おもかげ 面影 |
陽が暮れても月明かりがひどく目映い。この様子では道に迷うことの方が難しい。少々足場は悪いが、この道なら野垂れ死ぬことはないだろう。 気候は暑くも寒くもなく、むしろ水べりで清々しいくらいだ。双子の月は眩しい顔で、彼らに向かって手招きをする。誘われるままに透たちは夜通し歩き続けた。 背後の空が白みはじめた頃、もう小川とは呼べないほど幅の広くなった川に、橋が架けられているのを見つけた。明らかに人の手によるものだ。 頑丈な石積みのその橋を渡ると、人の通う道が現れた。道なりに、淡い緑の葉を揺らせる林が続いている。少し川べりからは外れるが、彼らはその道を行くことにした。通りすがりに誰かに出会えるかもしれない。 朝焼けが彼らを赤く染め、太陽が力強く昇りはじめると、朝陽に照らされる林の中に人の住む家を発見した。ありがたいことに人の姿も見える。 少しずつ近づくと、その人物は庭の草木にダイナミックに水を撒いていた。体格のいい年配の婦人だ。見た目は何ひとつ似ていないのだが、透は、庭いじりをする母の姿を俄かに思い出した。彼女もやはり母と同じように、陽の光を浴び、穏やかな笑みを浮かべている。 「おまえが行け」 紫音が言う。 「え? おまえが行け?」 透は訳がわからず、オウム返しに言った。 「食い物を調達して来い。ついでに探りを入れろ。俺たちが目指す森は、遠いのか近いのか」 「え? え? 僕ひとりで行けっての?」 「あたりまえだろーが。俺やクリスが一緒だと、いかにも怪しい。おまえくらい能天気な面の方が警戒されなくて済む」 誉められているのか貶されているのかさっぱりわからない。だが紫音の言うことは尤もだ。銃を持った紫音が側にいると一発で警戒される。クリスはもっと怪しまれるかもしれない。 妙に納得すると、透は渋々、民家へ歩を進めた。 近づく人影を認めて、民家の婦人は怪訝な顔をこちらに向ける。先ほどとは打って変わった表情で、水の入っていた桶を取り落とした。 (警戒されている……!) 透はできるだけ不自然にならないよう、気弱な表情で話しかけた。 「あの、突然ですみません。その……僕、道に迷ってしまって……できれば、そのぅ……」 食べ物を、と言いかけて、透は急に躊躇した。 生まれてこの方、物乞いなどしたことはない。彼の世界には物が溢れていて、ひもじい思いなど一度もしたことがないのだ。見知らぬ他人に食べ物を無心しなければならない今の境遇が、酷く惨めに思えてならなかった。 やっとのことで言葉を絞り出す。 「あの、その、お水をいただけたら……」 最後まで言わないうちに、腹の虫の方が正直に、しかも派手に自分を主張した。そのとたん、警戒心でいっぱいだった婦人が目を丸くして、さらに大声で笑い出した。透はもう何も言えず、真っ赤になって俯く。 「あははははは。ごめんごめん、笑ったりして。坊や、道に迷ったんだって? お腹空いてるんだね、さ、こっちへおいで」 彼女はそう言うと、背の低い庭の木戸を開け、透を招き入れようとした。 「あの、でも……」 「遠慮はいらないよ。あたしゃ独りだからね。それとも何かい? あたしが魔物で坊やを取って食おうとしてる、とでも思ってるのかい?」 「え、と、そうじゃなくて……その、……僕の方こそ怪しい者だと思われたかと……」 彼女は取り落とした桶を拾いながら、 「ふふふ。最初は魔物かと思ったよ。でも坊やみたいな魔物はいない。そんなきれいな瞳をした魔物なんて見たことないよ」 「はあ……」 「お腹空いてるんだろ? 朝食の仕度はすぐできるから、お入り、坊や」 穏やかな笑顔で婦人が招いてくれる。遠慮がちに木戸をくぐった。庭の木々がしっとりと、朝陽を受けて輝いている。 婦人の後に続くと、庭の向こうに勝手口のようなものがあり、その中は台所だった。 広い土間の片隅に石積みの竈。大きな鉄鍋がかかっている。真ん中には木のテーブルと椅子。大きいが貧しい印象を受けた。逆に婦人からは生活に困っている様子は感じられないのだが。 婦人は大皿を手に、竈とは別の壁際にある暖炉に近づいた。火は入っていないが、燻った火種の上に小ぶりの鍋がかかっている。鍋の蓋を開けると、こんがりと程好く焼けたパンが香ばしい香りを放った。それを皿に盛り、テーブルの上に置くと、 「さ、坊や。これをお上がり。その間にシチューができるからね」 と椅子を引いて透を促してから、鉄鍋を覗き込む。鉄鍋からは湯気が立ち上がり、台所中にそそられる香りが充満した。 透はくらりとして体が支えきれず、危ういところで椅子に倒れこんだ。タイミングよく婦人はシチューをテーブルに置く。更に飲み物や果物や野菜などが次々とテーブルに並べられた。そして、婦人は透の隣に腰を下ろした。 「さあ、お上がりよ。そんな青白い顔をして、いったい何日食べてなかったんだい?」 目の前のシチューを眺めながら考え込む。 ポイント0を出た時に夕焼けを見た。それから二回は朝陽を見たはずだから、一昼夜以上歩き続けたことは確かだ。木の実は食べたが、まともな食事をしたのはポイント0に連れて来られる前だ。一体どのくらい前だったのか記憶にはない。 透が何も言わずに考え込んだので、婦人は慌てて言う。 「先ずは腹ごしらえが先だね。さあ、まだまだいっぱいあるから安心してお上がり」 それまで申し訳なく躊躇っていたのだが、目の前に並ぶ食べ物の誘惑に負けて、おずおずとスプーンに手を伸ばす。 「……いただきます」 行儀よく挨拶をすると、しばし食べ物を口に運ぶことに精を出した。 婦人は無言で透を見つめている。親しみの深い、家族でも見るような慈愛に満ちた眼差し。 人心地がつきはじめると急に、一人だけご馳走にありついている自分が後ろめたく思えた。隣に座る婦人にちらちらと視線を移した挙句、思い切って申し出ることにした。 「あの、これ、少しだけ、持って行ってもいいですか?」 と、パンと果物を指差す。 「ああ、構わないよ。幾らでも持ってお行きよ。どうせあたし独りじゃ食べきれないからね」 婦人は快く応じてくれた。 安心して果物に手を伸ばそうとすると、 「お待ち。包んであげるから」 と、席を立つ。奥の戸棚から紙や布袋を持ってくると、紙でパンを幾つか包みはじめる。 「坊や、名前は何て言うんだい?」 彼女は瞳だけでなく、声も親しみ深い。 「あ、透です。早坂透と言います」 「そう。変わった名前だね。あたしはラグーナだよ、坊や」 彼女は透に向かって《坊や》を連発する。いくら透が童顔だからとはいえ、最初から気にかかっていたので、つい口がすべった。 「あの、坊やって言われても、僕もう十七歳なんですけど、それはちょっと……」 止めてくれませんか、と言う前にラグーナが口を挟む。 「おや、そうかい? 坊やは大人のつもりでも、母親にとっては、子供は幾つになっても子供さ。幾つになっても坊やと呼びたいんだよ。……あんたの母さんも、あんたがこんなところで迷っちまって、さぞ心配しているだろうね。あたしも子を持つ親だから、あんたの母さんの気持ちが痛いほどわかるよ」 ラグーナと母がだぶる。彼女が余りにも心配そうに透を覗き込むからだ。 「坊やは何処から来たんだい?」 透は無言のまま、来た方向を指差した。開け放たれた勝手口からその方向を見て彼女は言う。 「聖なる森の方からだね」 「聖なる森?」 「そう。森の奥に神が住むと言われている湖があるから、そう呼ばれているのさ。時折、神が気まぐれに人を連れて行ったり、神の使いを寄越したりすると言い伝えがあるんだよ。あの辺りでは見知らぬ人が現れたり消えたり、よくあることだからね」 人が現れたり消えたりとは、ポイント0の作用だろうか。それにしても《聖なる森》とは、アマンダが眠る森としてはいかにも相応しい。 「それで? 坊やはこれから何処に行くの?」 透は一瞬考え込んだが、紫音に言われたこともあり正直に答えた。 「西の方に森がありますよね? 魔物が棲んでるとかいう森なんですけど」 ラグーナの顔がみるみる青ざめる。 「坊やっ! そんなところへ何しに行こうって言うんだいっ! そんなところ、普通の人なら誰も行きゃしないよ。いったい何の用があってそんな危険なところへ……」 彼女の瞳に激しい狼狽の色が浮かんだ。手は既に止まっている。 透はラグーナの豹変に戸惑いながらも、 「聖なる森の入口で会った占い師のおばあさんが言ったんだ。僕たちにとって大切な人が西の森に現れるって。だから西の森に行きたいんだけど」 包み隠さず本当のことを話した。透は赤の他人に対してでも嘘がつけない。 が、その話を聞いて、一気にラグーナは緊張を解く。済まなそうな顔をして、 「そうだったのかい。ベネダばあさんの予言だったのかい。それじゃ魔物の森へ行くしかないね」 と、あっさりと納得した。《予言》とまで言われるところを見ると、あのおばあさんの占いはかなりの確率で当たるのだろう。 透は気を取り直して訊いてみる。 「あの、魔物の森というのは、ここからどのくらいあるんですか?」 ラグーナはひとつ、大きな溜息をつくと、 「そうさね、だいたい歩いて一昼夜ってとこかね。坊やの足ならもう少しかかるかもしれないよ。太陽と月が沈む方向を目指せば迷うことはないね」 「そうですか」 紫音が知りたかったことはこれで解決だ。 「坊や、一人かい? それとも誰かと一緒に行くのかい?」 「連れはいます。三人で西の森に向かいます」 「その人達は強いのかい?」 ラグーナには透が余程なまっちょろく見えるのだろう。心配そうに彼の顔を覗き込む。やや心外に思うが、こんなに親身になってくれる彼女を無下にもできない。どういう方面に対して強いと訊かれたのかはわからないが、 「強いですよ、すごく」 実際、紫音は物理的には半端な強さではない。 「そうかい……そりゃよかったよ」 透の言葉に、やっとラグーナは安堵の笑みを浮かべた。 「こんなもんじゃ足りないねえ。なにしろあの辺りは人っ子一人住んじゃいないんだ。あんたを守ってもらうためにも、あんたの連れの分も食べ物を用意しなきゃね」 手元に視線を落として彼女は言う。そして、慌てて奥の戸棚まで走って行った。透は不思議な面持ちでそれを眺める。最初から妙に不思議でしかたがなかった。 「さてと、食べ物はこれで足りるかねえ。それと薬草も少し持ってお行き。傷には良く効くからね。それから飲み物はこれでよし、と」 ラグーナは、何だか随分はりきっている。まるで自分の子供を長旅にでも出すような支度ぶりだ。テーブルの上にはパンや果物だけでなく、干し肉やチーズや気付け用の酒まである。それを用意した布袋に詰め込むと、パンパンに膨らんだ大きな布袋が二つになった。 「こ、こんなに……?」 「何言ってんだい、これっぽっちだよ。ベネダばあさんの予言の人は、すぐ現れるわけじゃないかもしれないんだし、これでも足りないかもしれないよ。もっと何か用意できるものがあれば……」 「そんな! もう充分ですよ。こんなにしていただいちゃって申し訳ないくらいです。ホントにありがとうございます」 「欲のない子だねえ。遠慮なんてしなくていいのにさあ」 透は、まだ何か持たせる物はないかと辺りを見廻すラグーナに、ついに問いかけた。 「ひとつお聞きしたいことがあるんですけど」 「なんだい?」 「どうして見ず知らずの僕に、こんなに親切にしてくれるんですか?」 一瞬、彼女ははっとした顔をして、次に潤んだ瞳で、透のことをしげしげと見つめた。 「坊やがね、坊やが……あたしの息子に似ていると思ったのさ」 「え? でも、独り暮らしだって……」 言いかけて、思い当たる。広すぎる台所、大きな鉄鍋、独り暮らしにしてはあり余る食料、家族がいなければ必要でないもの。それに、子を持つ親だと自らが話していたではないか。 「今はね、独り暮らしさ。あたしの亭主も息子も、もうこの世の者ではないからね」 「あ……」 透は言葉を失った。構わず彼女は話し続ける。 「坊やをはじめて見た時、本当は息子が帰って来たのかと思ったんだよ。死んじまった者は帰って来やしないのに、それでも未練だね、いつか帰って来るような気がしてならないんだよ。……亭主と息子を亡くしてから、あたしは生ける屍だった。あたしも二人の後を追いたかった。でも、できなかった。そんなことをしても亭主もあの子も喜ばない。それがわかってたからさ。……そんな時、ベネダばあさんがあたしを救ってくれたのさ。生きていれば、必ずもう一度希望を見つけることができるって。おまえの希望はここで待っていれば必ず現れるって、そう教えてくれたんだよ」 ラグーナは慈愛に満ちた瞳で見つめる。 「あたしの希望は、息子ともう一度暮らすことさ。それができなくても、もう一度息子に会いたい。……坊やのように、道に迷った若者が何人もここへやって来たけど、坊やが一番あたしの息子に似ているよ。あの子もそんな風に、澄んだ瞳で真っ直ぐに人の目を見つめ返す、心根のしっかりとした子だった。……生きていれば、坊やくらいにはなっていたろうに……」 何と答えていいのかわからなかった。ただラグーナの瞳を見つめていると、彼女は思いの外しっかりとした口調で、 「いいかい、透。魔物の森がどんなところだかあたしは知らないけど、噂ではとても恐ろしいところだ。決して無理はしないでおくれ。命はひとつしかないんだから、無駄にしちゃあいけないよ。あんたの母さんだって、きっとそう思うさ。だから、気をつけて行くんだよ。それから……」 一度、言葉を切り、息を吸い込むと、 「ベネダばあさんの予言の人に出会えたら、いつか、ここへも立ち寄っておくれね。坊やが無事な姿を見て安心したいんだ」 胸が締めつけられた。 目の前にいる人は何処までも母親だった。母親というものはどんな世界でも共通の思いを持っているものなのか。 透は今まで本当に、母の気持ちを理解できたことがあっただろうか。上辺だけで母の気持ちをわかったつもりでいただけかもしれない。今まさに母は、彼女と同じ気持ちで、透の帰りを待ちわびていることだろう。ラグーナに接したことではじめて、母の気持ちに触れることができたのだ。 「きっと……きっと、戻って来るから……」 懸命に声を振り絞る。 「きっと無事に帰るから!」 透は涙ぐむラグーナの両手を握り締めた。 「必ず、生きて戻って来るんだよ、約束だよ!」 約束――その言葉の重みを改めて噛みしめた。 いつまでもいつまでも、庭木戸から透を見送るラグーナを、何度も何度も振り返り、透は手を振った。 彼女の母としての想いを、両の肩に感じながら。 【予感】へ続く
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