めいそうのいずみへ
迷想の泉へ
西へ…東へ…ロゴ
 濃霧の山歩きは半端ではない。
 とは言え、さすがに心身鍛錬は無意味ではなかったのだ。大して身体には堪えない。
 霧に包まれた山の中腹に、突如としてそれは現れた。幻想的な風景の中にぽっかりと空いた大穴。瞑想洞の入口は見上げるほどに高かった。
 ご丁寧にも入口の横に標があり、《瞑想洞》とくっきりとした文字で彫られている。
 彼らは同時に息を呑む。そして同時に足を踏み入れた。何の畏れも躊躇いもなく。
 奥へと向かう。薄暗い鍾乳洞のような洞窟。奥へと続く道は一本しかないが、果てしなく続くかに思われた。
 やがて彼らの目に薄ぼんやりとした明かりが映り、歩き続けるうちに強さを増してきた。目的地が近いらしい。と、通路が急に開け広場となった。
 驚くべき明かりの根源。広場と思しきその空間を無数に蛍が飛び交っている。いや、蛍ではない。光だ。光の元を持たない光。光だけが無数に、でたらめに空間中を飛び回っている。
 見ると、広場の中央に大岩があった。平たく、表面を良く磨かれた、背の低い面積のだだっ広い岩。その真ん中に老人が座っている。目を閉じ、無数の光に包まれて。
 髪も眉も髭も着物も、何もかも白い。髪は一つに丁寧に纏められてあるが、髭は下に向かって長く伸び顔の大半を覆っていた。杖を抱き胡坐をかいて座る様は、何処から見ても仙人のイメージだ。
 眠っているのだろうか。老人は微動だにしないが。
 そうではなかった。老人は彼らに向かって笑いかける。目を閉じたまま、にやりと。
「案ずるでない。この光は、この洞で修行する者の精神の光。今、闇と闘い、己の鬼を克服しようとしておるのじゃ。……お主らの光もあるぞ。ほぅれ、この通り」
 いつの間にか、老人の両の手にそれぞれ光が乗っていた。右の手には薄蒼い光。左の手には橙の光。右の手に顔を向け老人は言う。
「お主、紫音・カーマイン……ほう、大した物じゃ、お主には、迷いが微塵も見当たらぬ」
 今度は左の手に顔を移す。
「お主、早坂・透……うぬ、お主には、まだ迷いがあるようじゃのぅ。無理からぬ事じゃ」
 老人は顔を動かしはするものの目は閉じられたままだ。倫明からは封鬼老師は目が見えないと聞いている。では、この老人が。
 紫音が身じろぎ老人に何か言おうとした瞬間、透が先に言葉を発した。
「あなたが封鬼老師ですか? 瞑想洞の主の」
 老人はやはり目を閉じたまま、白い髭を揺らせる。
「いかにも」
「あの、僕たち……」
 透の言葉は最後まで続かなかった。
「皆まで言わずとも良い。儂には全てが見えておる。お主の心に迷いが生じるのも、心現界の理が掴めておらぬからじゃろぅて。先ずは、其処から話して進ぜねばならぬのぅ」
 封鬼老師には、二人の人物のうち、どちらが透か既に判別ができている。何もかもお見通しなのだ。
 老師の言葉が終わると同時に、言い知れない何かが透たちを動かせた。彼らは歩み寄り、一枚岩の上、老師の正面に胡坐をかいて座る。それが老師に対する礼儀だとでも言わんばかりに、言葉にできない何かが透たちの身体を動かせた。
 それを感じ取ると、老師は徐に言葉を放つ。
「そもそも心現界とは、あらゆる世界に生きとし生ける物の力の源。精神の力を持ち、気を放つ物は、己の命を全うするだけで心現界に力を与える。死してなお消滅を望まねば、此処に迎えられ息づいてもゆけるのじゃ。心現界は与えられた力で全ての世界を支え、そして与えてくれた物に力を還元する。それが心現界の根源であり理なのじゃ」
 言葉を切る。辺りには不思議な静けさが纏わりついていた。
「本来ならお主らもそうでなければならなかった。己の天寿を全うし、心現界に力を与え還元されておったはず。精神の力が枯渇せぬようにな。……じゃがお主らは此処に来てしまった。心現界にも予期せぬ事態が起こった為にのぅ」
 老師がまた言葉を切るので透は訊ねてみた。
「それは、僕たちが元の世界では死んでしまったからですか?」
 静かに首を振る。
「お主らは死んだのではない。精神が休止しただけに過ぎない。精魔と言う輩に出くわさなければ、お主らは志半ばにしてこの様な処に来る事もなかった。それは心現界の望む事でもなかったのじゃ」
 精魔というのは、心現界の何処かで生まれる無垢な魂である精に、魔の気が宿ったもののこと。彼らはそれぞれの世界で人に取り憑いた精魔に遭遇し、精神に攻撃を受け意識を失った。その時に、精神が休止したということになるのだろう。
「精が宿る形を依代と言う。それは人であったり物であったりするが、ヨリシロとは、要するに代わりに依る――依存するモノの事じゃ。精魔は依代とは時も空間も越える事が出来るが、他の形は連れては行けぬ。其ゆえ、お主らが出くわした精魔は、お主らを己が結界に連れて行くために精神と肉体を切り離してしもうたのじゃろぅ。肉体は精神と切り離されれば滅びるしかない。残念ながら、精神は心現界に引き寄せられたが元の世界に残るお主らの肉体は取り戻せなんだ。已む無く心現界で肉体を蘇らせ、精神を其処へ戻したのじゃ。お主らは元のお主らと何ら変わるところは無い。じゃが、確実に言える事は、元の世界とお主らは既に切り離された存在になってしもうたと言う事じゃ。お主らはもう二度と元の世界には戻れぬ。其処までは心現界といえども、他の世界に干渉は出来ぬのじゃ」
 精魔は紫音の力を欲しがった。彼の力は並大抵のものではないからだ。そして透を怖れた。透の力を、透の心眼を、本質を見抜く瞳を持つ彼を。
 だから彼らを己の結界に引き寄せた。紫音を手に入れるために、透を封じるために。彼らは別々の世界から、別々のタイミングで、別々の結界に捕えられた――はずだった。
 透と紫音の精神の波長はほぼ一致している。別々に引き寄せられたはずの彼らは、強く惹き合い、結界を外れ、巡り会った。
 以来、彼らは離れることがない。同じ目的のために旅を始め、プシケに出会い、目的を果たして後ここへ招かれた。
 今でもこうして共にいる。
 透は紫音から不屈の精神を学んだ。守るものの大切さを学んだ。何があっても諦めないこと、自分自身の手で運命を切り開くこと、何よりも、未来を信じる心を教えられた。
 平和な高校生活を営んでいた透には、過酷な運命に翻弄されつつも自分を見失わない紫音は、驚異であり、憧憬でもある。境遇が違うことで相手を理解しようとする心が芽生え、彼と対することで、本音で他人とぶつかる生き方を知った。紫音は人生の先輩であると共に、父にもなり、兄にもなる。世界を越えた唯一無二の親友。
 紫音から見た透はどうか。
 紫音は透と接することで、遥か昔に失ったものを見出した。それは他人を信じる心。革命という人生の波に飲み込まれた時に、記憶の片隅に置き去りにしてしまったものだ。透と出逢ったことによって取り戻した。
 革命家として他人を殺めざるを得なかった紫音の魂は、傷つき、血反吐を吐き続けていた。透の純粋で汚れることを知らない魂がそれを癒してくれた。彼の柔軟性、他人を理解し信じようと努力する姿、一途に夢を求める心。何もかもが紫音の励みとなり、救いとなった。心を浄化し、力を与えてくれる心強い仲間。守るべきかけがえの無い親友。
 透にとって紫音は、手放しで信頼できる、尊敬に値する存在。紫音にとって透は、安らぎと力を与えてくれる、失ってはならない存在。お互いの絆は、とうの昔に固く結ばれていた。
 ただ一つの望みに向かってひた走った彼ら。今となってはそれを叶える術もない。「お主らはもう二度と元の世界には戻れぬ」――封鬼老師の言葉が、改めて透の胸を打った。
「お主らが何ゆえ、精魔ごときに多元空間へ引き寄せられたのかは未だ解明出来ておらぬ。黒の門番が言う通り、おそらくは心現界の何処かに、穴が開いておるのじゃろぅが……」
 多元空間――透と紫音が出逢った場所だ。その中に結界を張り精魔は彼らを捕えていた。無であって有である不可思議の空間。あらゆる要素があり何も無い、全ての始まりと終わりが混沌とする空間。心現界では零空間ともポイント0とも呼ぶ。
 心現界で蘇生したはずの彼らが、何故精魔に捕えられてしまったのか。多元空間に引き寄せられた原因を、プシケは予測し、調べている。
「儂が思うに、何処かの門の扉が破られた可能性が高いのぅ。扉の全てに番人がおる訳ではない。目下のところ番人不在の扉もあるのじゃ。黒の門も然り。第二第三の扉は番人がおらぬ。だからと言って黒の門に穴があろうはずがない。あの娘は一人で門を守っておるが、強靭な者が束になって掛かったところであの娘には敵わぬ。何処か別の門の話じゃろぅが、何故か儂にも見えては来ぬ」
 格が違うとは思っていたが、プシケはそれほどまでに強力な力の持ち主だったのか。
 透は記憶の中の彼女を振り返る。出逢った頃の淡々とした表情の彼女を。立場上、己を押し殺し力の気配を押し殺す彼女。その力ゆえ重要な役割を持つ者の宿命。あまつさえ額の水晶がなければ力を制御できないと言う。彼女の力が解放されれば、他にどれだけの影響を及ぼすのだろうか。
「心現界の理は、世界を支え、力を還元するだけに非ず。あらゆる世界を繋ぎ、微妙な均衡の上に成り立っておる。もし心現界の均衡が崩れれば全ての世界に遍く影響が表れるのじゃ。ゆえに門番の役割は自ずと過酷になる。一人で門を守るのは並大抵の事ではない」
 再び透は尋ねる。
「プシケは……黒の門番は、僕たちにも心現界での役割があると言ってました。もしかして僕たちが不在の番人の代わりに、門を守る手伝いをするのでしょうか?」
 老師はまたも、静かに首を振る。
「お主らの役割が何かは儂が答える事ではない。お主らの導師が有るべき役割に導くのじゃ。だが、お主らが扉の番人になることはないじゃろぅ。何故ならお主らは男じゃからな。男は《陽》の気を持ち、女は《陰》の気を持つ。扉を守るものは《陰》の気でなければならぬ。そうでなければ扉も門も隠す事が出来ぬからじゃ。稀に男でありながら《陰》の気を持つ者もおるがのぅ」
 門番は女に限定されているらしい。他の門番を知らないので断定はできないが、確かにプシケが女であることには間違いない。
「お主らには導師と出逢う前にやらねばならぬ事がある。迷想の泉にて己の闇を映し出し、心に巣食う鬼を克服せよ。何よりも不屈の精神を培う為にはこの修行は不可欠じゃ。己の鬼を退治することが出来てこそ、心現界の役割を担える者となる。……だが、この修行は苦しいぞ。決して普段は見ようとはせぬ己の闇を見つめねばならぬからのぅ。……おお、また、己が鬼に食われおったわ……」
 老師が顔を向ける先、透たちの見ている前で、一つの光が急に光るのを止めた。他の光たちは何事もなかったかのように飛び続けている。
「あの者は此処へ来るのが早過ぎたようじゃ。己が鬼に食われた者は、二度と自力で闇の深淵からは抜け出せぬ。どうやらまた儂が、鬼を封じる事になりそうじゃのぅ」
 白い髭を揺らせ老師は僅かに笑う。その微笑は何を意味するのか。鬼に食われる事など良くある事とでも言いたいのか、それとも、食われた者に対する哀れみの表情なのか。
「透よ、お主、迷いはあるが後悔はしておらぬな。お主の若さで己が世界と切り離され、全てを捨てねばならぬなど尋常な事ではあるまい。夢も希望も過去に関わるものは一切捨て、お主はこの世界に来た。真に得心した上での事か?」
 透は確信を持って答える。
「僕は後悔なんかしません。ここには僕の世界では得られなかった信頼できる仲間がいる。誰よりも、僕をここまで引っ張って支えてくれた紫音がいる。それに遠く離れた世界にいても、僕の両親や友人、僕と関わった全ての人たちみんなが僕を支えていてくれるんです。二度と戻れない世界だけど、僕には忘れられない思い出がある。今まで体験して学んできたことがある。決して無駄なコトなんて何一つなかった。だから僕は前を向いて歩いて行けるし、未来を信じるコトを見失わずに済んだんです」
 穏やかな笑みを湛え、封鬼老師は左手を捧げる。その掌には透の光が、橙の色を一途に放っていた。
「汚れ無き心を持つ少年よ。汚れが無いゆえに、お主は己が闇に苦しめられるであろう。お主の闇には過去への未練がある、それが迷いの根源じゃ。……だが忘れるでない、透よ。お主には本質を見抜く心眼がある。人を信じる強い心がある。迷想の泉は生半可な事では覗けぬ泉。捕えられたが最後、己が鬼を克服せねば出る事は適わぬ。……闇の鬼に食われてはならぬぞ。お主は心現界に必要な存在じゃからのぅ」
 老師の手から光が離れてふわりと浮かんだ。沢山の光たちと共に空間を泳ぎ始める。
「紫音よ、お主にも聞いておこう。お主の心には、もはや迷いも後悔も見当たらぬ。確かにお主の世界は、生きるにはちと難が伴う世界じゃ。だがお主には仲間がいて、信じるものがあったはず。何ゆえそのように澄んだ心で、過去との訣別を果たす事が出来たのじゃ?」
 紫音は一度俯き、顔を上げると、老師の見えない瞼に目を据えた。
「俺はもうウンザリしていたんだろうよ、人の生き死にを目の当たりにすることに。透と出逢って確信が持てた。それに俺は、世界を救うだの綺麗事で戦っていたわけじゃねえ。一人の女の夢を叶えるために戦っていただけだ。俺がいなくなったことでアイツは自力で夢を叶えた。俺の出る幕なんか、もうねえんだよ。過去にはもう俺は必要じゃねえ。だったら、俺は俺の信じるものがあるところへ行く。守るべき者がいるところ、俺のやるべき事があるところへ行く、そう思っただけだ」
 満足そうに髭が揺れる。明らかな笑顔で老師は右手を掲げた。そこには紫音の光が、薄蒼い色で自信に満ちて煌いていた。
「逆境に負けぬ不屈の精神を持つ青年よ。なるほど、天烽山の主の言う通りの男じゃ。横柄なくせに意外と人が良いのぅ。……お主にはもう何も言う事はあるまい。お主は既に、己の闇と向かい合っておるからな。例え迷想の泉に捕えられたところで、お主の鬼は主人を弁えている事であろう。守る者があると言うだけで、何とも強い力を生み出す男じゃ。それもそのはず、お主も心現界にはなくてはならぬ存在じゃからのぅ」
 紫音の光が老師の手から離れた。力強く、他の数多の光を縫って飛び回る。
 封鬼老師はゆっくりと手を下ろす。肩に立てかけていた杖を手にして言った。
「お主らの覚悟はしかと受け取った。辛くとも苦しくとも闇の中に必ず光は現れる。それを信じ己と闘う事じゃ」
 杖を立て、膝の前で一度岩を鳴らす。
「どれ、迷想の泉へ案内するとしようかのぅ」
 思いの外、軽快に、封鬼老師は立ち上がった。
【闇の深淵へ】へ続く
【萬語り処】 ← 感想・苦情・その他諸々、語りたい場合はこちらへどうぞ。
  前の話へのボタン 次の話へのボタン 『西へ…東へ…』目次へのボタン 水の書目録へのボタン 出口へのボタン