せっとくとじょげん
説得と助言
朔と望−月下奇談(陽の巻)/幽閉ロゴ
 すっかり遅くなってしまった。きっと叱られる。用件が終わってからも話し込んだのがいけなかった。
 しかし無理もないだろう。寧奈(ねいな)は術師である前に、多感な高校生の女の子なのだから。普通の少女なら友達と話が弾むのも良くあることだ。
 けれどもう八時。今までこんなに遅くなった日などなかったから、どんなに叱られるか想像もつかない。辺りは真っ暗だし、家の周囲は広大な私有地で、やたら竹林や雑木林のある寂しい場所なのだ。私有地だからといって他人が入り込まないとは限らないし、街燈が点在していても、心細さは増すばかり。
 不意に気配がして振り返った。カーブを描く坂道の下方、ちょうど姿は見えないが、地面に常夜燈の灯りを受けて人影が落ちていた。
 誰かいる。場所柄から考えても家人でなければならない。だが、影は近づく素振りもなく、何故か佇んでいるだけ。暫く息を殺し、固まったまま凝視していたが、予想に反して全く動きがない。
 踵を返す。音を立てずに深呼吸をした。背後に気を集中して、ゆっくりと歩き出す。
 背中から微かに引き摺るような足音がした。寧奈が立ち止まると真似をして――止まった。
 少し早目に歩を進めてみる。どうやら同じ速度を保っているみたいだ。
 また立ち止まる。
 再び足音も、止まった――。
 俄かに恐怖が染み込んできた。彼女にとって悪霊や悪鬼などは恐れるに足りずだが、本当に怖いのは生身の人間かも知れない。あの足音は明らかに生きた人間だ。家人なら声をかけて来ないのはおかしいではないか。もし、外部の者が入り込んでいたのだとしたら……
 突然、寧奈は走り出した――全速力で。引き摺る足音が追ってくる。やはり全速力だ。息を切らせながら懸命に走る。この坂道の突き当たりが屋敷の門。逃げ込めればこっちのものだ。たとえ相手が良からぬ賊でも、門には腕の立つ番人がいる。
 が、甘かった。相手は寧奈より歩幅が広いらしい。
 足音がどんどん背後から迫ってくる。衣擦れの音すら聞こえるくらい。恐怖の余り、後ろは確認できなかった。縺(もつ)れそうになる足を必死で動かす。すぐそこはもう門なのに、後少しで走り込めるのに――願いも虚しく真後ろで気配が蠢いた。
 とたん、力強く肩を掴まれる。
「ひっ!」
 喉が竦んでいて押し殺した悲鳴しか出なかった。門番に聞こえるほど絶叫したかったのに。
「おまえの足で俺から逃げるのは不可能だぞ」
 聞き覚えのある声に、恐る恐る振り返る。
「ゆ……雪平(ゆきひら)……」
 全身から急激に力が抜け、寧奈はへなへなとその場に崩れ落ちた。
「どうした? 痴漢に襲われて犯されるとでも思ったか。おまえが魑魅魍魎(ちみもうりょう)を怖れる訳がないからな」
 安堵と共に、少しばかり不平不満が鎌首を擡(もた)げてきた。人を驚かせておいて何という言い草だ。ここは一つ、何か言い返さないと気が済まない。寧奈にしては珍しく反抗精神が目覚めたのは、門限を大幅に破ってしまった罪悪感の裏返しではなかろうか。
「こ、ここは私有地です、痴漢だなんて……そ、それより、私だとおわかりなら、声をかけてくだされば良かったのではないですかっ!」
 彼は飄々と言い退ける。
「それは悪かった。だが、声をかけるよりも先に走り出したのはおまえだ。有ろう事か、結界に守られ、賊や魔の者が入り込めない土地だと理解していながら、おまえ、明らかに俺を警戒していただろ。いったい何だと思ったんだ?」
 ぐうの音も出なかった。
 確かに、狐狸妖怪の類いだという考えなど彼女の念頭には微塵もなく、強盗、或いは痴漢だと思い込んだのは事実だ。鈍い賊相手で稀に結界が効かない場合を前提にしてはいるが、滑稽なまでの単純思考と言える。自己嫌悪のため、とてもダイレクトに白状する気にはなれない。
 そもそも生まれてこの方、彼に口で勝ったことは一度もなかった。相手は二十一歳の大学生なのだ。年齢以上に数々の知識と経験から裏打ちされた理屈っぽさには、十六の小娘など歯が立たない。人を食うほど掴みどころのない雪平と、生真面目で何事にも控えめな寧奈とでは、最初から勝負は見えている。バツの悪さで居た堪れなくなった。
 力なく俯く寧奈の目に、雪平の足元が映る。白足袋に草履――引き摺る足音はこれだった。およそ走るに適さない履物で、何もあんなに全力疾走をしなくても良いのに。そこに驚かそうとした意図が見え隠れしている、と感じるも、抗議をしたとて「邪推だ」と返されるのが落ちだろう。
 それにしても、裾も乱さずに力一杯走りのけたばかりか、この真冬の最中、着流しの上に羽織だけとは酔狂な出で立ちだ。さすがは戦士。鍛え方が違うと言うべきか。
「寧奈」
 声をかけられ、反射的に顔を上げる。雪平は夜空を見上げていた。月より星の光が勝る空。下弦を越えた月齢二十九日の細い月が、二人を静かに見下ろしていた。
「立て」
 彼は顔を下ろし、手を差し伸べる。その手に掴まり、ゆっくりと立ち上がった。と、雪平の両腕が背中に回り、寧奈をやんわりと抱き寄せた。
 暖かい胸の感触が頬に伝わってくる。身長差がかなりあるため、彼の胸まで頭の先が届くのがやっとだ。密かに甘い展開を期待した彼女を裏切って、雪平の大きな掌が、子供の頭でも撫でるように寧奈の髪を撫でていた。だけど、その後の言葉は素直に嬉しいもの。
「余り遅いから心配したぞ」
 ゆるゆると、彼を見上げた。
 門燈が端正な顔を照らし、普段以上に美しさを際立たせていた。秀麗に弧を描く眉が微かに顰められている。いつも冷静な雪平にあるまじき心配げな表情ではないか。
「ごめんなさい……」
 寧奈は彼の胸に顔を埋め、遠慮がちに背中に腕を回した。穏やかな鼓動が聞こえてくる。
「おまえが無事ならそれで良い」
 腕に力を込め、雪平が囁く。続けて耳元で、
「明日は朔の儀式だ。遅くなるなよ」
 そうだった――。
 寧奈と雪平の場合、朔と望の儀式なくしては、術師と戦士の関係を完璧に保てない。互いの力を融合させ、身を守るためには、儀式は必要不可欠なのだ。大事な日を前にしてこれでは無闇に不安を掻き立ててしまうのも道理。きちんと遅くなった理由を説明しなければなるまい。
 そこで懇切丁寧に、今日聞いたばかりの話を雪平にした。門限破りの言い訳であると共に、彼に興味を持たせ、暗について行ってくれるよう匂わせておいたのだ。ついでに言えば、もう一人、手強い相手を説得する際の味方になってもらおうという魂胆なのだが。
 話を聞き終わり、雪平は僅かに首を捻った。
「疾風丸……何やら聞き覚えのある名だな」
 彼の呟きにドキリとした。隆志(たかし)から聞いた瞬間、正に寧奈も同じ感想を持ったからだ。
 
 門限破りの上に面倒な話を持ち帰ったせいか、二人の前で榊(さかき)が仏頂面をしている。項垂れる寧奈と腕を組む雪平と、二つの顔を渋面が交互に見比べていた。
 榊は寧奈の封魔術の師匠だ。生まれ落ちた日から指導を受けている。父や母、兄たち姉たちより長い時間を共に過ごしてきたため、寧奈が最も信頼し、また頭の上がらない家族でもあった。
 かなりの高齢にも拘らず、未だに強力な封魔術師として現役に近い榊は、一族の本家屋敷で長老として別格の扱いを受けている。本家の術師たちを束ねるのは長老の仕事だ。つまり、榊の許可がなければ寧奈は何処へも行けないことになっていた。表向きは。
 術の指導に関しては鬼と呼ばれる榊だが、愛弟子に対しては、実はこっそり心甘い部分を隠し持っている。特に寧奈・雪平コンビには一方ならぬ過保護精神を抱いていて、蔭ながらあれこれと支援していた。表情にはおくびにも出さないから二人が気づいているかどうかは定かでない。
 榊が溜息を吐く。いや、鼻息か。ふん、と鼻を鳴らせて寧奈をじろりと睨み据える。
「疾風丸とは……」
 だが、言葉を繋げない。今度は手に握った数珠に視線を落としている。何から語ろうかを考えあぐねている風で。
 目線が移動したのに乗じて、寧奈は上目で榊を盗み見た。老婆と呼ばれる年齢でありながら、いつまでも矍鑠(かくしゃく)として肌の色艶も良く、ピンと張り詰めた姿勢の良さに年寄りらしさは微塵もない。年相応なのは髪が真っ白なところくらいだ。小柄で少々小太りだが、実に貫禄は充分である。
「お婆。疾風丸とは聖護(せいご)の鬼ではないか?」
 いつまで経っても口を開かない長老を促すつもりで、雪平が声を上げた。仏頂面を崩さずに、榊は事も無げに言う。
「その通りじゃ。疾風丸を長とする聖護一族は、我らとは縁(えにし)深い仲にある。その昔は封魔の手助けをしてくれた者たちじゃぞ。そなたの事じゃから、梓川(あずさがわ)の歴史書でも小埜江(おのえ)の文献でも目にしておるであろう。寧奈も知らぬとは言わせぬぞ。婆が話して聞かせたはずじゃ」
 急に矛先を向けられて寧奈はうろたえた。
 しかし言われてみれば覚えがある。幼い頃から梓川家の歴史を学んできたのだ。何処かで耳にしたと思うのも当然。昔話的に語られた話の中に、隆志が聞かせてくれた伝説のような物語があった。良く似た話があるものだと気にもせずに聞いていたが、もしや、あれは――。
「榊様。もしかして、私の友人がしてくれた話は詠風姫(よみかぜひめ)様のお話でしょうか?」
「疾風丸が登場するのなら間違いなくそうであろうよ。我らの御先祖様には一風変わった方もおられるのでな」
 やはり、そうか。
 梓川・小埜江両家には、多くの術師や戦士たちの逸話が文献として残されていた。その中でも一番のお気に入りが詠風姫の物語。姫の人となりが寧奈の憧れだったのだ。
 詠風姫は戦国時代初期、諸国を放浪して魔物封じを行ってきた稀少な封魔術師だ。余所に出向くことはなく、決まった土地を守るのが通常の術師の在り方とされている。一族は分家を全国各地に点在させ、担当地区をそれとなく決めていた。だが、何分にも魔は無限に存在する。目の届かない部分があっても止むを得ないのだ。姫のような術師が重宝されたのは言うまでもない。
 姫が変人と伝えられる理由の一つは、守護戦士の他に鬼を伴っていたからだ。鬼の全てが悪鬼とは言えないが、魔を封じる術者にしてはかなり稀有(けう)な行いのはず。しかも、姫は鬼を使役せず仲間として扱っていたとか。そこが最も特異だと、後世の資料には書き残されている。
 となれば、その鬼が疾風丸という名だったか。余り文献には名前は頻繁に登場しなかった。寧奈の思い違いでなければ。
「しかし、そなたの話、今ひとつ妙ではないか? 現世の少年を霊が疾風丸と呼ぶなどとは解せぬ。疾風丸は不死の鬼族じゃ。慈悲の力によって命永らえる種族なのじゃぞ。心に慈悲のあるうちは死に即する事はない」
 榊は断言したが、暫し考えに耽った。
「ふぅむ。疾風丸が慈悲の心を失ったのなら話は別となるか……調べてみる必要がありそうじゃな」
 もう一度、寧奈も疾風丸に関する文献を読み直した方が良さそうだ。それはさておき、これほどまでに一族と深く関わる問題なら、案外簡単に出向くことを許可してもらえるかも知れない。
「では、冬休みに入り次第現地に向かい、詳しく調べて参りましょう」
 期待満面で提案すると、
「それには及ばぬ。現地の近くの分家に頼むとしよう。あの地区には過去読みが得意な術師がおる。大して時間もかからずに真相が判明するであろうよ」
 あっさりと言い切られてしまった。ここで妥協しては長年の友情にヒビが入りかねない。寧奈は慌てて返す言葉を探したが、どうにも説得力に欠けるものばかり。
「お婆。寧奈の気持ちを汲んでやっては如何か。親しい友人に関わる事だ。寧奈も人任せでは不安であろう」
 すかさず助け舟を出したのは雪平だ。が、榊は胡散臭そうな目で彼を一瞥しただけ。
「今の段階で口出しは無用じゃ。そなたたちには他にする事があろうが。明日の儀式、滞りがあってはならぬぞ」
 唖然――。
 それ以上、雪平もしつこく食い下がったりはしない。元より、寧奈が大師匠に口答えなどできるわけがなかったのだ。
「寧奈。明日は寄り道をせずに戻るが良い」
 引導まで渡された。
 不甲斐ない自分に辟易しながらも、持って生まれた気質を変えるのはなかなかに難しい。寧奈の頭の中では早々と、理沙(りさ)に対する言い訳が忙しなく駆け巡っていた。
 榊の部屋を退出した後、それぞれの部屋に続く廊下の途中で、雪平が囁いた。
「意気消沈する事はないぞ、寧奈。お婆の傾向と対策だ。しつこくされるとお婆は向きになるからな。ここは一旦引いておくのが得策。おまえと俺の態度次第でお婆は幾らでも考えを改めるぞ」
 いつになく悪戯っぽい声音だ。
「それでは……?」
 少し浮上した気持ちで寧奈が問うと、
「そうだな。おまえはもう少し悲しそうな顔をしていろ。朔の儀式の後で暗鬱としている姿を印象づけておけば、かなり効果的だと思うがな」
 彼は声を立てて含み笑った。
【家系と生業】へ続く
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