ぜんせとたましい
前世と魂
朔と望−月下奇談(陽の巻)/幽閉ロゴ
 久能(くのう)邸に戻る前に、寧奈(ねいな)たちは陸(りく)の墓を検めた。
 何よりも先ず、魂の在り処を確かめるのが重要だ。未だに清いままでいるのか、辺りに魔の気配がないか、ほんの些細な翳りでも見逃してはならない。人の世に重大な影響を及ぼすかも知れないのだから。
 さすがに領主の娘の墓ともなれば立派だが、随分とうら寂しい空気が漂っていた。寧奈は花を供え、雪平(ゆきひら)は線香に火を点けた。天に向かって細い煙が立ち昇り、どんよりとした空に霞んでゆく。冬の太陽は落ちるのも早い――急がなければ。
 背中で住職の読経を聞きながら、寧奈は数珠を手に絡めた。目を閉じて、暫し哀れな魂のために祈り、ゆっくりと瞼を上げ、気の流れに神経を研ぎ澄ませる。
 墓所の背景に杉の林がある。寧奈がその辺りに視線を当てると、風の中に見え隠れして何者かが蠢いた。薄っすらと揺れる影の形は紛れもない、陸姫だ。牢の中で見た思念と同じ姿をしている。纏う気が同種のものであると雪平も確信した。
「今のところ、まだ問題の魂は魔の手に堕ちていないようだな」
 彼が呟く。
「ええ。でも風前の燈かも知れませんよ。微かに魔の気配がします。何処が根源かはわかりませんが、近い所であるのには間違いないでしょう。紙一重で結界に阻まれている、といった感じでしょうか」
 気弱な囁き声が僅かに震えていた。
「そりゃあ、闇の者も捨て置かんだろう。無限に力を漲らせる、魅力ある魂だからな」
 雪平の言葉に寧奈は眉を顰めた。疾風丸(はやてまる)を求める余り、未練に縛られてこの世に留まる陸の魂が、まるで便利な物であるかのような言い方に聞こえたので。確かに、邪な目的で魂を狙う者からすれば都合の良い道具でしかないが。
「疾風丸と融合させてみるか」
 無表情な彼の言葉に、
「もちろんそのつもりです」
 と、強い口調で返した。
 雪平が寧奈を一瞥した。興味深げに口の端が上がる。彼は振り返り、住職に申し出た。
「御住職。今暫く結界を護って頂きたい。大昔の忌まわしい出来事に、我々の手で決着をつけるまでは。――宜しいか?」
 住職は読経の声を止めずに頷いた。
 杉の林に視線を据えたまま、寧奈は力を篭めて数珠を握り直した。意識を持たない魂は実に心もとなく見える。それに切ないくらいに稀薄だ。ここには思念が存在しない。だから酷く脆いのだろう。
 寧奈は墓前で手を合わせ、覚悟を決めた。
 後戻りはできない――何としても疾風丸と陸を融合させるのだ。詠風姫(よみかぜひめ)の思い描いた方法で。
 
 夕暮れ近く。またもや寧奈は雪平の背に揺られていた。彼女は歩けると言い張ったが、夜中になってしまうと突っ撥ねられたのだ。山道は既に薄暗く、視界が狭い。木の根に躓(つまず)く程度では済まない危険性を孕んでいる。
 小走りとも言える速さで雪平は突き進む。寧奈一人分の重みなど物ともせず、全く危なげもなく、見事に軽やかな足取りだ。このペースなら、往路よりも更に時間を短縮できるに違いない。
 言われるままにしがみつきつつ、雪平の息遣いがやけに近くに感じられて、寧奈は胸が高鳴った。心の中に広がりかけた不安が緩和される。と、彼の吐息に混じって囁く声が聞こえた。
「二人を融合させるなら、天谷(あまや)の中で眠る疾風丸の思念を覚醒させねばならんぞ」
「はい」
「己の中に別の者がいるとはどんな気分だろうな。天谷が素直にそいつの存在を認められれば良いが」
 自分の中に眠る、自分でない自分。同じ魂を共有しているとはいえ、記憶にない自分は他人でしかない。たとえ過去にその存在だったとしても、今は天谷隆志(たかし)という全く別の人間なのだ。抵抗を感じない方がおかしい。
 寧奈は彼を説き伏せることができるだろうか。新たな不安が湧き起こった。
「私が……私が隆志さんに話してみます。でなければ、陸姫は救われません……」
 か細く流れる声の中に、憐憫より深い何かを雪平は感じた。
 同情という枠を越えている。寧奈は陸姫に感化されすぎているのではあるまいか――彼の脳裏にも、一抹の不安が過ぎっていった。
 太陽の存在がまだ天にわだかまるうちに、彼らは久能邸の側の林を抜けた。薄闇に窓の灯りが浮かび、暮れ残る空には夕餉の支度らしい煙が揺らいでいる。予想通り、帰りは行きよりも半減した――時間も、労力も。
 広い前庭に隆志の姿があった。何事かを考え込んでいるのか、ぼんやりと佇んでいる。二人が間近まで迫っても無反応だ。見るからに尋常ではない。
「隆志さん。只今戻りました」
 寧奈が声をかけても反応がない。
「隆志さん」
 もう一度、名を呼んだ。微動だにしない。
 三度(みたび)声をかけようとしたところで雪平に止められた。彼は隆志の瞳を覗き込んでいる。
「疾風丸が自然に目覚めようとしている。チャンスだぞ、寧奈」
 なるほど焦点の合っていない眼差しだ。雪平の考えは的を射ているかも知れない。寧奈は注意深く、隆志に呼びかけた。
「隆志さん――いえ、疾風丸?」
 とたん、弾かれたように隆志は目を見開いた。いきなりその場に跪き、寧奈に向かって頭を下げる。
「姫! お許しください! 私は姫を裏切ってしまいました。あれほど心を曇らせてはならぬと日頃から諭されておりましたのに」
 陸といい、疾風丸といい、何故こうも寧奈と詠風姫を混同するのだろうか。寧奈も膝を折り、隆志の手を取った。いや、今は疾風丸か。
「疾風丸。良く見てください。私は詠風姫ではありませんよ。梓川(あずさがわ)寧奈と申します、姫の子孫の者です」
 信じられないといった表情で、彼は寧奈を凝視した。暫くは言葉もない。やがて緩やかに俯き、弱々しく呟いた。
「姫の子孫……真に? ……姫はもう、この世にはおられないのですか……。何という事だ。姫に許しを請う事も罷(まか)りならぬとは……」
 胸の奥で無性に憐れみを掻き立てられた。不思議なくらいに疾風丸が愛おしい。
「疾風丸、しっかりして。姫はあなたを見捨てたりはしていないのですよ。だから私たちがここにいるのですから」
 彼の手を力強く握り締める。寧奈の手を疾風丸も握り返してきた。
 その感触が、記憶の底から湧き上がる懐古の感情を呼び覚ました――何ゆえか、何ものか、全く混沌として掴みどころがない。彼を救いたいと願う気持ちが強すぎて、溢れ出しそうになるのを持て余した。
「疾風丸、教えてください。あなたは牢で陸姫の亡骸を見て、その後いったいどうなったのですか?」
 彼の睫毛が悲しげに伏せられた。
 きっと本当は思い出したくもないのだろう。残酷な過去を蒸し返すなど決して望むわけがない。けれど知らなければならないのだ。詠風姫が目の当たりにできなかった事実を、寧奈が知っておかなければ二人を救えはしない。
 疾風丸が語り始めた。喉の奥から搾り出すような、哀しい声音で。
 
 陸姫と出逢った瞬間、彼は戸惑った。訳もわからず引き寄せられる己の気持ちが理解できなくて。近づけば近づくほど離れ難くなる。側にいるだけで魂が吸い込まれるとさえ思えた。
 陸は人だから、生きる世界が違う。やがて彼を通り過ぎ、異なる存在に生まれ変わる、限りある命を持つ者なのだ。同じ寿命を望んでも彼には叶わない。切ない心を押し殺すしかなかった。
 彼の想いを肯定したのは詠風姫だ。二人は宿命の魂を持つから、いつか自然に一つになる。そのための手助けは惜しまない、と笑った。それなのに、陸の死で全ては水泡に帰した。
 愛する者の変わり果てた姿を目にした時、彼の頭には一つの想いしかなかった。彼女を独りにはできない、共に旅立とうと。だが、彼は不死の魂を持つ者。どうすれば生に終止符を打てるのか。
 答えは簡単に出た。何者かが彼の心に語りかけたのだ。
『最愛の女を殺されておきながら、御前は奴等を許せるのか』と。
『鬼より劣る下等で残忍な人間どもを、御前は放っておけるのか』と。
 その何者かを疾風丸が知る由もない。その直後、彼は声の甘言に捕らわれ、邪な思いで慈悲の心を曇らせたから。天の声が容赦なく彼に告げた。
「愚か者よ。神の力を持つ身で、魔に捕らわれた者は捨て置けぬ。消滅を甘んじて受けるが良い」
 それが望んでいた《死》ではないと漠然と気づいてはいたが、もはや取り返しはつかなかった。奈落に引き摺り込まれる刹那、疾風丸は聞いた。闇の底から鳴り響く不快な笑い声を。侮蔑と、策略が成功した喜びに満ちた、邪悪に彩られた笑い声を。
 彼は詠風姫との約束を果たせなかった。
 決して側を離れない。心を強く持ち、清く保ち、永劫に姫と一族に仕えるのだ、と誓ったはずなのに。
 陸と一つになった暁も――
 
 一族の長い歴史の中で、それから一度も詠風姫と疾風丸は再会することはなかった。姫が生きているうちはもちろん、亡くなってからも、彼が転生して一族の者と関わった時代はなかったのだろうか。
 しかし、今の疾風丸には定かではない。彼は時の流れを少しも認識していなかった。現代までに何度も転生を繰り返していたとしても、おそらく覚醒をしたのはこれが初めてだと思われる。今回ばかりは何か様々な要因が――言うなれば、彼が目覚めるための歯車が上手く噛み合ったに違いない。
「貴女はやはり姫の子孫だ。姫と同じ気を纏っておられる……その強さも、正に姫と同じ……」
 呟く疾風丸の肩が震えている。泣いているのか。
 違う。彼の瞳に、先程とは打って変わった表情が浮かび始めた。
「い……や、だ……僕が、僕でなくなってしまう……何も言うな、言わないでくれ……」
「隆志さん!」
 眼前の寧奈をいきなり突き飛ばして、隆志は頭を抱えて喚き散らした。
「嫌だ、嫌だ! 僕は天谷隆志だ! 疾風丸なんかじゃない! そんなヤツ知らない! ――言うなよ――何も言うな。僕の中で声を立てるな! 消えてくれよ! 何処かへ行ってくれよ! 僕の中から出て行ってくれ!」
 隆志は髪を掻き毟り、宙を振り払う。その様子から、彼の中で《隆志》と《疾風丸》が分離を始めていると、寧奈は気づいた。
 意思に関係なく言葉を放つ存在に、隆志は激しく怯え、錯乱していた。そうすれば全てを無に返せるとでも思っているのか、荒々しく腕を振り回して空間と格闘を続ける。
「隆志さん、落ち着いて! 私の話を聞いてください!」
 話どころではない。また寧奈は突き飛ばされ、彼は頭を掻き毟る。その中にいる別の生き物を引き摺り出そうとするかのように。
 飛ばされた反動で、地に転がされた寧奈は、素早く起き上がる。手には翡翠の数珠が握られていた。
「果々倖々(かかこうこう)――負の感情を振り払え、静呪!」
 数珠から光の点が飛び出し、隆志の額を直撃した。低く短い呻き声と共に、だらりと腕が下がる。脱力した身体がその場にくずおれた。
「ぼ、僕は……天谷、隆志だ……他の誰でもない、隆志なんだよ……そうだよね? そうだって言ってくれよ……お願いだ、寧奈ちゃん」
 彼は震えている。目覚めかけた疾風丸の思念を、自分を侵食する存在だと思い込んでいる。それは過去の自分でしかなく、本来なら蘇るはずもない遠い昔の記憶に過ぎないのに。
 縋る瞳が視線を捕らえた。頭の中の声に怯え、確かな現実に繋がる縁(よすが)を求めていた。今、側にいる寧奈に。
「当たり前じゃないですか。あなたは天谷隆志さん。私の親友・理沙(りさ)の恋人」
 寧奈が理沙の名を口にすると、ほんの少し、隆志が落ち着きを取り戻した。
「でも、隆志さんの中にもう一人のあなたがいるのも現実ですよ」
「嘘だ!」
 寧奈は切々と隆志に語る。時間をかけて丁寧に、何度も何度も同じ説得を続けた。
 己の中にいる疾風丸を認め、その思念を解放するように。未来を求めるなら過去を断ち切らねばならない。現実の自分を強く求めるのなら、殊更に思い残した心を昇華させなければならないのだ――と、真剣な眼差しで訴え続けた。
「隆志さん、私の話を信じて。そして心を強く持ってください。あなたは過去の疾風丸という存在ではありません。今、この世界に生きているのは天谷隆志という現代の人間です。あなた自身が過去に負けると思い込むのは大間違いですよ。疾風丸の思念に耳を傾け、彼が何を望んでいるのか理解してください。隆志さんにしかできない事です。お願い……理沙の為にも……」
 漸(ようや)く隆志が頷いた。瞳にはまだ不安が居座り、小刻みな震えは止まらない。
 だが、今のままでは前進など叶わないと彼自身が悟ったのだ。中途半端で放り出したところで、疾風丸という過去の自分からも陸姫の呪縛からも解放されはしないのだから。道を開くのは己のみ。自分自身の手で未来を掴み取らなければ光は見えない。それが、どんな恐怖を齎したとしても。
「天谷、何も怖れる必要はない。心を無にすれば良い。事はあるべき結果へ向かって行く。おまえ自身がそれを望むのなら――現実に目を背けず、おまえ自身が天谷隆志でありたいと願うのならな」
 雪平の言葉が勇気を奮い起こさせた。不安と怖れが急速に衰え、隆志の眼差しが力強さを取り戻す。真摯な決意で輝く瞳に、暮れ落ちた空に浮かぶ月が映り込んでいた。
【思念と憑依】へ続く
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