せいま
精魔
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 透は息を呑む。精魔は何をするつもりだろう。
 精魔はにやりと笑ったかと思うと、急に無表情になった。そして言う。
「森の主。おまえと話がしたい」
 プシケは別段慌てるでもなく、
「どういう理由で?」
 と、感情の篭らない声で答えた。
「おまえは話せばわかる者だと思うからだ」
「何故そう思うの?」
「おまえはただ者ではあるまい。力の気配の消し方が尋常ではない。おそらくは未知数の力を持ちながら、気配は最小限に押さえている。そんなことができるのは、強大な力を持ち心現界で修行をした者だけだ」
 精魔はプシケの額を指差した。
「それにその水晶。心現界で最高の位を持つ石。それを身に着けられるのは心現界でも限られた者だけではないか」
 プシケの表情は変わらない。
「あなたはクリスと違って、生まれたばかりの精というわけではなさそうね。尤も、それだけ魔に染まるためには、かなりの年月がかかっているでしょうけど」
 アメリアの顔がにやりと歪んだ。
「森の主。おまえからも魔を感じる。魔に憑かれたわけではないだろうが、魔の気配を感じるのだ。それはおまえが魔を否定していないからだろう? おまえの目が公平だからだ」
 精魔は確信を持って言い切った。
 プシケから魔の気配がする? そんなことがあっていいものか。無垢なる魂であるクリスを助けたプシケから、魔の気配がするなどとは。
 だが、プシケは何の感情もなく答えた。
「精も魔も元は同じもの。どちらが善でどちらが悪かなど、主観の相違でしかないわ」
「だったら、森の主。おまえは我らの話を聞くべきだ」
「聞くだけでいいの?」
「その後のことは話をしてからだ」
 紫音は二人を見守っている。黙って身動きもしない。彼は何も感じないのだろうか。
 目の前で喋っている精魔は、アメリアの身体と心を乗っ取り、アマンダを殺した張本人ではないか。何の罪もないアマンダは、精魔の理不尽な所業のために彼らの目の前で死んだ。無限に広がる可能性を断ち切られ、夢見たことも何ひとつ叶わずに。彼女の骸を抱きしめ許せないと言ったのは、他ならぬ紫音だったはずだ!
 怒りだろうか、悔しさだろうか、透は身体を震わせる。何故、こんなモノの話など聞かなければならないのだ!
「その前に森の主、透の意識を押さえるのだ。このままだと彼の意識に同調して、おまえの森が私を攻撃する」
 プシケは透を振り返る。その瞳を見てすぐに悟った。彼の頬に両手を当て、言い聞かせるように囁く。
「透、あなたの気持ちはわかるけど、ここは私に任せて。さあ、心を落ち着かせて。でないと森が同調してしまう。お願い、透。私を信じて」
 いつになく感情の露な瞳。その緑の光が透に落ち着きを取り戻させた。
 透は肩の力を抜く。深く息を吐いた。
 徐にプシケは向き直り、真っ直ぐに精魔と対峙した。決意の篭った声が言う。
「もう大丈夫よ。話を聞きましょうか?」
 ――透。
 紫音の声。意識で話しかけている。透の意識だけに語りかけている。
 ――心を乱すな、透。冷静になれ。魔に突け込まれるぞ。
 そうだ。プシケに言われたばかりだった。
 精魔は疑問を投げかける。
「森の主、おまえは心現界をどう思う?」
「どういうことかしら?」
「心現界はおまえのように公平な目を持っていると思うか?」
「さあ? わからないわね」
「はぐらかすな。私はそうは思わない。心現界は魔を悪だとし、悪に定められた者は受け入れぬ」
「どうかしらね」
「また、はぐらかすのか? おまえは心現界のからくりを知っているはずだろう?」
「どうしてそう思うの?」
 一呼吸おき、精魔は薄笑った。
「おまえは心現界の水晶使いだろう? 水晶使いは、心現界の力の在り方を知らなければできないはずだ」
「安易ね。水晶を持ってはいるけれど、残念ながら私は水晶使いではないわ」
 精魔は眉を顰める。
「では何だ?」
「森の主よ。あなたもそう言ったじゃないの」
 その言葉に笑う。低く、長く、さも可笑しくてたまらないと言いたげに。
「くくく、まあ、そういうことにしておこう。では質問だ。心現界は何故、我らを魔とし、悪として忌み嫌う?」
「私は心現界でないからわからないわ。魔を悪とするにはそれなりの理由があるのでしょうね」
「曖昧な答えだな。そんな答では納得はいかない。おまえの考えを述べよ。心現界は何故、我らを拒むのだ?」
 精魔はプシケから目を逸らさない。執拗に視線で彼女を捕えている。
「では逆に質問よ。あなたは何故拒まれたなどと思うの?」
「質問を転化するな、森の主。訊いているのはこちらだ。……まあ、いいだろう。我らは魔という名を持つだけで心現界を通れない。迎え入れられることもない。それを拒まれたと思うのは当然のことではないのか?」
「何も魔だからと言って、拒まれたわけではないでしょう? 魔でなくとも門の番人の手助けがなければ、誰も心現界には入れないわ。もちろん精であってもよ」
 淡々と語る。プシケの声は精魔のどんな質問にも揺るがない。冷静で感情の動きを悟らせない口調。
「それは建前だろう? 弾き出されるのは魔に限られているのではないか? 心現界は偏見に満ちている。真意は何処に隠されているのだ?」
「それこそ偏見ね。魔だろうが精だろうが、心現界に禍を成す者は、何人たりとも門をくぐれはしないわ。伝説がそう告げている」
「昔語りなど問題ではない。今が問題なのだ。過去はどうであれ、今の我らは心現界に禍を成した覚えはない。何故、魔のレッテルを貼られねばならぬのだ?」
「お言葉だけど、魔が直結して悪に繋がるわけじゃないわ。心現界はそんな定義はしていない。精が悪であることも可能性としてはあるでしょう? もちろん、魔が善であることもよ」
「それは理屈ではないのか? ならば何故、魔と精の区別がある? 何故、魔に毒された精が精魔と呼ばれなければならない? それが何故、我らだと言うのだ?」
「それは心現界が定めたわけではないわ。周りの者が便宜上定義づけたに過ぎないのよ。それは形でしかないし、名前でしかないわ。決して本質ではないのよ。本質を見失い、他の定めたことに振り回されるのは愚かなことだわ」
「ではおまえは、あくまでも、魔と精は同じものだと言うのだな?」
「ある時点までは間違いなく同じものだわ。でも残念ながら、本質を見失った時点で区別はつけられてしまうのよ。本質を見失ったものは変化し、元のものではいられない。精と魔は相反する力。互いに引き合い、でもぶつかり合う。本質を見失ったものは、その対極に引き寄せられ変化する。けれどその時点では変化したものが善か悪かなど定義されてはいないわ」
「本質を見失わなければ、我らは魔にはならなかったと?」
「そうね」
「では、やはり魔は悪だというのか?」
「魔に変化したところで、心現界の意志に反しなければ悪に分類されるとは思えないわ」
「我らが心現界の意志に反したと、そう言うのか?」
 プシケは答えなかった。
 沈黙が辺りを支配する。精魔は身じろぎもしない。彼女を凝視する、その眼にほんの僅か、邪なる翳りが見え隠れした。
「質問を変えよう、森の主。魔は精から生まれ、精は魔から生まれることはない。何故だ?」
 沈黙を破る精魔の声。やけに静かだが、底辺に行き場のない憤りが漂っている。
「精は無垢な魂の証。けれど中には、その根底に魔の要素を持って生まれてくるものもいる。それが魔に変化するかどうかは、本質を見失うかどうかにかかっているのよ。変化したものは元に戻ることはない。だから魔から精は生まれないわ」
「本質を見失わなければ魔の要素はどうなるのだ?」
「消えて無くなるわ。その精には魔が必要でないから」
「何故、魔を持って生まれてくる精がいる? 魔の要素は何のために必要なのだ?」
「それはバランスの問題だわ」
「バランスだと?」
「そうよ、バランスよ。どんなものにもバランスが大切なのよ。東と西、南と北。天と地、表と裏。明と暗、光と影。善と悪、聖と魔。どちらか一方では存在し得ない。どちらが欠けてもバランスは崩れる。バランスを崩さないために、精が生まれれば魔も生まれる。心現界にとっても魔は必要不可欠なものなのよ」
 再び沈黙が訪れた。精魔はプシケを睨んでいる。言い知れない憤りを秘めた眼。だが不思議なくらい静かな、怒りを露にしない声。
「心現界は我らを必要なものだと認めているのだな? ならば何故、我らは心現界の恩恵を受けられないのだ?」
「存在を認められても、誰もが皆、恩恵を受けられるものではないのよ」
「精は心現界から力を与えられなければ生き延びることはできぬ。我らも同じ。元は同じ精なのだから……」
「だから幾つもの精神を吸い取り、糧としてきたのね?」
「それしか我らに生き延びる道はなかった。我らは空間を彷徨い帰る場所もない。精と同じ場所で生まれながら、そこにも帰れない。心現界は我らを認めても力を与えてはくれぬ。我らは力の源を心現界には求められない。……哀れだとは思わぬか、森の主よ……?」
「ええ、そうね」
「おまえならわかるだろう? 森の主、おまえにも覚えがあるだろう? 迫害されるものの苦しみを、悲しみを、怒りを……おまえなら理解できるはずだ。そして、おまえなら我らを救えるのだ。その力をもってして……」
 森の主と精魔が睨みあう。大気の震えすら許さない緊迫した空間。透にも紫音にも、おそらくクリスにも、彼女たちの抱いている想いは計り知れない。密かな闇で渦を巻く、心現界を深く知る者たちのそれぞれの想い。
「私に、心現界に連れて行けと言いたいの?」
「そうだ」
「残念だけど、その願いを聞くわけにはいかないわね」
 精魔が目を見開く。
「何故だ?」
 プシケは透たちを振り返り、すぐ精魔に視線を戻す。きっぱりとした声で言った。
「彼らと約束したからよ。人探しに協力すると。せっかく見つけたその人を、ここで逃すわけには行かないわ。そのためには、あなたを封じなければならないのよ」
 精魔は一歩後退る。
「私を封印すると言うのか?」
「申し訳ないけど、そうなるわね」
 怒りと驚きで身を震わせながら、精魔はプシケを睨みつける。その瞳にはもはや隠しようのない邪気が沸々と燃えさかっていた。
「おまえは、あれほどまでに我らを公平な目で見ていながら、我らを敵と見なすというのか! 魔を悪ではないと言いながら、私を封じようなどとは! おまえは物分かりの良い振りをしながら我らを騙したのだな!」
「私は全ての魔が悪だとは思えない。でも確実に言えるのは、あなたは悪だということよ。あなたは自分が望まなかったとしても、既に悪に分類されるものになっている。悪だから、私はあなたを封じなければならないの」
「私が何をしたと?」
 身を震わせ後退る精魔。プシケは容赦なく言葉を放つ。
「あなたは心現界の禁忌を侵したじゃないの」
「何?」
「心現界で最も忌み嫌われるのは、他を侵害することよ。あなたはいったい幾つの精神を吸い取ってきたの? 一度でも他を侵した時点で、あなたは悪以外の何者でもなくなってしまったのよ」
 精魔は愕然と立ち尽くす。
「あれは……あれは、仕方なかったからだ。そうしなければ、生き延びられなかった……」
「それは言い訳に過ぎない。そうしなくても方法はあったはず。……あなたは愚かだわ。心現界は己の損得だけを追求する者には決して手を差し伸べない。自分から受け入れられる資格を捨ててしまっていたのよ」
「そんなこと……」
 彼女の言葉は、精魔に充分すぎるほど衝撃を与えていた。もはや邪気も狂気も感じられない。意気消沈した哀れな姿。
 それは束の間でしかない。
 次の瞬間、精魔の周りで俄かに風が巻き起こった。暗緑色の気体が精魔を取り巻く。逆立つ髪、憎しみの篭められた瞳。
「ならば……ならば最初の予定通り、おまえの力も透の力も、精の力も吸い取ってやる! そして紫音、おまえを手に入れ、心現界を乗っ取るのだ!」
 暗緑の渦の中で高らかに笑う精魔。
「愚かな……可哀相な精魔……」
 プシケは物悲しい瞳でそれを見つめる。
「あなたはそうやって、幾つもの精神を吸い取って己のものとしてきた。でも、最後にはしくじったようね。その依代の力を吸い取ったつもりで、逆に依代に取り込まれてしまったことにも気づかないなんて」
「何!」
「あなたが話す言葉の大部分は、その依代が言わせているのよ。あなたは既に依代に負けてしまっているわ」
「馬鹿な!」
 暗緑の風は吹き荒れる。精魔の心を写すかの如く。
「騙されるものか! 私は私だ! 森の主、おまえの言葉にはもう騙されない! 覚悟するがいい!」
 俄かに闇が降って来る。精魔のビジョン。本体が間近にいるために、辺り一面、溢れ返る邪気で埋め尽くされる。
「森はまだ再生できていない。ここではアレを相手にはできないわ」
 プシケは振り向いた。透たちの側へ寄る。
「透、紫音、クリス! 私の手を握って! 離してはダメよ!」
 彼女が叫ぶ。彼らは言われる通りにした。
 刹那――
 空間が歪む。何処かでこんな感触に出逢った気がする。何処でだろう? そんな遠い昔ではない。
 ……そうだ! アマンダの記憶だ! 空間が歪み、天地左右が逆転する。投げ出され、振り回される感触……あれは何だった? 確か、強大な力の流出がポイント0を作ったとか言ってなかったか。そして彼女たちは投げ出されたのだ、次元の狭間という闇に………
 気がつけば、透は自分の足で大地を踏みしめていた。
 そこは、見渡す限り低い草の生える草原。一陣の風が吹き渡る。昼間のはずなのに妙に暗い。
 見上げると、暗緑色の空が昼夜の区別など吹き飛ばしていた。
【封印】へ続く
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