けっかいときずな 結界と絆 |
さらりと障子が開いた。心配そうな顔の彩夜祢(あやね)が膝をついて覗き込んでいる。 「寧奈(ねいな)様。御無事ですか?」 小さく頷く。 「雪平(ゆきひら)様は……?」 力なく、首を横に振った。 明け方近い時間。祈り続けたにも拘らず、雪平はまだ戻ってこない。寧奈の顔には憔悴の色が浮かんでいた。 望の夜、一族総出で追い詰めた屍食鬼(しじきき)たちは一つ所に集められ、強力に張り巡らされた結界内に封じ込められた。その数およそ三千余。獄怨鬼(ごくおんき)を誘き出す餌に使うのだ。しかし、肝心の悪鬼は今もって鳴りを潜めている。 静かに障子を後ろ手に閉めたかと思うと、彩夜祢が擦り寄ってきた。低く、細い声で囁く。 「寧奈様。大事なお話がございます、雪平様の事で。ですがここでは申し上げられません。榊(さかき)様が御存知になれば雪平様がお困りになりましょう。どうか、何もお尋ねにならず、この彩夜祢を信じてお付き合いくださいませぬか。人目のつかぬ所でお話し申し上げます。雪平様の為にも、何卒」 弱々しいが切迫した声。雪平の話だと言われれば寧奈に拒める道理がなかった。立ち上がり、障子を細めに開けて辺りを窺う。皆、修行堂に詰めているのか通る人影は全くなかった。 「何処へ?」 短い問いに、薄っすらと笑う彩夜祢。 「こちらへ」 やはり短く答え、続き部屋の裏手から廊下へ出る。 そこは中庭に面した回廊。廊下から中庭へ。中庭から建物伝いに裏庭へ。暫く歩き続け、屋敷の突き当たりまで来ると敷地の境界となる裏木戸を越えた。向こう側に広がる奥深い竹林。獄怨鬼を誘き出す予定の場所だ。寧奈は躊躇したが彩夜祢はどんどん歩を進めていく。追うしかなかった。 この竹林の奥に結界が張られている。屍食鬼を空間の狭間に閉じ込めて逃さないための。結界を破らなければ獄怨鬼は屍食鬼たちから糧を得られない。だからこそ、今ここへ踏み込むのは非常に拙いのではないか。にも拘らず彩夜祢は少しも足を止めようとはしない。 万が一、獄怨鬼が側に迫っていたとしたら。襲いかかられても寧奈なら何とかなるが、何の力もない彩夜祢には身を守る術がない。引き返すにしても彼女を放ってはおけない。竹の間を巧みに擦り抜けていく背中を、寧奈は懸命に追いかけた。 ふと目の端に白い物が映った。注連縄(しめなわ)だ。立ち止まって凝視する。紛れもなく屍食鬼を封じてある結界。いけない。これ以上は進めないし、危険だ。彼女を止めなければ。 声をかける前に彩夜祢は立ち止まった。ゆっくりと振り返る。そして、薄っすらと笑った。月明りを浴びて白く浮き立つ顔。美しく、儚い笑み。ひどく寂しげで、この世の者とも思えないほど妖艶だった。 「雪平様なら、もうお戻りにはなりませんよ」 唐突に言う。いつもの彩夜祢らしからぬ、張りのある強い口調で。 「あの方を誰にも渡しはしません。特に、寧奈様に奪われるのだけは許せない! だから殺すように命じました」 「!!!!!」 「今頃は、もう永遠の眠りについていらっしゃいましょうか。御安心くださいませ。少しでもお苦しみにならぬよう薬を使わせましたから」 うっとりとした眼差しで恐ろしい言葉を続けている。余りの衝撃に、言語を理解する機能が瞬間的に麻痺した。脳はすぐさま働きを取り戻したが、今、目の前に広がる風景を現実から拒絶しようとする。雪平を殺す――彩夜祢がそんな恐ろしいことを言うはずがない! 「寧奈様、あなたは残酷な御方だわ。幾ら御存知でないからと言って、あれほど毎日、私の前で雪平様のお話をなさるなんて……」 脳はまだ現実を拒否しようとする。けれど彩夜祢の言葉は止まらない。 「その度に私がどのような思いをするかなど、寧奈様におわかりになるはずがございませんよね。可愛らしいお顔をなさって毎日私の心を切り裂いていらっしゃったのだから。雪平様の御心が欲しいなどと何処まで貪欲なお考えをお持ちになるのです? 私の気も知らないで……恐ろしい御方……」 「彩夜祢……いったい……?」 「本家の姫として何不自由なく育てられ、愛らしく、誰からも可愛がられ、力もあり、地位もあり、あろう事か雪平様と契りまで交わされた。何もかもお持ちでありながら、これ以上まだお望みになりますか! それは余りに欲深と言うもの。全てが御自分の思い通りになるとお思いくださいますな。雪平様だけは頂いて参ります。寧奈様にはお渡し致しませぬ!」 勝ち誇り、仁王立つ彩夜祢。後退りしながら徐々に結界へと近づいていく。 「彩夜祢……彩夜祢は、もしかして……雪平の事が……」 弱々しく呟く寧奈を彩夜祢は冷たい眼差しで見据えている。注連縄のすぐ側まで迫った。 「今頃お気づきになられましたか、愚かな御方……私は、寧奈様がお生まれになる前から、雪平様のお側近くにお仕え申し上げていたのですよ」 彩夜祢が注連縄を握り締めた。 空に曇りもないのに稲妻が落ちる。注連縄を握る手を直撃した。立ち昇る黒い煙、肉の焦げる胸の悪い臭い。だが、彩夜祢は少しも苦痛を見せず邪悪な高笑いを轟かせ、一気に注連縄を引き千切った。 とたん、空間が歪み始める。三半規管が奇妙に揺さ振られ、極度の乗り物酔いに似た感覚が急激に襲いかかってきた。結界の内側に光の亀裂が走る。そこから何かが滲み出してくる。 「彩夜祢! 危ない!」 結界を破ったのは彩夜祢だ。けれど寧奈は信じたかった。彼女はきっと操られているだけ。おそらくはあの悪鬼、獄怨鬼に。そう思いたかった。 歪みから現れる曖昧な光たち。その一つ一つが屍食鬼のエネルギーだと寧奈は悟った。何とした事か、光は迷いもせず彩夜祢に吸い込まれていく。彼女は無数の光に包まれ異様に輝いていた。光にぼやけるしたたかな表情。もはや寧奈の知っているそれではない。 信じられない光景を突きつけられ、一瞬、頭の中が真っ白になった。やがて心が闇に侵食される。無が支配しようとする。負けてはならない! 決して忘れない名前を、寧奈は叫んだ。 「雪平!」 彩夜祢の背後に黒い霧が立ち込め、歪な形を作り始めていた。眼と思しき二つの光が、赤く、異様にぎらつく。ぎろり、と寧奈を睨み据えた。 『ククククク……守護を持たぬ術師よ。そなたに儂を止められはせぬ……積年の恨みを今こそ晴らしてくれようぞ……じっくりと、嬲り殺してくれるわ!』 光が吸い込まれる度、黒い霧に稲妻が浮かび、力を漲らせていく。光は夥しい。何処までも果てがない。霧は邪悪に満ち、見る見る膨れ上がっていった。 (雪平! 私の声を聞いて! 雪平!!) 獄怨鬼――悪鬼が蘇ろうとしていた。 彩夜祢が寧奈の部屋を訪れる少し前、雪平は、身体を蝕む薬の力と必死に戦い続けていた。 睡魔に捕らえられても全く意識を失ったわけではない。ただ、身体の自由を取り戻すのに少々時間がかかるだけだ。意識と肉体が切り離されている。意識だけは負けるものかと薬に抗い続けた。 徐々に身体の感覚が蘇る。最初に瞼が動き始めた。薄く目を開けると、雪平の上で狂ったように蠢く女の姿がぼやけて浮かんだ。俄かに意識が冷める。だが肉体は意識にお構いなく単独で暴走していた。 好き勝手にしやがって! ――彼の怒りに火が点いた。怒りのパワーが急速に感覚を呼び戻す。出し抜けに起き上がり、跨る女を思い切り突き飛ばした。女は足元に跳ね飛ばされ、繋がっていた体が離れた。 「なっ、何故? あの薬は強力なのに!」 両手を組み合わせ、印を結びながら彼は言う。 「どうやら相手が悪かったようだな」 と、彼女の顔が歪み邪悪な表情が現れた。 『クックックッ、さすが守護戦士よのぅ……この女の道楽に付き合ったのが間違いだったか。あの方のご指示通り、最初から殺しておけば良かったものを……ならば今、ひと思いに殺してやろう!』 「遅い!」 雪平が両手を突き出した。気が放たれ、女の身体を痺れさせる。魔が取り憑いているだけならこれで一時的に動きを止められるはず。案の定、女の動きは止まった。 「邪! 封! 滅!」 みぞおち目掛け手刀を突き込んだ。彼女の身体がびくりと跳ね上がり、雪平の胸に倒れ込んだ。仰向けに横たえる。ゆっくりと瞼が開いた。 「せ……先輩……?」 開かれた瞳からは魔の気配が消え去っていた。得体の知れない女が元の美雪(みゆき)に戻る。驚いたように彼女が視線を寄越した。けれど、もっと驚いたのは雪平の方だ。 望の儀式を逃した。しかしこんなに簡単に魔を祓うことができるとは。美雪に憑いていた魔は決して弱い者ではなかったのに。 寧奈の力か。寧奈の力がまだ強力に働いている。彼女の結界が雪平を守ったのだ。 「せ、先輩……私、どうかしてたの。先輩に薬を飲ませるなんて……お願い、嫌いにならないで……先輩に嫌われたら、私……」 身を捩じらせて美雪が泣きじゃくっていた。素早く身支度を済ませ、ベッドに腰かける。彼女の頭をそっと撫で、雪平は言った。 「気にするな」 「先輩、怖いの……お願い、朝まで側にいて……私を抱いていて……お願いだから……」 全裸の美雪にシーツをかけてやると、躊躇なく彼は立ち上がった。 「今は急ぎの用がある。またの機会にしろ」 捨てゼリフを残し、後も見ずにマンションを出る。まだ夜明け前。空の端に月が引っかかっていた。 未だ闇に沈む町を雪平はひた走る。生まれた時から戦士としての教育を受け、過酷な鍛錬を続けてきた。絶対的な脚力を誇る彼なら屋敷に辿り着くまでそう時間もかからないだろう。やはり幾ばくかは衰えている。空間を超えるほどの力を即座に放てなくなってはいたのだ。 屋敷に着くや否や寧奈の部屋を目指す。術師は修行堂に集い、妨げにならないよう使用人は大人しくしているはずだが、空気が不穏に乱れていた。途中で榊に出くわす。激昂されるかと身構えたところ、思いがけない使命を告げられた。 「戻ったか、雪平! 寧奈がおらぬ。すぐに探すが良い!」 ――寧奈がいない? 「お婆、どういう事だ!」 「どうもこうもない。寧奈の姿が見えんのじゃ。策を知らぬ下(しも)の者に探させてはおるが、どうやら屋敷にはおらぬ。ただ、婆が部屋を訪れた時、ほんの僅かながら残り香を感じた。遠くへは行っておらぬと見たが」 迂闊だった。自分が狙われたのだから寧奈だって狙われて然るべきだ。何があっても決して離れてはならなかったのに。とにかく後悔している閑はない。 「そなたたちの絆が本物なら、儀式なくしても、そなたが一番寧奈を感知できるはずじゃ。雪平。一刻を争う。すぐに気を集中せよ!」 彼は、左手の人差し指と中指を立て口元に持っていった。が、呪文を唱える前、気を集中する前に寧奈の声を聞いた。 ――雪平! 「寧奈!」 「むっ!」 眉を顰め呻いた榊に向かって、 「お婆。寧奈は竹林だ! 今の俺では気を搾り出さねば空間を超えられん。走った方が早い。後から来られよ!」 やにわに駆け出そうとした。 「待て! 雪平! ついて来るのじゃ!」 雪平を止め、その腕を掴んで榊は走り出した。修行堂へ向かっている。 「寧奈はもしや結界の側におるのではないか?」 「おそらく」 「ならば玉(ぎょく)を使うが良い。先程、結界が破られた。このような事もあろうかと、結界内に玉を仕込んでおいたのじゃ」 「有り難い」 榊が雪平を引っ張っていたはずが、いつの間にか逆になっていた。結界が破られたのなら修行堂の術師たちも大騒ぎに違いない。心なしか騒めく堂が目に入り、彼は榊を抱え上げると一気に加速した。 ――雪平! 私の声を聞いて! 雪平!! 意識の中で、寧奈の声が叫び続けていた。 【封魔術師と守護戦士】へ続く
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