まんげつとわな
満月と罠
朔と望−月下奇談(陽の巻)/因縁ロゴ
 長い協議の末、ようやっと長老たちが策を練り出したらしい。本家屋敷の修行堂に、封魔・守護、両一族の長老たちが挙っていた。
 望の前日。これまで寧奈(ねいな)は雪平(ゆきひら)に貼りつかれ、心休まる閑がなかった。無論、悪い方の意味ではない。
 堂内の全ての燭台に灯りが点され、護摩壇では盛大に薪が爆ぜている。炎に浮かび上がる皺だらけの面々。長老たちは皆、表情に人生の年輪を深く刻み込んでいた。
 榊(さかき)、寧奈、雪平が祭壇を背に、集う長老たちはそれに連なり車座になっている。梓川(あずさがわ)の一の長老は高齢すぎるため、また本家屋敷の長老として榊がこの場を仕切った。
「ご覧の通り、十六の朔を迎えて間もない若輩者ではございますが、この者、術師としては類い稀なる力の持ち主。また小埜江(おのえ)の最強戦士を守護に持つ者。皆の衆、この者たちに任せて異議はございませぬな?」
 長老会議で既に結論は出ていた。確認の意味を篭めて榊が念を押したのだ。獄怨鬼(ごくおんき)を封じる最前線は正式に寧奈たちに任された。
「全国各地でも屍食鬼(しじきき)らしき輩が出没しておった。それも数に物を言わせて来おるので、祓うのにてんてこ舞いじゃ」
 梓川の長老の一人が言う。
「うむ。屍食鬼そのものは大した力でもないのじゃが、あやつら血を啜り、肉を食んで、獄怨鬼の糧を集めておるのじゃ。言わば働き蜂状態じゃのぅ」
 これは小埜江の長老の一人。
「獄怨鬼の力で奴らも空間を操って来おる。そこで我らは奴らの道筋を逆に辿ってみた。どうやらこの町の周辺に中心地点があるようじゃ。そこから考え合わせても、獄怨鬼の狙いは先ず間違いなく本家じゃな。おそらく本家のある町の周辺に潜んでおるのじゃろうて」
 また別の長老が口を開いた。
「そこで儂らは罠を張る事にしたのじゃ。のぅ、榊殿」
 小埜江本家の先々代が榊を促す。小埜江の当代は雪平の父だ。先々代の彦之丞(ひこのじょう)は曽祖父に当たる。因みに榊の守護戦士でもある。
「さよう。寧奈、雪平、聞くが良い。我らは持ち場に戻り、屍食鬼が現れれば即封じる事なく、追い詰めようと企てた。奴らの使う空間の道筋を辿り、そのままある場所に追い込み、呪縛する。ある場所とは本家屋敷の裏にある竹林じゃ。獄怨鬼に糧を渡す前に呪縛すれば、獄怨鬼は力を得られずに我らの前に姿を現すしかなくなるであろう。そなたたちは然るべき後、竹林で奴を待ち受ければ良い」
 単純な方法だが至極尤もだ。数々の経験を積み、太古に渡って知識を蓄えている長老たちならではの策略。屍食鬼の力量、習性、諸々を考慮して、一番確実で手っ取り早い方法を弾き出したわけだ。
「玉(ぎょく)の力で獄怨鬼の様子を探ってみた。奴はまだ不完全じゃ。のみならず、このところ全く姿を現さぬのは、奴も望月を待ち侘びているからに他ならん。明日、一気に屍食鬼共を解き放ち、完全に復活を果たす目論見であろう。その後の獄怨鬼を野放しにはできぬ。明日の夜は一族総出で屍食鬼を相手にせねばならぬな。皆の衆、くれぐれも怠りなく頼みますぞ」
 長老たちは皆、俄かに厳しい表情を浮かべた。無言で、だが力強く頷く。
「良いか、寧奈、雪平。そなたたちは必ず明日、望の儀式を欠いてはならん。何があっても儀式を済ませ、獄怨鬼が現れるのに備えるのじゃ。良いな? 何があってもじゃぞ!」
 これまでにない険しい勢いで榊が迫った。決戦の時が近づいている。
「心得まして」
 寧奈も雪平も、肝に銘じて答えを返した。
 
 
 満月。月齢第十五日。陽はまだ高い。
 朝から落ち着かずに寧奈は時計ばかり気にしていた。ちらちらと腕時計に視線が引き寄せられて、授業はほとんど頭に入らない。
 儀式の当日はいつもそうだが、今日は特にだ。心持ちが普段通りではないから。今夜の儀式を欠いては獄怨鬼にどれだけ対抗できるかわからない。
 鬼たちも心得たものだ。満月の夜は月の魔力が一番強い。満月は生命の誕生を齎す。そして狂気をも齎すのだ。良きにつけ悪しきにつけ、エネルギーに満ち満ちた夜。一族の力がいつにも増して究極に漲る夜。鬼たちも強力になってしまうのは頂けないのだが。
 儀式直前は直後よりも守護の力がやや劣る。行わなければ衰える一方。約半月に一度契りを交わさなければ、寧奈と雪平の力は微妙に分離してしまう。側近の朔から十五日経った今、守護の力が一番弱っている時期だ。
 望の儀式を行うと、朔の儀式の時よりも強力な融合を果たすことができる。雪平は今も近くにいてくれるはず。校内の何処かで寧奈を見守っていてくれるはずだ。心配はない。だが何故だか妙な胸騒ぎがしてならない。驚異の敵と対峙する時が迫っているからだろうか。
 漠然とした不安に苛まれた寧奈が放課後のベルが鳴るのを待っていた頃、雪平は裏庭にいた。ゴミ焼却炉の辺り。空間が歪みかけた場所を警戒していた。一度使われたポイントは完全に繋がっていなくても再び狙われ易いのだ。大事の前だからこそ小事を疎かにはできない。些細な綻びが命取りになる可能性を、重々踏まえた上での行動だった。
 と、彼の携帯の呼出音が鳴った。液晶表示は見知らぬ番号。メモリの中にない誰か。彼は通話ボタンを押した。しかし無言。いや、何か声は聞こえるのだが。数秒後、それが女の啜り泣きだとわかる。
 雪平は呼びかけた。答えがなければイタズラだ。切ろう。女からの無言電話など慣れ切っていたため、またもやその類いかとゲンナリした。この重大時に全く暇人もいたものだと。
 ところが相手は答えた。啜り泣きつつも雪平の声に気づくと、一層泣き声を高めて訴えかけてきた。
「……うっ……せ、先輩……わ、私……美雪(みゆき)……うう……うっ、うっ……」
 この間の女だ。
「どうした?」
 尋常ではない声音。
「……うっく……私……薬、飲んじゃった……先輩が……あれから会ってくれないから……眠れなくて……辛くて……薬、いっぱい飲んじゃった……そしたら……気持ち、悪くて……」
「薬? 何を飲んだ!」
「……睡眠薬……うくっ、うっ……うう……だって、眠れないんだもん……立て続けに飲んだの……もう、ない……うぐっ……げほ……」
「おい! 気をしっかり持て!」
「もう……あんまり、聞こえない……会いたい……先輩、会いたいよぉ……うっ……ごほっ……」
 演技だとは思えない。自殺をするような女ではなかったが、睡眠薬の飲みすぎなら間違いで命を落とす場合だって有り得る。救急車を呼ぼうにも彼女の住所を知らなかった。
 何よりも引っかかったのは、電話の向こうから感じる明らかな魔の気配。望の儀式の直前にまざまざと魔を感じた経験は初めてだった。放ってはおけない。望月の宵まではまだ時間がある。
 躊躇してはいられなかった。彼女のマンションは二駅離れた町。何とかなる。雪平は、寧奈を気にかけながらも全力で走り出した。
 
 
 美雪の部屋に飛び込む。鍵はかかっていなかった。リビングに走り込んだ時、寝室から呻き声が聞こえた。即座にドアを開ける。ベッドの上で彼女が仰向けに脱力していた。
「おい! 生きているか!」
 駆け寄り、支え起こして耳元で叫ぶ。
 美雪はぼんやりと目を開き、弱々しく微笑んで雪平を見る。泣き濡れた痕が残っていた。まだ生きていた。知らず知らず安堵の息が洩れる。
「せ……先輩……なのぉ……?」
「しっかりしろ! すぐ救急車を呼ぶから」
 叫ぶ雪平の首に、力ない腕が回された。
「夢……? ……それとも幻? ……私、生きてるの? ……わかんないよぉ……お願い、先輩……怖い、キスして……」
 それどころではないだろうと思いながらも、肝心の場面で女に甘い雪平は、不覚にも彼女の望み通り唇を重ねた。
 次の瞬間、物凄い力で押し倒され、弾みで口に流し込まれた物を飲み込んでしまった。吐き出そうにも美雪が口を塞ぎ、押さえつけている。とても女だとは思えないほどの力で。
 懸命に抗い、上に被さる女を押し飛ばした。激しく咳き込んでも、既に胃まで到達してしまったのか飲み込まされた物は戻ってこない。背後から抱きつく女を再び押し飛ばした。
「何を……何を飲ませた?」
 彼女は笑っていた。あの明け透けな邪気のない笑顔ではなく、多分に魔を帯びた含み笑いで。
「ふふふ……心配しないで。ただの睡眠薬よ。但し、即効性はあるけど」
 意識が揺らぐ。一瞬、視界が翳んだ。
「く……おまえ……」
 掴みかかろうとした。だが、身体に力が入らない。
「あなたの家の人が教えてくれたのよ。今日、あなたの身を拘束しないと、意に染まない結婚をさせられて二度と他の女は近づけなくなるって。そんなのやだわ、私。だって先輩のこと愛してるもの。だからね、奪ってやろうと思ったの。先輩だって気に入らない女より私の方がいいでしょ?」
 馬鹿な! 何の話だ。誰の謀略だ!
 空を切る雪平の腕を美雪が掴んだ。邪悪な笑いを浮かべて、彼を再びベッドに押し倒す。
「うふふふふ……あなたは私のもの。誰にも渡さない。今夜あなたと愛し合えば永遠に私だけのものになるって、あの方が仰った……ふふふ、雪平、大切な人……誰にも渡さないわよ! 私からあなたを奪おうとするヤツは、みんな殺してやるから!」
 気にもかけないでいた。本当に些細な綻びだったから。それが取り返しのつかない結果を招いてしまうとは。愚かな己の失態のせいで。
 馬乗りになる女を突き飛ばし、身を起こそうとするが、もう身体が思うようにならない。目に映る世界が回る。思考が剥奪される。闇が背後まで迫り、雪平を飲み込もうとしていた。
「ね……寧奈……」
 俄かに睡魔の手で鷲掴まれ、抵抗空しく彼はベッドに沈み込んだ。
「雪平……今夜はいっぱい愛してあげる。一晩中、離さないから」
 意識を失った雪平の胸を、愛おしそうに美雪が撫で擦る。窓からは夕の光が差し込んで、部屋中を朱色に染め始めていた。
 
 
「何じゃと! 雪平が戻らぬとな? この大事な時に、あの痴れ者が!」
 寧奈の部屋で榊が喚いた。忌々しく唇を噛み締め、鋭く睨みつけてくる。
「雪平が側を離れた事に、そなたは気がつかなんだのか?」
 頭を下げるしかない。時間に気を取られすぎて雪平に注意を払うどころではなかった。必ず側にいてくれるという絶対の安心感から。
「申し訳ございません! 彼が駆け出していくのを見ていた人がいたのですが、何処へ向かったかまでは、皆目……」
 おろおろと視線を彷徨わせる。今夜の儀式を怠れば取り返しのつかないことになる。それは遅かれ早かれ一族全体に波及するのだ。
「必ず……必ず戻って参ります! 雪平は儀式を忘れたりはしません! だから、必ず、戻ってきてくれるはず……雪平は……必ず……」
 心の中で雪平の名を叫びながら、ほとんど自分に言い聞かせていた。信じるしかない。今はただ、信じて待つしかないではないか。
「当たり前じゃ! 雪平には何としてでも戻ってもらわねばならぬ。策は動き始めているのじゃ。今更止められはせぬ! 良いか、寧奈。雪平を呼べ。一心不乱に呼び続けよ。そなたは堂に来てはならんぞ。皆の動揺を煽るわけには行かんからな。雪平が戻り次第、儀式を行うのじゃ。たとえ戻らなくても平静を失ってはならぬ。しかと心得よ」
 数珠を握り締め、寧奈は頷いた。封魔術師としてできる限りのことを、一人でも最後まで務めなければなるまい。それこそ、命をも失う覚悟で。
「獄怨鬼め、侮れぬ……我らの罠に気づきおったか……もしや、逆に雪平が嵌められたのやも知れぬな。余りにも手際の良い事じゃが……」
 じわり、と冷たいものが忍び寄ってきた。雪平の身が危ない。けれど居場所もわからず状態もわからないではどうしようもないのだ。彼を呼び続ける以外には、今の寧奈には何もできなかった。
【結界と絆】へ続く
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