はやてまるとりくひめ
疾風丸と陸姫
朔と望−月下奇談(陽の巻)/幽閉ロゴ
 まるで奈落にでも続くかと思えるほど、暗い石の階段。光源は揺れるロウソク。足元が覚束(おぼつか)ない……
 
 場所は山奥の古屋敷。単に田舎特有のだだっ広い建物というわけではなく、昔は城か砦だったと見える強固な造りになっている。隆志(たかし)の先祖は戦国の領主だった。敵に容易に攻め込まれないため、険しい山に屋敷を築いたのも納得が行く。
 現代社会に於いては、交通の便といいライフラインといい、至れり尽せりという状態には程遠い。何分にも都会とは違うのだ。或る程度は一応の設備も整っているが、さすがに蔵の地下まで電気は通っていなかった。
 雪平(ゆきひら)が先頭で階段を下り始める。次に寧奈(ねいな)が続いた。隆志以外は無理強いするつもりなどなかったが、何故かぞろぞろと理沙(りさ)と佐緒里(さおり)もくっついて来た。最後にこの屋敷の主、久能(くのう)老人――言うまでもなく隆志と佐緒里の祖父――が下りる。
 
 狭い空間に反響する足音。淀んだ空気が黴臭い臭気を放つ……
 
 問題の地下牢は、冬にしては冷え込むでもなく、地下室全体が、外気から遮断された室(むろ)としての役目を保っているらしい。通路で上階の蔵内部と地下の停滞した大気が曖昧に混ざり合った。解放を待ち構えていた埃が舞い上がり、唯一の光に身を躍らせる。一瞬、焦げた匂いが鼻を擽(くすぐ)り、静かに消えていった。
 
 不確かな炎に揺られる奇妙に長い影。自分たちの影なのに、悪魔や妖怪を連想させられ、首を竦める……
 
 子供の頃、ここで爪の跡が残るくらい妹に腕を掴まれた、と隆志が話していた。その時もこんな風に生唾を飲み込み、得体の知れない気配に身震いしていたのだろうか。寧奈が僅かに振り返ると、薄闇の中で佐緒里は理沙の腕を掴んでいた。空気の流れが微妙に変わる。一人ずつ、闇が支配する世界へ下り立った。
 
 思いの外、広い空間に唖然とする。古びた時代の大気が、突然の侵入者に掻き乱され、蠢いている……
 
 話の通り、奥のどん詰まりに板が打ちつけられてあるのを確認した。おそらくは城砦に特有の隠し扉だろう。その先には危険が迫った場合などに、城の者が外へ抜け出るための通路が続いていると思われる。
 掲げられた灯りに薄ぼんやりと白い物が映える。隠し扉に幾枚もの札が貼られていた。
 寧奈にも雪平にも見覚えがある。不動明王の種字――つまり、不動明王を象徴する文字が記されたそれは、封魔一族にのみ伝わる独自の呪符だ。一目でわかるほど強力な破邪の力が篭められている。紛れもなく、梓川(あずさがわ)の術師が携わった証。もはや詠風姫(よみかぜひめ)が関わっていたのは疑いようがない。
 右手に視線を巡らせる。隆志の説明は何処までも詳細で、『鉄の棒が地面から生え揃っている』と表現された牢が、こちら側と奥の闇を赤錆びた鉄格子で隔てていた。血の臭いに似通った、腐れた酸素が漂う。この向こうに彼を呼ぶ者がいるはず。
「いるな」
「いますね」
 寧奈と雪平の事もない会話に、背後で少女二人が手に手を取って震え上がった。隆志は言葉もなく、久能老人はただただ立ち竦んでいる。
 片手に数珠を握り締め、徐に鉄格子に近寄ると、寧奈はその場で正座をした。妙な悪寒が剥き出しの土から這い上がってくる。手を合わせ、経を唱えようとしたところで声がした。か細く、苦しみに満ちた声が。
 
 ――姫様……何故、今になって……
 
 奥の闇に仄白い影が浮かぶ。隆志が叫びにならない叫びを上げた。寧奈と雪平には障りなく感じられる存在だったが、やはり後ろの連中には、隆志以外に聞こえなければ見えもしないようだ。
「私は詠風姫ではありません。梓川寧奈と申します。あなたのお名前を教えていただけませんか?」
 白い影は戸惑いがあるのか答えない。じわり、と恨みがましい気が蠢いた。泣いているとも笑っているともつかない声は、くぐもる色合いで一言、云えぬ――と吐き捨てた。ぼやけた影が揺れる。
「構いませんよ。こちらから申しましょう。あなたの名は陸(りく)。五代領主・久能惟永(ただなが)の娘。一の姫として生まれながら婿をもらう事もなく、この暗い地下牢で命を散らせた哀れな方――私は詠風姫の子孫です。姫があなたの事を書き残しておりました。生涯、あなたと疾風丸(はやてまる)の行く末を案じて忘れられなかったようですね」
 疾風丸の名を耳にしたとたん、影は激しく身じろいだ。すすり泣く空気の振動と、胸を締めつけられるほどの深い切なさが、意識の奥にひしひしと伝わってくる。その哀れな姿が寧奈の視界を過ぎった。
 鉄格子に捕らわれたままの、か弱く美しい姫君――乱れた長い髪も憔悴した表情も、彼女の美貌に凄味を加えるばかり。粗末ではないが煤けて見える衣装が、幽閉されてからの彼女への待遇を物語っている。陸のたった一つの拠り所は疾風丸だった。
 
 ――疾風丸様! どうか……どうかお側に!
 
 影は鉄格子を越え、隆志に向かって手を伸ばそうとした。
 瞬間、稲妻と思しき白い閃きが降り落ちる。赤錆びた鉄が痛々しく煙を上げた。もちろん、見えているのは寧奈と雪平、隆志だけでしかない。突然の衝撃に怯え、影は闇の向こう、更に奥へと引っ込んで蹲ってしまった。縋る瞳が何かを訴えかけていた。
「妙な封がしてあるな」
 雪平の呟きに寧奈も呟きで返す。
「そうですね……もしや……」
 汚れるのも構わず膝で歩み寄り、ゆっくりと錆びた鉄に手を触れた。寧奈が触っても何も起こらない。だが、影が触れたり越えたりした場合、何らかの力が働いて威嚇するらしい。封印と言うよりは或る種の結界とした方が良いだろう。
「空間に対する結界ではなく、この鉄格子に術がかけてあるみたいですよ。不完全ですね、封印とは言えません。尤も、この術をかけた御方は影の正体を見抜いていらしたのでしょう。思念だけを封印したところで解決にはなりませんもの」
 背後の連中を、おまけに当事者の隆志まで全く無視して、会話は続けられる。
「なるほど、思念だけか。だが魂は何処にある?」
「わかりません。今のところ、ここにはないと申し上げる他は……。ですが、五百年余りも長い間この場に思念が留まっていられるなど、近くに魂がない限り考えられません。陸姫の思念を解放すれば、魂の在り処に連れて行ってくれるのではないでしょうか?」
「問題は、この結界を誰が仕掛けたか、だな」
「はい」
 寧奈は振り返り、久能老人を見た。
 突然視線を浴びせられた老人は、畏怖に満ちた眼差しを彼女に向けた。隆志から事前説明を受けているとはいえ、先程からの遣り取りを聞いたがために、単なる孫の友人として接することができなくなったのだろう。やけに畏まり、ぎこちない態度でうろたえていた。
 苦笑しながら寧奈は老人に尋ねる。知りたいのは、陸の霊を鎮めるために僧侶か行者、それらに類する者が関わっていないかということ。加えて、何処かに預けられているはずの古文書の行方を、この場で明かして欲しいと頼んだ。
 緩慢な動作で老人は頭を垂れた。年輪の刻まれた声で彼が語ったのは、屋敷の近くにある寺との深い縁(えにし)について。
 同じ山中にある人里離れた古寺は、遥か昔から久能家の菩提寺となっている。代々の人間に何かが起これば例外なくここを頼るのだ。そして、例外なく老人も助けを求めた。
 五百年以上も昔、寺の歴史の発端となったのは、当時の領主であり、陸の父である久能惟永だ。娘が嬲り殺された後、弔うために徳の高い僧侶を呼び、菩提寺を建立した。或いは祟りを怖れたのかも知れない。山中の寺は陸のためだけにある。当然、弔いをした初代住職が鉄格子に術をかけたのだ。
 八年前、久能老人は寺に助けを求めざるを得ない状況に追い込まれた。彼を菩提寺に走らせたのは他でもない、高熱を出して寝込んだ隆志だった。
 戯れに語り聞かせた古文書の逸話が原因で、孫が悪戯心を起こし、目を離した隙に鍵を持ち出して古い蔵に入り込んだ。老人自身は古文書の信憑性を理解していたため確かめたこともない。けれど幼い孫にその辺りの事情などわかろうか。蔵の側で、赤い顔の隆志と青い顔の佐緒里を発見した時、何も知らない孫が不用意に封印を解いたのではないかと懸念した。原因不明の隆志の熱に決定打を覚え、老人は一も二も無く寺に駆け込んだのだ。菩提寺の現住職が鉄格子の結界に新たな力を与えた。
 以上の経緯から容易に推察されるが、古文書は件(くだん)の寺・慈安寺(じあんじ)の奥深くに保管されている。
 苦労覚悟の古文書捜索はあっけなく終わった。それはそれで良しとして、老人の口調が大して頑なでもなかったのが気にかかる。果たして厳重に保管されているのか心配だ。
「明日にでも慈安寺を訪ね、御住職にお話をお伺いして古文書を拝見させていただいても宜しいでしょうか? 鉄格子の封印の件もありますし」
 久能老人に異論のあるわけがなかった。
 無言の肯定を確認すると、寧奈は鉄格子に向き直り、何かを唱えた。彼女の背後に控える連中には、とても聞こえないほどの小さな声で。
 が、隆志には、その言葉によって明らかに陸が落ち着いたように感じ取れた。改めて寧奈が普通の少女でないと思い知らされる。異形の者を前にしても堂々たる態度で少しも臆さない。彼より年下の、しかも気弱で奥ゆかしい少女だったはずなのに。
 華奢な背中を見つめながら、本日はここまでで、と地下から立ち去ろうとする寧奈に、隆志は思わず声を上げていた。
「待って、寧奈ちゃん、教えてくれよ。あの幽霊は僕といったいどんな関わりがあるんだ。疾風丸って何者なんだよ。どうしてあの幽霊は、僕を疾風丸だなんて呼ぶんだ?」
 一度は肩越しに振り返り、隆志の眼差しの真剣さに気圧され身体全体で振り返ると、寧奈は姿勢を正して彼を見つめた。渦中の中心にいる隆志に隠し事はできない。誰をおいても彼にだけは、疾風丸と陸姫の因縁を話すべきなのだ。
 
 疾風丸はあらゆる物を癒す宿命を持つ。何者にも拘らず、傷ついた者には力を分け与えずにはいられない。彼の習性は戦国の地には過酷すぎた。大江山ならいざ知らず、この御時世、何処もかしこも傷ついた者で溢れかえっていたのだから。
 少しでも疾風丸を休ませようと、詠風姫はこの山に入り込んだ。まだ争いに巻き込まれていない山里なら彼が力を使うこともあるまい、と。
 ところがこの土地には悪しき鬼がいた。
 民を苦しめる鬼を封じるのは姫の役目だ。望まれれば何をおいても行動する。なれど、鬼から救い出した娘が疾風丸の運命を変えてしまうとは。
 救い出された娘は少しも鬼に汚されてなどいなかった――心も、身体も。鬼にとって、彼女は安易に傷つけられないほどに特別な存在だったのだ。鬼が欲しがったのは娘の心だけだ。
 だが、領民たちは誰一人信じようとはしなかった。万が一、娘に傷一つなかったとしても鬼に捕らわれていたのは事実だ。どんな障りがあるやも知れないため野放しにするのは言語道断。陽の目を見れない場所に閉じ込めなければ――そして自由を奪わなければ、決して安心はできない。
 それまで蝶よ花よと誰からも愛されてきた娘は、掌を返した領民の仕打ちに愕然とした。潔白を信じないどころか、領主の娘に対して罪人と等しい扱いをする。己の存在を抹殺されようとした時、鬼のもとでは傷つかなかった心が砕け散った。
 鉄格子の中で絶望に苛まれる娘の傷に、いち早く反応したのが疾風丸だった。傷ついた者を癒さずにはいられず、毎夜、娘のために地下牢に通い続けた。けれど、どんなに力を駆使しても娘の傷は深まるばかり。遂には為す術も尽きてしまった。喪った自由を取り戻せないでいて、心が休まるはずなどないだろう。傷つく者を救えない苦悩を、疾風丸は初めて味わった。
 彼は娘を救えなかったわけではない。娘には頼る者が彼しかいなかったのだから。彼女は疾風丸に全てを捧げ、全身全霊で彼を繋ぎ止めようとした。たった一つの拠り所を失っては生きてゆく術がない。いや、死んだ方が良かったくらいなのだが、彼の存在が生きる力を呼び戻したのだ。
 全てを投げ打ち縋る者を、疾風丸が見捨てたりなどできようか。それだけではない。娘の魂に触れた瞬間に彼は知ってしまった。誰よりも近い、切実なほど似通う魂を――理屈では計り知れない。
 気づいても遅すぎた。出会ってはいけなかった存在、交えてはいけなかった心。どんなに惹かれ合ったところで、異形の者と人間である限り何処までも不毛でしかないのに。
 だがしかし、二度と離れられないほど心が引き寄せられ、お互いを激しく求め合う。狂おしいまでの気持ちを、もはや微塵も抑えることなどできなかった。
 疾風丸は陸姫を愛した。生涯、唯一人の存在として――
 
 沈黙が支配する地下室に、隆志の微かな吐息だけが流れていった。
「確信はありませんが、隆志さんは疾風丸の生まれ変わりなのではないでしょうか。陸姫には、あなたの中の疾風丸が見えているのだと思います」
 隆志の顔に複雑な表情が浮かぶ。その瞳は鉄格子の闇に向けられていた。
【古文書と歴史書】へ続く
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