てんぽうざんへ
天烽山へ
西へ…東へ…ロゴ
 ウンザリする。
 ウンザリするほど入れ代り立ち代り、過去の幻影が怨み言を言いにやって来る。
 生きている限り彼らを反芻しなければならない宿命。そんなものは遥か昔から受け入れている。逃れられないことを知っている。逃げてはならないこともわかっている。だから、今さら改めて血を流す必要もないのに。
 闇の底辺には思いの外、死人が蠢いているようだ。紫音が殺した者、彼の目の前で死んだ者。或る者は恨みに満ちた声で紫音を詰り、或る者は泣き言を言いながら縋りついた。
 紫音は彼らを受け入れる。彼らの声を聞いては血を流す。彼らが死人となったその時から、時々振り返り、繰り返し行われていた事。こんなに一度に束になって来られたのは初めてだったが。
『紫音ってイヤ。血の匂いがするわ』
 クリスの声だ。頭の中に、直接響いて聞こえる声。
 多元空間で透と紫音に助けを求めてきた石の精。無垢なる魂を持つ、心現界で生まれた聖なるもの。クリスの願いもあって彼らは共に旅をしていたのだ。
 無垢な魂は無垢な者に惹かれるのか、透を誰よりも慕っていた。今は彼らの修行の妨げにならないよう、プシケのもとにいるはずだ。
『生臭くて……ああ、頭がくらくらするわ』
 泉にクリスの姿が映し出される。淡いピンク色を帯びた、クリスタルの如く輝く半透明の本体。小さな動物めいた形。精は見るものによって形を変えるが、これは透が見ている形と同じ。クリスの願望が形となって固定されているのだ。
『私は聖なる魂の象徴。血生臭いドロドロしたものとは相反する存在よ。ああ、あなたといると魔の気に当てられてしまうわ。もう耐えられない! もう紫音と旅をするのは絶対にイヤよ! 私には透がいるわ。透がいれば充分よ。だから紫音なんか、さっさと何処へでも消えちゃってよ!』
 クリスは忌々しく言葉を吐き捨てた。その身を激しく震わせている。
「よせよ」
 静かな声だ。
「クリスが本当にそう思っているなら、最初から俺に助けを求めたりはしなかった。聖なる魂はその心も正直だ。クリスはいつも、心のままに俺と接していたんだぞ」
 泉のクリスが光を失う。
「クリスは透の精神と波長が一致している。それは俺とも波長が一致しているのと同じことなんだ」
 石の精は萎んで消えた。
「全く……何処までも、陳腐な手を使いやがるぜ……」
 紫音は目を閉じ、再び瞑想に入ろうとした。だが、飽くまでも邪魔をしたいらしい。纏わりつく幻たち。
「紫音……」
 また少女の声。しかも、黒の門番の声だ。
「余りある力は時には人を暴走させるわ。あなたもそうね、紫音。あなたの力はいつ暴走するかわからない。暴走した力は全ての世界に影響を及ぼすわ。私はそうなる前に、あなたを封じないといけないわね」
 そう言って、強く彼を見据えた。
「それで?」
 プシケは微動だにしない。
「それで俺をどうしたい?」
 闇の泉は答えない。
「答えられないだろうな。おまえは本当のプシケを知らないんだろうからな。言っとくがな、俺たちに力を制御することを覚えさせ、共に旅することを望んでいるのはプシケなんだぞ。アイツが俺を封じたいはずがない」
 水面が歪む。揺れる。苦しいのか悔しいのか、泉の中でプシケが歪む。歪みは闇に包まれ、その姿を変える。そして現れたのは透だった。
「透……」
 思わず呼びかける紫音の声に、透は不機嫌に冷たく答える。
「いい加減にしてくれよ紫音。これ以上、うざったい説教をされるのはゴメンなんだ」
 透は腕を組み、憎々しげに言葉を繋ぐ。
「大体さぁ、良く考えてみてよ。僕は平和な国で平穏無事に暮らしてたんだ。突然、変な空間に紛れ込んだからって、そんな急に生き方なんて変えられるもんか。あんたがどんな世界に生きてたかなんて僕の知ったコトじゃない。それなのに、自分の生き方を押しつけるなんて横暴も甚だしいよ。そういうの考えたコトある? あんた、僕の気持ちなんてわかっちゃいないだろ」
 沈黙が辺りを支配した。
「あんた人殺しだから、そんな無慈悲なコトが平気でできるんだよ。人を殴り飛ばすのだって、あんたには簡単そうだもんな。僕には理解できないよ。殴られた方は堪ったもんじゃない。あんたは殴る方だから、そんな痛みわかるわけないか。……やっぱりあんたは人殺しなんだよ。それも筋金入りの人殺しだ。目的のためには手段を選ばない、魂の汚れきった人間なんだよ」
「阿呆ぅ!」
 堪りかねた一喝だ。
「いい加減にしろよ、おい。誰を騙っても許してやるが、透を騙ることだけは許せねえ!」
 泉の中の透が揺れ始めた。
「透はな、俺の境遇を知って涙した。この血塗れの手を取って一緒に苦しんだんだ。傷だらけの俺とおまえを、アイツは癒してくれる唯一の存在なんだぞ。それを貶めていいはずがない」
 闇が水面を包む。
「もう諦めろよ。俺を苦しめてるつもりで、苦しんでるのはおまえの方なんだ。いい加減で気がつけよ。おまえは俺の一部だが、俺はおまえの一部じゃねえ。おまえが俺に取って代わろうなんて無駄なことだ」
 水面が揺らぐ、波紋が広がる。歪む映像に薄蒼い光が宿った。
 その中で、ぼんやりと姿を現す一つの人影。それはもう一人の紫音。傷だらけで血塗れな、闇の中の紫音。
『俺は嫌だ、もう嫌なんだ。闇の中で、血に染まり続けるのはもうウンザリだ』
 頭を抱え、呻く。
「おまえの気持ちは痛いほど良くわかる。おまえは俺なんだからな。忘れるなよ。俺はいつでもおまえを見ていた。おまえが血に染まり苦しんでいる様を俺は見続けてきた。俺とおまえはいつも隣り合わせに生きているんだからな。わかってるだろ? おまえが呼んだ時、いつも俺は振り返っていただろ? 俺がおまえを見捨てたりはしないってこと、おまえが一番良くわかってるはずじゃねえか」
『そりゃあ、わかってるさ。だが、俺は一度でいいから心の底から安心して眠りたい。もう血の匂いの中で眠るなんざ、ウンザリなんだよ』
「そうだな。もうこれ以上、血だらけになる必要はない。……おまえは俺の弱い心だ。傷つき易い、どうしようもなく弱い部分だ。だが、おまえに俺が必要なように、俺にはおまえが必要なんだ。俺におまえを捨てられるわけがない。……おまえは痛みを知っている。苦しみを知っている。自分が痛みを知らなければ他人の痛みなどわかるはずがないだろうが。だからこそ、おまえは必要なんだぞ。無駄に血を流してるわけじゃねえんだ」
 泉の紫音が曇った顔を向けた。その縋る視線が紫音自身を捉えていた。
「もう終わりにしよう。今まで散々血を流してきたんだ。時には安らいで眠りに就きたいよな、確かに。黒々とした俺の魂を、透が変えてくれた。もうおまえだって安らいで眠れるだろうよ。だから、安心して眠れよ。俺がここにいるから。俺が見ていてやるから、おまえの側で……」
 薄蒼い光に包まれ、もう一人の紫音が笑った。僅かな笑いは歪みに変わり、水面が波立ち、闇に包まれる。闇の中から声がした。
『俺は……やっと……安心して眠れるんだな……? もう、血の匂いに辟易することも、ねえんだな……』
 泉の底で何かが煌いた。それは俄かに上へ昇ってくる。そして突如、泉から迸った。
 溢れ出る薄蒼い光。目を射る激しい輝き。思わず目を閉じる。視力を庇うように瞼に腕をやる。徐々に光は弱まる。弱まる光を捉えるために目を開けた。
 光の尻尾が何処か別の空間に逃げ込む。そこはもう、闇が元の景色を取り戻していた。
 迷想の泉。
 紫音はふらりと立ち上がる。封鬼老師に連れられた道を逆に辿る。程なく、光の間に到着した。
 相変わらず老師はど真ん中の一枚岩に座り込んでいた。目はやはり閉じたままで。
「老師。透は?」
 静かに首を振る。
「まだじゃ。拙い事に、光が弱まっておる」
 紫音の背筋を、冷たいものが通り過ぎた。
 
 
 心が萎縮する。
 入れ代り立ち代り現れる幻影は、悉く、透の心を踏み躙っていった。
 土足で心を踏み荒らされるなど、今まで経験したことはない。適当に人と付き合い、誰に対しても付き合い易い人間でいようとした。なあなあで、人の心を見縊っていた、これがそのしっぺ返しか。
 現れる幻影の大半は友人たちや学校の教師。父と母も繰り返し現れる。
 誰もが言う。何度も言う。要領よく人付き合いをしてきたつもりだろうが、本当は誰もが皆、おまえを利用していただけなのだと。都合がいいから付き合っていたに過ぎないと。
 そして誰もが繰り返した。
 もう、おまえは必要じゃない。別に特に必要でもなかった。いいや、最初から必要ではなかったのだと。
 誰からも必要とされない存在――透が一番怖れていたこと。
 心が引き裂かれる。百にも千にも細切れにされる。誰からも必要とされない。自分の存在理由も存在価値も、人から必要とされなければ何処にもない。では、何のために生きているのか。
 透の瞳から苦しみと空しさが溢れ出ていく。膝を抱え、膝に顔を埋めて咽び泣いた。
 空虚が心を支配する。ぽっかりと大穴を空けていく。そこには何もない、誰もいない。信じるものが何一つない。
 けれど、それは訣別した過去の遺物。透にはまだ前に広がる道があったはず。そこに信じるものがあったはず。それは何処だ? どっちに向かえばそれに辿り着ける?
『透……』
 不意にクリスの声がした。
 クリスだ。そう、クリスがいる。あんなに透を慕ってくれるクリスがいるではないか。ここに来る前に、一度は心現界に迎えられようとしながら、透のもとに残ってくれた心優しき石の精。無垢な精神で惹き合う、聖なる魂の象徴。
『情けない……軟弱よね、透は』
 じわりと心に氷の刃が刺さる。
『あ〜あ、ヤダヤダ。透といると陰気臭くてしようがないわ。男のくせにそんなにメソメソ泣いちゃってさ! ホント、やになっちゃう。紫音の方がよっぽど頼りになっていいわよ。彼は透よりずっと強いし、精神の力も半端じゃないもの。私、これからは紫音と一緒にいることにするわ。透といると、暗鬱な気持ちに飲み込まれて、魔に毒されそうで嫌だものね』
 クリスまで! クリスまでが透の心を踏み躙るのか!
 信じるものが根底から崩れ去る。足元の地面がガラスの如く砕け散った。心の空虚がますます大穴を空ける。このままだと、いつか大穴に飲み込まれてしまうだろう。
 透は肩で息をした。息苦しくてしようがない。心臓が波打っている。残念ながらまだ命を主張している。いっそのこと、何もかもが停まってしまえばいいのに……
「透……」
「プシケ……」
 泉の中にいるのは黒の門番。その瞳は軽蔑に満ちていた。
「あなたのその心の弱さは、心現界を駄目にする。そんな風じゃ使いものにはならないわ。心現界も、たまには人を見損なうのかも知れないわね。あなたはもう私には必要ではないわ。私には紫音がいる。彼さえいれば、あなたの何倍も私の役に立ってくれるもの」
 そう言って、薄笑った。
 何故―― !
 固く目を閉じる。もう何も見るまい。何も聞くまい。そう思った。だが、幻の気配は容赦なく蠢き、音は耳に強引に侵入して来るのだ。
 もういい、もうわかった。僕は誰からも必要とされてない。僕の存在理由は何処にもない。僕には生きる資格すらないんだ……心が闇に引き摺られていく。
「だからおまえはガキだと言うんだ」
 紫音――
 ついまた目を開けてしまった。
 泉の中の紫音。冷ややかに透を見据えている。
「全く……おまえってヤツぁ、どうしようもねえガキだ。どうやら俺の見込み違いだったな」
 心が締め付けられ、軋んだ。
「いい加減おまえの守りから解放されたいぜ。俺はわざわざ心現界まで子守りに来たわけじゃねえからな。何だっておまえみたいなガキを押しつけられなきゃならなかったんだ。そもそもそこからが俺の不運の始まりだな」
 無言のまま泉を見つめた。紫音は言葉を放つのを止めない。
「おまえみたいな甘ちゃんはなぁ、すぐ人に騙されて散々利用されて、都合が悪くなったら速攻で裏切られるのさ。おまけにおまえは、裏切られたことも自覚できねえボンクラ野郎ときてるからな。おまえなんかと一緒にいると、こっちまで、とばっちりを受けちまう。ウンザリなんだよ。おまえにくっついて来られると、うぜぇんだよ。金輪際、俺のケツを追いかけ回すのはやめろ!」
「嘘だ……」
 最後に信じた者までが、簡単に透を突き放す。紫音だけはと信じていたのに、それすら、透の思い通りにはならなかった。
 透の頬を涙が伝う。水面に零れ落ちた。紫音の姿がゆらゆらと揺れる。
 その瞬間、唐突に悟った。
 紫音がそんなことを言うはずがない。紫音にそんなことが言えるはずがないのだ。何故なら、精神の波長が透と一致しているから。透を誰よりも理解しているのは紫音だからだ。
 泉を覗き込む。ゆらゆらとした紫音の映像が元の形を取り戻そうとしている。が、奥の、奥の、底の方に、何かが蠢くのを見た。
 急速に冷めた。そして何もかも気づいた。
 これは仕組まれた事。そしてそれを仕組んだ者が誰かも、今、はっきりとした。
「おまえは紫音じゃない」
 闇の淵で何かがぞろりと動いた。
「紫音はそんなコト、言わないよ。紫音は僕を誰よりも理解してくれてるからね」
 闇が沈黙している。
「残念だね、僕を騙し切れなくて。紫音を担ぎ出さなきゃ僕を騙し切れたんだろうけどね。でももう遅いよ。僕は気づいてしまったんだ。出て来いよ。もうコソコソ隠れるのは止めにしろよ」
 水面が波立ち、紫音の映像を乱した。揺れる波の中で紫音は形を変える。そして徐々に本性を現し始めた。朧げな橙の光を帯びて現れた姿。それは誰でもない透自身。透の中の、闇の透。
『おまえはいつでもウジウジ悩んでるくせに。僕を責めるような目で見るのは止めろよ』
 疎ましく透を見つめる。
「ウジウジしてるのはおまえだろ。僕の弱い心、迷いの心。だけどおまえは不必要な存在なんかじゃない。僕にとっては必要な存在なんだ」
『綺麗事だろ。誤魔化そうったってダメだ』
 刹那。透と闇の透は見つめ合う。もう一人の透に向かって静かに言葉をかける。
「綺麗事かどうかはわからない。でも僕は思うんだ。迷いのない人間なんて何処にもいない。少しくらいは誰でも迷いを持っているもんだろ。人生、順風満帆に行くコトの方が疑わしいよ。それに人生、何処かに必ず分岐点があるもんだよ。そんな時、何一つ迷わずに決めてしまうなんて恐いじゃないか。それで間違ったものを選択して、取り返しがつかなくなるコトもあるかも知れない。そして後悔するんだ。どうしてあの時もっと落ち着いて考えられなかったのかってね。おまえがいればそんなコトもないよ。必要な時には必要なだけ、迷わなければならないって、僕は思うんだ」
 もう一人の透は眉を顰めながら反論する。
『だからって、迷ってばっかりじゃ何にもならないだろ。迷って迷って迷い疲れて、結局何もできないんだ』
「それはしようがないよ。それがおまえなんだから。おまえは自分の役割をちゃんと果たしてるじゃないか。おまえは迷って迷って、でも結論を出すのは僕だ。だってそうだろ? おまえは僕の一部だけど、僕はおまえの一部じゃないんだからさ。おまえは何も決める必要はないんだよ」
 苦痛に顔を歪め、闇の透は言った。
『僕はもう迷うのが嫌なんだ。迷うのに疲れたんだよ。恐いんだ。迷い疲れて後ろ向きになるのが恐いんだよ!』
「バカだな。後ろ向きになんてなるはずがない。僕とおまえは早坂透という一人の人間なんだ。僕がいる限り、後ろ向きになんかさせない。……それでも恐いなら眠るといいよ。未来の夢を見て眠るんだ。僕が迷いを必要とした時に、目を覚ましてくれればいいから。……眠るといいよ。僕はここにいる、おまえの側にいるから……」
 水面が俄かに揺れ出した。橙の光の中でもう一人の透が、泣いているのか笑っているのかわからない表情をしている。闇が訪れ、包み込む。闇の底で、安堵の声が響いた。
『僕は必要とされてるんだね……? 良かった……僕も、誰かの役に立てるんだな……』
 闇の深淵で何かが煌いた。やがて強烈な光となり泉の縁を目指してくる。息を呑む間もなく、いきなり淵から溢れ出た。
 迸る橙の光。目を閉じても瞼を突き抜けてくる激しい輝き。透は目を覆う。両手で懸命に目を庇った。少しずつ光は弱まり、瞼の裏から橙の光が薄まる。
 光の正体を捕えようと目を開けた。そこはもう、闇の空間が元の景色を取り戻していた。
 迷想の泉。
「僕は……戻って来れたのか……」
 透は独りごちる。放心状態で暫くそのままでいたが、徐に腰を上げ、封鬼老師に案内された道を逆に辿る。
 光溢れる広間が透を迎えてくれた。真ん中の一枚岩に座する、封鬼老師と紫音の姿。
 紫音。紫音がいる。彼は透の姿を認めると、一も二もなく駆け寄ってきた。
「透! 無事だったのか! 何ともないか?」
 透は無言で見つめる。心配そうに覗き込んでくる紫音の顔を見つめた。
 思わず涙が零れた。
「紫音……」
「お、おい、泣いてんじゃねえよ。何だよ、全く、しようがねえガキだな」
 幻と同じようなことを言っている。だが、今の言葉には暖かい感触があった。
 紫音の肩に縋りついた。慌てる紫音を尻目に、縋りついたまま、とことん泣いた。
「阿呆ぅ。泣くんじゃねえ、男だろ。男ってなぁ、簡単に他人に涙を見せるもんじゃねえんだぞ」
 それでも涙は止まらない。老師が笑い声で言う。
「急に緊張が解れたのじゃ、無理もない。何しろ、自力で心の鬼を封じて来たのじゃからのぅ。今のうちに泣くが良い。これからは泣きたくとも泣けぬ事の方が多かろうて」
 透は焦って涙を拭う。そしてしっかりと封鬼老師を見つめた。
「でかしたぞ、透。己の闇を打ち砕き、あまつさえ心の鬼を封じるなど、心に迷いのある者にはなかなか出来ぬ事じゃ。お主はそれをやり遂げた。是によりお主の心眼は開いた。本質を見抜く力、お主にとっては一番重要な力。そして何よりも忘れてはならぬのは信じる心。己を信じ、人を信じる、その心。大切にするが良い」
 清々しく、自信に満ちた声が答えた。
「はい! 肝に銘じて」
 盲目の老師はにっこりと笑う。穏やかで曇りのない、清浄な笑顔。
「紫音よ。お主は既に心の鬼を知り、相対しておった。己が姿を改めて見せられる事により、振り切れぬものを振り切る事が出来たはずじゃ。忘れてはならぬぞ。お主の魂は少しも汚れてはおらぬ。その不屈の精神、守る事に対する真摯な心、過去から逃げぬ潔さ。お主の力の源じゃ。守るべきものを信じ、己が力を信じよ。お主の後に道は出来るのじゃ」
 老師を真正面に見据え、彼は答えた。
「俺は、俺にできる事をやるだけだ」
 穏やかな笑みがその心を受け止める。
「良い答じゃ。そろそろ参るとするかのぅ」
 徐に立ち上がり老師は歩き出す。瞑想洞の入口を目指し、ゆらゆらと揺れながら。
 洞の標の前に立ち、封鬼老師は告げる。
「時は来た。天烽山の主がこれからお主らが行くべき所を示すであろう。お主らの導師が待つ場所を、知っておるのは倫明だけじゃ」
 杖で地面を衝く。岩面が高らかに鳴った。
「では、天烽山へ戻るが良い」
 高らかな杖の音が山間を駆け抜けていった。
【退廃へ】へ続く
【萬語り処】 ← 感想・苦情・その他諸々、語りたい場合はこちらへどうぞ。
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