あにとおとこ
兄と男
朔と望−月下奇談(陽の巻)/因縁ロゴ
 視線に気を取られていたため寧奈(ねいな)は稀に見る失態をしでかした。つまり、始業ベルと同時に席に着いてしまったのだ。無遅刻無欠席原則の彼女としてはこんな余裕のない状態は認めたくない出来事である。周りは一向に気にしちゃいないのだが。
「ちょっと寧奈ぁ、珍しいじゃないの、遅刻す〜んぜん。彼氏と何かあったぁ?」
「彼氏?」
 と訊いてはみたものの、それが雪平(ゆきひら)を指しているのはわかっていた。
「とぼけんじゃないの。大きな屋敷で同居の彼氏よ。ひょっとして……夫婦ゲンカだったりしてぇ〜?」
 寧奈は真っ赤になって両手を握り締めた。隣の席から囁く理沙(りさ)は小学校からの親友だ。梓川(あずさがわ)家の事情を少なからず知っている。当然、雪平と同じ屋根の下で暮らしていることも。
「あれは、彼氏じゃなくて……に、兄さんみたいなものよ」
 握る拳が震えているのを理沙は見逃さなかった。全く素直じゃないんだから、と彼女は思っている。寧奈が隠し事のできない性格だと理沙はずっと前から気づいていた。そして、何とかしてやりたい、とも思っていたのだ。彼女は面倒見が良すぎて、頼りない寧奈を放ってはおけないと妙な使命感すら抱いていた。梓川と小埜江(おのえ)の関係を深くは知らないが故に。
「そだっ! 放課後ちょっと付き合ってよ。あたし買いたい物があるんだ。寧奈にも見てもらいたい」
 名案を思いついた理沙は、自画自賛な笑いを堪えながらもつい声高になってしまっていた。と、二人の間に忍び寄る影。すかさず出席簿が二人の頭を軽く小突く。それを手にしているのは朝のホームルーム中の、担任の左右田(そうだ)に他ならない。
「おまえら、授業も始まる前から放課後の相談か? いい度胸だなぁ、全く弛んどる。二学期が始まってもう一ヶ月以上経つのに、ちったぁ気を引き締めろ。何だったら放課後、先生とサシで家庭訪問の相談でもするか。あぁ? 試験前だしなぁ」
 寧奈は即座に立ち上がり、苦虫を噛み潰した顔の左右田に頭を下げた。
「すみません」
 が、理沙は立ち上がりもせず、足を組んだ上に斜に構えてずけずけと言う。
「先生、セクハラだぁ、頭さわったぁ〜。それにサシだってさ。ヤバイよ、それ。出るトコに出て訴えちゃおっかな〜」
 教室中に面白半分のヤジが飛ぶ。左右田は大騒ぎする連中の頭をパカスカ叩きながら教壇まで戻っていった。とたん、机に出席簿を叩きつける。
「うるせえ! 静かにしろ!」
 一瞬、静まる教室。しかしすぐに囁き声が蔓延した。
「おい、市原(いちはら)に梓川。誤解すんなよ、俺にも趣味ってもんがあんだ。おまえらみたいな乳臭いガキにセクハラしてどうなるってんだよ、あぁ? 人見て物言えよ。授業中にくっちゃべってるとマジで放課後、缶詰にするからな。他の連中も安心してんじゃねえ。担当の先生から報告があれば纏めて生徒指導室に叩き込むぞ、オラ」
 捨てゼリフの終了と同時にベルが鳴る。眉を不機嫌に動かせながら左右田は教室を後にした。
「あ〜らら。左右田ってばご機嫌斜めなんだからぁ。彼女にでもフラれたのかねぇ〜」
 茶化して頬杖をつく理沙の話を、寧奈はまるで聞いてはいなかった。意識に刷り込まれた左右田の言葉がひどく気にかかって仕方がない。
 乳臭いガキ――確かに大人から見れば間違いない事実なのかも。
 左右田は二十八。雪平より七つも年上だ。けれど雪平だって大人の男。左右田と同じように思っているのかも知れない。寧奈を見て、口には出さないだけで乳臭いガキだと思っていたとしても、彼を責めたり泣きついたりなど大っぴらにできようか。五つの歳の差が俄かに大きく思えてならなかった。
 それ以前に、梓川の家に生まれてしまったのも実は呪わしい。
 と、思いつつ少し考え直す。梓川に生まれなければ雪平に出会えていただろうかと。出会えなければ意味がない。彼はきっと梓川の娘だから相手にしてくれたのだ。でなければ見向きもされなかったに違いない。
 本当に呪わしいのは両家に連綿と横たわる古臭い因習だ。それさえ乗り越えられれば近親的な血の繋がりはないのだから婚姻に差し支えはないはず。但し、雪平が望んでくれた場合の話だが。
 彼の意志を無視するわけには行かない。どう思っているのだろうか、雪平は。
 やっぱり妹? それとも単なる幼馴染み、同居人? 数多いる梓川の娘の一人としか見られていないのか――本家の姫だというだけで末娘でも特殊待遇ではあるが。尤も、雪平はそんなちっぽけなことに拘るタイプではなかったっけ。
 結局は儀式の相手と言うだけか。寧奈には受け入れ難い、如何にも淋しい結論だ。余りにも事務的な考え方すぎて。何よりも、雪平に女として見られていないと認めるのが辛かった。
 妹と思われているのなら彼を兄として考えるべき。幼馴染なら幼馴染み、同居人ならそれなりに。儀式の相手としか見られていないのなら絆の関係と割り切るべきなのだ。しかし、本音は建前の思い通りにはならなかった。
 昨夜の儀式の名残が感覚として残っているから。たとえその行為に雪平の思いは篭っていなくても。寧奈の心だけが暴走しているに過ぎなくても。一つ知りたい。暴走の歯止めはどうやればできるのだろう。
 そしてまた、悩みは堂々巡りを続けるのだ。宿命に抗うなど許されないと言うのに……
 
 
「ね〜いな。もう授業、終わったよ」
 気がつけば既に放課後。少しも記憶に残っていないが反射的にノートだけは取っていたようだ。試験前にこれでいいのか、と思いながら帰り支度をする。頭の中は雪平でいっぱい。振り払っても振り払っても、現実と夢想の隙間に追いやられる。寧奈は溜息を一つ吐き、立ち上がった。戸口では理沙が手招きをして待っている。
「もぉ〜、早く、早くぅ! 行列できちゃうから」
 行列? いったい彼女は何処に行くのだろうか。買い物と言ったが。
 おずおずとくっついて行く寧奈の手をもどかしそうに引っ張って、理沙はどんどん歩いていく。行き先はどうやら駅ビルの専門店街ではないか。
 マンモス駅ビルの中は煌びやかな数々の店。滅多に足を運ばないので一人にされると迷って出られなくなりそうだ。理沙はその中の一軒に寧奈を引き摺っていく。きらきら光る小さな物が、店中所狭しとばかりに並べ立てられていた。
 店内の一角に異様な人だかり。創作アクセサリーのコーナー。世界に一つしかない自分だけのアクセサリーを作ってくれるという。
「ここでペア・リングでも作ろうと思ってサ。彼氏の誕生日もうすぐだから」
 言いながら、指輪の原型を嵌めたり外したりしている。あれやこれやと意見を求めペア・リングのパーツ選びをする理沙を見て、開けっぴろげで羨ましい、と思わずにはいられなかった。考えてみれば寧奈は彼氏なるものにプレゼントをしたことがない。雪平を彼氏と認められないのだから仕方がない。
「ね、さっ! 寧奈もここでペア・リング作って行きなよ。もち雪平さんとのね」
「だからぁ、あれは彼氏じゃあ……」
「いいって、いいって。あたしにゴマカシは効かないよん」
 理沙は強引に、寧奈の指にリング原型を嵌めたり外したりする。あれやこれやとパーツを組み合わせて見ている。正直言ってペア・リングなど寧奈の趣味ではない。もちろん雪平の好みでもないだろう。けれど、心配して元気づけようとしてくれる理沙の気持ちがわかるから、取り敢えずは為すがままになってみた。幼い頃から、彼女はここぞと言う時にいつも励ましてくれる。
 幼馴染みの巧みな話術で束の間の少女の夢が蘇った。知らず知らず色々なパーツを手に取って見つめる寧奈。いい傾向だ、と徐々に側を離れ一旦店の外に出ると、理沙は携帯を取り出して短い通話をした。すぐに店内に戻る。銀の指輪を左手の薬指に嵌めて、寧奈がうっとりとしていた。
「いいじゃ〜ん、コレ。模様入ってっから他の飾りいらないよね。いい、いい。絶対いいよ。コレにしなよ。で? 雪平さんの指のサイズは?」
 はたと気づく。寧奈は彼の指のサイズなど知らなかった。
「しょうがないなぁ。男の人の薬指なんだから、こんなモンじゃないの?」
 二回りくらい大きいサイズを取って理沙は笑う。銀の色が彼女の手の中で煌いた。
「はいよ。んじゃ、コレ買っておいで。ちゃんとリボンかけてもらうんだよ」
 え? 何故だか知らないが理沙より先に指輪を買わされてしまった。彼女が強引すぎるのか、寧奈が気迫に押し切られすぎるのか。
 小さな赤いリボンのついた可愛い袋をレジで受け取って、まぁいいか、と寧奈は微笑む。夢を見るのは個人の自由だ。実際にプレゼントはしないだろうけれど。
 理沙がレジを済ますのを待って二人は駅ビルの外を目指した。少しばかり気が紛れたのは彼女のお蔭だ。親友とは有り難いものだと思う。
「ちゃーんとソレ渡すところを見届けないと、今日は帰んないからね」
 は? 何か不思議なことを言っている。
「さっき雪平さん呼び出しといたんだ。表の噴水の所にいるはず。だからお茶でもしよ。ソレ、絶対今日中に渡すんだよ」
 寧奈は一瞬、眩暈がして立ち止まった。だが腕を引っ張られて再び歩き出す。お節介だと思っていたが、理沙は留まるところを知らなかった。だいたい雪平の携帯番号などいつの間に調べたのだ。もしや席を外している間にでも携帯のメモリを見られたのか。彼女ならやりかねない。油断も隙もあったものではないが、今さら咎めても遅すぎる。
「ほら。いた、いた」
 噴水の前に、夕陽に照らされる雪平の姿。今朝とは違ってタイのないカジュアルなスーツ。肌寒くなった秋風が、柔らかい髪を靡かせていた。
 大きく手を上げ、声を張り上げようとしたところで理沙は目を見開いて固まってしまった。恐る恐る、彼女の視線を追う。
 雪平に近づく一人の女性。ウェーブを描く長い髪。胸の開いたセクシーなドレス。スタイルはモデルも真っ青なメリハリの良さ。唇がルージュで艶々としている。朱に染まるその女性が、周りの全てを翳ませるくらい妖艶に見えた。
 あろう事か、その女性は雪平の肩に両手を乗せると身体を擦り寄せていった。含み笑う口元がいやに印象的だ。と、ゆっくりと顔が近づいていき、赤い唇が彼の唇に重なった。
 無表情のまま、半目で女性を見つめている雪平。だが嫌がっている風でもなく、拒む気配も見られない。ただ佇んで為すがままになっていた。いきなり現れた女性が知り合いなのか初対面なのかも、彼の様子ではわからない。
 心臓を鷲掴みにされたような思いがして、寧奈は親友の背中に隠れた。見たくもないのに目が釘付けになって離れない。
 やがて二人は連れ立って夕焼けの雑踏へ消えていった。呆然と硬直していた理沙は、背中の震えに気がつき、慌てて駆け出そうとした。
「おっ、追っかけよう!」
「ダメ!」
 背後から理沙の身体に両手を回し寧奈は叫ぶ。
「いいの。いいから!」
 強い口調で止められて理沙も意気消沈したらしい。徐に振り返り、申し訳ない声音でポツリと洩らす。
「……ごめんね」
 寧奈は首を振った。親友思いの彼女を責められない。それに、いつかこんな日が来ることは決まっていたはず。やはり梓川と小埜江は一つにはなれないのだ。今更ながら、まざまざと思い知らされた。
 気づかなかった。俯く寧奈を凝視する、今朝から纏わりついていたあの刺すような視線に。いいや、心の何処かで気がついていたが、目にした光景が強烈すぎて認識できなかったのだ。
 視線は寧奈を追っている。一時も休みなく、彼女だけを凝視していた。
【妹と女】へ続く
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