ゆめ
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 プシケが一歩、彼らに歩み寄る。無表情ではない。何処か気掛かりなものを秘めた瞳。彼女が口を開いた。
「あなた方はこれからどうするの?」
 透と紫音は顔を見合わせる。同じ事を考えているはずだ。紫音が先に言い出す。
「俺たちの本来の目的は俺たち自身の世界に戻ることだ。だが、その前に、おまえとの約束がある」
 彼女は、彼らを憐れむような眼差しを向けた。
「あなた方は元の世界に戻りたいの? 透も? 紫音も?」
「そうだ」
 透は弾んだ声で説明した。
「僕たちにはそれぞれの夢がある。それはここでは叶えられないんだ。僕たち自身の世界に戻って、夢を叶えたいんだよ! プシケ、君なら、僕たちを元の世界に戻せる方法がわかるんじゃないのかい?」
「それは……」
 プシケは口篭もる。言葉を失い、透を見た。
 その様子を見て取って、明らかに失望の色を浮かべ、透は言った。
「そうか。君でも、わからないんだね」
 彼女は苦しげに声を押し出す。
「そうじゃないの、できないのよ。あなた方を元の世界に戻すことは、やってはいけないことなの!」
「どういうことだ?」
 彼女の顔が苦痛で歪む。言いたくない事を、無理にその身から搾り出した。
「あなた方は、元の世界ではもう死んでいるからよ!」
「何だって!」
「どういうことなんだ!」
 一気に奈落の底へ落とされた気がした。訳もわからず震えが来る。聞き間違いであって欲しい。きっと耳のせいなのだと思いたかった。
 だが、プシケはもう隠すことをせず、真実を語り出した。
「透も、紫音も、元の世界ではもう死んでいるの。肉体を失い、精神だけが心現界に辿り着いたのよ。そこで肉体ごと再生させられたの。あなた方の役割を果たすために。だから、あなた方を元の世界に戻してあげたくてもできないのよ! それは心現界の意志に反することになるから……」
 沈黙。どんな言葉を発しろと言うのだ。
「せめて私にしてあげられることは、それぞれの世界を見せてあげることだけ。それだけしかできないのよ!」
 クリスを抱きしめる透の腕が震えていた。
『透……』
 答える余裕が無い。突然の驚愕に現実が掴み取れない。透は力なく蹲った。
「は……はは……俺たちはとっくに死んじまってたのか……。あれだけ元の世界に戻ろうと躍起になって……何もかも、無駄だったのか……」
「紫音……」
 紫音はプシケに背を向けた。言葉なく俯く。
 だが、それは束の間のこと。すぐにプシケに向き直り、強い力で彼女の瞳を見据えた。
「おまえは俺の世界を見たと言ったな?」
「ええ。あなたが望むのなら見せてもあげられるわ」
「俺が死んでから俺の世界はどうなった? 俺の同志たちは? マナは? ……このエルメラインは、俺の世界よりも前なのか後なのか?」
 紫音の視線は彼女を捉えて離さない。プシケは静かに語り出した。
「このエルメラインは、あなたの世界よりもずっと後。革命は伝説と化し、忘れられようとしているわ」
「どっちが勝った? 俺たちか? 政府か?」
「世界を勝利に導いたのは、戦いの女神レトミア」
「レトミア! マナのコードネームだ!」
「そう、マナ・シルビス・ダートン。あなたの幼なじみの少女。このエルメラインの平和を培ったのは彼女だわ。……彼らはあなたを失い、失ったことで士気が上がった。あなたの気持ちに報いるために、決してあきらめようとはせず、決して屈服することなく。彼らの想いが世界を動かしたの。世界は戦いの女神たちによって勝利に導かれた。彼らが、邪なるエゴと恐怖に彩られた世界を解放したのよ」
「俺たちが勝利した……」
「そうよ」
「マナはここへ戻って来た。……夢を叶えられたんだな」
「そうね」
 紫音は満足そうに微笑んだ。
「あなたが望むなら、あなたの世界を見せてあげられるのよ」
「いや、いい」
 彼は短く呟く。プシケから視線を逸らせた。
「俺の夢はマナの夢を叶えることだった。俺の夢は叶ったんだ。……それに、俺はこんな力を持っちまった。どのみち元には戻れない。戻れないなら、過去など見たところでどうにもならねえ」
 風に吹かれて遠くを見つめる。全てを失ってから得たもの。彼はそこに想いを馳せた。
「透はどうする? あなたの世界を見たい?」
「僕は……」
 肩を震わせて呟く。透はその場に座り込んでいた。
「僕は嫌だ! 見るだけなんて嫌だ! 戻りたいんだ! 僕は僕の世界に戻りたいんだよ!」
「透……」
 プシケは哀しみに満ちた瞳で彼を見つめる。彼の側に寄り添うように座り込み、肩を抱いた。そして透の前の地面に手で円を描いて見せた。額の水晶が光を投げかける。
 そこに水面が現れた。凪いだ水面は彼らを写す。水鏡だ。
 プシケは水鏡に手を翳す。するとビジョンが見えはじめた。
 透は思わず覗き込んだ。見覚えのある風景。透の家だ。忘れようもない、十七年間住んでいた家。
 和室に父と母がいた。
 真新しい仏壇。母はその前に正座している。線香を上げる手。仏壇の前に、失くしたはずの透のカメラが。
「母さん!」
 母は手を合わせ、仏壇に語りかける。
「透。今日はあんたの十八回目の誕生日ね。母さん、肉じゃが作ったの、食べて。大好物だったでしょ? あんたがいなくなってもう随分になるけど、父さんも母さんもあんたのこと忘れたことない。あんたはいつも父さんと母さんを見守ってくれてるよね、空の上から、きっと。心配性だもんね、透は。でもね、心配しないで、母さん、がんばってるから……」
 母の言葉が途切れた。頬を伝う涙。溢れる涙を拭いもせず、肩を震わせている母。
「母さん!」
 透は叫んだ。その声は届かない。
「泣くんじゃない。透に心配するなって言ったばかりじゃないか」
 父が、母の肩にそっと手を置いた。
「私たちがこんなじゃ、透は行くべきところへ行けないじゃないか。いつまでもそんなじゃ透だって困るだろう? 透が安心できるように、私たちはいつも笑っていよう。透はいつだって、私たちの前でそうしてくれたじゃないか」
 父は少し痩せたようだ。頑固で厳しかったはずの父。覇気のない声。
「父さん!」
 届くはずがない。わかっていても叫ばずにはいられない。
「今日は透の誕生日だ。笑って祝ってあげよう」
「そうね。……透、ごめんね、泣き虫な母さんで。これからは母さんも強くなるから心配しなくていいのよ。透が何処に行っても、母さんはあんたの幸せを祈ってる。だから、あんたは安心して、行くべきところへ行きなさい」
「透、心配するな。母さんには父さんがついてる。おまえはいつも自分の手で夢を叶えてきた。今度だってそうだろう? 何処に行っても、おまえは自分の夢を叶えることができるよ。だから、父さんたちのことは心配せず、自分の思うところへ行きなさい」
 父と母は微笑んで、仏壇に手を合わせた。
「………」
「透……」
 耳元でプシケの声がした。我に返る。
 今見た光景は、本当に現実なのだろうか? 夢ではなく現実の光景。もし現実の父と母だとしたら……
「……僕は……」
「透?」
 優しく肩を抱く彼女の温もりが、透の感情を押さえ切れないものにした。
「僕は、わかったような気でいて、本当は何もわかっちゃいなかったんだ……父さんも母さんもいつも僕を構いたがって、僕がいなければダメなんだって、そう思い込んでた。でも違う。違ったんだ! 父さんや母さんが子離れできていないんじゃなくて、僕の方が親離れできていなかったんだ!」
 透は水鏡に手を差し伸べた。水面が乱れ、ビジョンが消えた。
「父さんと母さんがいなければダメなのは、僕の方だったんだ!」
 彼は叫んだ。感情を押し出そうと叫んだ。だが、そんなもので心が晴れるわけがない。彼は失ったものの重みをひたすらに噛みしめていた。
『透……』
 クリスは透の腕から投げ出され、仕方なくプシケの側に蹲っている。泣いていた。透の意識に反応して、クリスタルの如く輝く涙を流していた。
 紫音は彼らの後ろに佇んでいる。何も言わず、透の背中だけを見つめている。
 透は泣いた。泣き続けた。咽いで溢れる感情を止めなかった。取り戻せないもの、大切なものを想い、泣き続けるしかなかった。
 誰も言葉をかけない。誰も言葉をかけられない。ただ透を見つめ、見守ることしかできなかった。彼は今、誰よりも孤独な思いを抱いているはずだから。
「プシケ……」
 透が顔を上げた。懸命に袖で涙を拭う。
「僕を連れて行って」
 プシケの瞳を見つめながら言った。
「ごめんなさい、だから……」
 口篭もる彼女に尚も言う。
「父さんと母さんの夢の中に、僕を連れてってくれ。できるだろう? 意識だけなら」
「………」
 プシケは茫然と透を見つめた。
「連れてってくれよ。お願いだから……」
 彼女の胸に、透の決意が伝わった。
「わかったわ」
 そう言うと透の肩を抱くのを止め、右手を額の水晶に、左手を透の額に当てた。
 透は目を閉じる。意識を父と母のもとへと飛ばしながら。
 
 
 いつもと変わりない日曜の朝。朝食の席に父も母も揃っている。父は新聞の向こうから声を出し、母は笑いながらコーヒーを淹れた。
「父さん、ゴハンの時はよそ見をしちゃいけないんだろ?」
 透は父から新聞を奪い取る。
「何だ? 透」
「顔見て、話、したいじゃないか」
 父は照れ臭いのを隠して仏頂面をした。
「今日は公園に行かなくていいのか? カメラの準備をするんだろ?」
 透は笑って食卓に着く。母が淹れたコーヒーを受け取りながら、
「ねえ父さん、母さん。僕の夢はカメラマンになることなんだ」
 初めて両親の前で思いを打ち明けた。
「できれば報道カメラマンになりたいと思ってる。世界中を飛び回って、世界の歴史をカメラに収めるんだ」
「でも、危ないんじゃないの、報道カメラマンって……事件とか事故とか追いかけるんでしょ?」
 母はちょっと眉を顰めた。
「うん、そうかもね。でもね、こうも思うんだ。カメラマンにならなくても、一生できないかもしれない信頼できる仲間と、世界の果てを探しに行く旅に出るんだ」
「何だ、それは? 随分曖昧じゃないか」
 透は笑う。自信に満ちた口調で言った。
「父さん。今の僕には、誰よりも信頼できる仲間が側にいるんだ」
「そうか」
「母さん。僕は彼らと世界の果てを探す旅をしているんだよ」
「そうなのね。それで透は満足しているの?」
「うん。僕は今、とても満たされているよ。だって、一生かかっても出逢えないかもしれない人達と巡り会えたんだから。僕は彼らを信頼してるし、彼らも僕を信じてくれてる」
「いい経験をしているんだな」
「そうだよ」
 透はまた笑う。父も笑った。母も笑っていた。穏やかな朝の風景。
「父さん、母さん、だから、僕はもうここには戻って来れないと思うんだ。旅はどのくらいかかるかわからないから」
 父も母も顔を曇らせる。
「でも、父さんと母さんは大丈夫だよね。僕の自慢の父さんと母さんなんだから」
 父は一瞬、目頭を押さえた。母も涙ぐんでいる。
「そんな顔しないでよ。別に僕は不幸じゃないんだからさ。……ただ、父さんと母さんの側にはいられないけど、いつでも僕は二人のことを思ってるよ」
 父は苦笑し、母はエプロンで涙を拭った。
「父さん。僕がいなくなっても、母さんを守ってあげてよ。夫婦ゲンカなんて許さないからね」
「おまえに言われなくてもわかっているよ。子供のくせに余計な心配はするな」
「うん、そうだね」
 透は言葉を切り、暫く父を見つめた。
「どうした? 透」
「ううん。……僕は父さんにとって、どんな息子だったのかと思って」
 父は顔を顰め、
「そんなことも言わなくちゃわからんのか?」
 と、すぐに満面に笑みを浮かべた。
「おまえは父さんの自慢の息子だ」
 透は俯き、満足げに笑う。
「母さん。僕がいなくなったら、父さんを大事にしてよ。二人きりになっちゃうんだからね」
「そうね。大丈夫よ。透には心配かけないわ」
 母を見る。瞳が潤んでいる。
「母さん。僕は母さんに心配かけなかった? 僕は母さんにとってどんな息子だったの?」
 母は意外だったのか目を見開き、すぐに笑顔に戻ると、
「あなたは本当に子供の時から物分かりのいい子で、その方がかえって心配だったわ。でもね、あなたが物分かりのいい子だったからこそ、私たちはしっかりできたのかも知れないわね。母さんにとっても、あなたは自慢の息子なのよ」
 胸を締めつけられた。
 けれど透は笑う。両親に涙は見せたくない。こんなに満たされているのに涙は必要ない。
「父さんも母さんも僕にとってはかけがえの無い人だ。父さんと母さんの息子であることを、僕は誇りに思ってるよ」
「透……」
「僕は夢をあきらめない。父さんと母さんもまだまだ若いんだから、自分たちの夢をあきらめないで。夢は自分の手で叶えるからこそ夢なんだ。決して幻で終わらせちゃダメだよ」
「透……」
 透は立ち上がる。
「僕、もう、そろそろ行かなくちゃ。仲間が僕を待ってるんだ」
「そうか、行くんだな」
「うん。行ってくるよ」
 透はカメラケースを置いたまま、玄関へと向かう。母が追いかけてきた。
「透。身体には気をつけるのよ。無理はしないでね」
「わかってるよ。行ってきます」
 透は玄関を出た。透の身体が眩い光に包まれた。
 
 
 仏壇の前に両親が座っている。
「あなた」
「ああ」
 二人は透の写真を見つめた。
「透、元気そうだったわね」
「ああ、そうだな」
「信頼できる仲間がいるって言ってたわね」
「ああ、言っていた」
「満たされてるって言ってたわよね」
「そうだな」
 母は透のカメラを手に取った。
「私たちに、夢をあきらめるなと言ったわ」
「そうだな。私たちは透のためにも希望を捨てちゃいけない。あの子ががんばっているのに、私たちが逃げ出す訳には行かないじゃないか」
「ええ」
 父は透のカメラを愛おしく撫でた。
「私たちはこれからも、透に負けないように、透に恥じないように、生きて行かなければならないな」
「そうね。せっかくあの子がお別れに来てくれたんだから」
【扉】へ続く
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