やみとかげ 闇と影 |
闇。 朔の夜。月のない暗夜には、新月の気配が漂うだけ。地に落とす光はない。打ち捨てられた工事現場にも灯りはなく、広大な敷地内に街燈らしき物は何一つなかった。 何処からともなく吹く風が、生臭く感じられるのは気の迷いだろうか。動く者など見当たらない廃墟。いや、一つだけ動く影があった。 影は瓦礫の中を行く。ふらふらと歪み小さく蠢く。辺りの暗さを物ともせず、唯ひたすらに、何かを探しているのか鼻を震わせ動き回っている。 それは犬だ。闇の中でも尚暗い、真っ黒な毛並みの犬。ここいらを彷徨う野良犬だろう。しかし、普通の野良犬でないのは目を見ればわかる。赤く滾る奇妙な目。黒い大気にくっきりと浮かんでいた。 もう一つ動く物があった。しなやかに飛び回る小さな影。瓦礫の山を巧みに乗り越えていく。にゃあ、と低く鳴く声で猫だとわかった。こちらはどうやら普通の野良猫だ。 と、犬がじわりと猫に迫り寄る。猫はすぐに気がついて、立ち止まると毛を逆立て威嚇した。だが、それは一瞬のことだ。瞬く間に犬の口で暴れたかと思うと、断末魔の叫びを上げ、血飛沫を迸らせた。ぴくぴくと痙攣する肉塊を噛み締め、くぐもった声で犬は言った。確かに、人の言葉で。 『ククククク……血が足りぬ……』 犬はギラギラと光る赤い眼を闇夜に向けた。 不意に辺りの空気が微妙に動く。視線の先に犬よりも大きな影がある。人だ。しかも少女だ。長い髪を風に揺らせ、手には数珠を握り締めている。その姿を認めたとたん、犬は明らかに敵意を剥き出しにした。 『おのれ! 封魔の手の者か! 何処まで儂の邪魔をしてくれる!』 唸りを上げ、威嚇し、犬は今にも飛びかからんばかりに身構えた。が、少女には怯む様子はない。微塵も隙を見せずに立ちはだかり、数珠を強く握り直す。ちゃらり、と微かな音がした。 「天地神明、悪鬼尽滅。我、封魔の術師・梓川(あずさがわ)。魔を闇に帰(き)すべく、今、封魔の力、解き放たん」 静かな声だった。澄んで染み入る少女の声は、強くも激しくもないのに完全に唸りを掻き消した。犬は唸るのを止め、素早く少女に襲いかかった。 しかし、何者かの力に撥ね返され犬は標的まで辿り着けなかった。新たに立ちはだかる大きな影。眼光鋭い背の高い青年が、少女を守るように犬を睨み据えていた。 「寄るな! 何人たりとも封魔術師に近づけはせぬ。守護・小埜江(おのえ)の名にかけて!」 手にした剣を振り翳す。光り輝いて闇に浮き立つ刃は、剣と見えるが実は光そのもの。青年は犬に向かって光剣を振り払った。 白刃から生まれる光の風。瓦礫を薙ぎ倒し、吹き飛ばす。けれど犬までは吹き飛ばせなかった。人の言葉で面倒そうに唸る犬。 『煩い蝿め。守護の一族、小埜江か。まだ滅びておらなんだとは、しつこい輩よのぅ』 赤い眼の生き物を覆う、球形の黒い空間。魔の結界に他ならない。それに対抗できるのは封魔術師だけだ。犬が青年に気を取られている隙に、少女は口の中で呪文を唱える。 「禍々禍々……彼(か)の者を戒めよ。縛呪!」 魔の結界が吹き飛ばされ、犬の周りを眩い光が覆った。直後、闇の者は動きを封じられ微動だにもできなくなる。唸り声を上げるだけが犬に赦された動作となった。瞼一つ動かせもしないのに、負け惜しみなのか、半開きの口から舌を覗かせ声を搾り出した。 『おのれ! 今に滅ぼしてくれるぞ。憎き梓川に小埜江。子々孫々まで悉く殲滅(せんめつ)してくれるわ!』 少女の声が憐れみの色を帯びる。 「愚かな。何者にも与えられた分があると言うのに、何故それを越えたがるのか」 犬は聞く耳など持たない。唸り続けている。 『憎き者共、儂の邪魔をさせはせぬ! 全てを支配せねばならぬのじゃ、全てを! 力を持たぬ虫けらなど今に血反吐を吐かせて見せようぞ。全ての世界を闇に塗り替え、儂が王となるのじゃ!』 不気味な笑いを轟かせ、口の端から泡を吹いている。何者の仕業か。この犬は、いったい何者の化身なのか。 「もはや情けはかけられぬ」 言うが早く、少女は数珠を振り翳した。 「禍々禍々……光成す処、彼の者の居場所なし。彼の者、己が世界へ立ち戻れ。闇の世界へ立ち戻れ。封呪!」 犬を取り巻いていた光が輝きを増し、中心に向かって縮まっていく。為す術もなく、黒い犬が光に包まれ白く輪郭をぼやかせた。光は目を射るほどに激しくなり、急激に強烈な閃光を放ったかと思うと、一気に収縮した。跡には何も残らない。犬の姿など何処にも見当たらなかった。 「ふん。偵察か」 青年が犬のいた辺りを睨みつけながら呟いた。 「あれは何者でしょう? とても気になります」 少女が青年を見上げた。不安げに眉を顰めている。彼の剣が未だ光を放っているため辺りに薄明かりがわだかまり、二人の表情を辛うじて目視できるようにしていた。青年は無表情で答える。 「さあな。そこらを漂う悪霊にしては骨がある。しかもいやに計画的だ」 少女の表情が益々不安に曇った。 「あれは悪霊などではありません。少なくとも人の霊ではありません。おそらくは悪鬼でしょう。あの者の言葉からしても、我ら一族に深い因縁を感じますが」 「ハッタリかも知れんぞ」 落ち着き払った態度で即答する青年を見て、少女の表情がやや緩む。しかし、不安は少しも消え去ったわけではない。 「あの者からは異様なほどの怨念の深さを感じました。とてもハッタリとは思えません。いったい何者なのでしょうか?」 青年は相変わらず無表情だ。淡々とした口調で繋いでいる。 「何者かはわからんが、間違いなくまた来るだろう。どうしても知りたければ封魔のババアにでも訊くこったな」 彼の言葉で少女が苦笑した。 「またそのような言い方を。長老に対して失礼ですよ、雪平(ゆきひら)」 だが、青年は鼻を鳴らせただけで答えなかった。手の中の剣を見つめ、天に向けて掲げる。左手の人差し指と薬指を立てて口元に持っていった。 「隠!」 瞬時に右手にあった光の剣が消える。光る物がなくなった辺りは全くの闇と化した。 「急げ、寧奈(ねいな)。朔の夜が明ける前に……」 闇の中、駆け出した青年の後を少女は慌てて追っていく。 朔の夜。月齢零日。夜は静寂を取り戻していた。 【梓川と小埜江】へ続く
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