ざんげのまへ
懺悔の間へ
西へ…東へ…ロゴ
 一先ずイアーゴの部屋で作戦を練ることにした。
 イアーゴはと言えば、クリスの治療が効いたのか、今は大分落ち着いている。何よりも三人の女たちに手厚く介抱され、デレデレと鼻の下を伸ばしていた。助けた三人の女たちは、商売柄、彼とは顔見知り以上の付き合いだ。いつも世話になっている宿の主人が重傷なのだから、当たり前のようにあれこれと何も言わないうちから彼を構ってくれる。元々情が深いからこの町で商売をしていた女たちだ。おまけに恐怖の地下室から住み慣れた町に帰って来られた安心感も手伝っているのだろう。甲斐甲斐しく傷の手当てをしてやったり、シチューを作ってきて口に運んでやったりと、イアーゴをベッドに横たえてから、少しも一人にしようとしない。これには紫音も飛焔も驚きはしたが、助かりもした。
 少女形のクリスは、今は飛焔の指輪の中だ。意識を失いかけていたイアーゴならともかく、シラフな人間が見ればびっくり仰天だろうから。大怪我人の割に、楽しそうに女に世話を焼かれるイアーゴを横目で見ながら、紫音たちは密談をしていた。
「領主館か……生憎やなぁ、下調べも根回しもないがな。どないしょーかなぁ……」
 飛焔はテーブルに頬杖をつき、額をペチペチと叩いている。
「こんな事やったら一回くらい忍び込んどいたら良かったなぁ。しゃーけど、忍び込むんやったら下調べは不可欠やしなぁ……」
 今度はテーブルの上に崩れながら、更にペチペチとやっている。
「おまえ、さっきから何を言ってる? 忍び込むのどうのって」
 飛焔は視線を上げると、突っ伏していた姿勢を正した。
「決まってるやん、兄ぃ。領主館に忍び込む算段や。そうはゆ〜たかて、坊らが何処に捕まっとんのかわからんから忍び込む場所も考えもんやで。噂やと、金に飽かせたドでかい屋敷やっちゅーからなぁ」
「別に忍び込む必要はねえ。堂々と真っ正面から乗り込みゃあいいじゃねえか」
「堂々……言われてもなぁ……」
「領主は相変わらず女狩りをやってるんだろ? 駆け込み酒場にあの女たちがいたのが何よりの証拠だ。だったら女を連れて行きゃあ、正面から通してくれるだろうよ」
 飛焔は首の代わりに人差し指を立てて振った。
「アカン、アカン。だいたい連れてく女がおらんがな。マリアッドの目ぼしい女はもうおらへんし、連れて帰ってきたあの子らかて、今さら領主館に行く訳ないやろ? ワイらが女に化けるゆ〜たかて、こんな厳つい女この世にはおらん。正面から乗り込むんは難しいんとちゃうか?」
「おまえが女装するってのもなかなか面白そうだが、透のためなら命も捨てるって女が一人いるぜ」
「誰や、それ?」
「クリスだ」
 見開けるだけ目を見開くと、次に眉を下げ困った顔をする。ボサボサの頭をガリガリ掻き、最後に腕組みをして飛焔は言った。
「桃色のお嬢ちゃんはマズイんちゃうかぁ。可愛い顔しとるけど、色がなぁ……」
「そこでおまえの出番だろ? 舌先三寸で女をたぶらかす凄腕で、あの三人の誰かをスカウトして来い。アグスティにいる間、意識を失わせてやるから怖い事は何もない。それにクリスがついているから命の保証もするぜ。身の危険を感じたらクリスと共に逃げられるからな」
「あ、さよか」
 ようやく思い当たったようだ。飛焔はペチッと額を叩いた。
「なるほど、女に取り憑かせればええんや。あン時みたいになぁ……あン時……あ? ……あ〜っ!」
 大袈裟にテーブルを叩くと、その勢いで立ち上がった。イアーゴのベッドを振り返る。枕元にいた女と目が合った。女はみるみる不機嫌な顔になると、突然立ち上がり、スタスタとこちらに向かってきた。
「やっぱりあんた! 見たことあると思ったら!」
 ビシッと指差され、飛焔は一歩後退りする。
「ちょっとあんた! あん時何やったかわかんないけどぉ、人が気を失ったからってやり逃げすることないでしょ。あん時のお代がまだよ。さっさと払ってよ!」
「やっぱりおまえやったんか、見た事ある思たら。ちょー待て。ゆ〜とっけど、あン時ワイは何もしてへんで。おまえが気ぃ失いよったから帰ったんや。何もしとらんねんから金はよぉ払わんで」
「何だとぉ、この詐欺師野郎! あたいを舐めんじゃないわよ! その前にやったことがあるでしょうが。その分だけでも払ってもらうわよ!」
 おかしな事にこの女は、取り憑かれてもいないのに、実にクリスにパターンが似ていた。
「あほんだら。あんな前座、やったうちに入るかい」
 にべもなく言い放つが、女が赤い顔で再び爆発する前に、不敵な笑いと共に畳み掛けた。
「しゃーけどもう一回、ワイにおまえを自由にさしてくれるんやったら、前の倍は払ろたってもええでぇ。もちろん前の分もな。どや?」
 ハタと黙り、考え込む。この女は余り頭の回転は速くなさそうだ。
「前払い?」
 小首を傾げて聞いてくる。
「半分前払い、半分後払いっちゅーのはどうや?」
 飛焔は懐に手を入れ何かを取り出す。人差し指と中指の間に挟み、女の目の前でチラチラさせた。金貨だ。それを目にしたとたん、女の顔にぱっと花が咲き、急にくねくねと飛焔にしな垂れかかる。
「あら〜ん、やぁだぁ〜、お金持ってんじゃなーい♪ 半分で金貨一枚もくれるのぉ〜?」
 彼女はニコニコと飛焔の首に腕を回し、頬を撫でたりしている。
「一枚やないでぇ、これでどや?」
 再び懐に手を入れ、もう一枚金貨を取り出す。この男いつの間に、何処から手に入れて来たのやら。それとも最初から持っていたのか。
 摘んだ二枚の金貨を女の胸の谷間に押し込むと、飛焔は彼女の腰を引き寄せた。スケベ根性が炸裂している。
「せっかく生きてマリアッドに帰って来れたんや。生きてるっちゅー実感、感じてみたいやろ? ワイがたっぷり感じさせたるさかい、おまえの身体、ワイに預けてんか。終わったら、後金貨三枚やるさかいな」
「もおぉ〜、何ていい男なのぉ! ああ〜ん、だったらもぉ、めいっぱいサービスしちゃうからぁ。金貨五枚も貰えるんだから、腕によりをかけてあんたをいい気持ちにしてあげるわン♪」
 飛焔の首根っこに抱きついて、女が頬にキスをした。飛焔は荒々しく彼女を掻き寄せると、その唇を奪った。複数の目があるにも関わらず――いや、あるからか、じっくりたっぷり数分間、そのままの姿勢でいた。指輪の中でクリスが大激怒していそうだ。ところがクリスは今それどころではないのだ。飛焔は唇を離すと今度は彼女を抱き上げる。
「可愛い事ゆ〜てくれんなぁ。ほなさっそく、あっちの部屋でええ事しょ〜かぁ」
 と、いそいそと部屋を出て行った。
 テーブルに頬杖をつき傍観していた紫音は、
(良くやるぜ、このスケベ野郎が)
 と思いながら、
(まさかこんな時に、本気でやるつもりじゃねえだろうな?)
 と訝しんだ。クリスが取り憑いた後では、とても続けられないだろうと思ってはいるが。
 イアーゴは、いつもの事とばかりに無関心を装っている。他の女たちもその道のプロだ。こんな風景など見慣れているのだろう。そ知らぬ顔で、またイアーゴの世話を焼いている。
 とにかく待つとしよう。飛焔が心強い仲間を連れて出てくるまでは。
 
 
 部屋に入るなりベッドに女を投げ出す。胸を弄びながら覆い被さっていった。
「あはぁ〜ン♪ こないだの分も纏めていい気持ちにしてぇ〜ン♪」
 女はすっかりヤル気満々だ。適当に相手をしながら、飛焔は左手の指輪を見つめた。クリスに合図を送ろうという時になって気づく。彼はクリスが人の意識を読めることを知らなかった。取り敢えずウインクを送ってみるが反応がない。どうしようか考え込んでいるうちに、女が焦れて足を絡ませてきた。まずい。女とやっている場合ではないのに。と、もう一度ウインクするも反応なし。
 クリスは今、本当にそれどころではなかったのだ。透とプシケを危険な目に合わせておきながら何もできなかった事にショックを受けている。しかも、これから相手にしようという敵の力の断片を垣間見て、恐れを成してしまってもいた。しかしながら透を愛する気持ちは誰よりも強い。命を賭けてでも透を助けなければ、そう決意した矢先、飛焔のスケベっぷりと鈍感っぷりを見せつけられて、指輪の中でずっこけていた。
『ちょっと! どうして欲しいの? さっさと言いなさいよ!』
「あ……」
 思わず言葉を口にしかけた飛焔を慌てて遮る。
『バカっ! 口に出さないで! 心で思えばいいのよ。それでわかるんだから』
 ――何や、そういう事かいな――
 すんなりと悟ると、飛焔は意識の力で呼びかけてきた。
 ――お嬢ちゃん、早よこの女に入ってぇな。コイツ結構上手いさかい、その気にさせられそうやわ。早よ入ってくれんかったら、このままコイツとやってまうでぇ――
 不快指数急上昇。と同時に、女の意識を眠らせ入り込む。飛焔の手が胸を鷲掴んでいるのに気づき、
「いつまで触ってんのよ、このスケベ!」
 思いっきり引っぱたこうと腕を振り上げたが、がっしりと押さえられた。
「二度目は利かんでぇ」
 飛焔はそのままニコニコと、クリスの両手首を押さえつけた。
「桃色やないお嬢ちゃんも可愛いなぁ。お嬢ちゃんが取り憑いただけで、このアバズレが純情可憐に見えてくるから不思議なもんや」
「な、な、な……」
 クリスのツッコミを心待ちにする飛焔。どうやらすっかりクリスとの口喧嘩が気に入ったらしい。しかし、当のクリスは、
「いや〜ん、いじわるぅ〜!」
 俄かに泣き出した。ポロポロと涙を零し、子供のようにしゃくり上げている。
「何や、何や、子供みたいにぃ……。スマン、スマン。泣かすつもりはなかったんや、堪忍してぇな。ほら、涙拭いて。反省しとるさかい、あんじょう機嫌直してぇな〜」
 慌てて彼女を抱き起こす。頭を撫でたり、袖で涙を拭ったりしながら、何とかご機嫌を直させようとする。すっかりクリスは面白くなり、
「今の、もうしない?」
 上目で聞くと、
「せえへん、せえへん。お嬢ちゃんを苛めたら坊にどやされるがな」
 などと言うので、つい調子に乗る。
「だったら透を見習って、少しは清く正しく生きなさいよ!」
 飛焔が顔を顰めて、
「何や、嘘泣きかいっ、このあほんだら。全く口の減らんやっちゃ。ホンマにいてまうぞ、こら」
 と、小突いてきた。が、急に真面目な顔をすると、
「ところがどっこい、今はそれどころやない。悪ふざけは後回しや。こっから先は命懸けやさかいな。ワイもおまえも生きて戻れたら今の続きはでける。それよりも、その女に傷はつけんなよ。何も知らんねんさかい無傷で帰したらなアカンからな。お嬢ちゃんも無関係なもんは巻き込みたぁないやろ?」
 悪ふざけの権化がいつになくマトモだ。
「それはそうよ、わかってる。ここに無事に戻って来れるまでは意識も眠らせておいてあげるし、危なくなったらこの人を連れて逃げるわ」
「そうや、それでええんや」
 クリスは急にうろたえた表情で視線を彷徨わせる。その瞳が徐々に涙で潤んでいく。
「もし……もしも……」
 飛焔の胸倉を掴む手が震えていた。
「透とプシケにもしもの事があったら……私……私、どうしたらいいの……? 透がもし酷い目にあっていたら……私、生きていけない……」
 ガクガクするクリスの肩に手を掛け、飛焔は力強く言う。
「アホ。もしもなんか考えたらアカン。もしもなんかあらへんのや。坊かてそんな簡単に殺られたりするかいな。ワイらが信じんでどないするんや。何が何でも坊と水晶のお嬢ちゃんに何かある前に助けるんや。それがでけるんは、ワイらだけやねんで」
 その時はもう、クリスは飛焔の胸に縋っていた。
「でも……でも……」
 彼がクリスの背中に腕を回し、優しく抱きしめてきた。その胸の温もりを感じていると不思議と震えが治まってくる。驚くほど穏やかな声が言った。
「でももへったくれもない。ええか、信じるんや。坊もお嬢ちゃんも無事やさかい絶対諦めたらアカン。信じるんやで。ワイらが無事に助け出せるんやって信じるんや、ええか?」
 透の言葉が今なら理解できる。飛焔は酷い人じゃないと彼は言っていた。確かにそうだ。底なしに落ち込んでいくクリスの心を、引き上げてくれたのは他ならぬ飛焔。彼に励まされて改めて気づく。信じること諦めないことは、透の生き方そのものだった事に。
 
 
 戸口に飛焔の姿を認め紫音は立ち上がる。飛焔が言った。
「イアーゴ、半死にのおまえに悪いさかい場所変えるわ。それからなぁ……」
 一旦言葉を切る。
「後で兄ぃと領主館に行くから、坊とお嬢ちゃんの事は心配せんでええで。絶対連れて帰ってくるさかいな。しゃーからおまえは美女に囲まれて、早よ怪我治るように養生しとけよ」
 イアーゴはベッドの上に起き直ろうとして女たちに止められた。
「飛焔! 領主館に行くって……」
「心配せんでええゆ〜とるやろ。ワイを誰やと思てんねん。鬼火の飛焔さまを舐めてもーたらアカンがな」
「でもよぉ……」
 不安げなイアーゴを飛焔は笑い飛ばした。
「なんちゅ〜顔してんねん。全くケツの穴のちっこい情けない男やなぁ。そんなんやから未だに一人身なんやぞ」
 飛焔の言葉に顔を顰めながら言う。
「おいおい、おいらのケツの穴なんか見たことあんのかよぉ。全く……おまえこそ、その口の悪さを治さねえと女に逃げられんぞぉ」
「口は悪いけど、気ぃはええやろ?」
 言葉は返さず、イアーゴはゆっくりと笑った。
「ええか? ワイらが帰ってくるまでクヨクヨ考えんのは止めときや。全員揃って戻ってくるさかいな。今までワイが嘘ついた事なんかなかったやろ? 領主に逢ぉたら横っ面の一つも張り飛ばしておまえの恨みも晴らしといたるさかい、まぁ、大船に乗った気ぃになって待っときぃな」
 飛焔は踵を返し、クリスを連れて部屋を出る。後に続く紫音の背中から弱々しい声が追いかけてきた。
「飛焔……すまねえ……」
 
 
 金の馬車亭を出ると飛焔が呟いた。
「領主館は広いでぇ。坊とお嬢ちゃんが何処に捕まっとんのかわからんし、ずるずる時間もかけてられへん。二人が一緒にいるとは限らんしなあ……」
「心配はいらねえ」
 紫音の言葉に怪訝な目を向けてくる。
「俺でも透の意識を探知できるだろうが、クリスの方がより確実だ。聖なるものは無垢な精神に惹かれるんだ。コイツが意識を集中させれば自然に透の精神に引き寄せられる。下手な探知機より役に立つぜ。それに、透は何があってもプシケから離れたりはしない。俺が守れと言ったんだからな」
「へえ……」
 自信に満ちたその態度に飛焔は感嘆の声を上げた。透と紫音の間に存在する、何ものにも揺るがない強い絆。それが少し羨ましくもあった。
「おまえが正体を顕さず、何のために俺たちについて来たのかはわからねえ。だが今は俺たちの仲間だ。だからこそ、只者じゃねえおまえの力を借りたい。透とプシケを無傷で救い出すために、俺に協力してくれ。……信じているぞ、飛焔」
 彼は暫くの間、呆然と紫音を見遣った。やがてゆっくりと笑んでいく。その人懐っこい表情で。
 
 
 二人して乱暴に投げ込まれたのは冷たい石造りの牢。灯りは少し離れたところにあるちびた蝋燭のみだ。投げ込まれる時プシケを庇ったため透は下敷きになった。それで少し背中を打ったので思わず呻く。
「大丈夫? 透……」
「いたた……まぁ何とかね。それよりちょっとこっちに来て」
 透が少しずつ蝋燭の方に身体をずらす。一緒に縛られているためプシケもくっついて行く。が、二人で動かないと悲惨な事になってしまう。示し合わせながら二人は動き、何とか蝋燭まで辿り着いた。
「どうするの?」
「こうするんだよ」
 言うなり、彼はロープを炎であぶった。鎖とか手錠とかでなくて幸いだと思いながら。ちびた蝋燭でも結構役に立つものだ。少し袖が焦げたが、構わずあぶり続ける。きな臭い香りが漂い、ロープの焦げた部分が縮れて捲れ上がる。ある程度あぶった時点で肘に力を篭めると、ロープが急激に抵抗を無くし、緩まった。
 戒めから解き放たれた後、暫し彼らは腕や身体を擦った。辺りを見回すが窓などない。蝋燭以外の灯りのない闇の空間。入口は固く鎖された扉だけだ。
 その扉に身を寄せて外の様子を窺う。意識を集中させると、不思議と辺りの人影が読めた。
「扉に一人、少し離れた角に一人、さっき僕たちを閉じ込める時、指示を与えていた人が付近にいるな。……あの人はこの家の執事か何かみたいだね。理解できない指示ながら主人の意思に忠実に従っている、そんな印象だったよ。……さて、ここからどうやって出るかが問題だな」
 思案する透にプシケが言った。
「やってやれない事はないかも知れないわよ」
 彼女が扉の陰を指差した。そこに潜んでいろと言っているらしい。透が闇に身を潜めるのを確認してから、彼女は大きく息を吸い込んだ。そして突然叫び出す。
「きゃあああーーー! 止めてっ! 何をするのっ、 お願い止めてっ、そんな事っ! 誰かっ! 誰か来てーーーーーっ!」
 いきなり扉が開け放たれ、男が二人雪崩れ込んできた。扉の外にいた男と、少し離れた角にいた男だろう。
 咄嗟に透は行動する。一人は拳、一人は肘鉄、男たちのみぞおち目がけ一気に食らわせた。正体なく倒れこむ屈強な男たち。紫音が言っていた。一発で眠らせられれば、相手に長い間無駄な苦痛を感じさせずに済む。ましてや体力の消耗も最小限で済ませられるのだ。確実な急所は、彼が妖仙山脈で死ぬ思いで覚え込まされたところだ。間違いなくそこを突いたが、余りにも簡単に相手を伸してしまったので、透自身が信じられずにその場に立ち尽くしていた。
 暫くして我に返る。恨みも何もない人間が足元に転がっているのを見て、思わず呟いた。
「ゴメン……勘弁してくれよ……」
 それにしても間抜けな連中だ。こんな子供だましに引っ掛かるとは。
「まさかこんな古典的な手に引っ掛かるとは思わなかったわ」
 プシケも同じ意見だ。
「ヘンだよ、簡単すぎる。まるで僕たちが逃げ出すのを待ってるみたいじゃないか」
「そしてノコノコ領主のもとに現れるのをね」
 二人は顔を見合わせた。
「リテラ卿の狙いは明らかに私だわ。ただ、彼が透の力にまで気づいているとは思えないの。あなたをうっかり一緒に捕まえてしまったことからしてもね。だから透はギリギリまで奥の手を使わないでいて。相手の出方を見てからにしましょう。彼が何のために私に会いたいのかわからないけれど、望まれているのなら会いに行ってあげましょうよ」
 酔狂な言い方だ。しかしながら、領主の目的を探るのも彼らの意図したところだ。引き下がる訳にはいかない。ならば堂々と乗り込んでいってやるか。
 幸いにも透の下げていた荷物袋は奪われてはいなかった。その中に倫明の懐剣がある。彼は飾り袋に入ったままのそれを取り出し、しっかりと握りしめた。
「角を曲がった廊下の向こうにさっきの執事みたいな人がいる。他には誰もいない。やっぱり罠だな」
 そうとわかっていて断念する二人ではない。透は扉を開け広げ、わざと物音を立てた。廊下の向こうで怪訝な足音が踵を返した。こちらに向かってくる。角のところまで足音が来る前に彼は走り出した。
 執事が突然飛び出してきた少年に、死ぬほど驚いて硬直した。その一瞬を透が見逃すわけがない。素早く背後に回り込み、懐剣を執事の首に回すと後ろから締め上げた。
「ひいいぃ……」
 縊り殺される鳥のような声を出す。いや、実際首を絞めてはいるのだが。
「あんた、この家の執事だろ?」
 ジタバタと手足をもがいてはいるが、透の腕を撥ね退けられないほど、彼は力が強くない。おまけに反射神経も鈍いようだ。年齢的に見ても体力が衰え始めた中年以降だろう。職業柄か、身なりはきちんとしていてそつが無い。そこから生真面目で忠実な印象を受ける。余り苦しませたくはなかった。
「どうなんだよ!」
 少しばかり腕に力を加えてみる。と、執事は慌てて声を出した。
「さっ、左様でございます……」
 生真面目な性格を表すかの如く、暴漢相手にまでくそ馬鹿丁寧な口調だ。透は更に言い募る。
「あんたの主人に会いたい。リテラ卿は何処にいる?」
「ご、ご主人様は……」
 執事は言い淀んだ。忠実な召使の教育が行き届いているのだろうが、今のところ、そんなものには用はない。透はまたしても腕に力を加えた。
「早く言えよ。僕はこういうコトには不慣れなんだ。手加減なんかできないよ、うっかり絞め殺しちゃうかも知れないだろ」
 身動き具合で相手がいかに慌てているかがわかる。どんなに忠実な召使でも小心者は小心者だ。自分の命が惜しいのは誰だって同じ。たとえ主人を裏切ることになっても。
 透は少し腕の力を緩めてやった。
「ど、どうか、お、お、お許しを……ご主人様は……懺悔の間でございます……」
「何処にあるんだよ?」
「あ、あちらの角を右に曲がって、突き当たりの部屋でございます」
 透は再度力を篭めて言う。
「嘘じゃないだろうね。もしデマカセだったら、この首、へし折るよ」
 俄かに執事が震え上がった。懐剣の振動から、彼の恐怖度が顕著に伝わってくる。脅しすぎたかな、と顔を上げると、プシケがそこにいた。
「どうやら嘘ではないようね」
 彼女の言葉を機に透は腕を離す。震える執事がほっとしたのも束の間、首根っこに透の手刀を受け、昏倒した。これまた一発で伸びてしまった。思いの外、天烽山の訓練は功を奏しているようだ。
「自分の主人に忠実なだけなのに、悪かったね」
 そう言うと、うつ伏せに転がる初老の執事を、少しでも苦しくないように仰向けに寝かせてやった。プシケを守る為とは言え、やはり人を殴り倒す事などなるべくならしたくはない。だがやってしまった事は仕方がない。良心の疼きを何処かに感じながら、徐に立ち上がった。そして薄暗い廊下の奥を見つめる。
「懺悔の間か、ふざけた名前だな。僕たちを挑発してるつもりかな」
 透が呟くと、
「そのふざけた間で彼自身に懺悔をしてもらいましょうよ。リテラ卿がピリアたちとどんな関わりを持っているかは、今から彼を問い詰めればわかることだわ。まるで無関係でないのなら、彼らが行ってきた罪に対しても懺悔してもらわなくてはならないだろうから」
 彼女は淡々と語った。
「もしかしたら、リテラ卿はあの三人を匿ってるのかも知れない。何にしても彼らがここにいるのは、ほぼ間違いないだろうな。だとしたら、君の目的もようやく果たせるってコトだね。早く行こう、懺悔の間へ」
 薄暗い廊下の奥を目指し、二人は歩き出した。
【擬似空間へ】へ続く
【萬語り処】 ← 感想・苦情・その他諸々、語りたい場合はこちらへどうぞ。
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