Since 2008/ 5/23 . To the deceased wife

わけがありまして「読後かんそう文」一歩一歩書き留めていきます。

妻の生前、展覧会の鑑賞や陶芸の町を見学したりと共にした楽しかった話題は多くありました。
読書家だった妻とそうでない私は書物や作家、ストーリーについて、話題を共有し語り合ったことはありません。
悲しいかな私は学生時代以来・・半世紀近くも小説や文学作品を読んだことが無かったのです。
妻から進められていた本をパラパラとめくり始めたのをきっかけに・・・

先にある”もっと永い人生・・・”かの地を訪れるとき、共通の話題を手土産にと思って。

「幸三郎の世界」ページに戻る


<<2018年度・読後感想文索引>>
読書順番作家・書店 書名読み切り日
N0.422田辺聖子・講談社□□「 言 い 寄 る 」12月31日
N0.421山崎ナオ・河出文庫□□「 人 の セ ッ ク ス を 笑 う な 」12月17日
N0.420磯崎憲一郎・河出書房□□「 肝 心 の 子 供 」12月14日
N0.419佐藤洋二郎・小学館□□「 妻 籠 め 」12月 8日
N0.418奥田英朗・集英社□□「 我 が 家 の ヒ ミ ツ 」11月15日
N0.417三島有紀子・ポプラ社□□「 し あ わ せ の パ ン 」11月 2日
N0.416絲山秋子・新潮文庫□□「 薄  情 」10月25日
N0.415朝井まかて・徳間書房□□「 雲 上 雲 下 」10月19日
N0.414下村敦史・講談社□□「 失  踪  者 」10月 4日
N0.413原田マハ・幻冬舎□□「 た ゆ た え ど も 沈 ま ず 」 9月15日
N0.412青山七恵・河出書房□□「 窓  の  灯 」 9月11日
N0.411宮下奈都・文芸春秋□□「 羊 と 鋼 の 森 」 9月 2日
N0.410若竹千佐子・河出書房□□「 お ら お ら で ひ と り い ぐ も 」 8月28日
N0.409高橋弘希・文芸春秋□□「 送 り 火 」 8月18日
N0.408柚木麻子・幻冬舎□□「 伊 藤 く ん  A  to  E 」 8月17日
N0.407内館牧子・講談社□□「 終 わ っ た 人 」 8月15日
N0.406山口恵以子・実業之□□「 工 場 の お ば ちゃ ん 」 8月12日
N0.405島本理生・文芸春秋□□「 ファ ー ス ト ラ ブ 」 8月10日
N0.404山本謙一・淡交社□□「 利 休 の 風 景 」 8月 8日
N0.403中村文則・幻冬舎□□「 去年の冬、きみと別れ 」 8月 5日
N0.402宮下奈都・幻冬舎□□「 ふ た つ の し る し 」 7月30日
N0.401浅田次郎・講談社□□「 天 子 蒙 塵 」 7月25日
N0.400山崎豊子・新潮社□□「 花 の れ ん 」 7月 3日
N0.399白石一文・祥伝社文庫□□「 ほ か な ら ぬ 人 へ 」  6月27日
N0.398多岐川恭・河出書房□□「 落  ち  る 」 6月11日
N0.397森田誠吾・新潮社□□「 魚 河 岸 も の が た り 」 5月29日
N0.396渡辺淳一・文春文庫□□「 光 と 影 」 5月22日
N0.395高橋 治・講談社□□「 秘  伝 」 5月10日
N0.394色川武大・文春文庫□□「 離  婚 」 4月25日
N0.393青島幸男・新潮社□□「 人 間 万 事 塞 翁 が 丙 馬 」 4月22日
N0.392朱川湊人・文春文庫□□ 「 花 ま ん ま 」 3月29日
N0.391葉室 鱗・幻冬舎□□ 「 潮 騒 は る か 」 3月15日
N0.390浅田次郎・双葉社□□「 神 座 す 山 の 物 語 」 3月 8日
N0.389大崎 梢・創元推理文庫□□「 配 達 赤 ず き ん 」 3月 1日
N0.388若竹七海・文春文庫□□「 依 頼 人 は 死 ん だ 」 2月15日
N0.387青山文平・徳間文庫□□「 鬼 は も と よ り 」 2月 5日
N0.386角田光代・小学館□□「 私 た ち に は 物 語 が あ る 」 1月25日
N0.385三浦しをん・集英社□□「 政  と  源 」 1月10日

  [No. 422 ]   12月 31日


   講談社
「言い寄る」田辺聖子
2010年作・272ページ

友人の美美が「あいての男」から金を巻き上げる交渉に、私もついていってくれ、というから、ついていくことにした。

「あたし、気が弱いトコあるから、言いくるめられたら、ソレもそうか、とおもっちゃう」と美美はいう。美美は「あいての男」から早くいうと捨てられたのであるらしい。

結婚するというから「仲良く」なったのに、この頃では結婚のケの字もいわないどころか、電話しても、「居留守を使うし、会社の前で待ち伏せしていると逃げていくし、家へ乗り込んでると、まわれ右してにげちゃう」のだそうだ。

「そうか、それは仕方ないね、もう花火を打ち上げたんやから、一巻の終わり、というトコやね」と私が慰めると、美美は素直に、

「うん、花火大会はもう終わったんだ」と認めた。・・・



美美に付いていってあげたら「あいての男」も付き添いがいた。そいつは結構お金持ちで不良っぽいがいい男だった。

結局私はその男に誘われるままに別荘に行ってしまった。まあお互いに遊ぶ気なのであと腐れはなかった・・・


なんともいとも簡単な性風俗と言うしかないだろう。世の中の男女関係ってそんなに淫らなのだろうか。

つまり作家がそんな扇動的なことを書いて世相をかき回しているだけなのかもしれない。今年の漢字は・・災・・か。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 421 ]   12月 17日


   河出文庫
「人のセックスを笑うな」山崎ナオコーラ
2007年作・83ページ

・・・彼女はオレの通う美術の専門学校で講師をしていた。油絵を勉強したかったオレは、高校を出たあと一年間予備校に通っていたから、三年制の学校に入った。

十九の時にユリと、出会った。デッサンUの授業の先生だったのだ。そのとき彼女は三十九歳で、まあ、見た目も三十九歳だった。髪は長く真黒で、パーマをかけていたけれど、ほったらかしのぼさぼさで、化粧も口紅ぐらいしかしていないようだった。汚れたスモックを着てニコニコ笑っていた。

授業にはいつも遅れてやってくる。やる気があるようには見えない。それでも冗談の飛び交う授業には人気があった。先生は「猪熊サユリ」というのが本名だったけれど、男の子も女の子も、皆「ユリちゃん」と呼んでいた。・・・



クラスメイトの堂本のお気に入りだったユリちゃんが呑み会に参加してくれるのでオマエも来ないか・・と誘われたので喜んで出席した。

終わった後、偶然にもユリちゃんがオレに「ちょっと駅のまわりを一周したいんだけど」というのであわてて後を追った・・。「私、君のこと好きなんだよ。しってた?」・・・


美術の専門学校・・というと少しばかり私も胸にキュン!とくるものがある。ただここの専門学校は真剣に美術を研究しようという雰囲気は感じられない。親のすねかじりの延長の場所か?

この時期に二十歳も年上の女性に恋心を持つことに不思議な心理状態を感じ、むしろ汚さを覚えてしまう。しかも「・・まあ、見た目も三十九歳だった」っていうからこの主人公のセックスを大笑いしてしまう。

ひょっとして・・作家を調べてみたら、何のことは無い。作家自身がその歳で若いツバメを欲しがるような視点で書かれたのではないかと疑ってしまった。

私の画学生だった頃はもっと純粋に学業に燃え男も女も絵と心中してもかまわない・・と言うような友だちばかりだったな〜。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 420 ]   12月 14日


   河出書房
「肝心の子供」磯崎憲一郎
2015年作・170ページ

・・・「つくづく不思議なことに、子というものは、生まれたときからすぐに子なのです。王子が王になるのも、武士が弓術の名手になるのも、修行者がバラノン(高僧)になるのも一日一晩で達成されるものではない。

夫婦も、結婚をしてすぐに夫婦になるわけではないでしょう。どんな者になるのでもある時間の幅が必要なのに、ありとあらゆる人と人との関係の中で、親子だけが、子が生まれたまさにその瞬間から親子となってしまう。

これはいったいなぜなのか?」・・・



小さな国の王子として生まれたブッダは結婚をして子供が生まれたときに悩んだ。もはや自分の役目は終わったんではないか・・・

そして出家をして修行をする。子どもであった王子ラフーラもまた父の足跡をなぞるように、またその子どもティッサ・メッティアも出家する・・。


この短い小説の中にブッダが仏教の道を開いて親子三代にわたる壮絶な布教活動があったであろうことには一切触れていない。

そして多くの信徒を従えて共に修業した様子も一切書かれていない。

実に不可解な小説にぶつかってしまった。世界三大宗教祖師の行状は王宮から突如失踪したところまでの悩みの一端を記しただけである。

興味があったら自分で調べろ・・と言うことでしょうか。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 419 ]   12月 08日


   小学館
「妻 籠 め」佐藤洋二郎
2016年作・173ページ

・・・わたしはそんなことを思いながら、またあの神父のことを思い浮かべたが、信じた神と好きになった女性の狭間で、どんな生き方をしているのか。悩めば苦しむ。苦しめば幸福を感受できない。あの二人は人生にどう折り合いをつけて生きているのだろう。

「行ってみましょうか」わたしは唐突にそうしゃべっていた。真琴の表情が急に華やいだ。予期せぬことだったのだ。そしてそのことを一番感じたのは、わたし自身だった。なぜあんな言葉を呟いてしまったのか。彼女の熱のある言葉に負けたというのか。

「本当ですよね」真琴は頬を上気させている。彼女にもわたしの言葉は驚きだったのだ。人生にははずみというものもあります。なにがあっても受け入れるのが人生です。・・・

わたしは真琴への返答に邪心が混じっていることを悟った。そしてまた恥じた。自分が深い懺悔をする姿が見えたのだ。・・・・



主人公のわたしは大学で教鞭をとっていた。わたしの講座で4〜50人いる生徒に問いかけた。「もし神社仏閣を尋ねる旅を希望する者がいればついてきても良い・・」

或る日、研究室に國分真琴という生徒が尋ねて来た。「何時かの旅に連れて行ってもらえる話ですが貯金もして準備はできています・・」と。

わたしは唖然とした。まさかこんなことに興味のある学生がしかも女性がいるとは思わなかったことだ。そう言えば確かに講座の中に美しい生徒がいて目を輝かせていた記憶はあった。

それに、私は40も過ぎた男ではあるがまだ独身だ。生徒と先生の関係だと言っても世間体を考えればとても二人で出かけられるわけがないだろう・・・

わたしがまだ学生だった頃、旅をしていて文学青年と知り合った。朝倉駿介という青年であったが彼は東京でわたしを見ているというのだ。

わたしがジャン神父との交流で仏教にも詳しいフランス人で学生にも人気者があり、その輪の中にいたことがあるという。

わたしは島根の出雲地方を真琴とふたりで旅をした。今は亡くなってしまったという真琴の父親の名を朝倉駿介と知った時、わたしの驚きは彼女以上のものだった


佐藤さんは幼少期にこの出雲地方で過ごしているという。出てくる地名と神の国以来の伝説などが愛情深く織りなされた小説になっていて読む私を出雲へいざなうようであった。「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作る」


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 418 ]   11月 15日


   集英社
「我が家のヒミツ」奥田英朗
2015年作・242ページ

朝イチで電話をかけてきた患者は、「ゆうべから親知らずが痛くて我慢できないので、これから行ってもいいですか」と苦しげな声で訴えた。グリーン歯科医院は予約制なので、今日だと午後二時からでないと診察できない旨を告げると、「それでもいいです」と言うので、リストに名前を書き込んだ。

「お名前をフルネームでいただけますか」「オオニシフミオと言います」その名前を聞いて、敦美はドキリとした。まさか、同姓同名だとは思うのだが・・・。

しかし、午後二時5分前にやってきた患者は、ピアニストの大西文雄本人であった。敦美は何年も前からこのピアニストのファンだったのだ。

うそ、こんなことあるんだと面食らい、ファンなんですと話しかけそうになったが、言葉をぐっと呑み込み、何食わぬ顔で受付の仕事をこなした。・・・・



敦美は結婚を機に大手の信販会社を退職し、暫く専業主婦をしていたが中々子供が授からないので、再び働くことにして見つけた仕事である。

クラシック演奏家なんて、ファンの輪から離れると恐ろしいほど世間の認知度は低い。世間の有名人はテレビに出る人だ。大西さんはシャイなのか、偏屈なのか、あまりメディアには出て来ない。

クラシック愛好家ならだれでも知っている有名ピアニストが、ステージ以外では一般人として普通に振舞う。そういう自意識から解放された姿がいいなと敦美は思うのである。

大西の演奏スケジュールを知る敦美は次回の予約も極力そこを避けてあげる。しかしさすがに抜歯の後の処置の間どんな顔をして演奏しているんだろう。

月曜日の処置に大西は受付の敦美に「ところで、先週の土曜日、ある場所で小松崎さんにそっくりの女の人を見かけたけど、あれは他人の空似なのかなあ」

大西さんが、今度は敦美の顔をのぞき込んだ。あちゃー、やっぱりばれていたのか。敦美は赤面してしまった。


有名人が一般の世間に埋もれて生活している・、しかしそのことは自分しか知らないはず・・。ってよくあることです。今回は善良な人だから良かったですが、もし先日の様に逃走中の脱走犯が市民の中に紛れてしかも善意を受けていたりなどもあることです。

そんな我が家の秘密を奥田さん特有のユーモアで、しかし落ちはホロリとさせる内容の作品が六編、実に楽しかった。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 417 ]   11月  2日


   ポプラ社文庫
「しあわせのパン」三島有紀子
2011年作・194ページ

拝啓   夏木立の緑濃く、木漏れ日も輝く季節になりました。ずいぶんと時間が経ってしまいましたが、その後いかがお過ごしですか?

私ももうすぐ四十路を迎えます。私の記憶にある貴方様よりも年齢を重ねてしまいました。

信じられないと思いますが、いま私は北海道の月浦という所でパンと珈琲とお料理を出すカフェを営んでいます。貴方様に美味しい珈琲の入れ方を教わっていて本当によかったと感謝しています。

もうひとつ信じられないことをお伝えします。実は、二度しか会ったことのない男性と一緒に始めたんですよ。突然、月浦で暮らそうと言われたときは正直戸惑いましたが、彼が私の大好きな雑貨店と同じ名前だったので、何となく受けてしまいました。

水縞尚さん、いまでは私にとってかけがえのない人です。・・・・



彼と沖縄旅行に行く予定の女性は相手の男性に出発地の羽田で落ち合うはずだったのにすっぽかされて・・衝動的に反対の北海道の月浦にあるカフェ・マーニに泊まって癒される。

離婚して母親が出て行ってしまった小学生の未久は父親との生活になじめず学校でも保健室で過ごすことが多い。しかしカフェ・マーニの温かいスープを父親と食べた時・・ふっと、二人の心が結び合ったことを知る。

神戸震災の後復興を成し遂げた街のお風呂やさん、妻の肺がんは既に末期を迎えていた。苦しむ妻を見かねて二人で死のう・・と月浦にやってきたがカフェ・マーニの温かなもてなしで生きる希望を見出して神戸に帰った。暫くして妻は心静かに息を引き取ったと手紙をもらう・・。

文具店の営業をしていた水縞尚はある日デザイン事務所に行ったときとてもおいしい珈琲を出された。その人がりえさんでした。二度目にお会いしたのは駅のホームで裸足で立っている彼女を見て何かあったな?・・。


カフェ・マーニでお世話になった人たちはごく普通の一般人だと思います。苦境に立たされた人がそこで癒されることによって立ち直ることができた・・よくある話です。

私はむしろ尚さんとりえさんは二回お会いしただけで北海道に移住しよう、しかもそれほど理解し合っていたわけでもない。二人は後にかけがえのない間柄になりますがあまりにも草食系の男女の中を理解できなかった。

この作品は映画化されて若者から好評を得たと言うことです。・・・そうか非現実的世界の美しさ・・と受け止めればいいのかな。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 416 ]   10月 25日


   新潮文庫
「薄情」絲山秋子
2014年作・177ページ

目の回るような年末年始の神社の仕事に区切りがついて、宇田川は年間を通じて出来る仕事探しを考えるようになった。

五月の連休明けから半年間、嬬恋に行きっぱなしになるのは、体力的にも精神的にももはや厳しいと判断したのだ。

伯父の神社で宮司になってもそれだけでは食べていけない。伯父の夫婦は調整区域に畑を持っているが、規模としては家庭菜園に毛が生えた程度のものだった。

老後は売るか、集約して管理してくれるところに貸すことも考えているようだ。跡を継ぐ宇田川の仕事はパートタイムに絞られる。祭りや地鎮祭や冠婚葬祭といった本業が不規則なのだから仕方がない。

不規則で儲けがないのに結婚して跡継ぎも求められる。烏川のほとりでぼうっとしていたら、跡継ぎが入った桃がどんぶらこどんぶらこと流れてこないものか、と思う。・・・・



伯父の跡を継いで宮司になることにして宇田川は國學院大學を出るために東京に住んでいたが群馬県の高崎に戻ってきた。

しかし戻っては来たものの収入の安定していない宮司の仕事以外に嬬恋のキャベツ畑で住み込みとして早朝から過酷な肉体労働をして貯金をして食いつないできた。

キャベツ畑の仕事を終えて高崎に戻ってくると自分のようにUターンしてきた者、東京に住んでいて移り住んできた者、または離婚して戻って来た者、そしてこの土地にずーっと過ごしてきたものが混然となって暮らしている。

そしてそこでの人間関係は一見楽しみを共有したり仲間意識を持ったりするがひとたび不幸があるとまるで見知らぬ人の出来事のようにして時間が過ぎていく。


私は群馬県人ではないけれど客人として群馬県によく行き来しているとも思わない。そしてそこに暮らす人と親密になれたからと言って必ずしも頼れるとも思っていない。

絲山さんはそんな心情を多角的に考察されたと感銘しました。群馬の方言もこの書の中では大切な潤滑油として心地よい響きに聞こえます。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 415 ]   10月 19日


   徳間書房
「雲上雲下」朝井まかて
2018年作・411ページ

深山の木々はまだ芽を吹いたばかり、陽射しは何に阻まれることなく、地上の隅々まで舞い降りる。春鳥の鳴く声を遠くに聞きながら、わしは今日も緑のかいなを充分に伸ばしてあたたまっている。いつの季節も同様で、うらうらと眠ったり起きたりを繰り返して過ごすのが常だ。

かつては山姥や天狗が気紛れにやってきて長々と話し込んでいったものだが、ろくにもてなしをせぬのに機嫌を損ねてか、近頃はもう姿を現さぬようになった。望むところだ・・・。

・・・子狐はわしの根元をぐるぐると駆け回り、鼻面を近づけては嗅ぎ、わしを眺め廻していた。子狐は細い頤を上げ、こちらを見上げる。「草どん」幼い、赤い声だ。「ねえ、草どん」

なに。今、わしに向こうて「草どん」と呼ばわったのか。「聞こえてござるだろう」・・・・



この作品は道に迷ったか子狐が山の中の草むらに話しかける。ここで眠りたいけれど寝付くまで何か昔話でもしてくれないか・・

草むらは面倒ぐさがったがあどけない子狐に促されて遠い昔話をちょっとした。子狐は直ぐに眼を開けて「手を抜かないで真剣に話せ・・」とせっついた。


朝井さんは各地の民話や昔話をこの子狐に話して聞かせる手法で昔話や民話をシュールな幻想世界として残酷なものも面白おかしく伝えてくれている。

その手法は読んでいるうちにふっと、宮沢賢治の童話の世界に踏み込んだ雰囲気を感じさせなくもない。

しかしこの作品を完成させるために実に多くの語り部の皆さんの協力を仰いで再現されたお手間によって新しい世界観をもたらせたと感じる。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 414 ]   10月  4日


   講談社
「失踪者」下村敦史
2018年作・298ページ

・・・「三十もすぎると、人生について考える。俺は常に独りだった。孤独を忘れられたのは、お前ーーヤマミチ(真山道弘)と一緒だった七年間だけだ」

胸が締め付けられる。知らず知らずジョッキを握る手に力が入っているのに気づき、指を解放した。樋口は伏し目がちのまま口を開いた。

「人間関係は積み上げてもいつか崩れる。生活の事情もあるだろう。職場の都合もあるだろう。死別は最大の別れだ。そうなったとき、誰かの喜ぶ顔、照れた顔、励ましの言葉ーーそういうものは過去として次第に記憶から薄れていって、やがて消える。新しい人間関係とその思い出で上書きしていくのは、果たして幸せなんだろうか。俺は今よりあのときなんだ」

樋口と視線が絡まった。真っ直ぐ射貫く眼差しは強く、意志の力を総動員しなければ目を逸らしてしまいそうだった。楽しかった時間。思い出ーー。それが何を指しているか、言われるまでもなくわかっていた。だが、彼との約束を果たせなかった自分には何も言う資格がないだろう。・・・・



同じ大学生にしては抜群のセンスを持った登山家であった樋口に対して真山は強いあこがれを抱いた。しかし樋口は常に孤独を愛し秘かにいずれはK2登頂を果たしたいと願っていた。

樋口はその為に大学をやめてアルバイトをしながら資金集めと鍛錬を続けた。真山は登山用品店に就職し安定した収入と同僚や上司の理解を得て山の世界を続けることができた。

真山も鍛錬し、樋口に帯同できるようにと精進した。ついに二人はザイルで結びあってK2を目指すことを誓い合った。しかしその直前、真山の会社が傾いて山どころではなくなってしまった。そしてK2の約束を果たせなくなってしまった。


山に登ってザイルで結びあう・・、つまり一心同体の間柄である。多くの悲劇の中には自然現象もあるがお互いの心の乱れによる不幸も見過ごすことはできない。そしてもしもの時相棒を気遣って自らそのザイルにナイフを入れて犠牲になることもする。

この作品の中には更にミステリーを含ませた作品に仕上げていて飽きることなく読み通してしまった。作家自身がアルピニストでなければこれほどの作品が書けないのではと思ってしまうほどの迫力が感じられた。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 413 ]    9月 15日


   幻冬舎
「たゆたえども沈まず」原田マハ
2017年作・422ページ

・・・「耳切事件の前科者」・・・テオは重吉に打ち明けた。もはや自分には試す術が無いのだと。

入院中のフィンセントは、たびたび失神したり、一時的な健忘症になったりしているようだった。それでも、たったひとつ続けていることが、絵を描くことだった。

そんな状態になってすら、彼は絵を描くことをやめようとはしなかった。自分の意志で心臓を止めることができないのと同様に。

兄に異変が起きるたびに、テオはすぐにでもアルルへ飛んでいきたいと思いつつ、画廊の仕事、結婚の準備、金の工面など、片付けなければならないさまざまなことがそれを許さなかった。テオは、なおも律儀に送られてくる作品の数々と引き換えに兄への仕送りを続けながら、励ましの手紙を書いた。

そして、そこに結婚の知らせをさりげなくすべりこませた。僕がしあわせになることを、兄さんもどうか祝福してほしい、と。・・・・



明治の初め、日本の画商である林忠正は日本では茶碗の包みにしか使われなかった浮世絵を大量に仕入れてフランスで売った。たちまちヨーロッパでは素晴らしい東洋の美術品としてもてはやされた。

パリ万博との相乗効果もあって日本美術ブームはジャポニズムと呼ばれいち早く新進画家たちを筆頭に瞬く間に虜にしてしまった。その表現は単純な平面に大胆な色遣いと画面構成が今までのアカデミックな画法と異なり殊更に革新的に感じられた。

万博を手伝え・・と言われて日本から加納重吉青年が呼ばれた。重吉の人懐っこい性格から画商仲間のテオとは直ぐに友人同士となった。そして彼の兄、ゴッホを知り忠正にも紹介した。


この作品では忠正がゴッホの才能を見出したにもかかわらず、テオとゴッホへの資金的援助は一切していなかったし、その作品の一点でも所蔵した形跡がない。やはり原田さんのフィクションには少し無理を感じた。

しかし作品全体の構成は実に魅力ある表現と興味に誘われて一気読みしてしまった。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 412 ]    9月 11日


   河出書房
「窓の灯」青山七恵
2015年作・ 98ページ

カーテンが揺れている。蛍光灯の白い灯に満ちた、少し横長の窓。その部屋のテレビからもれる大勢の男女の声は、夜の空気にとけて私の耳まで届く。

彼らはいったい何を笑うんだろう。粗いレースのカーテン越しの、はっきりしない横顔。その人は時折声をあげて笑う。すると、私の口元も少しだけ緩む。

湿った風がカーテンを揺らすたび、髪の毛が目に入って邪魔だった。夜の風はひからびた果物みたいな匂いがする。テレビの無数の笑い声と重なって、また彼が笑った。

今度は私も声を出して笑う。瞬間、彼は体を横に倒してふっと窓枠から消えた。空になった部屋に笑い声と拍手だけが残った。

前髪を額に押し付けた手をそのまま前に伸ばしてみても、どこにもさわれそうにない。・・・・



大学を中退して行き場のなかったマリモを思いきってスナックの住み込みで使ってくれるお姉さんからあてがわれたアパート。

軒をくっつけ合う隣との距離も近くこちらが窓を開けて解放感に浸れるのは向かい側の住人が不在で窓がしまっているときだけだ。


我が家も現在の所に最初の家を建てた45年前ころは周囲に全く家もない植木畑の真ん中だった。その時の写真からは想像もつかないくらい多くの住宅に囲まれてしまった。

近隣との窓は遠慮もあってそして開けたもの勝ち・・の感じもする。一方が明ければ一方は遠慮したりカーテンで遮ったり・・

そんな窓を青山さんは若い女性の眼で近隣との感情が興味深かった。時としては犯罪にまで発展しかねないシチュエーションを哀愁ある作品に纏めた。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 411 ]    9月  2日


   文芸春秋
「羊と鋼の森」宮下奈都
2015年作・211ページ

・・・「学問と言えば、天文学と音楽だったんだって。つまりギリシャ時代には天文学と音楽を研究すれば、世界が解明できるってこと。そう信じられていたんだ」

「はあ」「音楽は、根源なんだよ、外村くん」ギリシャ時代には、天文学と音楽で世界が成り立っていたのだろうか。それはずいぶん美しい世界に思えるけれど、ギリシャ時代のひとって実際は戦ってばかりいた印象がある。

「星座の数、幾つあるか知ってる?」「いえ」首を振ると、秋野さんはチョット得意そうな笑みを浮かべた。「八十八なんだな、これが」

そういえば、小学生の頃、理科の授業で星座について習ったとき、不思議に思ったものだ。大きく見える星と星を結んで、形を作って、名前を付ける。でも、その星と星の間にも、細かい砂のような星がざぁっと広がって光っている。

僕たちはそれをちゃんと肉眼で見ることができた。それらを無視して、無理やり形を作ることはできない。無数の砂粒から八十八しか星座が作れないなんてずいぶん乱暴な話じゃないか。

そう思いながらも、少しわかる。天文学と音楽が世界の基礎だという説にうなずこうとしている。無数の星々の間からいくつかを抽出して星座とする。調律も似ている。・・・・



外村は高校二年の夏、担任から用を言い使った。丁度来客時間に職員会議になってしまったので体育館のピアノの調律をお願いしてある業者さんをそこまで案内してくれ・・と。

気楽に請け負ってピアノのある場所にその人を案内した。「調律・・って、何なんだ?」ちょっと気になって暫くその作業を見ていた。


音楽に一切興味のなかった外村は以来、調律師になることを決意した。無数にある星の中から必要な星だけ見つけ出して線で結んでいく仕事・・に遠大な夢を見たのでした。

私も絵を描くことが好きな人間ですが色彩を選ぶとき無限にある色の組み合わせの楽しさ、そんな遠大な自由さの魅力を満喫できる幸せを感じている。

宮下さんの優しい表現力は読んでいても外村君の調律に対する下向きさがひしひしと伝わってきて楽しいひと時を過ごした。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 410 ]    8月 28日


   河出書房
「おらおらでひとりいぐも」若竹千佐子
2017年作・125ページ

・・・周造が死んだ、死んでしまった。おらのもっともつらく耐え難いとぎに、おらの心を鼓舞するものがある。おらがどん底のとぎ、自由に生きろと内側から励ました。

あのとぎ、おらは見つけでしまったのす。喜んでいる、自分の心を。んだ。おらは周造の死を喜んでいる。そういう自分もいる。それが分がった。隠し続けてきた自分の底の心が、ぎりぎりのとぎに浮上したんだなす。不思議なもんだでば、心ってやつは。

愛だの恋だのおらには借り物の言葉だ。そんな言葉で言いたくない。周造は惚れだ男だった。惚れぬいだ男だった。それでも周造の死に一点の喜びがあった。おらは独りで生きでみたがったのす。思い通りに我の力で生きでみたがった。それがおらだ。おらどいう人間だった。

なんと業の深いおらだったか。それでもおらは自分を責めね。責めではなんね。周造とおらは繋がっている。今でも繋がっている。周造はおらを独り生がせるために死んだ。はがらいなんだ。

周造のはがらい、それがら、その向こうに透かして見える大っきなもののはがらい。それが周造の死を受け入れるためにおらが見つけた、意味だのす。・・・・



今年上期63歳で作家デビューを果たした専業主婦の若竹さんのこの作品が芥川賞に決まりました。若竹さん自身は夫を病気で亡くし、息子さんの勧めで文学講座を受けてから作家に手を染めた方です。

作品では74歳の桃子さんが夫の周造を病気で亡くしたのは自分が夫への体調を思いやる気遣いが足りなかった、と自責の念にかられてふさぎ込む毎日だった。しかし日が経つにつれ前向きに生きていこうと心の転換をしていく様子が生き生きと描かれている。


わたし自身、女と男の違いはありますが全く同じ境遇で独り身になってしまった。その心のよりどころへのたどり方に可成り共感するものを感じる。しかし、若竹さんにはまだ分からないであろう後10年後の葛藤に先輩として作品の甘さを私は感じる。

奇しくも、来週から東北方面への旅に出かける。この作品の遠野あたりも鈍行の電車で通る、こんな綺麗な東北弁が聞けることができるか大変楽しみだ。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 409 ]    8月 18日


   文芸春秋
「送 り 火」高橋弘希
2015年作・125ページ

・・・帰路、二人は橋の親柱の近くに刺さっていた橡の木杭に、蝉の幼虫を見つけた。幼虫は羽化を始めたところだった。

幼虫の褐色の全身が収斂と膨張を繰り返し、やがて背が一文字に裂け、内側から蛍光色の成虫が、服を脱ぐように迫りだしてくる。二人は足を止め、蝉を覗き込むように屈み込み、少年の眼でその一瞬を見ようとした。

七年間を地中で過ごし、地上へと現れ、成虫へ羽化する、その一瞬だった。やがて成虫の内側から、エメラルド色の柔らかな薄翅が捲れ上がる。その二枚の薄翅を広げようというところで、成虫は動きを止めた。ある瞬間に、蝉はその薄翅を、ぱっと花咲くように広げるだろう。

歩はその一瞬を見逃さないために、瞬きすら惜しんだ。しかしどうしたわけか、成虫は殻から半身を覘かせた状態で、一向に動かない。拍動していた胴体も、事切れるように最後の一打ちをすると、完全に停止した。二人はその後も長い間、蝉が翅を開く刹那を待っていた。二つの小豆色の複眼が、もう何も見ていないことを、歩は理解した。

隣を見ると、晃ほもう少年の眼をしていなかった。眉根を寄せ、唇を固く結び、その切れ長の目の中の瞳には、暗い陰りと火の熱が同時に宿っていた。晃は右手で蝉を杭から引きはがすと、橋を一人で歩いて行った。そして橋の中央に達すると、欄干の向こうへ右手を伸ばし、掌を開いた。・・・・



父の転勤に伴って歩は東北の田舎の中学校に編入された。クラスの番長格の晃ともうまくやっていたが晃の性格は歩にとってもう少しつかみどころのない不気味さがあった。

この抜粋文章でもお分かりのように物分かりのよさそうな晃も信長的性格が随所に現れて時々読んでいても冷や冷やする場面が登場する。

15歳・・、中学生の悲惨な残虐性があらわになる。同じ仲間でも生命に対して昆虫同様な意識しか感じられない感情を少年の眼を通して作品に仕上げた。

この作品は今年の芥川賞になった。近年目を覆いたくなるような少年同士の残虐な殺傷事件が多発している、そんな状況を同じレベルで表現したところで何か虚しさを感じる。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 408 ]    8月 17日


   幻冬舎
「伊藤くん A to E」柚木麻子
2013年作・272ページ

・・・「当たり前ですよ、島原さん。うちみたいなマイナーな国内ブランドで二十万円を使うなら、プラダにいきますって」

後輩の三好ちゃんは八重歯を見せて笑った。大阪出身の彼女はこの鞄をなぜか「ハンキュー」と呼ぶ。茶色で光沢のある外見が、京阪神をつなぐ阪急電車によく似ているからだそうだ。

「このコ、私みたいだよね」三好ちゃんに聞こえないよう小さくいった。ハンキューが売れたら伊藤君の正式な恋人になれる、と智子は密かに願をかけている。

社会人になりたての頃に合コンで出会い、もう五年が経とうとしている。こんなに長い付き合いなのに、実際にあった回数は驚くほど少ない。普通のカップルに換算すれば、交際歴三週間といったところだろうか。

二ヵ月に一度連絡が来ればいい方なのだ。こちらから会ってとねだらなければ動いてさえくれない。・・・・



伊藤君は某大学を卒業して都内の塾講師のアルバイトをしている。題名のA to E という通り5人の女性から見た伊藤君の側面を浮き彫りにしている。

彼は千葉県の大地主の息子、一見性格は草食系ではあるが気に入った女性にはかなり付け込むが普段に付き合う女性には至って淡泊。


この作品は伊藤君が主人公であるのに彼の核心に中々近づかない。彼の望む放送作家の先輩や仲間を通して彼の可能性を描くもののちょっとピンボケな感じがする。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 407 ]    8月 15日


   講談社
「終わった人」内館牧子
2015年作・365ページ

定年って生前葬だな。俺は、専務取締役室で、机の置時計を見ながらそう思った。後二十分で終業のチャイムが鳴る。それと同時に、俺の四十年にわたるサラリーマン生活が終わる。六十三歳、定年だ。

明日からどうするのだろう。何をして一日をつぶす、いや、過ごすのだろう。

「定年後は思い切り好きなことができる」だの、「定年後が楽しみ。第二のスタート」だのと、利いた風な口をたたく輩は少なくない。だが、負け惜しみとしか思えない。それが自分を鼓舞する痛い言葉にしか聞こえてこないことに、ヤツラは気付きもしないのだ。

六十三歳、まだ頭も体も元気だ。いくらでも使えるし、このまま専務として残っても、ほかのヤツらよりずっと働ける。

会社の外には、すでにハイヤーが俺を待っているだろう。定年を迎える最後の日だけ、地位に関係なく男子社員も女子社員も、黒塗りのハイヤーで自宅に送ってもらえる。・・・・



田代壮介は大手メガバンクの先端を走る社員だった。しかし、人脈や運もあって子会社に転出し専務どまりで定年を迎えた。

かれは一心不乱に仕事に打ち込んできた。一般のサラリーマンの定年に際してよく言うソフトランディングなんて考えられなかった。穏やかで楽しい余生が楽しめないタチだ。


田代はまだ出来ると、かなり無理をした結果大切な老後の資金までも失ってしまった。そしてそこで初めて気が付いた、地位も金もなくなってはじめて自分の生きる方向を。

さて、自分に置き換えてみると確かにソフトランディングは完ぺきだった。そして、それは長年連れ添った妻とともに対する老後の設計だった。しかしその計画は練り直さなければならなかったことを知る。

私の妻は病死、私は一人で生きる決意をした。田代は離婚ではなく卒婚・・という道を選んで別居した。いずれも老後一人で生きていく覚悟がないと単なる死を待つ老後でしかない。考えさせられる作品だった。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 406 ]    8月 12日


    実業之日本社
「工場のおばちゃん」(あしたの朝子)山口恵以子
2015年作・360ページ

・・・さすがに、朝子も何かあると疑い始めた。「ねえ、パパ。本当のことを言ってよ。いったいどうなってるの?」

勝弥ももう言い訳は通用しないと観念したのか、事実を打ち明けた。「実は、今年になってから、注文がなくなった」「・・・どういうこと?」

「松浦も、大阪の橋爪も、うちの鋏を買ってくれなくなったんだよ」「なぜ?どうして」朝子にはまだ事態が飲み込めなかった。朝子が谷口家に嫁いで以来、問屋の松浦と橋爪からは「もっとおたくの鋏を納品してくれ」という催促以外のれんらくはなかったのだ。それが今になって剪刀齋谷弥の鋏は要らないとは、どういうことだろう?

「ビートルズの影響で、長髪が流行り始めただろう。ああいう髪型のカットに、うちの鋏は向かないということらしい」「・・・そんなバカな!」

鋏にはまったくの素人だったが、朝子は憤りを感じて叫んでいた。弥次郎の造った鋏が否定されるなど、ありえないと思った。ひたすら鋏造りと向き合い、努力を重ねて業を磨いてきた半生だった。現代の名工は伊達ではない。それが・・・・



この本の作者の母、谷口朝子の半生を娘が「あしたの朝子」という作品にした。朝子は千葉県館山の老舗旅館の娘だったハイカラな父の影響で新しいものに興味を持つ。

ソプラノ歌手を目指したが扁桃腺の手術でその望みを絶たれ、それでも声優になりたい・・と東京に出た。しかし下町の床鋏みの製造工場主に結婚を求められる。


先代の鋏は高く評価されていたが時代とともに寂れた。「三丁目の夕日」とダブった時代背景、日本の復興とそして現代の下町産業の衰退。朝子の強くたくましいその半生を娘が鮮やかに謳い上げた作品ではないでしょうか。

その母、朝子も90歳となった、娘ももう還暦。しかし山口にとってこの本を母に見せたら面白く書いてくれたと喜ばれたのが嬉しかったと。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 405 ]    8月 10日


    文芸春秋
「ファーストラブ」島本理生
2016年作・272ページ

・・・スタジオの眩しすぎる照明の下では今が深夜だということを忘れそうになる。

「真壁先生は日ごろからカウンセリングを通して、引きこもりのお子さんやその親御さんに向き合われているんですよね。真壁先生の目から見て、最近何か気付かれたことはありますか?』

私は表情を引き締めて、そうですね、と答えた「皆さん、愛とは与えるものだと思ってらっしゃいますよね。じつは、それが原因だったりすることもあるんです」

「え? いや、それは間違いなんでしょうか?」「決して間違いではないんですけど、正しくは、愛とは見守ること、なんです」

「しかし先生、見ているだけなら、いつまでたっても状況は変わらないんじゃないですか?」

「ひきこもりのお子さんを抱える親御さんに多いのが過剰にお子さんに気を向けすぎてしまっていることなんです。それって一見、子供想いに思えますよね。だけどじつは親御さんが先回りしすぎることで、本人の自主的な意思を奪ってしまっている場合があるんです」

森屋敷さんは深々と頷いた。包容力を滲ませた表情につられるように、気付けば熱く語っていた・・・。



臨床心理士になってからすでに9年、真壁由美子は夫と小学高学年の男の子の3人暮らし、写真家だった夫が主に主夫業を担っていた。

出版社から最近起こった事件「女子大学生父親刺殺事件」を本にしたいので執筆してほしいと依頼され拘置所に出向いた。彼女の国選弁護士はなんと大学時代の元カレ、しかもそれは現在の夫の弟であった。


この作品は真壁が女子大生の取材を通して自身の青春期から現在における自分の過程を振り返る回りくどい作品構成だ。今年の直木賞を受賞。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 404 ]    8月  8日


    淡交社
「利休の風景」山本謙一
2013年作・251ページ

・・・利休居士はなぜ、あんなにも美に対して鋭敏な感性を持っていたのか。どうやって、それを身につけたのかーーー。

なぜその点にこだわるかといえば、居士の美学に、あくまでも均整、調和を求める保守性と、そんな保守性を破壊する前衛、異端のダイナミズムとの逆方向の二つのエネルギーを強く感じるからである。

保守的な調和と前衛的な破壊ーーー。両者が、一人の芸術家のなかにあらわれる例は、極めてまれである。

保守的な芸術家は、たいていダイナミズムにかけるので、表現の変化が乏しく、落ち着きすぎていて面白みがない。通俗で平凡で退屈な作品にしかつくれない。

前衛的な芸術家は、情熱のほとばしりのままに、つい表現の過多、過剰に陥りやすい。バランス感覚を欠いていることが多く、へたをすると、うるさく煩わしい作品しかつくれない。

利休居士は、どちらのエネルギーもいたって強い。

居士のしつらえの美学には、まずもって、はなはだ理知的な均整と調和が保たれている・・・。



以前にも山本さんの作品で「利休にたずねよ」を読んだことがある。そして今回は単なる作者の作品としてよりもその背景を克明に追った追及心が鬼気迫る想いで読んだ。

そして、利休はなぜ秀吉に切腹を命じられてそれを受け入れたのか、秀吉は彼が命乞いをしてくることに期待していたにも関わらず・・・

最後に利休の小説にたびたび登場する楽茶碗「長十郎」の作者を継ぐ第15代、楽吉左衛門氏との対談も迫力あるぶつかりとして楽しめた。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 403 ]    8月  5日


    幻冬舎
「去年の冬、きみと別れ」中村文則
2013年作・200ページ

「あなたが殺したのは間違いない。・・・・そうですね?」僕が言っても、男は表情を変えない。上下黒のトレーナーを着、だらけたように、身体を椅子にあずけている。

透明なアクリル板が間になければ、僕は恐怖に感じただろうか?頬が削げ、目がやや落ち窪んでいる。

「・・・僕はずっと疑問に思っているのですが。・・・あなたはなぜ、・・・殺害後、亜希子さんの・・・」

『早まってはいけない』男が言う。表情は相変わらずなかった。悲しんでいるようにも、怒りを覚えているようにも見えない。ただ、疲れていた。この男は、ずっと疲れている。

『僕から逆に質問しようかな』男の声は、アクリル板を隔ててもよく聞こえる。

『覚悟は、…ある?』「え?」あたりが冷えていく。『覚悟はあるのかと、聞いているんだよ』男が真っ直ぐ僕を見ている。さっきから、男は一度も僕の目から視線を逸らさない。

『・・・きみは、僕の内面が知りたい。そうだろう?・・・なぜあんな事件を起こしたのか、その僕の心の奥底が知りたい。・・・でももう、僕の元に、直接面会に来る人間はいないんだよ。・・・これがどういう意味かわかる?』男は顔の他の筋肉を一切動かさず、口だけを動かしている。



木原坂雄大被告は写真家として優れていた。しかし二人もの女性を残虐な方法で殺害したとして死刑が確定して拘置所にいる。

編集者に依頼されて私はその凶悪犯人の供述に基づく取材を始めた。しかしそこには犯人でも知りえない事実があった・・・


ミステリー作品でした。しかし読み終わった後に作者のあとがきがあって、私が一見してこの作品の完結・・と思っていたものの更にどんでん返しの真実があった。

こういった手の作品は絵画でもよくある。全くの作者冥利でうぶな私にはついていけない。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 402 ]    7月 30日


    幻冬舎
「ふたつのしるし」宮下奈都
2014年作・206ページ

・・渡辺先生はこれまでにも沢山の一年生を受け持った。意気揚々と入学してきた一年生のうちの半分くらいの子が、夏休みになるころにはすっかりしょげて自信を無くしてしまうのを見てきた。・・・

・・・そう思いながら三十年近くが立ち、自分の子供が就職したり結婚したり、自身も体調を崩したり治ったり、いろんなことを経て先生の心もいつも真ん中に入られなくなった。

何度も真ん中へ戻ろうとするうちにバネが利きにくくなっている。だからこの頃は、何かを見落としてしまったとしても自分を責めないようにしている。見落としたふりをすることも、実はときたまある。

でも、春になって新しい子供たちを、特に一年生を担任するのはやっぱり新鮮な気分だ。二列に並び、ものめずらしそうに校舎を抜け、中庭を通って、校庭へ向かう子供たち。

校庭の広さ、鉄棒の数、砂場の位置。そういったものに慣れてくれればいい。そういう意図もあった。並んで歩く練習にもなる。春のしるしを探しに行くのは、有意義な時間になるはずだった。

はず、ではなくて、実際に有意義な時間だった。子どもたちは様々な春のしるしを見つけて教室へ戻った、ただ、戻ってみたら、ひとり足りなかった。

「きちんと手をつないで二列で歩きなさいと言ったはずです」先生は叱った。・・・・



柏木はるゆきは校庭の隅でしゃがみこんで蟻の行列に大層興奮して目を見張って観察していた。そうしたらいつの間にかひとりになっていただけのことであった。

大野はるなは中学生、普段の生活で成績も良かったし他人との付き合いも程よくこなし、羨まれることのないようにとそつなく不良を装うったりとそれなりの努力はした。

何年かして、はるゆきは高校の時、母を交通事故で無くしたこともあって中退したあげく家を出て放浪する生活をしていた。

はるなは兄の行っていた同じ大学にに入りたいと言って猛勉強をして見事合格して家を離れる口実を作れた。


この作品は第1話から第6話まであって20年間、はるゆきとはるなという別々の人間を描いている。はるゆきは小学入学時から落ちこぼれの人生を歩み、一方、はるなはとんとん拍子の人生だったかもしれない。

しかし、2011年の宮城沖地震のとき助け合うことになり後に結婚してもう10歳になるませた女の子まで授かった。人はそれぞれ皆違ってていいんじゃないの、優劣なんて大した差ではないよ・・


あらすじ冒頭の渡辺先生はこの作品では端役です。私の小学生は1年から6年まで四角い顔の男の先生でした、卒業でお別れの時「足の隙間で間違って踏みそうになるほど小さな子供たちをどうやって教えていこうかと・・」

そんな言葉を聞くと小学校の先生って聖職だね。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 401 ]    7月 25日


    講談社
「天子蒙塵」浅田次郎
2018年作・338ページ

・・・フェンクレンは唇の赤い実を呑み込んでしまいました。するとたちまち体が重くなり、天に向かって飛び立つどころか、歩むことさえままならなくなってしまったのです。・・

姉は「妹よ、体が軽くなったら天へとお戻りなさい。心配は何もありません」姉たちが茜色の雲居に消えてしまうと、湖のほとりに残されたフェクレンは、心細くてたまらなくなりました。

・・・いったいあの実は何だったのだろう、何やらもわからぬのに、どうして呑み込んでしまったのだろうと、フェクレンは夜空を見上げながら悔やみました。

そうこうするうちにも、体はいよいよ重くなるのです。決して死にはしないとわかってはいても、死なぬ分だけの限りない苦しみがあるように思えて、フェクレンは喉をからして嘆きました。

立っていることもままならずに座り込み、とうとう座ることさえできなくなって、草の褥に身を横たえました。そして長白山の頂が曙に染まるころ、苦しみに泣き叫びながらひとりの男の子を産み落としたのです。

その子はみるみる成長して大地に足を踏みしめて立ち上がり、みずから名乗りを上げました。

「わが姓は愛新覚羅(アイシンギョロ)。わが名はヌルハチ。文殊菩薩(マンジュシュリ)の大御心により、満州の国を統ぶるために生まれた」と。・・・・



この本は第五巻まであるうちの三巻であるが日中戦争前に何があったのか、そしてあれ程隆盛を誇っていた中国がいともたやすく諸外国の餌食になり滅びてしまったのか興味ある作品でした。

日本も北朝鮮も国を統治する為の統治者の家系を神話化し正当性を庶民に示したと思われる。しかしそれ故に後継者としての葛藤が鮮明になってくる。

大陸に野望と夢を抱いて諸外国、そして日本があの手この手を使ってその大陸をわがものにしようと策を巡らせる。

中国の統治者として優れていた張作霜は日本の関東軍の策略に掛かって爆死、子供の張学良は妻子を伴ってヨーロッパへの長い旅に出る。

一方、満州ではラストエンペラーとして薄儀が執政として迎えられいよいよ日本との絆が強まったかに見えた。

壮大な絵巻物語、またこの続きも興味ある浅田魔術に引き込まれそうだ。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 400 ]    7月  3日


    新潮社
「花のれん」山崎豊子
1960年作・382ページ

・・・吉三郎が外で倒れたという報せを受け取ったのは、今朝の二時過ぎであった。言葉にならず、唇だけ動かしている女中のお梅に、「ほんで・・・どこで倒れはった・・・」

恐ろしい予感に耐えながら、駄目を押すと、「へ、新町で・・・」「まさか・・・死にはったいうのんとは・・・」と聞くなり、お梅はせき切ったように声を立てて泣き伏した。

吉三郎は、新町のおしのの妾宅で死んだのであった。多可は、暫く空ろに眼を開いてそこに立ち竦んでいた。体の中に真黒な風が吹き荒れている。何かに支えられないと立っておられないほどの動揺の中で、多加はやっと冷静さをとり戻した。

眼が暗むような悲しみや嗚咽は、次第に激しい憤りと冷静さの下に押しつぶされた。今、多加の心を占めているのは、四晩家を開けて、妾宅で深夜に急死した夫の世間体をどうしてつくろうかということである。そのことのために、多加のもつすべての知恵と神経を凝結させた。・・・・



先代からの呉服屋家業に身の入らなかった吉三郎は妻の目を盗んでは妾の家に入り浸っていた。

そして遊びが高じて芸事が好きなのをいいことに芸事を興行してみたいと言いだした。それを区切りに妻の多加はそれを仕事に打ち込んでくれるならと夫婦して励んだ。

少し軌道に乗りかけると吉三郎はまたもや遊び心がうずきだし遂には妾の家で心臓麻痺で死んでしまう。


区切り・・と言えば山崎さんの作品は私の読書歴400番目の作品にふさわしく仕事に打ち込む女の半生をしっかりと書き上げてくれました。

現在の漫才ブームの礎を築いた上方・・大阪の芸をもっと格安で大衆に見てもらい喜んでもらおうと苦心し花菱亭の隆盛を見た。

私の子供のころ大阪から東京の浅草にその笑いを持ってきたのが多加の作った花菱亭。ですから花菱アチャコ・・とか古川ロッパだとかの芸名をおぼえている。

昨日は東京の落語界の重鎮、桂歌丸師匠がお亡くなりになった。漫才とは違った伝統の話術による笑いも末永く・・と想う。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 399 ]    6月 27日


    祥伝社文庫
「ほかならぬ人へ」白石一文
2009年作・230ページ

・・・「宇津木」東海さんがぴしっとした声で言った。「そういうときは、一人で耐え忍ぶのが男ってもんだよ」

今度は明生がしばし口をつぐむ番だ。「わかりました」いろいろ言葉を探ってみたが、それしかみつからなかった。

「すみませんでした。お仕事中にお邪魔してしまって」甘えたこと言って、と頭につけようかと思ったが、余計に気恥ずかしくてやめたのだった。確かに、会社の上司、まして女性の上司にプライベートな問題を相談するというのは相手にすれば迷惑な話だろう。

「宇津木、生きていたらいろいろあるよ。でもね、何年か経ったらどんなことでも大したことじゃなかったってわかるから。人間はさ、そうやって毎回自分に裏切られながら生きていくしかないんだよ」・・・・



宇津木明生は大実業家の家に生まれた三男坊だ。どこに行っても宇津木・・の名前を出せばどうにでもなるほどの家系なのだった。

しかし長男、次男にくらべ自分でも自覚できるほどに自身の出来はまったくもって人並以下・・と言うほどであった。

明生はだからこそ身の丈に合った生活を望み家系にこだわらない就職を選び親から決められていた婚約者をやめて一般の女性を迎えることにした。

明生にとっては望むべくもなかった有名スポーツシューズの製造販売会社の営業部に就職できた。そこまでは親の光の恩恵もあったが幸いなことに女性上司の東海さんにはよく可愛がられた。


ひとは生まれながらにして自立心も強く指導力が高いのではと言う人もいれば明生のようにもう20代後半になろうかという年になってもまだ自立できないお坊ちゃんもいる。

そんな時、女性上司の東海から告げられた言葉にハッとしたんではないでしょうか。私もこの年になると「・・そうなんだよ・・」って言えるんですがね。

私の人生の若かりし頃のなかにこの明生と重なる部分があまりにも多くひとごとではなかった。それに彼らの住まいが南浦和や東浦和・・繁華街は赤羽なんて身近な舞台も親近感がわいた。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 398 ]    6月 11日


    河出書房
「落ちる」多岐川恭
1958年作・248ページ

玄関を出て靴を履こうとしたとたんにめまいがした。距離感があいまいになっていて、靴下の足をたたきについて汚してしまった。慣れないせいなのだ、と不安を抑えつけた。

佐久子が来たので、俺はわざと笑顔になって靴をはきにかかった。「何を笑っていらっしゃるの」そういう佐久子の声も笑っていた。

「足がとちってねえ、靴下を汚したよ」「あらあら、しょうがないのね。すっかり大きな坊やになっちまって・・・」

佐久子は、おれの身体を後ろから抱くようにした。押し付けられた肌の感触がおれを涙ぐませていた。佐久子ははしゃいでいる。

「長く靴をはかないでいると、足がふくれるのかね。何だか窮屈になった」「本当に長い間ね。でも大丈夫?」

夫婦で外出するのは一年ぶりだ。大丈夫でなくとも中止はできない。佐久子を失望させない為なら、二、三時間の苦行くらいは何でもないはずだ。・・・



書き出しの文では病み上がりの夫が外出できるようにまで回復したんでしょうか。妻の佐久子の嬉々とする様子が伝わってくる。

読み進むうちにこの夫の病状はいわば精神に異常をきたしていたのだろう。外出の途中の先々でむかしの記憶が呼び起こされて不安を掻き立てる。

その不安はデパートの屋上で発作的に死を考えて手摺りに宙ぶらりんになる。助けようとする妻佐久子はあろうことかその手の指を手摺りから離そうとものすごい形相をして・・。


昭和30年代の直木賞作品だという。こう言ったミステリー作品はあまり好ましくなかった。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 397 ]    5月 29日


    新潮社
「魚河岸ものがたり」森田誠吾
2001年作・283ページ

・・・読みと言う面白さなら、将棋の方がジャンケンに勝る。それはそうなんだが、どっちがしたいか、ということになると、これはジャンケンだ、何故か。

金がかかっているからか。それなら将棋にだって金は賭けられる。じじつ、賭けませんかと誘われたこともあるが、断った。

将棋はバクチじゃない、強い方が勝つ。バクチとは、そこんとこが違う。バクチなるものには、誰も知らない運がひそんでいる。強い弱いではなく、運だ。

それが証拠には、競馬を知らない者だって、当たり馬券を買うことができる。運だからだ。バンちゃんは、その運に強く惹かれる。

運が、バンちゃんの方を振り返り、しっかりと手を握り合う。その時の気持ちばかりは、握り合ったものでなければ分かるまい。

バクチというのは、酒みたいなものではないのか。運という強いアルコールが入っていて、一度、酔い心地をおぼえると病みつきになっちまう。・・・



間もなく移転の決まった築地魚市場ですが1923年日本橋にあった魚河岸は関東大震災を機に1935年に築地にその市場を移転していました。

言ってみればもう少しで100年を迎えようとする築地市場ですがご存知のように運河で仕切られた地域という特殊性、そして青果門、勝鬨門、海幸橋門、市場橋門と言う交通の閉鎖性などから特殊な地域性が育ってきていた。

勿論のことそこに住まう住民はこの市場のために必要かくべかざる任務を代々背負ってきた人たちの責務を共有した地域コミュニティーが発達していた。

隣近所の連携も確かなものであり彼らの素地であった下町の近所付き合いがこの閉鎖的地域の中でより濃密に育ってきた環境も否めない。


しかしその底辺を見ると例えば麗子の様にその母親は韓国男性との私生児として築地に育つ、この地域の塾の先生として慕われていた吾妻さんも元をただせば全学連の戦士の身代わりとなってこの街に潜伏していた。

どこの世界でもその地域性と言うものは必ずしも不変ではなく新しい風・・によって変わらざるを得ない、そう正しくそれが時代を作っていくものなのだ。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 396 ]    5月 22日


    文春文庫
「光と影」渡辺淳一
2002年作・235ページ

・・・寺内とは教導団時代から同期で励まし合った仲である。勿論競ったこともある。一方が一日でも早く昇級したと聞いたらいい気持ちはしない。

だが二人の進級はほぼ同じか、小武の方がやや早かった。学術でも勇敢さでも寺内に譲ったことはなかった。(だが今の病状の差はひどすぎる)と小武は思った。

一方は自由自在に動き廻れるのに、一方は寝た切りであった。手術前は創が同じだと思っていただけにその差は一層際立って見えた。(何故こんなことになったのか)

佐藤軍医監や川村軍医のやることに誤りがあるとは思えなかった。自分が切断され、寺内の腕が残されたのにはそれなりの理由があるに違いなかった。そこから先は医学に素人の軍人が立ち入るべきことではなかった。(それにしても俺はすでに腕が無く、あいつはとにかく腐っていても腕があるのだ)

そこに気付いて小武は苦笑した。腕のない男と腐った腕の男と、これは大した違いではない。こんなことで勝った負けたを云ってもどうなるわけでもない。

不具になると、考えることまでケチになるのか、小武は自分の思いにいささか呆れてしまった。



西南戦争の折、小武敬介大尉は右腕に被弾し大阪の臨時病院で切断手術をするために移送船の甲板にいた。

すると背後から声をかけられた。同期の寺内寿三郎大尉なのだがどうしたわけか彼も右手に大きな包帯をしていて大阪の病院で手術の予定だと言った。

どこまでも同期だな・・、と失笑し合った。二人とも傷はひどく切断手術と決まった、しかし軍医は二人とも切断するのに気持ちがひるんだ。

上にあったカルテの小武は切断したものの下にあったカルテの寺内には何とか切断せずに済ませられないかと苦悶した。結果は小武はすぐに回復したが寺内は高熱を発して生死をさ迷った。


二人とも時期はずれたが回復した。しかし一方は右手が無くなり、もう一方は不自由ではあったが右手は温存された。その後の二人の生き方は大きく変わっていった。

カルテの上下だったことが二人の人生を変えてしまったのか、もしこれが逆さまだったとしたらどうであったのだろうか・・・。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 395 ]    5月 10日


    講談社
「秘  伝」高橋 治
1984年作・192ページ

・・・その郵便配達人が文面を見て目の色を変えた。式見の岸浪から長渕に挑戦状が届いた。話がいつの間にかそう誇張された。

組合では、現代版巌流等の決闘を見物する船を仕立てよう、いや、見分役が出向こうなどと馬鹿げたことを言うものまでが出た。だが、長渕が取り合わなかった。

「みんなどげんふうにいうとったね?」「わかるでっしょうが」「どっちが余計鯛ば上ぐるかてや?」「・・へえ」

「長渕さん、今日は、イオは一匹しか釣らんとぞ」

エンジンの音に消されないように、艫にすわって舵を握る岸浪は怒鳴り気味である。長渕も怒鳴り返す。「一匹?・・・一匹て、いうとですか」

「そげんじゃ、一匹たい」・・・・



長崎の大都会を挟んで五島灘に近い方は角力灘、そして岬をまわった天草寄りに天草灘。どちらも入江の多い好漁場である。

天草灘に面して茂木漁港、角力灘には小さな式見漁港がある。どこにでも名人と言うものが存在しどちらにも鯛釣り名人がいる。

お互いどこからともなくそんなライバル的存在を認めてはいましたが中々会う機会もない。陸路を尋ねれば長崎を挟んで20kmほどしかない。

しかし、海路となると大きく突き出た半島を迂回するので舟で行こうとすると一日ではいけないほどの距離がある。しかもお互い足の具合がよくないと言うところも似ている。

お互い年をとってきて岸浪は長渕に手紙を書いた。そしてようやく会うことができたのだ・・・。


写生旅行で天草から連絡船で茂木港に渡って長崎入りしたことがあった。釣り人にとっては何処も好漁場、たまらないでしょう。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 394 ]    4月 25日


    文春文庫
「離  婚」色川武大
2001年作・192ページ

・・「じゃ、誠ちゃんはどういうつもりでここにくるのよ」「俺もそれをかんがえているんだけどね」「考えなくちゃわからないの」

「俺はだいたい君を憎んじゃいない。客観的に見ると、君みたいな女は大嫌いだがね。一緒にいる間お荷物で、縁が切れたらどんなにせいせいするだろうといつも考えていた。それなのに、いざ切れるとなると、いつも、なんだか引っ張るものがあるんだ。そいつは何だろう」

「ずいぶんひどいいいかたね。そんなふうなこと訊いてやしないわ」

「もちろんその都度、魅力の部分もあるんだが、それはいつも条件付きでね、否定的な要素を凌駕しない。・・・」



鳥羽誠一は出版社勤務の記者・・ではなく非常勤のかすかすの記事を書いて何とか食いつなげる程度の記者をしていた。

会津すみ子はもともと生活力はない。誠一に「私を誠ちゃんの妾にしてよ・・」くらいで付き合い始めてそののち籍を入れた。

しかし6年間の結婚生活をとあることに解消しようと決め離婚した。しかしもともとすみ子の生活力のなさは誠一も十分知っていたので離婚した後もすみ子の金銭的な面倒を見ざるを得なかった。


曲がりにも結婚し家庭を持ち過ごしてきた私にはこういった結婚のありようというのがどうも解せない。

そして結婚しても離婚しても精神的にはなんの変化もなく人生の目標もない夫婦生活・・人間同士のつながりってある種とても希薄なんだろうな、と思う。

そんなスタイルが受け入れられる社会もそんなゆがみを許容して多様性として成り立っている。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 393 ]    4月 22日


    新潮社
「人間万事塞翁が丙馬」青島幸男
2000年作・307ページ

・・・「ハナ、その手はどうしたんだい」おばあちゃんが、ずり落とした老眼鏡の上からギョロっとした大きな目玉でハナの手元を見た。

もう、こうなったら仕方がないと、いっそ度胸を据えると、今日あった皇宮警察の調理場での一件を、かいつまんで一気に説明した。

「ふーん、そうかね、ふーん」おばあちゃんは「ふーん」の所を馬鹿に長く引き延ばしてさもさも感心したていで、「昔の人は間違ったことは言わないね、丙午の女は火事を呼ぶってのは本当なんだね」

ここで又、丙午が出てこようとはハナは思っても見なかった。やれ男を喰い殺すだの不吉を招くだのと、子供のころから生まれ年のことで随分と嫌なおもいはさせられてきているが、時が時なだけにこのおばあちゃんの一言は、グサリと胸に刺さって腹に据えかねた。・・・



この作品は青島幸男さんが「直木賞を取ってやる」と公言してから執筆をし、しかも処女作だと言います。彼の実母ハナを題材にした女の半生とでも言いましょう。

彼はここでは青山幸二の名で日本橋の弁当屋「弁菊」の次男として登場して来ますが主役はあくまでも母のハナ。彼女は昔嫌われていた丙午年生まれでおじいちゃんおばあちゃんの猛反対の中、この家の青山次郎のもとに嫁いできた。

彼は多彩な人生、いわばマルチタレントとして活躍したなかでも放送作家的視野からこの母ハナを描写しながら活劇的に表現している。

多くの作家の登竜門であるこの直木賞候補には特に自叙伝によるものが多く取り入れられる傾向がある。

そこは題材として最もリアルで人それぞれの人生は千差万別の迫力がある。ですから対象作品は如何に斬新な表現力を発揮したかにかかるでしょう。

放送作家としての片りんをこの処女作で披露した作品として私も評価したい。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 392 ]    3月 29日


    文春文庫
「花まんま」朱川湊人
2012年作・288ページ

フミ子が生まれた日のことは、今でもしっかり覚えている。その時俺は私立病院の待合室のテレビで、NHKの人形劇か何かを見ていた。

少し前までは分娩室の近くで待っていたのだが、なかなか生まれないので、いい加減飽きてしまったのだ。

お父ちゃんは、すっかり落ちつきを無くしていた。病院の外に追いやられた灰皿と分娩室の間をせわしくいったり来たりして、まるで時計の振り子のようだった。

「もう二時間になるわ。早う生まれんかな」「二時間三十分や。いくら何でも、そろそろやろ」「三時間過ぎたで。ほんまに大丈夫なんやろな」・・・・



「俊樹、生まれたで。女の子や。お前に妹が生まれたんやで」

そんなに喜んでいた父親であったが交通事故であっけなく亡くなってしまった。日ごろから俊樹にはフミ子の面倒は兄のお前が常に見るんだよ、と言われて守ってきた。

しかしフミ子が四歳のころから急に少し目つきも大人びてきてまだ字も書けないのに地方都市の字を漢字で書いたり不思議な行動をするようになる。

そして「お兄ちゃん、わたしはここの町に住んでいた人の生まれ変わりなの・・」ととんでもないことを口にするようになった。


この本には他に5編の作品が収録されていますがいずれも幼少期の幻想や奇異な想いをもとに小説化されたものばかりです。

朱川さんの手に寄ってその不思議な世界が淋しいなかにも美しさを秘めていることを発見します。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 391 ]    3月 15日


    幻冬舎
「潮騒はるか」葉室 鱗
2015年作・162ページ

長崎の町に秋の陽射しが差している。菜摘は長崎奉行所に通う傍ら、坂道から長崎湾を眺めてしばし佇んでしまう。

碧い海だ。

オランダ船が出入りする湾内には異国情緒が漂う。筑前博多で鍼灸医をしていた菜摘が、弟の渡辺誠之助、博多の眼科医稲葉照庵の娘、千紗とともに、長崎で蘭学を学んでいる夫の佐久良亮のもとにやってきたのは、一年前のことだ。

菜摘は今年、二十四歳になる。ととのった顔立ちで肌が白く、坂道を上がるとほんのり紅を差したように頬が赤らむ。・・・・



長崎では菜摘、誠之助、千紗とともに家を借りて住んでいたが或る日、博多から甚五郎と名乗る目付けが尋ねてきて実は千紗の姉、佐奈が夫を毒殺して長崎の方に逃走しているので探索している・・と明かした。

それは何かの間違いか何かしらの罠にはまって濡れぎぬを着せられたであろう、みんなで真相を確かめて救い出そうと考えた。


葉室さんの作品は陶芸の世界をモデルにした「乾山晩秋」を読んでから時代小説の中にその歴史的背景を織り交ぜて展開させる面白さに魅かれていました。

今度は医学を通じてその時代を小説化しています。オランダ医学ではシーボルトの娘、いねなどと交わりながらの時代背景を巧みに取り入れて興味を持たせてくれました。

数年前に天草の写生の帰路、フェリーで長崎に立ち寄りました。長崎の茂木港はこの小説の菜摘たちが眺めた長崎湾とは逆の方から眺めることになりましたが圧倒される坂の町に度肝を抜かされました。

一度旅をした土地の描写が書かれているとまざまざとその時の感動が蘇えってきて小説の別の意味で二度おいしい・・を味わうことも楽しみです。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 390 ]    3月  8日


    双葉社
「神座す山の物語」浅田次郎
2014年作・245ページ

・・・自分で無理を悟るまで、あんなつらい修行をしているのかと思うと、ちとせはキゼンさんがかわいそうでたまらなくなった。

このごろでは、ご飯と具のないおみおつけと、沢庵がふた切れだけの御膳にも、箸を付けなくなっていた。ときには水断ちまでしているのだと、女中が心配そうに言っていた。

「はっきりそうと言って聞かせたほうがよかないかと思うんだがね。ところがおもうさんがおっしゃるには、行と言うものは他がどうこう口を出してはならない、と。考えてみれば、私のときもそうだった。無理も道理も、他人が決めるものじゃない。自分自身でそうと悟らなければいけないし、だからこそ行には値打ちがあるんだ」・・・



代々ちとせ叔母の家系は御嶽山の御師を務める家系であった。海抜1000mのここで御師はもっとも神様に近い存在でありながら宿坊をして家系を守ってきた。

母の系譜はちとせ叔母と同じであってこの御嶽山の宮司の家に育った、兄弟の多かった母の子として私は多くの従弟たちと夏休みなどに揃ってこの実家に集まった。

そして夜になると大勢の子供たちはそろって大広間で寝ることになり毎夜にちとせ叔母の話すこの宿坊での物語を聞かされながら眠りについた。


浅田さんの母方はこの御嶽山の宮司の家系であって子供のころにその宿坊で過ごした記憶を小説にされたものと思う。

なぜか子供のころの記憶と言うのは枕詞に叔母から聞いた話であっても現実と聞いて思い出した非現実がまぜこぜになってあたかも実際に経験したことのように思えることがある。

そんなシュールな感覚を浅田さんの表現力を借りて摩訶不思議な世界観が描かれていてむかし話が新鮮な物語として脈々と湧きあがってくる。


私の母も昔の大家族で兄弟も多かったので母の実家に行くと大勢の従弟たちと一緒に叔父、叔母の昔話をよく聞かされた・・。「よし!、今度の夏休みには皆で高遠城の花見に連れて行ってやろう!」

そんな事が実現したためしは一度もなかったが今となっても素晴らしい思い出だ。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 389 ]    3月  1日


    創元推理文庫
「配達赤ずきん」大崎 梢
2006年作・256ページ

・・・杏子の勤め先である成風道は駅にくっついたビルの六階にあり、フロアに窓がまったくない。おかげでいきなりの夕立も、鮮やかな晴天も、台風も大雨も大雪も、店にいる限り何もわからない。

来店するお客さんの衣服が濡れていたり、傘から雫が垂れていたりして、ようやく雨が降りだしたことに気づく。

反対に雨の中を出勤した日は、傘を持たない人が増えたのを見て、天気の回復を感じ取る。・・・



杏子はこの成風堂書店の店員である。その日に入荷する新刊本や週刊誌などの雑誌をはじめ手際よく書棚に配置し、お客さんがお目当てを探しやすいように工夫する。

そして得意先の喫茶店や、理容室、個人向けなどの予約されているお客さんのところに配達をする。

店頭に本を探しに来たが題名も出版社も思い出せない・・なんていうお客さんにはその本のヒントを聞いてその本を探し出してやる・・と言う仕事もある。

そんな日常の中で沢山の”事件”が起こって成風堂書店が少なからず介在していることが多い。書店員の機知と日頃の読書術で問題を解決していく。


作家さんの中には本好きの方が実に多い、そして自身は本屋さんに勤務するという人も多い。

正しく酒好きが呑み歩きの紀行文を書いているようにそれは真実味があって面白い。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 388 ]    2月 15日


    文春文庫
「依頼人は死んだ」若竹七海
2005年作・352ページ

・・・わたしは封筒を詳しく調べながら言った。佐藤まどかは封をはさみで丁寧に切って開けていた。封筒の口はセロハンテープで止められているが、あけられた形跡はない。

自動販売機で買えるギザギザのない八十円切手が張ってあり、消印ははっきりと読み取れた。新国市中央郵便局、四月九日、受付時間は八時から十二時。

「やっぱり悪戯だと思う?」「当然でしょう。いくら日本の役所が無神経だからって、当人にガンだなんていきなり紙切れで連絡しやしないわよ。それも大至急だなんて。さっさとしないと死ぬぞと言ってるようなものじゃない」



長谷川興信所の臨時職員である女探偵シリーズ。葉村晶は友人の芸術家の展覧会に出かけて同じ芸術仲間の佐藤まどかに相談を持ち掛けられた。取りあえず相談料として夕食をご馳走させてください・・と言うので話を聞いた。

つまり市役所から届けられた健診結果の内容が唐突であり彼女自身も検査予約はしていたものの実際には受診していなかったのです。

しかし晶に相談を持ち掛けられた二日後にまどかは大量の薬物を飲んで自殺してしまった。晶は医者嫌い、薬嫌いのまどかが薬物を飲んで自殺することに不信を抱いた。

結果は思わぬ身内にその真相を知っている者がいることがわかった。・・・・


以前もこのシリーズを読んだことがあった。小説になる探偵ものは大概解決されるストーリーだ、作者の独断と偏見に満ちたストーリーに乗らされて悔しがるのが常だ。

それはそうとしてここに登場する佐藤まどかは医者嫌い、薬嫌い・・。中にはどっちも大好きっていう人もいるかもしれませんが切実な問題として年一度の健康診断は実施してもらいたい。

私の妻もそんなきらいがあった。友人の中にも”結果を知るのが怖い”なんていい年をして子供じみたことをいう御仁もいる。まあ、それもその人の人生だから何も言わん。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 387 ]    2月  5日


    徳間文庫
「鬼はもとより」青山文平
2017年作・302ページ

・・・「つまり、その間、母親は何としても生き延びねばならんと言うことだ。自分が死ねば、子も死ぬ。とにかく生きることが先決だ。とはいえ、自分一人の身ではない。傍らには常に無力な子がいて、守らねばならず、ひたすら無防備である。危険に満ち満ちた状況が、延々と続くのだ。そんな時にあっさりと己の非を認めて、いちいち責任を取っていたらどうなる。もしも、そんな母親がいたら、子は間違いなく野垂れ死にだぞ」・・・・

「ああ・・・」「だから、女は非を非と認めぬようにできている。一見、母からは遠いような女でも、男勝りを自負する女でも、女は女だ。そのようにできていることに変わりはない。



奥脇抄一郎はまだどこにもでもいるような、取るに足らない武家だった。慶長の世からは百五十年ほどが経って、抄一郎が禄を食む国も含めて、どの国の内証も急速に傾きかけていた。

武芸は一応身につけてはいたが女遊びにふけりひいては事の顛末に女に腹を刺されはしたが大事に至らなかった。そんな訳で抄一郎は以来、女に手を出すことはなかった。

窮乏の藩財政を賄おうと抄一郎の藩では藩札を作って財政を立て直そうと試みた。しかし真剣さもなく未経験な抄一郎がそのチームのリーダーとなってしまった。

暫くは上手くいっていたものの思わぬ飢饉に襲われて藩札の増刷を家老から言い渡された。しかし抄一郎はそれはならぬ!、と藩札の版木をもって夜逃げした。

江戸に逃げた抄一郎はアルバイトで食いつなぎながら「何故、藩札の政策が失敗したのだろうか」と研究した結果ある方策の原理を見極めることができた。

早速、窮乏した貧乏藩の相談役として乗り込み藩札を発行するための藩の覚悟など自身の研究成果を実らせることに成功した。


これは青山さんの力量が十分に表現された読みごたえのある作品でした。江戸時代中期の武士も藩政自体もかなりだらけてきたころの地方藩の実情が読み取れる。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 386 ]    1月 25日


    小学館
「私たちには物語がある」角田光代
2010年作・304ページ

とうに亡くなった父親を、私は他人みたいに思うことがある。いったいどんな人だったんだろうと、見知らぬ人みたいに思うのだ。そうして少しびっくりする。おんなじ屋根の下で暮らした家族なのに、本当には知らなかったのではないかと思ってしまうことに。

父親はいったい何者だったのか。この小説に登場する三人きょうだいーーー、兄と姉は私よりかなり切実に、その疑問を抱く。彼らの父は子供たちに異常なほど厳格だった。彼等はそれに反発するように家を出ている。

その父が事故死した直後、厳格な父には似つかわしくない事実を、私は知ってしまう。会社の女性との情事である。父はいったいなにものだったのか、−−−−



深いテーマとは裏腹に、小説はじつにユーモラスな語り口で展開していく。ときに声を出して笑いつつ読み進み、ふと、なんだか陽の光を存分に浴びているような心持ちになっていることに気づく。これはそういう、光に満ちた小説だ。それはきっと、この小説が描いているのが、亡くなった父親の秘密ではなく、たまたま父であったひとりの男とたまたま子どもであった彼らとの、新たな邂逅だからだと思う。−−−



この本は森絵都さんの「いつかパラソルの下で」という小説を角田光代さんが読んだ時の読後感想文。凡そこのような文体で彼女の読んだ本の読後感想を一冊の本にまとめた形式です。

この本の中には100編余の作品についてあらすじと、彼女自身が感じた言葉を素直に綴っていて好感が持てる。

それは作品の評価や批評めいた文体ではなくその一端を見せて頂いた本は彼女なりの反芻消化された「面白かった・・」が全ての原点であり私も読んでみたい!、と思わせるものばかりでした。


そう言えばわたしも10年の間に380冊余の小説を読み微かな感想も綴ってきました。教養の栄養学的にはなんの栄養にもなっていませんが好きなお酒のウンチクと同じレベルで身についている程度かな・・


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

  [No. 385 ]    1月 10日


    集英社
「政と源」三浦しをん
2017年作・250ページ

・・・母の死から三十年が経ち、七十三歳になった国政はもちろん、もう魂の乗る船も死後の世界も信じていない。信じていないというより、そんな場所の存在を感じ取れなくなった。

死はそこまで迫っているのに、死後の世界は遠のくばかりだ。たぶん、と国政は思う。七十三年間生きてきた結果が、これだからだろう。妻と娘たちは家を出ていき、国政と連絡を取りたがらない。・・・


・・・銀行で働いていた当時、幼なじみの源二郎がちまちまと簪(かんざし)を作っていることを、内心で一回もバカにしなかったと言ったら嘘になる。女子どもが使う、しかも時代遅れの品。

どんなに手のこんだうつくしいものであっても、象牙や銀細工の簪に比べれば、つまみ簪は安価だ。ひとつ数千円、最上級の品でも三万も出せば買える。何千万、何億という単位の金を動かすこともある国政からしてみれば、侮る気持ちがなかったとは言えない。

仕事をリタイアしてからはもはやなにもすることがなく、妻にも去られ、そこで初めて国政は、金では測れない価値について本当に考えるようになったのだった。・・・



下町の街で育った堀源二郎と有田国政は幼なじみだ。源二郎は中学を出てすぐに簪職人のところに修行に出て今では立派な簪職人だ、国政は大学まで行き銀行に勤め日本経済の一端を担ってきたという自負もあった。

しかし、国政もいったん定年退職という一線を越えたことで大きな転機を強いられる。突然に妻の清子が家を出て娘夫婦の住む横浜に行きます・・と家を出てしまった。

当然のことながら幼馴染の源二郎しか気の合った話し相手もいない。しかもその源二郎は恋女房を病気で亡くしてはいたが身につけた仕事でバリバリと生き抜いている。

しかも最近では弟子もとってその簪職人のわざを後世に伝えたいという。・・・


奇しくも国政は源二郎と共に身一つで年老いた人生を生きなくてはならない。私にとっても身につまされる境遇ですが源二郎同様、スポーツはともかく絵画や陶芸に新境地を見出して心強くしたたかに生き延びたいと感じるのでした。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&
「青春切符」ページにジャンプ 「画家への道」ページにジャンプ 「みち草」ページにジャンプ

「幸三郎の世界」ページに戻る