せいじゃく
静寂
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 月明り。
 余りの眩しさに目を開ける。
 満月だ。大きな満月がぽっかりと夜空に光の穴を空けていた。瞬く無数の星。月の光に負け、屑に見える。双子の月――懐かしい故郷。
 紫音は唐突に起き上がる。
 辺りに漂う静寂。見渡すと、伐採されたように木々が消え去り、広大な平地と化した湖のほとり。
「随分、景色が変わっちまったな……」
 紫音は独りごちた。
「あなたがやったのよ」
 プシケの声。視線を巡らせる。少し離れた場所に彼女の姿。
「ああ、そうだな」
 更に少し離れた場所に透とクリスが横たわっていた。月の光が煌々と照らす、そこはプシケの結界の中。覚醒した紫音には、その結界がありありと見えた。
「どうやら記憶はあるようね」
「まあな」
「どうしてくれるの? 森は三分の一の力を失ったわ」
「すまん……だが、どうにもできん」
 プシケの瞳が緩んだ。
「冗談よ。木々が吹き飛んでも大地は生きているわ。傷ついても再生はできるのよ」
 心なしか、プシケの印象が少し変わっている。相変わらず、表情に乏しく抑揚のない声だが、何処となく柔らかいものを受けた。
「知っていた? 月は癒しの力を司る。この湖もそう。癒しの力を溜めて私が作ったの。この湖で月光を浴びると、傷ついた精神力を回復することができるのよ」
「ああ、なるほど……」
 それで彼女は湖の中で月光に身を晒していたのか。
「透が目を覚ましたら教えてあげようと思うのだけど、やはりあなたの方が、体力が上だもの、回復も早いようね。それに透はあなたと違って、精神に直撃を受けてしまったから」
 紫音は問う。
「どのくらい、経ったんだ」
「三日よ」
 静寂に染みる声。
「ヤツは?」
「安心して。あなたの力に怖れをなしたようね。あれ以来、現れないわ」
「そうか……とりあえず時間は稼げそうだな」
 紫音は徐に立ち上がろうとした。が、身体に気だるさが取り憑いて離れない。
「無茶な人。あなたも見た目より深手を負っているのよ。あなたにも癒しの力が必要だわ。月の光を浴びなさい」
 プシケは湖を指差した。
 
 
 水は熱くも冷たくもない。それどころか水の感触でもない。絡みつき、包み込む、癒しの力。暖かく心地がいい。
 月はもっと強大な治癒力を持っていた。湖と月。重なる癒しの力。なるほど。月に手を差し伸べたくなる気持ちもわかる。
 湖に身体を浸す。その水滴に月光が宿る。癒しの力を身に纏う。それの繰り返し。次第に己の精神力が回復するのを実感として捉えられた。
「なあ、おまえ。見ていたんだろ?」
 湖の中から問いかける。
 彼女は水際に来て佇んでいた。月光を浴びる紫音を見つめながら言う。
「見ていたわ」
「俺の力は、どんな力だった?」
 すぐには答えない。答えることを躊躇っているのか。暫くの沈黙の後、迷い疲れた声が背後から語る。
「あなたの力は両刃の剣だわ。使い方を間違うと、己をも傷つける。しかもまだ、全然制御ができていないのだもの」
 紫音は振り返る。真っ直ぐにプシケと向かい合う。彼らは声もなく見つめ合った。
「あなたは敵の精神攻撃を無効にする。それだけではないわ。自分に向けられた精神の力を吸収して、何倍にも何十倍にも増幅して返すことができるの。その力を攻撃にも守りにも変えられる。しかも、あなたが念じた者たちをも精神攻撃から守ることができるのよ」
「随分、ご大層な力だな」
「究極の力だわ。……心現界に関わる者にとって、精神の力は最大の手段。それを全く無効にする力を持つ相手など、究極の驚異なのよ」
 紫音は黙り込む。彼が得たその力は、これからの彼にどれだけの影響を及ぼすのか。漠然とだが意識の端で感じ始めていた。
「ひとつ、気づいたことがあるわ」
「何だ?」
「あなたの力が発動するきっかけよ」
「どういうことだ?」
「あなたは透を守ろうとする時、一番力が発揮できるようね」
「………」
「多元空間にいた時もそうだったでしょう? 何度もそんなことがあったようね」
 紫音は腕を組み、プシケをしげしげと眺めた。
「何故知ってる? 俺たちがポイント0にいたことは言ったが、そこで何があったかなど話した覚えはない。おまえのお得意の残像とやらか?」
「残像なんかじゃないわ」
 彼女は俯いた。紫音の視線から逃れるように。
「おまえはもしかして、俺たちのことを知っていたのか? 俺たちと出逢うよりも前に」
「知っていたと言えば、知っていたのかもしれない。でも、知らなかったと言えば、知らなかったかもしれないわね」
「禅問答か、おまえは。そういう曖昧な掛け合いは苦手なんだ、やめてくれ。一体おまえは敵なのか、味方なのか、どっちなんだ?」
「敵ではないわ。少なくとも、私はあなたを敵に回したくないわ。それよりも……」
 彼女は視線を上げた。深い緑の瞳には何が映されているのだろう。
「どうして透を守るために、そんなに必死になるの?」
 紫音は再び背を向ける。答えたくないからだ。
「自分の命を失うかもしれないのに、どうしてそんなに透のために必死になれるの?」
 深い溜息。彼は水に身を浸す。そしてもう一度溜息。誤魔化そうとしても、プシケの視線が張りついてくる。
「何故そんなに知りたがる? おまえには関係ないことだろうが」
 背を向けたまま不機嫌に言う。
「知っておきたいのよ。運命を共有した者として」
 紫音は言葉を失った。事によると彼女は、紫音と同じ考え方を持っているのかもしれない。
 長い沈黙の後、紫音はついに言葉を放つ。
「……透は、俺の救いだからだ」
「救い?」
「そうだ。アイツの生き方は俺の救いなんだ。アイツの魂は純粋で、俺の汚れ切った魂を救ってくれる。何処までもお人好しの大馬鹿野郎だが、そんなところも俺にとっては救いなんだ」
「……わかるような、気がするわ」
「アイツは開けっぴろげで真っ直ぐで、傷つき易い甘ったれ野郎だ。だが、挫けることをしない。転んでも自分で立ち上がる術を本能で知っているんだ。明日を信じて突き進む力は誰よりも強い。俺はそう思う」
「信じているのね」
「ああ。俺は、あんまりアイツが危なっかしいんで警戒心を持てと教えた。むやみやたらと他人を信じるなと。だが、本当は、俺が一番そうなって欲しくないと思ってる。アイツの一番いいところが無くなるような気がしてな……」
「そうね……」
 月の魔力だろうか。普段は言えないことを、何故こんなに饒舌に語っているのだろう。
「アイツがアイツらしいのは、今のまま変わらないでいることだ。俺が側にいればいつでも守ってやれる。そうすれば、アイツはそのまま変わらないでいてくれるんじゃないか……そう思うだけだ」
 紫音は月に手をかざす。何だかわからないが、清々しい気分が心を埋めていた。
「あなたは……自分のことは余りわかっていないのね……」
 プシケは呟く。
「あなたの魂は、少しも汚れていないのに……」
 紫音は徐に振り向いた。
 と、プシケの側に、いつの間に目を覚ましたのか透が佇んでいる。呆然と紫音を見つめながら。
 一番聞かれたくない相手に本音を知られたかもしれない。彼は内心ひどく慌てた。
「何やってんだよ、紫音?」
 透はとぼけた質問をした。
「何って……見りゃあわかるだろうが、風呂だ。それとも裸踊りにでも見えるか?」
「へ……?」
 透は複雑な顔をする。確かに裸踊りには見えないが、腰まで湖に浸かった男が、月明りに裸体を晒しながら少女と会話している光景は、余りにも変だ。怪訝な眼差しを向けてしまうのも無理からぬことだろう。
「何て顔で人を見てやがんだ。いいからおまえも入れ! この湖は精神の力を癒してくれるんだとよ」
 縁まで来ていきなり透の足を掴んだ。そのまま引っ張る。透はバランスを崩して湖に滑り落ちた。
 
 ――バシャーーーーーン!
 
「何だ? おまえは服着て風呂に入るのか? おまえの世界は変わってるんだな」
「んなこと言ってえー、いきなり訳もわからず引っ張り込まれたんだ。どうしろって言うんだよ!」
 いつもの透だ。受けたダメージがどのくらいの痛手だったのか、微塵も感じさせない元気な声。
「服を着たままでも月の光を浴びることはできるわ。それに、この湖の水は普通の水ではないから、濡れた物を乾かす心配もいらないわよ」
 岸からプシケが声を掛ける。その声は柔らかく、静寂の中に流れていった。
 
 
 明け方が近い。月が別れを告げて行く。
 透の膝で丸まるクリス。透を挟んで紫音とプシケ。彼らは湖に向かって並んで座っていた。月の名残を見送って。
「これからどうするんだい? また精魔を追いかけて行くの?」
 透が問う。
「心配するな。放っときゃ向こうから来てくれる」
「そうね」
 透は横目で紫音を見る。視線を移しプシケを見る。顔の向きはそのままで、交互に二人を見比べた。
 透が気を失っている間、二人はどんな会話をしていたのだろう。目を覚ました時、随分彼らは話し込んでいるようだったが、残念ながら内容までは聞き取れなかった。ただ、深刻な話をしているだろうことは、その場の雰囲気で掴み取りはしたが。
 二人の態度が不思議でならない。あんなにプシケを警戒し監視までしていた紫音。頑なな態度を変えもせず、透の猜疑心まで呼び起こしたプシケ。今の二人は何かが少し違う。
 紫音は多分、もうプシケを敵だとは思っていない。何がそうさせたのかは透には計り知れないが、信頼とまではいかなくても、彼女を認めたことだけは確かだ。
 プシケはどうだ。表情も声も相変わらずなのに、何処かが、気を失う前まで接していた彼女とは違う。何となく柔らかい印象。何が彼女をそうさせたのだろう。
「透は少し、心をガードすることを覚えた方がいいわね」
 唐突にプシケが言う。
「え?」
「あなたのいいところはその素直なところなんだけど、敵に対しては大きな弱点になるわ。心をガードしていれば敵に突け込まれることはなくなるわよ」
「ガード……ったって……???」
「無心になるのよ。無防備でなく、無心にね」
 ますますわからない。
「要は動揺するなってことだ。何があっても心を乱さず、物に動じずってことだな」
「紫音みたいに図太くなれってコト?」
「言うに事欠いて図太いとは何だ!」
 言葉と同時に頭をはたかれた。
「わかったよ、悪かったよ。要するに紫音みたいに冷静沈着になれってことだろ?」
「そう言うことだ」
 紫音は笑う。透もつられて笑う。プシケは二人を黙って見つめていた。瞳にはもう、前のような冷たい煌きはない。
「そう言う紫音こそ、力を制御することを学ばなければならないわよ」
「制御? 紫音の力って……? ……そう言えば、僕が気を失ってから、いったいどうなったの?」
 紫音はプシケを見た。
 確かに一部始終を見ていたのはプシケだけだ。彼には説明に困るところもあるだろう。プシケは透にわかり易く、見たままのことを伝えた。
「へええ、紫音の力ってやっぱり半端じゃなかったんだね。すごいもんだ」
「手放しに言うな。コントロールができなければ、こんな力は恐怖以外の何ものでもない」
「そうかな? そんなことないよ。だって攻撃にも防御にも転じられる力なんて、便利なコトこの上ないじゃないか」
「軽口だな」
 透は辺りを見廻しながら、
「でも、それにしたってこれはやり過ぎだよな。辺り一面こんなに伐採されちゃって」
「あのな……人を木こりみたいに言うな。俺だってこんなにしちまうなんて思ってもいなかった」
 透はけらけらと笑った。紫音がバツの悪い顔をしている。前代未聞のことだ。
「紫音が制御できないなら、制御できる者が側にいればいいのよ。透なら、紫音の力が暴走した時、止めることができるわ」
 笑い声が止まる。
「僕が? プシケじゃなくて? だって、紫音が覚醒した時、暴走を止めたのは君なんだろ?」
「あの時はあなたが気を失っていたからだわ。あなたと紫音の精神の波長は恐ろしいくらい同じなのね。同じ波長を持つものは、お互いに作用することができるものよ」
 クリスと同じようなことを言っている。
「でも、どうやればいいんだい? それに、実際に見たわけじゃないし……」
「呼びかけるのよ。精神に直接呼びかけるの。紫音の精神に念を送るのよ」
「念? 念じろってコト? ポイント0でやった時みたいにかな?」
 プシケはごく自然に答えた。
「そうね。あなたは自分の力を無意識のうちに制御する術を心得ているから。多元空間で念が通じるのなら同じようにやってみることよ」
「うん、そうだなぁ。やれば何とかなるもんだよね」
 透は不思議にも思わなかったらしい。プシケがポイント0での透の体験を、知っているような口振りだったことを。
 紫音は気づいていた。そして、それをどんなに問いただしたところで、彼女が自分からは何も語らないこともわかっていた。
 いつまで秘密にされるのだろう?
 彼女は透たちを味方だと認めたはずだ。敵には回したくないと。真相は何処かにあるはずなのに、彼女はそれを小出しにしかしない。プシケが何の目的で彼らに近づいたのかわからない。わからないが、確かに敵ではないのだ。覚醒した力がそう告げる。彼らにとって、彼女はまさに重要な存在なのだ。
「この伐採地帯、どうしたらいいかなぁ? このままじゃ森が可哀想だ」
「優しいことを言ってくれるのね」
 プシケは落ち着いた物腰で立ち上がる。
「心配はいらないわ。私たちが少しの間ここに滞まっていたことで、森は私たちから力を吸収し再生のための糧にする。そして森は甦り、また私たちに力を還元してくれるのよ」
「へええ、力のリサイクルだ」
 プシケは振り返り、残された木々の向こうから、陽が昇るのを見つめた。
 その時、膝のクリスが突然、跳ね起きた。
『透! 気をつけて!』
 クリスは東の方向を見ている。
 透も紫音も一斉に背後を振り返った。
 遠方に人影。プシケが呟く。
「やはり来たようね」
「ついに本体のお出ましってわけか」
 紫音は徐に立ち上がった。
 透も立ち上がり、首を傾げる。紫音が本体というからには、やってくる人影は紛れもなく精魔。つまりはアメリアだ。
 だが、透には不思議なくらい禍禍しさが感じられない。精魔のビジョンですらあんなに嫌な感触だったというのに、本体なら尚さら強く感じてもおかしくないのではないか。
 紫音もプシケも既に気配を感じ取っていたようだ。もしかすると、クリスが跳ね起きる前から精魔が近づいていたことを感じていたのかも知れない。
 徐々に近づく人影。それは記憶に残るアメリアの姿をしている。やはり不思議なくらい、あの纏いつくような禍禍しさが感じられない。
 透はよろけ、紫音の肩にぶつかる。腕に抱くクリスを更に強く抱きしめた。
 人影はもう、すぐ側まで来ている。ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。彼らは言葉もなく、それを見守っている。
 アメリアの姿をした精魔は、プシケの前で足を止め、にやりと笑った。
【精魔】へ続く
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