いもうととおんな
妹と女
朔と望−月下奇談(陽の巻)/因縁ロゴ
 朔の儀式の夜、寧奈(ねいな)を外して榊(さかき)は言った。
「必要以上に情を移すでない」
 十六の最初の新月。不完全に終わった儀式。
「心得まして」
 雪平(ゆきひら)は、無表情で短く答えた。
 元々妹のように思っていた女だ。こうなってしまえば見知らぬ女に選ばれるよりは都合が良かったと言える。小埜江(おのえ)に選択権はない。
 梓川(あずさがわ)の娘が儀式を迎える際、相手を選ぶのは封魔の長老たちの役目。長年封魔術に携わる目利きでしか、守護の力が最高に働くパートナーを見出せはしないのだ。小埜江の男子たちはただ黙って指定された娘のもとへ行けば良い。長老たちの選択は絶対だ。拒絶は許されない。しかし、今もって寧奈に自分が選ばれた理由を、雪平は納得できないでいた。
 梓川家も小埜江家も、術師と戦士が一人でも多く欲しいがために懸命に子孫を増やそうとする。お蔭でどの家も珍しいくらい子供が多いのだ。中でも梓川本家は凄まじい。寧奈には五人の姉と三人の兄がいる。
 五人の姉のうち、寧奈のすぐ上の二人の方が雪平の年齢と釣り合っていた。現在二十歳の姉か十九の姉か、全く関わりのなかったどちらかにしてくれれば良かったのに、案じていた通り末姫の守護を命ぜられるまで彼に出番はなかった。そう言う彼は小埜江本家の三男で、兄弟たちは皆とうに守護戦士の役に就いていたのだが。
 パートナーは年齢の釣り合いで選ばれるのではなく、力の釣り合いで選ばれるのはわかっている。力のバランスが取れていない場合は互いに絶妙な相乗効果は望めず、悪くすれば潰し合ってしまうという話も嫌と言うほど聞かされてきた。寧奈の力に合わせられるのは今の小埜江には雪平しかいないのだと言われれば、止むを得ないと頷くしかない。だが慎重に慎重を期する長老たちが、二人の生い立ちを知っていながら心が近すぎたと不安を抱かなかったのはおかしい。いや、全く不安を抱かなかったわけではないらしいが。
 榊は早くから危惧していた。そして何とか別の者を探そうとしたのだと聞いた。しかしながら光剣の使い手はおいそれとはいない。間の悪いことに寧奈の誕生日が迫っていた。
 感情を押し殺せば良い、と言ったのは一の長老。普段から感情をセーブするのに慣れている雪平ならともかく、幾ら術師とはいえ十六の娘に強要するのは酷だろう。そこから綻びが生じるのは目に見えていたのではないか。
 結局は、最強の術師を失いたくなかった長老たちの焦りが、儀式の失敗を齎す要因の一つとなったのだ。だからと言って彼らを責めることは誰にもできない。戦士を得られない術師は、個人の力がどんなに優れていたとしても、最終的には半端な者で終わり大成はしない。
 何よりも、一番の原因を作ってしまったのは自分だと後悔している。全ては梓川の娘に近づきすぎた己の過ちなのだ。いつか戦士に選ばれるかも知れないと感じながら寧奈が妹のように可愛くてならなかった。今更仕方ないのだが、個人感情を抜きにはできない関係を築いてしまった雪平自身が間違っていたのだろう。
 彼女は不思議に人を惹きつける。雪平には女でなく妹でしかないはずだが、自分は儀式の相手に選ばれてはならないと思いながら、他の男が選ばれるのだと考えると妙に胸が騒いだ。
 複雑な想いが曖昧な態度に変換される。彼女がそれを誤解して受け止め特別な感情を抱いたのだとしたら、やはり責められるべきは雪平なのだ。それなのに、矛先は寧奈一人に向けられた。
 不完全な儀式により彼女に強いられた重荷を雪平が替わってやることはできない。ならば少しでも心が軽くなるように、精一杯、義務的に対応しようと思う。一族の掟は絶対だ。余計な感情はお互いに苦しみを増すだけだ。
 やがて寧奈も気づくだろう。少女の憧れを卒業する日が来れば。心をセーブする術を覚え、雪平をただの守護戦士だと見られるようになりさえすれば、これ以上傷つくことはない。
 それまでは必要な時以外、彼女に近づくのは避けた方が良い。朔と望の夜でなければ、共にいなくても危険が迫った時、雪平は間違いなく寧奈に引き寄せられるのだから。
 
 
 日暮れの朱の中、赤い唇の女に捕らえられた瞬間、雪平の心で警鐘が鳴った。戦士は術師の結界に守られている。魔を帯びる者には、いち早く勘が働くのだ。
 どんな経緯かは忘れたが知り合ったばかりの女。名前すら覚えてはいない。ほとんど面識もない女が積極的に迫ってくる光景など、彼の日常では珍しくも何ともなかった。
 けれどこの女は少し違っている。外見は群がる女の中でも上に属するほど美人だが見飽きたタイプ。どちらかと言えば内面に問題がある。垣間見えた魔の気配。魔に捕らわれているのか魔を帯びているのか、すぐには判断できないが、きな臭いのには変わりがない。
 捨て置けない――今の周りの状況を考えれば少しでも怪しい者を野放しにはできないだろう。探りを入れておくか。
 本当なら寧奈の友人に呼び出されてここに来たのだから、断りたいところだが、女の誘いに乗ることにした。途中で牙を剥かれても、月齢第一日の夜なら強力な結界が彼を守る。
 女の後について歩く。名前を失念したので曖昧に暈していたら、甘えた声で拗ねてきた。
「い・やぁ〜ん、先輩ったら。美雪よ、み・ゆ・き。ほらぁ〜、先輩の名前の一字とおんなじだって言ったじゃなぁい」
 美雪――藤崎(ふじさき)美雪。そう言えばサークルの後輩にそんなのがいたか。十九の割には随分と色気惚けした女だ。
 彼女は自分のマンションに雪平を誘った。大学生の独り暮らしにしては豪華な部屋。何不自由ないお嬢様なのかも知れない。が、意外に家庭的で、彼のために夕食をこしらえてくれた。危険性は感じない。
 明るい声、くるくる変わる表情。一人でも賑やかなくらい話好き。くだらないが話題も豊富で、懸命に雪平の気を惹こうと間を空けようとしない。その明け透けな態度。どう見ても魔に関わる者ではなかった。
 しかし雪平の勘に外れはない。この女、何処までが演技で何処からが本気だ。本性を見抜くためにも今暫く様子を窺うしかなさそうだ。
 夕食後、彼に腕を絡ませて、美雪は「帰らないで」と言った。熱に浮かされた瞳をして「側にいて」と懇願した。彼女が何を要求しているのかは一目瞭然だ。
 求められれば拒まないのが雪平の信条。それに、こういう女は抱かれている時にこそ本性を現す。
 その夜、日付が変わるまで、美雪は彼を離そうとはしなかった。お蔭で彼女に感じた魔の正体が判明したのだが。
 深夜、束の間の安息に覆われた町を行く。寧奈はもう眠っているだろう。陽が昇れば、雪平の携帯に彼女の友人から怒りのメールが届くに違いない。そう思い、ふと笑う。寧奈の周りに集う者たちは、誰もが皆、心根が良い。類は友を呼ぶのか。
 美雪に感じた魔の兆しはほんの一瞬だった。彼女は魔に捕らわれているのでも魔を帯びているのでもない。今のうちは。ただ、心の片隅に小さな綻びがあり、魔に付け入る隙を与えている。どうやら今回は彼の過剰反応だったようだ。
 人は誰しも多かれ少なかれ魔を心に宿している。一瞬たりとも魔に捕らわれないでいられると断言できる人間などいるだろうか。雪平も人である限り例外ではない。美雪もそうだ。油断すれば付け入られ、心の魔が綻びから暴れ出すかも知れない。そのきっかけがどんなものかは彼の知るところではないが。
 恐れていた闇と無関係だとわかればそれで良いのだ。些細な魔を追及するほど閑ではない。人の心の魔物が時には大事に繋がることを、この夜の雪平は考慮するのを忘れていた。
 
 
 屋敷の奥に続く渡り廊下で不意に呼び止められた。薄暗がりから女の声。
 徐に振り返る。心配げに顔を覗き込んでくる人影。小埜江の遠縁の娘、彩夜祢(あやね)だ。分家の母方の縁(ゆかり)の者。雪平とは血の繋がりはない。
 彩夜祢は遠縁の娘だが使用人だ。屋敷の者の、身の回りの世話か何かをしていたのではないか。誰の側で働いているのかは知らない。何故か雪平と度々顔を合わすところを踏まえると、意外と近い人間のもとにいるのだろう。
「雪平様。遅いお帰りで」
 言われなくてもわかっている。今は丑三つ時。深夜二時だ。
「関わるな。……おまえはこんな時間まで何をしている?」
 仕事なのかと追って問う。彼女は否定的に首を振った。
「雪平様をお待ち申し上げておりました」
「俺を? 何ゆえ?」
 怪訝な瞳で見つめると、彩夜祢は薄っすらと笑った。夜目にも映える妖艶な微笑。中庭の燈篭の灯りを受け、白く浮き立つ。
 美しい女だ。妖しくもある。確か二十四だと記憶しているが未だに嫁にも行かない。これだけ美しければ引く手数多だろうに。訳あって男には縁遠いのかも知れない。
「寧奈様が……」
 一度言葉を切る。意味深だ。寧奈に何かあったとでも言うのか。
「寧奈様が御心配であらせられましたよ。定例報告の時間になっても雪平様がお戻りになられない、と」
 そのことか。
 寧奈と雪平は報告する事件があってもなくても、必ず朝晩、榊に拝謁する。表向きは定例とされてはいたが、実のところ雪平は夜にいないことが多い。公私交えて夜の方が行動し易いからだ。彼がいない時は、寧奈は一人で榊の部屋を訪れる。今に始まったわけでもないのに今日に限って気にしていたとは。
 呼び出された件が原因なら怒りのメールは倍増だな、と思ったとたん、訝しむ。そんな話をするために、彩夜祢はこんな時間まで彼を待ち伏せていたのだろうか。
「それだけか?」
 彼女は、微笑を浮かべた口元はそのままで、寂しそうに目を伏せた。やけに艶っぽい。
「気掛かりなのでございます、寧奈様が……」
 そんなに親しい仲なのか? 彼自身ろくに会話を交わさないため、寧奈の口から彩夜祢の名を聞いた覚えがない。
「雪平様がお側におられない時の寧奈様は、とてもお寂しそうで……」
 静かな声が夜気に流れる。痛いところを突かれたと思った。側にいてやりたいが決意が揺らぐ。いたずらに寧奈の傷を広げて何になる。
「気の迷いだ」
「いいえ、そんな……寧奈様のお寂しさ、痛いほど存じ上げております。私だって、雪平様がいらっしゃらないと……」
 語尾が消え細った。その後、言葉は続かない。
 相手の顔をまじまじと見つめる。瞼がゆっくりと持ち上がり、彩夜祢の瞳が雪平の視線を捕らえた。薄闇の中で瞳が物語っている。情けが欲しい、と訴えかけていた。
 俄かに彼女に背を向ける。幾ら来る者は拒まずとはいえ、寧奈と親しい存在なら応えるわけには行かない。寧奈の気持ちにはとうに気づいていた。それが憧れか本気かは明確ではないが、だからこそ、近い範囲で他の女を相手にはできないだろう。自分の無責任な行動が寧奈を傷つけてしまうと思うと、さすがに雪平でも躊躇する。
「夜風が身に染む前に、休め」
 後も振り返らず歩を進めた。確かめなくてもわかる。呆然と雪平を見送る彩夜祢の様子が。
 雪平にとっては何気ない出来事。彼女を冷たく突き放したために、彩夜祢の人生を、命すらも大きく左右してしまったことを、今の彼が知る由もなかった。
 全ては闇に読み取られていた。人の心の綻びは、ふとした弾みで大きく広がるものなのだと。
 知っていたのは月だけ。庭池に揺れる月だけが、迫り来る破滅の時を危ぶんでいた。
【下級魔族と人間】へ続く
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