気持ちの持ちようで、 何回でも訪れてくるんだよ。」って。

20歳代の夏休み、仙台の山奥の加美郡に友人の陶芸家を訪ねしばらく滞在した折、私が工房に入って作陶していた時町から通報を聞いて出向いた巡査が 無断で私の持ち物を検査していて掴みかかったことがありました。「オレは赤軍派の残党なんかじゃねえ!!」遠い昔の事です。


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  [No. 19 ]    3月  3日


    新潮文庫
「海と毒薬」・遠藤周作
1958年作・190ページ

この作品が書かれたとき私は高校に入学した年でした。当時すでに戦後・・と言う言葉はあまり聞かれなくなり人々の生活も新しい時代に対応しようと 必死になっていた頃でした。しかし未だ日本の経済状況は芳しくなく就職するにも厳しい状況下であったようでした。
一方、次第に戦時中の隠れていた悲惨な事項についてもしだいに陽のもとに曝される様になり、私たち日本人が過去のこととなった事実を見つめ直す心の 余裕も出てきた時期でした。

多くの戦争犯罪は米軍下の裁判により裁かれ私たち日本人はそれを黙って受け入れました、そして庶民は白日下に曝された数々の事実を知るにつけ しばし何があったのか忘れようとしてきました。

それはある地方の都市の大学病院で米軍の捕虜を”医学的目的”とうそぶいて生体実験をしたことが裁判となりその経緯に日本中が驚きました。
遠藤氏は若いころから敬虔なクリスチャンとして洗礼を受け自らの宗教心の上に立ってこの事件を見つめなおし小説としたてたのでは無いでしょうか。

生体実験に関わったとして当時の大学病院の助手であった二人を少年期からの生い立ちを織り交ぜ述懐するくだりがあります。大人たちをいかに騙して 良い少年を演じてきたか・・多かれ少なかれ誰でもそんな経験を持ち合わせているはずだ・・、つまりこれはキリスト教で言う”ざんげ”に他ならない と感じるのです。
そして作品全体を通して作家、遠藤周作氏は戦争と言う隠れ蓑の中でこれほど酷いこともあったんだよ・・と言うことを白日下にさらし、日本人の心 としての”ざんげ”を問うことにより「人類の歴史の中で良かったこと、そして申し訳ない事をしてしまったこと」を明らかにするんだと感じました。

この本を読み進めていたところ、離れて暮らす娘のブログになんと時を同じにして「海と毒薬」を読んだ、と書いてあるのです。偶然にしても不思議な 事があるものだ・・、戦争とは無縁だった娘たちにこの小説がどう映ったのでしょう。


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  [No. 18 ]    2月 26日


    文春文庫
「虹色にランドスケープ」・熊谷達也
2004〜5 年作・290ページ

絵画やその他どのような分野でもそうですが一人の作家を深く掘り下げることによりその人の特性も判ってきますが、その人の取り組むジャンルについて 一つの風穴を開ける事による視野の広がりを感じます。
そんなこともあって熊谷達也氏の作品にまたまた出会うことになりました。安心して読むことができる意味もあり・・・、おや?この人は相当なバイク 乗り、と言うか筋金入りのライダーであったんだ。改めてこの人のマルチな人間性を垣間見た感じです。

今回の熊谷氏の作品には7編の短編で構成されていますがしかしこの7編はすべての人間関係がつながっているのです。そしてその関係はバイクの 取り持つお互いの思い入れと生活との狭間でしっかりと結びあっているのです。しかも年齢の設定が40代半ばのいわゆる親父ライダーの世代に焦点 を当てている。

第1編はバブル期の後、郊外に家を求め妻と二人の子供をもつ田端浩史は勤めのデパートの事業縮小のためリストラされる。
必死になってあちこちと職を求めるがなかなか見つからない、家族には少し疲れたので旅に出る・・とバイクで北海道のツーリングを計画しでかけた。
彼はとあるカーブで自殺を考えて実行に移す。

大型のトラックがトンネルから出てきたところでこの辺からアクセルいっぱいにコーナーに差し掛かると多分スピードの出しすぎで車線をはみ出し トレーラーに真正面に突っ込む・・・、オートバイ事故により保険金で家のローンも、家族の生活も・・、しかし、鹿の飛び出しで大した事故にもならず 自殺は未遂に終わる。

2〜6編では田端浩史のバイク仲間や女性ライダーなど登場しそれぞれの人生を展開する。
第7編では再び田端浩史の家族、妻と昔の仲間との人間関係が描かれる、そして夫が明日帰ってくる予定という日に函館のフェリー乗り場から夫が くも膜下出血で倒れ病院に搬送されたと連絡を受ける。
くしくも自殺はならなかったものの結果としてその大したことの無い事故の影響もあったのでしょう・・・。田端浩史は死にます。

熊谷氏は歴史を扱ったものにしろドキュメントにしろその作品の根底には常に必死になってガンバル人間を描いてはいますがその最期は実にあっけない もの(こと)として扱っている。そこに大きな虚しさを感じるのです。だからこそ現代に生かされている私たちも生きていた証としてほんの僅かな痕跡 でも積み重ねることが人類の文化を残すための大切なことと教えられる。


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  [No. 17 ]    2月 17日


    新潮文庫
「ポラーノの広場」・宮沢賢治
1920頃〜33 年作・410ページ

私が小学校4年の冬、教室にあるストーブを囲んで担任の先生が読んでくれた本、「風の又三郎」は私に鮮烈な印象を与えました。その人の本を私も 買って読みその本を枕元に置いておきたいと思いました。
その人はその他にも沢山のお話を書いていることも知りました。次から次へとむさぼるように読みました。当然その中にはあの「銀河鉄道の夜」も 入っていました。

「ポラーノの広場」には本題を含め17編の作品が含まれています。いずれの文体も原文を忠実に再現し難解な記述には巻末への注訳(解)も158意に も及びます。しかも脱稿部分には[以下原稿5枚なし]とか[17字不明]などと表記してあります。
題名のみ記述しておきます。
                
「いちょうの実」        「若い木霊」                       「氷河鼠の毛皮」   
「まなづるとダァリア」  「風野又三郎」                  「税務署長の冒険」
「鳥箱先生とフウねずみ」 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」      「銀河鉄道の夜」
「林の底」        「ガドルフの百合」                「ポラーノの広場」
「十力の金剛石」     「種山ヶ原」                   「竜と詩人」
「とっこべとら子」    「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」          


風の・・ではなく、風野又三郎です。「北海道からお父さんの仕事の都合でここに転校してきた高田三郎さんです」という先生の紹介はありません。
一郎や耕一たち子供にだけ見えるのです。そして9月1日から毎日、日記風に記述されています、学校の終わった午後裏山の栗の木の下で風野又三郎は 子供たちに気象の講義をするのです。そして日記の最後の日は9月10日、台風の確率の高い日の210日に又三郎はドッドド・・・ ああまいざくろも・・と去ってしまうのです。

銀河鉄道の夜・・ジョバンニはお母さんの牛乳を受け取りに町に行く途中、ザネリたち級友とすれ違う、「ラッコの毛皮がもうすぐ届くよ・・」と皆に 冷やかされる。彼等はケンタウル祭に意気揚々として遊びに行く、親友のカムパネルラはすまなそうな顔をしてジョバンニとすれ違う。ジョバンニは 居たたまれなくなって野原まで走って行き疲れて寝てしまう。
いつの間にかジョバンニは軽便鉄道に乗っている、気がつくと親友のカムパネラがいた、なぜか彼は少しさみしそうな顔をしていた。二人は気を取り 直して銀河ステーションから旅に出る、列車には天上に向かう乗客たちばかりでした、しかし途中から皆それぞれの駅で降りてしまいジョバンニは カムパネルラに言います「ねえ、僕たちはどこまでも一緒に行こうよね・・。」振り向くとそのカムパネルラの姿はもう見えませんでした。 ジョバンニは野原で目を覚ましますがポケットには牛乳を買える銀貨が切符に包まれて入っていました
私の記憶ではケンタウル祭の夜、舟遊びをしていたザネリたちは誤って舟から落ちてしまう、カムパネルラはすぐにザネリを助け上げようと飛び込んで 探そうとするがザネリは助かりカムパネルラはとうとう見つからない・・この銀河鉄道の夜は[初期形第三次稿]であり、いわば童話としての形態が 完成していない作品なのです。

その他の作品もこうして原文に近い頃の表現に触れるとまた新たな感動も受けます。難解な記述や表現に独特の個性がありそのままの文章では子供の書 とするには良く噛み砕いた表現にしないと理解されません。その点ニンジンやピーマン、ミョウガなどそのままでは子供では食べられない食品でも調理 法を変えることで必要な栄養は摂取できます。大人になって野菜の独特な風味自体を楽しみ喜べるようになるのには時間も必要です。


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  [No. 16 ]    2月  5日


    文芸春秋社
「鳥葬の山」・夢枕獏
1991 年作・290ページ





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  [No. 15 ]    2月  2日


    文芸春秋
「太陽と毒ぐも」・角田光代
2004 年作・290ページ

私は冒頭、半世紀近く文学作品などを読んだことはない・・と書きましたが毎日朝晩読む新聞は人生ですでに2万時間は優に超えています。
つまり、世界や国内の政治、経済、社会の動向、・・・ひいてはどんな作家がどんな本を書いてウンヌンとか1日の変化は新聞を読む(目を通す)だけで 刻々と情報として伝わってきます。
読書生活を始めた中から、「ああ、若い女性の作品も読んでみたい・・」で、選んだ作家は角田さんでした。我が球団びいきの新聞にも連載を書いて いたりして読んではいませんがお名前ぐらいは存じていました。で、私が若い・・で安心して読める女性作家として彼女になりました。しかし 彼女も物凄い勢いで私を追い越そうなほどのスピードで年齢を重ねているわけで、気持の上でつい昨日のことのように私の心にも響いてくるのです。


彼女が30代後半に纏めたこの本はマガジンハウスと言う書誌に恐らく連載したかどうか作者の目線で本人の体験も含めた”同棲する男女”を11編 の短編で11様なりに面白おかしくそしてかなりシリアスに描き通しています。モデルはいずれも30代から中ごろまでのカップルを主人公にしています。
一編々々の作品自体月刊誌の1ページとして読む分には娯楽性があり、そして作家自身”あとがき”で表現したように「・・ばっかみたいな恋人たち・ ・」と思って笑えるかも知れません。しかし、まとめて読むうちに無性に腹が立ってきてしまった。


どれ一組として人生の設計も、ましてや将来的な願望も見えてこないと言うことだ。ましてやその基となるまともな職業にも就いていないと言うことだ。 彼や彼女たちは皆一様に好きや嫌い、少し先には我慢の限界だ、もう別れてやる・・、と言った目先のことしか見えていない人種ばかりである。
であるからこそ面白半分の題材としてうってつけなのかも知れません。
私の腹の立つ原因はただその事を指摘しているんではありません。その”ばっかな恋人たち”はみな30を超えていることです。「少年老い易く・・」と 言う年齢をはるかに超えて日頃の快楽にうつつを抜かしていることに苛立ちを感じるのです。

彼等は新聞なんか読んでいるだろうか、世界の経済や社会の仕組みがそれらとどう係わっているか考えたことがあるだろうか。心配でなりません。
女性を”子供を産む機械”と暴言を吐いた政治家がいましたが確かにひどい言葉でした。しかし、子供は女性にしか産むことはできませんし科学の発達を 待たなくても判り切ったことでもあります。その政治家の続きの言葉を想像して見ると”老朽化した機械では良い製品はできません”と言うことです。
現代、いくら科学が発達しても母子ともに健全な出産が可能な時期は30までと言われます。近年の高学歴、高収入、高い水準の生活志向のなかで 人類が営々として築いてきた繁殖行動による社会の安定は根本から崩れ去ろうとしているように思えて仕方がありません。子が年をとった親の面倒を 見る時代は終わったと言います。しかし社会の仕組みは、代わりに社会が面倒を見ましょう・・と言うことです。その社会の仕組みを支える子孫を育てる ことは人類の義務と言っても過言ではないと思います。

最終章「未来」で電車で近くに出かけた恋人同士、「・・次の停車駅でドアが開いたらさっき言おうとしたことを言って見ようか・・」で少し気が 楽になった気がした。


さわやかな笑顔のオバマ大統領一家の家族写真がテレビでチラッと見えた。健全な恋人同志ってそんな想いがした。


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  [No. 14 ]    1月 26日


    集英社文庫
「メランコリア」・村上龍
1996 年作・220ページ

村上さんと私は10歳ほどの年齢差があり、彼が24歳の時「限りなく透明に近いブルー」と言う作品で芥川賞を受賞したことを記憶しています。
私は当時、結婚後二人目の子も間もなくと言う時期でした。青年期の夢も希望も一旦お預けにし、仕事に、家庭に全力を掲げていました。
とは言え、この限りなく透明なブルー・・という言葉は絵画と無心に取り組んでいた当時の心を想い気持ち良い響きを感じていました。


まだその本は手にすることなく今日に至ります。彼は当時、時代の寵児として各局のテレビ局の深夜番組に出ずっぱりで私もよく目にし、彼の クリエーターとしての言葉に興味を抱いていました。
それから20年、彼は不惑の年を越えしかし男としての旺盛な探究心と分別の端堺をさまよいながらこの本を書いたと言うことでしょう。


海洋学者を自称する”ユカ”と言う女がバルペイドス政府観光局発行のミドリイシガメの持ち出し許可証をちらつかせて機内に持ち込みそのまま エアー・カリブ機に乗り込む。しかし機が水平飛行に移ったところでユカは亀の剥製を膝の上に載せおもむろに甲羅を剥がした。そこから取り出された ものは手榴弾と拳銃であった。ユカは叫ぶ「・・・この飛行機はたった今、ハイジャックされた」

こんな本があってはたまったものではない。わたしだって1〜2頁ほど読んでおもしろそうだと思って買った本だ、このあとどうなるかは知った事では 無い。わずか20ページで終わり、結末なんか勝手に想像してくれヨ・・、とばかりである。
じつはこんな映画を作った40歳過ぎの元プロジューサー(おそらく作者のなり代りとして登場させた)”ヤザキ”と言うニューヨークのダウンタウン でホームレスとして隠遁していたが最近、インデペンデントの本当に小さな映画をプロジュースして、久しぶりに表の世界に再登場してきた男を取材 した記事として成り立っている。
そしてそのインタビューはブロードウェイにオフィスを持ち日本の雑誌社やFMステーション、テレビ制作会社などに情報や記事を送るのを主な 仕事にしていて10人ほどのスタッフ、内3名ほどの日本人がいた。ボスはその取材を”ミチコ”という30歳の独身女性に託した。
ヤザキの堕落した生活をミチコは丹念に取材し、複数の女たちとの性生活、酒や、ドラッグ、そして自己破壊の道を転げ落ちていく男を幾日も幾日も 取材しレポートを作成していく。
しかし、気がつくといつしかミチコはヤザキの淫乱な性格を受け入れてしまうようになる。ミチコはスタッフに暫らく休みたい・・と彼との旅にでる。


作品の多くをセックスの描写や酒、ドラッグなどとの関わりで”ヤザキ”がうつろに思い起こす想定で描かれている。そんなやるせなさが私にも憂鬱 として脳裏に不快感の刺激として残していく。そしてその忌まわしい情念がついには”ミチコ”までも巻き込んで果てしないところへいざなって行く。
昔、画学生だったころ友人が口にした言葉の中で「この世の中に”性”さえ無かったらもっと勉強に打ち込めるのに・・」。それも判ります。さりとて それを否定する気もありません。人生の選択肢の幅の広さ・・、愛情や精神の持ちようで解脱することもできる人がいるんです。おそらく村上さんも 自分の性や酒、ドラッグの知識を大いなる人生の内の”葛藤”ととらえてお感じになって書にしたのではないでしょうか。


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  [No. 13 ]    1月 17日


    文芸春秋
「あ・うん」・向田邦子
1980 年作・220ページ

向田さんは1981年、仕事に脂の乗りかける絶頂期、52歳という若さで飛行機事故により亡くなられました。当時本など読まなかった私ですら 彼女の名前は存じ上げていました。私は30代後半、出勤途上のカー・ラジオでそのニュースを知り驚いたことを思い出します。
前年、彼女は直木賞を受賞しました。この作品も審査員から候補として挙がっていたと聞きます。しかし、同時期の他の作品で受賞したと言うことで 、このことを想うと如何に彼女がこの時期創作活動の絶頂期であったかを感じさせます。
事故のニュースのときなぜ彼女の名を認知できたかは恐らくラジオ・テレビのドラマ作家としての知名度があった所以と思われます。


さて、この作品の時代背景は恐らく昭和の初め、たとえ貧しくも友との友情や家族同志の愛を素晴らしく充実させることのできた良い時代と思います。
なぜならば当時は現代と違って「個人主義」の時代ではありません。世間の情勢を知ることに於いても我が家に配達される新聞と、エヌエッチケーの ラジオ放送に一家が耳を傾けること以外、外部の情報は外で働く父親の情報がその家の開かれた文化だったわけであります。
そんな意味で私も読み進むうちに、私の育った時代背景と今にして思うその頃の閉塞感を感じながら読み進みました。

どちらが主人公か脇役かは定かではありませんが、中企業製薬会社の地方支店長から3年ぶりやっと本社の部長に栄転した”水田仙吉”。そして300人 を超える従業員を抱える門倉金属の社長である”門倉修造”、ちぐはぐではあるが男同士の友情で強く結ばれていた。
しかし、この本を読んでいくうちに私の感じていた私の友人についても、「もっと大切にしなくてはならないだろうか・・?」と自戒と今まで考えても みなかったその存在を意識してしまった。
門倉と仙吉はいわば戦友同士という設定でした。東京に戻ってくる仙吉に対して門倉は物心両面において助けになるように、仙吉が新しい東京での 暮らしが何不自由ないよう自分の生活も省みず献身します。こんな設定も献身ぶりも作者のドラマ作家としての表現力の確実さが光ります。

わたしの近所に30年来の卓球仲間が住んでいます。彼はバス会社の運転手でしたが若いころから卓球選手として活躍し、私の憧れの的でした。
今では信じられませんが当時私の通勤途上、広い国道122号の対向車線を走るバスが私の車に向かって遠くからパッシングの合図ををしてすれ違 って行きます。わたしも当然合図の信号を送り返します。こんな日は気分もよく会社での仕事も気持ち良くはかどりました。
さて、この卓球仲間はわたしの戦友です。つまり卓球団体戦において敵と戦うわけですからまさしく連戦練磨の戦友です。先発する彼が負けて私の出番が 無くなってしまっても、その逆があってもいつも試合の終わった後には赤ちょうちんでお互いの傷をなめ合い、時としては深手の傷に塩をなすり合った りしたこともありました。先日の全勝優勝ではお互いを天皇陛下以上・・と褒め合い、飲み屋の酒を呑み尽す勢いであったばかりでした。
作品の最後には門倉は飲み屋で仙吉に喧嘩を吹っかけて「お前なんかとは絶交だ!・・」と仙吉に言わせるくだりがあります。しかし、その前後には 門倉がお互いのためにしばらく別れた方がいい・・と言う考えがあったことを知ります。

私はこの作品を読むまでは”私と卓球仲間”について考えてみたこともありませんでした。当たり前に付き合って褒め合い、けなし合い、助け合いして ただ普通に過ごしてきました。
先日、何回も禁煙に失敗している彼に「・・・オマエみたいなのが肺ガンで入院したって見舞いになんかイッテヤラネー!」なんて、随分ひどいことを 言ってしまった。
女同志の友情について私は理解が及びません。しかし、「男の友情」について女性が理解できるでしょうか。向田邦子さんは女性でありながら どんな男でも多少なりとも存在する男の友情についてこれほどまでに深く掘り下げて表現できることに驚きを隠せません。


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  [No. 12 ]    1月 13日


    新潮文庫
「日蝕」・平野敬一郎
1998 年作・200ページ

この作品は彼が京都大学法学部在学中に新潮に投稿し、芥川賞を受賞した作品です。

No.3 で彼の「滴り落ちる時計たちの波紋」を読んだとき読めない漢字を検索しながら”電子辞書”片手に読んだと書いた記憶がありました。
本書では概ね漢字にルビが振ってありました。一見親切そうですが大変な不親切です。私のような凡人は「読めてしまった・・」と言うことだけで その意味を解さないままに先へ進んでしまいがちです。さりとてルビが無いと検索にも時間を要します。文体は全編にわたり検察や法廷で平易に 使われている所謂難解な用語が主流となって記述され構成されています。


要旨『主人公の私ニコラは中世ヨーロッパを支配しているキリスト教、神学校に学ぶ信徒としての学生生活の中で幅広い学業を極めんとして異教徒の哲学書を 求めて旅に出る・・。
ニコラは旅に出るとき司祭からある任務を命ぜられた。旅先に当たる当所で、錬金術に励んでいる男は果たして異教徒なのか否かの探りをいれよと。
滞在する村の人々は偏屈なこの錬金術師は異端であり悪魔ではないかと噂されていた。しかも彼には寄り付かない方が身のためだ、とまで言われる。
ニコラは彼に近づくために手を尽くすが寡黙な彼は心を開いてはくれなかった。しかし、彼の蔵書を読ませてくれ・・と、おびただしい書物から彼の 豊富な知識と、敬虔な哲学思想を知りだんだんに彼に魅かれるようになった。

或る時、村では奇病が流行し、次々と病に冒されて亡くなる人も数多く出始めた。その兆候として村には見慣れぬ女であり男でもある「両性具有者」 を見つけ出しこの者の仕業と決めつけて焚刑に処す裁きを与える。つまり当時流行っていた魔女狩り・・・か?。

刑は執行され、すべてが終わったかに思われた。しかし、錬金術師に対する疑いも晴れてはいず、彼も拘束されてしまった。官吏はニコラに忠告をする、 彼を尋問するとニコラ、お前の名前も必ず出てくるだろう。しからば早くこの村を出ていくことだ・・と。

村を去ってからすでに30年の年月が流れ、所用でローマへと赴く際にニコラと供のものは以前の村で数日を過ごした。そこでニコラは昔の錬金術師 の消息を尋ねた。誰一人としてそのような記憶を持ちあわす人はいなかったが鍛冶屋は覚えていた。「彼は牢獄で死にました」ニコラは彼に対する 弁護もせず逃げ去ったことを後悔した。』


さて、パリ大学で神学を学ぶニコラは手元にあったラテン語に翻訳された異教徒の哲学書、随分と脱簡がみられおまけに前半のページはそっくり抜け落ち ていた。そしてその完璧な本を欲していた。それを求めるため旅に出てフィレンツェ、あるいはリヨンへと目指す計画であった。
私は当然ニコラの書を求める旅は、三蔵法師にも似た大変な旅を想像していただけに途中の村で錬金術師との関わりに方向転換し、さらには魔女狩り とその焚刑という展開には少し落胆した。しかし、その火あぶりの情景描写は並々ならぬ表現力の偉大さを感じずにはいられなかった。そして、その 刑の執行中に更に「日蝕」という天変地異を組み合わすことによる発想は効果的であった。むかし、ジャングルの探検もので博士が土人達に捕捉された折、 日蝕を利用して難を逃れた娯楽映画を思い出した。それにしても旅はどうなったのかあと後まで気分が残る作品だった。

秀才とはいえ21や22歳の若者が「・・その繊細で硬質な肢体、その静謐(せいひつ)、その妖氛(ようふん)。−−それは、錬稠(れんちゅう) せられた、白昼の眩暈(めまい)であった。」このような文章表現をほぼ200頁に亘って書き続ける異常さに戸惑いを感じます。
一般人と思っている私にとっては何処かの学園祭でのぼせた学生役者のセリフのようにも感じてなりません。


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  [No. 11 ]    1月  5日


    講談社文庫
「迎え火の山」・熊谷達也
2001 年作・550ページ

熊谷氏もこんなオカルトと言うかホラー要素のある作品を生真面目に書くんだ・・。

今まで彼の作品を読んできた限りこんな題材で説得ある文章として纏めることができるんでしょうか。と心配になりながら読み始めた。

舞台は彼の得意とする東北、今回は山形の出羽三山である月山、羽黒山、湯殿山とその麓、朝日村・麦畠地区。全国から山伏しが修行する聖地としての 霊峰を仰ぎ見るのどかな村。しかし、かつての賑わいもなくそして村も過疎化の波に洗われて村に残る若者たちの閉塞感も漂う。
若者たちが村興しとして発案した昔の行事、月山からの”迎え火”を観光事業として取り組もうとする。しばらく途絶えていたとはいえ年寄りたちは そのやり方にかなりの危惧を抱いていたがその計画は実行に向かって進んでいた。

当然ではありますが作者、熊谷氏は地域の言い伝え、霊能者と言われる研究、そして科学者としての見識を持って克明な分析と理解を深めながら作品 にしようと恐らく産みの苦しみの中から創作の糸口を探っていったと推察されます。

その計画に危惧を抱いていたのは年寄りだけでは無かった、同じ世代の主人公の同級生である若者の中にも居るのであった。かいつまんで理解するに この東北の霊山の麓にしても歴史をたどってみると単一民族の集落では無かった。もとはと言えば古来永住する蝦夷、そして大和の派兵の残党、ひいては 藤原の末裔・・など、血みどろの生き残りをかけた死闘がくり広がれその霊魂をなだめる場所として霊山としての意義が生まれてきます。


私は以前、霊や神仏などは認めないし信じないと言ったことがありました。科学者である熊谷氏がこれほどまでにこだわってあたかも霊魂を信じ模索 したストーリーの展開になっていくのか不思議でならなかった。しかし彼は途中、唯物論者としての方向性を示します。

”人間が神や仏を求め、あの世を思い、死後の救済や鎮魂を求めるのは、生きていくなかで最も深い孤独である自分の死が、避けられないものとして、 人生の最後にやってくるからに他ならない。どんなに強靭な精神を持った人間といえど、絶対的な孤独にはそうそう耐えられるものではない。”
だから私も思います・・だから不安もありますし、先だって別れた妻の”孤独”も理解できます。


人生はその人の世界観からして生活が成り立っていると思います。死期を悟った人とそうでない人ではおよそかけ離れた世界観が存在し、しかもそれは 相容れないものではないでしょうか。彼の表現する霊魂の存在は私の解釈では”そのギャップの中に生じるエネルギー差”から生じる残像?と思うの です。

ただし、彼に言わせると恐らく私は「鈍すぎる・・」、背後にはちゃんと霊が来ているのに・・。

ところで主人公の一人に祭り上げた同級生を、最後は投げやりに行くえ不明で片付けてしまうのは結末としてどんなもんでしょう?読者はどこに重きを おいてストーリーを追っているかそれは作家の思う壺では無い筈です。


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