らんきょうむらへ
婪嬌村へ
西へ…東へ…ロゴ
 ここが《退廃》という名の世界か。
 広々と続く荒れ果てた砂漠は、先ほどまでいた天烽山の麓と変わりがない風景に見える。だが、遠方に翳む町の影。あれが遊天という都なのだろう。
「さっき途中から黙り込んだな、あのチビと話している時に」
 唐突に紫音の声。彼はそれまで振り向きもせず、透の前を黙々と歩いていたというのに。
「何のコト?」
「誤魔化すんじゃねえ。何かを感じたんだろうが」
 紫音にはやはり隠せない。透は少し曇った声で、
「別に誤魔化すつもりはないけど……見えちゃったんだよ、あの子の故郷らしきものが。……良くはわからないんだけど、多分、内乱か何かがあったんだろうな。戦渦の真っ只中だよ、きっと、今も……あの子の両親はもうダメだよ。だけどお爺さんが残ってる。……僕にはそんな残酷なコトあの子に言えないな。倫明さんだって、だからこそ、彼を側から離そうとしないんじゃないかな?」
 紫音が振り返った。不機嫌な顔だ。
「ふん、お人好しめ。だったら余計に言ってやった方が良かったんじゃねえか? 残酷だからと隠していたところで遅かれ早かれいつかはわかることだ。それが先送りになればなるほど、かえって残酷なのかも知れないんだぞ」
 思わず足が止まる。紫音が言う事には一理も百理もあった。無駄な期待をさせ、その結果が残酷な答なら、早いうちにそれを知る権利が彼にはあったのではないか。
 だが、と透は思う。アズマールは迷っていると言った。長い間迷っていたのだから焦らない、と。彼は今まで倫明に言い出せず迷っていた事を、紫音の言葉によって実行に移そうと決心した。つまり今やっと、自分の足で歩き始めたところなのだ。
「紫音のお陰だよ。あの子は一歩前進した。自分の足で真実を掴もうとしているんだ。自分で掴んだ真実なら、どんなに残酷でも受け入れざるを得ないよね。僕たちが教えるまでもなく」
 驚いた顔で、透の顔を見つめてくる。
「おまえ……」
 それ以上言葉は続かなかった。
「行こうよ、紫音。僕たちには僕たちのやるべきコトがある」
 先に立つ透の背中を、紫音は複雑な気持ちで見つめる。意外な心と安堵の心。瞑想洞から戻った透は紫音が思うよりも成長しているのだろう。過保護になりつつあった自分に、改めて言い聞かせる。透は決して、一人歩きのできない子供なんかではないのだ、と。
「それじゃ久々に命の洗濯に行くとするか。なにしろ山の中に閉じ込められ、毎日毎日修行修行と禁欲生活が続いてたんだ。たまには魂に栄養をやらねえと枯れちまうかも知れねえからな」
「命の洗濯って?」
 怪訝に振り返る透に、不敵な笑いで返す紫音。
「決まってるだろうが」
 理解できないでいる透を引き摺り、彼は遊天を目指して足を急がせた。
 
 
 何処の世界にも似たような町があるもんだ。そう思い、辺りをキョロキョロと見回してしまう。
 軒並ぶ建物から懐かしい印象を受けた。日本の家屋にも似ているがもっと大陸寄りなイメージ。道行く人々の服装なども、中国色の濃い、アジアな雰囲気を醸し出していた。透の故郷とまるで無縁だとは思えないほど、彼にとっては違和感がない。
 程なく目についた酒場。紫音に引き摺られるまま足を踏み入れる。不健康な空気が出し抜けに襲いかかってきた。
 そこは白く朦朧とした空間。アルコールの匂いが充満している。自堕落な態度の男たち、覇気のない顔つきの男たちが、宵の口からウダウダぐだぐだと管を巻いていた。
 彼らの視線が一斉に飛んできた。興味深げに二人に張り付いている。その場にいた全員の好奇の目が、彼ら二人の所為を逐一見逃すまいと活動を始めた。
 そんなものは全く無視して紫音は店の奥にずかずかと入り込む。気後れを感じながらおずおずと続いた。と、こんな場所に不慣れな透を見越してか、品のない連中の一人が彼に食らいついてきた。
「よォ、おぼっちゃァん。ここにゃァおぼっちゃんのお口に合う飲み物はありゃしないぜェ。何飲みに来た、えェ? ジュースかァ? それともママのおっぱいかよォ、えェ?」
 一斉に笑いが湧き起こる。白く燻る視界の中で、弛緩した男たちが弛緩した姿勢のまま、だらしない大笑いをしている。ちらほらと女の姿もあるが、透には良く見えなかった。それだけ視界が白いのだ。
 奥の席が空いている。だが隣の席の男が気づいて、わざとテーブルに足を乗せた。紫音はその男の前に仁王立ち、相手を見据えて言った。
「その汚ねえ足を退けな」
「何だとォ、この若造がァ」
 と、虚ろな目で紫音を見上げてきた。
 暫し彼らは睨み合う。予想通り虚ろな目の男が惨敗した。酔っ払って意識が白濁していても、紫音の気迫に怖れを成す神経は正常だったらしい。慌てて足を退けると隣の席に縮こまる。賢明な判断だ。でなければ只では済まなかっただろう。
 騒めく人々。不満の騒めき、敵意の騒めき、畏怖の騒めき。それらは店の底辺で渦を巻いた。
「オヤジ、酒だ」
 彼は空いた席に着き、透を指で招いた。辺りをオロオロ見回しながら紫音と同じテーブルに着く。その間に店の主が胡散臭い顔をして酒を運んできた。
「飲みな。アイツらにガキじゃねえってトコを見せてやれよ」
 紫音が小声で囁く。励まされ、一息に手の中のものを呷る。水っぽい味がした。だがアルコールには違いない。鼻の上の方が、いや〜な感触で満たされる。はっきり言って、不味い!
 苦虫を噛み潰した顔の透を見て紫音がげらげら笑う。笑いながらグラスを呷り、次に苦虫を噛み潰したのは彼だ。不機嫌にグラスを床に叩きつける。
「オヤジ、舐めてんじゃねえぞ! 俺は酒を出せって言ったんだ。それとも何か? ここじゃ水を酒って言うのか? ……はは〜ん、さてはおまえ水増しして稼いでるな? なるほどな。だが、ここの脳天が麻痺した連中なら騙せるだろうが、俺はそうは行かないぜ」
 疎ましい顔で振り返るオヤジ。冷汗を流している。彼が何かを言う前に回りの連中が血気立った。
「野郎! 余所者のくせに大きな顔してんじゃねえ! 畳んじまえ!」
 その声に賛同した連中が立ち上がった。店にいた客の三分の二はいるかと思われる。
「面白い、やってやろうじゃねえか!」
 紫音が拳を握りしめた。もう一方の掌に叩きつける。それが合図となってお定まりの大乱闘が始まった。
 透は唖然として見ている。正視しているつもりなのだが何だか視界がグラグラして心もとない。紫音が上手く庇ってくれているためか、とばっちりは彼にまで届かない。野郎の怒鳴り声、女の悲鳴、物が派手に壊れる音、意識の遠く近くで耳に雪崩れ込んでくる。店の主も叫んでいた。
「お客さん、止めてくれ! 店の物を壊さないでくれよぉ! 悪かったよ! 酒は出すから勘弁してくれ! 頼むから止めてくれーっ!」
 だが誰も耳を貸さない。物は壊れ、野郎どもは倒れ、女たちは逃げ惑う。紫音に絡むなどとはオロカな連中だ。束になって掛かったところで折り畳まれるのが関の山。天烽山の修行場と同じように、累々と重なっていく愚か者ども。紫音は嬉々としていた。嬉々として奴らを軽く伸していく。からかいながら相手を挑発し、挙句の果てに殴る蹴るの暴行だ。しかし確実に一人一人を一発で倒している。余裕綽々ではないか。
(やっぱり手を抜いてたんだな……)
 身体を支えきれなくなり、テーブルに頬杖をついて思う。天烽山での紫音。軟弱な連中が相手では、本気を出すと死人が出るかも知れない。だから手を抜いていたのか。それでフラストレーションが溜まってしまって、ただ今大暴れ中なのだろうか。
 屈強な酔っ払いの最後の一人が床に沈んだ。周りで見ているだけの覇気のない男たちや、それにへばりつく女たちから感嘆と畏怖の声が上がる。彼らは遠巻きに乱闘を見ていた。今は遠巻きに紫音を見守っている。
 紫音は店の主を振り返った。震え上がるオヤジは飛び上がりながらも、乱闘を止めさせようと用意した酒瓶を紫音に差し出した。彼はそれを美味そうに喇叭飲みする。こちらは混ぜ物なしの純正らしい。
「どどど、どうしてくれる……? こここ、こ、こん、こんなにしちまって、うちの店を……」
 柱の陰に隠れながらオヤジが苦情を言う。
「ああ? そりゃ悪かった」
 謝られたというのにオヤジは柱の影で縮こまった。身を竦め、恐る恐る片目だけ覗かせている。
 まるで手品の如く、紫音の袖の隙間から金貨が滑り出した。倫明から預かった金貨の一つだ。指で弾き、オヤジに投げる。店の主はあたふたと、飛んできた物を何とか掴み取った。それを見て目を見開く。
「それだけあれば足りるか? 店の改装工事は適当にやってくれ。悪いがそこまでは面倒見てられねえんだ、俺たちは先を急ぐ身だからな……」
 と、そこまで言ったものの、金貨を手に固まるオヤジに、更に言葉を重ねる。
「ついでだがオヤジ、この辺りで宿はねえか? 別に寝泊りできりゃ何処でもいいが」
 紫音の視線の先には、アルコールの力に負け、意識を失った透がいた。テーブルに突っ伏し赤い顔をしている。
「コイツがこんなじゃ、今夜はどうしようもねえからな」
 声をかけられたオヤジは慌てて答える。先ほどとは打って変わった愛想のいい態度。金の力とは恐ろしいものだ。
「へええ、お客さん。うちは宿も兼ねております。どうぞお泊まりください。で、お部屋は二つで?」
「いや一つで充分だろう。野郎が二人だからな」
「では後でご案内します。心ゆくまでお飲みになられたら、おっしゃってください」
 オヤジが深々と頭を下げた。
 唐突に背中に感じた気配。即座に振り返る。女が二人、思いつめた顔で立っていた。
 一人は二十歳くらいの女。美しい上に程よい色気もある。美しいがゆえに、深い群青の瞳に悲愴感が漂っていることが目を引く。連れはもっと年下だろう。あどけなさが残った表情。こちらも美しいが、やはり悲愴感に彩られた青い瞳。二人とも、質素な衣装に身を包み、飾り気がまるでないが、輝くばかりの美しさは隠しようがないと見える。
 二人は紫音の前で跪く。縋る瞳で彼を見上げ、囁いた。
「私たちは追われています、助けてください」
 言われた紫音は徐に動き、透の前の椅子に腰かける。手にした酒瓶を呷り、空いている手で胡散臭く前髪を掻き揚げた。彼の蒼い瞳が細められ、女たちを一瞥する。
 周りの連中はもう見てはいない。彼らのお祭り騒ぎは終わったのだ。折り重なった身の程知らずな酔っ払いたちを除いて、彼らは元の通り、自堕落な時間に身を任せていた。
「人にものを頼むにしては一方的な言い方だな」
 彼女たちは膝でにじり寄り、紫音との間合いを詰める。
「先ほどのあなたの戦い振りを見て決意しました。お願いです、私たちを助けてください」
「ただで助けろって言うのか? 説明もなしで。いい度胸じゃねえか」
 美しい顔が困惑で歪んだ。
「ここでは詳しいことはお話できません。……せめて今夜だけでも……この子だけでも、匿ってはいただけませんか?」
 女は俯く。質素な着物の袖で口元を押さえた。連れの女は――女というよりは少女だ――驚いた顔で年上の女に縋りつく。
「姉さん、何てことを」
 どうやら二人は姉妹らしい。妹は紫音を見上げて言った。
「お願い。私よりも姉さんを助けて。私は何とでもなる。だけど姉さんは……」
 最後までは言えなかった。姉が妹の口を塞いだのだ。
「お願いします。どうか、どうかこの子だけでも、あなた方の部屋に匿ってください」
 紫音は溜息を吐いた。全く、思いつめた女というものは……
「オヤジ、部屋をもう一つだ」
 そう言うと、彼は立ち上がった。
 
 
 目の前に女がいる。姉の方だ。何故かこうなってしまった。
 片方の部屋に透を運び、もう一方の部屋に姉妹を匿おうとしたら、姉の方が理由を説明するからと、紫音をこちらの部屋に連れてきた。その間、妹が透を介抱してくれると言う。
「説明してもらおうじゃねえか」
 寝台に腰をかける紫音の前に、姉は佇んでいる。俯いて苦しげに言葉を搾り出す。
「私たちの村では今、奇妙な事が起こっています。私たちは村を助けてくれる人を探し求め、ここまで何とか辿り着きました。でも、私たちにそうされては困る何者かが追って来ているのです。正体はわかりません。わかっているのは、捕まれば私たちは確実に殺されるということだけ。……こんなこと、お願いできる義理ではないことはわかっています。ですが、私たちは何とか村を元通りの姿に戻したいのです。どうかお願いです。私たちの村に来て、奇妙な出来事の原因を探ってはいただけないでしょうか?」
「ずうずうしいな。今夜だけ匿えばいいんじゃなかったのか」
 女の瞳が潤んでいた。
「ずうずうしいのは百も承知です。私たちには頼る者がありません。これ以上逃げるのもおそらく不可能でしょう。あなたを見込んで最後のお願いをしているのです。この機会を逃したら、私たちはもう……」
 思い余って流れる涙。言葉が途切れた。
「おまえたちの村は何処だ? ここからどっちの方角だ?」
 涙に濡れる姉の瞳が僅かに輝いた。
「私たちの村は婪嬌。ここから西へ、歩いて二日ほどです」
「西か……」
 紫音は考え込んだ。姉はそんな彼を黙って見つめる。彼の前に佇んだまま見つめ続けた。彼女の瞳に静かな希望が蠢いた。
「俺たちは急ぎの旅だ。それを中断させてまで寄り道させようってんだ。只とは言わんだろうな?」
 予想通りの言葉だ。そう彼女は思ったのだろう。用意していたらしい答えを躊躇いもなく告げた。
「私たちには差し上げられる金目の物はありません。あるのは唯、この身体のみ。それでよろしければ、あなたの自由にしてください」
「金の代わりに身を任せようって言うのか」
 彼女は目を伏せた。瞳の悲愴感は少々の希望などでは打ち消せない。強烈な心の葛藤の末、彼女の中の悲愴感がそれを言わせたのに違いなかった。
「見ず知らずの男に身体を任すのも、命を懸けるのも、同じってことか」
 はっとして顔を上げる。否定できず紫音を見つめる。固まったまま、佇んだまま、彼を凝視した。
「いいだろう。来い」
 紫音は短く言う。震えながら差し出された女の手を取った。
 
 
 眩しい。
 窓から滑り込んだ朝陽は、容赦なく透に平手打ちを食らわせた。堪らず寝返る。けれど眩しい。
 枕に顔を埋めようと手を伸ばす。思わず暖かいものに触れて目を開けた。
「あ?」
 手だ。どう見てもそれは手だろう。細っこい女の子みたいな手が枕から生えている。……違った。その手は枕を抱きかかえていた。ってことは……?
 恐る恐る寝具を捲る。そこには予想もしないものが転がっていた。
「〇×△□、◎▽♀……? ♀……!」
 透は跳ね起きた。そりゃあ、跳ね起きもするだろう。見たこともない可愛い女の子が、自分と同じ寝台に転がっているのを見れば。
「だ、だ、だ、誰だよ、君ぃ!」
 少女が目を開けた。愛くるしい顔で透を見上げてくる。綺麗な青い瞳、青味がかった黒い髪。白い手を透に絡ませてきた。
「ちょ、ちょっと、待って。あのさぁ、君……」
 はたと気づく。彼は上半身に何も着ていない。
「!!!……ま、まさか、僕、その……」
「そうよ。昨夜は素敵だったわ」
「――――― ♀……――――― !!!」
 鉄のハンマーで横殴りにでもされた気分だった。まるで覚えがない。まるっきり覚えがなくても、そんな行為に及べるものなのだろうか……
「ぼ、僕、どうしよう、まるっきり覚えてないんだ。見ず知らずの君にこんなこと……謝っても済むことじゃないけど、その、ゴメン……」
 真剣に謝る透に、彼女は目を丸くする。透の手を取り申し訳なく笑う。
「ごめんなさい、冗談よ。良く見て。あなた夕べ酔っ払っちゃって、苦しそうだったから上着を脱がせただけ。ね? 納得した?」
 確かに。透が裸なのは上半身だけだ。おまけに彼女はしっかりと着物に身を包んでいる。
 彼は深く息を吐く。安堵と僅かに失望の入り混じった溜息。そして気づく。この部屋には彼女と二人っきり。紫音はいったい何処へ行ったのだろう。
「えっと、僕の連れを知らない? 髪が腰まである背の高い男の人なんだけど」
 彼女は起き上がり、透の腕に腕を絡ませながら、にっこりと笑う。
「彼なら隣の部屋で姉さんと一緒。彼は酔っ払ってなかったから姉さんと無事に一晩過ごせたはずだわ」
 何ぃ―――――――――― ?!!!!!
 透は寝台を飛び降りた。上着を引っ掴むと部屋を飛び出した。少女も後に続く。
 隣の部屋。飛び出した部屋の片側は下へ続く階段。ということは隣は一つ。上着を羽織りながら目星の部屋に飛び込む。
「紫音!」
 瞳に殴り込んで来た光景に仰天した。目のやり場に困って振り返ると、今度は後を追ってきた少女とぶつかる。
「な、な、な、なん……」
 少女は部屋に入ろうとしているのだ。透ごと身体を押し込み、開け放たれた扉を閉じた。
「おい、部屋に入るならノックぐらいしろよ」
 紫音の声。思い切って振り返る。
 やはり見間違いでも幻でもなかった。紫音は寝台の上に半分身を起こし、裸の胸に女を抱いていた。
「ど、ど、どういうことだよぉ……?」
 赤い顔で俯く。とても直視はできなかった。
「夕べ酒場でコイツらを拾ったんだ。俺たちに助けて欲しいんだと。これはその報酬だ」
「報酬?」
 隣に立つ少女を見つめる。少女も透に視線を返してきた。
 それまで紫音の腕の中で固く目を閉じていた女が起き上がり、少女に言葉をかける。
「憐花、あなたもその方に報酬を受け取っていただいたの?」
 寝具を胸に掻き寄せ、紫音に寄り添い、斜に構えてこちらを見据える女は、ひどく美しかった。
「だめよ。だって彼ったら酔っ払って正体不明に眠っちゃって、それどころじゃなかったのだもの。起きていれば、いい思いをさせてあげたのにねえ」
 そう言うと、透の身体に手を絡ませてきた。そんなあどけない顔をして、慣れた手つきで男に触れてくるなんて……。
 いたたまれなくなった。だから、部屋を出ようと扉に手をかけた。
「待て」
 反射的に固まる。その時には既に、彼らは身支度を始めていた。見てはいないが衣擦れの音がする。
「お嬢ちゃん、そういうセリフは男を知ってから言いな。男を知りもしないで擦れたことを言うもんじゃねえ」
 すぐ側で紫音の声がした。振り返るといつの間にか、彼らの身支度はすっかり整っていた。
 透のすぐ隣で、憐花と呼ばれた少女が真っ赤な顔をして俯く。紫音の言葉が的を射ていたのだろう。透が一瞬感じたよりも、彼女はずっと純情な少女なのだと知った。
「透、今からコイツらの村に行く。その村では今、とんでもない事が起こっているそうだ。詳しい話は道すがら蘭媚が話してくれる。もたもたするな、おまえも早く仕度をして来い」
「……って、なんでそんなこと勝手に決めるんだよ。僕たちには他にやらなきゃならない事があるのに」
「心配するな、通り道だ。俺たちは西へ向かう」
「西? 夢幻林の方角?」
「そうだ。何のこたぁない、通り道で少々厄介事を引っかけただけだ。わかったか? わかったらさっさと仕度をしろ。二日掛かりの旅だ。ぐずぐずはしてられねえ。すぐに出発するぞ」
 紫音は有無を言わせない。
 部屋に戻ってわたわたと仕度を済ませる。宿の一階は夕べの酒場だ。白く朦朧とした空間は、今朝は跡形もない。開け放たれた扉から風が吹き渡った。
 紫音は姉妹と表で待っていた。
 寝乱れた格好でない姉の姿は、生真面目で何処か悲愴感が漂っている。気丈で快活に見えた妹も、やはり同じように悲愴な気配を纏っていた。彼女たちの村で起こった出来事。それが、彼女たちに暗い影を落としていることは間違いない。
 紫音は地図を広げていた。彼女たちの村が、彼らの目的地とどのくらいの距離があるのか、確認しているのだ。
「大したことは、なさそうだな」
 思いの外、目的地に近づけるようだ。
「それじゃ行くか、婪嬌へ。そこまでは案内人もいることだし、苦労はないだろう」
 彼は姉と並んで歩き出した。
【艶乱の沼へ】へ続く
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