でんせつとうつしよ
伝説と現世
朔と望−月下奇談(陽の巻)/因縁ロゴ
 日常、寧奈(ねいな)が術を学び、封魔の力を磨くべく精進する修行堂。本家屋敷のほぼ中央に位置する建物で六十畳ほどのだだっ広い板間になっている。天井がやけに高く、奥中央には祭壇が設けられてあった。数々の法具や燭台を並べ立て、御神体である玉(ぎょく)の周りに稲と笹を配し、注連縄(しめなわ)を張り巡らせて護摩を焚く。正面に座するのは榊(さかき)。その後ろに寧奈と雪平(ゆきひら)が並ぶ。
 長い時間をかけて行を修め、榊が振り向いた。炎に照らされる、老いた術師の輪郭が浮かび上がる。表情は薄闇に朧ろのため定かではない。
 堂の唯一の光源である祭壇を背中に、普段の簡素な打掛ではなく術師の仰々しい衣装の袖を面倒そうに捌く。首から数珠を下げた榊が二人の顔を交互に見つめていた。
 寧奈も術師の衣装を着けている。白い小袖に濃紅の袴。大袖の上衣に紋織りの絽を幾枚か重ね、帯で結わえている。首から数珠を下げているのも榊と同じだ。
 並ぶ雪平は地味な小袖に袴。両手首の数珠以外、目立つ飾りは何もないが、袖を襷(たすき)で引き締めている。背筋を伸ばし正座をして、じっと目を閉じ榊の言葉を待っていた。
「闇の眷属……血肉を食らう鬼か」
 和綴じの古い幾冊の書物が榊の脇に広げられていた。何度も手に取り、また下ろす。何冊かをつぶさに見比べている。
「戦国の世にこのような鬼がいる。戦場の跡に現れ、屍を引き裂き、肉を食らう。或いは墓を暴き、骨を屠り糧とする。その名も屍食鬼(しじきき)。じゃが、所詮奴らは死体しか狙わぬ」
 目を閉じていた雪平が、ゆっくりと目を開いて榊を凝視する。祭壇の炎が揺れ、彼の瞳の表面をなぞり微妙に彩った。
「お婆。時は変わる。何者かと交じり合ったのではあるまいか?」
 落ち着いた静かな声。寧奈の弱々しい声が後に続いた。
「榊様。あの者の側には常に血の匂いが。しかも、黴びたような埃のような匂いに混じった、腐れた血の匂いです」
 力強く頷く榊。何か心当たりがあるのか、即座に一冊の古書を引っ張り出し慎重に頁を繰る。ある箇所に目を留めると見る見る表情を硬くした。
「見るが良い」
 古書を受け取ったのは雪平。寧奈も彼の側に寄り、恐る恐る覗き込んだ。
「一族の言い伝えの中で最も忌み嫌われた魔族。鬼の眷属ではあるが、鬼にも嫌悪される異形の者。元は人の血を啜る鬼の王であったらしい。じゃが、いつの頃からか見境がなくなりおった。鬼の血すら啜り、面白半分に生き物を屠り、種族の縄張も蹴散らかして我が物顔に振舞う悪鬼と化した。鬼は鬼で誇り高い。このような異形は許せぬであろう。しかし、奴に勝る者は鬼族の中にはおらなんだ。力でも、悪行でも。鬼すら敵わぬ相手を封じたのは封魔と守護の一族。我らの御先祖様じゃ」
 一時の沈黙。ばちり、と薪が爆ぜた。
「悪鬼の名は獄怨鬼(ごくおんき)。吸血の鬼族でありながら悪食に身をやつした愚か者。鬼族から弾かれた憎しみに凝り、梓川(あずさがわ)と小埜江(おのえ)に仇された怨念のみで動いておった。今は永きに渡り封じられた恨みも加わっておろう」
 雪平が古書を押し戻す。腕組みをして、また目を閉じた。
「封印が解かれようとしているとお思いか?」
「うむ。間違いなかろう。雪平の申す通り時は変わる。獄怨鬼に力を取り戻させる為、何者かが荷担したのやも知れぬ」
 小さな声がポツリと呟いた。寧奈だ。
「屍食鬼……」
「おそらく。獄怨鬼め、屍食鬼を使役しておるのであろう。屍しか知らぬ者に生き血の味を教えおった。そうして屍食鬼から力を吸い取っておるのじゃ。急がねばならん。奴が力をつけてからでは封じるのも骨が折れるぞ。何しろ奴を封じる為に、何人もの術師と戦士が命を落としておるのじゃからのぅ」
 寧奈が真っ青になっている。それもそのはず。ついこの間、十六の朔を迎えたばかりの彼女は、それまで大きな魔を相手にしたことはなかったのだ。守護戦士を得たからといって、いきなり強大な敵を封じられるかなど経験のない彼女には保証できない。何人も命を落としていると聞いては尚更だ。
 だが、やらなければならない。獄怨鬼を封じなければ人の世に禍が降る。万が一、寧奈と雪平で封じられなかったとしたら、どのくらいの犠牲を払うか計り知れない。最強の封魔術師と守護戦士として何としてでも彼らの手で封じなければならないのだ。守りたい者を、守るためにも。
「獄怨鬼は私たちを狙って参りましょう。闇を徘徊して囮になりましょうか?」
 意を決し寧奈は告げた。一刻も早く決着をつけるためにも囮になるのが手っ取り早いと思ったのだ。が、雪平も榊も賛成はしなかった。
「ならん。おまえを危険な目には合わせられん」
「そうじゃ。そなたはまだまだ経験が浅い。すぐに長老たちを集め協議するとしよう。そなたは結果が出るまで大人しく待つが良い。くれぐれも軽はずみな行動は慎むのじゃ。雪平、片時も寧奈の側を離れるでないぞ。良いな?」
 言い返そうとした寧奈を雪平が止めた。
「心得まして」
 短く言い放つと寧奈を見た。
 彼女は雪平を見上げ、戸惑う瞳で視線を絡ませた。後にも先にも対決するのは同じなのに。いや、むしろ早ければ早いほど獄怨鬼の力は弱く、好都合に違いないのに何故か、と。
 咎める視線を受け止めたのは無言の瞳。無表情の雪平が、暗黙のまま答えを返した。ならん、と。
 細い手首を掴み、寧奈を引き摺るようにして雪平は堂を退去した。
 榊は二人を見送る。深く溜息を吐き、祭壇に向かって数珠を翳した。御神体の玉に気を送ると内部から光が溢れ、辺りを昼間の如く照らし出した。程なく空間を超え、導かれ、数多の長老たちがこの修行堂へ集まって来るだろう。
 
 
 建物を繋ぐ渡り廊下を小走りに行きながら、寧奈は強く掴んだ腕を振り払おうとした。しかし雪平は手を離さない。
「何故です? 一刻を争うのでしょう? 手段を選んでいる場合ではないと、雪平は思わないのですか?」
「馬鹿者。単独で封じられる相手ではない。強力な補助が必要だ。それとも、封魔一の術師だからと思い上がっているのか?」
「そんな……」
 寧奈が強引に立ち止まった。泣きそうな、縋るような顔を雪平に向けている。
「事は慎重を期す。急いでも解決にはならん。おまえほどの術師がそのような基本を失念するはずがない。何を焦っている?」
 力なく寧奈は俯く。目線が手首を握り締める雪平の手に落ちた。大きな手。大きくて、暖かい。
「怖いのです。今日のような事がまた起こったらと思うと……友達や、先生や、無関係な人たちを巻き込むのが怖いのです……大切な人を、この手で守りたいから怖いのです!」
 空いた手を、雪平の手に重ねた。きりっ、と頭を上げ、彼の顔を直視した。
 強い力で絡みつく視線を雪平は無表情で躱す。その瞳は何を映しているのか。寧奈でありながら、奥深くでは違っていた。彼は沈黙を守る。佇んだまま身じろぎもしない。庭に据えられた燈篭の灯りが、二人の姿を夜目に浮き上がらせていた。
 と、軽い溜息。雪平が目を伏せた。
「寧奈。今暫く待て。長老たちに従うんだ。……それが嫌なら、俺に従え。俺の言う事なら聞けるだろう?」
 重ねた手に、更に大きな掌が被さってくる。暖かく包み込み、力強く握り締めていた。呆然と彼を見つめる。心に小さな炎が宿る。ポツリ、と吐息混じりにゆらゆらと揺らめいた。大海に遊ばれる小舟のように、頼りなげで、それでいて安堵感に満ちている。急速に恐怖と不安が影を潜め、残ったのは不思議に安らいだ気持ち。
「雪平……私にどうしろと……?」
「俺と共にいろ。昼も夜も、俺と一緒にいるんだ」
 くすり、と寧奈は笑った。
「それは……それは無理です。昼は学校があるし。夜は……」
 言い淀む。
「おまえが学校にいる間、俺も学校の敷地内にいる。おまえが無茶をしでかさないよう俺が見張っているからな。夜も共にいるんだ。俺と寝ろ」
「ね……寝る……?」
 思わず赤くなり俯く寧奈。言葉で考えが先走ったようだ。
「勘違いするな。抱くと言った訳ではない。側で寝ろと言っている。要は、俺の目の届く範囲にいればいいんだ」
 益々真っ赤になる。羞恥の余り、顔を上げられなかった。雪平は重ねていた手を寧奈の顎に持っていき、半ば無理やり顔を上げさせる。
「それとも儀式の真似事でもして欲しかったか? 毎晩だとおまえの身体が持たないぞ」
「たっ、戯れを言わないで! あんまりです」
 慌てて手を振り払い、雪平から身を離そうとする。が、最初に握り締めていた手首だけは離してくれなかった。彼は含み笑いながら言う。
「どちらの部屋で寝る? おまえの部屋か、俺の部屋か。俺はどちらでも良いぞ」
「わっ、私の部屋は困ります!」
「よし。ならこのまま俺の部屋へ来い」
 引き摺られ、寧奈は身を固くした。足が言うことを聞かない。
「心配するな。力尽くで、どうこうしようとはせん」
 これは力尽くではないのか、と思いつつも引っ張られて行くしかなかった。
 雪平の部屋は東の離れにある。小じんまりとした瀟洒な庭を臨む間続きの一角。その一番奥に寝室があった。
 十二畳の寝室。並べて延べられた床。寝間の支度をする使用人が出て行くまで、二人には全く会話がなかった。まるで新婚初夜みたいだと、再び有らぬ妄想に顔を赤らめる。二人きりになってすぐ雪平が声をかけてきた。彼は庭に面した障子の隙間から夜空に浮かぶ月を見ていた。
「寧奈、見ろ。今夜は空が冴えてる」
 月齢第二日の月。切り取られた闇は細く弧を描く弓形。夜が目を閉じている。向きによっては、泣いているようにも笑っているようにも見えた。
「不思議だな。俺たちの運命を握っているのはあの月だ」
 彼の側に座り込み、寧奈も同じ月を見ている。何を言おうとしているのか、何故だかわかる気がした。
「月は魔力を持つ。闇の者も多大に影響を受ける。月は分け隔てなく、ありとあらゆる物に力を与えてしまう。全ては受ける側の問題だ。月の力を生かすも殺すも、受ける者次第という事だ」
 首を曲げると、夜空が微笑んでいた。
「月を知り、最大限に利用できれば闇の者など怖れる必要はない。俺たち一族は誰よりも月の利用法を知っている。知識と技がある限り、悪鬼に屈する事はない」
 静かな声だった。心の奥底に染み入るほどに、身体の芯から勇気が湧いてきた。雪平がいれば戦える。彼と共であれば、きっと何者にも負けたりはしない。
 そっと様子を窺う。雪平はひたすらに月を見ていた。その横顔に何処となく悲哀めいたものを感じてしまい、寧奈は息を呑んだ。彼の心に今一つ近寄り切れない。彼の本当の心は何処にあるのだろう。いつもそう、外側に表れない彼の心。上辺の無表情に隠された本当の想い。
 一途に視線を上げたまま、雪平が自嘲気味に呟いた。ほとんど聞こえないほどの声で。
「一族の宿命とはいえ、月の満ち欠けによって俺たちは左右される。人間ってちっぽけなものだな」
 傾いた首を戻すと、夜空が寂しげに目を伏せた。
 後悔している? 雪平は後悔しているのかも知れない。朔の儀式のことを。
 彼には他に守る人がいるから、宿命に抗い切れないのが辛いに違いない。
 寧奈にも守りたい人がいる。理沙(りさ)を。先生やクラスの皆を。両親、兄たちや姉たちや一族の全ての人たちを守りたい。誰よりも、雪平を守りたかった。この命を懸けてでも。
 
 
 獄怨鬼は、何故かこの日以来、動きを見せなくなった。果たして嵐の前の静けさか。奴に動きがないうちは、こちらから闇雲に動き回ることはできない。
 月は齢(よわい)を重ねていく。望の夜が近づいていた。
【満月と罠】へ続く
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