しもべ 下僕 |
森の全てはプシケのテリトリーだが、野営地には透が結界を張った。これで二重の結界に守られることになる。 プシケの意思は森に伝わり、森が随分とお膳立てのいい場所を提供してくれた。丸太や切り株の位置関係が形良く整い、真ん中で火を熾すと簡易囲炉裏端の出来上がりだ。それにここから少し行くと広大な湖がある。彼女の話によれば、水の側というものは気を感じ取るのに最良の場所なのだそうだ。 小枝を火にくべながら、透は辺りをきょろきょろと見廻す。いつの間にか、紫音の姿もプシケの姿も見当たらない。クリスは力を取り戻せたことが余程嬉しいのだろう。さっきから、拾い集めた小枝の上を、パタパタと小躍りしながら飛び回っている。 「クリス。ちょっと火の番をしててくれよ。紫音たちを探してくるから」 『えええー! やーよ、独りで置いてかれるのは。透、私も連れてってよぉ』 「ちょっとだけだよ。そんな遠くに行くはずがないんだし、すぐに戻ってくるから。それにこの辺りは僕の結界があるんだから心配ないって」 『ホントぉ? ホントにすぐ戻って来てよぉ』 「わかってるって」 透は立ち上がり、湖の方角を目指した。 広大な湖の上は、覆い被さる枝もなく、すっきりと開けている。双子の月は真上に差しかかり、煌々と辺りを照らしていた。この森の中で月が影響を及ぼせる唯一の場所なのかもしれない。 微かな水音を捉え、湖面に目を遣った。湖の中に、月明かりに浮かぶ青白い人影。 木の陰から目を凝らして様子を窺う。何故、木の陰に隠れるようにしたのかはわからない。 水音の主は紛れもなくプシケだった。裸の上半身を湖に浮かべ、月の光に晒している。両手を月に差し伸べ、一心に月明かりをその身に浴びていた。 思わず目を離せなくなった。その光景が余りにも美しすぎたから。幻想的なその風景は、まるで現実味を帯びない夢の中でもあるかのようだ。彼女の光り輝く髪は月明かりと同調し、額の水晶は常にも増して光を放つ。その神々しさ、その清らかさは息を呑むほどだ。ギリシャ神話の、エロスに愛されたという絶世の美女の名を持つのも、あながち偶然だとは思えない。 「いい眺めだ」 唐突に頭上から声が降って来た。慌てて見上げると、透が身を潜めた木の枝に紫音の姿があった。 「し、し、紫音!」 叫びそうになって咄嗟に口を押さえる。 「な、何やってんだよ? こんなトコで……」 口を軽く押さえたまま、小声で言った。 「見りゃわかるだろ? あの女を監視していた」 「監視? 覗きの間違いじゃないの?」 頭上の紫音をジロジロと見る。明らかに彼の特等席は覗きには最適だ。 「そういうおまえはどうだ? 木の陰に隠れたところをみると、覗き根性がなかったとは言えまい。どうせ覗くんならコソコソやらずに堂々とやれ」 「ぼ、ぼ、僕は、紫音とプシケを探しに来ただけだ。覗きなんてそんな失礼なこと、するつもりなんてないよ」 透は赤い顔でうろたえた。 「どうだかな。ガキが一人前に色気づいたか。だが、あの女は止めとけ、骨抜きにされるかもしれん。おまえも気づいている通り、あの女は感情というものを一切表さない。惚れても苦労するだけだぞ」 「僕はプシケを一度もそんな風に見た憶えないよ」 「ならいい。あの女の正体がわかるまでは、こうして監視を怠らないことだ」 紫音はわざと音を立て、木の枝から飛び降りた。木々の騒めく音を彼女に聞かせるかのように。 案の定、彼女はこちらを振り向いた。紫音は逃げも隠れもせず、堂々とその姿を彼女に見せる。不敵な笑みを浮かべながら。透はドキドキしながら彼と木の間から顔を覗かせた。 それを見ても何も変わらない。プシケは何の恥じらいも驚きもなく、徐に彼らに背を向け、同じように月明かりを浴び続けた。 「なかなか尻尾を掴ませない女だな」 紫音は執拗に彼女を見つめ続ける。だが、透にはもう湖の光景を直視できなかった。 「僕、もう行くよ。クリスを待たせているから」 と、首根っこを掴まれ引き止められた。 「アイツも帰るってよ」 耳の端で水の跳ねる音がする。 どうやら彼女は、彼らよりも少し離れた木の枝にでも、衣類をかけておいたらしい。草を踏む音がし、衣擦れの音がした。 紫音は透と背中合わせで一部始終を見ているようだ。 「失礼じゃないか、紫音。女の子の着替えを見つめるなんて」 小声で言うと、 「相手が普通の《女の子》なら遠慮している」 まるで取り合わない。 透は堪らなくなって振り向いた。取り敢えず、紫音の好奇の目から彼女を守るために、彼を木の陰にでも押し込もうと思ったのだ。 が、プシケはもう元の姿で、透たちの方へ歩み寄ってくる。真っ直ぐ見つめる緑の瞳。彼は罪悪感から視線を逸らせた。 「私を監視していたの? それともただの好奇心?」 「両方だ」 紫音は隠すことなく言い切った。 「どちらでも構わないわ。あなた方の目があることは森が教えてくれた」 そうだった。この森はプシケのテリトリーだ。紳士にあるまじき行為など筒抜けなのを失念していた。透は益々恥じ入って彼女に顔を向けられない。 「どちらにしても、あなた方に見張られていると言うことは、最強の護衛がついているのと同じことだわ」 抑揚のない声は、かえって彼女の特徴と言えるかも知れない。余りにも冷静な口調、無表情な顔。プシケは徹底して感情を表すことをしない。 何が彼女をそうさせるのだろう。彼らを誤魔化すためなのか、それが真実の姿なのか。 彼女の人物像が掴めない。透の意識の中には、何か言いたげに瞬く光が今もあるというのに。 透は小枝をくべる。プシケを密かに盗み見ながら。くべられた小枝が燃え上がる様をプシケは見つめていた。美しいだけに、身動きひとつしないと人形のようだ。 紫音もプシケを見ている。彼は彼女を監視しているのだ。どんな些細な行動も見逃すまいと、執拗に視線を据えている。 クリスだけが呑気に構えていた。プシケの横で丸まって眠ってでもいるのだろうか。時折、寝返りと思しき身じろぎをした。 と、突然クリスが跳ね起きる。 『嫌な感じ!』 「えっ?」 『透! 嫌な感じがするの!』 「近いわね」 「精魔か?」 低い声で紫音が言う。 「ええ。……来るわよ」 彼女の言葉が終わるか終わらないかのうちに、俄かに闇が降ってきて辺りを覆う。月明かりが遮られた。 「何だ、これは?」 「ビジョンよ。やって来たのは本体じゃないわね」 月の恩恵を受けられないなら光源は焚き火だけしかない。実に心もとない限りだ。 透が気配を振り仰いだ。何か鋭いものが向かって来る。頭上から真っ直ぐに、彼らの居る場所に落ちて来る。 「危ない!」 彼らは咄嗟に避けた。 暗緑色の気体めいたそれは、焚き火を正確に狙ってきた。焚き火は跡形もなく消える。 後に残るのは全くの闇。精魔のビジョンは、森が持つ仄かな灯りすら掻き消していた。 誰もが息を飲む。精魔は動く気配を見せない。 「ここは不利だわ。湖に逃げるのよ。あの場所の月明かりは遮られることはない」 プシケが囁いた。 「そこまで辿り着く前に襲いかかられたら?」 透の危惧に即座に答える。 「二手に分かれましょう。透と紫音とクリスはすぐに湖に向かいなさい。私はここで精魔の様子を探るわ」 「そんな! じゃ、僕は君と残るよ」 静かな声が透を諭す。 「あなたは紫音と離れないで。あなたがいなければ森は手助けをできない。私のことは森が守ってくれるから」 彼は返答をしかねた。 「心配はいらないわ、すぐに後を追うから。それと、できるだけ私から離れなさい。精魔の狙いはどうやら私のようだわ。クリスを助けた時に、私の水晶が逆探知されたようね」 「やっぱり、君も一緒に行こう!」 プシケが承知しないのがわかっていても言わずにはいられなかった。 「だめよ。さあ、行きなさい。森があなた方を案内するわ」 声と同時にプシケの気配が遠のいた。彼女は自ら彼らと距離を置いたのだ。 「透、もたもたするな」 声のした方へ手をやる。紫音の肩に手が触れた。 「クリス」 『ここよ』 クリスは透の頭に乗っかっていた。彼らの手助けになろうと懸命に光を放っている。精魔のビジョンの中なので薄ぼんやりとはしていたが、それは随分と心強い光となった。 「行こう!」 透が動き出すと、森が彼らの動きに合わせて道を作ってくれる。クリスのぼやけた光しかないので目に見えているわけではない。気配で何となくわかるのだ。《場》が味方をしてくれるとはこういうことなのか。 精魔は追って来ないようだ。あれはプシケを追いかけていったのだろう。 幾らも経たないうちに彼らの目に月明かりが飛び込んできた。湖面が閃いている。水辺に走り込むだけで、そこはもう、闇の干渉できない空間。月の力が溢れ返っていた。 「プシケは無事に逃げられたかな?」 答えるように、遠方の湖岸で樹木の騒めく音がした。プシケの姿が精魔のビジョンから踊り出る。その後を追うのは暗緑色の気体。 「プシケが危ない!」 透が叫んで駆け出そうとした。 「待て! あの女が言ったはずだ。自分から離れて逃げろと」 「何言ってんだよ! プシケが襲われてるのに放っとけって言うのか!」 「そうじゃない! アイツにはアイツの考えがあるはずだ。あの女は馬鹿じゃねえ。勝算もなしに動くとは思えん、そう言ってるんだ」 「そんなこと……!」 最後まで言葉は出なかった。透の見た光景は、プシケに襲いかかり彼女を包み込む暗緑色の魔物。苦しげな彼女の表情。 「だめだ! 助けなくちゃ!」 透はもう紫音の言葉を聞かない。 「透、待て! 全く……お人好しの大馬鹿野郎が!」 透はもう走り出していた。追いかけるしかない。 「プシケ!」 暗緑色に染まりながら、声のした方を見る。彼方から透が駆け寄ってくる姿を認めた。その後ろには紫音までが。 「離れていなさいと言ったのに……」 言いながら、額の水晶に指を当てる。 「困ったわ。透が側にいると私の力は出し切れない」 水晶が光を放つ。暗緑色の魔物が怯んだ。 『……プシケ』 彼女の背後の空間から声がした。低い男の声だ。 「まだだめよ。森が私に力をくれなければ、その時は、あなたの力を借りるわ」 水晶に怯えた魔物は彼女の身体から一時退避する。己のビジョンの闇に身を潜めた。 息を切らせながら透が駆け寄ってくる。 「プシケ! 無事だったんだね! 精魔は何処?」 「透! 来てはいけない!」 プシケよりも先に、森がそのことを透に告げた。 彼はいち早くそれを察知する。自分めがけて襲いかかる暗緑色の気体。うろたえることなく気を溜め、魔物に向けて結界球を放った。 結界球に封じられ、魔物は動きを鈍らせる。闇に逃げ込もうとするが、ままならないと見える。 「やっぱり森は、あなたを守るのに精一杯のようね」 プシケが呟いた。 「何だって?」 透の質問には答えず、彼女は低く叫ぶ。 「カリュブディス!」 プシケの背後の空間が蠢いた。 「何だ? あれは……」 透も紫音も目を凝らす。 プシケの背後の空間が揺らめきながら渦を巻く。最初は小さな渦だったものが、回りの空間を巻き込みながらどんどん広がっていく。 その渦の中心が開き、ぽっかりと現れた闇の穴。穴は躊躇うことなく暗緑色の気体を吸引する。魔物はそれから逃れようとするが、透の結界があり身動きが取れない。苦し紛れに身をよじらせながら、悪あがきも空しく引き寄せられる。見る見るうちに魔物は吸い込まれ、吸い込まれると同時に闇の穴は口を閉じた。後に残された渦は揺らめき、揺らめきながら人の姿に変化した。 プシケの背後に若い男が立っている。暗黒色の長い髪。金の光を放つ眼。 『プシケ、終わりました』 彼が言ったのだろう。その声は、クリスの声と同じように精神に直接語りかける。人の姿をしているが、彼が人でないことは、変化の前の姿でわかる。 「あなたは……誰だ?」 透が問う。彼は答えない。 「彼はカリュブディス。私の下僕。私の命を守るためにいるの」 プシケが変わりに答えた。 「下僕? 命を守るって、ボディーガードみたいなもの?」 「そんな簡単な存在ではないわ」 淡々とした答え。 「カリュブディス? ……どっかで聞いたことがあるんだよなぁ……???」 透の疑問は別の方へ向いた。 「彼は空間に渦を巻き、異次元の穴をこじ開ける。渦を操る者だから、神話の海魔から名を取ったのよ」 「あっ!」 ギリシャ神話だ! ――カリュブディスとはギリシャ神話に登場する渦潮の怪物だ。 「それより、そんな悠長に構えている場合ではなさそうよ。さっきのは精魔のビジョンに過ぎなかったはず。でも、ビジョンにしては侮れない力を持っていたわ。もしかしたら精魔は何か別の力と融合したのかもしれない。そのために魔の力が増幅されていたとしたら、封印するどころか、返り討ちに遭ってもおかしくないわね」 プシケの声に、心なしか緊迫した響きが篭っている。 「ヤツが力を増してるってことか?」 話の内容に紫音は慌てもしない。 「そうよ。それにあの魔物は、余りにもあっけなくカリュブディスに吸収された。ビジョンから受けた印象にしては手応えが無さ過ぎだわ。おそらくは偵察だったのではないかしら? だとしたら透が危ないわ。知られてはいけない事を知られてしまった」 「どういうこと?」 「この森は強大な力を秘めている。森を守るものがいるうちは、精魔はここでは力を出し切れない。だから、森の主を始末してからあなた方を狙うつもりなのよ」 「だったら、危ないのはプシケじゃないか」 「いいえ。今、この森はあなたを守るために力を使っている。主の私よりもあなたに力を与えているの。森が透を認めたからよ。だから私を始末したところで、森の力は衰えないわ。……そのことを精魔に知られてしまった。この次は私だけでなく、あなたも狙われるわ、透……」 透は息を呑んだ。 「私のことは大丈夫。カリュブディスもいるし、他にも下僕はいる。あなた方は自分たちのことだけ考えなさい」 突き放すような低い囁き。 「おまえは本当に大丈夫そうだな」 紫音がずいと前に出た。透を見つめながら言う。 「問題は透か。おまえは結界を張って後ろに退がってろ。後は俺に任せるんだ」 「精魔は物理的な攻撃は受けないわ。それに、あなたは物理的にしか身を守ることができないはず」 「俺にだって何かの力がある。クリスがそう言った。たとえ力が役に立たなかったとしても、黙って見ているのは性に合わんのでな」 彼はそう言うと、両の指を鳴らせた。 【覚醒】へ続く
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