かくせい
覚醒
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 プシケは冷ややかに紫音を見つめる。
「甘いわね。精魔の力を見くびると痛い目に合うわよ。あなたは確かに無限の力を秘めているわ。けれどそれは覚醒していない。いつ発動するか知れない力を当てにしていて、精魔を封印できるとでも思っているの?」
 紫音は皮肉な笑いを浮かべた。
「さあな? だが、やって見なければわからない。何もしないで殺られるくらいなら、ハッタリでも何でも仕掛けてみるさ」
「何処までもおめでたい人ね。物理的にしか作用できないあなたじゃ、ハッタリも何もかける暇なんてないでしょうよ。死んでもいいの?」
「だったらその時は俺の命運も尽きたってことだな。死ぬことを怖れて何もしなければ、事態は何も変わりはしない。後ろにも前にも進めやしねえんだぞ」
 ほんの僅か、プシケの眉が動いた。前よりももっと低い声で言葉を繋ぐ。
「だからと言って……命を粗末にすることないわ。ここは零空間とは違う。念じればどうにでもなるというものではないのよ」
 彼女は耳慣れない言葉を使った。
「零空間? それはポイント0のことか?」
 紫音を見つめ頷く。
「零空間は無と有が混在する世界。心現界では多元空間と呼ぶの。多元空間には要素はあって形はない。だから精神力の強い者なら、念じれば念じた形を現すことができる。だけどここは違う。既に決められた形があり、その形を創り上げるために要素は使われている。要素は無限でなく有限。力を意図して使わなければ何にもならない空間なのよ」
「なるほどな。確立した精神的な力がない俺には、この空間では何もできねえってことか?」
「はっきり言えば、そうね。精魔を攻撃することよりも、まず自分の身を守れるかどうかを考えた方がいいんじゃないかしら」
「それで? それで俺は何もせずに、おとなしく透に守られてろってことなのか」
 彼は透を見つめた。苦々しいその口調から、常にないもどかしさを感じていることが伝わってくる。
「精魔は紫音を狙ってるんだ。紫音はいつも僕を守ってくれてる。だから今度だけはおとなしく僕に守られてくれよ」
「けっ、大きく出やがって……」
 言いながらも、そんな透が少し頼もしくも思えた。
 自分がいなければオロオロしていた透が今となっては最良の相棒となっている。透に守られ、手を貸すことも出来ない自分がいかにも不甲斐ないが、己の我を張ったところで最悪の事態を招く可能性の方が大きい。ならば、せっかく大きく出てくれた相棒に華を持たせてやっても良いのではないか。
 紫音は思いを巡らせ、呟いた。
「そうだな……おまえのお手並みでも拝見するか」
 だが、プシケはそれに反対した。
「やめた方がいいわ。透は必ず精魔の集中攻撃を受ける。自分の身を守るので精一杯になるわ。森が力を貸してくれても無限ではないのだから。複数に結界を張っていては、どのくらい持つかわからないわよ」
「それもそうだな。……前にヤツと対峙した時も、透は俺たち全員に結界を張っていて、集中力が途切れた瞬間に殺られそうになった。同じ轍を二度も踏む必要はない」
「あなたには私が結界を張るわ。透は自分に集中して」
 紫音は彼女に向き直る。真っ直ぐ彼女に視線を向け、きっぱりと言った。
「それもやめとけ。おまえは森の主だ。おまえだって精魔の攻撃を受ける。精魔は森の主を消したいんだろう? 俺の力を手に入れるために。だったら、おまえたちは己のことだけで手一杯だろうが」
「私のことはカリュブディスが守るわ。別の下僕を呼び出せば精魔に攻撃も仕掛けられる。あなたを守る余力くらいはあるわよ」
 紫音はプシケに視線を据えたまま、
「なら頼みがある。もし俺が殺られたら、その時は透とクリスを守ってくれ」
「……紫音」
「それから、おまえが精魔を封印する技を知っているのなら、ヤツを封印してアメリアを助けてやってくれ」
「あなたのことは、誰が守るのよ?」
 紫音は口を閉じる。にやりと不敵に笑う。
「ヤツは俺の力を欲しがっている。どんな形で手に入れたがっているのかはわからんが、俺が死んでちゃ元も子もねえだろう? 速攻で殺られなければ勝算はある」
「でも……」
 その時突然、紫音の肩にクリスが降って来た。
『私がいるわ! 私が紫音を守る!』
「何てことを……あなたは精魔に力を吸収されているのよ。無理に力を使ったら、精の力を使い果たしてしまうわ」
『それでもいい! 力を使い果たしてでも、透と紫音を守りたいの!』
 プシケは黙り込んだ。
「阿呆ぅ! おまえにゃアマンダとの約束があるだろうが。くだらねえ自己犠牲はやめろ」
 叱咤する紫音。クリスは食い下がった。
『紫音もよ! 紫音こそアマンダとの約束を守らなきゃダメよ!』
 睨みあう二人に、プシケの静かな声が語る。
「紫音を守るのなら、紫音の身体から離れないことね。それで自分を守る力だけで、紫音をも守ることができるわ。……もう、あまり問答をしている暇はなさそうよ」
 透にも感知できた。意識の底に流れくる、ざらざらとした嫌な感触。
「まただわ……またビジョンを送りつけて来たわね」
 これがビジョンとは!
 凄まじいほどの邪悪さ。禍禍しい気迫。これがビジョンだとすると、ポイント0で対決した時よりも遥かに、精魔が力を増していることは明らかだ。
 俄かに空が掻き曇る。この聖なる湖の側では月の力は衰えないはずではなかったのか。
「来る!」
 透が叫んだ。
 空で渦を巻いていた暗緑色の雲。それは形を変え、鋭い風となり、彼らに襲いかかった。
 咄嗟に避けた彼らの足元を抉る風。その一撃で、プシケとカリュブディスは透たちから切り離された。
 彼らを分け、彼らの間にわだかまる、禍禍しい暗緑色の気体。それは声を発した。
 ――紫音……今度こそおまえを手に入れる。……だが、その前に、邪魔者を片付けねばならぬ……
 ぞろりと動く気体。透とプシケの両方に向かって伸びる。
「てめえ!」
 紫音は思わず透を庇うように立つ。クリスが精の力を放った。
 紫音の姿を包み込む淡いピンクの光。クリスタルの如く輝く聖なる魂。その無垢な光は邪悪なものを寄せつけない。精魔は弾かれたように退く。
 ――おのれ! 忌々しい精め!
 一旦、透から退いた精魔は、今度はプシケに集中する。彼女目掛けて鋭い風となり襲い掛かる。
 すかさず、彼女の前にはカリュブディスが立ちはだかった。やってくる精魔の気を、彼の周りの空間が容赦なく吸い取っていく。
 ――ええいっ! 忌々しい! 形態は変えているが、おまえも精だな!
 暗緑色の気体は怒りを露にした。渦を巻き、猛り狂う。周りの木々を激しく揺らし、湖面を大きく波立たせた。辺り一面を覆い尽くし、彼らの周りを隙間なく飛び盛る。
 激動。咆哮。圧迫――どんな強力な結界に守られたところで、精神的なダメージを受けずにはいられない。
「ちくしょう!」
 紫音が叫ぶ。
 何も出来ない。自分には何も出来ない。守るべき者が危険に晒されても、自分には一切手が出せないのだ。
 焦り。もどかしさ。究極のジレンマ――
「ちくしょう!」
 彼は再び叫んだ。
 暗緑の闇の中で、微かな光が見える。プシケの額の水晶。懸命に自分の身を守っているのだろう。距離は遠い。
 透も懸命に念じている。同調した意識がそれを告げている。強大な森の力を持ってしても、いかに苦痛に耐えているか。
「おまえの狙いは俺だけだろう? だったら俺をさっさと連れて行け! こいつらを巻き込むな!」
 ――もう遅い! 私をこれだけ怒らせておいて、ただで済むと思うのか! 障害は直ちに取り除く。紫音、それは今までおまえがやってきたことではないか!
「何ぃ!」
 ――小賢しい精! 小賢しい森の主ども! 目にもの見せてくれるわ!
 精魔の嵐が猛り狂う。息もできない圧迫感。
『きゃうぅ……』
 紫音の身体からクリスが離れた。
「クリス!」
 透の側に弾き飛ばされたクリスの小さな身体。身動きをしない。意識が感じられない。
「クリス!」
 透が目を見張る。
「いけない! 透の気が削がれた!」
 暗緑の闇の中、透の様子をプシケはいち早く察知した。額の水晶に手を当てる。
 だが間に合わない。精魔は一瞬の隙も逃さない。容赦ない精魔の一撃は、紫音の目の前で透の額を貫いた。
「とおるーーーーー!」
 ぐらりと揺れる透の身体。透は地に沈み込む。クリスの側に横たわった。
 素早く駆け寄り、抱き起こす。
「透! 透、しっかりしろ!」
 だが返答はない。意識の動きも感じられない。血の気の引いた白い顔。
「ちくしょう……てめえ……」
 精魔を振り仰ぐ。それはまだ攻撃を止めようとはしていなかった。
 ――分をわきまえぬ愚か者が! 死ぬがいい!
 精魔はとどめを差してきた。
「調子に乗ってんじゃねえ!」
 紫音は背後に透を庇う。透目掛けて繰り出された精魔の攻撃を、素手で受け止めようとした。
 瞬間――
 閃光が、紫音の掌から迸った。
 目を射られる、直視できない強烈な光。それは紫音と透の位置を中心に、四方八方へと広がっていく。
「これは……」
 プシケは目を見開く。
「これが紫音の力……なんて……なんて、恐ろしい……」
 彼女はよろめき、背後からカリュブディスに支えられた。僅かに身体が震えている。
 閃光は見る見るうちに周りの全てを巻き込んでいく。森も、湖も、天も地も。精魔のビジョンなど、一瞬の間に吹き飛んでいた。ただ、透とクリスだけは、彼の無意識の結界に守られていた。
『危険です』
 カリュブディスは静かに囁き、その闇色のマントでプシケを覆った。
 閃光は容赦なく二人をも襲う。だが、プシケは下僕のマントに守られている。カリュブディスの周りの空間は、彼の意識に反応して閃光を吸収していた。
 ふと、彼の眉が顰められた。
『私の手には負えません。このままではあなたも危ない。お逃げください』
「ダメよ」
 プシケは即答する。
「彼らを置いては行かないわ」
『しかし……』
「紫音は覚醒したのよ。……でもまだ力の制御はできない。このまま彼を放っておいたら、周りの全てが巻き込まれるわ」
 言い終わると同時に額の水晶に指を当てた。内部から輝きを増し、煌く水晶。プシケの隠された力が滲み出るかの如く。
 閃光は暴れ続ける。周りの何もかもを巻き込みながら。湖の付近の木々は吹き飛ばされ、地面はその身をさらけ出す。森が泣いていた。森が悲鳴を上げていた。森の主には、痛いほどその叫びが伝わってくる。
「紫音! もうやめて! もう精魔はいない! あなたが精魔を倒したのよ!」
 彼は答えない。同じ姿勢のまま意識を集中し続けている。
「紫音! これ以上森を巻き込まないで! お願い! 心を落ち着かせて!」
 カリュブディスの手を離れ、彼女は一歩踏み出す。
 閃光の中に身を晒し、紫音に少しずつ歩み寄って行った。
 額の水晶が清冽な光を放った。冷たく静かな聖なる光。その光は紫音の閃光を弾く。弾いた力を片っ端から無効にした。
 けれど、おそらく長続きはしないだろう。制御を知らない力は強大さを誇るもの。間に合えばいい。消滅させられる前に、彼を止めるのだ。
「紫音! このままでは、透まで巻き込んでしまうわよ!」
 怯む閃光。力が衰えた。
 その隙を逃さず、プシケの水晶は、紫音の額に光を投げかける。
「う……」
 彼は崩れるように、その場に膝をつく。
「間に合って良かった。でなければ、私も消滅させられていたわ」
 プシケは紫音に歩み寄る。紫音は彼女を力なく見上げた。
「と……透は? ……クリスは……?」
 プシケは、紫音の背後に横たわる透の上に屈み込んだ。額に手を当てる。
「大丈夫、気を失っているだけ。でも、精神を攻撃されたのだから、そう簡単に回復はしないだろうけど……クリスは精だから、もっと回復が早いでしょうね」
 それを背中で聞きながら呟く。
「……そうか……無事か……生きていたんだな……」
 それだけ言うと、彼の身体が前のめりに倒れた。
「紫音!」
 慌てて駆け寄り彼を抱え起こす。
 彼女は膝に紫音の頭を乗せ、長い前髪を指でそっと払った。彼の額に指を当てる。そして、安堵の溜息をついた。
 紫音は一度に強大な力を放出し、力尽きて気を失っていた。
【静寂】へ続く
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