じょうかとしょうてん
浄化と昇天
朔と望−月下奇談(陽の巻)/幽閉ロゴ
 闇が耳障りな音で呻いた。
『構わぬ。聖護(せいご)の鬼にくれてやるくらいなら、役に立たずとも我の一部として取り込むとしよう。ついでに汝(なれ)等の命もな』
 瞬時に四散する。何処へ――と思ったとたん目の前で結集し、纏めて寧奈(ねいな)と雪平(ゆきひら)に襲いかかってきた。
 地に叩きつけられ押さえ込まれる二人。衝撃で雪平の手から光剣が零れ落ち、手から離れたせいで力を維持できずに消滅した。再び気を集中しようとしても先を読まれ、闇が彼の喉元を締め上げる。声と動きを拘束され、更に深く締めつける敵に為す術もない。心得たもので、奴は疾風丸(はやてまる)には触れもしなかった。
 同じく寧奈も、うつ伏せに倒され、背中から押さえ込まれて僅かにも身じろげない。不覚にも、突き飛ばされた拍子に、あれほどしっかりと握り締めていたはずの玉(ぎょく)が手から転がり落ちた。慌てて追いかけようにもできず、玉は輝きながら位置を変え、座り込む理沙(りさ)と佐緒里(さおり)の近くで止まった。
 理沙の行動は素早かった。あっと言う間に駆け寄り、玉を拾い上げると、しっかり両手に包み込んだ。
 その中には陸(りく)の魂と思念が眠っている。恋敵とも言える存在に微かな嫉妬を覚える反面、むざむざ奪われるなんて理沙には我慢ならなかった。危険も顧みず隆志(たかし)が守ろうとするものを見捨てたりはできないから。彼のために、そして、悲痛に懇願の眼差しを向ける寧奈のために、自分にできることはこれしかないと直感したのだ。
 しかし、玉を手にすることは闇妖鬼(おんようき)の集中攻撃を意味していた。寧奈と雪平を手中にしたまま、黒い塊は理沙に襲いかかる。気づいた時には竦んでしまって、彼女は身動きができない。
「理沙ぁーーーーー!!」
 ああ、彼女が闇に取り込まれる! ――寧奈は息を呑んだ。これ以上、直視できない。
 と、閃く光が駆け抜け、闇妖鬼の前に躍り込んだ。隆志の姿をした疾風丸だ。
「理沙に手を出すな!」
 驚いたことに、疾風丸ではなく隆志だった。渾身の勇気を振り絞って恋人を守ろうとしている。しかも、その手から溢れ出したのは紛れもなく疾風丸の力だ。隆志の意識が表層に出ているにも拘らず。
『ぐわぁああぁぁぁーーー!』
 まともに聖の力を浴びた悪鬼は激しく悶え苦しんだ。捕らえていた寧奈と雪平を放り出し、渦を巻き、豪風と化す。そこら中を暴れ狂った。
 誰もが地に伏せ必死で遣り過ごそうとしたが、一歩遅れた理沙だけが黒い風に突き転がされた。弾みで玉が飛ばされる。呆然と地に這う佐緒里の前まで――。
「佐緒里ちゃん、拾って! あのヘボ妖怪に渡しちゃダメよ!!」
 反射的に拾い上げたのは無意識だったからなのか。まだ自分を完全に取り戻せていない様子で、佐緒里は手の中で煌く玉に魅入られている。
「佐緒里さん! 気を確かに!」
 玉を手にする限り、敵の集中攻撃は免れない。余りにも無防備な普通の少女に対抗する術などない。寧奈は迷わず走り出した。
「結界! 反呪!」
 佐緒里を抱きかかえ唱えてみたは良いが、所詮は光の術、闇から身を守る確実な保障はない。おまけに相手は手負いの状態だ。どんな攻撃を仕掛けてくるか計り知れない。心底、一か八かの賭けだった。すぐ側まで悪鬼が迫る。
 魔の手が触れる刹那、雪平が寧奈を抱き締めていた。
「現!」
 気合と共に、光剣が雪平の手に現れた。振り向きざまに薙ぎ払う。闇の真っ只中を白刃が切り裂いた時、闇妖鬼は四散しなかった。
 もしや、四散できなかったのか。
『ぐぬぅおぅ!』
 曖昧に渦を巻き、闇がよろよろと後退する。その姿を見て寧奈は確信した。奴は余裕を見せて躱していたのではなく、触れるわけには行かなかったのだ。雪平の光剣に。
 敵の後退と共に、理沙と隆志が走り寄ってきた。意外にも、佐緒里を腕に抱き締めて理沙が背中を擦ってやっている。幾ばくか落ち着いたところで佐緒里の手から玉を取り出し、理沙は寧奈に差し出した。そこはかとなく安堵を漂わせた笑顔を向けて。
 有難く受け取ると踵を返し、寧奈と雪平は闇妖鬼を追い詰め始めた。じりじりと迫る二人に悪鬼は後退を続ける。やがて観念したのか、或いは最後の決戦の覚悟をしたのか、闇の動きが止まった。
「雪平、破邪をかけましょう。思う存分、斬り込んでください」
 視線を移動せずに彼は返す。
「光剣は光そのものだ。奴に通用するか?」
 寧奈も視線を動かさず、悪鬼を睨み据えたまま力強く頷いた。
「どんなに闇が深くても、それ以上の光があれば闇を消す事ができます。あなたの光剣が正にそれなのですよ」
「なるほど。可能性はあるな。やってみるか」
 ゆるりと二人は目の端で見つめ合う。にっこりと笑みを交わした。
「チャンスは一度きりです。それ以上は私が持たないと思いますから。頼みますよ、雪平」
 互いに気を集中する。融合した力が張り詰めてゆく。気の流れが二人の間で循環した。
「天の神よ、地の神よ。世界を統べる数多の神よ。諸々共に入らせられよ。我、封魔の名に於いて請い奉る。悪鬼を殲滅(せんめつ)せし力、我に与え給う」
 翡翠の数珠が月明かりに煌く。
「禍々禍々(まがまが〃)――邪なる者よ! 分を弁えぬ行いをするのなら、一切を滅し、一切を葬るべし! 臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前! 破邪!!」
 九字を切る数珠の軌跡が光を生み出してゆく。雪平の光剣に寧奈の力が流れ込んだ。青く光り輝く剣を振り翳し、雪平が地を蹴った。
「邪! 砕! 滅!」
 攻撃の隙を全く与えず、的確に闇妖鬼の中心を白刃が切り裂く。黒い塊が真っ二つに割れた。
『ぐぐぅ……忌々しい術師に戦士よ。よもや再び敗れようとは……だが、これで終わったと思うでないぞ……光ある限り、闇は不滅……何度でも、汝等に闇の手が伸びようぞ……その時こそが、汝等の……終焉の時……』
 呪いの言葉を残し、闇は光に巻き込まれてゆく。輝く風が闇と混ざり合い、抽象的な渦を描いていた。煌きと暗黒の渦が辺りを駆け巡る。大気を揺るがし、空間を歪め、多彩に模様を変えながら渦はやがて光一色になる。清浄な青い光が空間の歪みの中に溶け込み、次第に夜の風景を取り戻していった。
 残された静寂の中、天に広がる暗黒の宇宙(そら)、降るほどの星――闇妖鬼は永久に葬り去られた。
 彼方を仰ぎ続ける寧奈と雪平の側に、理沙たちが遠慮がちに近づいてきた。二人の少女を庇って立つ隆志と、その後ろで、青い顔が冷めやらぬ佐緒里を支える理沙と。
 心なしか、隆志の姿が陽炎めいて揺らいで見える。
「疾風丸」
 寧奈に呼ばれ、疾風丸が歩み始めた。但し、隆志の身体はその場にいる。完全に分離した思念だけが、肉体を離れ、ゆっくりと移ろってゆく。朧げに光を纏う姿は在りし日の真実の疾風丸だ。穏やかな笑みを浮かべた表情は、何処までも美しく、何処までも儚い。
「果々倖々(かかこうこう)――解呪!」
 呪文と共に、寧奈の手中の玉から光が溢れ出た。暖かい輝きに包まれ、陸姫が形を成してゆく。目の前に具現化してゆく形はもはや煤けた影などではない。美しく淡く揺れる、夜明けの月にも似た姿。何よりも、意識を伴う魂は、死せる霊であるはずなのに生き生きと輝いていた。
「陸」
「……疾風丸様」
 不遇の恋人たちが互いの手を取った。彼らを包む薄明かりは慈悲の力に満ちている。神の許しを得、闇からも解き放たれた二人。五百年の時代を隔て、漸(ようや)く結ばれる時が来た。
「お逢いしとう御座いました。もう二度と、お側を離れませぬ……離しは致しませぬ」
 しっかりと疾風丸に縋りつく。
「陸、すまぬ。私が異形であったばかりに」
 彼も陸姫を強く抱き締めた。
「御前(おまえ)様と同じものになりとう御座いました。御前様の世へ共に参りとう御座いました。だのに漸くお逢いできた御前様は、有ろう事か人の身をお持ちであられた……悲願が強すぎたばかりに、魔を呼び寄せてしまった妾(わらわ)が間違っておりました。……御前様は聖なる御方……妾は一度、魔に魂を囚われ穢れた者。ましてや人ではありませぬ……最早、結ばれる事は叶いませぬのか……」
 陸姫の頬を涙が伝う。愛おしさが溢れ、彼女を抱き締める腕が、艶やかな髪を撫でる掌が、他でもない疾風丸の心が、強く、強く陸姫を求めていた。彼女も同じであることは言うまでもない。
「案ずる事はない。姫が私たちを導いてくださる」
「姫……詠風姫(よみかぜひめ)様……」
 徐に、二人が寧奈を振り向いた。懇願する眼差しで、ひたすらに見つめ続ける。
「姫」
 疾風丸が寧奈を呼んだ。どうしても解せなくて、愚問だと思いながらも尋ねてみる。
「私は詠風姫ではありません。どうしてそんな風に呼ぶのですか?」
 一瞬、目をしばたたき、すぐに疾風丸が笑った。
「異な事を。よもや気づいておられぬとは。貴女は詠風姫様の子孫の中で、おそらく最も姫の魂に近いところにあらせられる。だからこそ、姫の思念とこれほどまでに共鳴されておられるのでしょう。姫が果たせなかった事に執着なされるのも至極道理。深く姫の御心を理解されているからに相違ありませぬ。私が貴女を姫と呼ぶのは、そのような意図からなのですよ」
 知らなかった――詠風姫に妙に惹かれる理由は、こういうところにもあったらしい。何処か居心地が悪いと思いつつも、寧奈は何とか納得した。
「疾風丸。あなた方の融合を手助け致しますよ。ですが、魂を連れて行く事はできません。あの魂は天谷(あまや)隆志という、現代に生きるもう一人のあなたのものですから」
 疾風丸に新たな魂は必要ない。彼は慈悲の心によってのみ、命永らえる聖護の鬼。思念そのものが慈悲の心なのだ。清い心であれば永遠の生は揺るぎない。そして、彼の力を保つ存在は側に控え、この先永久に離れることはないのだから。
 詠風姫は彼を深く理解していた。いずれ蘇る彼の魂から、思念だけを切り離せると確信もしていた。彼が共有すべき魂は陸姫が持っている。疾風丸の聖なる力を無限に高める運命の魂を。余計なものは一切捨て、陸を求める思念だけを融合させよ――と、慈安寺(じあんじ)に保管されていた一族宛ての手紙が伝えていた。
「それが詠風姫様の想いですから」
 何も言わず、疾風丸が頷いた。その様子から、彼と一つになるという唯一の望みが叶えられると陸は悟る。綻ぶ笑顔が、生涯忘れられないほどの美しい輝きを放っていた。
 寧奈は玉を掲げる。
「果々倖々――惹かれ合う心を祝福する光。光によって結ばれよ、魂。結呪。――月の光よ、神の力よ、聖なる魂を導き給う。空呪」
 月明かりが降り注ぐ空間で、二人の姿が光に包まれ、徐々に輪郭を失ってゆく。二つの輝きが一つとなり、辺りを煌きで満たしながら、玉を目指してたゆたう。玉は光を受け止める。その先には梓川(あずさがわ)の御神体が待っている。月の象徴である水晶の力が、疾風丸と陸姫という存在を、在るべき場所へと導くのだ。未来永劫、二人が離れることのない悠久の世界へと――
 全てが終わった。
 俄かに緊張が緩んだのか、寧奈は眩暈を覚え、よろめいた。
 即座に雪平が支える。余りの心地良さに、寧奈は暫く身を預けたままでいた。ふと、少し離れたところで理沙たちが見守るのに気づき、慌てて離れようとした。が、雪平がさせなかった。
「あ、もう平気ですから。大丈夫ですよ、雪平」
 と、彼女が抗っても、
「無理をするな。少しは我儘を言え」
 などと、抱き締めて離さない。
 取り敢えず、寧奈は為すがままで溜息を吐く。雪平は至るところに残る彼女の傷に視線を据えていた。
「すまん。守り切れなかった」
 最初はぽかんと、けれど何を指しているのか気づいて、
「構いませんよ、そんな。ほんの掠傷ですから」
 と、寧奈は照れ笑いをする。
 彼女の頬に残る傷に雪平が唇で触れた。とたん、寧奈の心臓は猛ダッシュで走り出してしまった。
 思いがけず、仲睦まじい二人の様子を目撃した一人の少女は、途中から馬鹿馬鹿しいとばかりにそっぽを向いた。
「残念だったねぇ、佐緒里ちゃん」
 悪戯っぽく声をかけたのは理沙だ。勝ち誇って仁王立ちになっていた。横睨みで佐緒里は気色ばむ。
「なっ、何よ!」
「あの二人の間に割り込もうなんてハナっから無理なのよ。わかった? わかったら返事!」
 言われなくてもわかっていた。身に危険が迫った時、佐緒里を助けたのは寧奈で、雪平は決して彼女を助けたのではなかった。
 女の直感なんだから間違いない。それなりにダメージを受けているのに、この女は――佐緒里の目尻が吊り上り、鼻息が荒くなった。
「うるさいわね、知ったこっちゃないわよ! 何さ、あんなの大した男でもないじゃない。だいたいねぇ、私と付き合いたい男なんて五万といるのよ。それに世の中の半分は男なんだからね!」
 夜風に理沙の明るい笑い声が流れた。
 いつの間にやら夜明けの月。寒気に澄み亘る空に身を震わせていた。明け方の大気がしんしんと軋む。空から幾つも白い光が舞い降りてきて――。
 と、雪平以外の四人が、一斉にくしゃみをした。
【詠風姫と空牙】へ続く
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