めいそうどうへ
瞑想洞へ
西へ…東へ…ロゴ
 中国の水墨画を思わせる、切り立った崖の連なる山並み。麓が霧で翳むところも掛け軸に貼られた絵のようだ。ここが心現界だと言われなければ、中国なんたら省の風景と言われても納得できる。
 心現界――精神の力で築き上げられた世界。
 心を現す世界と書いて《しんげんかい》と読む、などとは、こじつけもいいところな名称だ。
 思えば透が心現界と関わったのも、話せば長い経緯がある。地球という惑星の日本という国に住んでいた極々平凡な十七歳の少年が、何ゆえこんな訳のわからない世界の山のてっぺんで、こんな事をしているのか……
 と、透がそこまで想いを巡らせたとたん、
「いつまでサボってやがる、このぐうたら弟子が!」
 透の頭上を何かが通過していった。
「ちょっとぐらい休んだっていいじゃないかぁ」
 続いて頭上をもう一回。
「阿呆ぅ! ノルマを果たせ。この怠け者が!」
 紫音の槍は透を掠めることなく、頭上を三度空振った。
「ええい、ちょろちょろとすばしっこいヤツめ!」
 彼は攻撃を変える。槍の柄で透の足元を突き始めた。
 ところが透もできたもので、その小刻みな攻撃を見事にかわす。最終的には二人とも、肩で息をしながら間合いを取って睨み合った。
「紫音、ずるいよ。僕は素手なのに」
「だったら素手でやってやろうじゃねえか」
 紫音は槍を投げ出した。
 彼は隙なく身構える。その構えは、やはり日本の空手というよりは中国の拳法に近い。
 なにしろ出立からして何処か中華風だ。
 中国の、民族衣装のような拳法着のような、丈の長い切り込みの入った上衣に帯を結び、額には飾り紐まで結んでいる。足元を包むのは革のロングブーツ。これだけには少々違和感を覚える。が、別に見栄えが悪いわけではない。
 見栄えが悪いのは寧ろ頭の方ではないか。彼の髪は、光線の加減では銀に見える明るい薄空色。癖のない髪は腰まで伸びている。ここまではいいのだが問題は前髪だ。不精なのか意味があるのかわからないが、異様に長いその前髪は、顔の半分を覆っていて表情を悟らせない。
 透はと言えば、これまた何処までも中華風だ。
 どう見ても僧衣に見える黒の上下。丈の短い上着の腰に赤い帯。黒布の靴は彼の身体を身軽に運ぶ。紫音と出逢った頃よりは伸びた後ろ髪を、今はひとつに縛っていた。髪も黒いので上から下まで黒ずくめだ。腰の帯だけが目立つ。
「行くぜ!」
 紫音が飛びかかって来た。
 避ける、避ける、避ける。が、足を引っかけられてすっ転がる。
 尚も避ける、避ける、避ける。と、目の前に拳が飛んできた。間一髪で当然避ける。
 さらに避ける、避ける、避ける。そして、透は素早く身を起こし、どうだとばかりに振り返った。
 とたん、額を真正面からはたかれた。
「詰めが甘い!」
「いってぇ〜!」
「ちょろちょろ逃げ回ったところで防御にもならん! ちったあ攻撃に転じろ! 攻撃は最大の防御だぞ!」
 透は額を擦りながら、
「んなコト言ったって勝手に体が動くんだよ」
 と、言い訳をした。
「全く……おまえみたいな不真面目なヤツは見たことねえ。何でおまえなんかを弟子にしなきゃいけねえんだ。大体なあ、俺は人にモノを教えるなんざ面倒なことは大っ嫌いだ! 教わりたきゃ他のヤツにしろ」
 透はしげしげと紫音の顔を見つめる。
「だって……」
 そして背後を指差した。
 そこには累々と折り重なる人の山。どいつもこいつも目を回している。
「さっき、紫音がみんなを伸しちゃったんだよ。誰も僕の相手まで手が回らないよ」
 やっちまったとでも言いたげに、紫音は顔に手を当てる。もう一方の手は拳。小刻みに震えている。
「何だってここの連中はピンからキリまでこんなに軟弱なんだ。本当に修行中の身かよ、おい」
 ここは心現界の修行場のひとつ。精神の鍛錬をするための道場だ。強靭な肉体には強靭な精神が宿る、ということで精神を鍛えるために身体を鍛えるのだ。
 彼らはここに来てまだ間もない。
 心現界が彼らを迎え入れたのは、彼らが持っている精神力所以である。その力が心現界を支える源となるからだ。
 彼らの力――透には《場》を創り結界を張る力があり、紫音には精神攻撃を増幅し撥ね返す力がある。
 覚醒したばかりの彼らはまだ力をコントロールできない。特に紫音は透よりも覚醒が遅かったため、そのまま力を放出すればとんでもない事になる。
 そこで、ここに送り込まれた訳だ。
 透は子供の頃から取っ組み合いの喧嘩などしたこともなく、クラブも文系なので身体を動かすことには縁が無かった。ここに来てからというもの、毎日しごかれているので少々ウンザリしている。そろそろ精神の修行とやらに掛かりたいと思う今日この頃。
 紫音はもっとウンザリだ。
 彼は元々の世界では革命組織の参謀だった。身体を鍛えるどころか過酷な毎日を送っていたのだ。気を抜くと殺られる世界。武術に長けている上に暗殺技もお手の物だ。そりゃあ、心身鍛錬のみのここの連中など電光石火で一丁上がりだろう。毎日畳まれ続ける彼らが紫音に敵うはずがない。あれよあれよと言う間に師範に祭り上げられ、いつの間にか軟弱な連中を相手に、憂さを晴らす毎日になっちまったと、こういう次第だ。
 透だけでも手に余るのに、軟弱弟子の大安売りなど、ウンザリ気分に拍車をかける一方だ。透に八つ当たりもしたくなる。そもそも、彼がこれ以上身体を鍛える必要があるのか?
「次からおまえは先にアイツらを相手にしろ。その後で残ってたら俺が相手をしてやる」
「いっ? そんなコトしたら、あんなにいるんだよ? 僕、身が持たないよ」
「それだけ丹念に逃げ回ってりゃな、体力も削り取られるだろうさ。相手は速攻でやれ。何も殺せと言ってるわけじゃない。速攻で伸しちまえば体力は温存できるんだ」
 闘い慣れている者の言い分だ。
「僕、そういうの好きじゃないよ。だいたい恨みも何もない人を殴り飛ばすなんて、僕にはできない相談だな」
「お人好しもいい加減にしろよ。切羽詰った状態の時にそんなことを言ってたら、殺られるのはおまえの方だぞ」
 唐突に、パン、と手の鳴る音がした。
 彼らは振り返る。
 そこにいたのは紅い拳法着を着た十歳くらいの少女。長い髪を綺麗に二つに纏め、花飾りをつけている。纏めきれない髪の裾は編んで垂らし、小さな鈴をぶら下げていた。緑がかった黒、瞳も深い緑。花柄の衣装が良く似合う可憐な少女。
「どちらの言い分も一理あるわね」
 少女は身軽に近寄ってくる。鈴が鳴るせいか動作の印象か、何処となく猫を思わせた。
「罪のない者には慈悲の心を忘れてはならない。だけど本質を見間違えると命取りになる。相手によっては、確かに殺られる前に殺るべき時もあるわ」
 そう言うと、にやりと笑った。
 祥・倫明――彼女がここの主。すなわち、この修行場、天烽山の正式な師範である。
 少女の姿をしているからといって侮ってはならない。歳は十歳くらいに見えるがそれは姿だけの話。心現界には時の流れという観念がない。だのに永い間、彼女がこの天烽山の頂点に君臨していることは紛れもない事実なのだ。それだけ彼女は半端でない強者。見た目に騙されるだけに一筋縄ではいかない。
 最初に彼女に出逢った時、紫音ですら悪寒を覚えた。隙のない身のこなし、尋常でない気配の消し方。何よりも、その瞳の冷たい光は、数多く戦いを重ねて来た武人をも震え上がらせる。あらゆる修羅場を潜り抜けてきた者の目。人の生死を左右してきた者の目。必要とあらば親さえ殺しかねない者の、冷静に己を押し殺した目。そうでなければ――それだけ強固な意志を持っていなければ、心現界の修行場の師範など務まるわけがないのだ。二十四歳の大の男が、見た目十歳の可憐な少女を前に、立ち竦んでしまうのも無理からぬことだろう。当初、彼のプライドはズタボロになってしまったが。
 驚いたことに、透は彼女に対してそんな見方をしなかった。彼女の視線に竦み上がったりもしない。紫音とは別の面を彼女の瞳から読み取り、それを第一印象とした。彼は人や物の本質を、見据える力が誰よりも強いのだ。それは、彼の心が純粋で汚れることを知らないからだと、彼らをここへ連れて来た者が教えてくれた。
 透は彼女の瞳の中に、宿命を受け入れた者の辛さや苦しみを読み取った。強靭な精神力に隠された寂しさを読み取った。以来、彼女に対してはその第一印象を一切崩さない。
 今でもそう。第一印象に裏付けられた気持ちのまま、彼女に話しかける。
「えっと……メイリンさん、こんにちわ。今日はもう稽古にならないですよ」
 と、辺りで目を回し続ける軟弱者たちを指差した。
 《メイリン》と呼ばれた倫明は溜息を吐き、
「透、また間違えたわ。私はメイリンじゃなくてリンメイ。倫理の倫に明確の明、で倫明よ。幾ら滅多に来れないからって会う度に間違えられたんじゃ力が抜けちゃうわよ」
「すいません」
 透はバツの悪い顔で素直に謝る。
 そんな彼を見つめて笑いながら言った。笑うと何処から見てもただの少女だ。
「別にいいわよ、紫音よりはマシだもの。紫音からは名前も呼ばれないから間違えられる事もないでしょうけどね」
「うるせえ。それよりおまえも足繁く通って、少しはコイツらを鍛え直せ。俺たちは、おまえの留守中にコイツらを鍛えるボランティアをしに来たわけじゃねえんだぞ」
 最強の師範を前にしているとは思えない横柄な口調だ。それが紫音の特徴とはいえ、良く相手は不愉快にならないものだと思う。尤も、倫明くらい永く生きていると、子供の戯言にしか聞こえないのかも知れない。彼女は正に理性の権化だからだ。
 案の定、余裕の笑みを浮かべながら言う。
「あなたが強過ぎるのよ、紫音。少しは手加減してあげなさい」
 紫音は憮然と言い放った。
「手加減してこれなんだがな」
「あら、そう! 彼らだって私の弟子。半端ではないはずよ。……やっぱり、あなたを黒の門番のもとに遣るのは惜しいわね。ずっとここにいてくれたら頼もしいのに」
「心にも無いことを言うな。そろそろウザくなって来たところだろうが。それより、黒の門番ということは、いよいよ最終段階か?」
「そのようね。今日はそれを伝えに来たのよ」
 心現界には七つの門がある。それぞれの門には第一の扉、第二の扉、第三の扉と三つの扉があり、扉の一つ一つを強靭な精神力を持つ者が守っている。中でも第一の扉を守るものが門の主の証。第二、第三の扉を飛ばしても、第一の扉を守る者の許可を得ることができれば、心現界に直結する。
 とは言うものの、別に門や扉が目に見えているわけではない。守る者の精神の力が、すなわち、扉であり門である。門の番人はその精神力をもってして、空間を歪め、他を招き入れることができるのだ。
 門の名前は色の名前。心現界の中心に一番近いのは黒の門。彼らの言う《黒の門番》とは、その門の第一の扉を守る少女のことだ。
 名をプシケと言い、歳は十七歳。透と同じ世界が故郷。フランスという国に住んでいたそうだ。
 彼女もやはり倫明同様、十七歳というのは見た目だけに過ぎない。プシケという名前も心現界に来てからつけられたものだ。門番という役割を持つ者が、普段は何をしているのか彼らには明かされていない。謎だらけの彼女だが彼らには確信があった。彼女は自分たちの仲間だと。
 以前、透と紫音は彼女と旅をしていた。彼らの旅に彼女が加わってくれた形だ。黒の門番としての知識と力で彼らを助け導いてくれた。そのお陰で、透たちは目的を果たすことができたようなものだ。
 今でも思う。彼女がいなければ彼らの旅は区切りがつけられたのだろうかと。
 旅の果てで彼女が言った。心現界で修行を積み、心と力の制御を覚えたら、再び共に旅をして欲しいと。彼女は彼らの協力を待っている。
 透たちをここに連れて来たのは彼女だ。倫明に全てを託し立ち去って行った。それ以来彼女には会っていない。彼女が今、何をしているのかも知らない。
「黒の門番には余り猶予はなさそうよ。一刻も早くあなたたちと合流して目的を果たしたいそうだわ」
 透たちは彼女と約束をした。彼らの目的を達成するために彼女の協力を得た。それは、彼女の目的を果たすのに彼らが協力すると交換条件を出したことに起因する。今度は透たちが彼女の目的のために手助けをする番だ。
「だからと言ってあなたたちを今のまま、黒の門番のもとには遣れないわ。あなたたちは未だ心と力の制御が不充分だからね。異例の事ではあるけれど、心の深淵の修行をしてもらうわ。あなたたちの精神力なら充分耐え切れる範囲だと思うの」
「心の深淵?」
「そうよ。己の中の闇を打ち砕くための修行よ」
 言いながら、倫明の瞳が興味深げにきらりと光った。
「あの山をご覧なさい」
 彼女の指の先。霧の海に横たわる水墨画の山。それは天烽山より二山は離れている。
「あの山に瞑想洞がある。主は封鬼老師。封じる鬼と書いてホウキ。瞑想洞の主としてはぴったりな名前だわ。老師は心の鬼を幾つも封じてきた御方だからね」
 心の鬼――?
 それが何を意味するかは、瞑想洞に行ってみなければわからない。
「老師は目がお見えにならない。だからこそ何もかもお見通しだわ。あなたたちの心の奥底まで老師には隠す事ができないわよ。有のままの自分をさらけ出し、そして克服する事にこの修行の意味はある。老師に全てを委ね、老師の言葉に従いなさい」
 倫明は笑いながら紫音に言う。
「封鬼老師は頑固な爺さまだから言葉遣いには気をつけなさい、紫音」
「余計なお世話だ」
 今度は透に言葉をかけた。
「透。あなたにはきっと辛い修行になるわ。けれど決して自分から目を逸らしてはいけない。本質を見抜く力がある事を、見失わないようにするのよ」
 透は黙って頷いた。
「では、瞑想洞へ行きなさい」
 彼女はもう一度、水墨画の山並みを指差した。
【迷想の泉へ】へ続く
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