あぐすてぃへ
アグスティへ
西へ…東へ…ロゴ
 艶乱の沼――
 のどかな田園風景のはずれに林がある。奇妙な形をした木立。陰鬱な空気。すぐには入るのが躊躇われるほどの威圧感。ここが件の沼だ。
「ヤツらはどんな手を使う?」
 林の前で立ち止まり、紫音が訊いた。相手が何者かを知らなければ戦いようがない。この場で一番確実な情報を提供できるのは、透だけだ。
「ビジョンだよ。ビジョンを見せてくる。男たちは幻を見せられて、操られている女の人たちの思い通りになるんだ」
「女も操られているのか?」
「そうだよ。その後ろに誰かがいる。でも姿を見せない。わかってるコトは、力を使っているのはそいつだけってコト。他の人たちは身体を使われてるだけだ。場合によっては女の人たちも、ビジョンを見せられて動いてるのかも知れない」
「精魔みたいなものが憑いてるわけじゃねえんだな?」
「取り憑かれるってのとは、少し違うよ。皆ちゃんと自分の意思で動いてる。だから、たぶらかされてるんだ」
「なるほどな」
「怖いのは、そいつの力がどのくらいのモノなのか、全く見えてこないってコトだ。ちらっと見た時は白かった。白いって印象しかなかった。でも、すごく、人の心の痛い部分を突くのが得意そうだよ。気をつけた方がいい」
 背後の姉妹を振り返る。二人は手を取り合い、寄り添って、透たちを凝視していた。
「僕たちは心配ない。でも彼女たちはどうだろう? ビジョンを見せられて平然とできるか、少し心配だな」
 紫音も同じ危惧を持っていた。
「ここの《場》は、おまえの味方をしてくれそうか?」
「どうかな? この辺りは大丈夫だと思うけど、沼の方はわからない。最も強い気を感じるのは沼からだから」
「取り敢えず結界を張れ。いざとなったら、おまえは二人を連れて逃げろ」
 無言で頷く。
 紫音は問題ない。少なくとも、相手が精神の力を使う存在なら彼には勝算がある。姉妹にもしものことがあれば、かえって彼の気を散らせることになる。そんな事態になりそうなら、すぐに姉妹を連れて逃げ出さなくてはならない。それが最良の手段だ。
 ビジョンが相手なら透にも勝算がある。本質を見抜く心眼がある彼には、幻など通用しない。それを意識の力で他にも伝えられる。本質を映像として見せることで他をビジョンから守れるのだ。
「行くぞ」
 紫音が動き出した。
 
 
 息苦しい。一歩進むごとに空気が薄くなるようだ。それは緊張のためか、恐怖のためか。前に紫音、後ろに透。姉妹を前後から挟んで、彼らは林の中を行く。
 湿った空気が流れくる。薄っすらと足元に渦巻く霧。視界を遮るほどではないが、足先から悪寒を運んでくる。淀んだ臭気、腐れて漂うもの、それらが沼の方角から溢れ出て、鼻を突いた。
 不快だ。が、その不快な《場》ですら、相反するものを求めて無垢な魂に反応する。《場》は明らかに透に味方した。そう思うと不快感が少し薄れるのが不思議だった。それは透の力。彼の心に反応して《場》が形を変えようとしているのだ。彼の望む形になろうと。
 目の前に現れる沼。わだかまった水は淀んだ臭気を放つ。流れのまるでない滞った水。そこから全ての悪いものが噴出してくるかのようだ。
 だからこそ《場》は透に反応した。不快の元凶の沼が徐々に不快感を喪っていく。ここに透がいる限り、《場》は益々その形を変えていくだろう。
 沼のほとりに枯木が一体横たわっていた。蘭媚の心が激しく揺れる。
「まさか……まさか……」
 妹の制止も聞かずに蘭媚は走り出した。
「……しゅん……しょう……嘘よ……春将! いやあああぁぁぁ!」
 枯木の側で蘭媚が叫んだ。透たちが感じていた嫌な予感が、こんなところで現実に姿を変えるとは。
 憐花が姉の肩を抱く。泣いていた。悔しげに、苦しげに、涙を噛みしめていた。
 姉に同じ思いをさせたくなかった妹。妹と同じ現実を突きつけられた姉。奇しくも姉妹は、同じ苦しみを分かち合うことになってしまった。
 透は枯木に視線を移す。蘭媚の婚約者だった枯木。そこにあるはずの、春将の残留思念を見ようとした。
 だが、そこには何も残っていなかった。思念も残せないほどの一瞬の出来事で春将は枯木と化したのだろうか。今までの枯木たちとは違う、猶予のない息の根の止め方。そこに敵の焦りを見た。
 姉妹は寄り添い涙する。蘭媚の意識に残る春将。聡明な顔立ち、知的な眼差し。何よりも名の通りの、春の日のような穏やかな微笑み。蘭媚にとって彼がどれだけ大きな存在だったのか、どれだけ強い心の支えになっていたのか、それが痛いほど伝わってくる。己の命を投げ捨ててでも守ろうとした大切なもの。それを敵は踏み躙った。
 透は思い知った。見えてしまうから余計に辛い。けれど見なければ真実は掴み取れない。現実にそこにあるものの真実の姿は、どんなに過酷でも受け入れざるを得ないのだ。
「許せない……許せないよ……」
 透は声を震わせた。
「ヤツの姿を探せ、透」
 紫音が呟いたその時――
 彼は足に何かが絡まるのを感じた。迂闊にも沼を背にしていたため瞬時に回避できなかったのだ。足に絡むのは女の手。沼から差し出された無数の女の手が、紫音を沼に引き摺り込もうとしている。
「紫音!」
「くそっ! 離せ!」
 銃で女の手を叩き落す。だが余りにも数が多すぎる。引き摺り込まれようとする紫音に縋りつき、透は彼を引き上げることを試みた。空しくも、透ごと引き摺り込まれ始めた。
「阿呆ぅ! おまえはあの二人を守れ!」
 紫音が叫ぶ。振り返るといつの間にか、周りを無数の女たちに囲まれていた。
 躊躇った挙句、手を離し、透は姉妹の側に行く。
 即座に念じた。彼が念じると、《場》が彼に反応する。にじり寄る女たちの足元を遮る木の根。停滞していたはずの沼が波立ち、紫音の足首から女たちの手を引き剥がす。女たちから自由になった紫音を巻き込んで、透の結界が張り巡らされた。
「ほほほ、往生際の悪い坊やたち。何も心配することはないのよ。いい夢を見させてあげようっていうのに……」
 妖艶な女の声がする。沼の中ほどにある岩に白い影。半裸の女が、そこで嫣然と笑っていた。
「何者だ?」
 女は紫音の問いには答えない。薄絹を纏っただけの白い身体。艶やかな赤い髪。白い顔の中で紅く浮き上がる唇。妖しく光る黒い瞳が彼らを威嚇した。
「さあ、お嬢ちゃんたち、よぅくご覧。あなたたちの恋しい人は何処にも行きはしない。ほぉら、すぐ側にいるでしょう? 目の前にいるでしょう?」
 女の言葉と共に、結界の外にいる女たちが、ぞろりと蠢いた。彼らが振り返ると、蘭媚の、憐花の瞳が虚ろにぼやけ始めていた。
「ビジョンか?」
「意識に直接作用してるんだ、きっと」
「厄介だな」
 先に幻に捉えられたのは蘭媚。
「春将!」
 彼女は紫音に縋りついた。
「ほほほ。やっと見つけたわね、恋しい人を。良かったこと。だったら、やはり結ばれなければね。愛しているのなら尚更よ。さあ、彼にお願いなさい。抱いて欲しいと」
「春将、愛しているの。私を抱いて」
 完全に意識を乗っ取られている!
「おい、そこの商売女。ふざけるなよ。こんな状態で女を抱けるか!」
 商売女と言われた白い人影は、それでも笑っていた。笑いながら言う。
「そう。なら、よぉく見てご覧。その娘はあなたの恋しい人ではないの? もっと、よぅく見てご覧なさい」
 紫音の意識の中に何かが流れ込んできた。暖かく、とろりとした感触。快感が込み上げる。それが視界を狂わせる。目の前に見えている映像を狂わせた。
 白い女は笑う。赤い唇で笑う。手玉に取ったと信じ込み、嫣然と微笑んだ。相手が悪かったことにも気づかずに。
 彼は女の力を逆手に取った。蘭媚を突き飛ばし、距離を置く。沼の縁に佇み掌を高く掲げる。その掌が、激しく光り始めた。
 強烈な光を放つ掌。それは周りにいた女たちの目を射る。彼女たちは潮が引くように、彼らの周りから離れていった。白い女も例外ではない。女がいた辺りで水音がした。激しい光に目が眩んだと見える。
 紫音と女が小競り合いをしているうちに、透にはやることがあった。
 憐花に目を移す。まだ虚ろな眼差しであらぬ方を見て固まる憐花。
 彼女の中では葛藤が続いていた。囚われる意識と、拒む意識。冬蓮を強く信じる想いが、拒む意識を後押しした。
 透はそれに手を貸してやる。憐花の手を握り、彼女の意識に、精神の力で真実の姿を映し出した。冬蓮らしき姿を取り始めていたもの、それは透自身の姿。憐花はそれを確認し、改めて意識に流れ込んできた幻を追い払った。
 憐花の瞳が焦点を取り戻す。それを認めると彼女自身に結界を張った。相手の手の内はわかった。少なくともこれで、憐花が再び幻に囚われることはない。
 蘭媚はより深く幻に捉えられている。憐花のように葛藤がない。春将を失った衝撃が大きすぎたのだ。けれど透の力は、己の闇に堕ちて行こうとした蘭媚を救い上げた。彼女の心を癒すことはできない。だが現実を認識させることはできる。蘭媚が春将だと思い込んだ存在。それが紫音だと見せることはできるのだ。
 現実を突きつけられた瞬間、彼女の瞳は焦点を取り戻したが、溢れる涙は止め処がなかった。
「どうして? ……どうしてそっとしておいてくれなかったの。春将のいないこの世なんかでは、私は生きていけないのに……」
 夢を見ていた方が幸せだったのだろう。けれど、そんなものは幸せな夢なんかではない。
「蘭媚さん、しっかりするんだ。他人に見せられて見るものなんて、ホントの夢なんかじゃない! 自分の意志で、自分の力で見るものがホントの夢なんだよ。あんなものは幻でしかないんだ。あなたがそんなものに囚われたりしたら、春将さんだって心が安らぐはずがない!」
 蘭媚は透を凝視した。涙ながらに言う。
「お願い。春将を見て。春将の心はきっと何処かにある。それを探して! お願い!」
 透は蘭媚に結界を張る。そして辺りを見回した。
 蘭媚の言うことは尤もだ。彼女もこの辺りに、春将の思念が残されていないことを感じていたのか。死に直面した意識は残留思念となり易い。増してや、愛する者と引き裂かれるなら尚更だ。必ずこの辺りの何処かに、春将の意識が残されているはずだ。
「透、アイツを見ろ」
 いつの間にか、紫音は光を放つのを止めている。沼の中に佇む白い女と睨み合っていた。
 白い女――今は沼の水を浴びたためか、淀んだ緑に染まっている。それはこちらを睨みつけ、明らかに、思い通りにならないことで焦れていた。思いもかけない力を使う相手。それが女の苛立ちを、最大限に増幅させていた。
「あれは……あの身体は死体だよ。多分、もう随分前に死んだ人のだ……とっくに朽ち果ててもいいはずなんだけど、何かの力が、生きていたままの姿を維持してるんだ。……あの身体を動かしてるのは人の魂じゃないよ。少なくとも一人の人じゃない。……念だよ。たくさんの人の念が凝り固まって、あの中に入っているんだ」
「念?」
「そうだよ。……何だろう……すごくドロドロしていて、息苦しい、纏わりつくような念だよ。……酷くあからさまで、いやらしい感触だ……。男と交わることしか考えていないような、ものすごくストレートな念だ……すごく、……気分が悪い……」
 青い顔で蹲る。
「なるほど。死体に巣食う色狂いの魔物ってわけか。てめえの欲望のために、周りの女たちを操ってやがるんだな?」
「多分、そう……」
 透は吐き気を押さえた。
「アイツを殺れば、女たちは正気に戻るのか?」
「だと思う……」
 座り込んだまま、口を押さえ俯く。
「何だよ、色に中てられたのか? しょうがねえなあ。免疫のないガキはこれだから困る」
「余計なお世話だよ!」
 紫音の決り文句を気丈にも投げ返す。紫音は不敵に笑うと、透と姉妹を背後に庇った。
「だったら遠慮はいらねえな。おい、色狂いの商売女。俺たちにゃ、おまえの手の内なんざお見通しだ。容赦はしないぜ。おまえは散々、男をコケにしやがったからな」
「戯けた事を……」
 女が白い手を差し出した。それを合図に周りから、操られた女たちがわらわらと集まってきた。彼女たちは結界をものともせず、無表情で立ち向かってくる。弾き飛ばされ、地面に投げ出されても、何度も何度も立ち上がり、向かってくる。
「おい、姑息な手ばかり使ってんじゃねえ。それとも何か? おまえの力は幻を見せることと、女を操ることと、男から精気を吸い取ることしかねえのかよ? お粗末だな。ならこっちから行くぜ!」
 紫音は胸の前で指を組んだ。印を結んでいるのだ。それは倫明が教えた。少しでも力の制御がしやすいように、集中するための儀式として。
 彼は拳を前に突き出す。拳が徐々に光り始めた。集中するうちに光を増し、彼が拳を開くと、そこに光の玉ができていた。薄蒼いその光は鬼火の如く揺らめく。
 それを放つ。沼の女に向けて真っ直ぐに。
 女は、両の掌をこちらに向ける。そこから何かが滲み出し、女の前に立ちはだかる。大蛇だ。大蛇はいとも簡単に紫音の放った光を呑み込んだ。
「ふん、ビジョンか。大したもんじゃねえな」
 大蛇は炎を吐きながら紫音に迫りくる。ビジョンといえども侮れない。彼のすぐそばの木々が、大蛇の炎を受け燃え上がる。それは幻ではない。現実に作用する力を持つビジョン。炎は彼にも襲いかかった。
 だが、そんなものは紫音には通用しない。彼は己に向けられた精神攻撃を全て無効にする。それが彼の力。自分の中に相手が向けてきた力を蓄積し、攻撃にも防御にも変えられる。精神の力を持つものにとっては、究極の驚異の力。
「村中の男を枯木に変えちまったワリには大したもんじゃねえな。男から散々精気を吸い取っておきながら、この程度の力かよ。あの沼のほとりの男もおまえたちで嬲りものにした挙句、楽しんだ後でたっぷり精気を吸い取ったんだろうが」
 大蛇の炎に包まれて紫音が言う。女は笑いながらそれに答えた。
「ほほほほほ。あの男は愚か者よ。せっかくいい夢を見せてあげようとしたのに見破って。いい男だったのに惜しいことをしたわ。でも、暴れられると面倒だから、交わる前に体中から精気を吸い取ったのよ。あれだけの女が周りを囲み精気を吸い取ったのだから、暴れる閑もなく一瞬の事だったわね」
「鬼!」
 蘭媚が叫んだ。泣き喚きながら女に向かって行こうとする。透と憐花で懸命に止めた。
 それを見て、嫣然と笑う沼の女。しかし紫音は見抜いていた。女にはもう余裕がない。その笑いは虚勢に過ぎない。
「もういい。消えちまいな」
 紫音が掌を翳す。そこから光が迸った。
 大蛇の力を増幅し、放たれた光。目を射る強烈な閃光。結界内の透たちには何の影響もないが、周りに群がる女たちは慌てふためき逃げ惑う。蜘蛛の子を散らせるかの如く闇の中へ消えていった。
 白い女、沼の女はもう笑っていない。笑うことを止め、固まっていた。紫音の光は女を包む。大蛇を通過し、他のものに影響を与えることなく、女だけを包み込む。女は光に包まれ唖然とした。逃れる術は何一つない。死体だった女の身体、凝り固まった女たちの醜い情念。何もかも全てが吹き飛ばされる。大蛇も、白い女も、跡形もなく消滅した。
 女が白く弾ける刹那、透は見た。女の後ろに潜む、もう一人の女の影を。その目に焼きつくほど鮮明に。
 やがて光を失う紫音の掌。林の中の沼は夕暮れを纏っていた。沼のほとりに佇むのは透たち四人のみ。周りにいたたくさんの女たちは何処へ消えてしまったのか、もはや一人の姿もなかった。
「春将……!」
 蘭媚がくずおれた。呼べど戻らぬ恋人を求め、蘭媚は泣き崩れた。
 春将の意識――
 例え一瞬の出来事でも、死に直面した強烈な思念が残らないはずはない。透はそれを探し求める。このままでは余りにも蘭媚が哀れではないか。
 沼が透を呼ぶ。透は振り返る。そこに強く感じた。ありがたいことに、沼が消滅しようとする春将の残留思念を繋ぎとめていた。春将はこの沼に気に入られていたようだ。
 透の意識を介して、春将の思念を解放する。それはすんなりと蘭媚の意識に入り込んでいった。
『蘭媚……』
「春将! あなた!」
『蘭媚……憐花……おまえたちを幸せにしてやりたかった……』
「春将!」
 憐花は蘭媚に寄り添う。彼の思念は憐花の中にも流れ込んでいた。
『憐花、済まなかった。私は冬蓮を守れなかった。親友だったのに……。おまえを独りにし、また蘭媚をも独りにしなくてはならないとは……死んでも死にきれない……』
「春将!」
 姉妹は声を揃えて叫ぶ。
『私はもう駄目だ。だが、おまえたちだけでも生きてくれ。私の分も、冬蓮の分も、生きて幸せになってくれ。……祈っている……どんな地獄に堕ちようとも、おまえたちの幸せを、未来永劫祈っている……』
「春将……何故……何故こんなことに……」
 透には見えている。春将の面影。彼は蘭媚の側に佇み、微笑んでいた。春の日の穏やかな笑顔で。
 蘭媚と憐花に想いを伝えることで、彼の残留思念は薄れゆく。蘭媚の側に佇む影も揺らいで消えた。
「春将さんは、最後にあなたに会えたことで満たされたんだ。笑っていたよ。あなたの意識にある、あの笑顔で」
 彼女は透を見上げ、問いかけた。
「春将は笑っていたの? 苦しんではいなかった?」
 透は首を振る。
「あなたの姿を見て、安らぎを取り戻したんだ」
「彼は苦しんではいないのね」
 呟くと、憐花に助けられ立ち上がる。
「ありがとう。彼の心を探し出してくれて。私は忘れないわ、彼のことを。彼の祈りを。だから私たちは生きていかなければならないわ。……春将は私の中で生きている。だってあなたは見たのでしょう? 私の記憶にある笑顔で、春将が笑っていたのを……」
 透は黙って頷いた。
「村は救えなかったけれど、あなた方のお陰で私たちは救われました。あなた方が私たちに理解できない力を持っていても、それは悪いものではありません。あなた方でなければ、きっと私たちは救われなかったでしょう」
 蘭媚と憐花が頭を下げる。紫音は苦い顔で言った。
「よせ、まだ終わったわけじゃねえ。これで片がついたわけじゃねえんだ。そうだろう? 透」
 戸惑いながらも透は答えた。
「そうだね、まだ終わってないだろうな。……一瞬だけど姿が見えた。目に焼きつくくらい鮮明にね。……女の子だよ。女の子だった。金色の髪の、青い瞳の綺麗な子だった。憐花と同い年くらいだと思う。……その子の瞳がすごく綺麗なんだ。純粋で、汚れを知らない、何処までも澄み切った瞳だった。吸い込まれそうに綺麗で透明なんだけど……」
 言葉を切り、思わず身を震わせる。
「どうした?」
「すごく怖いんだ、その子……」
「怖い?」
「そうだよ……怖かった。すごく純粋で、透明で、何の意識の動きもないんだ。嫌と言うほど清廉で、それ以外何もないんだ。……怖いよ……生きている人間なら、何かしら、心の淀みがあって当たり前なのに……」
 紫音は彼の肩に手を伸ばす。震えが伝わってきた。
「あの子が言ってた、どうしようって。……どうしよう、わからない、アグスティへ戻らなければ、って……」
「アグスティだと?」
 蘭媚が言葉を挟む。
「西の地に、そんな名を持つ町があると、聞いたことがあります。そこは領主が治める地。人々は領主に守られ、豊かに暮らしているとか」
「そういやあ、倫明もそんな町があると言ってたな。だが、アグスティとは《退廃》という意味だと聞いた。豊かな町に相応しい名前とは思えんな」
 姉妹は首を捻る。彼女たちには遠い土地の話であって、ピンとは来ないのだろう。
「地図にも載っていたな。アグスティは西の果てだ。いつかは行かなきゃならんだろうが、先ずは、俺たちにはやらなきゃならねえ事がある。それが済んでからだな、アグスティに行くのは」
 透は答えなかった。
 しかし、いつかは行かなければならないのだろう、アグスティへ。婪嬌村の出来事を、中途半端で終わらせるわけにはいかない。失われた命のためにも。
 透は思い返す。意識の中に入り込んできた鮮明な映像。白いものの正体は、あの娘だった。
 汚れを知らない清浄な白。純粋無垢で、それ以外に何もない。何処までも透明な魂。純粋であるがゆえの恐ろしさ。
 少女の言葉は明確だった。
「どうしよう……どうしたらいいの、こんなはずじゃなかった……どうしよう、わからない、アグスティへ戻らなければ……それから……」
 何故、少女は戸惑っていた? アグスティに戻れば、いったい何があるというのだろう。
【マリアッドへ】へ続く
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