よみかぜひめとくうが
詠風姫と空牙
朔と望−月下奇談(陽の巻)/幽閉ロゴ
「くしゅん!」
 助手席でくしゃみをする寧奈(ねいな)を何かが暖かく包み込んでいる。気がつけば、雪平(ゆきひら)のコートが肩までしっかりと掛けられていた。いつの間にか眠ってしまったらしい。
「す、すみません」
 寧奈が慌てて座り直すと、
「気を遣うな。着くまで眠っていろ」
 普段通りのそっけない態度が返ってきた。
「そんな訳には参りません。雪平が一番大変なのですから」
 いつもは素直すぎて歯痒いくらいなのに、妙なところで榊(さかき)に似て頑固だと、雪平が心の中で溜息を吐いた。真摯な気遣いによる発言だから、いじらしいと言えばいじらしいと思いながら。
 後部シートでは不自然な態勢にも拘らず、理沙(りさ)、隆志(たかし)、佐緒里(さおり)の三人が寄り添い合って熟睡していた。三人とも少しやつれた顔をしている。
 無理もない。寧奈も含めた彼ら四人は、この三日間、風邪に苦しみ寝込んでいたのだ。
 それもこれも、全く以て乱暴な経緯以外の何ものでもない。突如悪鬼に襲いかかられ止むを得なかったとはいえ、無謀にも、真冬の屋外にて薄着で立ち回りをやってしまったのだ。
 いざ事が終わってみると理沙も佐緒里もパジャマだし、隆志はシャツがはだけて何処かへ行ってしまい、上半身は裸だった。寧奈はジャケットを着ていたが、その下がブラウスと薄手のニットとなれば厚着とは言えまい。
 明け方、雪が降るほどの冷気に晒され、彼らは当然の如く熱にうなされる羽目となった。薄地のセーターのみだったくせに、雪平だけが風邪の毒牙から免れたとは、やはり鍛え方の違いは大きい。
 取り分け寧奈は重症だった。今でもまだ病魔が片隅に燻っている。
 しかしながら、このまま久能(くのう)邸に留まるのは憚られた。望月の夜が迫っていたからだ。望の儀式を行わなければならない。
 その気になれば儀式は何処でもできそうなものだが、寧奈は抵抗を感じずにいられないのだ。たとえ秘密裏でも、実情を知らない人と同じ屋根の下では、手順が手順だけに何やら後ろ暗い。知られたらもっと心境的に複雑だ。そう考えているのは彼女だけで、いざとなれば雪平は所構わず強行するだろうが。
 結局、寧奈が起きられるまでに回復したのが、よりによって儀式の当日とは。体調を気遣う雪平を、帰りたいと強引に説き伏せたのは、儀式に対する不安と焦りが最高潮に達したせいだ。何しろ今夜はこの年最後の満月。
 帰る前に寧奈は慈安寺(じあんじ)を訪れた。否応なく、またもや雪平に背負われて。世話になった礼や陸(りく)に関する報告、そして別れの挨拶と、律儀な性格ゆえ、どうしても自ら出向きたかったのだ。
 病み込んでいる間も住職をひたすら気にかけていた。落ち着いて養生できないと判断し、雪平が安否の確認に行かざるを得ないほど。全く問題ないと言われ、一度は安心したものの、やはり自分の目で確かめないと心残りになる。寧奈が眼差しだけで頼むと、雪平は無言で承諾した。
 山門に着いた瞬間、初めて訪問した日と寸分違わない様子を目にして、ようやっと彼女は安堵の息を吐いた。住職の最後を見届けなかったとは、意外に間の抜けた悪鬼どもだ。
「一時はどうなる事かと本当に案じられて……御住職が思ったよりお元気そうで何よりでしたね」
 今朝から何度も同じ言葉を繰り返している。その度にやはり同じ答えが返ってくる。
「あの和尚なら殺しても死なんだろうさ」
「雪平、また。御住職に失礼ですよ」
 諌めながら、密かに寧奈も同感だった。
 矍鑠(かくしゃく)とした笑顔が箒を持って走り回る様が脳裏に浮かぶ。悪鬼に襲われ、瀕死の境を彷徨っていたのではなかったか。さすがは五百年以上も続く魂の守人の継承者だ。あれだけの元気があるなら、まだまだ弔われる側に転じたりはしないだろう。
 それにしても調査だけのつもりが、とんだことになったものだ。一気に解決に導けたのは相当な幸運だったと言える。展開が早すぎて間に合わなかったのが一番の要因だが、長老の指示を仰がず、寧奈と雪平の独断で魔物封じをしたのは初めての経験だ。
 榊に報告する際、どんな顔をされるか考えると、寧奈は俄かに気が重くなった。尤も、封魔一優れた長老だから、とうの昔に玉(ぎょく)を通じて何もかもお見通しだろうが。
「榊様に叱られるでしょうか? 御指示を仰がなかった事」
 だんだん意気消沈して呟くと、
「今更手遅れだ。滅したものは元には戻らん」
 つっけんどんに返された。
「それは、そうですけど……」
 と、嘆息する。病み上がりだというのに榊の説教が長々と続くのだ。無理に本家屋敷に戻ろうとしたことが浅はかに思えてきた。
「案ずるな。お婆はおまえを咎めたりはせん。俺が保証する」
 自信満々な口調を聞いて、忘れていた疑問が見る見る鎌首を擡(もた)げてきた。寧奈にとっての最大の謎は、雪平がどうやって榊を懐柔したか、だった。
「今日こそ答えてくださいね。榊様をどうやって説得したのですか?」
 まるで大昔の話でもされたかのように目を細めると、彼は暫し沈黙する。次に横目で一瞥をくれ、微かに息を吐いた。ああ、そんなこともあったか――という風に。
「大した話でもない。おまえが詠風姫(よみかぜひめ)のように不幸な人生を歩んでも良いのか、と少々お婆を脅してみただけだ」
「は?」
 いきなりの結論に思考回路が混乱した。だいたい何故、詠風姫が登場するのか謎めいている。何の話だか見当もつかず、彼女は首を捻った。
「あの……詠風姫様とはいったい? 不幸な人生……とは、何でしょうか?」
 雪平が呆れた顔を寧奈に向けた。運転中のため、すぐ前に向き直ったが。またもや暫しの沈黙。少し経って、彼は面白そうに声を立てて笑った。
「おまえ、勉強不足だな。クソ真面目に梓川(あずさがわ)の歴史だけを学んでいるからだ。偶には小埜江(おのえ)の文献にも目を通してみろ。なかなか興味深いぞ」
「はぁ……」
 ぽかんと寧奈は雪平を見つめる。
 確かに、今はまだ梓川の歴史書だけで手一杯で、小埜江の文献にまで気が回らなかったのは認めざるを得ない。いったいそこには何が書かれてあったというのか。榊の説得とどう関わってくるのだろうか。
 
 詠風姫は幼名を風子(ふうこ)と言う。
 十六の朔を迎えて一人前になった頃、呼び名が変わった。だが、その後も幼名で呼び続ける男がいた。姫の守護戦士・小埜江空牙(くうが)だ。
 彼は戦士の修行を大江山で積んだ。つまり風子とは幼馴染みになる。当然、疾風丸(はやてまる)とも見知らぬ仲ではない。修行仲間とでも言おうか。彼にとっては風子も疾風丸も、鍛錬の合間に憂さ晴らしのできる体の良い対象でしかなかったが。
 この男、実に豪気で勇猛果敢なのは良いが、少々荒くれで子供の頃は利かん気だった。猪突猛進な気質と小賢しい本質を併せ持ち、幼いうちから謀(はかりごと)に長けているなど、戦士と言うよりは軍師に向いていたかも知れない。
 されど戦士としての能力も半端ではなかった。厳しい修行内容を申し分なくこなし、年端も行かないのに光剣を生み出すことも難なく遣って退けたくらいだ。簡単に言えば、頭脳明晰で文武両道な乱暴者。守護戦士としての天才的な勘は侮れない。
 それに反して、風子も疾風丸も、どちらかと言えば寡黙で控えめな性格だった。山深い隠遁生活に慣れ親しんでいたため、人との争い事を好まない。二人が穏やかで慈悲深いのは、持って生まれた性質が大江山に培われたからだ。
 風子に関して空牙が感じたところ、己の主張はほとんどせず、他人の意見を尊重してばかり。素直と言えば聞こえは良いが、要するに従順すぎて周りに流されやすいだけだ。あやふやな態度も小心な本然も何処までも歯痒い。少しは視野を広げて雄々しく生きてみろ、と蹴りを入れたくなるほどだった。
 何よりも致命的なのは彼女がひ弱だったこと。性格の面然り、体力の面然り。良くそれで封魔術師が務まるものだ、と腹立たしくさえ思っていた。疾風丸に至っては、風子の尻をついて歩くだけの無芸者としか感じていなかった。
 ただ、空牙が一目置いてしまうところもある。風子は術師としての潜在能力が無限大だったのだ。生半可な封魔術師など足元にも及ばないほど、幼い頃から彼女の力は様々なものに影響を与えた。
 もちろん、一番影響を受けたのは、守護戦士となった空牙自身に他ならない。運命を共にするようになってからは、風子に対する見解は対極に転換した。それまでは疾風丸共々、もどかしさから当り散らすだけの玩具でしかなかったが。
 止事無い事情が発生した時も、旅を決意し強行したのは空牙で、風子も疾風丸も引き摺られただけに過ぎない。本当は嫌々ついて行ったのだ。二人とも眩暈がするほど保守的で、常々住み慣れた場所で生涯を終えたいと望んでいたのだから。不幸にも、再び故郷の地を踏む結末は彼らにはなかったが。
 気が進まない上、ひ弱なため、風子の旅生活は過酷なものでしかなかった。常に命の危険に晒され、到る所に出没する魔を封じ続ける毎日。脆弱な身体を鞭打ち、しかも神経は磨り減る一方。彼女には疾風丸が必要不可欠な存在となった。もはや無芸者扱いなど空牙にはできない。
 それほどまでに苦渋の日々を強いていたからといって、風子に対しての思いやりが全くなかったと感じるのは大きな間違いだ。むしろその逆で、誰よりも彼女を案じ、ひたすら支え続けたのは空牙だろう。常に蔭となって風子を命懸けで守ってきた。
 詠風姫の偉業の歴史が成立するのは空牙の働きによるものが多い。ただ、彼は蔭に甘んじていて、歴史書に表立って登場することを拒んだ。空牙が書き残した小埜江の文献は、共に旅する仲間との日常記録に過ぎず、およそ歴史書には程遠い。だからこそ、真実の彼らの姿が浮き彫りにされているのだと、今日の一族の歴史研究担当者は力説している。
 
 雪平の説明を聞いて、寧奈は少なからず、と言うより多大なショックを受けた。憧れの詠風姫が理想とはかけ離れた性格の持ち主だったなんて。下手をすれば寧奈よりポリシーに欠けているではないか。
 加えて、ずっと人が避けて通る事柄に敢えて携わってきた偉大な人だと思っていたのだ。ただ戦士に引き摺られていただけと知っては、暫く立ち直れそうにもない。
「どうだ? 興味深いだろう? 梓川の歴史書は事実だけを克明に書き記し、余計な見解を入れず、後世の道標となるべき物に仕立てられている。だが、小埜江の文献は――特に空牙と疾風丸の残した物は、何処までも人間臭くて飽きが来ないぞ。一度読んでみろ。空牙による風子と疾風丸の日常記録と、疾風丸による詠風姫と空牙の行動記録は、他に類を見ないほど現実的だ。戦国の人物が身近に感じられてくる」
 はあ、そうですか――と寧奈は項垂れる。多少投げやりになっていたので率直に感じた疑問を呟いた。
「文献での事情は良〜くわかりました。ですがそんなに大変なら、どうして詠風姫様は旅を続けられたのです? 命を危険に晒してまで望まない旅を続けるくらいなら、信頼できる身近な長老に相談して、空牙様の無謀な行いを正してもらえば良かったのではないですか?」
 無意識のうち、不機嫌な声音になっていた。
「それは止むを得ん。風子と空牙は一族に背を向けた仲だ。禁忌を侵している事実を隠し通す為にも旅を続けるしかなかった。言わば俺たちの先輩に当たるわけだな」
 実に度肝を抜かれた。前に榊が洩らしたのは彼らのことだったのかと。では、その場で詳しく話してくれても良かったのではなかろうか。寧奈が詠風姫に憧れているのを一番知っていたのは榊なのに。
 しかし、彼女は更に首を捻る。ここまでの話が先程の質問とどう繋がるのか、今ひとつ把握できない。いつも物事を簡潔に話す雪平にしては、珍しく回りくどいではないか。
 寧奈の気持ちを察したように彼は言葉を続けた。
「そこで質問だ。風子の性格、誰かに似ているとは思わんか?」
 これはまた唐突な、と二の句が継げずにいると、
「お婆も俺も小埜江の文献を熟知していた為、すぐに気づいた。本家の末姫に似ているのではないかとな」
「え? ……私、ですか?」
 躊躇なく、彼は頷いた。
 雪平も榊も疾風丸の正体に思い至った時、即座に寧奈と詠風姫を結びつけて連想した。予備知識があったからとも言えるが、今にして思えば、誰もが姫の思念に導かれていたのかも知れない。
「でも、慈安寺に向かう途中で雪平、こんな事を言いませんでした? 私には詠風姫様のような旅続きの生活は向いてないと」
「今までの話で、詠風姫に旅生活が向いているとでも思ったのか?」
 寧奈は口を噤み、雪平の横顔を見つめた。
「身を守る能力の乏しさといい、やけに気を遣う余り人知れず努力するところといい、おまえと姫は良く似ている。――あれはただ思った事を口にしたまでだ。おまえには、魂を磨り減らすような放浪生活はさせられない、と思ってな」
「では……足手纏いと思われた訳ではなかったのですね」
 口の中で微かに呟く。元より自分に言い聞かせただけなのだが、彼はその言葉を聞き逃さなかった。
「馬鹿を言うな。俺はおまえを守る戦士だぞ。たとえ宿命などなくても、おまえがいるから俺の存在価値がある」
 そこまで言われて不快に感じるはずもない。寧奈の胸が高鳴った。
「俺は説得する際、その話を逆手に取っただけだ。お婆はおまえが可愛くて仕方がないからな。俺の脅しは効果絶大だったぞ」
 と、雪平は楽しげに笑った。
【寧奈と雪平】へ続く
【萬語り処】 ← 感想・苦情・その他諸々、語りたい場合はこちらへどうぞ。
  前の話へのボタン 次の話へのボタン 『朔と望−月下奇談(陽の巻)』目次へのボタン 水の書目録へのボタン 出口へのボタン