ついせき
追跡
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 いつもは先に立って歩くのは紫音だが、今はプシケが先頭だ。紫音は最後尾にいる。
 プシケはやはりこの森に相当詳しいと見える。入り組んだ木々の間を巧みに縫って歩くことができるのだから。ともすれば迷いそうなこの森を歩き慣れているのか、単に精魔の残像を追っているだけなのか。どちらにしても彼女がいなければ、透たちがこの森を抜けるのに何日かかるか知れたものではない。
「魔物が棲んでると言われりゃ、確かに納得できる森だな、こりゃあ」
 銃の先で枝を除けながら歩く。透よりも背の高い紫音は木々の枝に引っかかり易いのだ。
「さきほども言った通り、魔物と呼ばれるものはここにはいないわ」
「何故言い切れる?」
 彼女は一瞬、黙り込んだ。答えないのかと思ったら、振り返ることなく言葉を放つ。
「私がこの森の主だからよ」
「何だと?」
 今度は立ち止まり、振り返った。
「私も透と同じことができる。つまり《場》を創り結界を張ることができるの。それは結果的には《場》が私の味方をしてくれるということよ。この森全てが私のテリトリーの中。妙な者が紛れ込めば、森が私に教えてくれるわ」
 残像が見えるだけがプシケの力ではなかったのか。
「驚いたな。そんなことができるのは、透だけかと思ってたぜ」
「基本的なことよ。自分の身を守るためには必要不可欠なことだわ。自分の身は自分で守るしかないから、物理的に身を守る術を持たない者は、精神の力でそれを代用するのよ。紫音がそれをできないのは、あなたが物理的に身を守る力を充分に持っているからだわ」
 実に説得力があった。
「と言うことは、僕が持っている力はごく自然なことだったんだ。自分の身を守るためなら、できて当たり前のことだったんだね」
 透の言葉をプシケはきっぱりと否定する。
「性急に結論を出しすぎだわ。あなたの力はどちらかと言えば特殊な方よ。大体、結界を張ることができる者は、己のテリトリー内にある《場》の力しか得られないわ。あなたは全ての《場》を味方にしているじゃないの。それだけでも、かなり特殊なことよ」
 透は肩を落とす。
「僕は、この力で、あまり誰の役にも立っているような気がしないんだ」
「あなたの力には苦労させられたわ。私のテリトリーに、いとも簡単に《場》を創り、結界を張るのだから。あなたの結界内に入るのにもひと苦労よ。森が力をくれなければ、あなたの結界に撥ね返されていたはずだわ。尤も、あなたの味方をする《場》が、私を認めてくれたようだけど」
 反射的にプシケから視線を逸らせた。透は彼女を信じきれたわけではない。どことなく後ろめたい思いが、彼女の瞳を直視できなくした。
 それに気づいて紫音が話題を戻す。
「この森に魔物がいないのなら、誰もが魔物の森と呼ぶのはどういう訳だ?」
 プシケは再び歩き出しながら、背中で語る。
「さあ? どうしてかしらね。人というものは自分の理解できる範疇外のものは、全て否定するようにできているようね。私を含めて森に棲む者は皆、この世界の人たちに拒まれたのよ。この世界の大部分の人は、自分たちと違う者、少しでも常識から外れる者、理解できない力や形を持つ者、それら全てを排除しようとする。その怖れの心が、在りもしない魔物を作り上げたのじゃないかしら」
「なるほどな。大多数と少数を比べれば、少数は明らかに劣勢だ。大多数の意志に逆らう者はそれだけで異端視される。強大な力の前では弱者は簡単に屈服するものだ。おまけに、強者に支配された群集心理は恐ろしい。たとえ自分の意志や信念を曲げてでも少数から逃れようとするからだ。それでも自分の意志を曲げない者は異端者として永遠に葬り去られる。昨日肩を組み、笑い合った者が、次の日には簡単に裏切る。人間ってやつぁ自分が一番可愛いものだからな」
 二人の会話を聞きながら、漠然と、透は自分を振り返る。
 大多数と少数――透はどちらだろうか?
 もしかしたら、と思う。もしかしたら、自分は大多数に属する者ではないかと。
 人との間を円滑に渡り歩くために、透は自分の意志を曲げたことがなかっただろうか。人間関係を守るために、自分の気持ちを隠し、他に追従したこともあったのではないか。
 両親との関係はどうだろう?
 己の意志を通すために、体当たりで彼らに接したことがあっただろうか。本音をさらけ出さなくても、親子なのだから上手くやっていける、そんな安易な考えを抱いていたのではあるまいか。
 他に合わせてやれば人間関係などどうにでもなる。そんな驕った心がなかったと、果たして言い切ることができるのだろうか。
(僕は、もしかしたら、卑怯な生き方をしていたのかもしれない……)
 今まで自分の価値観と違うものを、すんなり受け入れられたかどうかは思い出せない。
 だが、紫音の外見や行動に偏見を抱かなかったとは言い切れない。プシケの不可思議な態度に偏見を抱いていないとは、決して言い切れないはずだ。
 それはプシケたちを拒んだこの世界の大多数の人達とどう違う。透の今までの人との付き合い方は、紫音の言う、強者に追従する大多数と同じ感情から起因するものではないのだろうか。
 いざという時、自分を守るために、彼らを裏切らないと何処まで保証できるのか。
「透!」
 紫音が透の顔を覗き込んでいる。いつの間にか立ち止まり、考え込んでいたらしい。
「どうした?」
 透は俯き、呟く。その声に自嘲する響きが篭っていることを、紫音は聞き逃さなかった。
「僕は、多分、自分が思うほど……善人なんかじゃないんだ……」
「何だと?」
「僕は、きっと……紫音が言う大多数の側の人間だよ……心の何処かで無意識のうちに周囲の顔色を窺ってて、他人に合わせるために、自分の意志を曲げなかったとは言えない……」
 紫音は嘆息する。
「阿呆ぅ。それが人間ってもんだろうが」
「え……?」
「死にそうな顔をしやがって、そんなことを考えていたのか。だからおまえはガキだと言うんだ」
「………」
 簡単に言い放たれ、困惑した。
「あのな、透。非のうちどころがない人間なんざ何処にもいやしねえんだ。欠点があって当たり前だろ? 人間なんだから……。誰だって多かれ少なかれ誉められねえ部分を持ち合わせているもんだ。もし欠点がまるでないヤツが『人間です』って顔してやがったら、胸くそが悪くてしようがねえだろうが。そんなヤツは神にでも仏にでも、サッサとなっちまやぁいいんだよ」
 困惑したまま、苦しげに言葉を漏らす。
「でも、僕は、自分可愛さの余り、いつか誰かを裏切るかもしれない。……僕はそんな卑怯な人間かもしれないんだよ」
「あんまり自分を卑下するなよ。人間ならな、醜い生き方も卑怯な生き方もする。自分が一番可愛いのは当然だ。自分を大事にすることができんヤツに、他人を大事になどできるわけがない。自分が痛みをわかっているからこそ他人の痛みもわかってやれるんだぞ」
「………」
「おまえは俺と出会ってからどうだったよ? どんな生き方をして来た? 少なくとも、おまえは俺の知っている人間の中では一番の善人だ」
 透は紫音の顔をまじまじと見た。
「それに、おまえが他人を裏切られねえヤツだってことは俺がわかってる。万が一、おまえが誰かを裏切ろうとしたら、俺がぶん殴ってやるから心配するな」
「……!」
 紫音が言うと、どうしてこう事も無げに聞こえるのだろう。不思議なものが不思議でなくなってしまうように、心の重荷が重荷でなくなってしまう。
 確かに透は、紫音とは本音で接していた。紫音を理解するためには、本音でぶつからなければならないと、心の何処かでそう感じていたからだ。
 もしかしたら、そのことが、過去の自分の生き方を変えてしまっているかもしれない。
(僕は後悔しないだろうか?)
 透は自問する。
(僕は違う世界を知ってしまった。元の世界に戻っても、元の生活には戻れるのだろうか?)
 答えは見つからない。
(僕はそれで、満足できるのだろうか?)
 
 
 黙り込む二人を尻目に、プシケが抑揚のない声をかけた。
「お取り込み中申し訳ないけれど、その子をこれ以上、放っておくことはできないようね」
 透が眠りから覚めたように目をしばたたかせる。肩の上から何かがひらりと舞い降りた。クリスだ。
 しかし、その姿はもはや小動物の形すら保っていない。不定形な揺らめく映像。色彩は薄れ、目で確認するのも困難だ。
「そのままにしておくと、幾らも経たないうちに精魔に吸収されてしまうわ」
 クリスはもう口を利くこともできない。
「どうしよう! どうしたらクリスを助けられる? 何か方法はないのか!」
 クリスを抱き上げようとした。だが、あのしっかりとした感触はもうない。気体に触れるように心もとなく手が空振った。
「プシケ! 君は何か方法を知らないの? 頼むよ。クリスを助けてくれ!」
 クリスの前にしゃがみ込む透に彼女は視線を落とす。その瞳からは感情を読み取れない。
「ないことも……ないわ」
「教えてくれ!」
 透が即座に立ち上がる。プシケは彼から目を逸らせ、紫音に視線を泳がせた。
「ないことも、ないけど……危険だわ」
「急いでる! 方法を教えてくれ!」
 プシケは透に視線を戻して、
「そんなことをすれば、精魔に私たちのことを知られてしまうのよ。私の結界内といえども、精魔の手からは逃れられなくなるわよ」
「構わない! クリスを助けたいんだ!」
 彼は即答した。
「いいのね? 命の保証はできないわよ」
「わかってる!」
 プシケは紫音を見やる。彼は黙って佇んでいた。それが承諾の意を表していることを、彼女はすぐに理解した。
 プシケが額の水晶に指を当てた。水晶は内側から光り輝き、クリスがいると思われるところに一条の光を投げかけた。
 その光がクリスを包み込む。心なしか、色彩が僅かながらでも戻って来たようだ。長い間そのままの状態を保っていると、徐々にクリスが形を取り戻しはじめた。
 クリスの姿が甦る。それは、ゆらゆらと揺れる不安定な映像ではなく、彼らが荒野を徘徊していた頃と同じくらい、確かな形を取り戻していた。
『透!』
 意識に呼びかける明瞭なクリスの声。と同時に、透の腕の中に飛び込んで来る。
「クリス! 助かったんだね!」
 透はクリスをしっかりと抱きしめた。その感触を確かめるように。
「何をした?」
 紫音が問う。
「吸収されかけたあの子の力を、逆に精魔から吸収したのよ。でもこれは一時凌ぎに過ぎないわ。精魔を封印しなければ、あの子は完全に助かったわけじゃないわよ」
「おまえはそんなこともできるのか。一体おまえの力は他にどんなことができるんだ?」
 プシケは答えない。質問をすり抜け、彼らに警告をした。
「それより、精魔に私たちのことが知られてしまったわ。私があなた方と一緒にいることもね。これからは一筋縄では行かないわよ」
 言い終わると、よろけながら側の木に凭れかかった。
「プシケ! 大丈夫かい?」
 透が駆け寄る。
「何でもないわ。急に力を使うとこうなるだけよ」
「ごめん。クリスを助けることが、君に負担をかけることになるとは思わなかった」
「何故謝るの? 別にあなたのためにした訳じゃないわ。私もその子を助けたかっただけよ」
「でも、僕が頼んだ。後先も考えずに」
「あなたが頼まなくても私はそうしていたわ。あなた方を危険に晒すことがわかっていてもね」
 淡々とした答え。あくまでも感情が篭っていない。
「でも、やっぱり謝るよ。僕は何の手助けもできなかったんだから。ホントにごめん。……それから、僕たちの仲間を助けてくれてありがとう」
 一瞬、プシケの瞳の中に何かの感情が蠢いた。だが、それは余りにも一瞬過ぎて、誰の目にも触れなかった。
「できればこの森を、暫くの間、離れたくないわ」
 思いの外しっかりと、自分の足で大地を捉える。
「あなた方が急いでいる気持ちはわかるのだけど」
「おまえの結界の中なら、外よりは、少しは安全なのか?」
「今となっては何とも言えないわね」
「外にいるよりは確実にヤツの気配を感じられるんだろう?」
「森が教えてくれるわ」
「だったら下手に動くよりもヤツを待ち伏せた方が得策だ。無駄な手間が省けるからな。俺たちの居場所が知られたのならヤツは必ず狙ってくる」
 確信を持った言葉だ。
「精魔は物理的な攻撃は仕掛けて来ないわよ。私たちならともかく、物理的にしか身を守れないあなたに勝算はあるの?」
「透がいる」
 紫音ははっきりと言った。
「透の身は俺が守る。俺のことは透が守る。俺たちは仲間だからな」
 そう言って、透を見て笑った。透は改めて紫音に信頼されていることを知った。
 そんな二人を見つめながら、プシケは相変わらずの口調で言う。
「覚悟はできているようね。来て。少しでも安全なところへ案内するわ」
 と、先に立って歩き出した。
【下僕】へ続く
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