えんらんのぬまへ
艶乱の沼へ
西へ…東へ…ロゴ
「えーっと、君がレンカ。で、お姉さんがランビさん……でいいんだっけ?」
「そう」
 憐花が、名前を再確認する透を横目で見た。余り愉快ではないのだろう、聞かれたのが二度目だから。それがわかっていたので頭を掻いた。
 別に物覚えが悪いというわけではない。並んで歩いていながら、会話が何一つないことが気詰まりだっただけだ。しかし、憐花にはそれは伝わらない。彼女の頭の中は村の存亡でいっぱいなのだ。
 また会話が無くなった。
 透は微かに溜息を吐き、前を歩く紫音たちを見た。彼らも並んで歩いているが、全く会話をしていない。会話が無いことを気詰まりに感じているのは透だけか。
 気を紛らわすものがないためか、いらない方向へ考えが走る。それにしてもいったい、紫音は何を考えているのだ……
 彼女たちは紫音を見込んで助けを求めてきた。困った人に助けを求められて、しかもその人たちは金品を持っていない。そんな人たちから報酬を受け取ろうとすることも信じられないが、代償に身体を求めるなど言語道断だ。少し見損なった。透だったら報酬など要求せず、彼女たちの村に向かったはずだから。
「い、て……何だ?」
 紫音が振り返った。透の視線が刺さったのか?
「何だよ、透?」
「べっつにー」
 透はそっぽを向いた。
 紫音は再び歩き出す。刺さる透の視線の意味が、彼には嫌と言うほどわかっていた。
(全く……ガキが……)
 透には話して聞かせなければ、わかりはしない。彼は、純粋であるがゆえの長所を山ほど持っているが、少々の短所も持ち合わせているのだ。
「あ……っつ……」
 蘭媚がよろめいて、くずおれる。足先を押さえていた。
「見せてみろ」
 紫音が蘭媚の靴を脱がせると、爪が割れ、血だらけになっている。遊天まで歩き詰めの上に、追われる身なので余裕がなく、痛みにかまけている暇がなかったからだ。
「大変だ。手当てしなきゃ」
 透の言葉に即座に反応したのは憐花。
「あっちよ。あっちに川が流れているわ」
 憐花の指差す先から川のせせらぎが聞こえる。そう遠くはない。
 紫音が蘭媚を軽々と抱き上げた。手当てをしなければ彼女は歩けない。わかってはいるが、意外だった。随分彼女には優しさを見せるではないか。
 蘭媚は紫音に身を預け、目を閉じている。安堵しているその表情に少なからず疑問を感じた。胸はもやもやするが、今はそれどころではない。透も憐花を連れ、彼の後を追う。
 川の水に浸し、手早く蘭媚の手当てをする。倫明の用意してくれた物がさっそく役に立った。おまけにサバイバルな知識に関して、紫音は全く博識だ。彼がいれば旅の不安は半減する。
「少し休んだ方がいいだろう」
 首を振る蘭媚を無理やり説き伏せた。憐花に付き添われ、川のほとりで蘭媚は身を休める。その隙に、紫音は透を連れて薪を集めることにした。
 彼女たちから離れ、林の中に透を連れ込むと、紫音は唐突に言葉を投げかける。
「おまえ、俺に何か言いたいことがあるんだろ?」
「へ?」
「顔に書いてあるぜ」
 古典的な言い方だ。だが、透の顔に気持ちが表れていたことは事実だ。はぐらかしたい気もするが、言ってしまってスッキリもしたかった。
 だから言う。思いがけず、責める口調になってしまったが。
「紫音って、けっこう無情だな……」
「何だと?」
「だって、そうじゃないか。彼女たちがお金を持ってないからって、別のものを要求するなんて……」
 紫音が一瞬、ガクっとする。気の抜けた顔をした。
「あのな、人をスケベ親父みたいに言うな」
「じゃないっての? 彼女が望みもしないコトを無理やり要求したくせに」
 今度は不快な顔をする。
「おまえ、確かめてからモノを言えよ。誰が望みもしない女を無理やり抱くか」
 疑り深い視線が紫音に張り付いている。多分に軽蔑の色を含んで。
 紫音はそれを引き剥がし、透に投げ返した。
「やっぱりそういう解釈で俺を見てたのか? 全く……いい加減、ガキを卒業しろよ」
「ガキでいいよ! 汚い大人の世界なんて知らなくていい!」
 拗ねてそっぽを向く透。紫音からは呆れた溜息。
「人の話は最後まで聞けよ、透。あの姉妹は村を助けるために命を懸けてるんだぞ。それと同じ意味合いでアイツが報酬を提示してきたんだ。つまり俺への報酬は、命を懸けるのと同じことだ、蘭媚にとってはな」
「だからって、何も実行しなくても……。気持ちだけ受け取ればいいじゃないか」
「阿呆ぅ。蘭媚は誇り高い女だ。死ぬ気で提示してきたものを遠慮したところで、これ幸いと引っ込めるような軽々しい女じゃねえ。報酬を受け取らなければ、俺たちの手を借りることすら辞退するだろうさ。だから望み通りにしてやっただけだ」
 筋の通った話だ。しかし透には理解できない。いや、半分以上納得していながら、何処か心の片隅でその考えを受け入れられなかった。
「そんなこと……悲しすぎるじゃないか。……やっぱり酷いよ……」
 紫音は噛んで含めながら言う。
「良く考えてみろ、透。アイツらは俺たちに引っかかって良かったのかも知れないんだぞ。遊天の酒場の連中を見ただろう? あの煤けた男たちに頼んでいたらどうなったと思う? やり逃げされるのが落ちだぞ。あんな連中に婪嬌村の謎が解けるとは思えんからな。あの酒場に居合わせたのが俺たちだったから、あの姉妹はこっぴどく傷つかなくて済んだんだぞ」
 そんなの偽善だ、自分を正当化しているだけだ、と思いながら、紫音の言うことは尤もだ、とも感じていた。大人の世界は難しい。複雑な駆け引きがないとやっていけないのだろうか。
「ホントのところはどうなんだよ、紫音はあの人たちを本気で助けたかったの?」
「興味がある。嫌な予感がするからな」
「ああ……」
 それなら透も感じていた。憐花よりも、蘭媚から強く感じていた。
「じゃあ、紫音は蘭媚さんをどう思っているのさ?」
 真剣に訊いた。もし紫音が彼女を特別な位置付けに置いたのだとしたら、彼女をこの先どうするのか気に掛かったのだ。
 彼は透の思惑とは違い、無表情で、
「雇い主だ」
 とだけ言った。
 
 
 納得はいっていない。納得はしていないが、紫音には紫音の考えがある。得てして、彼の考えが今まで悪い方へ向かったことはない。彼を信じるしかない。少なくとも彼が余興のつもりで婪嬌村に行くわけではないからだ。
 薪を集め終わると姉妹のもとへと急いだ。二人の姿が確認できる位置まで来た時、突如湧き起こる悲鳴。憐花の声だ。
 彼らは駆け出す。非常事態が目に飛び込んだのはその直後。姉妹は囲まれ、憐花が捕えられている。
「ちくしょう! 油断した」
 彼らは奴らの間に踊り込んだ。出し抜けに現れた彼らに慌てふためく暴漢の輩たち。
「透、二人を頼んだぞ!」
「わかった!」
 紫音は奴らを蹴散らし、暴漢と姉妹の間に立ちはだかる。透はその陰で姉妹を背後に庇った。透だって天烽山で修行した身。何某かの戦力にはなるだろう。
「おい、それ以上近寄るなよ。吹っ飛ばすぜ」
 紫音が銃を構えた。肩に担いでいた愛用のレーザー銃。近距離用だが、最大パワーなら大木の一本くらいは吹っ飛ばせる。
 暴漢たちは紫音と睨み合う。息詰まる空気に彼らは身動きが取れなくなった。その姿はどう見ても普通の民衆だ。魔物でもなければ、山賊や強盗の類にも見えない。そこらの町や村を闊歩する普通の人々。婪嬌村からの追手だとしても余り腕が立ちそうにもない。しかも彼らが手にしている物は、斧や鍬などの、本来なら武器とは違う用途の物ばかりだ。
「うわあぁぁー」
 一人が張り詰めたものに耐え切れず、奇声を上げ飛びかかって来た。紫音は銃を構え直す。相手に照準を合わせた。
「ダメだ、紫音! その人たちはこの近くの村の人たちだよ。操られてるだけなんだ!」
「何だと!」
 咄嗟に銃を横にする。真一文字に両手で構えたところへ振り下ろされる鍬。それを銃で引っかけ弾き飛ばす。鍬はいとも簡単に暴漢の手から離れた。
 暴漢は腰を抜かせ尻で後退る。と、別の者が次々と飛びかかって来た。
「面倒だ。透、操っているヤツを探せ!」
 巧みに彼らの武器を銃で翻弄する紫音。だがいつまでも、そんなことをやってはいられない。
 透は見た。彼らの背後で糸を手繰る者を見ようとした。眼を凝らし、執拗に彼らを見た。一瞬、透の瞳の奥に白い物がちらつく。それは余りにも刹那のこと。すぐに掻き消える。そして感じた。
「先を読まれた……」
 糸が切れたようにバタバタと倒れる暴漢。いや、それはただの民衆だ。気を失っている。が、すぐに続々と目を覚ました。
 彼らは狐につままれた面持ちで立ち上がり、それぞれの商売道具を手に、首を捻りながら立ち去る。何故か透たちには目もくれない。
 彼らが立ち去った後には、騒ぎが起こる前の風景が残された。透たち四人を除いて。
「何かわかったか?」
 紫音が訊いてくる。
「案外、手強い相手かも知れない。僕たちの先を読んできた。すぐに手を引く勘の良さには驚いたな。でも向こうも驚いてたよ。予想もしない相手から突っ込まれたって、そんなカンジがした」
「見たのか? 相手を」
「見えなかった。一瞬感じただけなんだ。そう簡単には尻尾を掴ませてくれないみたいだね」
「そうか」
 紫音は元の通り銃を肩に担ぐ。震えながら抱きしめ合う姉妹を振り返った。
「いい加減、話してもらおうか。おまえたちの村で何が起こったのかをな」
 痛々しい瞳で、蘭媚は紫音を見上げた。
 
 
「いつ頃からかは、わかりません。私たちがこの世に生を受ける前からも、何度か見受けられたと聞いております。それまでは何の変哲もない妻や娘だった者が、ある日ふと奇妙な行動を起こすようになるのです。毎晩夜半に出歩き、朝になると何一つ覚えていない。その間に何をやっているのかは、本人すらわからないのです。それと付随してか、決まってそういう朝には近隣の町や村から死人が出ました。その方たちの死因はわかりません。ただ、まるで精も魂も尽きたように、枯れ切った骸と変わり果てているそうです。……この頃になって漸く、その骸の原因がわかったのですが……」
 蘭媚は言葉を切り、身震いした。口にするのもおぞましい事、そう思っているのだろう。
「原因は何だったんだ?」
 紫音が促す。彼に励まされ、蘭媚は言葉を搾り出した。
「ここ暫くの間で、どちらの奇妙な出来事も頻繁に起こるようになりました。毎日何処かしらで葬儀が行われ、誰も彼もが不安でぴりぴりして小さなことでも気にかけるようになり、やがて目撃する者が現れたのです。原因不明の死を迎える者は男に限られておりました。彼らは夜な夜な徘徊する女たちと、情を通じていたのです。女たちは本人もわからぬうちに別のものに変わっていたのでしょう。無作為に男を漁り、情を通じ、男を食い物にしていったのです。文字通り、食い物に。……彼女たちは男と交わることによって彼らの精を吸い取り、魂を奪い取るのです。骨の髄まで精を吸い取られた彼らの骸は、枯木のように変わってしまうのです」
 着物の袖で口元を押さえ俯く。震えが一層激しくなった。
「この話を先にすれば、あなたは私からの報酬を受け取ってはくださらなかったでしょう。だから、村に着くまでは、どうしても言いたくはなかった」
 涙する姉の肩を抱きしめる妹。憐花は姉思いの妹だ。姉妹は密かに村を出て、励まし合いながら何とか遊天まで辿り着いた。だがそれで精一杯だったろう。二人は追われて逃げ、命の危険に晒され、どんな思いでここまで来たのか。姉妹の気持ちを思い計ると息苦しくて仕方がない。透にはそれが見えてしまうから。彼女たちの想いや軌跡が見えてしまうのだ。心を閉じれば見なくても済む。しかし、見なければならない時は見ざるを得ない。
「その女の人たちはどうなるんですか?」
 透に問われ、蘭媚は答える。
「わかりません。ある日突然いなくなるのです。村はずれの沼で見かけたと言う者もおりますが、その後の消息はさっぱりです。男たちの死因がわかってからは、誰も後を追いません、探そうとはしません。村では彼女たちは死んだ者として諦めるのです」
「彼女たちは村の人なんでしょう? 家族だっているんじゃないんですか、それなのに?」
 蘭媚は首を振る。涙が頬を伝う。
「男たちはどうなってる? それだけ広まりゃ、夜な夜な徘徊する女なんか抱く気にはならんだろうが。それでも無くならないのか? 今でも続いているのか?」
 蘭媚は涙に暮れている。答えられないのを見越して憐花が口を挟む。
「そうよ。無くならないわ。操られているのか魅入られているのか知らないけど、スケベ心を抱く男がいる限り、無くならないのよ!」
 憐花の言葉には軽蔑が含まれていた。
 透は知る。
 憐花の周りの男たちも悉く餌食にされていた。その中に彼女の恋人がいる。幼い頃から慕い合い、将来を誓い合った仲。清いままで嫁ぐ日を夢見ていた。それなのに――
 憐花の心を悲しみよりも悔しさが支配した。彼女を今突き動かしているのは、嫉妬の心と姉への想い。そして男たちへの憎しみ。
 けれど憐花は間違っている。彼は決して憐花を裏切ったわけじゃないのに。
「君は裏切られたと思っているの?」
「え?」
「君は彼に裏切られたと思ったんだね。でも、そうじゃないよ。彼は君を裏切ってなんかいない。だって相手が君だと思ってたんだから」
「な、な、何を言っているの? いったい何のことなの?」
 目を見張る憐花。怯えた瞳が透を見つめる。それでも言わずにはいられない。このまま彼女が苦しみに囚われるのを見過ごせない。
「ゴメン、見えるんだ。見なきゃいいんだろうけど。君の彼がまだ君に想いを残してるから、どうしても伝えてあげたいんだ。君の彼が思ってるのは君だけなんだってコト」
 憐花は透が何を言っているのかわかったはずだ。だが、透を見つめる彼女の瞳は恐怖に満ちている。そんな思いも透には見えてしまう。見えてしまったから急に黙り込んだ。
「あなた方はいったい……」
 蘭媚も涙に暮れるのを止め、透を見つめていた。その瞳には、驚きはあるが嫌悪は無い。
「コイツの言ってることは真実だ。コイツにはそれが見えるんだからな」
 透に向かって憐花が叫んだ。
「いったいあなたは何なのよ! 何を言っているのよ! どうしてあなたがそんなことを、彼のことを知っているのよ? 何者なの? あなたは何者なのよ!」
 伝わらない。それが悲しかった。
 この世界では精神の力は認められていない。根底から否定する。肯定しなければ透の意思は伝わらない。信じてはもらえまい。こんなにはっきり憐花の彼の想いが見えているのに、伝えてあげることができないのが苦しかった。
 せせらぎが音を変えた。風が香りを変えた。木々が色を変えた。《場》が透に同調する。
 透の持つ本来の力は、《場》を味方につけ結界を張ることだ。《場》は彼と同調し、彼に力を与える。その力を借り、増幅させて透は結界を張る。それは《場》そのもの。《場》が彼を守るのだ。
 精神の力を持ち、物理的に身を守ることができないものは、潜在的にこの力を持つ。だが透の力はもっと強力だ。彼は瞬時に全ての《場》を味方につけることができるのだから。
 憐花に彼の想いを伝えたい――透がそう思った瞬間、《場》が大気を震わせた。
 せせらぎが歌い、風が踊る。木々は光に満ち、それら全てと大気が融合する。大気は《場》を揺るがせ、空間を揺るがせ、心を揺るがせる。憐花の意識に、蘭媚の意識に流れ込み、頑なな固定観念を氷解させた。
 その直後、透の意思が憐花に伝わる。透の意識を介して、憐花の彼の想いが伝わる。
『憐花……』
 彼女は目を見開いた。
「と、とう…れ、ん……? 冬蓮なの?」
 意識に流れ込む声は、憐花の恋人のもの。彼は語る。憐花への果てしない想いを。
『すまない、君を独り残してしまうことになって……僕は愚かだ……魔物と君を見間違うなんて。笑ってくれ、魔物に捕われた時、確かに君に見えたんだ。君と魔物の区別もつかないなんて、僕は……』
「冬蓮! 魔物と私を間違えただなんて、どういうことなの?」
『魔物は君の姿をしていた、僕にはそう見えた。愚かだよ……魔物の術にかかるなんて……僕に隙があったからだ……でも、愛していた。君を愛していたから結ばれたかった……』
「とう……れん……!」
 憐花は泣き崩れた。恋人を抱きしめたい。だが彼の姿は何処にもない。
『僕は間違っていた……愛しているから君の言う通り、清いままでいれば良かったんだ……今となってはもう遅い……。憐花、生きてくれ。決して僕の後を追ってはいけない。僕のために、僕の分も、生きて幸せになってくれ……』
「冬蓮……冬蓮!」
 彼は最後に言った。
『もう村に戻ってはいけない。そして決して艶乱の沼に行ってはいけない! 逃げるんだ。村から遠く離れ逃げてくれ! 僕の憐花……君だけは……』
 意識の端から、彼の声が消えていった。
「冬蓮、どういうこと? 村へ戻っちゃいけないなんて……艶乱の沼に行っちゃいけないって……どういうことなの、冬蓮? 答えて!」
 答はない。かろうじて残っていた彼の残留思念は、憐花に想いを伝えることで風化した。彼の願いが叶ったから。
「艶乱の沼ってなぁ、何だ?」
 紫音が蘭媚に訊いた。
「行方不明の女たちが、最後に姿を消すと言われている場所です。私たちも滅多に行くことはありません」
 透が憐花の肩に触れた。彼女は初めて彼がそこにいたことに気づく。そして更に気づいた。冬蓮の言葉を伝えたのは彼だということに。
「あなたは見えたと言ったわね。冬蓮の姿も見えていたの?」
 透は黙って頷く。
「彼はどんなだった? どんな顔をしていた?」
 涙に濡れる憐花の顔を見つめ、彼は答えた。
「最初はとても悲しそうだった。君に気づいてもらえないのが苦しかったんだ。でも君に想いが伝えられて、彼は安心した顔をしていたよ。彼はきっと、最後にどうしても君を守りたかったんだよ」
「ああ……」
 憐花は袖で涙を拭う。懸命に顔を上げた。
「私たちには理解できないけど、あなたは不思議な力を持っているのね。あなたの見えたもの、それを信じるわ、いいえ、信じたいの! ……苦しかった……彼を憎むことは、とても苦しかったわ。信じていたから、愛していたから……彼を憎み続けるなんて、したくなかった。でも、憎かったの。許せなかったの! ……それが全て、私の誤解だった。あなたのお陰で、それを知ることができた……でなければ、私は彼を憎み、地獄の苦しみを永遠に噛みしめることになっていたでしょうね……。ありがとう、透……あなたのお陰で、私はもう一度、冬蓮を信じることができる」
 透の手を取り、強く握る。
「冬蓮の最後の言葉……彼の必死の思いを叶えるには、私が彼の言葉に従わなければならないでしょう。でも、それはできない。……村には姉さんの婚約者がいるの。彼が無事な姿を確かめるためにも、私たちは村に帰らなくてはならない」
「でも、君にもしものことがあったら、彼の想いを無駄にすることになるよ」
「仕方がないわ。私は姉さんにまで、私と同じ思いはさせたくないの」
 憐花の決意は揺るがなかった。
「憐花……あなた……」
 蘭媚はまた口元を押さえ、俯く。瞳は涙で潤んでいた。
「急ぎましょう。一刻の猶予もならないわ」
 憐花は、透の手を握りしめたまま立ち上がった。
 
 
 村には人っ子一人いない。
 冴え渡る空。のどかな田園風景。こんな時でもなければ風光明媚な美しい村なのに。
 だが人は誰もいない。生きているものの気配が無い。そう、生きているものがいないだけ。人はいる。そこら中に、枯木と化した人だったものが転がっていた。
「そんな……村を出る前はまだ沢山の人がいたのに……」
 蘭媚は愕然とする。よろめく身体を紫音が支えた。
「おまえの婚約者というのは、何処にいる?」
 彼女は首を振る。顔に血の気がない。代わりに憐花が先に立つ。
「こっちよ。彼の家はこっち」
 小走りで行く彼女の後を追う。
 程なく目的の家に辿り着いた。憐花が真っ先に飛び込む。透が後に続いた。
 家の中は、ガランとしていた。人の姿はない。枯木もない。
 紫音に支えられ、蘭媚が家の中に入る。彼女は辺りを見回した。その目が或る物に釘付けになった。
「これは……」
 入口の土間の上、天井の梁から何かがぶら下がっていた。薄桃色の手拭いのような布。花簪が刺してある。
「これは私が彼に預けた物。何故こんなところに……」
 怪訝な蘭媚に代わり、紫音が梁から外す。彼女には届かないが紫音なら軽々と届く。
 それを受け取り広げてみる。蘭媚の顔色が、益々血の気を失った。
 赤い文字で書かれた言葉。
『すぐに逃げろ。決して艶乱の沼に行ってはならない』
 その文字は、血かも知れない。
 蘭媚はくずおれる。花簪と布を握りしめ、胸に掻き抱いた。
「どいつもこいつも艶乱の沼か」
 紫音が呟く。
「行くの?」
「行くしかない。そこに何かがあることは間違いないからな」
 透は頷いた。
「その前に彼女たちを何とかしないと。連れて行くわけにはいかないだろ?」
 それを聞きつけ、ぴしゃりと憐花は言う。
「あなたたちは艶乱の沼へ行くつもりね。だったら私も行くわ。姉さんの婚約者は、もしかしたら、そこへ行ったのかも知れないもの。追わなきゃ。彼に何かある前に追わなきゃならないわ」
「だめだ。おまえと蘭媚はすぐ村を出ろ。後は俺たちに任せてできるだけ遠くに逃げろ」
「無理よ。姉さんはこの足だし、私たちがどんなにがんばって逃げたとしても、追手に捕まれば殺されるわ。私たちに身を守ることはできない。あなたたちがいたから、私たちは村に戻ることができたんだから」
 確かにそうだ。彼女たちを二人きりにする方が危険極まりない。
「君は、彼の最後の想いを、やっぱり受けとめることはできないんだね」
 憐花は困った顔をした。
「今は、生きている者の方が大事。姉さんと姉さんの彼の方が大切なの」
 彼女を止めることができないのは、もうわかっていた。
「仕方がねえ。だが、命の保証はできないぞ。俺たちだって、そこに何が待ち受けているか、皆目わからねえんだからな」
 憐花は蘭媚を支える。蘭媚は紫音の顔を見つめていた。どうやら姉妹の決意は同じらしい。
「行こう、艶乱の沼へ。嫌な予感がするんだ」
 透は、嫌な気のする方へ向かって、真っ直ぐに歩き出した。
【アグスティへ】へ続く
【萬語り処】 ← 感想・苦情・その他諸々、語りたい場合はこちらへどうぞ。
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