かきゅうまぞくとにんげん 下級魔族と人間 |
いつも通り、寧奈(ねいな)が榊(さかき)の部屋を退出し登校しても、雪平(ゆきひら)はそのままに留まっていた。 「お婆。彩夜祢(あやね)というのは誰の使用人か御存知か?」 榊が怪訝な顔をする。 「異な事を。彩夜祢とは古河(こが)の家の者であろう。小埜江(おのえ)の遠縁だと聞いたが、そなたが何故知らぬ?」 「興味がない」 すると、榊は意地の悪い笑いを口の端に浮かべた。 「ほほぅ。では興味が湧いたのじゃな?」 「馬鹿な」 相変わらず無表情な雪平だが、声に少し不機嫌さが混じっていた。 「あれは不遇な娘じゃ。幼い頃は各地の小埜江家を転々としていたらしいのぅ。今は梓川(あずさがわ)の一の姫が面倒を見ておる」 梓川の一の姫。二十九になる寧奈の一番上の姉だ。五人の姉たちの中で一番に末姫を可愛がっている。心根の暖かい、おっとりとした梓川の頭領姫。なるほど。寧奈が彩夜祢と親しくしていてもおかしくはない。 「あの者に目をつけたか?」 少なからず雪平の習性を見抜いている榊は、咎めるとも窘めるともつかない口調で訊いてくる。 「戯れを仰せ賜うな。そのような意図ではない」 余計な口を滑らせたと、少しばかり後悔しつつ彼は否定したが、今朝に限って榊は執拗だった。 「では、どのような意図か? 気に掛かるなら些細な事でも包み隠さず申すが良い」 これは困った。正直には言い難い。定例報告の時間に女と過ごし、帰ったとたん迫られたなどとは正に戯れの極み。誤魔化しの意を篭めて話題を微妙に逸らそうと質問した。 「寧奈は彩夜祢とは親しいのか?」 「そうよのぅ、親しいのではないか。五人も姉姫がおりながら、それとは別に姉のように慕っておる様子。悩み事などは、却って実の姉より話し易いようじゃがのぅ」 では彩夜祢とはもう顔を合わせない方が良い。寧奈からも益々遠ざかることになりそうだが。 「雪平。彩夜祢に含むところでもあるのか?」 自分から女の話題など持ち出しはしない雪平がいきなり女の話をし出したため、榊は気が気ではなかった。それでなくとも普段からして彼は寧奈を避けがちなのだから。別の女にかまける余り、これ以上寧奈から離れられては困る。 「邪推だ、お婆。含むところなどありはしない。彩夜祢が寧奈を案じていたから、急に寧奈が心配になっただけだ」 常に寧奈を気にかけていると言っておけば、榊は安心するだろう。そう思ったのだが。 「ならば何故もう少し寧奈の側にいてやらぬ。そなたは寧奈の守護が役目であろうが」 実に薮蛇だ。どういうわけか今朝は調子が狂う。長居は無用のようだ。 「時間だ。お婆、話の続きはまたの機会になされよ。では是にて」 言い足りない顔つきの榊に一礼し、そそくさと廊下に出た。年寄りはしつこくて困る、などと思うも、通常なら鼻であしらえるはずの己にも首を捻る。空気が澱んでいると感じられてならない。纏わりつく息苦しさが何だかわからない。 本屋敷に向かう渡り廊下を行く時、目の端で彩夜祢の姿を捉えた。寂しげな、悲しげな表情が脳裏を過ぎる。 いつもあんな風に見ていたのだろうか。彩夜祢は、いつから雪平を見ていたのだろうか。 机に突っ伏して寧奈は溜息を吐く。昨夜から胸に圧しかかる重荷が息苦しくて仕方がないのだ。 隣の理沙(りさ)も今日は余り尋ねてこない。あんな場面を目撃さえしていなければ、多分しつこいくらい雪平の話を聞きたがっただろうに。 今朝の彼の態度が寧奈の心を更に重くしていた。話しかけても生返事。顔を見ようともしなかった。 寧奈のせいで儀式が不完全になったのを雪平が疎んじていないとは言い切れない。今までは考えたくなかったから意識の片隅に追いやってきたが、彼の恋愛に自分が邪魔になってしまうと本当はずっと思っていたのだ。だけど互いの命に関わるから身を引くわけにも行かないし。どうしたら良いのだろう。答えは簡単には見つからない。 一日中、そんなこんなで浮かない気持ち。昨日買った指輪も上着のポケットに入ったまま。捨てようか、どうしようか、心が決まらなくて。 と、何やら教室が騒がしい。ぼんやりと見回すと、皆、不満げに机を叩いたり蹴りつけたりしている。 「放課後のホームルームだってのに、左右田(そうだ)のヤツ来ないんだよぉ。終わんないと帰れないじゃ〜ん」 理沙も口を尖らせている。 それにしても、時間にうるさい担任が遅刻とは珍しい。何かあったのだろうか。委員長が職員室に様子を見に行っていたらしく、別のクラスの担任と戻ってきた。 「はい、皆、聞いて。左右田先生は職員室にはいらっしゃいませんが校内の何処かにいらっしゃいます。皆で手分けして探しましょう。先生が見つからないと帰れませんよ〜、急いでね」 ぱんぱんと手を叩きながら年配の女性教師は言った。委員長を始め、皆、渋々顔でのろのろと教室を出て行く。寧奈と理沙も顔を見合わせ立ち上がった。 校庭まで足を伸ばした生徒がほとんどいないため、寧奈たちは律儀にも、裏庭まで考慮して探索の範囲を広げた。案の定、勘が当たった。裏庭のゴミ焼却場に左右田と思しき後ろ姿を発見。しかし、勘は当たらない方が理沙には幸せだったかも知れない。 最初に寧奈が異様な雰囲気に気づき、声をかけようとした理沙を押し留めた。焼却炉の前にゴミ箱が転がっている。屈みがちな左右田の背中の向こうに、ちらりと女生徒の影。様子がおかしい。痙攣しているのかピクピクと身体を震わせている。ふと見ると、彼らの足元にボタボタと何かが落ちていく。赤い……血だ! 「な、何? 何よ! 何なのよ!」 理沙が思わず叫んだ。 ゆっくりと左右田が振り返る。血塗れの女生徒を地に落とした。口から滴る夥しい血。そして、赤くぎらつく異様な眼。 『ククククク……血が……血が足りぬ……』 地の底から這い上がる声。闇の者だ! 「逃げて! 理沙! 逃げるのよ!」 寧奈が叫んだ。飛びかかる左右田の姿をした闇の者。理沙は竦んで動けない。 『血をっ! 血をよこせぇーーーっ!』 ポケットから数珠を取り出し手に絡める。 「結界!」 理沙に襲いかかった左右田が結界に触れ、激しく撥ね返された上、数メートルも飛んでいった。 「い、い……い、いやぁあぁぁーーー!」 竦んでいた理沙が、がむしゃらに手足を動かし始めた。暴れているだけで逃げようとはしない。 「理沙! 早く逃げて!」 「ね、ね、ね、寧奈も!」 「私は大丈夫! 早く、理沙!」 だが、理沙は寧奈にしがみついてきた。 「やあっ! やだあぁっ! 寧奈ぁーーーっ!」 このままでは理沙が気にかかって呪文に集中できない。結界は強力でも守ってばかりでは埒が明かない。何とか理沙を落ち着かせなければ。 その時、空気の流れが変わった。裏庭の木々が騒めく。風が渦を巻く。光が、木々の間に見え隠れした。と思った直後、寧奈の前に降り落ちる影。 「邪なる者。封魔術師には指一本触れさせぬ! 守護・小埜江の名にかけて!」 雪平! 守護の絆が雪平を引き寄せた。 不意に背中が軽くなったので振り返ると、理沙が白目を剥いて倒れていた。極限の恐怖で意識を失ったのだ。 「雪平! 理沙を安全なところへ運んでください。お願いします」 即座に彼は理沙を抱え上げる。素早く飛び退り姿を掻き消した。空間を超えて、安全な場所へ。 寧奈は左右田を睨み据える。奴は結界がある限り、彼女に危害を加えることはできない。 「天地神明、悪鬼尽滅。我、封魔の術師・梓川。魔を闇に帰(き)すべく、今、封魔の力、解き放たん。禍々禍々……彼(か)の者を戒めよ。縛呪!」 数珠から放たれた光。強力な光が集結して左右田の周りを覆う。がんじがらめに縛り上げ、瞼一つ動かせない状態に拘束した。黒犬の場合同様、食い縛った歯の隙間から泡を吹き、恨みがましい呻き声を洩らす闇の者。 「彼の者、答えよ! そなたは何者か?」 『小賢しい! 小娘! 憎き封魔の娘よ! 食ろうてやる……そなたの血肉も、この儂が食ろうてやるわ! 虫けらどもがっ!!』 だが身体はぴくりとも動かせない。口の端から泡が吹き零れていく。 「言わぬなら、言いたくなるようにしてあげましょう。禍々禍々……彼の者、我に従え。操呪!」 『ぐはぅっ!……ぐあぁぁ……』 赤く滾る邪な眼が、淀み、濁った。 「答えよ。何者か?」 『我、闇の眷属の下僕なり。虫けらの血肉を糧とし、闇に君臨する王が我が主人。誇り高き鬼の種族。我もやがて……ぐわっ! ぐぐっわぁぅがあぁっ! ぐがぁうがあぁーーーっっ!!』 左右田が声だけで苦しみ出した。見た目は同じだが明らかに危険な状態だ。 「寧奈! 奴を切り離せ! 依代(よりしろ)が殺られるぞ!」 すぐ側から雪平の声。 「はい! 禍々禍々……彼の者、肉体から離れよ。離呪!」 凄まじい光が湧き起こり、急激に分裂した。一方は光の玉が黒いものを抱きかかえ、もう一方はくずおれる左右田を包み込んでいた。どちらも寧奈の手の内にあったはずなのに、黒いものを捕らえていた光が、歪み、押し潰されていく。 『ぐぎゃう! ぐはっ! げぎゃがあぁぐわっ!』 ぶしゅり! ――光の中で黒いものが、急激に萎み、弾けて消えた。封印は間に合わなかった。 雪平が寧奈を庇って立つ。二つの光の狭間に空間の歪みが起こり始めていた。彼は真っ直ぐに光剣をそこに向け、振り翳し、一気に振り下ろした。 光の突風が歪みの中心を切り裂く。歪みはでたらめにずれ込み、繋がろうとしていた次元を葬り去った。そこから現れるはずだった者。闇の眷属の下僕が口走った、血肉を貪る鬼に相違ない。歪みは徐々に薄れ、空間が元の形を取り戻していた。 黒いものを捕らえていた歪な光に近づき、雪平が剣を振り下ろす。 「滅!」 もはや何者も内包していなかった光は、瞬時に消滅した。後に残るのは、光に包まれながら苦悶の顔で横たわる左右田と、血塗れで虫の息の女生徒。 「果々倖々……彼の者たちの魂を呼び戻せ。蘇呪」 寧奈の周りから柔らかく暖かい光が生まれ出し、倒れている二人を守るように包み込んでいく。苦しんでいた者からは苦しみを取り去り、傷ついていた者は傷つく前の姿に戻る。光に癒され保護される者たちは、心も身体も、恐怖の記憶すら緩和されていくのだ。やがて二人は眠りから覚め、夢でも見たのだと笑い合うことだろう。 「寧奈、無事か?」 いつもの無表情かと思ったら随分心配そうな眼差しだ。思いがけず、寧奈は雪平に駆け寄る。 「雪平……心配しないで。私は大丈夫です」 これまた珍しく微笑む雪平。どういった風の吹き回しか。 「おまえの友達も心配ない。教室に運んでおいた」 笑顔で大きく頷く。今朝とは雲泥の彼の態度が寧奈を俄かに元気づけた。 「これまでは下級魔族だったか。ならば、今度からは生易しい相手ではないぞ」 眉を顰め、急に厳しい顔になり、雪平が囁く。 「操呪で僅かながら聞き出せましたが、あの程度の情報で敵の正体がわかりましょうか?」 「問題ない。血肉を貪る鬼、とまでわかれば充分だろうさ。封魔のババアは底なしに物知りだからな」 雪平の暴言に今度も苦笑する寧奈。彼女が忠告したところで聞く耳は持たないだろうが。 「雪平ったら……榊様に失礼ですよ。叱られても知りませんから」 「お婆の説教など聞き慣れている」 不敵な笑いを浮かべ、寧奈の頭をぽんぽんと叩く。彼女は不機嫌な表情で怒った振りをした。 「雪平! 子ども扱いしないで。不愉快です」 「そうやって怒るところが、まだまだ子供だ」 拗ねて見せると彼は真顔になった。真っ直ぐに寧奈の瞳を覗き込んでいた。低い声で口早に言う。 「寧奈。奴らは人間を糧とする非情の輩だ。一切容赦無用。情けをかけるとこちらが殺られるぞ。重々心しておけ」 いつの間にか肩にかけられた手が食い込んでいて、余りの真剣さに震えがくる。彼女はやっとのことで小さく頷いた。 【伝説と現世】へ続く
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