もり 森 |
森の入口に《場》を創り、結界を張る。そこで野営を決め込むことにしたのだ。切り株や丸太の倒れ具合が、程好い場所を、紫音が選んだ。 ポイント0を出てから力を使ったのははじめてだが、意外とすんなりといった。透の技も幾分かは上達しているのだろう。 《場》の真ん中の土を掘り、その周りを小石で囲む。浅い穴に拾い集めた小枝を置き、火を熾した。紫音の持っている火薬や武器は、こういう方面にも実に役に立つ。もちろん透には手伝いくらいしかできない。サバイバルな知識は紫音の得意技だ。 「魔物がどんなものかはわからんが、猛獣のようなものなら火を怖れるはずだ。おまえの結界もあるし取り敢えずは大丈夫だろう。それでも襲われるようなら戦うしかないがな」 魔物――この世界ではどんな存在なのだろう。透が知っているゲームや映画の魔物の如く、理解できる範疇のものなのだろうか。 「後は、あの婆ぁが言いやがったヤツがいつ現れるかだな」 紫音は古い切り株に腰掛けた。透は向かいに転がっていた丸太に腰を下ろす。クリスは透の肩の上で所在無げに丸まっていた。 彼らは無言のまま火を挟んで座り、占いの人物が現れるのをひたすらに待った。時折、紫音が焚き火にくべる小枝が、炎にはぜるのを見つめながら。 この待ち時間が無駄になったらどうしようか? 透は日常から切り離されてからというもの、時間の大切さがしきりに感じられてならなかった。クリスの様子を見て取ると、彼らの本来の目的がある程度の距離にいることがわかる。今、間合いを詰めれば、少しでも早くクリスを救えるのではないか。 だが、透にはどうしても意識の中の光を見過ごすことはできなかった。紫音は何も言わない。何も言わないが、透の様子から何かを感じ取ってはいるのだろう。 日は暮れ、闇が訪れた。 月は出ているのだが、この森の影響か、随分と心もとない光だ。魔物が暗躍するには恰好の状況なのではないだろうか。そんなことを考えると、一瞬、首筋に寒い空気が漂った。 あまりにも長い間沈黙を守っていたので、三人とも言葉を忘れてしまったかのようだ。が、その沈黙のおかげで微かな物音も聞き逃すことはなかった。 ほんの僅か、小枝の折れる音がした。 彼らは一斉にその方向を振り向いた。思わず立ち上がり硬直する。まだ遠い距離に黒い人影が見えた。人影は少しずつ彼らの居る場所へ歩み寄ってくる。 紫音は注意深くその様子を見守り、徐に銃を構えた。ピタリと人影に照準を合わせる。 この森に関しては、月は当てにならない。頼りになる光源は焚き火だけだ。 その光源の圏内に人影が入り込む。暗い色のローブが、本質を隠すように上から下まで覆っていた。目深に被ったフードの隙間からも、何者の気配も感じられない。本当にこれは人なのか? 透より少し背の低い人影は、何の躊躇もなく、彼の結界内にまで易々と入り込んで来た。 「止まれ」 人影は素直に立ち止まった。 「何者だ?」 銃に怯えているのか、固まったまま動かない。 紫音は銃口を逸らさない。引金に指を掛けたまま黙って相手を窺う。緊迫した時が流れた。張り詰めた糸が切れそうだ。 「それ以上、近寄るなよ」 その言葉と同時に人影は顔を上げた。被っていたフードを静かに払う。フードは肩に落ち、輝くばかりの金の髪が、風になびいた。 それは美しい少女の姿をしていた。彼らの捜し求める人物と同い歳くらいだが、明らかにアメリアではない。輝く髪が少女の胸元で緩やかなウェーブを描き、風に流れて舞った。紫音よりももっと長い。目を引いたのは紫音と同じように額に紐を渡らせていること。その紐の先には飾りの宝石が結ばれていて、額の真ん中で清冽な光を放っていた。 少女の姿を見ても、紫音は銃口を逸らさない。見た目は信用しないのだ。 「用がないなら失せろ」 彼が冷ややかに言う。少女は相変わらず茫然と固まったままだ。 『透、あの人、透たちと同じ感じがする。心現界の匂いがするのよ。このまま行かせちゃいけないわ』 クリスが透の意識だけに語りかけた。 言われなくてもわかっている。彼女の額の光が、透の意識内で輝く光と同じ印象だったから。このまま去らせるつもりも、毛頭なかった。 「その人が……」 少女がはじめて声を発した。 「その人の髪の色が、探している人に似ていたので……」 透に視線を向けている。彼女は少しも怯えてなどいなかった。しっかりとした口調で、声に僅かな震えも感じられない。 「……でも、人違いだったわ」 呟くと俯いた。 「そうか。人違いならもう用は済んだんだろう、失せろ」 少女は黙って身じろぎ、踵を返そうとした。 「待って!」 少女の動きが止まる。 「この森は魔物が棲んでいるそうだよ、君一人じゃ危ない」 少女は無表情で透を見つめ返した。 「せめて夜が明けるまで、ここにいればいい」 紫音がまたかという顔で透に視線を送る。だが、透の瞳に或るものを見出したのだろう。何かを悟り、何も言葉をかけなかった。 彼はゆっくりとした動作で銃を下ろし、肩に担ぎ直すと、元の場所に腰を下ろした。 それを暗黙の了解と受け取る。多分、この後は透の成り行きを見守るだけのはずだ。 「火の側に来れば? この辺りは、夜は少し冷えるみたいだね」 少女は静かに歩み寄り、透の勧めるまま、紫音の隣に転がっていた丸太に座る。 透も腰を下ろし、努めて笑顔を心がけた。少女が緊張の余り無表情のままだと思ったからだ。 「僕は早坂透。彼は紫音・カーマインだよ」 透が目で合図を送るも、紫音は少女を見向きもしない。 「君は?」 透が問いかけると、 「……プシケ」 とだけ呟いた。 「へえ。僕が知ってる神話の中に、同じ名前の姫君が登場するよ」 透が興味深げに言うと、彼女は事もなく答えた。 「ギリシャ神話の姫のように、私は絶世の美女ではないけれど」 ギリシャ神話! ――透の世界の物語を彼女は知っている! 「君は、もしかして、地球を知っているのかい?」 逸る心を抑えながら訊ねた。少女は相変わらずの無表情で、語る口調にもあまり抑揚がない。 「早坂透……日本人の名前ね。……地球は私の故郷。フランスという国の片田舎に住んでいたわ」 余りの驚きで続く言葉が出てこない。だが、確かめなくてはならない。とても重要なことだ。 「君は……君はいったいどうやって、ここに来たの?」 彼女は人形のように身動きをせず、透を凝視している。 「あなた方と同じよ。心現界を通って来たの」 透は再び言葉を失った。こんなところで心現界を知る者に出逢えるとは。しかも彼女は透と同じ故郷を持つと言う。だが、どこか得体が知れない。簡単に信じるわけには行かない。 透が考え込む。紫音は二人の様子を逐一見逃すまいとしている。彼女はゆっくりと視線を泳がせている。クリスが透の背後で見え隠れした。 「それは……精ね」 クリスの姿をいち早く捉え、彼女は抑揚のない声で言った。それまでクリスは何となく、透の頭の後ろに隠れるようにしていたのだ。 「石の精ね……でも、石には宿っていない」 「君は、クリスのことがわかるのか?」 それには答えず、淡々と彼女は続ける。 「依代が側にいないのね。だからそんなに影が薄くなっている……」 「ヨリシロって、何?」 「精が宿るもののことよ。その精は今、人に宿っているようね」 依代とは、クリスたち精が宿主と呼んでいるもののことか。彼女はどうして見ただけで、クリスの状態を察知することができたのだろうか。 「プシケ……いったい君は何者? 僕たちと同じだと言うのなら、何故見ただけでクリスのことがわかるんだ?」 用心深く問いかけた。彼女の表情は変わらない。 「何者と言われても困るわ。私は私でしかないから。精のことがわかるのは、私があなた方より長く心現界にいたからよ」 「心現界に……いた?」 「そうよ」 透は少しずつ感じはじめていた。彼女は自分たちとはどこかが違う。 「君は、ここに来るのに心現界を通って来たの? 類似空間ではなく、心現界の扉の中を?」 彼女はいともあっさりと答えた。 「そう言ったわね」 『そんなはずないわ! 心現界の扉の中には番人の手助けなしには入れないはずだもの!』 透の頭の上に踊り出て、クリスは叫んだ。叫んだとたん、余計なことを言ったとばかりに両手で口に蓋をする。耳がびっくりしたように跳ね上がった。 「そうだよ。君がどうかは知らないけど、僕たちは心現界でなく類似空間を通って来たんだ。もちろん心現界にいたこともないしね」 「いいえ。あなた方は類似空間でなく、心現界を通っているわ」 きっぱりと言う。 「おかしいよ。僕たちは精魔にポイント0に連れて来られたんだ。精魔と言うのは魔に毒された精のことだろ? 心現界に災いを成す存在なんじゃないの? だったら僕たちが心現界を通るのは不可能だよ」 精魔と聞いても彼女は動じない。事によってはクリスよりも、心現界について確実な知識を持っているのかも知れない。 「そう、精魔が関わっているの。彼らが心現界に災いを成すかどうかはわからないけど、間違いなくあなた方は心現界を通っている。どうやら、心現界のどこかに穴があるようね」 『穴! 大変! そんなことになったら誰も彼も心現界に入れちゃう! そしたら心現界の均衡が崩れてしまうわ!』 「あなたは生まれて間もないようね。心現界についての知識が中途半端だわ」 見事にクリスを見抜いている。 「心現界はそんなことでぐらつきはしない。それに番人が放っておくわけがないわ。心配しなくても、もう動き出しているでしょうね」 明らかに彼女は、精であるクリスよりも心現界に精通している。精魔を相手に戦うのなら、心現界について詳しい者は強力な手助けになるに違いない。 透は迷った。彼の意識内で瞬く光にはこれっぽっちも敵意がない。この光の根源が彼女なら、一も二もなく協力を求めるのに。 だが、未だ確信が持てないでいる。思い切って訊ねてみればいいのだろうが、それすらも躊躇われた。彼女はそれほどまでに、近寄りがたい神秘性を醸している。 透の迷いが紫音に通じたのか、紫音が助け舟を出した。 「おまえは何をしに、ここへ来た?」 彼女がゆっくりと、紫音に顔を向ける。額の宝石が焚き火に映えキラキラと輝いた。どうやらそれは水晶のようだ。 「人を探しているの」 「そういや、さっきそんなことを言っていたな。……おまえは随分心現界に詳しいようだが、精魔についても詳しいのか?」 「あなた方よりは、詳しいかも知れないわね」 紫音はにやりと笑う。 「俺たちも人を探している。おまえが俺たちの人探しを手伝うなら、おまえの人探しに協力してやってもいい。どうだ?」 透が言い出しかねていたことを、紫音はあっさりと言い放った。危険探知に関しては誰よりも執着する紫音のことだ。その彼がこんなに簡単に決断したということは、何か確信があってのことだろう。 「そちらの方が時間がないようね。いいわ。協力するわ」 彼女もあっさりと承諾した。 明け方。 絶やすことない焚き火の側で、プシケが横になって目を閉じている。その傍らで丸くなっているクリス。付近に透と紫音の姿はない。 少し離れた樹々の陰に二人は潜んでいた。プシケの様子を窺い、何やら話し込んでいる。 「阿呆ぅ。何でそんな大事なことを俺にさっさと言わなかったんだ」 「ごめん。確信が持てなかったんだ」 透はついに光の話を告白した。今さら事後報告に等しいが、まるで知らないよりはマシだ。 「俺は信用するに価しないってことか」 「違う! 自分が信用できなかったんだ」 声を荒げかけた透の口を、素早く塞ぐ。 「気をつけろ、あいつが目を覚ます。それより、おまえは《場》を味方につけたんだろう? 夕べあの場所であいつが現れてから、何か危険信号を感じたのか?」 透の口を塞いだままなのに気づき、手を離す。 「何も。敵意も何も感じなかった。それどころか、彼女には人間味も感じなかったよ」 「同感だ。あいつはおまえと同い年くらいに見えるが、普通の少女とは思えんな。もしかしたら魔物かもしれんぞ。あの女は森の奥から現れたからな」 随分よく見ている。透はそんなことには気づきもしなかった。 「でも紫音は彼女を仲間にした。信用できると思ったからだろ?」 紫音は木の陰からプシケに視線を据えている。 「信用したわけじゃねえ。利用価値があると認めただけだ。せっかく精魔に詳しいヤツが現れたんだ。それを利用しないでどうする。おまえこそ、あいつが同郷だと聞いたとたん、一瞬、手放しで信用する気になっただろうが」 透は利用するとかしないとか、そんな付き合い方を人との間でしたことがない。今ひとつ紫音の考えについていけない部分もあるが、彼女の知識が必要だとは、彼も切に感じたことだ。 それにしても相変わらず紫音は目ざとい。それとも透の感情が読まれ易いだけなのだろうか。 「どっちにしろ、彼女が占いに出た人物だと言うことはほぼ間違いないね。だとすると、敵になるか味方になるかは僕たち次第だということになるよ」 「上等じゃねえか。敵なら禍の芽は早めに摘むに限るが、味方なら、あの女のことをもっと良く知る必要がある。あの女は自分の意思で俺たちに協力すると言った。だったら暫くつきあってやろうじゃねえか。それが俺たちにプラスになるのならな」 できることなら、彼女がプラスに転がる人物であって欲しい。もし彼女が敵に転じるような存在なら、必ず紫音は言った通りの行動を取る。禍の芽を摘む――それは抹殺するということだ。 彼にそんなことをさせたくない。そして、透もそんな彼を見たくない。人の命を失った瞬間の、切り裂かれるような心の痛みをまだ覚えている。紫音も同じはずだ。彼は、敵の命も味方の命も、同じ重みを持っていることを痛感しているのだから。 「ねえ。紫音はホントに何も感じなかったの? 僕の意識に流れ込んできた、光のようなものを」 「さっぱりだな。俺はおまえのように呑気にはできていないらしい」 紫音の毒舌にはもう慣れた。 クリスの見立てによると、紫音の力はひとつ間違うと途轍もなく危ないものらしい。精魔が紫音に執着するのもその力が要因だ。だったら、透が感じた予感のようなものを紫音だって感じてもおかしくないのではないか。 透が思案を巡らせていると、 「おい、あの女が目を覚ました。おまえも枝を拾え」 紫音は既に小枝を抱えている。そして、先に立って焚き火のところまで戻りはじめた。 その後を追いながら小枝を拾う。元の場所に戻るまでに両手いっぱいになった。 「くべろ。火を絶やすと魔物に襲われるかもしれんからな」 そう言って、プシケの側に小枝を投げた。 「そんな必要はないわ」 「何故? どうしてそんなことがわかるんだい?」 「この森には魔物と呼ばれるものはいないからよ」 透はプシケの側に座った。 「君は、この森のことを良く知っているんだね」 猜疑心の欠片もないとは言い切れない口調だ。 そのことに気づいているのかいないのか、プシケは抑揚のない声で、余りにも重大なことを言った。 「あなた方が探している人はこの森を通って行ったようよ。残像が残っているわ」 「なんだって!」 クリスに目を遣ると小首を傾げている。 「クリス、君も感じたのかい? アメリアはホントにこの森を通って行ったのか?」 クリスは否定の意思を体で表現した。 「精魔はその子の力を吸収しているわ。その子の力は弱っているの、感じられなくても当然ね」 プシケにはまだクリスの事情を説明していない。依代に精魔が取り憑いていることを、彼女は自らの力で感じ取った? 「それは君の力? まさか、僕たちの心を読んだのか?」 「あなた方の心を読んだりはしないわ。ただ、物事の残像が見えるだけよ。私には意思や感情の残像が見えるだけなのよ。見えるだけで、何もできやしないわ」 「精魔の残像も見えるのか?」 プシケは紫音を見上げる。深い緑の瞳が、彼の姿を真っ直ぐに捉えた。 「精魔は魔の塊よ。魔は何よりも強い気を放つ。多分、人よりも残像が残りやすいわね」 「本当に森を通って行ったんだな?」 「保証するわ」 紫音は素早く荷をまとめる。 「透、急げ。時間がない」 透は土をかけ、焚き火を消した。 【追跡】へ続く
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