じげんのはざまへ
次元の狭間へ
西へ…東へ…ロゴ
 案の定ここを狙ってきた。目には見えないが額にあるはずの第三の目。透は額にありったけの力を篭めていた。結界が強度を増し、サイラスの力を撥ね返す。彼の瞳が妖しげに彩られた。
「おまえを侮っていたようだ《心眼》持ち。どうやらおまえの力は《心眼》だけでなく、寧ろこちらの方が厄介と見える」
 サイラスは透の《場》の力を暗示しているのだろう。厄介なはずだ。通常、他人の擬似空間内に別の擬似空間を作り出せる者などいないのだ。それは最初のテリトリーを作り上げた者よりも力が上だと言える。少なくとも《場》に関してはサイラスよりも透の方が優れている。だからこそ、この男は思案していた。結界を打破しなければ透に危害を加えられないから。
 突如、サイラスの右手からかまいたちが放たれた。それが向けられたのは透でも、ましてや紫音でも飛焔でもない。彼らが思いもしなかった方角――その時戦いに参加していなかった者を目指していた。
「きゃああああっ!」
 叫んだのは、片隅のソファーに凭れていた少女。身体に幾つもの赤い筋を刻みながら、青く澄んだ瞳を見開いていた。金の髪がはらりと舞う。
「ピリアさん!」
 一瞬、透の気が削がれた。サイラスの狙いはそこだ。激しくぶつけられた気の塊。しかし思いの外、ダメージが少ない。理由はすぐにわかった。プシケの水晶が守ってくれたのだ。
「透を封じさせたりはしない」
 間近で低い呟き。彼女が一歩踏み出した。その細い身体で透を庇って立つ。
「今、私たち全員を守っているのは透だわ。だから、私が何としてでも透を守る」
「プシケ……」
 彼女を嘲る高笑いが響く。
「ブラック・ムーン。おまえに何ができる。その大半の力を鍵のために使っているのだろう? 今のおまえに私の力を封じる術などない」
「あなたの力を封じ込むのは透よ。そして、私は透を守るために、あなたを攻撃できるわ」
 額の水晶が煌いた。
 直後、サイラスの額を掠める鋭利な光。彼の動きが遅ければ命中していた。俯き、忌々しく唇を噛みしめる男が唸る。
「あれだけ痛めつけたのだ。おまえは今、ほぼ全部の力を黒月門を封じるために使っているはず。それなのに何故、力を使うのだ? 消耗すればブラック・ムーンといえども只では済まない。命を失う事になるぞ」
 尚も繰り出される水晶の攻撃。
「門番が死ねば、次の門番が現れるまで永遠に扉は鎖される。命を失うことを怖れては、守れるものも守れはしない!」
 光を避けるサイラスの様子を見ながら、飛焔が呟いた。
「そろそろ限界かいな……」
 険しい色が瞳に宿る。
「お嬢ちゃん、ええでぇ。そのまま間髪入れんと伯爵を攻撃しててやぁ。兄ぃ! この男の動き、封じてんか!」
 彼の意図を汲んだ紫音が素早く動く。サイラスに飛びかかり、両手首を掴んで押さえつけた。猛り狂う稲妻。彼らの間で激しく放電した。
 飛焔は刀を横一文字に構え、前に突き出す。
「吽!」
 気合と同時に、封印していた金の紐が弾けて消えた。すらりと刀を抜く。と、青白い刀身が姿を現した。透たちが初めて目にする飛焔の刀の本性。彼はそれを天に向かって真っ直ぐ伸ばし、叫ぶ。
「縛!」
 炎が燃え上がった。天を目指して燃え上がったかと思うと次に光の帯となり、くねくねと宙を舞いながら、やがてサイラスに向かっていった。生き物のように彼の身体に絡みつく光の帯。急激にその力を奪い取っていく。
「《火炎使い》め……私の捕縛を任ぜられたのか」
「伯爵、おまえを生け捕りにするんがワイの任務や。けどなぁ、生半可な力やと、おまえには効かん。しゃーから手の込んだ《縛》をこの刀に封じといたんや。ワイの《縛》に捕まったら何人足りとも逃げられへん。ええ加減、往生際良ぅせえよ」
 力を吸い取られ、俄かにサイラスは弱っていくかに思えた。しかし、彼の口元には不気味な微笑が浮かんでいる。
 いつの間に現れたのか夥しい量の光。それはサイラスを取り巻きながら群れ飛んでいる。光は彼に絡みつき、徐々に吸い込まれていく。それが何を意味するのか気づいた瞬間、飛焔はうろたえた。
「ヤ、ヤバイ、ヤバイでぇ。この光、伯爵の糧になっとる……一体どっから飛んできたんや?」
 透たちは辺りを見回した。紫音が真っ先に目を留めたのは、供物の祭壇に横たわる青年。砂門の身体は青白く光るオーラに包まれていた。そこから光が飛び出しサイラスに吸い込まれていく。途切れることもなく無数に。
「あれか! 透、あの男に結界を張れ!」
 反射的に念じ始める。その様子を見てプシケも気づいた。
「……砂門! ……わかったわ、サイラス。あなたは砂門を箱にしたのね!」
 その間にも吸い込まれていく数限りない光。狂ったように群れ飛ぶ精神の輝き。
「一度に大量の精神を、幾らあなたでも吸収し尽すことはできない。だから砂門の身体に封じ込んだのね! いざという時いつでも吸収できるように。……あなたは心現界から力を還元されなくなったから、力を維持するためには他人の力を吸収するしかなかった。だからと言って禁忌を侵すなんて許されないわ。それはあなたが一番良くわかっているはずじゃないの!」
 光の中に不気味な薄笑いが見えた。冷徹に光る瞳が鋭さを増していく。
「何てヤツだ! やっぱりおまえが女狩りの張本人か。それだけじゃねえ。信仰深い善人を騙くらかし、迷信に怯える連中を誑かして、自殺にまで追い込みやがったな? 婪嬌村の、あの淫乱女もおまえの仕業だろう?」
 サイラスは含み笑う。答えはいとも簡単だ。
「白蛇は確かに私が作ったが……」
 一度言葉を切り、次に愕然とするセリフを吐いた。
「操ったのは私ではない。あの娘だ」
 あの娘――それがピリアを指しているのだと、誰もが瞬時に悟った。当の本人はソファーの上に起き直り、呆然と彼らを見守っている。澄み切った青い瞳で、淀みの欠片もない心で。
 透は感じていた。この少女は何と感情の機微に乏しいのだろう。人として複雑な彩りを見せるはずの心の動きが少しもない。考えられない、理解できない。人間なら僅かでも、闇の部分を何処かに隠しているものだ。その断片すら感じられないから彼女の純粋さが息苦しい。艶乱の沼で最初に彼女を読み取った時の、あの得体の知れない恐怖感がまざまざと蘇った。足元から這い上がる悪寒に震えがくる。
「わかっているのよ、サイラス。あなたがあの子に《同調》の力を植え付けたのでしょう?」
 彼は眉を顰め、冷たく言い放つ。
「植え付けてなどいない。あれは、あの娘の本来の力だ。愛する男が瀕死に陥ったショックで眠っていた力が目覚めただけだ」
 疑わしい目でプシケは彼を見た。ゆっくりと眼差しをピリアに移す。呆けた顔でこちらに瞳を向ける少女と視線が絡み合った。
 しかし、何の反応もない。驚くべきことに親友を目の当たりにしながら、聖なる少女は顔色一つ変えなかった。人形を思わせる整った表情。悲痛な思いを訴えかけるプシケに気づかないとでも言うのか。
「ピリア……どうして……?」
 虚ろな眼差しを向けたまま、微動だにしない少女。
「話しかけても無駄だ。あの娘、今はそれどころではない」
 感情を伴わない声が突き刺さる。プシケは声の主に視線を戻した。
「何をしたの? あなたはピリアに何をしたの!」
 サイラスは答えない。光にぼやける映像の中で、瞳だけが凄みを増していた。彼に力を与える夥しい光は、何故か少しも勢いが衰えない。透の結界はまだ効力をなさないのか。飛焔の究極の技すらこの男には通用しないのか。
 一瞬、不安に襲われる。それを断ち切るかのように紫音の言葉が響いた。
「どいつもこいつもしっかりしろよ。弱い者ばかり狙いやがるこんなクズ野郎に惑わされんじゃねえ! やい、てめえ! 女狩りで狩りやがった女はどうした? まだまだ女狩りを続けるつもりだったんだろうが。一体その女たちを何に利用してやがる?」
 サイラスは笑っていた。およそ人と云うものを侮蔑した表情。自分も人間だと言いながら、彼は人間そのものの性を見下し、嘲って笑った。
「あの女たちも白蛇と同じだ。その娘が操ってくれた。婪嬌村の男どもなど雑作もない。たかが女に誘惑され、他愛もない夢に囚われて精も魂も枯れ果てた。哀れなものだ、一時の感情から逃れられないとは……だが、歓喜の中で終局を迎えたのだから悔いはないだろう。真実を知ろうともせず、愚かな夢の中で身を滅ぼすような輩には、それが似合いの末期というものだ……。アグスティとマリアッドにはまだ男たちが残っている。それも飢えた獣ばかりだ。一度女を取り上げれば、次に女を与えた時、一も二もなく飛びつくだろう……浅ましい限りだな。操られ、地獄へ誘うための女たちとも気づかずに」
「てめえ! 人の命を何だと思ってやがる!」
 怒りの余り紫音は飛びかかっていた。サイラスが右腕を伸ばす。そこから雷光がひた走った。それを受け、紫音の掌から閃光が迸る。彼らの間でお互いの力が激しくぶつかり合い、目を射るほどにスパークする。稲妻と閃光が辺りを支配した。
「透、まだか! 早くしろ!」
 一刻の猶予もない。これ以上傷を広げないためにも、何としてでも完璧な結界が必要だ。それまで砂門の祭壇の辺りで曖昧に弾かれた透の力。そこがサイラスの最後の砦に違いない。そして、おそらく砦の陥落は間近に迫っている。
 透は初めて自分から《場》に呼びかけた。本来なら黙っていても《場》は彼に呼応する。自然に《場》のエネルギーと溶け合うのがそもそもの力だから。
 けれど、この時ばかりは自分から呼びかけた。対象の《場》が他人の擬似空間だからでもある。何よりも時間がなかった。《場》が透に同調する前に説き伏せる必要があったのだ。プシケはピリアも砂門も巻き込みたくないと思っている。それどころかサイラスの立場すら案じていた。その思いが手に取るように伝わってくる。全ての罪を無に還すことなどできはしない。ならばせめて、これ以上の罪を犯させないようにしなければ……その為にもサイラスに力を取り戻させてはならない!
 切実なる想いに《場》が同調した。他人のテリトリーであるにも関わらず、《場》は明らかに透に味方したのだ。既にサイラスの擬似空間は皆無に等しい。透の結界は鉄壁なまでに強固に張り巡らされた。彼が念じる限り、何ものも、結界の中に入ることも出ることもできない。
 突然、サイラスの動きが止まった。飛焔の《縛》はまだ生きている。光が吸い込まれなくなったら、後は出て行くだけしかないのだ。徐に見開かれる金の瞳。それが透の視線を捉えた。驚きとも呆れともつかない声が、静かに告げる。
「恐ろしい少年だ……だが見上げたものだ。私の力を封じるとは……」
 瞬間、詰まった声を無理やり絞り出した。
「あっ……あんたが目を覚まさなきゃ、誰もがみんな、傷つくだけなんだ……」
 力なくサイラスは笑った。そして虚ろな眼差しをピリアに向ける。空しい声が流れた。
「残念だ……もう私には砂門を救う事はできない……」
 その言葉が引き金となった。
 いきなり立ち上がり駆け出す少女。サイラスを庇って立ちはだかる。
「やめて! 伯爵様を苦しめないで!」
 彼女の背後でサイラスが薄笑った。
「伯爵様は私と砂門にはなくてはならない存在なの。お願い、これ以上、伯爵様を傷つけないで!」
 少女は叫ぶ。健気にもサイラスを信じ切って。自分たちが利用されたなどとは微塵も気づいていない様子で。
「ピリア、あなたたちは騙されていたのよ。サイラスから離れなさい」
 だが首を振る。悲しげな視線が誰にともなく向けられていた。
「伯爵様は私たちを救ってくださったの。砂門の命を助けてくださったのよ」
 真摯にサイラスを信じる少女に無情な言葉が投げかけられる。
「勘違いだわ。砂門は魂の入れ物にされたのよ。彼の糧となる魂のね。あなたたちを只で助けようなんて気は彼にはなかったでしょうよ」
「違う! 伯爵様が仰ったのよ。砂門を魂で満たしておけばいつまでも死ぬ事はないって。だから彼は今でも私の側にいてくれるの。いつまでも私と共に生きていてくれるのよ」
 緩やかに綻ぶピリアの口元。うっとりと微笑む表情に、透は再び、足元から這い上がる寒々しいものを感じていた。唯一つの信念を抱き続けるその姿。それは果たして本当の彼女の姿なのか。その透明なまでの心の内。何故これほどまでに恐ろしい。
「サイラスでなくても砂門を救えるわ。いえ、寧ろ私たちの方があなたも砂門も救ってあげられる。だから昔のように私を信じて、砂門を連れてこちらへいらっしゃい、ピリア」
 虚ろな眼差しで首を振り続ける。その澄み切った青い瞳には何を映しているのだろうか。彼女は穏やかな笑顔で彼らに語りかける。信じるものは一つだけなのだと。
「いいえ。いいえ……伯爵様でなければ私たちを救えないの。伯爵様だからこそ、私たちを救ってくださるの。私たちは何処までも伯爵様について行くわ。だからあなたたちは、もう伯爵様を苦しめないで。私たちを見逃してね」
 にっこりと笑う。美しい笑顔。まるで天使の微笑みだ。にも関わらず、胸を射抜かれるような恐怖が滲み込む。それは透だけなのか。それとも透だからなのか。考えてみれば、彼女は《同調》の力を持つのだ。ここにいる仲間たちが感化されないとは言い切れない。
 透自身は大丈夫だ。少なくとも、今の彼女の考えには賛同できない。プシケはどうだろう。茫然とピリアを見つめているが、彼女はただ信じられないでいるだけだ。盲目的にサイラスを信じる親友の心理状態が。紫音も黙って立ち尽くしている。しかし彼が何ものにも動じない精神を持つことを、透は誰よりも知っていた。飛焔が忙しなく瞬きを繰り返す。時折頬を叩くところを見ると、ピリアに捉えられかけたのかも知れない。だが、最も危険な存在は、透の真後ろにいた。
「透! お願い見逃してあげて。彼女はただ好きな人と一緒にいたいだけなのよ!」
 突如クリスが抱きついてきた。不思議なくらい強い力で首に回した腕を締め上げてくる。
「く、苦しいよ、クリス……」
 透の気が乱れた。
 紫音も、プシケも、飛焔も、一斉に背後を振り返る。クリスは恐ろしいまでの形相で透の首を絞め続けていた。それは本来のクリスからは考えられない行為。聖なる魂は無垢な精神に惹かれる。この場では透ではなく、サイラスを庇うピリアに同調してしまったのだ。余りにも純粋であるがために。
「やめなさい、クリス! 透を放して!」
「ダメよ! 言って! 彼らを見逃すって言ってくれなきゃダメっ!」
 強度の圧迫に顔色が変化する。激しく乱れる気。結界が揺らぎ始めた。
「仕方ないわね、クリス、あなたを封じるわよ! 一度封じられれば元に戻れはしないのよ!」
 プシケの脅しは効かなかった。クリスは益々、腕に力を篭める。視界が狭くなる。透の脳裏を何かが掠めていった。
「そんな必要はねえ! こうすりゃいいんだ!」
 いつの間にかクリスの背中に回っていた紫音が、透から彼女を引き剥がし、腕を捻り上げていた。透はよろめき倒れ伏す。プシケが彼を抱え起こした。
「しっかりして! 透!」
 一度頭を振ると、思いの外、鮮明に視界が蘇ってきた。透は立ち上がる。クリスを通じて読み取った事実を口にした。
「何であの子がこんなに恐いのかわかったよ。……あれは本当のピリアさんじゃない……狂気だよ。彼女の中に眠る闇の部分だ。この世で一番大切な人を失いかけた時に、あの子の中で目覚めてしまった狂気なんだ。本来のピリアさんでなく、あの狂気が《同調》の力を持っている。プシケの知ってるピリアさんは、もっとずっと、ずっと奥の方に沈み込んでいるんだ」
 狂気というものが、何にも負けないほどの純粋なパワーを持つことを実感した。真っ白な心に雑念などはない。唯一つの願いを妄信的に抱いているから、その力は計り知れないのだ。しかしそれは余りにも、他を無視し、己の信念を貫き通す驚異のパワー。その精神は何処までも澄み切っている。だからこそ惑わされてしまうのだろう。それが正しいか正しくないかは、誰にも判断できないのだから。
 プシケは表情も変えずに、否、寧ろ納得した思いで答えた。
「闇……そう……。ならば、あれがピリアの心の鬼なんでしょうね。封じなければ彼女は取り戻せない。このままでは、私の親友は永遠に戻らない……」
「心の鬼……そうだ! 取り戻せるよ! ピリアさんと砂門さんを連れて、封鬼老師のところへ行くんだ。老師ならきっと元のピリアさんを取り戻してくれるはずだ!」
 何故か彼女は首を振る。真っ直ぐに、サイラス・ルシフォールを睨みつけていた。
「いいえ。そうしたいのは山々だけど、彼女は素直に言う事を聞きそうにもないわ。盲目的にサイラスを信じている限りね。……今のあの子は彼の言う事しか聞かないわ。腕ずくで連れて行こうとしても無傷ではいられないでしょうね……おまけに、この場で鬼を封じられる唯一の存在は、私たちの敵だわ」
 思いもかけない言葉が彼女の口から流れ出した。
「何だと! まさか……あの男は鬼封じができるのか?」
 プシケはゆっくりと振り返る。その微妙な表情が真実を物語っていた。
「彼は、封鬼老師が認める唯一人の後継者よ」
 駄目押しのひと言が愕然とさせる。思わず緩んだ紫音の腕の中で、クリスが大暴れした。
「ちっ。敵じゃあ、鬼封じのお願いはできねえな」
 またもや紫音に羽交い絞めにされ、クリスはやっと大人しくなる。
「なんも考える事ない。腕ずくで連れてったらええがな。ワイの切り札はまだ生きてんでぇ。このまま伯爵にも天使のおじょうちゃんにも大人しゅうしてもらおやないかぁ」
 飛焔が刀を振り下ろした。その動作に応えるように、刀に封じられた《縛》の力が勢いを増す。容赦なくサイラスから力を奪い取っていった。
 しかしながら、サイラスは少しもうろたえる気配を見せない。口元に不敵な笑みを浮かべたまま、彼らに視線を据えている。と、僅かに眉が顰められた。次に驚くべき行動に出た。
「役立たずめ……」
 微かに呟くと、彼はピリアを背後から抱き竦めた。何をしようとしているのか瞬時に察知したプシケが叫ぶ。
「透! ピリアに結界を!」
 だが遅すぎた。既にサイラスはピリアの力を吸い取り始めている。見開かれる青い瞳が驚きと恐怖に彩られた。裏切られた思い。その瞬間、それでも尚、彼女の心には一つの思いしかなかった。
「砂門……砂門! お願い砂門、私と一緒にいて! 私を一人にしないで! 砂門! さもーーーーーん!!!」
 空間が捻じ曲がり、歪む。歪みが闇に変わろうとしていた。
「逃がしてたまるかいな!」
 飛焔が刀を振り翳したが、闇は混沌と彼らを飲み込み始めている。今となっては誰にも止められない。時空の歪みに消えていく彼らを、誰も止める術がなかった。
「サイラス! ……ピリア!」
 プシケが叫ぶ。
「レイラ……私はおまえを諦めた訳ではないぞ……」
 歪みが沈む闇の中からサイラスの声が響いてきた。その怨念の篭められた言葉。事態はまだ終結を迎えてはいないのだ。歪みは闇に姿を変え、闇は辺りを包んでいく。やがてぼんやりと灯りが見え、そこが元いた懺悔の間だと気づいた時、誰もがその場を動けなかった。次元の狭間に消えてしまった少女と伯爵。残されたのは、生ける屍となった如・砂門。
 茫然とした時間を、最初に鋭く切り裂いたのは飛焔だった。
「ちくしょう! また逃げられた! ここまで追い詰めたのに、また逃げられたんかっ! なんちゅう失態やっ!」
 彼はわなわなと刀を握りしめていた。
「心配はいらないわ、飛焔。あなたの《縛》の力は相当強力なようね。まだ繋がっているわよ、サイラスに。……おそらくは、どんなに世界を隔てたとしても、あなたか彼のどちらかが死ぬか消滅するまでは、永遠に繋がったままでしょうね」
 溜息と共にプシケが言う。冷静な口調とは裏腹な、悲痛に満ちた表情で。
「そして私も同じ。私の中のもう一人の私がサイラスの《傀儡》に捕えられている。このままでは済まさないわ。何が何でもこの術を解かなければ、私は心現界に戻れはしないのだから。……飛焔……結局私とあなたは、同じ目的に向かって行くのね」
 飛焔はにやりと笑い、大きく刀を振り上げると、そのまま風を切りながら振り下ろした。
「よっしゃあ! 見とれよぉ伯爵ぅ! たとえ次元の狭間へ逃げようが、ワイは何処までも追い詰めたんでぇ。今度逢ぉた時こそ絶対おまえを引っ括ったるさかい、首洗って待っとけよぉ!」
 言いながら、青白く光る刀身を、すらりと鞘に収めた。
【抜け道へ】へ続く
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