よかん
予感
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「上出来だ」
 ラグーナの家からだいぶ離れた林の中で、透の戦利品を検分しながら紫音が言った。
「これなら当分、飢えることはねえな」
「……うん」
 覇気のない透の声に、いち早く紫音が反応する。
「随分、意気消沈しちまってるじゃねえか。お坊ちゃんには物乞いは辛いか?」
「……そうじゃないよ」
 予想していた答えは返って来ない。肩透かしを食らったように後味が悪い。こんな相棒ではからかいようがない。
「何があったか言ってみろ。おまえがおまえじゃないと胸くそが悪いぜ」
「何でもないよ」
 とは言うものの、言いたいことは確かにある。
「何でもないけど……母親って、どんな世界でも同じなのかな、って……」
「なんだよ、母親が恋しくなったのか? やっぱりガキだな」
「そうじゃなくて、あの人が言ったんだ。息子に似ているって。……僕は、あの人の亡くなった息子さんに似ているんだって……」
 紫音は荷物を物色している。そう言えば彼はまだ何も口にしていない。
「阿呆ぅ。おまえはおまえだ。あの女が何を言おうが、おまえは早坂透という人間以外の何者でもない。おまえがあの女に母親を重ねて見るのは勝手だが、それは代用品にしかならない。あの女にしてもそうだ。おまえに息子の面影を重ねたところで、死んだ息子が生き返る訳じゃねえ。やっぱり代用品でしかねえんだよ」
「紫音って……冷たいな」
 紫音はブーツに仕込んだナイフを取り出すと、パンを一切れ、チーズを一切れ切り取って、元通りに紙で包んだ。それを布袋に詰めながら、
「いい加減に悟れよ、透。その警戒心のない開けっぴろげなところといい情の深いところといい、確かにおまえの長所なんだろうが、時と場合によってはとんでもない弱点になることだってある。情けをかけるなとは言わんが、誰彼なしに情けをかけると、いつか足を掬われることにもなりかねんぞ」
「そうかな」
 一度はそう言ったものの、すぐに言い直す。
「……そうかもしれないな」
 見かねてクリスが頭の上に乗っかって来た。
『何よ! 透が優しいのは純粋だからよ! 紫音なんかにはわかりっこないもんねーだ』
 紫音はクリスを見向きもしないで、
「純粋を売り物にするな。そんなものじゃ世の中は渡って行けん。寝首を掻かれるのがオチだ」
 と、気付けのつもりか酒を一口呷った。
 クリスが何か言い返そうと身動きをしたが、透はその体を抱きかかえ、先に言葉を返す。
「わかってるよ、紫音の言いたいこと。誰も彼も信用して接すると、いつか僕の気持ちを踏みにじる人もいるって言いたいんだろ?」
「少しは利口になったか。……まだ半分だがな。……俺の世界だと、おまえのようなヤツは三日と生きて行けねえな」
 思わず反論する。
「でも、あの人は違う! ラグーナさんは違うよ! あの人はそんな人じゃない。僕のことを本当に心配してくれたんだ!」
 無言で一瞥をくれると、チーズをパンに乗せ、齧りながら紫音は言う。
「そりゃそうだろう。見ず知らずのガキにこんな多大な物資を持たせるなんざ、ウラのあるヤツがすることとも思えん。余程の馬鹿か、それとも母親の無償の愛ってやつか……。だが、それは、おまえの中に死んだ息子の幻を見た上での、錯覚の愛ってやつだな」
 透は声を荒げた。
「錯覚とか幻とか……確かにそうかもしれない……そうかもしれないけどっ! 確かに僕はラグーナさんに母さんの面影を見て、ラグーナさんは僕の中に息子さんの幻を見たのかも知れない。それでも一瞬だけど、僕はラグーナさんと本当の親子のような気がしたんだ。それは紫音の言う通り、きっと錯覚なんだとは思う。でもっ、あの人と心が触れ合ったことは錯覚なんかじゃない! 僕はラグーナさんのおかげで母さんの気持ちを理解することができた。だからこそ、あの人を……ラグーナさんを悲しませたくないし、ラグーナさんも僕を僕として、死んだ息子さんじゃなくて、僕自身を心配してくれたんだ。……それを錯覚だなんて、思いたくない!」
 紫音は相変わらず、落ち着いた動作でパンを齧りながら言った。
「救いようのねえ甘ちゃんだな、おまえは」
 透は深く溜息をつく。
 時々紫音の考えがわからなくなる。と言うより、透にとって紫音・カーマインという人間は、大部分が理解不可能だった。
 それは、お互いが持って生まれた境遇に起因することが大半だったが、透にしてみれば、彼を理解しようと努力することが無駄に思える瞬間が、一種の苦痛だったのだ。
 透は平和な世界に生まれ育ち、要領よく、人と人との間を立ち回ってきた。一風変わったところはあるが人気者で頼りにされる存在。誰を嫌うことも誰かに嫌われることもなく、順風満帆に生きてきた。 
 もちろん、人に裏切られたことも裏切ったこともない。例え裏切られたことがあったとしても、透はそれを裏切りだとは感じなかった。そんな彼だからこそ、人を信じること人を裏切らないことが美徳に思えるのも無理はないだろう。
 明らかに紫音とは全く違う生き方だ。平和に慣れ親しんだ透に、過酷な運命を背負った紫音と同じ生き方を強要されたところで、俄かに実感できるはずがない。彼が透に何を教えたいのか理解できなくて歯痒くてたまらない。
 だが、そんな時は、どんなに言葉を重ねても噛み合わない会話が続くだけだ。その後は気まずい沈黙が流れるばかり。紫音と無数に会話を続けるうちに、どうすればいいのか自然に覚えた。
 透は話題を変えようと、今しがた食べ終えたパンの屑を払う紫音を見た。彼はもう一口酒を呷るとさっさと布袋にしまう。
「そんなんで、大丈夫なの?」
 思ったままを口にした。
「何だと?」
「だから。それっぽっちで足りるの?」
「山ほど物資があるからって安心するなよ。この先何が起こるかわからねえんだからな。貴重な物資は温存しながら使わにゃならん。腹が減ったからと言って腹いっぱい食うヤツは、ただの阿呆だ」
 そんなものかと思う。確かに紫音がいなければ、透なら三日と持ちはしないだろう。
「腹ごしらえが済んだらさっさと出発だ。俺たちには無駄にする時間はない」
 立ち上がり、酒瓶の入った布袋を肩に担ぐ。透にはもう一方の袋を投げた。
「おまえはこっちだ」
 素直に担ぐ。紫音の担いでいる袋よりは、酒瓶の分だけ軽そうだ。肩に袋を担いでいるのでクリスが遠慮して頭の上に降って来る。肩に乗ってもらっても重さを感じないから一向に問題はないのだが。
 歩きはじめて一度立ち止まり、空を透かし見る。
「あと、まるまる一昼夜か……」
 太陽は真上にあった。
 
 
 時折休憩を取る。
 紫音に比べると透は余りにも体力がない。わかっているから紫音もそれなりに気を遣っている。口は悪いし食えない性格だが、人のいいところもあるのだ。透にもそのぐらいはわかる。
「飲むか? 馬力がでるぜ」
 差し出された酒瓶をまじまじと見つめた。未成年でくそ真面目な彼は酒なんか飲んだこともない。
「ただし一口にしておけよ。おまえにはキツイかもしれねえからな」
 酒瓶を受け取り、蓋を開ける。アルコールの匂いが鼻を突いた。思い切って一口呷ってみるが目を回しそうになった。
「ひええ……」
 慌てて蓋をして紫音に突き返す。喉が焼けつくように熱い。紫音に目を遣ると面白そうにげらげらと笑っていた。
「やっぱりガキには無理か。その面じゃ、酒なんか飲んだこともねえんだろ?」
 からかわれたせいか酒のせいか、透の顔が見る見る赤くなる。瞼まで重くなってきた。
「まったくもう! 僕で面白がるのは止めてくれよ! ほんっとに性質が悪いな、あんたぁ」
 据わった目で絡む。紫音はより一層、面白がって大声で笑った。
「こりゃいいや! たった一口で酔っ払ってやがる。全くおまえってやつぁ、どうしようもねえガキだな」
 バツが悪いせいか酒のせいか、頭がカッカと燃えてきた。ますます目が据わる。
「僕はもう十七だ! ガキガキ言うなっ!」
「わかったわかった、悪かったよ。おまえにゃあ、酒より母ちゃんのおっぱいの方が必要だったな」
 怒りのせいか酒のせいか、心の臓がバクバク言う。更に目が据わってきた。
「僕だって酒ぐらい飲めらあ!」
 と、紫音の手から酒瓶を奪い取ると一気に呷る。が、すぐに咳き込んだ。
「このマヌケ! 無理するな、死んじまうぞ。これは俺の知ってる酒の中でも一番強烈なヤツだからな。こんなものをおまえに持たせるなんざ、あの女もどうかしてるぜ」
「ふえぇ……」
 透がへなへなと横崩れる。頭から足の先まで、ぐらぐらと煮られるように熱い。
「尤も、これだけ強烈だと気付けにでも消毒にでも役に立つからな。そういう意味なら、あの女はなかなかの物知りだ」
 透は横崩れたまま成す術もない。
「ちょっと馬力が出過ぎたか。おい、そろそろ行くぜ、歩けるか?」
 透は懸命に体を起こす。立ち上がり歩こうとするが、大きくバランスを崩してまた横倒しになる。
 紫音はさっさと荷物をまとめると、二つの布袋を右肩だけで担ぎ上げ、空いた左肩で透を支え起こした。透はと言えば、何とか紫音の肩に掴まりながら立ち上がることに成功した。
「まったく、手のかかるガキだ」
「何だよぉ、紫音が飲ませたんじゃないかぁ」
 一瞬の沈黙の後、紫音が吹き出した。
「違いねえ」
 そして、大声で笑い出した。
 あんまり楽しそうに笑うので、透もつい貰い笑う。酒の力とは恐ろしい。沈んでいた心が一気に陽気に傾いた。
「やっと笑いやがったな」
「……へ?」
「そうだ。おまえは笑っていろ。その方がおまえらしい」
 穏やかな口元で紫音が言う。彼は少しも酒には酔わないらしい。
 どんな状態が透らしいというのか。透はそんなに紫音の前で笑っていただろうか。自分のことなのに、実は自分が一番わかっていない。漠然と思い返していると紫音が呟いた。
「おまえが笑っている方が……ほっとする」
 すぐ側にいながら聞き取りづらい小声だった。
 おそらく透に話しかけたのではあるまい。もしかしたら、彼自身も気がついていない本音が零れ落ちたのかもしれない。
 紫音の顔を夕陽が染めている。酒の力ではないものが、透の心も夕焼け色に染めていた。
 
 
 紫音に言いそびれたことがある。
 傾く月を見上げながら、この期に及んでもまだ迷っていた。確信が持てないことは言いたくないのだ。
 ポイント0を出た時、透の意識の中にひとつの光が流れ込んできた。それは強烈な光ではなく、遠く近く瞬き、清冽に輝く光。何かの信号なのか何かの残像なのか。はっきりとはしないが彼の意識の中に居座った。
 透がベネダばあさんのテントに紫音を引きずり込んだもうひとつの理由は、この光だった。意識の中で主張する光と同じ波動を、占いテントに感じたのだ。確かめたくて、思いもしない占いに頼ることになった。占いでひとつの答えは出たが、裏づけがあるものではないので、やっぱり確信が持てない。
 今でも感じられるその光。それは彼らが向かう方角にある。
(おばあさんが言ったことと関係があるのか?)
 何度も同じ問いを月に投げかけた。
「どうしたよ?」
 紫音が曇った声で問いかける。
 やっぱり迷った。迷った挙句、別の話題が口を突いて出る。
「あのさ、紫音はどう思う? この世界のこと」
「ああ?」
「この世界は、やっぱり、紫音の知っている世界なの?」
 答えず、彼は月を見上げた。
 月は西に傾きかけている。その光に照らされた大地は、地平線の彼方まで見通せるほど起伏がない。背の低い草がびっしりと生える草原。道無き道を行く彼らの影だけが、東に長く伸びていた。
「あの月は」
 紫音が口を開いた。
「俺の知っている月だ。ここがエルメラインであることは間違いない。間違いないはずだが……」
「どうかした?」
「ここは俺の世界じゃねえな。俺の世界なら、こんな明るい夜道を無事に歩けるはずがない」
「どういうことだろう?」
「さあな。だが、俺はこの世界にあまり違和感はない。俺の記憶に残るものが到るところにあるからだろう」
 酔いは既に醒めているが、足元がおぼつかない。草が夜露で湿っていて意外と歩きづらいのだ。
「僕もあまり違和感がしないんだ、この世界って。何だろう? 月を最初に見た時は驚いたけど、人にしても風景にしても建物にしても食文化にしても、僕の世界にすごく似ている気がするんだ。言葉こそ違うけど、紫音の世界と僕の世界はもしかして似ているのかな?」
「そんなこともあるんじゃねえか」
 紫音にとっては大した謎でもないらしい。事も無げな口調だ。
「ポイント0には無数の世界が混在しているんだろう? どれだけの数の世界があるのかは俺たちには計り知れない。似たような世界が存在しても不思議なことではないだろうが」
「そんなこともあるんだろうね」
 透も妙に納得した。紫音が言うと、不思議なことも不思議でなくなってしまう。
 意識の中の光は話題に上ることなく、その後は黙々と歩き続けた。目指す森の影はまだ見えない。が、確実に近づいているだろうことは透の中の光が物語っていた。それでも確信が持てない。その光が敵なのか味方なのかが判別できないからだ。
 月が立ち去った後の闇の彼方を、太陽が端々まで照らしはじめた。遥か前方の朝靄の中に黒々とした影が横たわっている。足早に歩を進めるとどんどんその影は近づいて来た。
 不穏な雰囲気を醸し出す樹々の密集地帯。かなりの広大さを持っている。それが、魔物が棲むと言われている森だということは、一目で感じ取ることができた。
 ようやく目的地に辿り着くことができたのだ。
【森】へ続く
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