しねんとひょうい
思念と憑依
朔と望−月下奇談(陽の巻)/幽閉ロゴ
 相も変わらず空気は淀み、赤錆びた境界で隔てられた闇を色濃くしていた。
 鉄格子の奥で蠢く白い影――陸(りく)の思念と三人は真正面で向き合う。寧奈(ねいな)は数珠を握り締め、数歩下がって雪平(ゆきひら)が仁王立ち、その側に隆志(たかし)が佇む。彼ら以外の姿はない。
 これから何が始まるのかは、久能(くのう)老人には話してある。主の許可なくして蔵を開けるわけには行かないだろう。ただ、いたずらに騒いで陸を刺激したくはなかったため、理沙(りさ)と佐緒里(さおり)には先に休んでもらった。今頃は二人とも、部屋で寝息を立てているに違いない。
「陸姫の思念を解放します」
 静かな声にも拘らず、妙に地下室全体に響き亘り、寧奈自身が一瞬びくついた。気を取り直して深く息を吸っては吐き、呼吸を整えると真っ直ぐ前を睨んで念じ始めた。
 朧に鉄格子が光を纏う。徐々に光は輝きを増し、それ自体が発光物であるかのように彼らの瞳を射る。目を細めながらも、誰も視線を逸らさない。光の縞の向こうで陸姫が怯える気配がした。やがて縞が混ざり合い、輝く壁と化す。その頃にはもう、隆志は目を開けていられなくなっていた。
「果々倖々(かかこうこう)――繋ぎ止める光、繋ぎ止める闇。役目を終え、在るべき場所へ還れ……解呪!」
 突然強烈な光を放ったかと思うと、鉄格子は何事もなかった様子で赤錆びた姿に戻る。
 そこに佇む曖昧な影はもはや白暈けた映像ではない。薄ぼんやりとしているが、人の形をして色彩を醸している。翳りのある表情をした美しい姫君。陸が隆志に向かって歩み始めた。ゆっくり、ゆっくりと。
 白い影に怖れを生していた昨夜の隆志は、今は鳴りを潜めている。手を伸ばして自分に向かってくる存在に後退りもしない。これから起こる一部始終から目を逸らせてはならないと、固く決意していた。
 一歩近づく、また一歩――陸姫の表情が明らかになる。懐かしげな愛おしげな笑みを浮かべ、求め続けた相手に腕を差し伸べる。宙に浮かぶ白くたおやかな指が、後少しで触れるほどに近づく。一歩、また一歩――隆志の頬に陸の指先が、触れた。
 表情が一転した。触れられた方ではなく、触れた方が。驚愕と失望の入り混じった顔をして、僅かに動きを止め、弱々しくよろめく。隆志を見つめる虚ろな瞳が哀しみに満ちている。直後――消えた。
 弾かれたように寧奈は駆け出した。狭い石段を駆け上がり蔵の外へ。隆志を引き摺る雪平も続いた。
 扉を押し開けると、天に広がる暗黒の宇宙(そら)、降るほどの星。外気が冷やりと肌を撫でる。寧奈が見据えるのは慈安寺(じあんじ)の方角だ。久能家の墓がある場所に意識を向けた。
 陸の思念を解放すれば己の魂に引き寄せられるはず。そう信じ切っていた寧奈は、真っ向から固定観念に裏切られた。予想していた手応えがない。
「何故でしょう? 陸姫は自分の魂の在り処へ向かっていません」
「この辺りにまだ思念はいるのか?」
「おそらく。ですが曖昧で場所を特定できません」
 左手の人差し指と中指を口元に当て、雪平も気を集中している。しかし、彼にも念の居場所は発見できなかった。寧奈の言うように、この付近に留まっているのだけは間違いないのだが。
 肩透かしを食らったのは隆志だ。怖気づく気持ちを奮い立たせ、これから何が起こるのかを、固唾を飲んで見届けようと肝を据えたばかりなのに。戸惑う眼差しで、謎めいた会話を交わす二人を見比べている。
「隆志さん、部屋を貸してください。できれば慈安寺の方角に窓が開いている部屋を。そこで陸姫の思念を探ってみます」
 彼らは即座に行動に移す。隆志は寧奈たちが泊まっている離れの角部屋に案内してくれた。南西と北西に窓があり、そこから寺がある山の中腹が見えた。しかも二部屋先は雪平たちの寝室だ。何とも都合が良い。
 一人でないと気が散るからと、寧奈は隆志に部屋で休むように促した。何かあったらすぐに大声を上げて呼ぶから、と。
「俺がいなくても大丈夫だな?」
「雪平は隆志さんについていてください」
 躊躇なく、彼は隆志の背中を押しながら部屋を出て行った。後に残された寧奈は南西の窓に向かう。正座をし、数珠を両手に絡めて手を合わせた。
 気配はする。が、ここぞと特定ができない。随分遠くで、ひどく近い。そんな心もとない感触に翻弄される――。
 どのくらいの時間、寧奈は窓の外を凝視していたのだろうか。手元では数珠が陽の気を放ち、幽かに光っている。無心で気を集中していた証だ。我に帰ったのは、側で囁く雪平の声で。
「寧奈、来てみろ。おかしな事になったぞ」
 手招く雪平に続いて寧奈は立ち上がる。彼は真っ直ぐに自分たちの部屋へ向かい、細めに襖を開けて指し示した。ここは彼ら二人の部屋だ。となれば、中には隆志しかいないはずなのに、もう一つ、彼らでない人影が床に覆い被さり蠢いている。
 隆志が声を洩らす。彼が呼ぶ名で上にいるのは理沙だとわかった。
「理沙。寝惚けてないで目を覚ましてくれ」
「何とつれない御言葉を……どうか……どうか全てを忘れ、妾(わらわ)に御前(おまえ)様の情けをおかけくださりませ」
 言葉遣いが明らかに理沙ではない。妖艶に薄闇を泳ぐ腕が隆志を捕らえた。彼の頬をなぞり、胸元を滑る指先。薄暗い中、窓から差し込む月の明かりが二人の影を浮き立たせ、絡み合う姿に妖しさを加味していた。
「陸姫……自分の魂に戻らずに、他人の魂に憑依するなんて。――何故でしょう? 思念は己が魂に引き寄せられるはずなのに」
 確実に読みが外れていたため、寧奈は驚きを隠し切れずにうろたえた。いち早く気づいた雪平が彼女を戒める。
「先入観を捨てろ。陸姫は疾風丸(はやてまる)と一つになりたがっている。ならば生身の身体が必要だ。何しろ相手は人の身を持つのだからな。思念でも魂でも、肉体がなければ想いは果たせん」
「ですが、詠風姫(よみかぜひめ)様の方法では――」
「先入観を捨てろと言った。相手は解放されたばかりの思念だ、理屈は通用せん。押さえつけられていた欲望が暴走しても無理はない」
 雪平は簡単に言い捨てた。
 けれど寧奈には納得が行かない。幾ら愛し合う者同士だからとはいえ、心の繋がりよりも体の繋がりが優先されるなんて。それに現代の二人がお互いを恋人だと認めていても、今は理沙の意識自体が乗っ取られているのだ。こんな理不尽な結ばれ方など許されない。過去の幻影が、現実に生きる者を振り回して良いはずがない。
「妾を……妾を御前様のものにしてくださりませ。さあ一つになりましょう、疾風丸様」
 どんな手を使ったのか、隆志は全く動けないでいる。《疾風丸》と呼んだ理沙が彼の身体に密着した。妖しい指先が何かを求め、肌の上を這い回る。手に入れた生身の肉体を最大限に利用しようと。
 寧奈は我慢できずに襖を開け放ち、勢い良く飛び込んだ。瞬時に起き上がり、鋭い眼差しで理沙がこちらを睨み据える。尋常な目の色ではない。
「やめなさい陸姫。他人の魂では疾風丸と一つになどなれませんよ」
 恨みがましい瞳が寧奈を一瞥する。と、驚くほどの素早さで、戸口にいた二人を擦り抜け表に飛び出して行った。
 即座に彼らは追いかける。先に雪平が、続いて寧奈が、最後に隆志がよたよたと走り出した。玄関を抜け、中庭を抜け、母屋の前庭に走り込んだところで雪平が理沙を捕まえた。腕を捩じ上げたとたん、
「いったたたた! ちょっ、何すんのよっ! あっ、ええっ? 雪平さん、どうしたっての?」
 間違いなく理沙の言葉だ。追い詰められて思念が身体から離れたのか。確認のために、後から追いついた寧奈が彼女の肩を掴んで激しく揺すった。
「理沙? 理沙ね! 無事なの?!」
 がくがくと首を前後にさせられて彼女は不機嫌に喚く。少しばかり、寝起きの時の苛立たしげな口調が混じっていた。
「ちょっ! ばっ! もう〜、いい加減にしてよ、寧奈ぁ。今何時だと思ってんのよ!」
 いつもの理沙だ。
 ほっとしたのも束の間、背後から隆志の叫び声が聞こえた。
「やめろ!」
 顔を見合わせ、全員が同時に駆け出した。
 声は余り離れていない。月明かりを頼りに位置を見定めると、庭池の畔で二つの影が揉み合っている。激しく暴れているらしく、燈篭の灯りを映し、ちらちらと瞬いて見えた。影の一人は紛れもなく隆志だ。相手はそれよりも小柄な影だった。
「やめろって! 佐緒里!」
 妹が兄に抱きついている。しかし、実情は理屈通りの悠長な光景ではなく、隆志の方が圧倒的に劣勢だ。地に崩れ込んだ彼を逃すまいと、上から覆い被さり佐緒里が押さえつける。姿と中身が同じでないのは明白だった。
「さあ! 邪魔が入らぬうちに今すぐ一つになりましょう。疾風丸様、逃しは致しませぬ! 早ぅ、早ぅ契りを交わすのです! ――何を躊躇っておられる。妾と御前様は結ばれるべき運命ではありませぬか! 遠い昔から定められた運命、誰にも変えられぬ運命。何人も二度と引き裂けぬよう、固く契りを結び合いましょう!」
 垣間見えた形相は鬼気迫る。やはり佐緒里では有り得ない。思いも寄らない力で隆志の着ていた衣服を引き裂き、露わになった胸に擦り寄る。愛おしそうに微笑みながら。
「くっそー、佐緒里め! 実の妹のくせに兄貴と結ばれようなんて邪道じゃないよ。許さーん!」
 飛びかかろうとする理沙を寧奈が止めた。
「言っても無駄よ。憑依されてるんだから」
「はっ?! 何に! あの地下牢の幽霊? だったらなおさら許せーん! とっくに死んじゃってるクセに人のオトコを取ろうなんてさっ!!」
 瞬間的に血が沸騰したらしい。根っから負けず嫌いな彼女は、何者であろうが彼氏を奪われるなんて我慢ならないのだ。寧奈の腕を振り払い、再び襲いかかろうとしたが、素早く雪平に羽交い絞めにされていた。
「もっ、もうっ! さっさとあんなの祓っちゃってよ、寧奈ぁ。いつもみたいにパパッとさぁ!」
 真っ赤な顔でこれ以上はないくらい激怒している理沙に、寧奈は申し訳なく伝える。
「ごめんね。邪な者以外は封じられないの。封じちゃいけないのよ、掟だから」
「掟ぇ? 掟って何よ?! 何で封じちゃいけないのよ! アイツは幽霊でしょ? ほっとくと隆志が危ないじゃないの!」
 歯軋りをしながら大暴れする。しかし雪平が相手では、さすがの理沙もいつもの調子は出ないと見える。
「あのね、封魔術は、人の世に危害を加える者しか封印できないの。邪な者でなければ理不尽に封じてはいけないのよ、手助けはしてもいいけど。陸姫は魔に捕らわれている訳じゃないし――」
 と、説明したところで、彼女が「はい、そうですか」と素直に頷いてくれるはずもなかった。
「冗談じゃないわっ! あれのドコが邪じゃないってのよ! ええっ?!」
 このままでは理沙を大人しくさせることは不可能だ。雪平の腕の中で身体は治まっても、口は金輪際、大人しくはならないだろう。
「ふ、封印はできないけど、動きを止めるだけなら問題ないから」
 寧奈は数珠を掲げる。
「縛呪!」
 佐緒里が凝固した。自分の上に倒れ込んできた身体を膝に抱え、隆志が徐に身を起こす。妹が微弱な光に彩られ、僅かにも動かないのに気づくと、咎めるような視線を寧奈に寄越した。が、彼女が言葉を発する前に理沙が行動を起こしていた。
「バカバカ、隆志ぃ〜! 浮気しちゃやだよぉ!」
 膝の佐緒里を除け転がし、隆志に抱きついて大袈裟に泣く振りをする。泣きつかれた彼は為す術もなくうろたえ、頬を少し赤らめながら、理沙の髪や背中をおろおろと撫でていた。放ったらかしの妹はと言えば、たとえムカついても縛呪が効いているうちは動けやしない。尤も、他の思念に捕らわれているのだから、今はムカつけもしないだろうが。
「とにかく、佐緒里さんから陸姫を離さなければ」
 寧奈が数珠を握り締めた瞬間、
『御苦労だったな、封魔術師。良くやってくれた。御蔭でこの女の心も手に入りそうだ』
 不意をつく、冷気に染み亘る声がした。だが辺りに姿はない――姿はないが、闇がある。夜よりも深い闇が空間にわだかまっていた。信じ難いことに陸姫の魂魄を携えて。
「そんなっ! あの結界が簡単に破られるはずはっ……」
 闇が形を変えてゆく。渦を巻き、歪み、人のような形を取り始めていた。その側に影の薄い女性が佇んでいる。煤けた内掛姿といい、心を伴わない表情といい、杉の林で見た陸の魂に相違ない。
『坊主の結界か。赤子の手を捻るよりも容易かったぞ。今頃はあの世の橋でも渡っておる頃だろうて……ククク、最早、儂を止める事など誰にもできぬ。其方(そなた)がどのように優れた術師でもな』
 声は武者の姿に形を変えた。闇の名残を背負ったままで、まざまざと呪いの気を纏いつかせている。憎悪に滾る眼は赤い。毒々しい憎しみが向けられた先は、疑いようもなく寧奈と雪平だった。
『漸(ようや)く巡り会えたか、憎き術師と戦士よ。積年の恨みを思い知るが良い!』
 闇の断片が寧奈に襲いかかった。咄嗟に行動できずによろめく。傾いた身体を力強い腕が支え、同時に光の刃が闇を弾き飛ばした。
「邪なる者。封魔術師に手出しはさせぬ。守護・小埜江(おのえ)の名にかけて!」
 雪平が寧奈を背中に庇う。彼の光剣が夜目に浮き立ち、煌いた。上弦よりも丸みを帯びた月の恵みを受けて。
「俺たちが封じねばならんのは、どうやら奴のようだぞ、寧奈」
 彼の背中越しに武者を見つめる。ぞろりと這う魔の気配――漆黒の闇が陸の背後に迫り寄る。千年に一度の魂を捕らえ、今にも飲み込もうとしていた。
【光と闇】へ続く
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