やねのうえへ
屋根の上へ
西へ…東へ…ロゴ
 飛焔の計らいで得た宿は、何処となく如何わしい雰囲気が漂っていた。が、文句は言えない。少なくとも野宿よりはマシだ。
 プシケの後に続いて部屋に入り込む飛焔を見て、彼女は言わずにはいられなかった。
「ねえ、もしかして、部屋は一つ? あなたもこの部屋で寝るつもり?」
 予期した質問が来た、と言った顔で、
「当たり前やん。こんな宿で、男と女が別々に泊まったりしたら怪しまれんでぇ。それに、あんたが目につくトコにおらんかったら、用心棒の役にも立たんやろが」
 彼女は溜息を吐く。なるほど。その道の宿ならどうりで如何わしい訳だ。
 まさか利害で繋がった男が無謀な事もしないだろうと、ローブを脱ぎ、側の椅子に掛けながら彼女は思う。そして飛焔に目をやると、彼は後手に扉を閉め、鍵を掛けていた。怪しい視線を絡ませてくる。
 息を詰め見つめる。壁際に追い込むようににじり寄って来た。後退る。にじる寄る。間合いが詰まる。背中に壁を感じた瞬間、飛焔が壁に両手をつき、彼女は逃げ道を塞がれた。
「何のつもり?」
 飛焔がにやりと笑う。不敵だ。
「あんた、ホンマええ女やなぁ。それにええ身体しとる。黙って見とんのはもったいないわ」
 彼は唐突にプシケを抱き上げた。アグスティの町から逃げる時と同じく、軽々と。
「決めたでぇ! その指輪貰うん気が引けとったんや。報酬は身体で払って貰うことにしたで!」
 プシケを抱いたままベッドに雪崩込む。大柄な身体を彼女に被せてきた。
「今日から毎晩あんたとやる。それが報酬や」
「だったら即刻、解雇よ」
 顔を寄せてくる飛焔の額を軽く撫でる。とたん、彼はネジが切れたように動きが止まり、そのまま仰向けにごろりと転がり寝息を立て始めた。
「全く……とんだ狼男ね」
 起き上がりながら、正体もなく眠る男を振り返る。
 歳は幾つくらいなのだろう。おそらく紫音と余り変わらない。無邪気で無防備な寝顔。思わず笑みがこぼれた。
 この男、何故だろう。単純で直情的で得体が知れないが、憎めない。彼が話す言葉のせいか彼が持つ雰囲気なのか。
 言葉と言えば一つ気づいた事があった。どうやら彼はこの世界の者と違う言語を使っている。なのに町の連中と会話が成立するのは何故か。心現界を通過した者ならそれはわかるのだが。
 心現界には世界の隔たりも言葉の隔たりもない。必然的に言語でなく心で相手の意思が理解できるようになる。だが彼からは心現界の匂いがしない。
「透に教えてもらわなくちゃならないわ」
 プシケの勘が正しければ、彼は透の国と同じ言葉を使っているはずだ。そのことを確かめるためにも、透たちと出会えるまでは彼と離れるわけにはいかない。
「長い付き合いになりそうね」
 彼女は飛焔の頬を軽く叩いてみた。
 
 
 明け方。
 腰に刀を差したままなのに気づき、飛焔は飛び起きた。寝返りを打った拍子に胸を衝かれそうになったからだ。
 そのまま目を正面に向けると、ベッドの側の椅子に腰かけてプシケが所在無げに彼を見ていた。
「あぁ? あんたえらい早起きやな。……っちゅーか、もしかして、ワイがベッド占領してもーてたんやろか?」
「別に、気にしなくていいわよ」
「何や気ぃ使わんと一緒に寝ればええのにぃ」
 間の抜けた声で残念そうに言う。プシケは少し不機嫌を装い、
「冗談じゃないわ。身を守るために雇ったボディーガードに襲われるなんて、洒落にもならないわね。あなたにはボディーガードとしての自覚はあるの?」
 と厳しく言うが、間の抜けた男はやっぱり間の抜けた答えをした。
「そんなピリピリせんでも……。あれが報酬や思てくれたら、ワイは願ったり叶ったりやし、あんたも気持ちええやろ? おまけにそんな高価な指輪も手放さんで済むんやでぇ」
 プシケは仏頂面を崩さずに、
「そう言うだろうと思って既に報酬は支払い済みよ。後払いなどにするからあなたの心に隙ができるのよ。だから契約を変えて前払いにさせていただいたわ」
 そして飛焔の小指を指し示す。彼の左手の小指にはプシケの指輪がしっかりと嵌っていた。
「うわっ、きっつぅ。取れへんわ」
 それはそうだろう。華奢な指に嵌っていた物を無理やりに捻じ込んだのだ。男の指なら小指が限界。そう簡単に外れはしない。
 それでも彼は指輪を抜こうとする。
「あたたたた! アカン〜、抜けへんがな」
「諦めて大人しく報酬を受け取りなさい」
 痛そうに顔を顰め、恨めしい目で彼女を見つめる。かなり往生際が悪い。
「報酬を受け取ったからには昨夜のような契約違反は許されないわ。心してボディーガードに徹してね」
 彼は溜息を吐きガックリと肩を落とす。上目遣いで恨めしく彼女を見つめたまま。よっぽど彼女を諦め切れないのだろう。あわよくば隙を見て、昨夜のような不埒な行為を繰り返す気だったに違いない。
 プシケはそっぽを向いてほくそ笑んだ。意識の力で指輪に語りかける。
 ――クリス、聞こえる? あなたを指輪に宿らせていて正解ね。あなたは彼と行動を共にして、彼が何者かを探って――
 即座に答えが返ってきた。
『任せて! 何かあったらすぐに知らせるから』
 指輪の水晶にはクリスが宿っていた。
 透を慕う石の精。心現界で生まれた無垢なる魂。透と紫音の修行の妨げにならないようプシケに託されていたのだが、思いがけず、石の精の本分を発揮している訳だ。
「お嬢ちゃん。ワイは昨夜、あんたをあんじょう、気持ち良ぉ〜でけたやろか?」
 この期に及んで何を言う。
「馬鹿言わないで。何もあるわけないでしょ。直後にあなたは高いびきよ」
「ええっ! ワイ、そんな勿体ない事してもーたんかっ! どおりで記憶がないと思たわ」
 この男の頭には色事しかないのか。彼女は少々げんなりして飛焔に言う。
「そんなことより、あなたには訊きたい事があるのよ」
「何や?」
「あなたが昨夜言っていた事よ。アグスティでは女狩りが浸透しているって。いったいどういうことなの?」
「何や、そんな事かいな。ワイかてそんな詳し〜知っとる訳やない。風の噂で、アグスティの領主が片っ端から女を連れて行きよる、って聞いただけや。ホンマくだらん事してくれるわ。アグスティの女はナイスバディで美女が多かったさかいな。ワイの楽しみも減ったっちゅーもんや」
 全く口数が多い男だ。余計な枝葉がついている。
「領主は女を捕えて何をするの?」
「そんなん知るかいな。どーせ側に侍らせて、毎晩取っ替え引っ替えお楽しみやろ。ホンマ、金に飽かせて何さらすんや。庶民の楽しみ奪いおって、かなんやっちゃで、なぁ?」
 プシケはぐったりと飛焔を見遣る。この男の思考の次元は、常に自分が中心か。誰もが皆、そんな考えで動くわけではないだろう。
「それでアグスティの町には女が一人もいないのね?」
「聞くところによると、旅人でも何でも、女と見たらかっ攫ってくっちゅー話や。夫婦連れでも恋人同士でも見境なくふん捕まえて、女は領主館に連れ込んで、男は殺して捨てるっちゅーぐらいの鬼畜ぶりやそうやで。あんまり関わりにならん方がええんとちゃうか。心配せんでもここは大丈夫や。ここは独立都市やさかいな。女が歩き回ってても危ない事はあらへん。それになぁ、この町は、女がおらんとやって行かれへんしなぁ」
「?」
 怪訝な彼女に更に言う。
「ここには、女の為に金使う男が山ほどおるっちゅーこっちゃ」
 どうやら色を売りにする商売の都らしい。こんな宿があるくらいだ。町の程度もたかが知れると言うもの。
 だが、アグスティの件は引っかかる。飛焔以外の考え方をする、第三者の意見が聞きたくなった。この世界にいる目的はそんなものではないが、自分が女である限り、何処から火の粉が降りかかるかわかったものではない。
「少し町を歩いてくるわ。ここは女が一人で歩いても大丈夫なんでしょ?」
「一人が大丈夫かどうかはわからんけど、女やったら大歓迎される事は間違いないで」
 プシケはローブを引っかけると、もう何も言わず、早々と部屋を出て行った。
 
 
 プシケが部屋を出た直後、飛焔も部屋を出る。
『どこに行くつもりなのかしら? この男……』
 水晶の中でクリスが呟く。当然、飛焔には聞こえない。
 彼は宿を出て、すぐ近くの路地を曲がり別の宿に入る。そこは一階が酒場。朝っぱらから女たちがさざめいている。どう見てもただの酒場ではない。
 飛焔は女たちを舐めるように物色する。目星をつけたのか、隅にいた金髪の女に声をかけた。
「ねーちゃん、どや? ええ気持ちにしたろか?」
 小指の宝石をちらつかせる。
「きゃーっ! スッテキぃーっ! おにーさんイイオトコだし、もう大サービスしちゃうっ!」
 女が飛焔に飛びついて来た。
『な、な、何よ! この男! 朝っぱらからスケベ根性出しちゃって!』
 クリスは仰天した。それと共に不快指数が一気にアップする。
 精には性別はない。だがクリスは石の精であるにも拘らず、思考回路が全くの女の子だ。それというのも、精として生まれて最初の依代が、人間の少女だったことが、大いに関係するだろう。その時の感覚をずっと引き摺ったままなのだ。透に対しても女の子として慕っている節がある。おまけにその感覚は純情可憐な女の子のものであって、決して捌けた女のものではない。つまり、朝っぱらから女としけこもうなんて不届きな輩は、全くもって女の子の敵のケダモノ野郎なのだ。そんな奴の指輪に宿っているなど、不快なことこの上ない。
『冗談じゃないわ、このバカ男っ! 大体あんたはプシケのボディーガードでしょ! なんで仕事もしないでこんなコトやってんのよ! いいわっ、目にモノ見せてやるからっ!』
 クリスがうろたえているうちに、飛焔はとっとと女を連れ、宿の一室に入っていた。戸口で暫くじゃれ合っていたかと思うと、女を抱き上げベッドに投げ出す。女は楽しそうに笑っていた。
「やっぱり女の子は笑ってんのが一番や」
 しみじみ言うと女の上に被さっていった。女はきゃらきゃら笑いながら飛焔の首に手を回す。
 と、突然、女の動きが止まった。
「どないしたんや?」
 飛焔が訊くと、
「このスケベ野郎!」
 こっ酷い平手打ちが飛んできた。
「な、な、何すんねん、いきなりぃ〜」
 女は軽蔑の眼差しで飛焔を睨んでいる。いや、今はクリスだ。女の思考をちょいと止め、その中に入り込んだのだ。精ならではの得意技で。
「ワイ、何か変な事したかいなぁ?」
「うるさい! 朝っぱらスケベ根性丸出しにしちゃてさっ、おっかしいんじゃないのっ、アンタっ!」
「なんやてぇ! おまえかって指輪一個で釣られて来たんとちゃうんかい! 好きもんのくせに何ゆ〜てんねんや!」
「ちょっとどいてよ!」
 そう言うと、被さっていた飛焔を押し戻して起き上がる。そのままベッドを降りようとしたら、強い力で肩を掴まれた。
「ちょー待たんかい!」
「何よ!」
 ギリっとした顔で振り向く。
「おまえなぁ、納得ずくでついて来たんとちゃうんかい? 何にもせんで行く気か?」
「離してよ!」
 飛焔の手を振り払って立ち上がる。くるりとこちらに向きを変えると、勢い良く言い放った。
「気が変わったのよ! だから行くわ!」
「へえぇ、玄人の言葉とも思えんわな。ええ度胸しとるで」
 クリスは踵を返して立ち去ろうとする。だが、そう簡単には行かなかった。先回りした飛焔に進路を塞がれたのだ。
「な、何よ……」
「ワイはなぁ、一回目ぇつけた女は、絶対モノにしな気が済まんのや」
 飛焔の目が据わっている。その目を見て、はじめて恐怖というものを感じた。
「な、何よぅ……」
 べそをかく。
「な、何や、何や。満更知らん身体でもないやろが。カマトトぶんのは止めんかい。男が誰でも女の涙に弱い思たら大間違いやで」
 飛びかかり羽交い絞めにしてくる飛焔を、滅多やたらとゲンコツで殴る。
「あたたたた。何暴れとんのや。おとなしゅうせんかいっ! それともそっちの趣味か?」
「やだやだ! 離してぇ!」
「ええ加減にせえよ、こらっ!」
 クリスは乱暴にベッドに投げ出された。馬乗りになった飛焔が、両方の手首を押さえ込む。
「燃えたでぇ。おとなしゅう、ゆ〜コト聞く女もええけど、暴れられたらそれだけ燃えるんや。腕ずくでもゆ〜コト聞かしたるさかい、覚悟しいや」
 身動きができない!
 クリスの恐怖は頂点に達した。意識が暴走する。
「キーーーーーーーーーーーーーーーッ!」
 女の声が叫んだ。クリスの暴走した意識が、飛焔の精神を直撃する。
「なっ、何や、何や、何やっ! 頭がぐらんぐらんするでぇ……き、気色わるぅ〜……」
 女が意識を失っている。クリスが指輪の水晶に戻ったのだ。
「ア、アカン……こんな状態で女は抱けんわ……」
『だったら早く宿に戻りなさいよっ! この変態男っ!』
 今度は飛焔がびっくり仰天だ。
「な、何や、今の声! どっから聞こえたんや! 何や頭の中で響いた気もすんねんけど……アホな、気のせいや……ホンマ、頭ぐらんぐらんする……もう、ワイ、アカン……宿に戻ろ……」
 意識のない女を置いて、彼はよろめきながら部屋を出た。
 
 
 クリスが叫んだその時、プシケはとある雑貨屋の前にいた。
(クリス……何かあったのかしら?)
 だが、語りかけてくる感触がないので、雑貨屋の中の会話に耳を傾けた。男が三人。店の主人と客二人。
「何だって? 誰を探してるんだって?」
 肥った体躯。縮れた白髪に白い髭の主人。
「だからよぉ。アグスティの領主様の招待を断って、逃げ出したふてぇ女がいるんだよぉ。領主様直々に取り調べたいとおっしゃってよぉ。こうして探しに来ているわけよ」
 客の一人。だらしない格好で昼間から少々酔っている。ガラの悪い男だ。
「ほ〜お、それで?」
「見かけたら俺たちに知らせてくれよ」
 もう一人の客。頑丈そうな体躯。品のない野卑な顔立ち。酒瓶を手にし、時々呷る。要するにコイツも酔っ払いだ。
「どんな女だ?」
 ガラの悪い方が言う。
「金髪の女だ」
 品のない方が言う。
「黒いローブの女だ」
「他に特徴は?」
 二人の客が声を揃えて言った。
「すんげえイイ女だ!」
「それだけじゃわからんだろう」
 呆れて主人が返すと、
「ここんところに何か、キラキラ光る宝石をつけてたって話だぜぇ」
 と、だらしない男が己の額を指差す。
 明らかにプシケの話だ。思わず戸口で身を固くする。立ち去るべきだろうが、その先が気になった。
 と、目の前が翳り、大柄な男に声をかけられた。ついでに酒臭い息もかけられたが。
「おい、ねーちゃん、俺と遊ぼうぜ。ん〜ん?」
 はっと顔を上げた瞬間、被っていたフードがずれ、額の水晶が煌いた。
「おっ、おまえっ……」
 アグスティでプシケを襲った男の一人だ。
「いたーっ! いたぞーっ!」
 男が叫ぶ。店の中から二人の仲間が千鳥足で飛び出してきた。彼女は咄嗟に駆け出す。
「おいっ! 待ちやがれ!」
 と言われ、待つ奴がいたらお目にかかりたいものだ。
 プシケは狭い路地に入り込み、そこら中のもの――ゴミの缶や、積まれていた木箱――などを薙ぎ倒して男たちの進路を塞ぐ。少々の足止めにはなるが、彼らの意気を下げることはできない。酔っ払って千鳥足のわりには随分執拗に追ってくる。この町を少なからず知っているのだろう。これでもプシケの先を読んで行動しているらしい。そのせいか、散々路地を廻り込んで引っ掻き回すが、男たちは撒かれてはくれない。
 このままでは埒が明かない。不本意だが宿に戻り、飛焔の力を借りるしかあるまい。さすがにシラフと千鳥足では、かなりの距離が空いている。宿を突き止められたとしても時間稼ぎはできるはずだ。
 迷わず宿に飛び込んだ。そのまま階段を駆け上がり、部屋に飛び込む。そこにはクリスの精神攻撃から、何とか立ち直りかけた飛焔がいた。
「飛焔! 来て!」
 プシケは叫ぶと、ローブを脱ぎ、それを持ったままベッドに滑り込む。豆鉄砲を食らった鳩の目で彼が固まっていると、
「早く来てっ!」
 再び叫ぶ。
「え、ええのんか?」
 戸惑う飛焔に更に叫ぶ。
「何してるの! 早く!」
「わ、わかった。ちょー待って」
 彼は戸惑いながらもベッドに入ろうとする。
「駄目よ。上着を脱いで裸になって」
「何や、えらい急いでんねんなぁ。そーか、そんなにワイとやりたいんか。我慢でけんねんな」
 とたんに機嫌が良くなって、彼はすっぱりと上着を脱ぎ捨てた。逞しい身体を惜しげもなく晒すと、ベッドに入り意気揚揚とプシケに覆い被さる。
「思たより情熱的やねんなぁ。ほな、こっちも、たっぷり可愛がったるさかいな」
「何言ってるのよ。アグスティから追手が来てるのよ! 私を探しているわ。うっかり見つかってしまって、この宿にもすぐに乗り込んで来るわ。だからあなたはしっかり演技をして、私をその身体で隠してちょうだい!」
「何や、追われとったんかいな」
 飛焔は明らかに残念な顔で、プシケをしげしげと見つめる。
「演技せんでも、このままホンマにやってもーたらええんとちゃうか? 部屋に入って来てワイらの姿見たら、それで引くやろ?」
「いい加減にしないと、平手打ちじゃ済まないわよ!」
 平手打ち! 先ほどの女の平手打ちと不可思議な現象を思い出して、飛焔は慌てて否定する。
「冗談や! 冗談やがなぁ。ホンマ、可愛い顔して洒落もわからんお嬢ちゃんやなぁ」
 廊下が騒がしくなった。奴らが来たに違いない。
「いいこと? 私の命はあなたの演技にかかっているのよ」
 プシケはそう言うと、飛焔の背中に腕を回した。ローブの下は袖のごく短い衣装。彼の身体に隠されれば、全くの裸に見えることだろう。
 飛焔はもう何も言わず、シーツを背中に引き寄せると、しっかりとプシケの上に覆い被さった。
 廊下の男たちは各々の部屋を見て回っている。壁が薄いのか、結構喚き声が聞こえてくる。アグスティの男たちの怒鳴り声。情事を邪魔された者たちの不満げな声。宿の主人の許しを乞う声。次第にこの部屋に近づいてきた。
「この部屋で最後だな?」
 ドアの外で声が言う。プシケも飛焔も、一瞬、身を固くした。
「お客さん、勘弁してくださいよぉ! この部屋に泊まってる男を怒らせると、殺されますぜ!」
「うるせえ! どきやがれ!」
 扉が蹴り開けられた。
 男たちが目にしたもの。それは、薄暗い部屋の中で男女が抱き合い蠢く姿。頑強な男の背に回された、女の華奢な白い腕。男の背を執拗に愛撫している。男は女の上で妖しく身じろいでいた。真っ最中だ! ……という風に、彼らには見えている。
 だが、次の瞬間、真っ最中の男から発せられた言葉に、アグスティの男たちは震え上がった。
「何やっ! 今ええとこなんやっ! 邪魔しやがったらぶっ殺すぞ、われぇ!」
 その気迫は半端ではない。宿の主人の言う通り、下手すりゃ本当に血祭りだ。
「すまねえ! 悪かったよぉ!」
 男たちは酒ボケの頭を抱え、慌てて部屋を飛び出すと、一目散に階段を駆け下りていった。
「やれやれ……」
 宿の主人が溜息を吐き、扉を閉めようとした。
「待たんかい! イアーゴ!」
 それを引き開け、飛焔は宿の主人を引っ張りこむ。
「どういうつもりや、われぇ!」
「ひっ、飛焔〜、勘弁してくれよぉ。おいらだって何だか良くわからねえんだよぉ。いきなりやって来やがって、女が逃げ込んだから探させろって、おいらが止めるのも聞かずにそこら中引っ掻き回しやがったんだ。相手は酔っ払いだしよぉ、下手をして怪我でもしたら大変じゃねえかよぉ」
 喚く男は、若いが頼りない印象だ。名前を呼び合うことからしても、飛焔と懇意の仲なのだろう。
「相変わらず臆病なやっちゃ。たかが酔っ払いやないか。蹴り出したら良かったんちゃうんか。……ホンマ、こっちはえらい迷惑や。その気になって途中で止めんのは大変なんやでぇ」
「だから勘弁してくれって。今度、二・三人、見繕ってやるからさぁ」
「あほんだら! それどころやないっ!」
 徐に起き上がり、ベッドを降りるプシケ。
「まさか、あの子、アグスティの連中が探してた女かよぉ? 額に宝石を飾ってるって聞いたぞ」
「その通りや。ゆ〜とっけどイアーゴ、アイツらにチクリやがったら、おまえでも只ではおかへんでぇ。この町で商売でけんようにしたるさかいな」
 人懐っこい瞳が、一転して冷ややかさを纏う。イアーゴは震え上がり、
「わかってるよぉ。おまえを怒らせるような無謀な真似、このおいらにできるもんか! それにここはアグスティの領主とは無関係なんだぜ。アイツらに大きな顔させられねえよ」
「ホンマやな。今のが嘘やったら、マジで殺すぞ」
 静かな口調に、イアーゴは益々震え上がった。
 震え上がり動けない宿の主人を尻目に、飛焔は上衣を着るとベルトを締め、刀を腰に差した。
「それにしてもお嬢ちゃん、あんたええ度胸しとる。追い詰められた状態で上手いこと演技しよるし、モノに動じんとこが気に入ったわ。あんたかなりの大物やなぁ」
 それに答えるでもなく、彼女は締め切られたカーテンの隙間から外を見て、
「どうやらこの宿は囲まれたようよ。たかが通りすがりの女を捜すだけにしては随分な数ね」
 と、澄ました顔で言う。
 飛焔も窓の外を透かし見た。いつの間に現れたのか、酔っ払いの仲間たちは、数十人に膨れ上がっていた。
「えらい執着ぶりやないかぁ。よっぽどあんたに振られたんが悔しかったんやな」
「問題は、ここからどうやって逃げるかね」
 思案する彼女たちは、ゆっくりとイアーゴを振り返る。そのまま視線を貼り付けた。
「な、何だよぉ?」
「イアーゴ。この宿は、裏口とか抜け穴とか地下道とかないんか?」
「そ、そんなこと言われたってだなぁ、裏口にだってあの連中はいるだろうしさ、地下室もねえんだぜ、この宿にゃあ。抜け穴とか地下道なんてそんな洒落たもんあるわけねえだろぉ」
「さよか、ほな……」
 飛焔はプシケの顔を見つめる。
「屋根の上へでも逃げるしかないわね」
 三人は一斉に天井を見上げた。
【夢幻林へ】へ続く
【萬語り処】 ← 感想・苦情・その他諸々、語りたい場合はこちらへどうぞ。
  前の話へのボタン 次の話へのボタン 『西へ…東へ…』目次へのボタン 水の書目録へのボタン 出口へのボタン