がけのしたへ
崖の下へ
西へ…東へ…ロゴ
 紫音に手首を掴まれた老人は、怪訝な顔で抵抗する。敵意が剥き出しになっていた。だがそれも好都合だ。それだけこの男のパワーを吸い取れる。
 紫音は男を引き摺り鉄格子に向かう。
「ペイ・チーとやらをぶっ殺してやるから、おまえは頭に戻れ。奴らを纏められるのはおまえだけだろうからな。どうだ、やるか?」
「若造。おめえの指図は受けねえ」
「ほざくな。自分の置かれた状況を把握しろよ。このまま牢の中で野垂れ死にてえのか。邪魔者なんざ排除しちまえ。生ける屍となるにはまだ早過ぎるだろうが」
 ロン・フェイは彼の手を振り解こうとした。
「俺にはもう関係ねえ。放っといちゃくれねえか」
「未練たらしい面で何を言いやがる。てめえは部下が信じられなくなっただけだろうが。そのくせ山賊の頭ではいたいくせしやがって。だったら出て行って、部下をもう一度従わせろ。手助けをしてやるって言ってんだ。ウダウダ言わずにやる気を出せ!」
 途轍もなく強引な主張だ。しかし思いの外、功を奏した。老人の迷いは彼の強気な態度で少しずつ影を潜めていった。老人が老人でなくなっていく。その眼が、鋭い光を取り戻し始めた。
「本当にペイ・チーを殺る気か?」
「アイツだけは許せねえ。俺の仲間を散々な目に合わせやがったからな。こんな仕打ちを受けて命乞いをする気か?」
「いや。借りができちまうな、と思ってな」
「だったら借りは必ず返せ。爺さんが部下を従わせられなきゃ俺たちの勝率は下がるからな。おまえさんだって部下を無駄死にさせたくないだろうが。死ぬ気でヤツらを宥めろよ」
 言葉はない。沈黙が答えだ。
 ロン・フェイの手首を握りしめ、錠を探る。それに触れると念じた。一瞬で錠は音を立てて壊れ、地面に重々しく落ちた。
「おめえ、いったい……」
「訊くな。今はそれどころじゃねえ」
 紫音はロン・フェイを引き摺ったまま、真っ直ぐに透たちのもとへと向かって行った。
 
 
「飛焔! 飛焔しっかりしてよ!」
 飛焔は地面に起き上がったものの、まだ立とうとはしない。パクパクさせた口から、うろたえた震え声が漏れる。
「あ、あれ、何や? ひ、火ぃ吹いとる。ワイらみんな焼肉にされてまうで……」
「そんな心配はないよ。あれはビジョンだから」
「何やて?」
「ビジョンだよ。幻だ。つまり目暗ましだな。ホントの火じゃないから害は受けないよ」
 害はないと聞いて安心した飛焔は、急に元気になる。
「何や、目暗ましかいな。えらいでっかい目暗ましやなぁ。あれは坊が出したんか? 坊は忍術の心得があんのんかいな?」
「忍術? そんなんじゃないよ、あの子も僕らの仲間なんだ」
「な、仲間ぁ? あのでっかいのが仲間て……何処にあんなん連れとったんや?」
 またもや目が飛び出さんばかりになった飛焔に、更に同じ説明をしなければならなかった。
「だからぁ、あれは目暗ましなんだってば。実際はあんな大きさじゃないんだよ。って言うかぁ、ホントは形もないんだろうけど。って、そんなコト言ってる場合じゃないよ。早く刀を取り返してここから逃げ出さなきゃ……」
 と、見ると、飛焔の目の前に刀が差し出された。
「はい。取り返しておいたわよ」
 さすがはプシケ。転んでも只では起きない。
「有難い! お嬢ちゃん、ホンマ度胸あんなぁ。この刀どうにかなったら、ワイは死んでも死にきれんトコやった。あんたに助けられるやなんて逆やけどなぁ」
「うふふ。そんな細かい事など気にしない人でしょ、あなたは。それよりも、あちらがちょっと困った事になっているわよ」
 彼女が振り返るところでは、半狂乱になったペイ・チーが手当たり次第に武器を掴み、そこら辺にいる手下たちを闇雲に切りつけていた。手下たちは、ビジョンに怯え頭もどきに驚愕し、切られた傷から血を流しながら懸命に逃げ道を模索している。
「あの、あほんだら! 仲間切りつけとるやないか! 何さらすんや!」
 そこへ、辿り着いた紫音が叫ぶ。
「呑気に見てる場合じゃねえ。あの馬鹿野郎を止めねえと無駄な死人が出るぜ!」
「紫音! 無事だったんだね!」
 紫音はロン・フェイを透に押しつけると、
「おまえたちは結界を張って身を守れ。この爺さんも守ってやりな。コイツを味方につければ《場》に邪魔はされないだろうしな」
 言い放ち、飛焔を引っ張ってペイ・チーに向かって行く。透は側に立つ人物を見た。
 たっぷりとした髪も髭も黒混じりのグレイだが、爺さんと呼ぶには余りにも眼光が鋭い。体格も頑強で堂々としている。身のこなしには微々たる隙もない。おまけにこの人物には、妖仙山脈の気が纏わりついていた。
「もしかして、あなたが彼らのボスではないの?」
 彼は苦笑する。
「一度は追い落とされた身だ。そんな偉そうな立場でもねえな」
「信頼しすぎて裏切られたのね」
 見透かした言い方に、彼は警戒心を強くした。
「とにかく、お爺さんは僕たちが守るよ」
 透の言葉に、ロン・フェイは鼻で笑う。
「ふん。おめえみてえな細っこいガキに、何ができるってんだ。ガキに守って貰わなきゃならねえほど俺は落ちぶれちゃいねえぜ」
 横柄な態度で返されたので素直に謝った。
「ゴメンなさい、おこがましい言い方をして。確かに僕には大したことはできないけど、一生懸命がんばるから、今は僕に任せてくれませんか?」
 真摯な眼差しを向けてくる少年に老人は固まる。遠い昔に忘れてしまった何かを呼び起こさせる視線。思い出せそうでできないもどかしい感触。息苦しくなり、言葉に詰まった。
 男が返事をしないため、更に言い募る。
「お願いします、お爺さん」
 あくまでも謙虚な姿勢に、息苦しさは増すばかり。
「さっきから不愉快なガキだぜ。爺さん、爺さんってうるせえんだよ。俺は爺さん呼ばわりされるほど、まだ枯れちゃいねえってんだ」
 苦し紛れに吐いた言葉は少し理不尽な内容だった。
「失礼なことばかり言ってホントにゴメンなさい。でも、どう呼べばいいのかわからなかったので。とにかく今は時間がありません。僕に協力していただけませんか?」
 透は更に素直に謝る。その無心な態度がロン・フェイを自己嫌悪に陥らせた。
「よさねえか。何でおめえはそんな簡単に他人に謝っちまうんだ。自分の意見をそんなに簡単に曲げるもんじゃねえ。それともおめえは自分を信じてねえのか、信じられねえのか?」
 困惑する透の変わりにプシケが答えた。
「そうじゃないわ。自分を信じているからよ」
「何だと?」
 彼女は穏やかに微笑みながら言う。
「透はいつも自分を信じているわ。そして、それ以上に他人を信じたいと思っているのよ。今はあなたを信じたいと思っている。だからこそ謝っているのよ。あなたに失礼なことをしてはいけないと思ってね」
 老人はしげしげと透の顔を見つめた。自分を見返してくる少年の澄み切った瞳。一点の曇りもない。
 また息苦しくなった。人を信じることができなくなった凝り固まった心を、密かに諭すような無垢な瞳。懸命に人を信じたいと願う、真摯な光がそこにはあった。真っ直ぐで、歪んだところが何一つない。
 揺らされる、揺り動かされる、心の奥の深い部分。思わず肩で息をし、よろけた。
 と、ロン・フェイの耳元を掠めるもの。よろけていなければ当たっていたはずの位置。透もプシケも老人も、そのものが飛んできた方を振り返った。
 半狂乱の男が矢をつがえ、盲滅法に打ち放つ。流れ矢がこちらに飛んできたのだ。紫音たちは隙を窺っている。矢がペイ・チーの手元にあるうちは、おいそれとは近づけない。
 まだるっこしい説得など続けている場合ではない。透は無言で老人の手を取った。そうすることで意識の力を用い、直接、彼の精神に語りかけようとしたのだ。
 とたん、透の中に流れ込む妖仙山脈の敵意。電撃のようなその感覚は、瞬間的に彼を怯ませた。だが今は負けるわけには行かない。紫音に託されたこの男を何としてでも守らなければならないのだ。
 透は懸命に念じた。妖仙山脈の敵意を巻き込んででも結界を張らなければ。この老人を守らなければ、プシケを守らなければ。
 ロン・フェイにもその想いが伝わったとみえる。敵意の切れ目を見つけ一気に念を送った。
 彼らの足元に輪が現れた。それは適度な大きさに広がり彼らを囲む。他の地面と切り離された空間ができ、地面の輪から光が伸び上がった。光の壁。それが彼らを物理的な攻撃から守るのだ。
「おめえ……! あの若造といい、おめえといい、いったいどうなってやがんだ?」
 答えることができずによろけた。強大な敵意を巻き込んで結界を張ることが透の精神に多大な負担をかけさせていた。《場》の力を全く借りずに、己の力だけで結界を維持しなければならないのだから。
 よろけた透を支えたのは意外にもロン・フェイだ。力強いその腕に彼は沈み込む。念じるのに精一杯で口も利けない。
「こいつは一体何をしやがったんだ?」
「あなたを守るために結界を張ったのよ。この光の中にいれば物理的な攻撃は受けないわ」
「結界……?」
 ロン・フェイが顔を上げるとペイ・チーの流れ矢がまた飛んできた。が、光の壁に弾かれ地に落ちる。老人の目が見開かれた。結界の意味がわかったのだ。そして、その結界が誰のためにあるのかも。
「おめえ、俺を守ると言いやがったが、何故、俺を守る必要があるんだ? 俺は山賊の頭だ。おめえたちをこんな目に合わせた奴らの頭なんだぞ。俺を放り出して自分たちだけ逃げても良かったんじゃねえのか?」
「そんなこと、できない……」
 透が苦しげに呻きながら言う。
「だって……僕の仲間が、あなたを守れって言ったんだから……」
「仲間?」
「そうだよ。紫音が守れって言ったんだから……僕はあなたを守らなくちゃ……」
 ロン・フェイにはその言葉が信じられない。仲間が言ったから守る、だと?
「おめえは仲間が言ったからって何でもやるのか? そんなに信頼しているとでも言いてえのか? 他人なんて、そんな簡単に信頼できるのか……俺にはできねえ。信じられるのは自分だけだ。自分以外の人間は皆、敵だ!」
 支えていた男の手を離れ、透は自力で立つ。しっかりと大地を踏みしめ、ロン・フェイの手を取って言った。
「違う! 誰も敵なんかじゃない! 人間は自分独りで生きてるわけじゃない。仲間や、家族や、友人に支えられて生きていくんだ。自分独りで生きてるつもりでいても、必ず、何処かで誰かに支えられているものなんだよ。あなただって、自分を信じているんだから人を信じることができるはずだ。今まであなたはあの人たちを信じていたんだろ? 裏切られるまではあの人のコトだって、信頼していたはずだ!」
 ロン・フェイは絶句した。
「紫音は僕の命を何度も助けてくれた。僕の命の恩人だよ。それだけじゃない。僕をここまで引っ張って励ましてくれた。僕が自分に負けそうになる度に、支えてくれたのが彼なんだ。僕は紫音を信じている。彼も僕を信じてくれている。それ以外に何も理由は必要ない。僕たちは、お互いがかけがえの無い仲間なんだよ」
 じわり、と何かが蠢いた。この男の中で何かが変わろうとしていた。まるで雪解けの季節のように、男の中で、敵意が、不信感が、警戒心が氷解していく。徐々に彼の精神から溶け出していくのが、まざまざと感じられた。
 その結果は顕著に表れた。
 突如流れ込む妖仙山脈の《場》の力。それは敵意などではない。透の精神に融合し、多大な力を齎してくれる。結界が、力を増した。
 結界の外では相変わらずの大騒ぎが繰り広げられていた。巨大なドラゴンと化し火を吹くクリス。誰にも危害は加えていない。けれど手下たちにそんな事がわかろうはずもない。或る者は震え上がり動けない。或る者は慌てふためき逃げ惑う。そんな彼らを襲うペイ・チーの矢。半狂乱の男はまだそれを止めていなかった。
 震え上がる山賊の手から刀を奪う紫音。真っ直ぐにペイ・チーに向かって行った。これ以上待てば、無駄な死人がでるのは必須だ。
 目的もなく飛んでくる矢を、刀で弾き落としながら向かって行く。飛焔は飛焔でペイ・チーの背後に回り込もうとしていた。彼らの距離は俄かに縮まり、半狂乱の男はあっという間に二人の男に押さえ込まれた。
「ひいぃぃぃ、うわぁぁぁぁーーー!」
 悲鳴を上げ、悶え回るペイ・チー。だが、両脇からがっちりと押さえられ武器も奪われた。狂気の色が双眸にありありと浮かんでいる。
 ほっとしたのも束の間、半狂乱になったのは何もペイ・チーだけではなかったらしい。手下の一人が魔物に向かって闇雲に刀を振り回している。周りに誰がいようとお構いなしで。
「もういいよ、クリス!」
 声と同時に、クリスは霧と化し萎んでいく。大気に溶け込み飛焔の指輪を目指した。
「あわわぁぁぁぁぁ……」
 手下たちの誰もが言葉にならない声を上げる。彼らの心は全く収拾がつかなくなっていた。
 ずいっ、と前に歩み出るロン・フェイ。結界を離れ、ペイ・チーに向かって歩き始めた。透とプシケも後を追う。同時に結界は消えてなくなった。
 突然消え去った魔物の姿に、更にうろたえ大騒ぎとなる手下たち。魔物は何処に隠れたのか、いきなり現れ食われるのではないか、そんな恐怖が彼らを支配していたことは言うまでもない。彼らに向かって来る人影に、誰も気づきもしなかった。
「野郎ども! みっともねえ真似はするんじゃねえ!」
 ロン・フェイの声が轟いた。剛と鳴る彼の声は、とても老人と呼んで良いものではなかった。力強く響き渡り、千々に乱れる彼らの落ち着きを、一瞬にして取り戻した。
「お……お頭ぁ!」
「お頭!」
「お頭だっ! お頭ぁー!」
 彼らは皆、駆け寄ってくる。倒けつ転びつしながら、お頭の前に膝を折る者、身を投げ出す者。万別な様を呈していながら、かける言葉は皆同じだった。
「お頭! 無事だったんですね! お怪我は?」
 そう言う彼らの方がよっぽど重傷な怪我人だ。
「俺は大丈夫だ。済まなかったな、辛い思いをさせちまって。おめえらも、誰も死んじゃいねえな?」
 確認すると、彼らは何度も何度も頷いた。
「おかしらぁ〜!」
 誰もが皆、笑いながら泣いていた。信頼できる頭領を取り戻した安堵感と、苦痛に苛まれた日常からの離脱感が、彼らに惜しみなく涙を流させた。
 ロン・フェイは裏切り者を振り返った。二人の男に抱えられ、自分を見上げてくる虚ろな目の男。
 当然、紫音もこの男をこのままにするつもりなどなかった。本気で殺そうと思っていた。それほどまでに、透を傷つけられた紫音の憎しみは尋常ではなかったのだ。
「ロン・フェイ。俺がコイツを殺る。黙って見てろ!」
「駄目だ」
「今さら命乞いをする気か?」
「違う。こんなクズの為に、おめえがその手を汚い血で染める必要はねえって言ってるんだ」
 言うなり、ペイ・チーの腹に拳を一発沈めた。
「ぐはぁぅっ……」
 血の飛沫が口から溢れ出す。脱力した男はそのまま地面にくずおれた。
 足元に蹲る裏切り者に向かって、静かだが、凍てつくような声でロン・フェイは言い放った。
「ペイ・チー。おめえが暴力なしでコイツらを従わせていたなら、俺はおめえの裏切りを許してやっても良かったんだがな」
 その言葉に、一瞬だが、虚ろだったペイ・チーの目に光が蘇った。明らかに、真の頭領である男の言葉を理解していた。
「う、うわああぁぁぁーーーーー!」
 突然立ち上がり、一目散に駆け出していく。うろたえる手下たちを薙ぎ倒し、透を突き飛ばして、一つの場所を目指して。
「ダメだっ! 止まって! その先は……」
 透の声など耳に入るわけがない。増してや行動に終止符を打つわけもなかった。不意を突かれた為、念じることも間に合わなかった。間に合えば妖仙山脈の《場》に救いを求められたかも知れないのに。
 断末魔の叫びが尾を引いていく。最後は掠れて聞こえなくなった。ペイ・チーが向かって行った先。アジトの入口のすぐ外は、絶壁の崖だった。
 呆然と立ち尽くし、透が呟く。
「お……落ちた……崖から、落ちた……あ、あの人、崖の下へ、お、落ちたんだ……!」
 震えながら崖を見遣る。裏切り者の末路は、余りにも呆気ない自滅だった。
【パミーシュ村へ】へ続く
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