Since 2008/ 5/23 . To the deceased wife

わけがありまして「読後かんそう文」一歩一歩書き留めていきます。

妻の生前、展覧会の鑑賞や陶芸の町を見学したりと共にした楽しかった話題は多くありました。
読書家だった妻とそうでない私は書物や作家、ストーリーについて、話題を共有し語り合ったことはありません。
悲しいかな私は学生時代以来・・半世紀近くも小説や文学作品を読んだことが無かったのです。
妻から進められていた本をパラパラとめくり始めたのをきっかけに・・・

先にある”もっと永い人生・・・”かの地を訪れるとき、共通の話題を手土産にと思って。

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<<2019年度・読後感想文索引>>
読書順番作家・書店 書名読み切り日
N0.454萩原 浩・角川文庫□□「 そ れ で も 空 は 青 い 」12月28日
N0.453林真理子・講談社□□「 み ん な の 秘 密 」12月 3日
N0.452新田次郎・講談社□□「 風 の 遺 産 」11月16日
N0.451山本周五郎・講談社□□「 繁 あ ね 」11月 8日
N0.450原田マハ・講談社□□「 あ な た は 、 誰 か の 大 切 な 人 」10月25日
N0.449三浦しをん・角川文庫□□「 月  魚 」10月12日
N0.448森沢明夫・幻冬舎□□「 渚 の 旅 人 」10月 2日
N0.447宮下奈都・文藝春秋□□「 静 か な 雨 」 9月21日
N0.446大島真寿美・文藝春秋□□「  渦  」 9月17日
N0.445森沢明夫・小学館□□「 津 軽 百 年 食 堂 」 9月 6日
N0.444小野寺央宜・祥伝社□□「 ひ  と 」 8月19日
N0.443門井慶喜・講談社□□「 銀 河 鉄 道 の 父 」 8月16日
N0.442今村夏子・朝日新聞出版□□「 む ら さ き の ス カ ー ト の 女 」 8月15日
N0.441瀬尾まいこ・双葉社□□「 優 し い 音 楽 」 7月27日
N0.440中島京子・文藝春秋□□「 長 い お 別 れ 」 7月20日
N0.439宮木あや子・幻冬舎□□「 春  狂  い 」 7月 6日
N0.438太宰 治・オリオンブックス□□「 美 少 女  桜 桃  帰 去 来 」 6月13日
N0.437羽田圭介・河出書房□□「 黒 冷 水 」 6月 8日
N0.436有川 浩・幻冬舎□□「 明 日 の 子 供 た ち 」 6月 2日
N0.435本間龍平・自身出版□□「 水 の 流 れ の ま ま に 」 5月22日
N0.434上田岳弘・講談社□□「 ニ ム ロ ッ ド 」 5月20日
N0.433宮下奈都・実業之日本□□「 よ ろ こ び の 歌 」 5月13日
N0.432瀬尾まいこ・祥伝社□□「 見 え な い 誰 か と 」 5月 8日
N0.431重松 清・筑摩書房□□「 娘 に 語 る お 父 さ ん の 歴 史 」 5月 2日
N0.430奥田英朗・講談社□□「 ウ ラ ン バ ー ナ の 森 」 4月25日
N0.429池井戸潤・日経新聞□□「 七 つ の 会 議 」 4月19日
N0.428原田マハ・文芸春秋□□「 モ  ダ  ン 」 4月13日
N0.427唯川 恵・幻冬舎□□「 燃 え つ き る ま で 」 3月 6日
N0.426宮下奈都・双葉社□□「 た っ た 、 そ れ だ け 」 2月20日
N0.425折原みと・講談社□□「 時 の 輝 き 」 2月14日
N0.424薬丸 岳・講談社□□「 A で は な い 君 と 」 2月 6日
N0.423角田光代・講談社□□「 ひ そ や か な 花 園 」 1月11日

  [No. 454]   12月 28日


   角川文庫
「それでも空は青い」萩原 浩
2018年作・285ページ

・・・最初はキャッチボールだけだった爺ちゃんとの野球は、そのうちにより実践的な練習になった。

じいちゃんがキャッチャーの本格的なピッチング練習。ゴロ、フライ、送球、返球、いろいろなバリエーションの守備練習。

バッティングは、右利きなのに、より有利だっていう左うちで練習させられた。「もう無理」音を上げたぼくにかけてくる言葉はいつも決まっていた。

「これからじゃないか」ぼくは小学低学年が使うにしては長くて重すぎるバットと、父さんのお古じゃない新しいグローブをじいちゃんに買ってもらった。

キャッチボールをしながら、ピッチングやバッティングや守備練習の合間に、終わった後で原っぱで夕焼け空を見上げながら、ぼくとじいちゃんはいろんな話をした。じいちゃんはおしゃべりな人ではないし、話し方もぶっきらぼうだけれど、この頃は毎日二人で野球をしていたから、それこそ、いろいろな話を。・・・・



この本の中には珠玉の7編が盛り込まれていてどの作品もそれぞれの光を放つ作品でした。

最後の「人生はパイナップル」を紹介しますが台湾で子供のころを過ごしたおじいちゃんはそのお父さんのパイナップル工場のおかげで中学に行って野球で甲子園に出たことがあった。

奏太はそのおじいちゃんのおかげでメキメキ野球の腕を上げて甲子園こそ逃したものの会社のアマチュア野球を楽しむ人生を送ることができている。


今年は32冊の本を読むことができました。また来年にはどんな本と行き会えるでしょうか・・またお会いしましょう。どうぞよいお年をお迎えください。


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  [No. 453]   12月  3日


   講談社
「みんなの秘密」林真理子
1997年作・270ページ

・・・そのまま押し黙ってしまった涼子の様子が、よほど初心でからかいやすかったのであろう。友人夫婦は最後に、もう一度涼子に悪戯を仕掛けた。

「ねえ、田崎さん、ちょっと遠回りになるけれど涼子を送っていってよ。この人、箱入り奥さんだから、一人で帰すの心配なのよ」「ああ、大丈夫ですよ。ちゃんとお送りしますよ」

「送り狼になっちゃダメよ。いくら好みのタイプだからって」かなりアルコールの入った友人がいい、帰り仕度をしている者たちは、いっせいに野卑な笑い声をあげた。

そのとき涼子はひどく自分が汚されたような気がしたものだ。一時間前、心の中に起こったかすかな動揺を見透かされたのだと思う。もう男の車に同乗などできない。唇を噛んだ。

後に男が語るには、皆にからかわれた時の涼子の様子があまりにも可憐で、自分はいっぺんに恋をしたのだそうだ。・・・・・



三十四歳の主婦である涼子は早くから結婚して子供もいて幸せの絶頂期だった。しかし若くして結婚したのであまり人生、特に青春期の独身としての楽しみはほとんどなかった。

高校の同級生は4年制の大学へ進み十分に青春を謳歌して結婚した。その結婚披露宴に出席した涼子は今更のように何か急ぎ過ぎた人生を悔いている次自分に気が付いた。


まあ、人生を楽しむ・・って言うのはひとが決めるものではなく自分で感じるものでしょう。私の友人でも早く結婚した人もいますがその方たちはその分子供たちの手が離れた後、多くの楽しみを手に入れていると思います。

人生は楽しみを先取りするか後取りするかでしょう。その他に両方取り・・と言う手もあると思います。どんな境遇でも楽しく過ごせる手立ては本人次第だと思います。


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  [No. 452]   11月 16日


   講談社
「風の遺産」新田次郎
1962年作・275ページ

・・・雪が降りだしたのは三時過ぎたばかりであった。久実が高曇りだと思いながら、宿を出たのが一時過ぎだったから、天候の悪化したのは、ほんの二時間ぐらいの間であった。

「雪だわ、倉越さん、雪よ」久実がそう言って倉越を見ると、彼は、雪眼鏡をはずして、山の方へ眼をやっていた。山は見えなかった。間もなく風が出た。視界はせまくなっていき、スキーヤーの中には互いに名を呼びながら、宿へ引き揚げるものがいた。

「困ったことになった」倉越が云った。「ひょっとすると、あの人たちは茂倉岳の頂上付近でこの天候の急変に遭うような羽目になったかも知れない。そうすれば茂倉小屋に逃げ込む。若し、下山の途中だったら、吹雪と競争だ。競争に勝てば土樽へ戻れるし、そうでなければ・・・」

倉越は言葉を切った。「そうでなかったら、どうなるのですか、倉越さん」久実はおそろしいことが眼の前で起きつつあるような気がした。背筋の寒くなるのを感じた。

「途中で吹雪に遭って道でも迷うと雪洞を掘って、ビバーク(露営)するより方法はない」・・・・・



伊村と容子はこの天気だと日帰りで谷川岳、茂倉岳の山頂日帰りを計画していたが天候の悪化は意外と早かった。スキーをしながら土合の宿で待つという倉越と久実に言い残して向かったのだった。

厳寒期の谷川岳は一度荒れ始めると長ければ一週間ほどは雪が降り続くこともよくある。伊村と容子はお互いその辺は認識していたので余分の食料は用意していった。しかし・・・


私は20年ほど前、スキーからの帰りに群馬県の沼田インターから関越道に車を乗せて帰途についた。背後には悪天候と思われる谷川岳を呑みこむ雪雲で覆われていました。

「CQ・・、どちらか入感ありますか・・」谷川岳登山者からの無線通報傍受しまた。私は車を路肩に止めて応答しました。「動けなくなったので雪洞で退避しています。家族に無事を連絡してほしい」

これから特に冬山をされる方は十分な食料と装備、それに天候の変化に対する慎重さと機敏な行動を心がけてもらいたいものです。


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  [No. 451]   11月  8日


   講談社
「繁あね」山本周五郎
1959年作・267ページ

・・・「蒸気河岸の先生よ」と云う声がした、「釣れっかえ」。私はおどろいて振り返った。見わたす限り人影もなかったのに、突然そう呼びかけられたので、振り返る拍子にタバコを落とし、それがあぐらをかいている膝のあいだに落ちたので、取って捨てるまでに、腿と脛を慌てて叩いたりこすったりしなければならなかった。

ーーそこにいるのは繁あねであった。歳は十二か三、たぶん十三歳だったと思うが、私が振り返ると、岸の上からにっと笑いかけて、もういちど同じ質問をした。私はそれには答えないで、こっちから問いかけた。

「ええびだよ」と繁あねは答えた、「ただええびに来ただよ」私はまた訊いた。「おんだらいつも一人だってこと知ってんべがね」「妹はどうしたんだ」

「あまか」と少女は鼻に皺をよせた、「墓ん場に寝かしてあんよ」「いたちにかじられるぞ」「つまんねえ」

お繁は肩をすくめ、それからそこへしゃがんだ。すると垢じみた継だらけの裾が割れて、白い内股が臀のほうまであらわにみえ、私はうろたえて目をそらした。私は信じがたいほど美しいものを見たのだ。・・・・・



山本さんは「もみの木は残った」や「青べか物語」を執筆されたころ美しい女たちの物語・・としてこの「繁あね」ほかと合わせて7人の女たちを短編で載せていました。

さすが現代作家の作品しか読んでいなかったものですから文章に安心感もありその表現力の中に素直な美しいと感じた様がよく伝わってきます。

そして山本さんが美しいと感じたことそのものが男である私にとっても「男のかなしい本能」として伝わってきます。


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  [No. 450]   10月 25日


   講談社
「あなたは、誰かの大切な人」原田マハ
2017年作・182ページ

いつその日がやってきても、と心構えはできているつもりだった。が、いざその日がやってくると、ただもうあわただしいばかり。

こんな風に人は人を送るんだな、などと、ようやくふっと気を抜けたのは、斎場のトイレの個室の中だった。

すがすがしい秋晴れの空のもと、母の告別式の日を迎えた。三日三晩、ほとんど眠る間もなく、目の下のクマを濃いめのファンデーションでどうにか隠した。

妹の眞美も同じような顔だったので、リキッドファンデを重ねづけして、クマを隠してやった。「お姉ちゃん、やさしいとこあるね」と、眞美もそのときようやく気を抜いたようだった・・・



73歳の母が亡くなった。母より一つ年下の父、平林三郎は告別式の日だというのにどこかに姿をくらましてしまった。

父はそれは傍から見ればうらやましいほどの美男だったらしく髪結いの亭主として振る舞い母もそれで良しとして来ていた・・・。

つまり告別式の日に喪主が現れないというのは、前代未聞のことらしいが待つに待った挙句長女である栄美が変わって務めた。

出棺の時父が乱入してきたので少し遅れてしまった。しかし次の瞬間、斎場内にテンポ良く音楽が流れ始めた。なんと「母から父への最後の伝言」はこれだったんだ。


「♪あなたの好きな人と踊ってらしていいわ・・・きっと私のため残しておいてね、最後の踊りだけは胸に抱かれて踊る ラストダンス」

世の中、夫婦のありかたには傍から見て理解不能なことは実に多々あるが、この作品は典型的なものでしょう。子供である娘たちにも母の父親に対する何かの憧れだったことを改めて知る。


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  [No. 449]   10月 12日


   角川文庫
「月 魚」三浦しをん
2004年作・218ページ

・・・店にあるときの古本は静かに眠る。これらの本を書いた人間たちは、すでにほとんど全員死者の列に連なっている。ここに残されているのは、この世にはもう存在していない者たちの、ひっそりとした囁き声だ。

かつて生があったときの、喜びや悲しみや思考や悩みの一部だ。真志喜はそれらの本の発する声を、じっと聞いているのが好きだった。

書物の命は長い。何人もの間を渡り大切にされてきた本は、老いることを知らずに、『無窮堂』でのんびりと次の持ち主が現れるのを待っている。

そういう本を守るのに、外界も時間もあまり関係が無いのだった。・・・



都会のはずれにあるこの町の郊外で本田真志喜はおじいさんの代から営む古本屋『無窮堂』の3代目として生まれた。近くにはライバル店に当たる古本屋があってそこの倅の瀬名垣太一と仲の良い幼馴染であった。。

古本屋というのはその本屋の眼力で良い本を見つけて、欲しい人に別けてあげる。その利ザヤで収益を上げることで希少価値の本を見つける洞察力と巡り合える運の強さなどが要求される。

まだ二人が小学生のころ真志喜の家の板の間で宿題の昆虫標本にする蝉の死骸をいじっていた。部屋の隅には真志喜の父親が売り物にならない本を取り分けて処分待ちになっていた。

太一はその中に薄っぺらな印刷物らしき粗末な本を見出して欲しいと言って家に持ち帰った。一目見た太一のおじいさんはそれが飛んでもない希少本であることを見抜いた。「返してきなさい」・・

そんな希少本を子供に見いだされて立場の亡くなった真志喜の父親は恥じて出奔してしまった。・・・


三浦さんは今まで私の知らなかった古本業を営む人々の心意気を伝えてくれました。確かに書いた人は亡くなっていてもその書いた言葉は永遠に生き続ける。

わたしも絵を描いたり、作品を作りますが私が居なくなってもそれらは言葉を発することでしょう。このHPにしても・・そう思うとおろそかな言葉は残せないと思いました。


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  [No. 448]   10月  2日


   幻冬舎
「渚の旅人(かもめの熱い吐息)」森沢明夫
2008年作・426ページ

・・・「ところであなた、学生さん?」ヒゲまではやしているのに、それはないでしょう・・・。「いえ、仕事をしています。今、まさに」とりあえず何者かを簡単に説明した。

「あらそう。で、今日はどこに泊まるの?」「となり村の青森ヒバの木工館みたいな所です。そこは宿も兼ねているそうなんで」ついさっき宿泊予約の電話を入れたばかりだった。

「となり村って、もしかして風間浦のこと?」僕がうなずくと、なぜかおかあちゃんは笑みを深めた。そしてまだ半生状態のイカを五枚ほど干し台から取ってビニール袋に入れ、それを僕の両手に握らせた。

「コレもらってね。半干しのイカは、いちばん美味しいんだよ。宿の社長に会ったらね、大間漁協女性部長の熊谷にイカを貰ったから、炙ってくれって言いなさいよ。あの社長は私の友達だから、きっとよくしてくれるよ」

こんな出会いがあるから、旅はやめられない。・・・



どうでしょう、全編にわたってこんな語り口で旅の楽しさがヒシヒシと伝わってくる表現であっという間に読み進んでしまいました。

千葉から房総半島、茨木、福島、宮城、岩手、青森は下北半島から津軽半島。秋田、山形、新潟、富山は能登半島。石川、福井、滋賀県の高浜町までの沿岸をレンタカーで宿泊しながらの旅です。。

ここで紹介されている沿岸は私もすべて何らかの形で旅をしていますが冒頭に紹介した津軽半島と下北半島だけは残念ながらまだ行っていません。・・いや必ず行きます。


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  [No. 447]    9月 21日


   文藝春秋
「静かな雨」宮下奈都
2004年作・118ページ

・・・ある日の夕方、高校生が頑張っていた。ちょうどほかにお客がいなかったこともあって、店のカウンターを独占している。僕が近づいていくと、もう高校なんて辞めちゃいたいよ、と言っているのが聞こえた。

何か作業をしながら相槌を打っているようなこよみさんの声もしている。「何のために勉強してんのかわかんないよ。勉強したら将来何かの役に立つと思う?」「役に立つものしかいらないの?」

高校生はこよみさんが同意してくれるとばかり思っていたらしく、その反応に不満を隠せない。僕のことなど目に入らない様子でつづける。・・・

背の高い高校生は自分の訴えが幼稚なことも、そしてその訴えを投げかける相手を間違えていることも知っていながら、口をとがらせて並べ立てて見せているものだった。

「役に立つか立たないか、それは本人にもわからない。人によって役に立つものが違うのよ。役に立つ時期も違う。それだから、もし、今、役に立たないと思っても、勉強を放棄する理由にはならない。あたしたちは自分の知っているものでしか世界をつくれないの。あたしのいる世界は、あたしが実際に体験したこと、自分で見たり聞いたりさわったりしたこと、考えたり感じたりしたこと、そこに少しばかりの想像力が加わったものでしかないんだから」・・・



全編にわたって押しつけがましい文章が見当たらない。もやっ・・・とした投げかけを読んでいて感じた。

そう言えば宮下さんの作品の共通点のようなものなのだろうか。やっぱり・・、この作品は宮下さんが3人目のお子さんの妊娠中に執筆したデビュー作と聞く。

今年になって、3冊目の作品。去年は2作品。いつのまにかそんなもやッとした作品の虜になっていたとは・・


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  [No. 446 ]    9月 17日


   文藝春秋
「渦(妹背山婦女庭訓)魂結び」大島真寿美
2018年作・376ページ

「・・・客いうたかて道頓堀の客はむつかしいで。なんでもようみてはるしな、目が厳しい。あの人らの目がわしらにええ芝居を拵えさしよるともいえる。 道頓堀、ちゅうとこはな、そういうとこや。作者や客のべつなしに、そうやな、人から物から、芝居小屋の内から外から、道ゆく人の頭ん中までもが渾然となって、混じりおうて溶けおうて、ぐちゃぐちゃになって、でけてんのや。 わっしらかて、そや。わしらは、その渦ん中から出てきたんや。治蔵もな。あいつらはまさしく、道頓堀が生んだ兄弟や。 治蔵は渦ん中から生まれて、渦ん中へ早々に帰っていきよったんや。ああ、そやな、そやから、この渦には、きっと門左衛門も溶けてんのやろな。そやろ。 治蔵の書いた国性爺は、門左の書いた国性爺からきてんのやで。ちゅうことはやな、あの並木千柳も、吉田文三郎も、みんなここに溶けている、ちゅうことやないか。 みんな溶けて砕けてどろどろや。な、そやから、わしらの拵えるもんは、みんなこっちから出てくるのや。このごっつい道頓堀いう渦ん中から」

「渾然となった渦か」

いわれてみれば、半二もまた、それをよく知っているような気がした。どろどろの渦の心地よさをよく知っているように思われた。・・・



道頓堀界隈に住む操浄瑠璃が心底好きだった父に連れられて小屋に通いつめた半二であったが一人前の大人になるころには幼いころの利発さは失われてぼんくらになっていた。

勘当同然に京都の知人に預けられた。父からはおまえが物書きになりたいんだったら近松門左衛門からもらった硯を上げると言われてもらい受けた。なので勝手に近松半二と名乗って作家気取りとなった。


この小説はほぼ全編大阪弁で書かれていて多少関東圏の人間には読みずらいこともあった。しかし半二の生涯が実にユニークにとらえられて江戸時代の大阪を巡る文楽と歌舞伎の浮沈がよく描かれている。

小説最期の一文に「柝の音が聞こえた。」(きのねがきこえた)柝という文字、電子辞書にもない。パソコンでも出てこない。IMEパッドで検索したらあった。

今風にいうと拍子木のことで狂言の作家などが舞台の袖で黒子として打つ・・って。直木賞作品。


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  [No. 445 ]    9月  6日


   小学館
「津軽百年食堂」森沢明夫
2011年作・280ページ

・・父がこんな風に、自分の生い立ちを話すのは初めてのことだった。僕は指圧をしながら、聞き入った。

「夏休みも放課後も、友達と遊ぶヒマもなくて。だから、何となくいつもクラスの仲間にも入れなくて。淋しかったなぁ・・・この破天荒なオヤジの息子に生まれたことも、大森食堂の長男として生まれたことも、正直言って、俺にはつらかったんだぁ」

父の口調は、しみじみとしたものだった。「じゃあ、父さんは、何になりたかったの・・・?」「あはは。俺はな、実は・・・・」

若いころの父は、東京に出て、テレビ番組を作る仕事に就きたいと思っていたのだった。しかし、幼少期から「当然この店を継ぐべき者」として育てられたことと、家計がいつも逼迫していたのとで、東京に出ることすら叶わなかったのだという。

「まあ、当時は俺が店をやらないと、家族が食えなかったからな」「じゃあ、父さんは嫌々ーーいまの仕事を?」そこで父はクスリと笑った。・・・・



森沢さんはこの小説を書くにあたって実際に10軒の食堂を取材して書いたと言います。三世代、70年以上続いていることそしてなんといっても大衆食堂であること。

これらのお店にはそれぞれの家族構成の系譜があり人間くさくて温かいドラマと、歴史に磨かれた懐かしい伝統の味があると言います。


私の同期に社会人として会社に就職した仲間の多くは東北地方の方が多かったようです。この百年食堂にでてくる主の二代目は恐らく私と同年代でしょう。

一旦は東京に出て仕事に就き、やがては故郷に帰って家業を継いだ仲間もかなりいました。そう、そんなこともありながら綿々と地元の家業が続けられてきているんでしょう。


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  [No. 444 ]    8月 19日


   祥伝社
「ひ と」小野寺央宜
2018年作・226ページ

・・・基志さんを外で待たせ、ATMでお金を下ろす。十万円。皮肉にも、十枚すべてがピン札だ。外に出て、むき出しのままそのお札を渡す。

「このお金はいいです。実際はあれこれ手伝ってもらってたすかったんで」そして言う。「でも五十万円は、母に貸してたんですか?」

「またかよ。貸してたよ」「ほんとですか?」「ほんとだよ」ほんとだよ、とうそをつく人も世の中にはいる。つく人というよりは、つける人だ。

平然とうそをつける人。相手にうそだと気づかれてても、動じずにいられる人。そう。基志さんの言葉をうそだとおもっている。

確信している。母は基志さんにお金を借りたりしない。基志さんに限らない。少しは貯金があったのだから、だれにも借りない。・・・・



柏木は鳥取の高校2年の時、父親を自損事故の交通事故で亡くした。車の運転中に飛び出してきた猫をとっさに避けようと電柱に激突してしまった。

アルコール反応もなかったことで保険金が下りた、母の勧めもあって東京の大学に入った。しかし、2年生の時勤めていた学食の母の同僚から電話を受ける。

突然死、柏木はわずか3年の間に両親を次々に失い大学も止めることにした。南砂町商店街の田野倉惣菜店で雇ってもらうことにして働きだした。

何とか生活ができるようになった時、柏木の遠い親戚にあたる基志が葬儀や何やらで世話したから代償をくれないかと店まで来るようになった。


まだ就学期に次々と両親を失うなんて言う不幸を背負った柏木がその不幸を人の力に頼らず自分で道を開いていこうとする努力は素晴らしい。

そして巡り合った惣菜店という幸運もあったのでしょう、次々と旧友たちとの再会も見出していく。わずか一年間の記録ではありましたが父親と同じ調理師を目指す希望も持つようになる。

これは本屋大賞・受賞作という、たしかに若い時代の苦労と希望を見出す点では若者の参考書だ。ただし、”ひと”・・という題名は諸先輩作家の諸々の題名に比較して人生を語る作品にしてはあまりにもまだチト早すぎる。オレもそんなことを感じるようでは人生末期かな。


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  [No. 443 ]    8月 16日


   講談社
「銀河鉄道の父」門井慶喜
2017年作・376ページ

・・・食事のあと、「お父さん」賢治のほうが呼びかけてきた。押し入れの前に立ち、来てほしそうな顔をする。

政次郎が行くと、賢治はくるりと背を向け、押し入れの襖をあけて、なかから黒い風呂敷づつみを出した。こちらを向いて正座し、畳の上に置く。むすびめをとく。あらわれたのは、百個ほどの石の山だった。

みなよく洗ってあるのだろう、砂や土の飛散はない。政次郎は卓上の石油ランプを手にとり、近づけてみた。反射する色はさまざまで、なかには鑢でよくよくみがいたのか、油を塗ったような光を放つものもある。

石という簡単な語ひとつの内容が、(これほど、豊かとは)胸の動悸が収まらない。が、口では邪険に、「ばか」「え?」「これでは集めただけではないか、賢治。何千、何万あったところで山のリスの巣のどんぐりとおなじだべ、何の意味もね。これをまごと有用たらしめるには、台帳が要るのだ」

「台帳・・・・」「もう作ったか」「いいえ」「作れ」政次郎の意識は、完全に商人に戻っていた。質屋とは、かなりの部分が地味な帳簿仕事なのである。・・・・



この作品も昨年の直木賞受賞作でした。宮澤賢治の作品は数多くの研究者によりその魅力は万人のために翻訳?されて周知の人気がありました。

私も小学生の時、先生からの宮澤賢治の童話「風の又三郎」の読み語りを聞いて以来すっかり虜になって現在に至っていました。

しかし、賢治の父親・・つまり政次郎さんから見た宮澤家の長男・セガレの賢治はどうだったんでしょうという視点からの作品は大変興味もありあっという間の長編作品でした。


父親の政次郎は賢治を長男として家の跡取りと考えていましたがこの質屋を継ぐことはきっぱりと拒否されました。

そんな賢治の意思を理解するには賢治が結核の病に倒れるころになって我に返るのです。質屋の父、政次郎と詩人、賢治との楽しい親子関係ははかない時間でしかなかったようです。


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  [No. 442 ]    8月 15日


   朝日新聞出版
「むらさきのスカートの女」今村夏子
2019年作・112ページ

うちの近所に「むらさきのスカートの女」と呼ばれている人がいる。いつもむらさき色のスカートを穿いているいるのでそう呼ばれているのだ。

わたしは最初、むらさきのスカートの女のことを若い女の子だと思っていた。小柄な体型と肩まで垂れ下がった黒髪のせいかもしれない。

遠くからだと中学生くらいに見えなくもない。でも、近くでよく見ると、決して若くはないことがわかる。

頬のあたりにシミがぽつぽつと浮き出しているし、肩まで伸びた黒髪はツヤがなくてパサパサしている。むらさきのスカートの女は、一週間に一度くらいの割合で、商店街のパン屋にクリームパンを買いに行く。

わたしはいつも、パンを選ぶふりをしてむらさきのスカートの女の容姿を観察している。観察するたびに誰かに似ているなと思う。誰だろう。・・・・



この作品は2019年度芥川賞受賞作です。御存じのように芥川賞とは純文学に対して新たな新境地を開拓された作品に対して贈られるものです。

主役もその人を観察する立場の作者も名前は出てきますが大した意味はありません。つまり完全に興味のある人を作家がストーカーまがいの近隣で観察したむらさきのスカートの女に目を向わせています。

読み始めて異様な違和感を感じたのはそこなのでしょう。これって、ストーカー・・じゃないの?


でも執拗にストーカーに徹すると迫力あるレポートとしての表現の領域が出来るのかもしれません。作品の表現自体は絵に例えると私の12歳の時に描いた単刀直入表現と変わりません。

まあ、短編ではありましたが久しぶりに面白い作品に出合った気がしました。


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  [No. 441 ]    7月 27日


   双葉社
「優しい音楽」瀬尾まいこ
2005年作・141ページ

・・・朝の混雑した駅の構内だった。電車を待つたくさんの人をかき分け、僕の方へ迷わずまっすぐ歩いてきた。

そして、僕の真ん前で立ち止まると、まぶしそうに僕の顔を見上げた。透けるような肌をして、目も唇もみずみずしくて、少し寂しげな顔をしていたが、とてもきれいな女の子だ。

髪をきちんと一つに束ねて、白いシャツがよく似合っていた。

見覚えのない子だった。大急ぎで、今までの記憶をたどってみたけれど、一度だって見かけたことがない顔。だけど、女の子は目をキラキラさせて僕を見ている。

「どうかした?」僕が声をかけると、彼女は慌てて僕を見つめていた目をぱちぱちさせた。「えっと・・・」・・・・



長居タケルは小さな設計事務所に勤めていた。いつものように電車を待っているとまた今朝も自分を探して僕の方にまっすぐやってくる女性を気にした。

思い切って話しかけてみる。彼女の名は鈴木千波、女子大生2年の19歳という。そのうちタケルと千波は気心の知れる仲となってデートもするようになった。

しかし、いつものことだが彼女の家まで送っては行くが千波は決してタケルを両親に紹介することはなかった。

タケルのことを千波から聞いていた両親はとうとうタケルを迎い入れたいと言い出してきた。タケルは緊張しつつも両親の態度に違和感を持った。リビングの額縁には自分とそっくりな遺影が飾ってあったのだ。


世の中には自分によく似た人ってきっと居る。そんな人といつか巡り合えるはず・・・、と思ったことのある少年時代を過ごした人はかなりいらっしゃると思う。

しかし歳を重ねるに従ってオンリーワンを目指すようになり少年時代の夢はどこかに忘れ去ることになる。そんな記憶を感じさせる楽しい小説でした。


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  [No. 440 ]    7月 20日


   文藝春秋
「長いお別れ」中島京子
2018年作・258ページ

・・・その「忘れる」という言葉には、どんな意味が込められているのだろう。夫は妻の名前を忘れた。結婚記念日も、三人の娘を一緒に育てたこともどうやら忘れた。

二十数年前に二人が初めて買い、それ以来暮らし続けている家の住所も、それが自分の家であることも忘れた。妻、という言葉も、家族、という言葉も忘れてしまった。

それでも夫は妻が近くにいないと不安そうに探す。不愉快なことがあれば、目で訴えてくる。何が変わってしまったというのだろう。言は輪失われた。記憶も。知性の大部分も。

けれど、長い結婚生活の中で二人の間に常に、ある時は強く、ある時はさほど強くなかったかも知れないけれども、確かに存在した何かと同じものでもって、夫は妻とコミュニケーションを保っているのだ。

幸いだったのは、夫の感情を司る脳の機能が、記憶や言語を使うための機能に比べて、さほど損なわれなかったことだろう。・・・・



長年中学校の教師を務め、そして校長を務め、地域の図書館の館長を務め終わったころから東昇平は少しづつ認知症の症状が出始めた。

三人姉妹の長女の茉莉はアメリカの研究所に通う夫と共にサンフランシスコにいた。次女の芙美は結婚して比較的近くに住む、しかし三女の菜奈はまだ独身ではあったが料理コンサルタントの仕事で忙しく飛び回っていた。

妻の曜子は独り勝ち気で夫の面倒を見ていたが後期高齢となって老老介護となった時網膜剥離の手術を余儀なくされた。

二週間の入院手術の間誰が夫昇平の面倒を見るのか。結局次女と三女の二人はよく協力して面倒を見た。そして曜子が退院して暫くしたころ昇平は高熱を出し入院した。医師からは人工呼吸器と、流動食をどうするか決断を迫られる。


幸いにも私の父も母も義母ともどもに認知症と言えるほどのものはなかった。しかしその最期近くには当然医師から延命治療の意思を確認される。家族にとって苦しい決断である。

この小説の中でもクオリティ・オブ・ライフという項があっていかに本人がより人間として意義ある生涯を終えれるか。本人の身になって考えてやる手助けを考えさせられる。


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  [No. 439 ]    7月  6日


   幻冬舎
「春狂い」宮木あや子
2010年作・226ページ

・・・教室に君臨する醜い女王は最後まで抵抗したが、やがて家臣を失い、彼女が片思いをしていた担任教師が少女の信奉者だと判ると、悔し涙を流しながらも少女に降伏した。

少女の要求はただ一つ、自身に無関心でいること、関わらないこと、それだけだ。少年を失った少女に、新たな味方など必要ない。卒業までの二年は、誰とも心を通わせず、彼の為に喪に服した。

生きていきやすい環境を得た代わりに、少女はあっけなく処女を失った。少年の顔を思い出すことはなかった。好きでもない、むしろ死ねと願っている男たちに性器やら性器を象った器具やらを突っ込まれている最中に、少年の顔を思い出すことは罪悪だった。

少女にとっての天使だった少年は決して穢してはいけないものなのだ。口づけをすることだけでも躊躇った。穢したら消えてしまうのではないか、という不安を抱えていた少女にとって、自ら消失を望む少年を、消すための儀式が最後の口づけだった。

卒業の日を迎えたとき、少女は長い旅がようやく終わる、と初めて深呼吸をした。



生まれつき妖艶さを感じさせる少女はどこに行っても異性の性欲の対象になってしまう。そう感じた少女は女子高に進んだ。

しかしそこにも男性教師と言うオトコが存在していた。どうかわたしを無視して、関心を持たないでと願うがそうはいかない。

この本の表現にはかなりの性暴力的な言い回しがあり私は好きではないがもう少し文学的な表現って出来ないんだろうか。ここは宮木さんの望むところなのか気にかかる。

しかし、そんな表現をしなくてもこの頃の少女たちの繊細さ、危うさは十分に伝わってくる。


ある時、こんな美しい少女がこの世の中にいていいものか・・と思った事があった。毎朝そんな少女を遠くから観察するのが楽しみだったことがあった。

時間って残酷なもので、その少女はやがて社会人になって普通の大人の人と変わらなくなった。しかし、少女のあの数年間は何だったんだろう・・今でも不思議な気がする。


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  [No. 438 ]    6月 13日


   オリオンブックス
「美少女 桜桃 帰去来」太宰 治
1939〜48年作・48ページ

・・・母も精いっぱいの努力で生きているのだろうが、父もまた、一生懸命であった。もともと、あまりたくさん書ける小説家ではないのである。

極端な小心者なのである。それが公衆の面前に引き出され、へどもどしながら書いているのである。書くのがつらくて、ヤケ酒に救いを求める。

ヤケ酒と言うのは、自分の思っていることを主張できない、もどっかしさ、いまいましさで飲む酒のことである。

いつでも、自分の思っていることをハッキリ主張できる人は、ヤケ酒なんか飲まない。(女に酒飲みの少ないのはこの理由からである) 私は議論をして、勝ったためしが無い。必ず負けるのである。相手の確信の強さ、自己肯定のすさまじさに圧倒せられるのである。そうして私は沈黙する。

しかし、だんだん考えてみると、相手の身勝手に気がつき、ただこっちばかりが悪いのではないのが確信せられてくるのだが、いちど言い負けたくせに、またしつっこく戦闘開始するのも陰惨だし、・・・・

はっきり言おう。くどくどと、あちこち持ってまわった書き方をしたが、実はこの小説、夫婦げんかの小説なのである。・・・・[桜桃より]



ここに引用した文章の中にはいろんな苦悩が読み取れる。作家なのになかなか書くことが出来ない、それは絵描きでも文学者であれこれほどつらいことは無いでしょう。

38歳で多摩川上水に入水自殺した直前の作品であることからもちょっとした些細なことでも自分を死に追いやってこの苦痛から逃げ出したくなる心境でしょう。

この時、太宰治は38歳。7歳の長女、4歳の長男、そして1歳の次女がいて奥さんはそれ等の子を見ながら家事をし、なにも手伝ってくれない夫にボヤキの一つも言ってみたくなる。

更に4歳の長男は発育がかなり遅れていたことも彼の心を重くしていた。

奇しくも太宰治のつらかった人生の終わりの日にその作品を読んでみた。恐らく今日のようにすっきり晴れた6月13日だったら入水せずに済んだかも知れない、桜桃忌。


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  [No. 437 ]    6月  8日


   河出書房
「黒冷水」羽田圭介
2015年作・262ページ

・・・「高見澤さん、なんでこんなところで生活しているんですか?」単刀直入に青野が訊いてきた。

「弟が暴走しだしたからだよ」正気は一部始終を、簡潔に青野に伝えた。

「いやあ、兄弟の憎み合いがついにそんなところにまで発展しちゃったんですね。ある意味凄いなあ。でもそこまで憎み合っているなら、もうとことん憎み合っちゃたほうがいいですよ。そうしたら力尽きて、二人とも敵対しなくなるかもしれませんしね」

青野は軽くそう言った。確かにそうなのかもしれない、と正気は思った。三歳も年下とはいえ、青野にそう言われると納得できる。男女を問わずに人を惹きこむ空気を持った男だと正気は感心した。・・・



高校二年の高見澤正気は中学二年の弟、修作の二人兄弟であった。

修作は最初ものめずらし気に兄正気の机の引き出しから大変興味の引き付けられるポルノ系の印刷物を見つけて大分興奮してしまった。

それ以降、兄のいないすきに兄の部屋に忍び込んでは盗み見を繰り返すようになった。正気はもうとっくに気が付いてはいたがそうとは知らない修作は元通りにしたつもりで知らん顔をしていた。

正気もいい加減頭に来るようになり何とか懲らしめようと策を練る。そして幼さの残る修作は元通り直した風にしていた。

段々に防御と攻めがエスカレートしていって遂に殴り合いとなり、修作は瀕死の重傷を負って病院に入院してしまう・・・・


この作品は若干17歳の高校生が文藝賞を受賞したデビュー作ということに驚きました。

そして兄弟喧嘩の表現のすさまじさは読んでいて気分が悪くなるほどのすさまじさ・・怪奇映画を見ているような・・迫力のある表現だ。

実際の圭介氏には弟がいて理系の学生、父親はシステムエンジニアー、母もキャドを使う理系、こんな家族なのに文系の家族は面白い。


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  [No. 436 ]    6月  2日


   幻冬舎
「明日の子供たち」有川 浩
2014年作・366ページ

・・・山内は気弱に笑った。

「結婚して子供が出来てさ。自分の子だから当然かわいいし、大事にするさ。でも、そしたら、施設の子供のことが浮かんじまうんだ。同じ年頃の子も大勢いるからな」

その当時は未婚だったが、山内が言わんとすることはおぼろげながら理解できた。自分の子供を慈しみながら、・・・実の親に慈しまれることなく、施設に収容されている子供たちのことを思ってしまう。

我が子を慈しむことに罪悪感を覚えてしまう。逆に、施設で時間を取られて我が子との時間を奪われると、施設の子供を慈しむことに罪悪感を覚えてしまう。

そういうことなのだろう。「どうも俺は切り替えが下手でな」・・・・



天城市にある児童養護施設を作家の有川浩さんが取材して小説にしたものでした。

実際には「あしたの家」という名称ですがここには様々な事情で親と一緒に住めない子供たちが、一つ屋根の下に暮らしている。

最近では少人数の施設が主流であるがここでは小学生から高校生まで90人もの児童がお互いより添って暮らしている。まるでグランドの無い学校の様だという。

ここに住む当時高校生だった笹谷実咲さんが作家の有川浩さんに手紙を書いて「私たちの施設のことをもっと世の人たちに知って欲しい」と直訴して実現した作品となった。

私は「かわいそうに」と言われることが一番嫌いです。私はかわいそうそうじゃありません。私は施設に入って初めて幸せになりました。施設にいても楽しく暮らせるし・・


つい最近、目についた二つの事件はある種の共通点を抱えています。

川崎でバス停の子供たちを襲い刃物を振りかざした男や、練馬区で父親が世間に迷惑をかけるといって息子を刺し殺した事件がありました。

彼らはむしろこういった育て方をされてしまった自立心の無い子供たちの辿る末路みたいなものを感じてしまうのです。しかも同じ年頃50歳前後というのも・・


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  [No. 435 ]    5月 22日


   自身出版
「水の流れのままに」本間龍平
2002年作・117ページ

・・・私が相鉄運輸という東急グループの会社に入社して間もない頃、東横デパート(現・東急百貨店)配送課に派遣された。 まだ戦後の復興期に入る前で、東急も渋谷の東横店ひとつだけの時代である。今のようにセンターがあってコンベアが縦横に走って配送品が仕分けされるわけではない。

売り場の社員が配送品を抱えて持ってくる。

すべてにのんびりしていて、みんな、やおらお喋りをしてから売り場へ戻るのだ。顔見知りになった女子社員が「スキーに行きたい」という。

池上かほるさん・石丸千鶴子さんが幹事役で十名ほどの女子社員と一緒に菅平へ行く。私の常宿であった長寿園に宿泊した。・・・・



どんな長老でもその人なりの青春時代はあった。

ここでは今でこそ世界の「本間かほる」として常にマスタースキーの頂点に立つご婦人との出会いも生き生きと書かれていて楽しい。


こんな自叙伝を残しながらお亡くなりになられた本間龍平さんは何時までも私の心の中に居続けてくれるでしょう。

彼が74歳の時、書かれたと言いますからまだスキーに熱中していた最盛期です。

わたしはその彼の執筆した時よりすでに数年歳を重ねています。こんな瑞々しい文章の書けるうちに何か残したいと思う・・


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  [No. 434 ]    5月 20日


   講談社
「ニムロッド」上田岳弘
2018年作・130ページ

・・・通貨の価値を保証するのは、ドルや円などの通常の通過であれば中央銀行であり、或いはその上位に位置する国家なのだけれど、ビットコインなどの仮想通貨の場合は、プログラム化されたルールに参加するPCがそれに当たる。 ざっと、説明文を読んだ印象では、例えるならば、飲食店を選ぶ際に、有名なグルメレポーターによる採点を信用するか、或いは匿名の人々の投稿に採点ルールを適用したものを信じるかの違いのようなもの。

全然違うかもしれないけれど、取りあえずはそんなふうに把握している。

「だいたい会っている」ビットコインについての僕の所感を聞いた社長は、テーブルに置かれたグラスに手を添えたまま、目をつぶって首肯した。そう言われて、先生に認められた生徒みたいに安心するのも子供じみているけど、僕はこの社長の言うことはおおむね信頼している。

「金を掘れ」、というのは、つまり「ビットコインを掘れ」ということだろうか?・・・・



ナカモトサトシは小さなサーバー会社に勤めてもう10年になる。

社長からいきなり仮想通貨の事業を立ち上げるように言われて課長になった。とはいえまだこの部署を立ち上げてから部下もいない一人で開発しようと言うことだ。

取りあえずはサーバーとしての余力のPCを使って仮想通貨ルールに沿って運用してみたところざっと30万円くらいの稼ぎになると社長に報告した。

そんな稼ぎじゃ話にならんと社長にどやされる。・・・


仮想通貨のビットコインなどはソースコードを読み込み、ルールに基づいて運用すれば社長の言う「金を掘れ」と言うことに結び付くのでしょうか。

少し時代は遡るがやはりサーバー会社を運営していた社長が逮捕され起訴され裁判の結果有罪判決を受けて実刑を言い渡された。近頃ロケットに夢中と聞く。

彼曰く、「法律に触れたことは一切していません」と言い張ったものの「実体のない架空の市場への関与は社会性に鑑みて許せない」と言うものでした。

今またこの時代になって仮想通貨が取りざたされ秩序についてはある程度のルールは決められたもののPCひとつで金儲けできる世相は理解しがたい。

そんな世相の危うさを題材にした作品も読んでいて可成り難しい。芥川賞選考委員も大変苦慮して読まれたのではないでしょうか。


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  [No. 433 ]    5月 13日


   実業之日本
「よろこびの歌」宮下奈都
2014年作・227ページ

・・私も小さいころからピアノを習っていてそこそこ弾けたから多少の音感はあるはずだったのに、御木元さんのハーモニーの追及は生半可じゃなかった。

否定されるような気分になった子がいたのもわかる。私たちにそこまで求めても仕方ないと思うよ、と何度いいたくなったことか。無理だということがわからないのか、わかっていても妥協ができないのか、彼女の指導は厳しくて、ただでさえ集まりが悪かったのに回を追うごとに人が集まらなくなった。

しかたないよ、と私は思った。今度はクラスメートたちに対して。御木元さんにはこうすることしかできない。音楽に関して、歌うことに関しては、こんなふうにがっぷり四つに組む以外に彼女には手はないんだ。

私はそれをクラスメートたちに伝えられなかった。・・・・



御木元玲は音楽家の家庭に育った。父親は離婚していないがバイオリニストの母の下で楽器ではなく声楽を目指していた。

しかし受かると思っていた高校に落ちた。勉強ができなくて不合格だったのなら、残念であってもこれほど打撃を受けはしなかったとだろうが実際には否定されたのだ。

気を取り直して音楽科の無いごく普通の高校に進むことにした。そして自分が音楽家を目指していたこともなかったかのように過ごしていた。


高校も3年もあればどこからか御木元玲はあのバイオリストの娘だと解ってしまう。

そして学校行事の合唱祭でクラスの指揮者に推薦されてしまった。出来は最低だった。しかし校内マラソン大会の時御木元は自分がどん尻でグランドに帰って来た時、クラスメートの歌う素晴らしい合唱に励まされてゴールした。

幾人ものクラスメートのそれぞれの夢と希望の違う人間性を合唱と言うものでひとつの心にするってある種大切な学校行事なんだと感じる。


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  [No. 432 ]    5月  8日


   祥伝社
「見えない誰かと」瀬尾まいこ
2006年作・173ページ

昔、私の勤めていた中学校に、文学部というものができた。その年は、生徒の希望を聞いてクラブを作ろうということになり、一人の男の子が文学部を希望して、創設されたのだ。

やっぱり国語科ということで、私が顧問になった。部員が一名、顧問が一名の小さな部活。でも、実は私は読書家でもなければ、文学に詳しい訳でもなかった。

だから、文学部といっても、何をどうしていいかさっぱりわからなかった。

文学部の活動は、不思議なものだった。時々、会議をしてみたり、文学部ノートを作って詩を書きあったりした。

でも、ほとんどは彼が一人で黙々と文学について調べていた。ものすごくたまに質問されて答えることもあったけど、彼は一人で穏やかにいろんなことを考えては、言葉に変えていた。

私はたいしてすることもなく、彼が読みかけている本をぱらぱらめくったり、ぼんやり彼の活動している姿を眺めているだけだった。・・・・



僅か5ページくらいの短編が34編ほど載せてある。つまり生活している毎日の一ヵ月分の日記を読んだ気がした。実に素直で率直な気持ちの表現集だと思った。

そんな文体をいつか読んだような気がしたと思って探してみた。2年前に読んでいました、山陰地方でしたたかに生き抜いていく女性を描いた作品でした。


冒頭引用した文章は「図書室の神様」でした。おそらく瀬尾さんが二十代後半に赴任した中学校のクラブ活動を描いた文章でしょう。

クラブ員の男子生徒とクラブ顧問の瀬尾さんとの夢のようなクラブ活動です。つまり彼のことを図書室の神様と感じながらも見つめている顧問と生徒に愛情に近い信頼が生まれているのです。

小さな学校だからこそ実現できる生徒と先生の信頼関係を見た。大きな街の生存競争を生き抜く生徒には羨ましい限りではないでしょうか。


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  [No. 431 ]    5月  2日


   筑摩書房
「娘に語るお父さんの歴史」重松 清
2006年作・178ページ

それにしてもーーー。「不思議だったよなあ、あのころのヒーローって」少々ロレツノあやしい口調でカズアキが言うと、セイコは鼻をつまみ、手の甲を払って酒のにおいをよけながら、「なにがぁ?」と面倒くさそうに聞き返した。

「なんで攻めなかったんだろうなあ、ウルトラマンも仮面ライダーも」「はあ?」「専守防衛なんだよ。怪獣や宇宙人や怪人から世界の平和を守るために戦うんだけど、自分から悪い奴らを見つけ出してやっつけようという発想はないんだ。やっぱり、これ、憲法第九条のえいきょうなのかなあ・・・」・・・

もしも、「ウルトラマン」が、宇宙を旅して、出会う敵を次々に倒していく「開拓者」「冒険者」の物語だったとしたら、それを観ていた子供たちにどんな影響を与えただろうか。

もしも、「仮面ライダー」がショッカーのアジトに乗り込んで悪の秘密結社を壊滅させる「桃太郎」タイプの物語だったとしたら、その活躍に胸をときめかせた子どもたちは、どんなおとなになっただろうか。

ウルトラマンも仮面ライダーも、決して先制攻撃はしない。ましてや奇襲や不意打ちなどは、頭の片隅をちらりともよぎることは無いだろう。

子どもを育む科学とスポーツの融合である変身ヒーローの行動は、当然、スポーツマンシップに基づいているはずなのだから。・・・・



カズアキは1963年生まれ、同じ年の奥さんと中学3年生の長女と小学3年生の次女との4人家族だ。

長女のセイコから正月休みにいきなり「お父さんって、子供のころはどういう時代に生きてたわけ?」と聞かれて改めて図書館に行って調べて見たくなった、というストーリーだ。

セイコに言わせるとお父さんの子供のころはおじいちゃんやおばあちゃんの様に戦争があったり食糧難のような大変だった時代じゃなかったんじゃないか・・と言うのである。

言われてみるとカズアキさんの生まれた時代は私にして見ればもう立派な社会人、少年時代から社会人になってもだれでもお腹は空かしていたし世の中非衛生なことばかりでした。

でも懸命に生きて来た。それは代えがたい喜びであったし未来を信じて生きられた。そうか・・いつの時代も未来を信じることで苦難を乗り越えてきたんだ。


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  [No. 430 ]    4月 25日


   講談社
「ウランバーナの森」奥田英朗
1997年作・288ページ

ずいぶん曲を書いていないなとジョンは思う。最後にアルバムを出したのは1975年だが、その時の作品はかつての、自分が少年時代にあこがれたロックンローラーたちの曲を収録したものだったから、自作曲は‥‥、そうだ74ねんから書いていないことになる。

かれこれ5年だーーー。ジョンには、もう自分は曲が書けないのではないかという軽い諦めがあった。それは多くの音楽家が抱えるプレッシャーや恐怖ではない。

昔ならばレコード会社との契約があって書くことを要求されたが、いまは催促されることもないのだから気楽なもんだ。たぶん、自分はすでに一仕事を終えたと言う気持ちがあるのだろう。

もはや自分を証明する必要はどこにもない。このまま涸れたとしても、特に思い残すことはないのだ。

大体曲作りなどというものは、ジョンにとって食事と同じようなものだった。作ろうと思って苦心したことなど一度としてない。こうやってギターを抱いて思いつくままにメロディーを奏でれば、曲の全体が一度に聴こえ、美しい立像の様に林立して見えたのだ。・・・・

・・ジョンは早い時期に自分を天才として意識し客観視するところがあった。たとえばクラシック音楽にさしたる興味はなかったが、モーツァルトらの天才ぶりには一目置き、彼らの評伝を読み漁ったりした。

彼らが何歳の時に何をしたかという年譜は、自分と照らし合わせて興味深くチェックした。その結果ジョンが思ったことは、天才は終生天才ではないと言うことだった。・・・・



この作品で驚いたのは私が本を読むようになった中でも多くの作品に触れた奥田英朗さんのデビュー作であったと言うことです。

勿論ここで主人公として扱っているジョン・・とはあのジョン・レノンのことですが1976年から毎年の夏、彼がヨーコと過ごした軽井沢の別荘での様子を奥田流に題材として作品化した所に興味がある。

ある年には奥田の体験であった長期間便秘に悩んでいたことをジョンに託して身代わりをさせそして日本のお盆の風習をジョンのリバプールから祖先を呼んでみたりと突拍子の無いアドリブで読者を悩ませてくれた。

この作品を書いた時相当な自信に満ちて出版社に売り込んだそうですが中々本の出版まで行きつかなかった。編集委員がいくら進めても部長の許可が出なかったそうでした。

しかし2年ほどして編集者が部長に栄転して新しい編集者が担当になり幾度も書き直しさせられたそうです。奥田さんの天才とジョンの天才を自身が作品の中で直に吐露するあたりが後の奥田作品を垣間見て面白かった。


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  [No. 429 ]    4月 19日


   日経新聞
「七つの会議」池井戸潤
2011年作・392ページ

・・・「営業一課から先週の売り上げ実績並びに、当期累積実績について発表させていただきます」坂戸は、凛とした声で言うと面々を見渡した。

名だたる大手企業を顧客に擁し東京建電の業績を牽引する稼ぎ頭となっているのが坂戸の率いる営業一課であった万年業績不振の二課と比較し、社内で”花の一課、地獄の二課”と呼ばれる所以である。

扱う商品が違うから仕方がないが、一課がスマートなホールセールなら、原島率いる二課は、さしずめどぶ板営業と言ったところだろう。

坂戸は、堅調そのものの売り上げ実績を淡々と報告していく。聞いていると嫉妬したくなるほどの成果だが、坂戸は人のいい男で、こういうやり手にしては珍しく、社内のだれからも好かれていた。

しかしそのとき、「いい気なもんだなあ」佐伯が他に聞こえないような声でいって高原をふりむかせた。「見てくださいよ、あれ」佐伯が目で指したのは、ちょうどテーブルの反対側だった。

見るとそこに腕組みをしたまま、坂戸の話を聞いている風にみせかけて居眠りしている男がいる。「八角さんか」原島はいった。「いつものことさ」・・・・



東京建電という中堅の会社をいろんな視点から見据えて作品に仕立てる・・池井戸さんの得意分野です。

この紹介文の中にチラッと覗く人間模様が大きな柱になるわけですが巨大な組織の中にも身を粉にして働く猛烈社員もいればそこから一歩引いた社員像も浮かんでくる。

眼が眩むと時として企業としての根元は何かを忘れて儲けや出世に走ってしまう人がいる。ここでの坂戸は若くして大きな出世を遂げて尚将来性を嘱望されるようになる。

彼は時々ではあるが急成長する会社にありがちな体質に染まってしまっただけに過ぎない。一見能無しのような存在であった万年係長の八角は彼らの不正を鋭く突いていた。


社員の様々な姿態、企業を支える下請けの様子、女子社員の悲哀、カスタマーセンターの憂鬱、トップの御前会議、いろんな会議を通して見えてくる会社像を見せてくれる。

あの「下町ロケット」の池井戸さんならではのきめの細かい組織構成、横断的視野などまたまた迫力ある作品に遭遇した感じです。


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  [No. 428 ]    4月 13日


   文芸春秋
「モダン」原田マハ
2018年作・170ページ

「読書中断のご挨拶」

2019年3月17日、私はフランス・パリ・シャルルドゴール空港から日本に向け帰国の途にあった。

羽田まではおよそ12時間の旅、往きの時にはスキー・世界マスターズ大会の為に出来るだけ時差をなくそうとひたすら眠ることに勤めた。

しかし帰国に当たっては時間との戦い・・、いつものように用意してきた電子書籍を取り出して読んでいた。気がつくと周囲は皆静かに眠りこけていたこともあって引き込まれるように本を読み進んでいた。

ふと気がつくとページが捲れない。電池は十分にありそうだし・・ここではどうしようもないから寝るしかないか・・。

帰宅翌日に発売元のSony Readerに電話をして症状を訴えた。もうその機種並びに後発品の製造も止めましたので申し訳ないのですが・・・

2010年のNo.105以来、足掛け10年、No.427まで322冊の本を読んできましたが遂に専用Readerでの読書は終わりにしなくてはならないのか。

しかしReader書籍としての購買は続けるという・・、ここは中古品があれば再度購入して読み慣れた電子書籍の読書を続けようと決心した。幸いにも最後に販売した型式の新古品がまだ市場にあるという、早速注文した。

さすがにソニーはこの市場の伸びは先行きが無いと判断したように、最新のインターネット利用などかなり先進式努力をしたことでむしろセキュリティー重視の面で使いにくくなってしまった。

それの使いこなし習得やその後のスキー事故などで本を読むことから遠ざかってしまった。しかしやっと今日からその巻き返しが可能になった。




「キョウコ、ちょっと来てくれ。すごいことになってるよ」いきなりドアを開けて、ディルが隣室のリビングから顔を覗かせ、大きな声で言った。

「トウホクって、日本のどのあたりのことだい?」気だるい上半身を起こし、かすんだ目でディルを見た。

その顔にはえも言われぬ表情が浮かんでいた。興奮で薄暗く輝いているような。

「トウホク?」その言葉は、スロベニアだかラップランドだか、見知らぬ地域の寒村の名前のように聞こえた。「なんなの?どうしたの?」

「津波だよ。地震と津波で、全部やられた」泣き笑いのような表情になってディルが答えた。



美術館に勤務しつつコロンビア大学で博士論文に挑戦中の杏子にしてみれば「展覧会ディレクター」から「学芸員」へ転向する可能性もゼロではない。

そして出勤した美術館ではてんやわんやの大騒ぎだった。地震・大津波・そして原発事故のあった福島近代美術館から開催中のニューヨーク美術館から貸し出し中の「アンドリューワイエス展」からの作品の救出だ。

「それで、君のミッションなんだが・・とにかく行ってきて欲しいんだ」・・・


確かに復興、復興と何処もかしこも東北震災の復興に気を使っているときに地元の方の気持ちを逆なでする言葉を気安く口から出すことさえ幅兼ねるこの頃である。

しかしそんな時にも世界の宝物である美術品の管理をしている美術館長が日本人だからと言って杏子に「ワイエスの絵を返してもらってこい・・」という。

福島の人も、館長も、そして命じられた杏子にとってもとてもつらい気持ちを持つことになる。みんなそれぞれが被害者だったんだ。


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  [No. 427 ]    3月  6日


   幻冬舎
「燃えつきるまで」唯川 恵
2002年作・242ページ

別れないか。

と、耕一郎が言った。ちょうどビデオの巻き戻しが終わって、取り出しボタンを押したところだった。怜子は振り向き、肩ごしに耕一郎を眺めた。

ベランダの窓から、五月の日差しが細かい粒子のように降り注いでいる。ちょうど逆光になっていて、耕一郎の表情がうまく読めず、怜子は少し目を細めた。

「今、なんて言ったの?」「だから、俺たち、別れないか」

ビデオテープが飛び出してくる。唐突な言葉というのは、人の思考を停止させるものらしい。怜子はしばらくそのままの姿勢で耕一郎を見続けた。耕一郎は怜子の視線から逃れるようにソファの背に掛けてあるブルゾンのポケットに手をのばし、タバコを探す仕草をした。それからこの部屋が禁煙だと言うことを思い出したらしく、所在なさそうにその手をコーヒーカップに移した。・・・・



怜子と耕一郎はもう恋人同士として5年も付き合ってきていた。一度、耕一郎は結婚しようと言ってくれたことがあった。しかし怜子は「今、仕事が無茶苦茶楽しく有意義な時期なのでもう少し待ってよ」という時期もあった。

怜子にとってはどうして?という想いはあった。耕一郎はその頃、別の彼女が出来たわけでもなかった、しかし彼はこの暮らしから足を洗いたかった。

暫くして耕一郎は別の女と結婚したいと怜子に知らせて来た。怜子はそれは無いでしょうと・・・


この小説では幾組かの男女の逸話も出しながら怜子が耕一郎に対する未練を捨てきって地方の部署に転勤することで新たな新境地を目指すところで終わる。

女が結婚をすることを確かに幸福のひとつの形と捉えるけれどそれが終点ではなく本当の物語はハッピーエンドの後から始まるんだと思う。

そして誰もが感じる「こんなはずじゃなかった!」を通りこさなければ二人の本当の幸せの境地には達することはできないのです。


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  [No. 426 ]    2月 20日


   双葉社
「たった、それだけ」宮下奈都
2017年作・170ページ

・・・「須藤先生は、どうして小学校の先生になろうと思ったんですか」どうして。何も浮かばなかった。もうずっと考えることを拒否していた。どうして小学校の先生になったのか、今は、自分の中に答えはない。

「初志貫徹という言葉があるじゃないですか」眼鏡を外しておしぼりで拭きながら、谷川先生が言う。「こういう現場にいると、初志を貫徹することが必ずしもいいとは限らないと思いませんか。人は生きていく。志も生きて動いていくんです。理想だと思っていたことが、そうではなかったのだとわかる場合もあります。生きて動いている人が百人いれば百通りの理想があるんじゃないかと思うようになりました」・・・

眼鏡をかけ直し、ほんのりと赤らんだ顔を上げた。

「でもね、それでも、ときどき、初志を思い出すことです。青いなあとか、甘いなあとか、笑ってやるんです。初志ってやつは、青くて、甘くて、まぶしく光ってますからね。ま、そうやって、初志を思い出しながら、私も何とかこの仕事を続けてきました」

谷川先生。初志も思い出せないような俺につきあってくれて、ありがとうございます。・・・・



季節外れに転校してきた3年生の望月ルイの担任の須藤はこの子が手を出したのに・・・そうか、握ってほしかったのか、と悔やむ。しかし今の小学校でそれは許されないことだ。

第一話から第六話からなるこの小説は望月ルイのまだ幼かった頃に父親が会社の営業部長をしていた時、贈賄容疑が発覚し逃亡を助けた女のいることも発覚した。

ルイが高校生になるころになって事件の時効を過ぎてもまだ父親の逃亡は続き、母子家庭は困窮を極めていた。


望月ルイの周囲の人間関係をルイの眼を通して辛い母子家庭の底から未来に拓ける観察を小説化した作品と感じました。

それにしても失踪してしまった父親の無責任さは子供の心にも社会に対する何か冷たさのある視点が強く感じられる。

最近、私の身近にも社会から失踪した人がいて皆が心配している。人は一人では生きていかれない、しかし元気で居て欲しいと願うのみ。


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  [No. 425 ]    2月 14日


   講談社
「時の輝き」折原みと
1990年作・142ページ

・・・「本当にね、由花ちゃんがいてくれて、よかった・・・って、感謝しているのよ」

冬の穏やかな日ざしに包まれたリビングで、シュンチのお母さんが、そう言ってやわらかく微笑んだ。

「最初はね、正直いって不安だったの。こんな高校生のお嬢さんが、どうしてらざわざ辛い思いをしたがるのかしら・・・って。こんなこと言ったら、由花ちゃんにおこられちゃうかもしれないけど、最初は、”恋愛ごっこ”かな・・・なんて思ったのよ」

「恋愛ごっこ・・・?」「ごめんなさい。だけど正直な話・・・。きっと現実の厳しさを見たら、すぐにイヤ気がさして病院に来なくなるだろう・・・なんて、主人とも話してたの。でも・・・」

シュンチのお母さんが、きっぱりと言う。「由花ちゃんは、ずっと峻一を見ていてくれた」「・・・」「親の私たちでさえ目をそむけたくなるような辛い時も。由花ちゃんは、ちゃんと峻一を見ていてくれたものね」・・・・



中学の時由花と俊一は仲の善い友達だった。峻一は皆から好かれる陸上の走り高跳びの選手だったが由花の転校があってそれっきりになっていた。

由花は高校になってから看護科のコースを選択し病院実習で児童担当になった。言うことを効かない患者の子供を追っかけていて偶然にもその子のぶつかった外科の患者が峻一だった。

二人はここぞとばかりにいままでの思いをぶつけあって仲の良い恋人同士になれた。峻一の怪我はバイク事故、それも高跳びの成績が伸びずむしゃくしゃしての事故だった。

しかしそのことによって峻一の骨髄肉腫の病気が判明した。勿論高跳びの成績が伸び悩んでいた理由のひとつだった。


死を覚悟した峻一は由花を避けた、もうここに来るな・・と。しかし看護科を志した由花は最後まで寄り添わせてくれと「それが私を看護科に向かう気持ちだから」と言って峻一や家族を説得する。

最初のうちは確かに、峻一のお母さんが危惧したような”恋愛ごっこ”だったかもしれない。しかし、次第に由花が急に自覚を持った責任ある大人に急成長していく。短編ではあるが素晴らしい作品に感動した。

競泳の池江璃花子選手が厄介な病に立ち向かうと自身のブログに公表した。沢山の感動を彼女から戴いたが、今度は実に素晴らしい報告を聞く日を辛抱強く待ちたい。


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  [No. 424 ]    2月  6日


   講談社
「Aではない君と」薬丸 岳
2017年作・307ページ

・・・ペロを殺させたというのか。

「唯一自分のことをわかってくれる友達だと思っていたのに裏切られたって・・・もう生きていく気力が無くなったから死んでやるって。

ぼくにとっても優斗が一番大事だからそんなこと言わないでって止めた。そしたら、じゃあ、それを証明してくれって。大切にしているペロをなくしてくれって。

ぼくのほうが大切だったら、できて当たり前だろう、って」「それでペロを・・・」

「優斗のことは大切だけど、ペロのことも大切だって言った。だけど・・・何であんなことしちゃったんだろう。ぼくが馬鹿だった。あいつは僕が一番の友達だって言ってたけどそんなことなかったんだ・・・」



14歳の仲のいい友達同士なのに翼はクラスメートの優斗くんをナイフで刺し殺してしまった。

翼の両親は事情があって離婚し、翼は母と一緒に暮らしていた。父親の吉永はそんなことがあっても息子には愛情をもっていた。吉永の勤める建築会社のプロジェクトで今一番忙しいときにこんな事件が勃発した。

優斗の父親は弁護士をしていたが母をがんで亡くした後父親の後妻との間に愛情を充分に受けることができないでいた。


各地で14歳前後の子供たちの目をそむけたくなるような残虐な事件が相次いで起こっている。この事件も共通した点は両親の愛情を充分に受けられなかった子供、と言うことでしょう。

少年から青年になる過程で考えることと現実の精神的、肉体的ギャップがコントロール不能になってしまったことなのでしょう。

「ぼくはあいつに心を殺されたんだ。それでも殺しちゃいけなかったの?」吉永は翼に諭す「優斗くんが翼にさせたことも許されるわけじゃない。心も、からだも、傷つけちゃいけないんだ」


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  [No. 423 ]    1月 11日


   講談社
「ひそやかな花園」角田光代
2014年作・336ページ

・・・あの集まりは、母親同士が友達だったとか、産院で知り合ったとか、そんなことではない。どの家族も一つの共通点を持っており、それ故に集まったのだと賢人は言った。

「なんの共通点なの」樹里が訊くと、賢人は樹里を見据えたまま、「あそこにいた母親たちは全員、人工授精で子供を産んでいる」と、言った。

意外ではあったが、驚くには及ばなかった。子どもを産むか生まないか、実際の問題として抱えている樹里にとって、人工授精と言うのはさほど突飛なことではなかった。

妊娠しづらければそういう方法も考えて当然だろう。あ、と声を出しそうにもなった。妊娠しづらかった母の娘だから私は子宮内膜症にかかったのではないか、そこに何か遺伝的要素はないのだろうか。そんなふうに思ったのである。

そして妊娠しないことへの納得できる理由をさがしている自分に、そんなところで樹里は気づかされた。・・・



紗有美は5歳から10歳までの夏を、木々に囲まれた大きなウッドハウスで楽しく過ごした記憶がある。そこには幾家族もが集まって子供たち同志はまるで兄弟でもあるかのようにして過ごした。

彼女は高校に上がってその思い出を母に訊ねると意外にも母からは「そんなところに連れて行ったことはありません・・」母は確実に知っているはずなのに・・・


これはそのどの家庭でも同じようなことで封印されてしまった。実はこのグループの共通点は父親に生殖能力がなく他人の精子による体外受精によって子が授かった家族同士だったのだ。

しかし子が成長するに従って父親の存在意識に大きな変化が現れてほとんどの家庭は崩壊してしまう。残された子供同士が何とかその真相を探ろうとしたが大きな障害が立ちはだかる。

実はこの医療行為は医学会はともかく大きな社会問題となった。医師は医師会から除名処分を受けた、しかしこの医師は自分の信念は曲げない、これは社会の要望なのだと。

トンビが鷹を生んだ・・などと比喩する言葉もあるがその原因を知る父親の心境は当時の子が授かれば・・という願望だったはずを超越して苦悩する。考えさせられる小説だ。


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