あずさがわとおのえ 梓川と小埜江 |
離れに続く渡り廊下を歩きながら、少女はふと首を傾げた。刺すような視線を感じたからだ。周りには誰の姿もなかったが。 少女の名は梓川(あずさがわ)寧奈(ねいな)。朔の夜、魔の黒犬を退治した封魔の末裔。現存する封魔一族の中で最も優れた術師である。 彼女の外見からは、そのような大それた力があるなどとは見受けられない。可憐な姿はひ弱にすら見えるくらいだ。癖のない長い髪は少々色素が薄くて、絹糸のように細く滑らかで乱れがない。やはり色素の薄い茶色の瞳は奥底まで澄んで煌いている。桜より濃く梅より淡いふくよかな唇。色白の肌は健康的に艶めいていた。全体的におっとりとしていて鋭さがない。顔立ちは美しいが小柄で線が細いため、可愛らしいという印象が先に立つ。 それもそのはず。寧奈はまだ十六歳。近くに通う高校一年生だ。今もその学校の制服を着ている。紺色を基調にしたデザインで、無地のブレザーにチェックのベストとスカート。白いブラウスの襟元に幅広の紺のリボンを結んでいる。足元も紺のハイソックスと校則守りの手堅さ。実に清楚、且つクソ真面目なスタイルだ。服装通り彼女は真面目な上、几帳面で控えめな性格だった。 一度足を止めたが、すぐに歩き出す。封魔の長老に昨夜の報告をしなくてはならない。登校前の慌ただしい時間では例の黒犬について詳しい話は聞けないだろう、と思いながら足を運んだ。 庭に面した廊下に青年の姿があった。長老の部屋の障子が細く開いているところを見ると、寧奈が来るのを待っていたようだ。 青年の名は小埜江(おのえ)雪平(ゆきひら)。類い稀なる光剣の使い手で、彼女の守護をしてくれる頼もしいパートナー。守護一族の中では右に出る者がいないほどの戦士だ。 腕が優れているだけではない。彼は容姿もかなりのものだ。美貌とも言える端正な顔立ち。憂いを湛えたセピアの瞳、通った鼻筋。意志の強さを表すかの如く、秀麗に弧を描く眉と引き締められた唇。少し癖はあるが、柔らかくさらさらと流れる肩より長い髪を、いつも後ろで束ねている。頑強な体躯で背も高いため、寧奈から見れば見上げるほどの大男。頭のてっぺんが彼の胸まで届くのがやっとだ。 雪平は二十一歳。普段は大学生をやっている。性格は生真面目なのだが少々複雑。常に感情を表に出さず、何処か掴みどころのない曖昧さを人前では演出している。だからと言って非社交的ではなく、むしろ彼を慕う人間は異様に多い。その大部分が女性なのは何やら引っかかるが。戦士という資質上、多少ぞんざいで怖い物知らずの傾向もあるようだ。 はて、と寧奈は首を捻る。今日は大学に行かなくて良いのかと。雪平が今朝は洋服ではなく和服を着ていたからだ。粋な濃茶の着流しに裸足。それは屋敷にいる間、彼が大抵している格好だ。大学生のスケジュールを全く把握していないから、決まった時間に出かけないと他人事ながら少しばかり違和感を覚える。何しろ彼女自身は無遅刻無欠席がモットーなのだ。 寧奈の姿を認めると、雪平は無言で障子の隙間に身体を滑り込ませた。長老も待っているに違いない、と慌てて駆け寄る。案の定、座敷の中央に渋い顔をして鎮座する姿が目に入った。部屋に飛び込み障子を閉めたとたん、長々と深い溜息が漂う。彼女はすかさず正座をして頭を下げた。 「榊(さかき)様、申し訳ございません。遅くなりました」 どうやら溜息の原因はそれではなかったらしい。梓川榊が穏やかに視線を寄越した。 「良い。ところで、朔の儀式は滞りなかったか?」 彼女が答えるよりも先に雪平が口を出した。 「御案じ召されるな。昨夜もたっぷりと……」 「雪平っ!」 彼の言葉を遮り真っ赤になる寧奈を見て、榊は一時安堵して微笑む。が、すぐ真顔に戻り二人に釘を刺した。 「良いか。儀式を怠るでない。朔と望の儀式はそなたたちにとっては死活問題じゃ。自らの身を守る為にも疎かにするではないぞ。もちろん、互いの身を守ってこその封魔と守護である事も、くれぐれも忘れてはならん」 「心得まして」 二人同時に答えた。 目の前に座する年齢不詳の榊は、とうに老婆でありながら矍鑠(かくしゃく)としていて肌の色艶も良い。全国各地の神社で見られるような白い小袖に紅袴という巫女姿。その上に羽織る海老茶の打掛は透かし織にした上等の絽縮緬(ろちりめん)。髪はすっかり真っ白く、丁寧に後ろに撫でつけ元結紙で要所を束ねている。現役を退いたとはいえ、今もって強力な封魔術師であることには変わりがない。 「お婆。儀式の件はさておき、昨夜の者をどう思われる? 寧奈が犬を気にしている。あれは一族に因縁の者か?」 昨夜の一件は早々と雪平が説明しておいてくれたらしい。榊なら話からでも充分に敵を察するだけの力と経験がある。相手が何者かさえ判明すれば、今後の攻撃に備えて態勢も整えられるというもの。 「焦るでない。今の段階では滅多な事は言えぬ。暫し様子を見よ」 それだけ? とばかりに、寧奈は大きな瞳を更に大きく見開いた。敵がどれだけ強力な存在か対峙した彼女が一番良くわかっている。にも拘らず、雪平はただの偵察だと言ったのだ。つまり後ろに控える者は、もっと多大な力を持っていると見なして間違いない。敵に関する情報が少なければこちらの対応が出遅れてしまう。 「榊様。あれは単なる怨霊ではありません。悪鬼だと思われます。しかし、どのような類いの悪鬼かは、あの犬だけでは判別できませんでした。因縁めいた言葉も気になります。何やら胸騒ぎが致しますが」 眉を歪める寧奈よりもっと顰めっ面をして、それでも肝心の部分は暈したまま榊は注意だけを促した。敵の正体もわからぬうちに大騒ぎをするのは得策ではない。 「今は何も言えぬ。じゃが、些細な事でも用心せよ。敵が梓川と小埜江の名を知っておったのなら、そなたたちが今後の標的になり得るのは明白。どのような手を使ってくるかは読めぬが卑怯な手である事には間違いなかろうて。あらゆる場合を心せよ」 一息おいてから、榊は強い口調で言った。 「特に寧奈。敵に情けをかけるでないぞ」 修行の最後を締め括るいつもの言葉。これで話は終わりだと暗に告げているのだ。不安は大いに残るが、榊がこういう態度の時は食い下がっても実りはない。学校もあることだし潔く退出した方が良さそうだ。寧奈はゆっくりと頭を下げた。 「では、榊様。学校に行って参ります」 「うむ。気をつけるが良い」 渡り廊下の途中で雪平に呼び止められた。少し蒼ざめた寧奈に向かって、彼は淡々と言う。 「案ずるな。俺がいる限り、おまえを危険な目には合わせん」 それだけで、彼女の不安は半減した。 代々、梓川家は魔を封じる事を生業(なりわい)としてきた。人に取り憑き人の世に禍を為す者を縛し封じる役目。人の世に漏れ込んだ闇の者をあるべき場所に帰(き)す役目。その力は例外なく、梓川の血を引く娘にのみ脈々と受け継がれていった。 梓川の娘たちは生れ落ちた時から力が開花し、修行によって日々の精進怠りなく、力と技を磨いていく。封魔の力は恐ろしいまでに強力で、闇の者のみならず魔を帯びる者も太刀打ちできはしない。だが、持てる力が強力であるが故に対極の部分で欠点があった。彼女たちは物理的に身を守ることができない。物理的に身を守る能力を修めようとすれば、封魔の能力が低下してしまうのだ。 そこを補うのが守護の一族。代々、小埜江家は封魔術師を守るために力と技を磨いてきた。力を駆使する際に無防備になる術師を守るだけでなく、常に起こり得る危険から彼女たちを守り支える役目。その力は小埜江の血を引く男子にのみ、太古より受け継がれてきた。 小埜江の男子たちは何よりも戦闘能力に優れていて、日頃から戦士に必要な要素を鍛え上げ、精進するのが定め。彼らは自身が内包する力によって最も適した武器を生み出すことができ、最高峰の力を持つ者は光剣の使い手となる。但し、彼らにも欠点はあった。梓川の娘と絆がないうちは、魔の力には完全に対抗できないのだ。 梓川と小埜江の力を完璧に高めるには、朔の儀式が必要不可欠であった。 朔の儀式――それは、梓川の娘が十六を迎えた後、最初の朔の夜に行われる。 新月の夜、十六になった梓川の娘は選ばれた小埜江の男子と一夜の契りを交わす。これにより互いの力が融合し、強力な封魔術師と守護戦士が誕生するのだ。術師は物理的な結界に守られ、如何なる危険な場合にも戦士を呼び寄せることができる。戦士は魔封じの結界に守られ、術師の力をもって己の力を何倍にも増幅させて戦う。深い絆が結ばれれば、互いに相手の危険を察知して瞬時に相手の居場所まで空間移動できるようにもなる。それは永遠の絆。どちらかが死に絶えるまで揺るぎなく続くのだ。 術師と戦士は唯一度の契りで生涯の絆を結ばなければならない。何故ならば、梓川と小埜江が婚姻関係になるのは禁忌とされているからだ。一族の血を、力を半減させないようにと、いつの頃からか暗黙の習しとなっていた。これまでは。 本来なら一度きりの契りを、寧奈と雪平は新月と満月の度に繰り返さなければならなかった。それは最初の朔の儀式に不備があったためだ。人選ミスだと榊は案じていたが、もはや後の祭り。十六歳の最初の朔は一生に一度しか来ない。 寧奈の守護に雪平が選ばれたのは、あながち間違いではなかった。戦士は術師との力の釣り合いを考慮して選出される。彼女ほどの術師に匹敵する力を持つ者は、当代の小埜江家には雪平しかいなかった。戦士を決める封魔の長老たちは満場一致で彼を選んだのだ。力量的には全く問題はなく、人選ミスだとは言えまい。 榊が危惧したのは二人の生い立ちだ。幼い頃から同じ屋敷で共に育ち、兄妹の如く互いに慕い合っていた二人。余りにも心が近すぎた。やがて成長するに従って、どちらかの気持ちが兄妹としての枠を越えてしまうのではないかと、早々と予見していた。 儀式に選ばれる戦士は、できれば全くの初対面が良い。その方が、互いに個人の感情が生まれにくいからだ。朔の契りは神聖なもの。力の融合のみを目指すもの。そこに私情を絡めてはならない。どんなに懸命に秘めていたとしても特別な感情は儀式を台無しにする。 雪平に恋焦がれる寧奈の意識が不備を招いた。彼女は儀式の重要さを甘く見すぎていたようだ。人選はミスではなかったが、儀式の主役の心構えに問題があった。 しかし、今さら守護戦士を交代するわけにも行かない。不完全ながらも既に力は融合してしまっている。朔と望の儀式を怠らなければ二人の力は融合を続けるのだ。そこに特別な気持ちがあってもなくても。けれど婚姻だけは許されない。梓川と小埜江の歴史に翳りがあってはならないから。 それは寧奈にとっては由々しき問題だ。恋する雪平と儀式以外では結ばれもせず、婿を取っても彼と契りを交わさなければならないとは。拒みも忘れもできず、彼女には受け入れることだけが強要される。少女らしい将来の夢は打ち砕かれたも同然だろう。だが、彼女がこの程度でめげるようでは術師としては失格だ。実際、寧奈は儀式以前とは何の変化もなく、彼に接している。 雪平にとってはどちらでも良い。一度でも何度でも儀式は儀式。例えば妻を娶ったとしても、寧奈と契ることに心の痛みはない。命に関わる儀式であるからには従う他はない。だいたい元からして彼は多分に女たらしの要素を持っていた。自分から口説くのではなく女から寄ってくる。硬派な態度を取っていても女たちが放っておいてくれないのだ。断るのも面倒なくらい大量だから、いつの間にか、来る者は拒まず去る者は追わずになっていた。女などより自分の本分が重要だ。彼には戦士としての役割がある。常にそちらに意識が傾いていて後の諸々は適当で良いと思っていた。魔と対峙し、寧奈を守る使命だけが彼の生きる道だから。 二人の思惑は捨て置かれ、朔と望の儀式は今後も続けられるのだ。その度に寧奈と雪平がどんな想いを抱くのかなど、梓川と小埜江が干渉するはずもなかった。常に人の世は魔の驚異に晒されている。守るためには封魔術師と守護戦士が必要だ。たとえ、彼らが歴史に埋もれた影の存在であったとしても。 通学路の片隅で、またあの刺すような視線を感じ、寧奈は振り返った。やはり誰の姿もない。 刺さる視線は何を物語るのか。もしかして、昨夜の犬に関わりがあるのだろうか。 【兄と男】へ続く
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