ならくへ
奈落へ
西へ…東へ…ロゴ
 薄暗い懺悔の間は跡形もなく消えた。取って代わった風景は緑深い一面の森。魔法使いの森にも近しい、プシケに相応しい風景だ。
「おまえが私を受け入れないのなら、力ずくで手に入れるまでだ!」
 彼が右手を翳した。
「う……うう……」
 とたん、プシケがよろめき、がくりと膝を落とす。
「プシケ!」
 支えようとした透をサイラスが阻む。透の身体が鋭い力で弾き飛ばされた。
「近寄ってはダメ! 彼は……彼は私の水晶を、壊そうとしている……!」
 不気味な薄ら笑いで力を使ってくる。サイラスはプシケの水晶に力を集中していた。彼女の大半の力を制御する額の水晶。破壊されれば何が起こるかわからない。
「サイラス! 馬鹿な真似はやめて!」
 彼には容赦はない。跪き、必死に攻撃に耐えるプシケを冷ややかに見つめ続ける。微動だにもせずに。
「お願い! サイラス! 水晶が破壊されれば只では済まないわ! 黒月門の意思を無視して門をこじ開けたりしたら、あなたも私も破滅なのよ!」
 彼はにやりと笑った。
「破滅か……おまえと共に破滅するなら本望だ……だが、私はまだそこまで捨鉢にはなっていない」
 彼の手が奇妙な動きをした。両手を空に伸ばし、天を睨み仰ぐ。奥行きの良くわからない暗い空で、稲妻がひた走った。と、右手をゆらゆらと宙に舞わせ、左手は真っ直ぐにプシケに向けられる。彼女はまだ水晶を攻撃されていて身動きが取れない。
「な、何をするつもり……?」
 呻く彼女。サイラスは冷徹に告げる。
「知れたこと。ブラック・ムーンに永遠に眠ってもらうだけだ」
 反撃の構えで彼女は額の水晶に指を当てた。瞬間、激しくスパークする水晶。その隙を目掛けサイラスは一気に力を使ってきた。
「あうっ……!」
 くずおれるプシケの身体。気を失ったのか……それとも……
「ちくしょう! プシケに何をした!」
 慌てて駆け寄る透を、またもサイラスの力が弾き飛ばした。
「小うるさい《心眼》持ちだ、下がっていろ!」
 今度は弾き飛ばすだけではない。その力はかまいたちのように彼の衣服を切り裂いた。頬に薄っすらと血が滲む。
 サイラスはすぐにプシケに視線を戻した。両手を彼女に向け妙な動きを見せる。すると、彼女が肩を震わせた。徐に身体が動いたかと思うとゆらりと立ち上がる。しかし何かが違っていた。いつもの彼女とは何かが微妙に違う。そうだ、意識だ。意識の動きが何かしら違うのだ。透に感じ取れるプシケの意識の波長はこんな印象ではなかった。
 黙って様子を見守っていると、プシケはぼんやりと佇みサイラスに視線を据えている。その虚ろな眼差し。意識の動きはあるがやはり彼女とは違う。無防備で鋭さの足りない全く別の意識だ。
 彼女を見つめるサイラスの瞳。懐かしさと悲しみの入り混じった狂おしいまでの愛執の色。彼の腕が再び妙な動きを見せる。両手は彼女に向けられ、そして宙を彷徨う。何もない空間で何かをたくすような動作。あの動き、何かに似ている。まるで糸のついたマリオネットを操っている、そんな風に見える。
「私の側へ来い、レイラ」
 プシケが素直に歩み出した。
 ――まさか!
 思い当たることがある。プシケがちらりと話してくれた。《傀儡》という力があると。《傀儡》というのはその名の通り人を操る力ではないか。その方法まで彼女は話してくれなかったが、もしかして、人形の如く人を操る力なのではないだろうか。だとしたら今の彼女は正にその力で操られている。意識の抵抗が少しも感じられないのは、そのせいではないのか。
「プシケ! 目を覚ませ! 意識をしっかり持つんだ!」
 叫んだとたん、サイラスの力を額に感じた。鋭く貫く精神の力。反射的に結界を張ったが、ここはこの男の擬似空間、完全ではなかった。まともに力を浴びたわけではないが立っていられない程の衝撃は食らった。透は成す術もなく地面に倒れ伏す。薄目を開け、プシケを見遣ると、彼女はもうサイラスの前まで歩み寄っていた。
「レイラ。私を愛していると言え」
 彼は両手を広げ、彼女を迎えようとしている。プシケの唇が震えた。
「あ、あ……い……」
 彼女を睨み据える金の光。
「さあ、愛していると言ってくれ……言うんだ!」
「あ……あい、し……」
 サイラスがプシケを掻き寄せた。力強く掻き抱くその腕の中で、僅かな抵抗を見せ、レイラの――プシケでない意識が蠢いている。絶大な意志の強さを誇る黒の門番が得体の知れない男の手に陥ちた。透の心を黒々としたものが包み込む次の瞬間、ひらりと翻る別の意識。清冽に光る水晶にも似たプシケの意識が輝きを増した。
 素早く額の水晶に指を当て、もう一方の手をサイラスの額に押し当てる。激しく放出される彼女の力。光が、二人を引き離した。
「馬鹿な……ブラック・ムーン……まだ意識が残っていたのか」
 額を押さえながら彼は数歩よろめいた。
「おまえの意識は奈落へ封じ込めたというのに」
「私を見くびらないで。あなたの知っている頃の私とは違うのよ」
 彼女は踵を返し、透に走り寄る。倒れたままの彼の上に屈んで顔を覗き込んできた。
「しっかりして、透!」
 彼女の手が触れただけで力が湧き上がってくる。プシケを守らなければ。少なくとも紫音たちがここに辿り着くまでは。懸命に身体を起こす。彼女に支えられ、何とか立ち上がった。透は攻撃の手段を知らない。勝算は全くない。だが何かできることがあるはずだ。
 彼らの様子を金の瞳が冷たく見据えていた。背筋が凍りつく薄笑いを浮かべながら。透が立ち上がる姿を見て、ゆっくりと右手を翳す。透は再び弾かれ地面に倒れ込んだ。必死で立ち上がろうとすると、またサイラスの力に弾かれる。弱者をいたぶるその行為にプシケの怒りが爆発した。
「いい加減になさい! 卑怯者! あなたの標的はこの私でしょう? だったら透は関係ない、彼を傷つけないで! それともアドリエのように、透を傷つけることで私から何かを引き出そうというの? だったら無駄ね。二度目は利かないわよ!」
 透を庇って立つプシケを、サイラスは嘲笑う。不快な高笑いが耳に殴り込んできた。
「勇ましい事だ、ブラック・ムーン。だが忘れたのか? 私は先ほど《傀儡》の術をかけたのだぞ。……ああ、おまえはその術を見た事がなかったな。よもや受けた事もないだろう。私の《傀儡》を甘く見ない方がいいぞ。この術は、私が解くか死ぬかしなければ解放されはしないのだ」
「そんなもの! 黒月門の力を借りれば何とでもなるわ!」
「どうだかな……」
 突然彼が両腕を上げた。プシケの身体がびくりと震える。見開かれる緑の瞳。不思議なほど身体の自由が利かなくなっていた。
「何てこと! 私の意識は操られてなどいないのに……」
 あの奇妙な動きでサイラスはプシケを操っている。不敵な薄ら笑いが空恐ろしい。
「良く考えるがいい。何のためにブラック・ムーンを眠らせたかまだわからないのか。私が操っているのはレイラの意識だ。おまえの中にレイラがいる限り、おまえは私の意のままなのだ」
 彼女の中に眠るレイラという意識。紫音から聞いた。プシケは一度、夢幻林で呼び覚ましてしまったのだ。だからなのか。いとも簡単にレイラがこの男の手に掛かったのは。
「許せないわ、見下げ果てた人ね。……私の知っているサイラスはこんな人じゃなかった。あなたがしていることは他を侵害する行為よ。私は黒の門番として、心現界に関わる者として、あなたを許すことはできない!」
「面白い。それ程までに、他を侵害する事が罪になると言いはるのなら、おまえも私と同じ罪に堕ちるがいい」
 サイラスが俄かに動きを早める。プシケの意思に関係なく、彼女の身体は動かされる。表層に出ている意識が彼女自身のものであっても、奥底に蠢くレイラがいる限り彼女の自由は奪われてしまったのだ。振り返り、透を見つめるプシケが叫んだ。
「やめて! 何をするつもりなの!」
 凍てつく声が言い放つ。
「《心眼》持ちを殺せ、レイラ」
「やめなさい! サイラス!」
 彼女の意思は捻じ伏せられた。
「あっ!」
 水晶の光が透の額を掠める。間一髪で避けたものの、それで攻撃が治まるわけがなかった。
「ダメよ……ダメ! お願い! 逃げて、透!」
 また額を狙われた。精神の力の源がわかっているからこそ、ここを狙ってくる。
「やめて! どうすればやめてくれるのよ!」
「罪に堕ち、帰るところがなくなれば、おまえは私のものになるしかないだろう。だから殺せ! その少年を!」
 悲痛な視線が透を捉えた。何とかしなければ、でも何ができる? 思案が透の行動を鈍らせた。水晶が光る。避けきれない。この攻撃を受けたら自分はどうなってしまうのだろう。透の視界が一瞬くぐもった。
 突然彼らの間で火柱が立ち上がる。燃えさかる紅蓮の炎は水晶の光を弾き飛ばした。サイラスの気が削がれ、プシケを操る手が止まっている。
 ――今だ!
 透は瞬時の判断で彼女を抱え結界を張った。彼は他の擬似空間に己の擬似空間を創り出せるのだ。その中でなら彼の力は百パーセント有効だ。
 気がつけば火柱は炎の竜巻に姿を変え、サイラスに襲いかかっていた。だが彼がマントを翻し、腕を振り上げると、炎の竜巻の前に光が立ちはだかった。光が結集した場所はガラスか鏡でも置いてあるかのように見える。機能は同じなのかも知れない。光が炎を撥ね返したのだ。今度は透たちに襲いかかる炎の竜巻。結界はどのくらいそれを撥ね返してくれるだろうか。透たちは息を呑む。
 その時、いきなり目の前に降って湧いた人影。飛焔だ。彼が手を振ると炎の竜巻が小さく丸まって消えてしまった。
「待たせて悪かったなぁ、お嬢ちゃん。ホンマ、危ないトコやった。それにしても坊、良ぉがんばったでぇ」
 肩越しに振り返る飛焔の笑顔。透は一気に力が抜ける思いがした。
「お、遅いよぉ〜。僕はもうギリギリだったんだからねっ!」
 泣き言をぶつけていると背後から肩を掴まれる。
「そう言うな。こっちだってクリスのお蔭でこれでも最短時間で来れたはずなんだからな」
 紫音だ。その隣には見知らぬ金髪の娘。それがクリスだと透は直感した。やっとフルメンバーが揃ったわけだ。
「透、プシケをこっちへ」
 クリスの提案に納得する。サイラスの攻撃を受け続け、挙句に操られたためか、プシケはかなり消耗している。これ以上、危険な目には合わせられない。クリスは精だから精神のダメージを癒す力がある。
「頼むよ。僕が君たちに結界を張る。心配しなくていいから」
 クリスは頷く。しっかりとプシケを支えた。それを認め念じ始める。プシケを中心に結界を張り、他の擬似空間に、捻じ込むように己の擬似空間を押し広げていった。結界の強度が充分だと確信できた時、透は紫音と飛焔の顔を交互に見遣った。
 彼らはゆっくりと視線を動かす。同時に一人の相手に視線を絡ませた。無慈悲な攻撃を繰り返す理不尽な男。一瞬たりとも哀れみを覚えた自分にまで怒りが込み上げてくる。透が一歩前へ出た。紫音が隣に並ぶ。飛焔は真っ正面にサイラスを睨みつけていた。
「さぁて、俺の相棒を痛めつけてくれた礼はたっぷりとさせてもらうぜ」
 紫音が拳を握りしめた。
「せやせや。ワイの雇い主を苛めてくれた礼もせんといかんわなぁ」
 飛焔が腕組みをして仁王立つ。
「あんたがプシケとどんな関わりがあるのか知らないけど、あんたの一方的な気持ちを彼女に押し付けるなんて男らしくないよ。潔く諦めろよ」
 随分とやんわりとした言い方だが、透はこれでも最大限に怒っていた。
 サイラスは無表情に佇んでいる。彼にとっては出し抜けに現れた無頼の輩たち。その一人一人を執拗に観察している。ふと眉が顰められた。彼の眼差しは飛焔に張り付いている。
「久し振りやなぁ、ルシフォール伯爵。ここで逢ぉたが百年目や。今度こそは逃がさへんでぇ」
 飛焔が相手を睨めつけながら言う。ルシフォール伯爵とはサイラスを指している。彼は伯爵と呼ばれる地位の人間なのか。しかもプシケだけでなく、飛焔とも因縁の仲らしい。
「何者だ?」
「ワイを見忘れたとは言わさんでぇ。火沼虎次郎ゆ〜たら、思い出すんかぁ?」
「ヒヌマ・コジロウ……《火炎》使いか……」
 サイラスが不敵に笑う。同じく飛焔も笑い返した。
「おまえに受けた屈辱は何百倍にもして返したるさかい覚悟しいやぁ。昔の事やゆ〜て忘れても〜たら困んでぇ」
 彼の言葉をサイラスは嘲笑する。
「ふふふ……昔の事だ」
 飛焔が明らかに不快な顔をした。
「ゆ〜た尻から腹立つやっちゃで」
 彼は懐に手を入れると何かを取り出した。紙に墨で何かの文字が書かれてあるが判別はできない。それをサイラスに向かって投げつける。それは真っ直ぐに飛んでいったかと思うと、俄かに燃え上がり、いきなり現れる火炎竜。その口から激しい炎を吹いた。
「小賢しい!」
 叫ぶと同時にサイラスの周りに霧が湧き出した。彼を包み込み、炎の攻撃をも包み込む。彼が右手を振ると霧は氷の槍と化し、火炎竜を消滅させ、飛焔にも襲いかかった。飛焔は少しも慌てずに腰から刀を抜き両手で握りしめた。柄と鞘の端を握りしめ、縦に真っ直ぐ構えた。そこから燃え上がる炎。氷の槍を全て一瞬にして消し去る。
「そこまでだ、《火炎》使い!」
 高々と右手を上げサイラスが叫ぶ。俄かに掻き曇る空。邪な亀裂がそこに走る。彼が腕を振り下ろすと、空の亀裂が飛焔に向かって落ちてきた。懸命に避けようとする飛焔。しかし彼より先に紫音が動いていた。飛焔を突き飛ばし、空に向かって手を差し伸べる。落ちてくる稲妻を受け止めた。紫音の掌で激しく放電する稲妻。見る見る消滅していく。
「まさか、おまえは……」
 サイラスの顔色が微かに変わった。
「いつまでも俺の仲間をコケにしてんじゃねえぞ」
 含み笑うと紫音は印を結ぶ。次の瞬間突き出した掌から光が迸った。幾つもの閃光となりサイラスに襲いかかる。素早くマントで身体を庇うも、結界が閃光を弾き返したのは最初のうちだけだ。身を翻していくらかは避け切れたが、幾つかの閃光はサイラスを掠めていった。それは彼に信じ難い事実を突きつける。紫音の力の方が遥かにサイラスを凌いでいた。
「なるほど、稀有な存在だ。《無》の力を持ちながら、同時に《相乗》と《鏡反》を使いこなすとは……だがまだ荒削りだ。力をコントロールできていない」
「何だと?」
 金の瞳が妖しく燃える。
「災いの芽は早めに摘むに限る。おまえが完璧に力を使いこなす術を知る前に、永遠におまえを封じてやろう」
 サイラスが右手を天に掲げた。空がひび割れ、紫音を目掛けて落ちてくる。流星群のように無数に。それを全て受け止めサイラスに投げ返す。が、彼の前には飛焔の炎を撥ね返した光の塊があった。紫音の力も例外なく撥ね返される。帰ってきた力を更に受け、もう一度サイラスに投げつけた。光が分散し粉々になる。一瞬の違いでサイラスは紫音の攻撃を避けていた。素早く次の行動に移っている。紫音が体勢を整える前にサイラスのかまいたちが襲いかかった。
(この男、中途半端に力を使ってやがる。一体何が目的だ?)
 考えはかまいたちで中断させられる。サイラスに投げ返すが、またも光の壁が立ちはだかっていた。反射された力を再び投げつける。しかし今度は光を粉砕することはできなかった。もう一度受け、更に撥ね返す。光の壁は破壊されたが、そこにサイラスの姿はない。僅かにずれた位置から次の攻撃が紫音を襲う。
(コイツ! 俺を消耗させようとしてやがるな)
 気づいた瞬間、紫音は襲いかかる攻撃を避けていた。透の結界がなければ避け切れていたかどうかわからない。
「気づいたのか。満更馬鹿でもないようだな。おまえの技は他の力を糧にするが、それを己の身の中でこなすのは自分自身の力だ。受ける力が強力であれば、それだけ己の力も消耗されるのだ。《相乗》で増幅された力を再び浴びれば最初の何倍もの力が削り取られる。増してやおまえは《無》の力の持ち主だ。一度打ち消した力を再燃させるためにも自分自身の力を必要とする。コントロールできていなければ消耗する一方なのだ」
 言い終わると同時に、サイラスの攻撃が再開した。襲いかかるかまいたちを受け止めたが反撃はしない。消耗した分の力を蓄積しなければならない。反撃に使うパワーを己自身の力に変換するのだ。
 その間、飛焔がサイラスに攻撃を仕掛けた。サイラスを襲う紅蓮の炎。彼は疎ましげに霧の技で反撃し、憎々しく言い放つ。
「小賢しい《火炎》使いめ。おまえの技などとうに見切っている」
 確かに飛焔の力はサイラスに致命的なダメージを与えることはできないようだ。上手くかわされ翻弄される。決して飛焔がサイラスに劣っているわけではなく、彼も何処か中途半端にしか力を使っていないのだ。奥の手を隠している。そんな印象を受けた。
 燃え上がり、渦を巻き、炎が竜巻に姿を変える。襲いかかる紅蓮の竜巻。既に霧を纏ったサイラスが待っていた。が、そこに交わる紫音の閃光。霧だけでは応戦し切れない力がそこに加わった。俄かに現れる光の壁。閃光と竜巻が撥ね返される。それを紫音は受け、投げ返す。今までにない強大な力が壁を粉砕した。間一髪でサイラスはその力を何とか避け切った。
「恐ろしい男だ、もう回復したのか。少しは悟ったようだな力の使い方を……おまえたちに直接攻撃はこちらが不利だ。搦手と行くか」
 瞬時に放たれるかまいたち。それは紫音でも飛焔でもなく、透に向かっていた。その動きは素早い。紫音は間に合わなかった。
 懸命に念じたが防ぎ切れない。鋭く切り裂く真空の凶器。透の顔にも腕にも足にも、真空の爪が傷跡を残す。結界がなければ多分ズタズタに切り裂かれていた。
「この卑怯者野郎! 横道に逸れてんじゃねえ、 俺と戦いやがれ!」
 紫音がサイラスに飛びかかっていった。
 至近距離でぶつかり合う稲妻と閃光。時たまそこに火炎が交じり合う。そして思い出したように透を襲うかまいたち。終わりのない戦いが繰り広げられた。このままでは誰もが皆、消耗するだけだ。サイラスの力を何とかしなければならない。だからと言ってサイラス自身には何もできない。ならば透の擬似空間に巻き込むしかない。少なくとも威力はかなり下がるはずだ。
 思い立ったが即念じる。サイラスのテリトリーに築かれた透の擬似空間はしっかりと根付いていた。そこには強力な《場》の力が存在する。特殊な《場》の力を持つ透なら、更に空間を押し広げ、元の擬似空間を取って食うこともできるはずだ。確信に近い思いが彼を突き動かした。
「気に入らん……」
 紫音の攻撃を避けながら、サイラスが呟いた。
「気に入らんぞ、《心眼》持ちめ。私のテリトリーを侵そうというのか!」
 かまいたちが透に向かってくる。いち早く紫音が立ちはだかり、その力を受け止めた。
「余計な事をするな、《心眼》持ち! おまえがしている事も他を侵害する事に他ならないのだぞ!」
「そんなコト、どうでもいい! あんたが大人しくなりゃ、それでいいんだ!」
 凍てつく光が透を射る。金の光の中に怒りが蠢いている。忌々しく唇が震えた。
「小賢しい少年よ! ならば、おまえから先に奈落へ封じ込めてやろう」
 サイラスの右手が翳された。
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