こもんじょとれきししょ 古文書と歴史書 |
慈安寺(じあんじ)を訪ねるのは、寧奈(ねいな)と雪平(ゆきひら)だけにした。一族の歴史に深く踏み込んでしまうため、重要な関わりを持つ者ですら連れて行くのを避けたのだ。久能(くのう)老人から道を聞き、住職に宛てての書状を携えて、二人は険しい山道に踏み込んだ。 出発前は大騒ぎだ。置いてきぼりは嫌だ、雪平と一緒に行くのだと、佐緒里(さおり)が執拗に駄々を捏ねたから。雪平に腕を絡ませ、寧奈なら連れて行くのかと、筋違いにも彼の身体越しに睨みつけてきた。主旨を誤っている。寧奈が雪平を連れて行くのだ。 いつにない兄の叱咤と痛烈な理沙(りさ)の嫌味で、やっとのことで佐緒里は腕を離した。が、見送る姿が視界にあるうちは憎々しげな眼差しを貼りつけるのをやめなかった。居心地の悪さを感じながらも彼女の気持ちが理解できなくもない。好きな人と一緒にいたいと思うのは、恋する気持ちの発露としては至極当たり前だ。同じ想いが意識の片隅にあるから、寧奈には何も言えなかった。 ひた歩くうち、飛び出した木の根に何度も躓(つまず)いた。雪平には大して苦にもならない山道だが、肉体を駆使することに慣れていない寧奈には、これ以上はないくらい、険しく遠く感じられた。今日中に着くのかと疑いたくなる。久能老人には小一時間ほどの距離だと聞いてはいたが。 注意して歩いているのに、寧奈はまた躓いた。今度はこっ酷く引っかかったのでバランスを崩し、危うく転ぶ寸前で力強い腕に支えられた。雪平が耳元で囁く。彼女を案じて。 「辛そうだな。俺に負ぶさるか?」 「いえ。大丈夫です。歩けます」 少し赤らめた顔で彼の腕を擦り抜け、果敢にも先に立って歩き出そうとした。背中でくすりと笑う気配がして寧奈は振り返る。 「どうかしましたか?」 「いや。今朝の天谷(あまや)の妹を思い出しただけだ」 雪平は隆志(たかし)を姓で呼ぶ。それも呼び捨てで。年上なのだから当然かも知れない。ふと気づけば、佐緒里の名は呼んだこともなかった。 喉の奥で低く笑ったまま彼は言葉を続けない。佐緒里を思い出して何だと言うのか。 唐突に、得体の知れない不安と胸の詰まる息苦しさが、寧奈の傍らに忍び寄ってきた。だが、形を成す前に問いかけられた。 「そう言えば、おまえは幼い頃から駄々を捏ねた事などなかったな。やけに聞き分けの良い子供だった。自分を抑えている、と思った事はないのか?」 いきなりの質問に寧奈は戸惑う。それは持って生まれた気質の問題ではなかろうか。自我が目覚めた後も、さして理不尽に考えなかったところを振り返ると、おそらく扱い易い子供でいたのは無理をしての話ではない。 「佐緒里さんと私を比べているのですか?」 「そんなつもりは毛頭ない。ただ、余りにも違いすぎると感じた。置かれた立場や環境の面で。……本当は、おまえも普通の少女でいたかったのではないか? 無条件で宿命に従うのを辛いと思いはしなかったのか?」 実際はどうなのか、彼女自身にも良くわからない。一つだけ言えるとしたら、寧奈のために雪平が存在するから宿命が苦痛にはなり得ない――けれど、先にこの世に存在していたのは雪平だ。ならば、彼がいるから寧奈は同じ世に生まれてきたに違いない。もし彼がいなければ、己の存在価値はないに等しいと常々感じていた。 「雪平はどうなのです? 宿命を簡単に受け入れられたのですか?」 「俺の話をしているのではない」 質問に質問で返され、雪平がつっけんどんに言い放つ。寧奈は少し恐縮して、 「私は別に無理をしている訳ではありませんよ。雪平がいるから、私はいつでも満たされています」 口にしたとたん、慌てて彼から目を逸らし、よろめきながら踵を返した。寧奈は無我夢中で歩を進める。 思いがけなく頬が紅潮している。気持ちが昂ぶって注意力が散漫になり、またしてもうっかり躓いた。先程こっ酷く引っかけた右足がやけに痛む。 「挫いたか?」 雪平は、しゃがみ込んで寧奈の靴を脱がせた。足の先に血が滲んでいる。挫いたのではないが爪が割れていた。 こんなこともあろうかと、用意してきた薬や絆創膏を取り出す。彼は幼い頃に山岳鍛錬で毎日傷だらけだったため、こういう場面には馴れている。実に手際が良い。 手当てをすれば歩けると思った寧奈だが、気持ちが萎えたのか遂に座り込んでしまった。 「無理をするな」 結局は、雪平に背負われざるを得なくなった。 彼の背中に縋りつつ、寧奈は気が引けて落ち着かない。余計な負担を押しつけて申し訳ない気持ちで一杯だった。彼女の気持ちを知ってか知らずか、雪平の言葉が追い討ちをかける。 「おまえには、詠風姫(よみかぜひめ)のような旅続きの生活は向いてないな」 酷く心が疼いた。 足手纏いだと言われた気がして…… 寧奈が雪平に背負われたお蔭で、却って予定よりも早く目的地に辿り着けた。曇天に埋もれながらも太陽は未だ東の空にある。 久能老人からの書状をしげしげと見つめると、住職は躊躇なく二人を本堂へ案内してくれた。 暫くそこで待たされる。程なく、奥から仰々しい箱を携えて僧侶たちが姿を現した。 目前に並べられる数冊の古文書は、五世紀以上の時を隔てていながら驚くほど保存状態が良かった。粗雑な扱いではと懸念していたが、さすがに寺の縁起と思しき書物を蔑ろにするはずもない。いらぬ心配だったと、二人は顔を見合わせ、苦笑を浮かべた。 古文書の内訳は、和綴じ本の表紙に《御館姫霊鎮書(おんやかたひめたましずめのしょ)》と書かれた物が数冊、表題のない物が一冊、他に書状と思しき物が一簡で全てだ。最後に示された書状を指して住職が説明する。 「これは封魔一族の術師が書き残した物です」 つまり、詠風姫が書き残した手紙だ。 「拝見しても宜しいでしょうか?」 寧奈が問うと、 「子孫であるあなた方なら御覧になるべきでしょう」 住職が、側に控えていた僧侶たちに合図を送った。彼らは書状に歩み寄り、細心の注意を払って丁寧に開いてゆく。徐々に床に広げられた手紙に顔を寄せると、梓川(あずさがわ)の歴史書で目にしたのと同じ、聡明で柔らかい文字が並んでいた。姫の人柄が滲み出たような優しい筆蹟。墨付きも良く、充分に読むに堪える。 手紙は慈安寺の初代住職に宛てられていた。末代までに亘る陸(りく)の供養を懇願するのが骨子となっている。他に、彼女の魂の在り処を魔に悟られぬように、ともあった。 陸は、千年に一度現れるかどうかの稀少な魂を持つ娘。異種の者と交わると相手の力を無限大に高められる。但し、彼女の心が伴わなければ効果は全く得られない。 それを知れば、闇の者に限らずあらゆる者どもが魂を欲しがるだろう。だから陸を捕らえた鬼は、躍起になって彼女の心を手に入れようとしたのだ。彼女の魂がこの世にある限り、異形の者たちの死闘が果てしなく繰り広げられるのは目に見えている。 詠風姫は早くからそれを憂えていた。争いを避ける最良の方法を模索していた。詳しい経緯は梓川の歴史書が物語っている。 鬼を封じ、娘の命を助けた姫を、陸の父・久能惟永(ただなが)は歓迎した。だが恩人の度重なる頼みにも、幽閉された娘を解放しようとはしなかった。 少なくとも、この地に留まりたいという姫の願いは聞き入れられた。困難でも近くにいれば魂を守りやすい。反面、近くにいるからこそ避けられない危険があった。疾風丸(はやてまる)の習性が傷ついた陸に引き寄せられると、予想しながら止められなかった。 黙認した理由は他にもある。彼らが宿命の魂を持つと気づいたから。微妙に重なる二つの魂は、近づくと一つになろうとする。二人が惹かれ合うのは当然で、それはまたとない好機かも知れない。 聖に属する者が無限の力を持てば、無益に命を散らせずに、分を越えた争いを収められるに違いない。一つになりたがる陸と疾風丸――二人の魂が融合することで人の世は救われる。闇に絶大な力を与えないための、最良にして最後の策だ。ただ、疾風丸に怯える人々を納得させなければならなかった。 彼は異形ではあるが神の力を持つ聖なる存在なのだと、姫は根気よく人々に説いて回った。彼の必要性を殊更に強調し、あらゆる物に対して有益であると訴え続けた。 されど人の目は頑なだ。飽くまでも異質な者は異質としか映らない。彼らの理屈では、異形は邪悪な鬼以外の何者でもなかった。 領民の依頼を拒み、鬼を封印しなかった結果、人々は姫に多大な不信感を抱いた。あまつさえ、疾風丸の主が詠風姫だと隠しもしなかったのだ。誰も聞く耳を持たないのも無理はない。 望ましくない結末を危惧した姫と戦士は、この地を離れる決意をする。唯一人、疾風丸を密かに残して。 その矢先、悲劇が陸に襲いかかった。 最悪の結末に姫は愕然とした。陸を死に追い込んだだけではない。彼女の魂を護る切り札を失ってしまった。愛する者の亡骸を目にした直後、疾風丸が姿を消した。 姫の策には彼の存在が必要不可欠だ。慈悲の力を喪えば、疾風丸は即座に命を落とす。聖なる心が魔に囚われる前に探し出さなければならない。 それまでは、何人たりとも陸に触れさせるわけには行かなかった。陸は疾風丸に未練を残している故、すんなり成仏はできまい。彼女の魂を封じるなら、亡骸を牢に放置したまま鉄格子に術をかければ良い。物体は塵一つ牢から出られなくなる。そして、朽ちたところで陸の形が中にあるうちは魂も外へは出られない。破邪の札が近寄る魔を粉砕する。魂は清い姿で保たれるのだ。 しかし領主から追い払われた身では、もはや陸には近寄れない。領主が娘の供養のために呼び寄せたという僧侶に、一縷の望みをかけるしかなかった。 姫は断腸の思いで一冊の書物をしたためた。己が知る限りの疾風丸の詳細を、余す事なく全て書き記した。意図して表題はつけず、嘆願の書状を添えて秘密裏に僧のもとへ向かう。切迫した思いで陸の魂に纏わる話を伝え、姫ができないことを託した。 最後に付け加える――万が一、陸の魂が魔の手に堕ちれば人の世は闇に支配される――と。同じく闇を見据える力のある僧なら姫の話が理解できるはず。 期待を裏切らず、由々しき問題に僧も弟子たちも深く理解を示し、自ら望んで賛同した。僧の法力を直感した姫は、一日も早く疾風丸を探すべく戦士と共に旅に出た―― だが、事は思惑通りに行かなかった。《御館姫霊鎮書》によると、娘に止め処なく哀れを覚えた父は、自ら呼び寄せた高僧が拒むのも聞かず、墓を作り、亡骸を埋葬した。逆らえば悉(ことごと)く殺すと僧侶や弟子たちを脅して。 思いもかけぬ事態に僧侶は狼狽した。御館様の娘御を牢から出してはならぬ――と必死の抵抗をしたが、結局、血気走る領主を止めるなど誰にもできはしなかった。唯一できたのは、亡骸について行くであろう魂から思念を切り離し、陸の心だけでも牢に封じ込めることだけだ。彼女の心が伴わなければ姫が怖れていた結果にはならないと信じて。 そして墓に強力な結界を張り、生涯命を懸けて、自己意識を失った魂を護り続けようと誓いを立てた。 領主は僧侶に命じた。菩提寺を建立し、末代まで陸の墓と寺を護れと。元より僧侶に墓から離れる意志はない。領主の命令など最初から念頭にはなく、姫の嘆願の根底にあるものを怖れたからだ。僧は慈安寺の住職となり、弟子たちも誰一人、山を去ろうとはしなかった。 以来、菩提寺建立の経緯を記した《御館姫霊鎮書》に、歴代住職が陸の墓と魂の有様を綴り続けたという―― 古文書を読み終えて、最大の謎が解明されていないと寧奈は気づいた。 「梓川の歴史書では、この一件の後には疾風丸の名は一切登場しません。この古文書にも、手紙にも、結末らしいものは何一つ……いったい彼はどうなったのでしょうか?」 雪平に古文書の束を差し出した時、手が滑って、疾風丸について書かれた表題のない書物が落ちた。慌てて寧奈が拾い上げると、端から書簡らしきものが覗いている。 それが謎の答えだ。その書簡は詠風姫が後から送ってきたのだと住職は言う。宛て名は他でもない、梓川の子孫になっていた。姫が一族に残した最後の無念の想いに相違ない。 書簡には驚愕の事実が記されていた。 詠風姫は遂に疾風丸を見つけ出せず、この地に生きて戻ることも儘ならなかった。疾風丸は慈悲の心を喪ったのだ。陸の死と共に、彼の心は壊れた。 最愛の者を失った時、疾風丸の中に微塵もなかった憎しみの心が芽生えた。聖なる者が抱いてはならない負の感情が、この世の全てを呪い、彼を消滅へと導いた。 姫の無念の程はいかばかりか。尋常でないのは書簡の筆跡からも伝わってくる。文字に篭められた深い自責と激しい悔悟の念。罪もない者を死に追いやり、救いを求めた者を救えなかった事実が末期まで責め苛んだ。 詠風姫は、己の力の足りなさを最も責め、疾風丸を大江山から連れ出したことを最も後悔した。生涯の償いは、不遇な者たちのために祈り続けること。姫の命が尽きるその日まで、祈りが途絶える瞬間はなかった。 姫の祈りが神に通じたのかも知れない。疾風丸は消滅を免れて、現代の少年の内に甦ったのだから。けれどその少年が、よりによって愛した女性の家系の末裔とは、なんと因果な話だろう。 陸の死の直後から、おそらく詠風姫は感じていた。疾風丸が慈悲の心を喪ってしまうことを。そしていつか必ず蘇ることも。彼女はいながらにして、遥か未来の出来事を早々と予見していたのだ。書簡の最後に書かれていた一文にそれが表れている。 『子孫に告ぐ。疾風丸を見つけし者は即刻陸姫と融合させよ。但し、疾風丸が聖なるうちでなければならぬ。それ以外は粉砕するべし。未来永劫、陸姫の魂魄を闇に埋没させてはならぬ』と。 【前世と魂】へ続く
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