りょうしゅかんへ 領主館へ |
エドの酒場――通称駆け込み酒場は、町外れの路地の薄暗がりにある。一見何の変哲もない寂れた酒場を呈しているが、胡散臭い匂いがプンプンと漂っていた。 「さてと、どうするか……」 暗がりで紫音の声がした。 「……どっちが囮になるか、だな」 酒場の表に一つだけぶら下げてあるランプの灯りに照らされ、金茶の赤毛が揺らめいた。 「どないする気や、兄ぃ?」 腕が伸び、飛焔を暗がりに引っ張り込む。二人の姿はほとんど見えなくなった。商売繁盛真っ盛りの時間。時折出入する客に姿を見られ、不信がられてはまずい。 「殴り込むつもりはねえんだろ? だったら一人が囮になって客を引きつけ、一人が裏で探りを入れるのが一番手っ取り早い」 「なるほど。余所者は目立つさかい、気ぃも引き易いわな」 「なら俺が囮だな」 「また、そない一方的に決めてぇ。ワイが囮やったらまずいんか?」 一瞬の沈黙。暗闇なのに、紫音が薄ら笑っているのが感じられた。 「おまえ、この世界を良く知っているだろう? しかも裏の世界にも精通しているな? おまけにすばしっこいし機転も利く。逃げ足の速さも格別だしな。探りを入れるならおまえのようなヤツが向いている。俺は余所者だし、いかにも怪しげだから奴らに警戒される。充分引きつける事ができるぜ。おまえが首尾よく逃げおおせるまで奴らの気を逸らさせない。いざとなったら半殺しにもできるからな」 再び沈黙。飛焔のいる辺りから感嘆の溜息が漏れた。 「さすがやな、兄ぃ。参謀やってたゆ〜んも伊達やのーてホンマもんやった訳や。腕は立つし、頭も切れる。やっぱり只もんやないなぁ、あんさんは」 「ごちゃごちゃ抜かしてねえで算段を考えろよ。俺はこんな恰好で銃も持っている。何に見られる?」 「そうやなぁ……殺し屋かいなぁ?」 「殺しの仕事は結構あるのか?」 「裏の世界やったら引く手数多やな。腐れ切っとるさかい、アグスティは」 「仕事のついでに、俺は俺で探りを入れてみるか。……言っとくが、おまえは酒場に顔を出すなよ。アグスティの連中に面が割れてるんだろうが」 「ばれとったんかいな」 気づかれないように小さく舌を出す。もっとも、こう暗がりでは気づくも気づかないもないが。 「そろそろ行くか。俺は表から行く。おまえは何処かから忍び込めるだろう? 慣れてそうだからな。時間は……そうだな、一時間が限度だな。一時間経ったら俺は一悶着起こして酒場を出る。おまえはそれまでに何かを掴み取れ。一時間経って何も出なかったら深追いはするなよ」 「首尾良ぅでけたら、合図は?」 暗がりから一歩踏み出す。不敵な笑いがランプの灯りに照らされた。 「そんなもんはいらねえ」 それを機に二手に分かれる。酒場の横の、猫の通り道と思しき幅の狭い路地に飛焔が身体を滑り込ませるのを見て、紫音は煤けた扉に手を掛けた。 酒場に足を踏み入れる。案の定、中にいた連中が一斉に紫音に視線を貼り付けた。知らん顔をする奴など一人もいない。ここにはむさ苦しい野郎ばかりで女の姿はなかった。ゆっくりと歩き、右手の隅の空いた席に腰を下ろす。何も感じないような顔で、黙ってカウンターにいる男に目を遣った。中にいる男は中年のオヤジだ。白髪混じりの黒い髪をピッチリ後ろに撫で付け、バーテンの恰好でしきりにグラスを磨いている。だが、その眼差しに隙はなく、値踏みする視線を絡ませてきた。紫音は男を指で招く。男はグラスを置き、無表情でこちらに向かってくる。紫音の側まで来ると囁き声で言った。周りの客たちは誰一人声を洩らさない。男の囁きが酷く鮮明に聞こえた。 「お客さん、見ない顔だね。誰から聞いた?」 すぐには答えずに男の顔を睨みつける。徐に、口の端を緩ませて紫音は笑う。 「仲間から聞いたのさ。仕事を探してる」 遠慮もなくジロジロと、男は紫音を見つめ回す。視線が銃に留まった。 「何処から来なすった?」 「遊天だ。あそこは腑抜けた野郎ばかりだからな、コロシの仕事なんざありゃしねえ。俺は忙しい方が好きなんでな」 男は黙って席を離れた。カウンターに戻り、グラスに酒を注ごうとする。上目で紫音を睨みつけたまま。 「待ちな」 男が手を止めた。 「グラスはいらねえ。封の切ってねえ酒をボトルで持ってこい」 注ぎかけの酒をカウンターに置き、男がにやりと笑った。紫音が只者ではないと納得したようだ。目で合図を送ると、別の男が未開封のボトルを持って紫音の側に来た。 「いつ、殺れる?」 男の手渡すボトルを受け、自分の手で封を切る。蓋を開け、鼻を近づけ、男を一瞥して言った。 「いつでも」 相手には紫音の表情が掴み取れない。胡散臭い前髪が、彼の顔の半分を隠し、表情の機微を悟らせないからだ。 「誰を殺る?」 紫音はボトルにまだ口をつけない。彼を睨めつける二人目の男を注意深く監視しながら訊いた。問われた限りは答える義務があるだろう、と催促のつもりでテーブルを指で鳴らせた。男は腰を屈め、声を潜めて一言。 「マリアッドの市長だ」 男よりも張りのある声で返す。 「アグスティの領主はやり手だと聞いている。なるほど。邪魔者は消すのが一番だ」 男の顔色が変わった。カウンターの男は無表情を装ってはいるが、僅かな心の動揺も紫音は見逃すことはない。それどころか周りの連中も、明らかに先ほどとは態度が違っている。驚きと怖れ。紫音から目を逸らす奴もいた。 隣のテーブルの空になったグラスを奪い取る。そこに持っていたボトルの酒を注ぐと、 「報酬は?」 「き……金貨五十……」 「商談成立だ、飲れ」 二人目の男の前にグラスを置いた。男はグラスと紫音の顔を交互に見つめる。と、暫くグラスを凝視したかと思うと、意を決したようにグイッと一気に流し込んだ。冷汗と溜息。客たちのどよめき。男は、深く長く息を吐くが、何も起こらない。カウンターの男の不愉快な表情が目に入る。 ビンゴだ―― 裏稼業の元締めは、アグスティの領主に繋がっていることを、紫音は確信した。酒場にいる連中を一人残らず見落とさないよう睨みつけ、ゆっくりとボトルを呷った。誰もが紫音に視線を奪われた。誰も彼から目を逸らせない。奴らの注意を引きつけるのにも、まんまと成功したのだ。 暗がりで暫く息を潜める。狙っていた窓から内部を窺った。誰もいない。音を立てずに窓を開け、素早く身体を滑り込ませると即座に閉める。ここの鍵が壊れていることは既に調査済みだ。狙った限りは下調べは怠らない。おまけに何度も忍び込んでいるので間取りもバッチリだ。 暗がりの中、飛焔は地下へ下りる階段を探り当て足早に歩を進める。忍の技の賜物かブーツ着用でも足音がしない。地下から灯りが漏れてくる。廊下の灯りだ、誰もいないのはわかっている。彼にはそれが感知できるのだから。 当たりを付けていた部屋に向かう。頑丈な鉄の扉があり、しっかりと鍵が掛かっていた。扉には小窓が開いていて鉄格子が嵌っている。そこから中を窺うも、薄暗くて良くわからない。 飛焔は鍵穴をつぶさに調べた。旧式だ、雑作もない。懐から細い金属の棒を取り出し鍵穴に差し込んだ。ほんの少し棒をずらすと、いとも簡単に鍵は緩み、彼を招き入れた。 辺りを見回し、素早く部屋に入り込む。扉を閉めると、外から覗いた時より薄暗く感じられた。部屋の隅々まで視線を送るがこれでは良く調べることはできない。 「吽!」 気合と共に、飛焔の掌に炎が揺らいだ。鬼火のように青白い炎。彼が手を掲げると、ゆらゆらと揺れながら部屋の隅々を照らし出した。誰かがその灯りに気付いた。奥の方で身じろぐ気配がする。じゃらり、という鎖の音が微かにした。 「誰?」 女の声だ。 彼はそちらに歩み寄る。声の辺りに炎を翳した。 女が三人ばかり項垂れていた。壁から伸びた鎖で手と足を繋がれている。一人の女が顔を上げ、悲痛な面持ちで飛焔を見た。 「助けて……」 飛焔はしゃがんで女たちを照らす。その中に見知った女を見つけ、目を見開いた。けれど女は気付かない。不安と絶望が女を支配している。 「マリアッドの女の子やな?」 女たちは頷いた。 「上手い話に乗せられてアグスティに来たのはええけど、売られる一歩手前やった、っちゅートコかいなぁ?」 俯いたまま、更に女たちは頷いた。 「売られる先は何処かわかっとんのんか?」 先ほど飛焔に助けを求めた女が言った。 「……領主館」 「やっぱりそういう事か。どっちにしても、詳しい話は後や。先ずはこっから逃げん事には落ち着かんやろ」 飛焔は彼女たちを立ち上がらせた。手と足に食い込む鎖を調べる。鎖で戒められた皮膚は、擦れて赤くなり血が滲んでいた。 「怖かったら、目ぇつぶっとき」 言うなり鎖を握りしめ、手枷足枷の部分に念を送った。掌の炎が揺らぎ枷に纏わりつく。一瞬スパークしたかと思うと、ポロリと枷が外れた。彼女たちの胸が助かるかも知れない希望で高鳴った。喜びの余り声を上げかけた時、 「しっ!」 飛焔に制止されて彼女たちは固まった。彼は足音も立てず、素早く戸口に身を寄せる。だが人の気配はない。 (気のせいか?) 疑わしく思うが一刻を争う状態だ。女たちを無事にマリアッドに連れ戻さなければならない。何も知らない彼女たちを領主の餌食にするのは酷だ。 手招きをする。彼女たちは即座に飛焔の側に走り寄ってきた。 「ええか? ワイがあんたらを守ったるさかい、ワイの側から絶対離れたらアカンで、ええな?」 女たちは無言で頷いた。 カウンターにいる二人。マスターとバーテンを注意深く監視する。客からも目を離さない。誰か一人でも不穏な動きをしたら、こいつらを阻止しなければならない。ボトルの酒を呷りながら、紫音は奴らが、彼に注意を向けていることを再確認した。制限は一時間。残された時間は僅かだ。一時間経てばひと暴れする。それで飛焔の後を追えばいい。 しかし、もう一度マスターに目を遣った時、彼がバーテンに陰で合図するのが見えた。ベストの下に男たちが何かを潜ませる――銃だ。 (しくじったか!) だしぬけに立ち上がった紫音をマスターが睨みつける。バーテンは既に裏口から出て行った。マスターも後を追おうとしているのだ。紫音は素早く戸口に駆け寄った。客たちが立ち上がり、口々に叫びながら彼を追ってくる。 「待ちやがれ!」 「逃がしゃしねえぜ!」 紫音は戸口に立ちはだかり、彼らを振り返った。その隙にマスターは裏口から出て行った。左の袖を捲り上げ、リストバンドから小さなカプセル状のものを取り出す。客たちはまだ喚いている。紫音を逃がすまいと取り囲んできた。 「てめえ! 何者だ!」 「怪しい奴め! 引っ括っちまえ!」 彼らが紫音に飛びかかろうとした瞬間、 「やかましい! 眠っちまいな!」 叫ぶと同時にカプセルを床に叩きつけた。ガラスの割れる微かな音。溢れ出す催眠ガス。驚く客たちを尻目に、素早く外へ飛び出す。即効性のガスだ。あいつらは追っては来られない。だが二人逃がした。紫音はマスターとバーテンの後を追った。 夜の街路に反響する複数の足音。まだそう遠くには行っていまい。バラバラと荒々しい男たちの足音の向こうで、何処かなよなよしい足音が幾つもする。女連れか。しかも二人、いや三人? 飛焔は女を連れている。普段どおりには行かない。何としてでも紫音があの男たちを阻止しなければならなかった。 彼は感覚を研ぎ澄ませる。見知らぬ街でも何とか奴らの裏をかかなければ。情報は響き渡る足音のみ。紫音にはそれだけで充分だった。意識を集中すると不思議なくらい勘が冴えた。組織で暗躍していた時よりも、何倍も、何十倍も。ここが慣れない街だということすら忘れさせてくれるほど、路地を抜ける度に奴らに近づいていく。追いつける。いや、回り込める。背中に飛焔と女たちの足音を感じた。それを追いかける足音は反対側から迫ってくる。紫音は路地を抜けた。奴らの姿が真正面にあった。 「待ちな! おまえらには俺の相手をしてもらう」 男たちは、ぎょっと足を止めた。それは一瞬のこと。即座にバーテンが紫音に飛びかかってくる。その横を掏り抜けようとするマスター。紫音はバーテンの横っ面を銃でぶっ飛ばし、走り去ろうとするマスターの足元めがけ引金を引いた。銃口が光の帯を引く。目を庇い、縮こまるマスターの足元で、石畳の道が焼け焦げて陥没した。 「ひっ、ひいっ!」 頓狂な声を上げ、マスターが立ち竦んだ。その間に倒れていたバーテンが起き上がり、再び紫音に向かってくる。面倒だ。二人纏めてやっちまえ。銃と蹴りで紫音は二人を相手にした。但し、銃を使う必要などまるでなかった。マスターは竦んでいるし、バーテンはとんだ見かけ倒しだ。銃でぶん殴り蹴りをかますと、二人ともあっという間に石畳に沈んだ。念のため銃を奪い取り、排水溝へ捨てた。 「けっ。気が抜けちまうぜ。マジでこいつら裏稼業の元締めか?」 呟いた直後に思いつく。もしも、この男たちがただの雇われ者だとしたら…… 嫌な予感がした。胸騒ぎは紫音を駆り立てる。遠ざかる飛焔と女たちの足音を追って、彼は駆け出した。 浮かない顔をする透に、プシケは話しかける。 「さっきの話、まだ納得がいかない?」 透は我に返り彼女を眺めた。 「ああ……いや、そうじゃなくて……あの子の力は何なのかを考えてたんだ」 「ピリアの?」 「そう」 ずっと考えていて気がついたことがあった。彼女も気がついているかも知れない。そう思い、話してみる。 「最初はそうは思わなかったんだけど、あの子は人を操ってるんじゃないと思うんだ。あの子が人を操ると言うよりも、周りの人間があの子に感化されているんじゃないかな? その、同情とかいうような中途半端なものじゃなくて、波長が合うとか、そんなカンジかな?」 「鋭いわね。私も考えていたの。人を操ることなんて、ピリアにはできないわ。あの力は《傀儡》と言うよりは、シンクロ、つまり《同調》ではないかと思うのよ。波長が合うというのにも近いわね。だけどやっぱり違うものだわ。あなたと紫音は波長を合わせられるでしょ? でも全く波長が合ったところで、あなたたちは自己を見失ったりしない。そういうのとは違うのよ。《同調》は、作用する人間と作用される人間が全く同じ思考を持ってしまうの。同じ思考を持つから願望も同じ。作用する側が強く願えば、それだけ作用された側は行動に移しやすくなるわけ」 「そうすると、彼女で言えば、砂門さんのために命を捨てても構わないと願う余り、同調した人たちが自殺するってコトになるのか」 「まぁ、そういうところでしょうね……。だけど私の知る限り、ピリアにそんな力はなかったわ。もしかしたら……植え付けられたのかも知れない」 「植え付ける? そんなコトできるの?」 驚く透に、事も無げに話すプシケ。 「強い者なら難しくはないわ。本人が持つある種の要素に同じ要素を持つ力を注ぎ込むのよ。だけどそんなことができるなら、私たちが相手にする存在は洒落にならないくらい只者ではないわね」 透は思い返す。ファティムール寺院で見た幻影を。視覚は朧げだが強い印象は残っている。あの、銀髪の凍てつくような男。 「プシケはあの男、銀髪の騎士がピリアさんを意のままにしてるんだと思ってる? それともそう思いたいの?」 彼女は透から視線を逸らせた。溜息を吐きながら目を閉じる。 「そうね。思いたいのかも知れないわね……」 暫く口を閉じる彼女を黙って見守った。透が同じ立場ならどうだろう。もしも、紫音が心現界の禁忌を侵したりしたら……有り得ない事ではあるが。 「その……砂門さんの力はどんな力だと思う?」 沈黙に耐え切れず質問してみた。 「おそらく砂門はまだ覚醒していないわ。だけど彼は妙な力を使うの。私たちとは少し種類の違う力よ。その力は無理に引き出された気がするわ、人工的な方法でね。詳しくはわからないけれど……。一つだけ言えるのは、その力のせいで彼の覚醒が妨げられているに違いないのよ。あの力は……彼の精神を歪めるわ……」 「銀髪の男はどっちの力を狙ってるんだろう?」 「さあ? わからないわね。少なくとも砂門が価値ある存在でなければ、瀕死の彼を連れて行ったりはしないでしょう? あの男にはどちらでも価値があるのよ。最終目的が何だかはわからないけれど」 二人の会話を聞きながらベッドで転げ回っていたクリスが、突然、透の頭に飛び乗ってきた。 『透! コワイ! 何かが来る! 何だかわからないけど、凄く嫌なモノが来るわ……』 クリスは怯えていた。透の髪を掴んだままで身を震わせている。緊張と恐怖がダイレクトに伝わってきた。 「凄く嫌なモノ、って、いったい?」 『ああっダメっ! もうそこまで来てるっ!』 言うなり、クリスは霧と化し、何処へともなく姿を消してしまった。精がそんなにも怖れる存在。それは相反する力を持つものなのか。邪悪な、魔の力を帯びたもの…… 透がベッドから立ち上がった時、廊下で物凄い悲鳴が轟いた。 「うわああああぁぁぁーーー!」 イアーゴだ。部屋を飛び出して確かめなければと身じろいだとたん、ドアが蹴り開けられた。弾かれたようにプシケが立ち上がり、透に身を寄せる。 乱暴に投げ込まれたのは血だらけのイアーゴ。その後ろから現れたのは、屈強な男が二人。だがその瞳は正気を失っている。一目でわかる虚ろな色だ。 「イアーゴさんっ!」 透が駆け寄る前に、イアーゴは男たちに引き起こされた。髪を鷲掴みにされ、首に腕を回されて無理やり立たされた。腕を回した男は力を篭める。簡単にへし折れるのだと行動が主張している。 「お、お嬢さん……坊主……に、逃げろ……」 苦しい息で懸命に搾り出した言葉。男は容赦なくイアーゴの首を捻る。彼はもう意識を失いかけていた。それでもまだ眼差しで訴え続ける。 「この男を死なせたくなかったら、大人しく俺たちについて来な」 もう一人の男が言った。虚ろな上に冷たい瞳。横目で仲間に締め上げられるイアーゴを見て薄笑う。人が死ぬ事など何とも思っていない目だ。奴らは本気だ。透たちが抵抗すれば即座にイアーゴを殺す。 透はプシケを背後に庇い、男たちを睨みつけた。 「僕たちを何処へ連れて行く気だ?」 男が薄笑いで答えた。 「アグスティのご領主様が、その女に用があるんだとよ」 背筋に悪寒が走った。領主はプシケを狙っている。彼女の力を知った上なのかは定かではない。けれど彼女が狙われているのは明らかだ。それは、結果的には心現界の門が脅かされる事に繋がりはしないか。みすみす手に落ちていいものだろうか。 思案する透に焦れて男が合図を送った。イアーゴの首が更に捻られる。彼の手が痙攣を起こした。 「やめろ!」 咄嗟に叫ぶ透。飛びかかろうとするのをプシケに押さえられた。イアーゴは非力だ。しかも虫の息だ。だが物理的には透も非力なのだ。ここで乱闘になれば透は必ず殺られる。そしてプシケは拉致される。もちろんイアーゴは殺されるだろう。しかし大人しく従えば、少なくともイアーゴは解放される。それに透とプシケには切り札がある。何よりも、領主の真の目的が探れるのではないか。すぐに殺されなければ可能性はあるのだ。虎穴に入らずんば虎子を得ず。このままでは状況は悪化する一方だ。 「大人しくついて行くから、その人を離してくれよ!」 男がにやりと笑った。締めていた腕が急に緩み、イアーゴは床にくずおれた。息はしているが意識はないだろう。このまま放っておけば死ぬかも知れない。 透は意識でクリスに呼びかけた。 ――クリス! イアーゴさんを頼むよ。それから紫音たちが帰ってきたら、このコトを伝えてくれ―― イアーゴを締め付けていた男がプシケの肩に手を掛けた。乱暴に引き寄せようとする。 「離せ!」 透は男の手をはたき飛ばした。全身でプシケを庇い叫ぶ。 「大人しく従うって言っただろ、乱暴は許さない! 彼女には指一本触れさせないぞ!」 「いいだろう。じゃあ、二人纏めて仲良く引っ括ってやらあ」 透とプシケは密着したまま、がんじがらめにロープで縛り上げられた。そのまま男たちに引っ張られていく。もはや抵抗の術もなく。 「ひ……飛焔……」 イアーゴは最後の力を振り絞って手を伸ばす。だが、もう意識を繋ぎ留めておくことはできなかった。 女たちを連れ、金の馬車亭へ紫音と飛焔が戻ってきた時、宿は惨憺たる有様だった。一階の食堂は目も当てられないほど荒らされ、フロントに主の姿はない。飛焔はイアーゴの部屋を調べ、荒らされた様子がないのを確かめると、女たちをそこに隠した。すぐに三階へと向かう。 彼らの部屋の戸口にイアーゴが倒れていた。血だらけだ。かなり痛めつけられたと見える。その側に覆い被さるピンクの少女。クリスだった。部屋には他に誰もいない。透もプシケも姿がなかった。 「イアーゴ! どないしたんや! 坊は? お嬢ちゃんは何処行った!」 抱え起こされ、飛焔に気付くと、イアーゴは懸命に声を振り絞った。 「す……すまねえ……飛焔……すまねえよぉ……」 クリスはまだイアーゴに覆い被さっている。彼の命を繋ぎ止めたのはクリスだ。精の力を振り絞り、できる限り彼の傷を癒そうとしていた。 「おい、しっかりしろ! 何があった? 透とプシケはどうした?」 イアーゴの背中を支えながら紫音が言った。クリスがポロポロと涙を零している。 「や……奴らに……連れてかれちまった……」 「何やて! 奴らって、アグスティの連中か?」 力なく頷き、それでまた彼は意識を失った。 「クリス。おまえは見ていたんだろう、いったい何があった?」 またクリスの瞳から涙が零れた。キラキラと光り輝き、切なく頬を伝っていく。今クリスは少女の姿をしていた。それはイアーゴを安心させるためだ。 『ごめんなさい……ごめんなさい紫音……私……私、透もプシケも守る事ができなかった……凄く怖い力が近づいてきて……私、恐怖で形を保っていられなくなったの……竦んでしまって……助けられなかった……助けられなかったの……』 クリスは涙ながらに事の次第を語る。さめざめと謝り続けた。 「阿呆ぅ、謝るな。済んじまった事はしようがねえだろうが。それに透には透の考えがある。アイツが判断した事だ。アイツを信じろ。それより、何処に連れてかれちまったか聞いたのか? クリス」 『アグスティよ……領主館へ連れてかれたの……』 言い終わると、クリスは紫音の胸に縋って泣いた。 【懺悔の間へ】へ続く
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