とびら
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 水鏡に向かい背を向けたまま、透は俯いている。微動だにしない。
 クリスを抱いたプシケが背後に立ち、紫音はその隣で佇んでいる。不安げに透を見守る。透はまだ身じろぎをしない。
「意識が戻って来ねえんじゃないだろうな?」
 小声で囁く紫音。囁かれたプシケも、彼以上に小声だ。
「そんなはずないわ。私と共に戻って来たはずよ」
 良く見ると、透の肩が小刻みに震えていた。
 泣いている……?
 彼らは透の気持ちを思い計り、息を呑んだ。
 ゆらりと揺れる、透の身体。ゆっくりと腰を浮かせ立ち上がる。そうして彼は振り向いた。
 泣いてはいなかった。透は泣いてなどいなかった。過去と訣別した透には前に広がる道しか残されていない。涙は不要なのだ。泣いてなどいられない。
「僕にはもう、帰る場所がない」
 透が彼らに言う。
「俺たちと行こう、透」
 紫音が真っ先に口を切った。
「そうだね。僕たちにはプシケとの約束がある」
 プシケの表情が安堵で満たされる。
「忘れないでいてくれたのね。あなた方が側にいてくれれば心強いわ」
 そう言うと、胸に抱いていたクリスを透の腕に託した。
『透! 透! 良かった! 透が帰って来なかったら、私どうしたらいいのかわからなかった。せっかく透の側に残ったのに……透がいなきゃ、何にもならないもの!』
 クリスは透の腕の中で泣きじゃくる。キラキラ光るクリスタルの涙。透はクリスに頬を寄せる。
「ごめんクリス。心配かけてごめん」
『いいの! 透が帰って来てくれたんだから、もういいのよ』
 透は改めてクリスを抱きしめる。
 不思議と心が落ち着いていた。前にも増して満たされていた。
 あれほど帰りたかった自分の世界。訣別し、二度と帰ることの許されない世界。
 けれど、ここにはその世界では得ることのできなかった仲間がいる。得ることのできなかった力がある。そして思い出がある。透の心を掻き立てる未来がある。
「僕はもう、後悔なんかしない。もう後ろを振り向かない。この世界には僕を迎えてくれる仲間がいる。信頼できる仲間がいる! ここに来なければ、僕は紫音たちとも決して出逢うことはなかったんだ。そう思えば、僕がここに来たことは、無駄なことでも不幸なことでもなかったはずだ。いや、それだけじゃない。僕が今まで生きて経験したこと、学んできたこと、無駄なことなんて何一つなかった。全部何もかもが明日に繋がり、未来に繋がるんだ!」
 顔を上げる。東の空に向かって。昇りかけた朝陽が透の顔を照らしていた。
「みんな僕に明日を信じることを教えてくれた。未来が必ずあることを教えてくれた。でも一番僕にそれを教えてくれたのは、紫音だ! 紫音は僕に、あきらめないこと、逆境に負けないことを教えてくれたんだから」
 透が笑顔になる。晴れ晴れとした笑顔になった。太陽は誇らしげに、透の笑顔を包み込む。
 紫音は腕を組み、わざと横柄な態度で言葉を放った。
「阿呆ぅ! おまえは自分で学んだんだ。俺はそのプロセスに過ぎない」
 懐かしいものでも見るような目で、透は紫音を見つめた。
「そんなことないよ。……いや、そうだったとしても、僕はやっぱり紫音がいなかったら、ここまでは来れなかった。……紫音がいるから、プシケがいるから、クリスがいるから、僕はこの世界も悪くないと思ったんだ。ここには僕の居場所があると思ったんだ。紫音たちは、僕にとってかけがえの無い仲間だから」
 紫音は言葉を失った。ただ、苦い顔をして俯いている。
 透にはわかる。紫音の心がわかる。彼は今、心の中に暖かい灯りを点している。波長が合うから、波長が一致しているからわかるのだ。
「私を仲間だと認めてくれるのね」
 プシケが言った。
「そうだよ。もう、ずっと前からだけど」
「嬉しいわ」
 彼女の表情が綻んだ。
 今まで一度も、それとわかる表情を見せなかったプシケ。はじめて彼らの前で笑顔を見せた。
 それは天使の笑顔。清らかで暖かい、穏やかな表情。彼女の笑顔は誰よりも、深い慈愛に満ちていた。
「何だ、笑えるんじゃねえか」
 目を見開いてプシケが言う。
「私はそんなに笑っていなかったかしら?」
「笑うどころか無表情だったぞ。人形でも、もっと表情があるだろうってくらいにな」
 プシケは吹き出した。
「ごめんなさい。本当のあなた方を良く知りたかったから、敵か味方かわからない状態であなた方を観察していたかったの。感情を表に出すと私の人格が垣間見えて、あなた方の主観を変えてしまうでしょ? 結構難しいのよ、感情を押さえることって」
 そして、はにかみながら笑う。
 そこにいるのは普通の少女。得体の知れない謎の女ではなく、透と同年代のあどけない笑顔の少女。この少女の中に強大な力が秘められていることなど、誰が信じるだろう。そう思わせるくらい、プシケは透たちの前で普通の少女に変化した。
 透は改めて思う。
 口は悪いし乱暴者だが、常に透を支えてくれた紫音。謎を身に纏いながら、いざという時には必ず、透たちに救いの手を差し伸べてきたプシケ。どん底にいた透たちの前に燦然と現れ、透を慕ってくれるクリス。彼らがいるからこそ、透がこの世界に戻って来た価値がある。透の存在理由は彼らの側にこそあるのだと。
「とりあえず、おまえとの約束を果たさなきゃならん。何処に向かって行く? 当てはあるのか?」
 本題に入ろうと、紫音が唐突に言い出した。
「そうね。でもその前にやることがあるわ」
「何だい?」
 プシケは透を見つめる。
「まあ、私が言ったことを憶えてないの? 透は心の制御、紫音は力の制御をしなければならないって言ったでしょ?」
 そう言えばそんなことを言われたっけ? 精魔を封印する前の話だ。
「あなた方が訓練するには心現界が一番よ。元々あなた方は心現界に呼ばれたのだから。そのことで私も調べたいことがあるのよ」
「調べたいことって?」
 オウム返しに訊く。
「あなた方は心現界に呼ばれ、そこで再生させられたって言ったでしょ?」
「そうだね」
「本来ならそこで、あなた方は導師となる人と巡り会い、心と力の修行をしてそれぞれの役割を果たすはずだったと思うの。なのに、あなた方は多元空間に引き寄せられた。精魔の力がいかに強かったとしても、心現界が求めて再生させた人達がそう簡単に引き寄せられるとは思えないわ。心現界の何処かに穴がある。私はそれを調べなければならないの。そのためにも心現界に帰りたい。私の探している人のことはその後ね」
 プシケはいったい心現界で、どんな役割を担っているのだろう。彼女の話によると、透たちにもそれぞれの役割があるようだ。
「修行だ何だかんだってのは面倒臭くて性に合わねえが、心現界ってのには興味があるな」
「心現界はあなた方を取り戻したかったの。だから私が探しに行くことになったのよ。アマンダに出逢えなくても私はあなた方を探すことになっていた訳なんだけど、アマンダのおかげであなた方の事前知識ができて大いに助かったわ。でも思いの外あなた方の気配は不安定で、探すのに結構苦労したのよ。それと言うのも、あなた方の力が未知数でまだ不安定だったからなのね。思い余って人の力まで借りてしまったわ」
 思い当たることがある。透は、ぽん、と手を打ち言った。
「もしかして君、ベネダっておばあさんの占いテントに行っただろ?」
「ええ。じゃあ、透が私のメッセージを受け取ってくれたの?」
「メッセージ? おばあさんの水晶に残されていた光の気配のこと?」
「そうよ。ずっとこの水晶からメッセージを送っていたんだけど、透にも紫音にも伝わっていないのかと思っていたわ。二人とも何も言ってくれないから」
「そっか。やっぱり僕の意識に入り込んで来た光の正体はプシケだったんだね」
 透の隣で紫音が言う。
「俺には何も感じられなかったぞ」
「それは、あなたがまだ覚醒していなかったからだわ。その後は私のことを、何処となくわかってくれていたじゃないの」
「まあな」
 紫音が覚醒した後、二人の仲が妙だと思ったのはそういう理由があったからか。透は納得し、納得してから何故か安堵した。
「あなた方の力は無限大の可能性を秘めているわ。修行によって何が開花されるかわからないけど、一度心現界に来て欲しいの。そこであなた方は導師について学び、本当の自分を確立して行かなければならないわ。そしてあなた方が私の協力者として認められたなら、もう一度私と共に旅をして欲しい。私の願いを聞き入れて、透、紫音……」
 プシケは彼らを見つめる。その深い緑の瞳には、切ない光が宿っていた。切実なる思いが。
「僕は行くよ。だってもう僕の帰るところは他にないから」
 透は即答する。もはや迷う必要などなかった。
「俺もだな。俺はやるべきことがあるところへ行く」
 紫音にも迷いはない。
「クリスはどう?」
 プシケはクリスのことも忘れてはいない。
『私は透について行くわ。何処にでも』
 天使が微笑んだ。
「では、行きましょう」
 額の水晶に指を当てようとした。
「ちょっと待て。おまえにひとつだけ訊きたいことがある」
「何かしら?」
「おまえはまだ俺たちに素性を明かしちゃいねえ。おまえは一体何者だ? 心現界でどんな役割を持っているんだ?」
 彼女は意外といった顔をして、はたと気づく。
「ごめんなさい。まだ何も言っていなかったわね。……そうね、あなた方には仲間だと認めてもらえたんだし、言うべき時が来たということね」
「もったいつけてんじゃねえ、早く言え」
 彼女を急かす。紫音は時々短気になる。
「心現界に七つの門があることは知っている?」
 透も紫音も、クリスまでが頷いた。
「門にはそれぞれ三つの扉があり、七つの門は色で区別されているの。心現界の中心に、一番近い門は黒。私はその黒の門を守っているわ」
『心現界の――――?!』
「――――門の――?!」
「――――――番人?!」
 三人は一斉に叫んだ。
「そう。私は黒の門を守り、第一の扉の鍵を持つ者。第一の扉は門の主の証。私と心が通じる者は心現界に直結する。だから余り素性を知られてはいけないの。力の気配も消さなければならない。私が間違った者を心現界に迎え入れれば、心現界は私を消滅させる。そのために私の下僕たちはいるのよ」
 暫く三人は声も出せなかった。
 プシケの役割がどれだけ重要で過酷なものかは彼らには計り知れない。背負っているものの重さを深く認識していて、それでも彼女は笑っている。精神力の強靭さは、多分、ここにいる誰よりも上だ。
「俺たちは、そんなご大層なヤツと仲間になっちまったのか」
 紫音が呟いた。溜息と共に。
「でも。プシケがどんな立場にいようと、どんな役割を持っていようと、やっぱりプシケはプシケなんだ。プシケは僕たちの知っているプシケで、僕たちの大事な仲間だ」
 透が紫音に言うと、彼は不敵な笑いを浮かべて言った。
「当たり前だろうが」
 彼女はそんな二人を見て思う。思いが呟きとなって漏れ出した。
「あなた方は不思議ね。本質を見抜く力が天性にある。やっぱりあなた方を敵に回したくはないわね」
 突然、透の手を離れ、クリスはプシケの肩に乗る。クリスにも訊きたくてたまらないことがあった。
『あなたはその上、水晶使いなの?』
「いいえ。水晶使いとは少し違うわね」
『でも、水晶を使って術を操ってるわ』
 しげしげとプシケの額を見つめる。
「ああ、これ? これは力の制御をするため。水晶がなければ力が押さえ切れないのよ。それに水晶は黒の門の象徴。私が水晶を使う理由はそういうことよ」
 透は益々驚いた。水晶を使わなければ押さえ切れないほどの力。彼女は透たちとは格が違う。
「質問はそれだけ?」
 彼女は紫音に向かって言った。紫音は無言だったが、透は勢い込んで言った。
「待って! 僕にも質問させてくれよ。ずっと気に掛かってたことがあるんだ」
 プシケは小首を傾げ、無言で透を促した。
「僕と紫音は全く違う言語で話してるのに、会話が成立している。プシケだって、多分それフランス語だろ? 何で意味がわかるのかなあ?」
 透が眉を下げるのを見て、プシケは笑って答えた。
「心現界には、世界の隔たりも時の流れもないわ。一度心現界を通った者なら、言葉でなく心で人の意思を理解できるようになるの。大切なのは言葉ではなく心だわ。心が通じ合えるものなら、本当は言葉なんて要らないのかも知れないわね。実際はそう上手くは行かないけれど」
 納得したように、透は再び、ぽん、と手を打った。
 地平線から完全に顔を出し、朝陽は空から彼らを見つめていた。月は二つなのに太陽は一つ。透には不思議な世界。紫音にはありきたりな世界。
 それぞれの世界が違う彼らの前には、同じ道が広がっていた。行くべき先は同じ。求めるものも同じ。
 彼らは東に向かう。陽の昇る方角に。暫し彼らは無言のまま、それぞれの想いを抱え地平線を眺めた。
「行きましょうか」
 プシケは短く言い、額の水晶に指を当てた。
 水晶から放たれる光。光の向こうに陽炎のように道が揺らいだ。
 
 
 ――扉は開かれた。
 ――未知なる明日に向かって。
−Fin−
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