むげんりんへ
夢幻林へ
西へ…東へ…ロゴ
 宿の主人はうろたえながら、二人の顔を交互に見つめる。
「マジ?」
「何や? 他に方法あるんか?」
 飛焔の言葉に、イアーゴは答えられない。替わりの打開策がこの程度だ。
「でもよぉ。暫く身を潜めていれば、アイツらだって諦めんじゃねえかぁ? そんな危ないこと、わざわざしねえでもさぁ」
 イアーゴを、呆れた顔で睨む飛焔。
「ホンマおめでたいやっちゃな。アイツらがこのまんま、引き上げるとでも思てんのか? 頭数揃えたらまた来よるでぇ。全員でこの宿に踏み込むのんは目に見えとるやろ? そうなる前に逃げたろゆ〜てんねんや。どっかでワイらの姿見つけたら、この宿に踏み込むような真似はせんやろからな」
「ひえええぇぇぇ」
 手を咥え、またもや震え上がる宿の主人。とばっちりで宿が破壊されるのは堪ったものではないだろう。
「イアーゴ。屋根に一番登り易いんは何処や?」
「屋根裏部屋だな」
「ほな、案内してもらおか」
 渋々のイアーゴの尻を叩いて、飛焔はプシケを連れて部屋を出た。
 埃っぽい屋根裏。蜘蛛の巣も盛り沢山だ。頭に引っかかった蜘蛛の巣を払いのけ、不平満々で言う。
「あほんだら。偶には掃除せんかい。屋根に辿り着く前に蜘蛛の餌食になりそうやわ」
「そりゃあ、嫁さんでもいれば掃除も行き届くだろうさぁ。けどよぉ、こんな商売やってっと、なかなか来てくれる酔狂な女はいねえんだよなぁ」
 イアーゴは窓を開け、上を見上げる。その窓は屋根の真ん中にぽっかりと開いていた。
「コイツをくぐると、もう屋根だぜ」
 飛焔はイアーゴの背中から窓の外を覗いた。
「何や。アイツらに丸見えやないか。裏はないのんかいな?」
「裏口に出てんのはあっちの窓だよぉ」
 と、反対側を示す。すかさずそちらの窓に寄り、外を透かし見た。こちらの方が頭数はぐっと少ない。
「ほな、こっから行くとしょうかぁ」
 飛焔がプシケを振り返った。
「その前に訊きたい事があるわ」
「何や?」
 プシケはイアーゴに向き直り、言う。
「イアーゴさん、あなたはアグスティの噂を知っているわよね?」
「ああ、女狩り?」
「そう。いったいいつ頃から始まったの?」
 彼は頭を捻る。
「いつ頃って言われてもわかんねえけどよぉ、おいらの店に来て、アグスティの連中が愚痴ってくようになったのは、かれこれ半年くらい前かなぁ。町に女がいねえから、仕方ねえんでマリアッドに女を買いに来てるって連中ばっかりだからな、領主に不平不満がワンサカあるみてえだぜぇ。アグスティでそんなこと口にしたら、これだからな」
 イアーゴは掌を下に向け、首の辺りで水平に動かし舌を出す。縛り首か打ち首かはわからないが、要するに、命が無くなるということだ。
「領主はそんなに酷いの?」
「あ、ン? おいらが昔聞いた噂じゃあ、若いがやり手で慈悲深い人だって話だったけどよぉ、人間、魔が差したってもんじゃねえの? 真面目な人間ほど女に狂い易いってっからなぁ。自分の領地の女だし、言うこと聞かせ易いと思って連れてったんじゃねえのかぁ。けど、この頃じゃ、ヤバイ噂しか聞かねえなぁ」
「どういう噂?」
「何でもよぉ、町中の女を連れてったワリには、領主の館には女が見当たらねえんだと。旅の女まで見境なく漁る好きものぶりだってのによぉ、側に侍らせているかと思いきや、館の何処にも見当たらねえ。女を狩って連れてった町の連中が言ってたんだけどよぉ、おかしいと思わねえか? もしかしたら、女たちはもう生きちゃいないんじゃねえかって、そんな噂まで流れ始めてるぜ」
 確かに不可思議な話だ。女たちの行く末も気懸かりだが、アグスティの領主が自分に執着する理由も得体が知れない。この世界が初めてのプシケが領主と面識があろうはずもないし、増してや遺恨に思われる筋合いもない。彼女の素性が知られたとしても領主がその意味を明確に掴んでいるかは怪しい。精神の力を認めない世界には心現界の存在の意味など、不必要に等しいからだ。
 あれだけの人間を女一人のために寄越すことも納得が行かないが、それまで評判が良かった領主が豹変した意味も理解し難い。何かがある。何か別の者が介入しているのではないか……
 と、その先の考えは、飛焔の痴漢行為で妨げられた。突然腰を掴まれ、引き寄せられたのだ。
「何してんねんや! 早よ行かんと踏み込まれんでぇ!」
「ちょっと。離して!」
「あんたなぁ、か弱い女の子が一人で登れるんか? 心配せんとワイに任せとかんかい!」
 良く良く見ると、彼は右の小脇にしっかりとプシケを抱え、左の手には窓の外からぶら下がったロープを握りしめている。彼女を抱えたまま、屋根によじ登ろうというわけだ。
「ほなイアーゴ。当分来られへんけど、あんじょう商売しいや。おまえの宿が荒らされんようにはしたるさかいな」
 言うが早く、彼は窓枠に足をかけ屋根にダイブした。片手で巧みにロープを手繰り、風の速さで屋根の天辺に登る。すかさずロープを引っ張ると、屋根に引っかかっていた鉤の部分が外れた。彼はそれを折り畳み、ロープを丸めて懐にしまう。十字に立体交差していた鉤はワンタッチで平板になるらしい。
 裏口にいた連中はそれを目撃した。酔っ払いでない奴も中にはいたのだろう。しっかりと彼らの姿を見、表側の仲間に伝え大騒ぎをしてくれた。やはり頭数の少ない窓を選んで正解だ。体勢を整えるための時間稼ぎができた。後は宿に乗り込まれる前にここを立ち去るだけだ。
 鉤をしまう間、屋根に下ろしていたプシケを抱き上げると、飛焔は大声で叫んだ。
「脳天お気楽なあほんだらども! おまえらが探してんのはこの女とちゃうんかい! この女が欲しかったら、ワイについて来んかい!」
 そして走り出した。
 屋根の上だということを、ものともせず走る飛焔。彼らの姿を目撃したアグスティの連中が下で騒いでいる。彼は走る。風の如く。次の建物の屋根まで、跳んだ。
 優に五メートルはあるだろう距離を、彼は楽々と跳び越えた。半端な跳躍力ではない。尚も走り続け、次々と屋根に飛び移る。
 アグスティの連中は唖然とした。唖然としながらも追いかけようと右往左往した。蜂の巣を突ついた大騒ぎになり、奴らは慌てふためく。懸命に彼らを追跡することを試みたが、化け物じみたこの男に敵うはずがなかった。
 奴らは翻弄される。屋根の上に見え隠れする、彼らの姿に振り回された。散々振り回され走り回らされた挙句、ついに彼らを見失った。
 
 
「あ〜ホンマ、ええ運動になったわ」
 マリアッドの町から遠く離れた草原。そこでプシケを下ろし、彼は、肩に手を当て身体を揺する。
「まるでサーカスね。すごいテクニックだったわ」
「人を見世もんみたいにゆ〜のは止めてんか。これでも誇り高い忍の一族やったんやからな。尤もそんな誇り、とうの昔に地に落ちとるけどなぁ。一回、盗人に身ぃやつすと、もう元には戻れんさかいな」
「しのび……? ぬすっと……? 盗人……泥棒?! ……あなたの職業は盗賊なの?」
 連想が走って答えが出ると、最初の質問が翳んだ。彼が泥棒という事実を問い質す方に気を取られた。
「ワイは貧乏人からは盗まへん。あり余ってるトコから余ってる分いただくだけや。それも手当たり次第に貰てるわけやのぅて、当座の生活費を稼いでるだけなんやで。そんな殺生な迷惑かけてるわけやないやろ?」
「でも、泥棒は泥棒よ」
「そらそうやけど、今はちゃう。今はあんたの用心棒や。……何やもう、元盗人のワイなんかには守てもらいたない、とこう言いたいのんか?」
 答えに詰まり彼を見つめる。灰緑の人懐っこい瞳が見返してきた。
(何だか憎めない人ね)
 そう思い、先の質問をはぐらかし、別の質問を投げかけた。
「あなた、アグスティの人間ではないわね。つまり、この世界の人間ではない、という意味でだけど」
 一瞬、飛焔が固まった。それまであった人懐っこい笑みが消えてなくなる。と、すぐに元に戻り、不敵な笑いで問い返してきた。
「それは、あんたもこの世界の人間やないっちゅー事かいなぁ。そんな事言えんのは、そういう人間だけやさかいな」
 黙って彼を見つめる。彼も黙って見据えている。突然訪れた沈黙。長い間、二人はそうして見つめ合っていた。
「そうよ。私はこの世界の人間ではないわ。多元空間を使ってここに来たのよ」
「多元空間? 何やそれは?」
 カマをかけてみたが、彼にはこの言葉の意味はわからないらしい。
「あなたはどうやって、この世界に来たの?」
 飛焔は踵を返し、プシケの瞳から逃れるようにあちらを向いた。
「そんなんワイにもわからへん、気ぃついたら、この世界におったんや」
「でも、そうなる前のプロセスがあったはずよ」
 彼は背中で溜息を吐く。少し背を丸めた。
「ワイは追われとったんや。一族のもんと十手持ちに追われとった。ワイは一族の裏切りもんやさかい命を狙われとる。盗人は捕まったらさらし首や。つまり死刑やな。どっちにしても命無くなるんやったら、逃げれるとこまで逃げたろぉーて、必死こいて逃げ捲ったわ。最後に逃げ込んだんが《神隠しの山》って呼ばれとる山やった。誰もおらへん思て安心しとったら、天辺のお宮さんに巫女さんがおったんや。その巫女さんがワイに言いよった」
 気を持たせて言葉を切る。プシケは思わず話を急かした。
「何て言われたの?」
「そのお宮さんの御神体は鏡やったんや。絶対捕まらへんトコに逃がしたるさかい、鏡、割ってくれ、って言われたんや」
「鏡?」
 何かが心に引っかかった。《鏡》の一言が、記憶に残る何かに反応した。
「それで? それであなたはどうしたの?」
「割ったで。御神体の鏡を割ったんや。ほなら急〜に目の前が真っ暗になって、気ぃついたらこの世界におったんや」
「!」
 もしかしたら――
 プシケは思い返す。もしかしたら、それは心現界に関わる者。鏡を使って術を操る。だとすれば思い当たるのは一人しかいない。鏡使いの巫女。
 遥か昔に導師から聞いた。鏡を操り、鬼を封じる鏡使い。彼女の魂は転生を繰り返す。死を迎え、転生を果たし完璧に覚醒するまでは、彼女の鏡は無防備になる。それを守るのは下僕の努め。だが、下僕が守りきれなかった時、鏡を封じなければならない。封じる最良の技、それは鏡を割ること。
 プシケは矛盾に気づく。もし飛焔の言う巫女が鏡使いだとしたら、転生を果たした存在のはず。何故わざわざ鏡を割らなくてはならない? 増してや巫女は、己の結界の中に身を置き、他を寄せ付けないと聞いた。もしも《神隠しの山》が巫女の結界なのだとしたら、何故飛焔は入り込めた? 考えられるとしたら、巫女の力か下僕の力が弱っていたこと。だから鏡を封じる必要があったのか。
 理由は一つ。心現界の門を閉じるためだ。彼女もまた、心現界の門番の一人だから。
「あんたは何処まで行くんや?」
 突然声をかけられ身を震わせる。心現界の穴にまで思いを馳せかかっていたので、飛焔の存在を全く失念していた。
「何そんなにびっくりしてんねんや。何処まで行くんや、って訊いただけやないかぁ」
「ごめんなさい」
 飛焔は暫く彼女を見つめる。そして人懐っこい笑顔で言う。
「ま、ええけどぉ。あんたが何処まで行こうが、ワイはついて行くだけやさかいな」
 彼女は心の奥で安堵の息を吐く。
 飛焔の経緯を聞いたのだ。逆に問い返されないはずはないと思っていた。けれど彼は関心がないのか、全く彼女に問いかけてはこない。
 それはそれでいい。少なくとも、彼の事情は僅かながらでも見えてきた。彼の言う巫女が鏡使いかどうかは定かではないが、彼が多元空間を通って来たという可能性は捨て切れない。一つ間違えば心現界を通っている可能性もあるのだ。
 飛焔と離れるわけにはいかない。瞑想洞で透の心眼が開いていれば、彼を見れば何かわかるはずだ。それまでは、彼に逃げられるわけにはいかないのだ。
「私は東を目指しているの。東の果てに行くまでに林があったわね。そこまでは何とか無事に辿り着きたいわ」
「何やてぇ。あんた、夢幻林に行くんかいな?」
 否定も肯定もせず彼に視線を注ぐ。
「止めときぃ。あれはクセもんな林や。おいそれとは近寄らん方がええで」
「何故?」
「何で、言われてもやなぁ……」
 彼は視線を逸らす。そわそわと辺りを見回した。解せない態度だ。何かを隠しているのか。
「あっこは魔物が棲んでるとか噂聞くしぃ、あんまりええ感じのトコやないんや。何の用があるのんか知らんけど、悪いことは言わん、行くの止めときぃって」
 そんな曖昧な理由では困る。
「あなたは魔物なんてどうってことなさそうに見えるわよ。それとも魔物が怖いの? 契約を忘れたとは言わせないわ。私が行くところについて来て、しっかり私を守ってくれるんでしょ?」
 飛焔はバツの悪い顔をした。
「あたたたたぁ。痛いトコ突いてくるなぁ。そら、ワイは嘘は吐かへん。嘘つきは盗人のはじまり言うけど、ワイは盗人でも嘘は吐かへん。しゃーから、あんたが行きたいんやったらついて行くし、あんたも守る。けどホンマ、知らんで。後悔しても責任はよぉ持たんでぇ。何があっても、ワイは知らんさかいな」
 気に掛かる言い方だ。
「いったい夢幻林には何があるって言うの?」
「あんた、行きたいねんやろ? ほな、行って確かめたらええがな。夢幻林に入ったコトないもんにはわからんやろけど、最初は痛いかも知れんでぇ。慣れたらどぅってコトないやろけどな」
 何処までも曖昧な言葉。はぐらかすつもりなのか。だが、その口調からしても、飛焔が一度ならず夢幻林に入ったことは確実だろう。では行って確かめてやろうではないか。
「何があっても行くしかないわ。行きましょう、夢幻林へ」
 躊躇うことを許さない言葉が飛焔にかけられた。
【真の塔へ】へ続く
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