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 山道に入り込んだ時点で、透は急に眩暈を覚えた。胸苦しい圧迫感とぐらぐらとする視点。思わずよろめき、プシケに支えられた。
「透!」
「どないしたんや、坊!」
 紫音と飛焔が透を覗き込む。顔色が真っ青だ。彼の傍らを支えるプシケ。彼女も同じように顔色が悪かった。
 深呼吸をし、頭を振る。懸命に自分の足で大地を踏みしめようとした。だが。
 この刺すような感触は何だろうか。大地さえ透を拒む。敵意だ。大地も、空気も、木々も何もかもが、透への敵意を剥き出しにしている。全ての《場》を味方につけられるはずの透でも、妖仙山脈の《場》に対しては、全く力が及ばなかった。
 息苦しくて声も出ない。吐き気のする身体を持て余した。
「透、心を閉じなさい。このままでは、あなたは立つこともできないわよ」
 耳元で囁く声。敵意をシャットアウトすれば、少なくとも普通の感覚は取り戻せるのだろう。しかし透には難しい。彼は心を閉じたことが無いからだ。
「透、落ち着いて聞いて。心を閉じるのよ。敵意を意識してはダメ。無心になるの。無防備ではなく無心になるのよ。さあ、何も考えてはダメ。あなたの周りには何も無いのだと思うのよ」
 無心になる。何も考えず、ただただ無心に。言葉ではわかっていても感覚が今ひとつ掴めない。
「坊! しっかりしいや!」
 座り込んだ透の背中を擦ろうと、飛焔が彼の上に屈み込む。誤って、腰の刀が透に当たった。
 飛焔の刀の柄が肩に触れた瞬間、唐突に倫明の気配を感じた。倫明が言っていた。無心になる時は、額に精神を集中しろと。
(額に精神を集中……)
 目を閉じる。遥か彼方の心現界から倫明が語ってくれるかのように、まざまざとその時の情景を思い出した。
 天烽山の道場。透が拳法に向いていないことを知っている倫明は、もっぱら精神の力の出し方を伝授してくれた。
「いいこと、透? 人は第三の目を持っている。それはここ、額の真ん中にあるのよ」
 倫明が指差す場所。それはプシケの水晶が輝く場所だ。
「二つの目と額の目は三角形を描く。現実の上っ張りを見る眼と、真実を見る心の瞳。心眼が開かない者は、真実を見ようと思えば目を閉じるしかないわ。第三の目だけで物事を見るのよ。同時に力の出し方も同じ。精神を第三の目に集中させる事で力を結集できるようになる。無心になるのも同じ事よ。第三の目を意識する事ね」
 透は何度もやってみた。だが、なかなか思う通りには行かなかった。
 倫明は笑って言う。
「意識が思い通りに集中できないようなら、額に指を当てるといいわ。指先が触れているところに意識を集中させる方がわかり易いでしょうしね」
 言われるままに額に指を当てる。
「目を閉じて、その指先の感触に光を集中させるイメージを思い浮かべなさい。光は額の裏側を照らし、あなたの視界を白く包む。やがてはあなたの心も白くさせる。そうして白い光だけが、あなたの意識に満ち溢れるのよ。それが無心」
 記憶の中の、彼方の倫明の声は明確だった。縋る思いで額に指を当てた。
 指先の感触に意識を集中させる。光を結集させる。白く光る無心を求めて。
 すると徐々に圧迫感が薄らいでいった。剥き出しに襲いかかる敵意が退けられる。目を開けた時には、胸苦しさが無くなっていた。
「透……」
 真っ先に飛び込んできたのはプシケの瞳。緑の光は心配げだが落ち着いている。顔色は白い。が、彼女は力をコントロールできている。《場》の敵意を感じた瞬間に、シャットアウトしているはずだ。
 よろよろと立ち上がる。背後から支えてくれたのは飛焔。人懐っこい笑みは何処かに消え、眉を下げて透を覗き込む。
「大丈夫か? 坊……」
 透は額の汗を拭い、問いかけようとした。
「もしかして、飛焔は……」
「ああ?」
 それ以上は言えなかった。
 透は確信した。飛焔は、祥・倫明も封鬼老師も知っている。心現界に関わるどころか、思いの外、透たちの身近にいるのかも知れない。あの刀の封印が解ければ全てが明らかになる気がする。
 目を上げると紫音の姿。ただ黙って透を見守っていた。彼もまた、《場》の敵意を感じていた。けれど紫音はそれを撥ね返せる。それに敵意など彼にとっては恐れるものでもない。
「歩けるか?」
 紫音は一言だけ言った。透は強く頷く。
「坊、無理せんでええ。辛かったらバザールで待っとったらええやろ? ワイが送ってったるさかいな」
「大丈夫だよ、飛焔。もう一人でも歩けるから」
 それに、どうやらそれどころではなくなりそうだ。
「ホンマに大丈夫なんか? 心配やなぁ……やっぱりワイが送ってくさかい、バザールに戻った方がええんとちゃうか?」
「いいえ。私たちは離れない方がいいわ」
 突然の言葉。プシケの瞳は真剣そのものだ。
「とにかく私たちは離れないようにしましょう。それに戻るのはもう手遅れだわ」
 やはりそういうことか。妖仙山脈の《場》は、彼らを逃がす気は無いと見える。
「ここから先は何が起こるかわからないわよ。気を引き締めて」
 一気に緊張が増した。
 山道はさほど険しいわけでもない。が、拭い切れない敵意が何処かに潜んでいる。何故この山はこれほどまでに透たちを敵視するのか。理由がわからない感情ほど恐ろしいものはない。
 先頭を歩く飛焔はどうなのだろうか。彼だけはこの山に入ってからも何の変わりもない。あれだけ顕著な敵意を、彼は全く感じていないのか。
 続く透とプシケの顔はまだ青白い。透はまだ感じている。産毛すらピリピリと震わせる得体の知れない敵意。無心になったところで、おいそれとは切り捨てられない感覚。平静を装ってはいるが彼女だって感じているはずだ。感性からいえば、透よりも遥かに研ぎ澄まされているのだから。
 最後尾を行く紫音も変わりなく見える。だが、彼が全身で《場》の敵意を受け止めているのが感じられた。黙殺するのでなく反射する力。強靭な精神力を持つ彼なら何の問題もない。それに彼は感覚を殺すわけにはいかなかった。自分で身を守れない仲間を守るためにも。
 最初に異変に気づいたのはやはり紫音。
 一行の右手には緩やかな傾斜を描き、空を目指す崖がある。傾斜は目測四十度くらいか。上部の土が崩れ小石が転がり落ちてくる。不自然な崩れ。明らかに人為的なもの。
 反射的に崖上を見上げ、透たちを背に庇った。同じ行動を取っていたのは飛焔。そのとたん、わらわらと崖上から人が滑り降りてきた。山賊だ!
 総勢四・五十人はいる。あっという間に周りを囲まれた。紫音はレーザー銃、飛焔は大刀、それぞれの獲物を手にし構える。が、距離が近すぎた。紫音の銃は使えない。飛焔は刀を抜こうとはしない。
「やっぱり来よったな。ホンマお約束なヤツラやなぁ」
 鞘つきの刀を構え飛焔が呟く。
「何だと?」
 聞き捨てならないそのセリフに、紫音が食い下がった。
「しゃーから。バザールで指輪見せびらかして歩いとったやろ? それでや」
「おまえがコイツらに餌を撒いて歩いてたってのか? 何でそんな面倒なことしやがった?」
 飛焔は、事も無げに言葉を放つ。
「しゃーないやん、兄ぃ。居場所のわからんヤツはおびき寄せんのが一番手っ取り早いやろ? コイツら頭、軽いさかいに、指輪見せたら釣られてくるやろ思てなぁ。来てくれたんはええねんけど、肝心のヤツが見当たらん」
「どういうことだ?」
「ワイ、言わんかったか? ヤコブ・ヤンがゆ〜とった妖仙のジジイ言うんは、山賊の頭やさかいな」
「阿呆ぅ! それを早く言いやがれ!」
 何ということだ。全くもって説明が遅い。そんなことだとわかっていれば、女子供は連れて来なかった。山賊の頭を締め上げるくらい紫音と飛焔で事足りる。何もわざわざ危ない思いを、透とプシケにさせる必要はなかったのだ。
 飛焔の頭をはたき飛ばしたいのをぐっと堪え、紫音は山賊たちを睨み据えた。銃は近距離には向かない。狙いを定めているうちに殺られる。
「男は殺して身ぐるみを剥げ! 女は傷つけるな、生け捕りにしろよ! その方が、死ぬよりつれぇかもしれねえけどなぁ」
 手下を指揮する奴がいる。その男が山賊の頭ではないのか。が、飛焔は胡散臭そうにそいつを見ただけだ。
 男の言葉が終わるや否や、手下たちが飛びかかって来た。紫音と飛焔は互いの背中で透とプシケを挟み、手下たちに応戦する。
 幸いにも、山賊どもは飛び道具を持っていなかった。大小様々な刀を振り回しながら彼らに襲いかかって来る。次から次から降って湧いてくる連中なので、引金を引く閑はないが、銃でぶん殴ることはできた。多少のダメージは与えられるはずだ。
 しかし、飛焔は奴らの刀を払うだけ。かすり傷すら負わせられない。このままだとこちらが疲れる一方だ。
 透もプシケも力を使うわけにはいかない。それでなくとも《場》の妨げに遭い、思うように力が使えないだろう。自分の身を守るので精一杯だ。だとしたら、物理的に作用できる紫音と飛焔が奴らを打ち負かすしかない。
 目の前で繰り広げられる乱闘に、目を見張り、息を呑む。肩にたすき掛けていた荷物袋から懐剣を出し、透は力一杯握りしめた。倫明から渡された懐剣。いざとなったら、彼もプシケを守るためにそれを抜こうと決意した。人を傷つけることになるかも知れない。それでも、プシケが傷つくよりも遥かにマシだ。遊び半分で天烽山の修行を行っていたわけではない。身のこなしの素早さは倫明の折紙付だ。詰めが甘いという点を除いては。
「透、攻めに転じるぞ。速攻で片を付けるから火の粉を振り払え!」
 言うが早く、銃を透に投げ、小刀を手に駆け出していく。飛焔は掛かってきた相手の刀を奪い、それを手に駆け出していた。彼らが大半の敵を淘汰する。淘汰し損ねた敵がまかり間違って透たちに掛かってきたら、それを透が何とかしろ、とこういう事だ。
 透は銃を足元に置き、すらりと懐剣を鞘から抜いた。きらりと光る白い刃。この手で人を傷つける瞬間を思い、身震いした。躊躇ってはいられない。躊躇は無用の長物だ。でなければ、殺される。
 飛焔に腕を切られた賊が腹いせに透に掛かってきた。咄嗟に懐剣を構え、賊の刀を振り払う。怯まず掛かってくる敵の襟首を、掴んで投げ飛ばす飛焔。
「おんどれの相手はワイや!」
 そしてまた、山賊どもの真っ只中へと飛び込んでいく。
 それだけで心臓が止まるかと思った。血を滴らせた敵の腕。血の臭気が意識をぼやかせる。たった一度、刀を振り払っただけで、全身に震えが蔓延した。紫音と飛焔が奴らを薙ぎ倒す。無傷では済ませられない。血が迸り、匂いが鼻を突く。これが実戦というものなのだ。リスクのない戦いはない。敵であれ味方であれ、誰かが傷を負う、或いは死ぬ。極限の状況に置かれたら、自分が相手を殺すことだって有り得るのだ。
 透は、叫び出したくなるのを必死で堪えた。まだそこに理性はある。紫音と飛焔の足を引っ張るわけにはいかない。
「透。いざとなったら力を使いましょう」
 透の異変に気づいたプシケが、いち早く言った。
「でも……《場》が……」
 息苦しく言葉を搾り出す透に、更に言う。
「攻撃はできなくても結界を張ることはできるわ。《場》の妨げを受けないよう擬似空間を造るのよ。そこに結界を張れば、少なくとも私たちの身は守れる。それにその方が彼らも安心して戦えるでしょうし」
 そうだ。擬似空間だ。
 それは《場》の力を持つ者の技。空間を歪め、その歪みに心現界に似た空間を作り上げる。その空間の中では心現界と同じように力が使える。だから、《場》がどんなに彼らを妨げたとしても、対抗することができるのだ。
 だが、彼らの目論見はそこで終わった。
 背後から突如回された野太い腕。透の首を締め上げ、懐剣を持つ腕を捻じり上げた。抵抗を試みるが体格が違う。痺れた手から懐剣が零れ落ちた。
「透!」
 駆け寄ろうとするプシケを、別の無骨な手が襲う。賊は野卑な笑いを浮かべ、華奢な彼女を羽交い絞めにした。
「離して!」
 声に気づいた紫音と飛焔が振り返る。
 その時、透を締め上げていた男が、勝ち誇ったように叫んだ。
「おい! 若造ども、武器を捨てな! このガキと女がどうなってもいいのかよ!」
 目の前の光景に彼らは固まった。男は手下を指揮していた頭もどきの男だ。徐に、手にした刀を透の首筋に当てる。透の首筋を滴る、血の一滴が見えた。
「あンの野郎……!」
 紫音が静かに怒りを滾らせた。だが動けない。動けばあの男は確実に、刃を横に滑らせる。透が血に塗れる姿など見たくもない。
 大人しく言う事を聞くしかないのか。
 手下たちが彼らを囲み、彼らの武器を奪おうとした。手にしていた刀はすんなり渡したが、腰の刀に手を掛けられた瞬間、飛焔が叫ぶ。
「アカン! 触るな! これはワイの命よりも大事な刀や!」
 男は容赦なく言い放つ。
「立場を弁えな、若造! そんなにこのガキを死なせてえのかよぉ!」
 男が力を加えると、また更に、透の首筋を血が伝っていった。
「あ、アカン〜! この刀だけはぁ、アカンのや〜! しゃーけど坊の命には代えられへん〜!」
 飛焔が諦めかけた時、透が叫んだ。
「ダメだ! 飛焔! その刀をこんなヤツらに渡しちゃダメだ!」
 身じろぎをした為、またもや首筋が傷つく。しかし透は構っちゃいない。
「うるせえ! 黙ってな! このクソガキが!」
 頭もどきが拳を握りしめる。一発で透のみぞおちに入れた。
 その衝撃はいかばかりか。瞬間的に消える視界。激痛と吐き気。脳裏に刻まれた嫌悪と恐怖。透は生涯忘れないだろう。その衝撃の在り処と精神の痛みを。
 正体不明にくずおれる透の首に腕を回し、男はそのまま彼の身体を吊り上げた。首が絞まってようが、透は既に意識を失っている。お構いなしだ。このまま締め上げて殺すつもりかも知れない。
 飛焔は泣く泣く刀を渡した。
 手にしていた獲物が無くなった時点で、手下たちは彼らの身体を検分する。飛焔が胸元に忍ばせていた手裏剣も奪われた。と、紫音の側で驚きの声が上がる。
「こ、こいつ、何だぁ?」
 彼らは紫音の隠し武器にどよめいていた。おそらく彼らが手にしたことも無い謎の武器。使い道など到底わからないだろう。けれど武器だということは理解したようだ。
「すっ……すげえ……まるで歩く武器庫だぜ、こいつっ!」
 手下の一人が、紫音から奪取した物を男のもとへと運ぶ。男はそれを見て片眉を上げた。
「あぁン? これが武器だとぉ? 使い物になるのかよぉ、こんなもんが」
 手下の手から一つの武器を取り上げ鼻で笑う。そして腕で吊り上げていた透を、荷物でも放り投げるように地面に落とした。うつ伏せになった透の身体を足で仰向けに転がす。じろりと、彼ら一人一人の顔を見回して、忌々しく笑った。
「案外、おもしれえ連中だな。身包み剥ぐのは後にしてやる。アジトへ連れて行きな!」
 手下にがっちりと囲まれ、彼らは引き立てられた。
【牢の外へ】へ続く
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