やみのしんえんへ
闇の深淵へ
西へ…東へ…ロゴ
 ゆらゆらと揺れる白い姿。封鬼老師は本当に目が見えないのだろうか。そう思わせるほどの確かな足取り。
 黙々と通路を歩き続けると、やがて現れた小じんまりとした空間。真ん中に小さな泉。澄んだ光を湛えていた。
「此処が迷想の泉じゃ」
 老師が言う。だが、あれだけ光が飛び交っていたにも拘らず、修行する者は影も形も見当たらない。
 その謎に答えるように老師は言葉を繋ぐ。
「迷想の泉は一つに非ず。形は一つだが空間は無数。結界の張られた空間で、それぞれが同じ泉を見、己が闇を映し出しておる。孤独な闘いじゃ。……だが孤独を制する者は何よりも強い」
 言い終わると手にした杖で、彼らに泉の縁を指し示す。
「座るが良い」
 透たちは素直に従った。泉を挟んで向かい合わせに座る。
「お主らが光の間に戻って来るのを待っておるぞ」
 杖で軽く地面を叩く。
 とたん、風景が歪んだ。泉以外の何もかもが歪み、闇に包まれていく。迷想の泉だけが変わりなく、澄んだ光を湛え続けていた。
 辺りにはもう、泉以外何もない。紫音も封鬼老師も闇の中に掻き消えた。泉に映る己の姿だけが、透を見つめていた。
 
 
 どのくらい経ったのか。泉には何の変化もない。透を見つめる透だけが映し出されたまま。
 こうして何もせず、ぼんやりと泉の縁に座り水面を見つめているだけでいいのだろうか。この修行はそんなものなのだろうか。だが他に方法はない。
 人と云うものは何もせず時を過ごすと、いつしか取り留めのないことを心に思い描いてしまう。
 透も例外ではない。心の中で懐かしい声がした。
 その想いは泉に反映される。
 声の主は母。見覚えのあるキッチンに立つ母の背中が映し出された。
「母さん……」
 思わず呟く。
 母は振り返った。だがすぐにまた背を向ける。
「透の声がしたように思ったけど、そんなはずないわね。あの子は死んだんだもの」
 そうだ。母は透が死んだものと思っている。いや、過去と訣別し二度と戻れないのだから、死んだも同然だろう。
「つまんない子だったわ。構ってあげようとしてもすぐ適当にあしらうし、何か買ってあげようとしてもそのお金を貯金しといてとか、小賢しいことを言うし。男の子はウンザリ。女の子を産んでおくんだったわ。女の子なら母親と仲良しになれる。一緒にショッピングしたり、共通の趣味を持ったり、楽しかっただろうに……」
 愕然とした。
 母がそんなことを言うはずがない。これは幻だ。
『ホントにそうかな?』
 何処かで声がする。頭の中か背後からか判別はつかないが、聞いたことがあるようで、その実良く知らない声。
『おまえは母親の気持ちなんて、これっぽっちも知らなかったくせに。いいや、今でも何にもわかっちゃいないのさ』
 透は辺りを見回した。誰もいない。声は憎らしげに言葉を続けている。
『母親なんて自己満足のために子供を育てるんだよ。自分の思い通りにならない子供なんて疎ましいに決まってる。おまえの母親だってそうさ。悟り切った小賢しいいい子ぶりっこより、ワガママでも可愛く甘えてくれる、面倒見甲斐のある子供が欲しかったんだ。おまえの母親はお節介だからな』
「そんなコトない! 母さんはそんな人じゃない! 少なくとも僕の母さんは、自己満足で子供を育てるような人じゃない!」
 声は冷たく答える。心を鷲掴みにする冷徹さ。
『そう言い切れる根拠は何処にある? おまえがそう思いたいだけだろ? おまえだって他の奴らと同じ、理想の姿を思い描き、他人に重ねてるだけなんだよ。自分が傷つきたくないから盲目的に思い込んでるだけじゃないか』
 否定できない。
 確かに、母についての理想像が何処か心の片隅にあるのだろう。もしかしたら理想とずれる母の姿を、無意識のうちに見ないようにしていたのではないか。今見た幻が母の真実の姿でないと、どうして言い切れる?
『そうだよ、わかってきたな。おまえが信じるものなんて所詮おまえが創り上げた偶像に過ぎない。本当の姿は、もっと陰湿で薄汚いものなんだよ』
 声は氷の刃となり、透の心に突き刺さった。
 
 
 透は目を閉じる。もう泉は見ない。また幻が現れ釘付けにされるのが恐かった。
 だが目を閉じたところで、声は追いかけて来る。
「とお……る……」
 忘れもしない父の声だ。
 思わず目を開け、泉を覗き込む。父の姿に視線で縋りついた。
「薄情な息子だ」
 父が言う。溜息と共に。
「私が病気で入院しているというのに、見舞いにも来ない。いったい何処をほっつき歩いてるんだ」
 父が病気? そう言われてみれば周りの風景は病室と思われる。透の心が不安で満たされた。
「子供なんて結局こんなものか。最後には親を捨て、好き勝手に何処かへ行ってしまう。一人息子だからと目をかけてやった恩も忘れて」
 父は不機嫌に俯いた。また溜息を吐く。
「私はもう長くはない。それなのにあいつは、報道カメラマンか何か知らないが、自分の夢だけの為に親を捨てた。世界の何処かを飛び回って、ろくに便りも送らず、私をほったらかしにして好き勝手に生きている。ひどい息子だ」
 何を言っているのだろう。
 報道カメラマン――過去の世界で透が夢見た将来の姿。過去と訣別する最後の瞬間、両親にその夢を語った。だがそれはあくまでも現実にはなっていない。幻で終わってしまった過去の夢。どうして父がそんなことを口にしているのだ。
「僕を騙そうったってダメだよ。陳腐な幻だ」
 自分を勇気づけるために薄笑ってみる。
『どうしてそう言える? これが真実だと認めたくないんだろ。自分勝手な奴だな』
 またも声が現れた。
「ふん、こんなの嘘っぱちだ。だって僕はまだ報道カメラマンになってない。父さんがそんなコトを言うなんておかしいじゃないか。父さんの病気だって、僕を動揺させようとした嘘っぱちに違いないよ!」
 勝ち誇って叫ぶ透の心を、声は容赦なく鷲掴みにする。
『馬鹿だな、それこそ騙されてる。自分自身の願望とやらにおまえは騙されてるんだよ。おまえが思い込んでるように、おまえの父親も思い込んでるんだ。自分の息子は死んだんじゃなくて、夢を叶えるために何処かへ行ったんだってね。そうじゃなきゃやってらんなかったんだろうさ。おまえ、一人息子だからな。将来自分たちの面倒を見させる奴がいなくなったんだから、ショックも大きかったんだろ。だからってあんな言い方はないよな。自分で思い込んどいて、側にいないからっておまえを詰るなんてお門違いもいいところだ。全くおめでたい親子だよな』
 急に自信が揺らいだ。声の言うことは何処までも的を射ている。父が本当に、透の死を認めたくなくて思い込んでいたとしたら、この幻はただの幻ではないのか。父の病気も、長くないということも、紛れもない真実だったとしたら……
「嘘だよ! 父さんが病気なんてでたらめだよ! そんな……父さんが長くないなんて……そんなコト、信じられない……信じたくないよ!」
『そうじゃないだろ。おまえが信じたくないのは父親の病気でも父親の余命でもないはずだ。信じたくないのは父親の言葉だろ。おまえを詰る父親の姿だろ。あんなにいい子でいてあげたのに、どうして薄情なんて言うんだ、っておまえはそう思ってるんだよ。自分のことを悪く言われたのが信じられないだけなのさ』
「違う! 大体、何だよ? 何でおまえはそんなコトを知ってるんだよ? どうして父さんが病気だなんて、そんなコト言えるんだよ? 嘘吐くのもいい加減にしろよ!」
『ひどい奴だな。知ってるから教えてやってんのに。だってそうだろ? 知ってて恨まれるのと理由もわからず恨まれるのと、どっちが気が楽かな? 僕だったら知ってる方が気が楽かな。だって理由がわかってる方が自分を正当化できるもんな』
 言っている意味が良くわからない。声は透の疑問に答えるべく、さらに言葉を続ける。
『おまえの父親は、死ぬ間際までおまえを恨み続けるんだ。いいや。きっと死んでからも恨み続けるだろうな。恩知らずな薄情息子、親を親とも思わない、情に欠けた鬼のような息子ってさ。だから理由を知ってる方がいいだろ? そんなのは逆恨みじゃないか、僕はもう死んでるんだから、って言い訳できるじゃないか』
 声は嘲笑う。底辺に軽蔑の篭められた、嫌な笑い声で。
 胸が締め付けられた。息苦しさが透に絡みつく。怒りなのか悲しみなのかわからないが、瞼と額が異様に熱い。
「僕は信じない! おまえの言うコトなんてみんな嘘っぱちだ! 父さんも母さんも僕を自慢の息子だと言った。僕も二人の息子であることを誇りに思ってる。だから、あんな幻なんか信じない! 父さんと母さんは、僕の自慢の両親なんだからあんなコト言うはずがないんだ!」
 声は黙り込む。
 それは一瞬のこと。次にはもっと冷ややかに、氷の刃で透の心を切り刻んできた。
『そこまで狂信的に親を信じるなんて、おまえってホントに救い難い馬鹿だな。せっかくおまえが傷つかないように忠告してやってんのに。……考えてもみろよ。棄てられる前に心構えができていれば棄てられるコトなんて恐くないだろ? それどころか、おまえを棄てそうな奴はこっちから棄ててやればいいんだよ。親なんて、いつだって簡単に子供を棄てられるんだ。思い通りになるうちは可愛がるくせに、言うコトを聞かなくなったらさっさと放棄するもんなんだ。おまえの両親もそうさ。もうおまえなんて、必要としてないんだよ』
 氷の刃が深く突き刺さった。心が血を流している。
『おまえはもっともっとホントのコトを知らなきゃならないな。教えてやるよ、おまえが盲目的に信じている奴らの、真実の姿ってものを。おまえが嫌がっても無駄さ。だってもう、おまえは知りたがっている。好奇心がおまえを拒ませたりしないんだ。……だから、早くこっちへ来いよ』
 声が、ぞっとするほどの冷たい響きを纏う。
『さあ。闇の深淵まで、落ちて来い』
 意識の端が、強く引きずられるのを感じた。
 
 
 紫音は瞑想する。泉の縁に座ったまま目を閉じる。泉は見ない。見なくても、声が追いかけて来るのだから見る必要はなかった。
「紫音……」
 父の声がした。
「何故、途中で投げ出した? おまえに同志の未来を託したというのに」
 恨みがましい声だ。
「投げ出したわけじゃねえ。俺がいなくても組織は勝利した。いや、俺が死んだことによって組織は勝利に向かって行った。かえって良かったじゃねえか」
 父の声はまだ続く。
「だが、おまえがいなくなった為に何人の同志を失ったと思っている。おまえが彼らを死なせたも同然だ」
「親父、あんたに言われなくてもわかっている。あんたには関係ない。アイツらの死は結果的には無駄死にじゃなかった。けどな、だからと言って忘れていいってもんじゃねえんだ。アイツらの死は俺が背負っていく。永遠にな」
 父の気配が消えた。
『そんなものは綺麗事だろう?』
 何処かで声がした。頭の中か周りの空間か、定かではないが、その声が何者かは薄々わかっている。
『本当は忘れてしまいたいくせに。いや、もう忘れちまって実はせいせいしているんだろう? 死んじまった者は戻って来やしないからな』
 声には軽蔑の色が篭められていた。
「ああ、忘れちまいたいよ、できることならな。俺にそんなことができないのは、おまえもわかっているんだろう? だからおまえは血だらけなんだろうからな」
 声が黙り込んだ。
 
 
 血の匂いがする。
 紫音が泉を覗こうとしないので、今度は音と匂いに頼ろうというのか。
「紫音……おまえは傲慢だ」
 聞き覚えのある声がした。それは遥か昔、裏切り者として撃ち殺した男の声だ。
「おまえは何様なんだ? たかが組織の参謀のくせに、俺を処刑する権限なんておまえにあったのか。リーダーが何も言わないのに、何故おまえが俺を殺す? おまえはリーダーの意思を無視して、おまえだけの判断で俺を殺したんだ!」
「ああ、そうだな。確かに俺は、俺自身の判断でおまえを殺った。リーダーに報告したのはその後だ。だが俺は後悔などしちゃあいないぜ。おまえを殺らなければ俺たちの方が危なかったんだからな」
 血生臭い男の声が、闇の中で蠢いた。
「おまえは、本当は人を殺すのが好きなただの人殺し野郎だ! ……満足か? 俺を殺れて満足か!」
 そんな言葉には動じない。言われなくてもずっと、心の中で思い続けていた事だから。
「そうだ、俺は人殺しだ。おまえを殺れて満足しているよ。そうしなければ組織が全滅していたからな。たった一人の同志と、組織と民衆を取るなら、俺は迷わず組織を取る。相手が裏切り者なら尚更だ。けれど、おまえは無駄死になんかじゃないぜ。おまえという裏切り者のお陰で同志の結束が固くなったからな。その点ではおまえに感謝しているよ。……安心しな。おまえの死を俺は忘れない。生涯背負っていってやるからな」
 血の匂いが掻き消えた。
『また綺麗事を言った』
 代わりに例の声がする。
『本当におまえは、人を殺すのが好きなのかも知れんな。自分が殺した奴の泣き言を聞きながら、そんな綺麗事が言えるんだからな』
「よせよ。おまえだってわかっているはずだ。奴らの泣き言を聞く度に、おまえは赤く染まっていくんだからな」
 声が闇に溶け込んだ。
 
 
 花の香りがした。
 それは隣家に数多く咲いていた花の香り。懐かしい少女の匂い。
「し……おん……」
 忘れられない少女の声がした。それだけではない。頬に触れてくる冷たい感触。その感触が動く度に、花の香りが強まった。
「紫音、苦しいの……こっちに来て……」
 頬の感触に耐え切れなくなり、目を開ける。
 泉の中に少女が佇んでいる。それは忘れもしない隣家の幼なじみの少女。革命家だった彼の両親と共に焼き討ちに遭い、焼死してしまった哀れな娘。
「ここは熱くて苦しいの……助けて、紫音……」
 泣いている。その涙はあるかなしかの光に彩られ、頬を伝ってゆく。触れてくる指。ぞっとするほどに冷たかった。
 少女の両の手首を掴み、頬から引き剥がす。
「やめろ」
 少女が瞳を見開いた。
「どうして? 守ってくれるって言ったじゃないの……約束したはずじゃないの……」
 恨みがましい表情で見据えてくる。声も恨みで震えていた。
「……そうね、あなたにとって大切なのは、姉さんの方だもんね。いつだってそう、私よりも姉さんを見てた。……だから私を見殺しにしたのよね、姉さんを先に助けて……」
「違う! おまえだって助けようと思った。でも間に合わなかったんだ」
 胸苦しい。深く溜息を吐く。
「……いや、言い訳だな。おまえを助けられなかったことは事実だ。俺が守ると約束したのに、一緒に死んでやることもできなかった」
 花の香りを漂わせ、少女が仄かに微笑った。
「だったら。今からでも遅くないわ、お願い、私と一緒に来て。そしてずっと一緒にいて、愛してるの、紫音……」
「だめだ。俺はもうあの頃の俺じゃねえんだ。一緒に行ってやるわけにはいかない」
 少女の顔が俄かに掻き曇る。
「嘘つき。約束したのに。やっぱり姉さんじゃなきゃダメなのね。私じゃダメだって言うのね。私を見殺しにしたくせに! 約束を破ったくせに! 嘘つき! 嘘つきよ、紫音!」
 溢れ出る涙を拭いもせず少女は叫び続ける。恨みと憎しみの篭った瞳で、しっかりと睨み据えながら。
「だから、やめろ」
 冷ややかな声に固まる少女。
「猿芝居はやめろ。アイツならそんなことは言わない」
 花の香りだけを残して、少女の姿は泉に消えた。
『逢いたかったか』
 また声がやって来た。
『逢えて良かったか。おまえが見殺しにした女に』
 声は泉の底から聞こえてくる。
『いいや逢いたくなかっただろう、本当は。あんな女、死んでくれてせいせいしたと思ってたんだろう、心の底では。おまえにとって必要なのは、あんな足手纏いな女じゃなかったはずだからな』
「言いたい事はそれだけか?」
 泉の底で、声が言い淀んでいる。
「そんなに自分を追い込みたいか? ウンザリするほど血反吐を吐いて、それでもまだ足りねえって言うのか? なら何処までも付き合ってやるさ。俺にはどん底しか見えてねえんだからな」
『だったらここまで来るがいい。本当のおまえの姿を見せてやる』
 泉を覗き込む。闇の底で何かが蠢いた。
『さあ。闇の深淵まで、落ちて来い』
 声と同時に、意識が同調するのを感じた。
【天烽山へ】へ続く
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