たいはいへ 退廃へ |
麓が霧で翳む天烽山。その頂上に精神鍛錬道場はある。 寺院張りの建物には山門があり、そこに至るまでの石段で先に気づいたのは透だ。 「結界……?」 彼には有り有りと見えた。 紫音には見えていない。が、気配は感じ取れた。 「ここか?」 紫音が触れると結界がスパークして消滅した。 今までの彼とは明らかに違う。結界を消滅させるだけの力しか放出しなかった。 「お見事」 石段の天辺で仁王立ちになっている天烽山の主。腕を組み、厳しく見据えるその瞳は、彼らの変化に満足したと見える。 「思いの外、早かったわね」 「当たり前だ。急いでたんだろうが」 言い放つ紫音の言葉に彼女は微笑む。 「残念だわ。暫くその口調が聞けなくなるなんて」 「俺はせいせいするがな。あの軟弱な連中と離れられて」 「ふふふ、ご挨拶ね。でも確かにそうかも知れない。彼らにも少しはあなたを見習わせる事にするわ」 倫明は身体を山門に向け、彼らを顎で促す。 「その足で旅に出るのもなんだから、仕度ができるまで道場で待っていなさい」 先に立って山門をくぐった。 「仕度?」 透と紫音も後に続く。 「心現界の外に出るなら、それなりの準備は必要よ。今、側の者に仕度をさせているから詳しい話は道場でするわ」 そう言うと、彼女はもう振り返りもせず、すたすたと道場の入口を目指した。 「心現界の外って……導師に逢うのは心現界でじゃないのかな?」 「さあな。俺たちはそれほど心現界のことを知っているわけじゃねえ。爺さんの言う通り、アイツしか俺たちの導師の居場所を知らないなら、アイツに従うしかねえだろ」 小声で言葉を交し、彼女の後を追う。 道場には人影がなかった。おそらく倫明が人払いをしておいたのだろう。師範の席の脇に、ちょこんと小さな人影だけが見受けられた。 「アズ。随分早業だこと」 倫明が感嘆の声を上げる。 「お師匠様の命とあれば」 甲高い子供の声。 アズと呼ばれた人影は、倫明よりも少し年下の少年。くるくると小気味のいい褐色の巻毛、人懐っこい褐色の瞳。肌の色まで褐色でツヤツヤと健康的に光っている。こう見えても彼女の身の回りを司る側近中の側近。幼い姿はやはり姿だけだ。 彼の名前はアズマールと言う。だが本当は、アブドル・アズマール・アルハンブラ・チェズニーという、恐ろしく長ったらしい名前がある。誰も彼をきちんとした名前では呼ばない。せいぜいアズマールと呼ぶくらい。師匠の倫明でさえ、それを略して《アズ》としか呼ばないのだ。 「アズ、首尾は?」 「はい。この通り」 打てば響く軽快な返事。アズマールは倫明の質問に、常に間髪を入れずに答える。 彼が指し示す物を見遣ると真新しい布袋が二つ。それほど大きな物でもない。透が学校に行くのに使っていたカバンと、余り変わらないくらいだ。 「アズ、例の物は?」 「はい。ここに」 小さな盆に乗せられた小さな布袋。それを手に取り中を確かめる。 「これだけあれば充分ね」 倫明は袋の口を締めると盆の上に戻す。目配せでアズマールに合図を送った。 それを受けてアズマールが進み出る。無言で紫音に盆を捧げた。長身の相手に物を渡そうと思えば、小さな身体では捧げる形になってしまう。 「何だ?」 「あなたたちがこれから行く世界の通貨よ」 紫音は袋を手に取る。大きさの割にずしりと重い。口を緩めると金色の光が漏れ出した。 「金貨か?」 「そう。その金貨が通用する世界では、それ一つで軽く一年は暮らせるわね。庶民の話だけど」 袋の中には、そういう庶民の大金が二十個ほど唸っていた。 「通貨が必要だってことは、今日明日中に戻れるって次元の話じゃないな?」 「長旅になるでしょうね。途中で黒の門番にも会えるでしょうし。彼女は既にその世界に旅立ったはずよ」 透と紫音は顔を見合わせた。彼らが向かうのと同じ世界にプシケはいる。彼女の目的はそこにあるのだろうか。 「僕らがこれから行く世界って、いったいどんなトコロなんですか? 導師って人に逢うためにそこに行けばいいんでしょうか?」 それまで突っ立っていた倫明は、徐に動き、師範の席に腰かける。道場より一段高くなった段上に、背凭れのある木の椅子が置いてあった。そこが師範の席。そこから弟子たちの一部始終を見守るのだ。 彼女は目で合図をする。座れと言うことだ。透たちは稽古の前にいつもするように足を組んで座った。 「あなたたちがこれから行く世界は、その名も《退廃》。アグスティという名を持ってはいるけれど、それがこの世界では退廃を意味するようになったのは、そう古い昔でもないらしいわ。何故そう呼ばれるのかはわからない。だけど、そんな気風が世界の至るところに溢れている事は確かなのよ。どうしようもなく荒んで乱れた気風……。導師はあなたたちを試すために、そこに招いたのに違いないわ」 倫明が再びアズマールに目配せをする。アズマールは即座に動いた。透と紫音の膝の前に、先ほど指し示していた布袋を置く。 「世界と同じ名を持つ町が西にある。でも、あなたたちが向かうのはそこではないわ。東の町があなたたちの出発点よ。極東から西へ向かい、夢幻林の中心にある《真の塔》が目的地。そこで導師があなたたちを待っている。《真の塔》に辿り着く前に、きっとあなたたちには様々な事が降りかかるわ。それは全て、導師があなたたちに与えた試練だと思いなさい。難事にどう対処するかで、あなたたちの道は決められるのよ」 そして、彼らの前の布袋を指差し、 「そこには必要最低限の物を用意しておいたわ。暫時の食料や薬や地図などは必要でしょう。それ以外の物は先ほど渡した金貨で以って、自分たちで何とか調達しなさい。それから……」 言い終わると、更にアズマールに目配せをする。彼は倫明が合図する前から、何を要求されているのかわかっているようだ。既に奥に向かい、問題の物を用意して待っていた。彼女の目配せと同時にそれらの品を紫音の前に置く。 「紫音、あなたから預からせていただいた武器よ。よくもこんな物騒な物を揃えたわね。でも、身を守るためには必要不可欠だわ。特にこれから行く世界ではね」 「余計なお世話だ」 仏頂面でそう言うと、紫音は突然立ち上がった。いきなり帯を解き、上衣を脱ぐ。あれよあれよと言う間に、腕や足や胸や体中の至るところに隠し武器を装着した。それから再び上衣を羽織り、帯を結ぶ。愛用のレーザー銃だけは肩に担いで、先ほどと同じく床に座った。 「透にはこれを」 側まで来て倫明自ら手渡したのは、飾り袋に納められた懐剣。小振りだが透にだって扱えそうだ。 透は狐につままれた顔でそれを受け取る。その様子を横目で見ながら、倫明は二人の前に正座した。 「重要な事を言うわ。アグスティでは私たちが使う精神の力は認められていない。攻撃にしろ防御にしろ、他の見ている前でうっかり力を使うと魔物扱いは必須。つまりは物理的な力に頼らざるを得ないという事よ。紫音は問題ないでしょう。おまけにそれだけ武器を装備していればね。でも透は気をつけなさい。ただでさえ、あなたは滅多な事では他を傷つけられない。瞬時に相手を見抜き、敵か味方か判断できなければアグスティでは生き残れない。躊躇は無用の長物よ」 透は困惑した。困惑した眼差しで紫音を見つめる。 紫音も透を見つめていた。その視線がはっきりと語っている――「おまえは俺が守る」と。 安堵と共に不可思議な失望も感じていた。いつかはきっと、己を守るために、恨みも何もない人間を傷つけなければならない……そんな予感めいたものを。 「あなたたちが導師と巡り会うまでのプロセスで、自ずと役割は決められる。その役割を果たす為の力を導き出すのは導師の技。覚醒し、力を制御する事を覚えても、あなたたちはまだまだ不完全でしかない。導師だけが、あなたたちの力を完全に導き出す事ができるのよ。……行きなさい、退廃へ。そしてあなたたちは導師に導かれ、自分たちの有るべき姿を取り戻すのよ」 倫明は立ち上がる。短くアズマールに声をかけた。 「アズ」 「はい」 師弟はそれだけで、次の指示を与え、受けている。 「彼があなたたちを黒の門までお送りするわ。彼は私の有能な右腕。信じるに価する存在よ」 その言葉に照れもせず、アズマールは二人を促す。旅立ちの時が来たようだ。 彼らは立ち上がる。足元の袋を手に取った。 「お別れは言わないわ。お互い心現界に関わる者。時間も空間も超越しているのだから。どんなに遠く離れていても、意思の疎通は図れるものよ」 そうは言うものの、透は言わずにはいれなかった。 「倫明さん、お元気で」 「透、今度は間違えなかったわね」 透はまたバツの悪い顔をした。それを見て倫明は笑う。 「俺たちが出かけている間に、少しは弟子どもを何とかしろよ」 「肝に命じておくわ」 楽しそうに倫明は笑う。 彼らは満足して振り返る。先に立つアズマールの姿を追う。そして、暫くの間世話になった道場を――天烽山を後にした。 山門を抜け、石段の下で、アズマールは突然口笛を吹いた。その短い口笛に呼ばれてやって来たのは真っ黒な馬。背中から翼が生えている。真っ黒な馬の後から真っ赤な馬。こちらも翼が生えていた。 「兄ちゃんたち、これに乗って」 真っ赤な馬の手綱を引き、紫音に託す。自分は真っ黒な馬に飛び乗った。 「一気に山を降りるよ」 紫音が透を助け上げ、二人が首尾よく馬に乗り込むのを見て、アズマールは手綱を引いた。 黒い馬が疾風の如く空を駈ける。赤い馬は引かれるように黒い馬の後を追った。黒い疾風と赤い疾風は決して離れることなく間合いを取り、勢いを増して駆け抜けていく。景色は飛び去り、天烽山が遠ざかる。その速度は如何なものか。瞬く間に地上を目指し、天烽山の麓に広がる砂漠に降り立ったのは、ほんの数分のことにすら思えた。 「着いたよ。黒の門番はここに空間の歪みを作っていったんだ。それを倫明様が誰にも気づかれないよう封じていらっしゃる。兄ちゃんたちが通り抜ければ、ここは消滅して何もなくなる。兄ちゃんたちしかここを通れないんだ」 彼が指差す場所には何もない。少なくとも目には見えない。だが、そこには紛れもなく空間の歪みが在る。透たちが外の世界に出るために、プシケが用意したものに他ならない。倫明はそれを精神の力で閉じている。一時的にそれを開き、彼らが通ると永遠に封鎖するのだろう。 「兄ちゃんたちにお願いがあるんだ」 アズマールがおずおずと言い出した。 「何だい?」 透は、先に馬を飛び降りたアズマールに倣って、馬の背からずり落ちながら訊く。 「今度、天烽山に戻って来たら、倫明様に言って欲しいんだ。僕も旅に出させて貰えるようにって」 透は小さな少年を凝視した。余り穴が開くほど見つめてしまったので、少年が思わず目を逸らす。 「君は旅をしたいのかい?」 透に視線を戻し、アズマールは首を振った。 「そうじゃない。僕は自分の故郷を知らないんだ」 溜息。一度俯いてまた顔を上げる。 「僕は生まれてすぐここに連れて来られたんだ。何処かの国の王子だって事はわかってるんだけど、何かがあって姥やが僕を連れて逃げたんだ。ここに辿り着けたのは倫明様のお陰だよ。倫明様が僕を導いてくださった。だから倫明様には深い恩義があって、感謝しても余りあるお方なんだよ。……僕は生まれた国の地位には身に覚えがないから執着なんてしない。でも、生まれた国がどんなところか、まるで知らないのが少し辛い。自分の生まれた国を知りたい、見てみたい。それだけなんだけどね」 透は深く頷く。アズマールは倫明の前でなければ、随分饒舌な少年だ。 「倫明様は、何故だか僕をお側から離してくださらない。でもいつかお許しをいただけたら、故郷の国を見に行きたい。兄ちゃんたちなら倫明さまの信頼も厚いし、お願いされたら嫌とはおっしゃらないと思う。そしたら僕は姥やを連れて、生まれた国に戻ってみようと思うんだ。それから、父さんと母さんと爺ちゃんを探してみようと思う。姥やの話だと生きているのか死んでいるのかわからないんだけど」 「生き別れたの?」 アズマールの心中を察して透は息苦しさを覚えた。少年は頷き、先を続ける。 「僕は父さんたちを姥やの話でしか知らない。身近なのかどうかさえわからないけど、僕の血縁である事は確かなんだ。……僕の名前知ってる? アブドル・アズマール・アルハンブラ・チェズニー……アブドルは爺ちゃんの名前、アズマールは父さんの名前、アルハンブラは母さんの名前、チェズニーは国の名前。僕は今、父さんの名前で呼ばれてるんだよ。だからね、僕にこの名前を残してくれた人たちの姿を、追ってみたいんだ……ううん、追わなければならないと思ってる。それが息子として、孫として、最低限できる事だと思うから。」 透はまた深く頷いた。アズマールの決意がひしひしと伝わってくる。感心を篭めて少年を見つめる彼の瞳に、しかし、少しずつ憐れみの色が浮かび始めた。 それまで赤い馬の手綱を握っていた紫音が、アズマールに言う。 「坊主、それだけの決意を人に言うなら甘ったれてちゃダメだぞ。倫明はおまえの師匠だろうが。自分の師匠に物を頼むのに他人の力を借りる必要はない。おまえのそれだけの決意を知ればアイツだって嫌とは言わんだろう。それでも側から離してくれないなら、それなりの訳があるんだろうさ」 少年は、今しがた目が覚めたとでも言う顔で、 「大丈夫かな? 僕が言い出しても倫明様は恩知らずとか思わないかな?」 と、僅かに声を曇らせた。 「アイツを誰だと思ってる? 天烽山の祥・倫明だぞ。そんなちっぽけなことで遺恨を感じる玉じゃねえ」 「兄ちゃんこそ倫明様を誰だと思ってるのさ。泣く子も黙る祥・倫明様だよ。敵には容赦はしないけど、弟子には篤いお方なんだ。そんな失礼な言葉は許されないよ」 紫音はにやりと笑った。 「ほら見ろ。おまえの方がアイツをわかってるじゃねえか。だったらウダウダ考えてないで、さっさとお願い事をしてみろよ」 突然、少年が朗らかに笑う。今までにない快活な声で言った。 「そっか! 兄ちゃんの言う通りだ。結局は考えてるだけじゃ何も起こらないんだ。わかった。僕、倫明様にお願いしてみるよ。それで、もしお許しがいただけたなら、兄ちゃんたち、いつか僕と旅をしておくれよ」 透が躊躇って何も言わないのを感じ取り、紫音が答えた。 「生きて戻って来れたらな」 「大丈夫。兄ちゃんたちなら心配ない。僕が保証するよ」 とは、根拠があっての言葉だろうか。 「兄ちゃんたち、ここから先はもうアグスティだよ。この道は東の都・遊天に繋がってる。くれぐれも気をつけて行ってきて。それから、約束忘れないでよ。生きて戻って来れたら僕と旅をしてくれるんでしょ? 僕、待ってるから。兄ちゃんたちのお陰で倫明様にぶつかる勇気が出てきたんだ。お許しがいただけるまで何度でもお願いしてみるよ」 アズマールが手を翳すと空間が目に見えて歪み、砂漠の陽炎の如くゆらりと眼前に道が広がった。その道の向こうは、もう退廃の世界―― 「ねえ、あまり焦るコトはないよ。ゆっくりと説得すればいいから」 少し躊躇いがちにアズマールに言葉をかける。 「焦らないよ。今までだって随分長い間、迷ってきた事だから」 透はほっとして、アズマールの肩に手を置いた。 「今度ここに戻って来たら、僕たちもお願いしてみるからね」 「頼むよ、兄ちゃん」 少年が茶目っ気たっぷりに片目をつぶって見せる。 「坊主、自分を信じろ。間違っても諦めるなよ」 「任せて、兄ちゃん」 少年が朗らかな笑顔で手を振った。 「ほら、遊天が見えてきた! 僕、兄ちゃんたちの帰りを待ってるからね。気をつけて行ってきて、退廃へ……」 彼らは空間の歪みに身を滑り込ませた。アズマールの声を背に聞きながら。 【婪嬌村へ】へ続く
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